2021年6月27日日曜日

是永舜「何処(いづこ)にも虹のかけらを拾ひ得ず」(『間氷期』)・・・

 


 

   是永舜句集『間氷期』(書肆山田)、「後書」その冒頭に、


 俳句に親しみ、意中の俳人に私淑することはあっても、私に世にいう句歴というものはない。自らの愉しみのなかで、私にとっての小さな発見もある。召波(旧かな「ぜうは」)に「陽炎に美しき妻の頭痛かな」の一句があるが、師の蕪村に「水仙や美人かうべをいたむらし」がある。召波の「少年の犬走らすや夏の月」、「山犬のがばと起ゆくすゝき哉」などに詠まれた犬たちは今も眼前にその身を躍らすかのようである。


 とあり、また集名については、


 まことにおこがましいことではあるが、私のこの句集の書名に取った拙句「海月知る海鼠の恋や間氷期」は、召波のかの一句「憂きことを海月に語る海鼠哉」への勝手なオマージュとして詠んだものである。俳号の「舜」は。本名の「駿」と同音の字から取ったもの。「舜」はつる草の一種、転じて「木槿」を指す植物名称である。中国太古の聖天子の名でもあるが、本意は植物。本名の動物から植物へと移り、路地に咲く木槿をこよなく愛でる意を込める。


 とあった。ともあれ、以下に、集中より、いくつかの句をあげておこう。


  初午やうぐひすさそふ風の空         舜

  風車門前の市はや流転

  浮雲をきのふの蓮に雨蛙

  潮騒や汚(けが)れなきもの生まれゐる 

  遠花火遅るゝ音の惚(とぼ)けたる

  新涼や一顆翡翠の深き色

  寠(やつ)す身のあるはずもなく秋の風

  進軍は静かなる海鰯雲

  故(な)き人をさてこそ訪(と)はむ萩の花

  あら尊(たふと)俯しては拾ふ骨の秋

  真(ま)つ直(つぐ)や寒夜忘るゝ粋科白(ぜりふ)

  わが手にも燧(ひうち)の習ひ冬の山

  月隕(お)ちて白山の雪ほの青し

  去年今年なにより餅のやうなもの

  三が日過ぎて空空漠の風

  

 是永舜(これなが・しゅん) 1943年福岡県生まれ。

   

            

               撮影・鈴木純一↑

2021年6月26日土曜日

澤好摩「日と月と蝶さへ沈み真葛原」(澤好摩「句」・河口聖「画」展)・・・


 澤好摩(句)・河口聖(画)展〈於*ゆう画廊〉2021年7月19日(月)ー7月24日(土)12:00~19:00(最終日16:00)。 

 愚生は、事情あって、ほぼ蟄居の身なれば、たぶん出かけてゆくことははず、というメッセージにしたいと思う。ゆう画廊(03-3561-1376、中央区銀座3-8-17 ホウユウビル5/6F、地下鉄銀座駅A13出口、松屋裏2本目通り1F銀座菊正入口階段奥エレベーターで)。

 河口聖は、1972年村松画廊を皮切りに、ソーカーケースマンギャラリー(USA)、ドイツ文化会館等101回の個展を開催してきて、澤好摩句集『光源』『返照』の表紙画を描いている。


          


★閑話休題・・・藤田三保子個展(於*ギャラリーGK)・2021年7月5日(月)~7月10日(土)・・・

 ついでと言っては恐縮だが、藤田三保子個展の案内もしておきたい(俳号は山頭女)。こちらはギャラリーGKでの個展は23回目だという。愚生も、かつて数回は訪ねたことがある。たぶん、ますます磨きがかかっていると思う。また8月11日~17日は八木橋百貨店(熊谷市)での個展も予定されているらしい。ギャラリーGKは、中央区銀座6-7ー16第一岩月ビル1階(地下鉄銀座駅B-5出口)。




撮影・芽夢野うのき「かたつむり夢見ごごちのまるさかな」↑

2021年6月25日金曜日

湊圭伍「あらかたは丸めた紙で出来ている」(『そら耳のつづきを』)・・・


 湊圭伍現代川柳句集『そら耳のつづきを』(書肆侃々房)、帯の惹句には、


  マグカップで壊せるような朝じゃない

 現代川柳は《現在》の破片である―。

 川柳の伝統を批判的に受け継ぐ現代川柳作家による480句。


とある。集名に因む句は、


  そら耳のつづきを散っていくガラス     圭伍

 

だろう。また、著者「あとがき」の中に、


  句集を出すに当たって、「圭伍」を名乗ることにしました。前々よりペンネームを使った方が(少しだけ)自由かなと考えていたものの決心がつかず。さすがに句集を出すタイミングが最後の機会ということで、松山川柳界の大先達・前田伍健先生の名前から一字を拝借するという、まことに厚かましい案ですが、霊峰・石鎚山の山頂から飛び降りる気持ちで実行してみることにいたしました。お𠮟りも含め、イジっていただけると助かります。

 川柳とは何ぞや、ということを書こうかとも迷ったのですが、今のところ、先に謝辞を述べさせていただいた人たちが展開している自由で豊かなコトバの世界が川柳だ。(中略)

「川柳の伝統の批判的継承者」という言葉をアレンジして句集帯に使用させていただきましたが、そのような気概でやっていこうと考えています。詩歌の界隈を三十年ほど歩いてきて、多くの方とすれ違ってきましたが、あんないい加減なことを言っていたやつがこんなところに行きついたのかと認識していただけると幸いです。


 とあった。ともあれ、集中よりいくつかの句を挙げておこう。


   ヒントが出てようやく謎々と気づく

   そのままはここから何処へ行くだろう

   山肌を見せてやる気はなかったが

   砂の軽さ、砂の重さの繰り返し

   支持率はすぐに羽化することでしょう

   カクレミノという木があって考える

   帽子屋の奥はからっと晴れている

   煽ってませんよ曲順を変えだけ

   いきなり降ってくる金と銀の斧

   夥しい腕にびくびくしてしまう

   身も蓋もなく皮膚のみで在らしめよ

   諭されて棺のなかを触れてみた

   車中泊みんな着ぐるみぬいぐるみ

   閲覧できます毛羽立った文字が並んでいる

   何となく明るいほうへハンドルを


湊圭伍(みなと・けいご) 1973年大阪生まれ。松山氏在住。



  
撮影・中西ひろ美「生くによき死ぬるにもよき夏の川」↑

2021年6月24日木曜日

吉永敏子「紅蓮の咲きたる音に振り返る」(府中市生涯学習千センター「現代俳句入門講座」)・・・


 

 府中市生涯学習センター春季の「現代俳句入門講座」4回目の最終講座だった。今回の講座は、句作の実践を主に、そして、参加者の皆さんと句の相互の合評を行い、愚生は進行役みたいなもので、なかなか盛り上がった。すでに、当・府中市生涯学習センターでの10月開始の秋の講座も決まっている(5回)ので、縁があれば、またお会いしましょう、と締めくくった。

 ここからは、余談だが、講座参加者の中の濱筆治さんが、若い頃、「層雲」の近木圭之介(前号・黎々火)宅(山口県下関)を訪ねられた折り、そこに山頭火の句碑「音はしくれか」「へうへうとして水を味ふ」があったことを教えられた。近木圭之介は愚生が若き日、同郷ということもあってか、注目していた俳人の一人だったが、、手元の『層雲自由律90年作品史』によると、2001年(平成13年)には、近木圭之介「新世紀 音でないおと私を通過」、前年には「不在の午後 それは椅子だが」などの句が掲載されていた。その近木圭之介(ちかき・けいのすけ、明治45年~平成21年・享年97)は、あの有名な山頭火の後ろ姿の笠の写真を撮った人である。愚生は18歳で故郷を後にして以来、葬式以外は帰郷していない。まさに、故郷は遠くにありて思うもの・・であった。ともあれ、以下に本日の一人一句を紹介しておきたい。


   午後八時おろす暖簾の梅雨晴間         高野芳一

   遠雷やあやふやな過去こぼれ落つ       久保田和代

   蝦蟇のつそり座して居り候           井上治男

   竿突きて歩む雪渓下濁流            濱 筆治

   風鈴の息吹掛ける老婆かな           杦森松一

   庭に水透綾縮(すきあやちぢみ)に夏来たる   清水正之

   園児たち食器響かせ夏となる          井上芳子

   薩摩冨士映える日の入り亡友(とも)にみせし  吉永敏子

   森林浴まぶしい太陽シュッシュッして     大庭久美子

   ほたるぶくろ風に色づくときのある       大井恒行



     撮影・芽夢野うのき「紫陽花や白き闇なるひとところ」↑ 

2021年6月20日日曜日

塩野谷仁「戦争にもっとも遠くあめんぼう」(『塩野谷仁句集』)・・・

 


  現代俳句文庫86『塩野谷仁句集』(ふらんす堂)、解説は、石川青狼「塩野谷仁句集『全景』の辺り」と松本勇二「塩野谷仁句集『私雨』評ーいつか来る」。塩野谷仁自身のエッセイ「『姿情一如』を求めて」の中に、


  (前略)戦後俳句が一時期、一部「姿先情後」ならぬ「情先姿後」に偏った世界を展開したとき、その稔りが不十分だったことをわたしたちは既に承知している。わたしもその一番後方に位置していたこともあって、「情先姿後」はあまりにも俳句特有の形式の虐待に陥り、実りの薄いものであることも実感している。(中略)「姿先情後」は「情(こころ)」を蔑ろにする結果「ただごと」に陥り、「情先姿後」は「情」が出過ぎて「詩形」の虐使に結びついてしまう。あくまで「定型」を基盤に据えて「情」を活かす、「姿情一如」の世界がいま求められているように思われる。


 と述べている。ちなみに帯の句は、


     一月の全景として鷗二羽


 であり、解説の石川青狼は、この句について、


 (前略)塩野谷の「一月の全景」の原風景には、龍太の「一月の川」の風景に拮抗する意識的な風景があったのではなかったか。「鷗二羽」を配することで、「一」でも他の数でもない「二」でなければならない強い意志の表出。単に日常の一風景の中の二羽の鷗を切り取った「もの」としての構成ではなく、一月の風景へ息吹を与え寄り添う「いのち」の象徴として、そこに存在する白い鷗二羽に託した塩野谷の現在只今の自己の内面の真実としての「もの」への答えなのではなかったか。


 と記している。ちなみに、「遊牧」NO.133(2021/6)には、「遊牧誌の新体制について」という告知が掲載されている。それによると、「来年(137号)」からは、「名誉代表兼編集人・塩野谷仁/代表・清水伶」とあった。ともあれ、本集より、いくつかの句を挙げておきたい。


    啞子(あこ)が画けば紙じゅうのあさがお揺れてる     仁

    太古より雨は降りいて昼螢

    棒という棒に冬鳥夢違え

    火の中の火の美しき二月かな

    この水のどこまでが水鳥渡る

        東日本大震災

    人類に声出すあわれ梅真白

    人坐るまでが空席蝶の昼

    草虱家出とはどの遠さかな

    遠野へ行きたし竹馬で行きたし

      兜太先生四十九日法要

    人体醒めて秩父往還花また花

            逃水を追ってどの木に登ろうか

    六月のきれいな兎に逢いにゆく

    昔と同じ数の夏星疫病(えやみ)の世

    大夕焼どう握ってもさびしい手

    

 塩野谷仁(しおのや・じん) 昭和14年、栃木県生まれ。



撮影・中西ひろ美「父の日の父が作ったお弁当梅雨の狭間にさっと日の差す」↑

2021年6月19日土曜日

金子兜太「きよお!と喚いてこの汽車はゆく新緑の夜中」(「藍生」5月号より)・・・


   「藍生」5月号(藍生俳句会)の特集は、「『金子兜太 俳句を生きた表現者』井口時男著(藤原書店)を読む」である。まず、「金子兜太ー俳句を生きた表現者」で、井口時男に対する筑紫磐井のインタビュー記事がある。その他の論考は、筑紫磐井「『第一芸術』を目ざした兜太ー就職論文として」、坂本宮尾「井口時男が読む金子兜太」、橋本榮治「平和主義者・兜太/井口時男著『金子兜太』に寄せて」、横澤放川「井口時男『金子兜太 俳句を生きた表現者』に寄せて」/イロニー一考」。転載記事として、藤原作弥「『経済学』『組合活動』『俳諧』ー日銀を去る金子兜太氏に聞く」、高山れおな「パイプのけむりⅢ~画期的金子兜太論の出現~」、『金子兜太』書評に、持田叙子評「今週の本棚。/豪快な前衛とユーモアに惚れる」、中島岳志「今週のイチ推し/祝祭的笑い生まれる」があった。一結社誌で、その同人でもない著書をかくまで大きく特集し、しかも、豪華メンバーによる結社誌は珍しい。

 愚生にとっては、「豈」同人でもある井口時男・筑紫磐井・高山れおなが顔を揃えただけでも嬉しい。もちろん、筑紫磐井のインタビュー、論考、さらには高山れおなの井口時男著『兜太』評のいずれも出色で、ここで多くを紹介できないのが残念だが、これは、本誌に、直接あたっていただきたいと思う。もちろん、どのような評よりも、これも直接『兜太ー俳句を生きた表現者』(藤原書店)を手にとっていただくのがベストであり、読後には、それが、これまで、著わされてきた兜太論の水準を超えていることが分かってもらえると思う。それらのことを、ひっくるめて、高山れおなは、本論の結びに次のように記している。


 (前略)私は俳句史的遠近法が失われたかのような現在に戸惑いを感じ、過去半世紀来の俳句の歴史化の必要を痛感しているが、本書は一作家論であることをはるかに超えて一種、羅針盤的な意義を有するものではないかとの予感を持った。俳論者としては十年来(二十年来?三十年来?)の収穫ならん。読むべし。


 ともあれ、本書中より、アトランダムになるが、兜太の句と井口時男の句を挙げておこう。

   

   湾曲し火傷し爆心地のマラソン      兜太

   人体冷えて東北白い花盛り 

   無心の旅あかつき岬をマッチで燃し

   おおかみに蛍が一つ付いていた

   夏の山国母いてわれを与太という

   津波あと老女生きてあり死なぬ

   骨の鮭鴉もダケカンバも骨だ

   原爆許すまじ蟹かつかつと瓦礫あゆむ

   水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

   霧の村石を投(ほう)らば父母散らん

   

     二月二十一日朝、金子兜太氏逝去の報

   兜太あらず春寒を啼く大鴉          時男

   失せ物はライターだけかビルの月    



       撮影・鈴木純一「夏芝居愛撫のごとく切り刻み」↑

2021年6月17日木曜日

杦森松一「ビアグラスエンジェルリング数えけり」(府中市生涯学習センター「現代俳句入門講座」)・・・ 


  本日は、数回の白雨に見舞われながら、行きも帰りも降られずに済んだ。本日は、前回に兼題として「笛」「ビール」が出されていたが、「笛」の題には、もう一つ「無季」で作るというハードルも課されいた。逆説的にいうと、有季定型こそが、自由に俳句を作れるという実体験のようなものかもしれない。皆さんの句作りは、二回目なれど、様々に工夫されていてあなどれない。ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。ブログタイトルにした杦森松一「ビアグラスエンジェルリング数えけり」が最高点句であった。

 次回は、6月24日(木)、当季雑詠の2句を持ち寄ることになっている。


   笛の音や公達の影草騒ぐ          濱 筆治

   人恋ふる口笛草笛ふるさとの山      久保田和代

   笛の音におどけて踊る孫(こ)がかわい   吉永敏子

   とりあえずビールと言ってみたい夜     井上芳子

   地ビールを揃へて父の七回忌        高野芳一

   口笛や口紅色の鮮やかさ          杦森松一

   あと少し競り合う勝敗笛の音       大庭久美子

   山登り清(さや)けき音色の笛を聞く    野田美絵

   隔離席ビール無き世のノンビール      井上治男

   ひと仕事終わりしあとのビール、旨っ    清水正之

   天に笛地にあふれたる嘆きあり       大井恒行



     撮影・芽夢野うのき「一重八重くちなしといふ神の花」↑  

2021年6月13日日曜日

高岡修「噴水/天に弾じき返されたものだけが墜ちてくる」(『一行詩』)・・・


 高岡修第20詩集『一行詩』(ジャプラン)。「あとがき」には、 


 (前略)ところで、俳句や短歌に対して一行詩とする表記をよく目にする。正確には、俳句や短歌は一行の詩であって、一行詩ではない。一行詩とは、自由詩や散文詩と同じ詩の分類のひとつだ。それゆえ、決定的な差異は、一行詩には題があり、俳句や短歌には題がないということになる。

 一行詩の代表的なものとして誰もが北川冬彦の次の作品を想起するだろう。


    馬

  軍港を内蔵してゐる


シャガール的なこの作品を新興俳句風にしたら、次のようになる。


  馬 軍港を内蔵してゐる    (中略)


 北川作品がそうであったように、この作品においても両者から派生する意味は変わらない。その上で、決定的な差異も生じている。詩は本文よりもむしろ行間で読むべき文学だが、俳句の一字アケや二物衝撃空間よりももっと鮮明に行間が現出していること、さらには題そのものに題としても象徴性が付加されていることである。

 一行詩の場合、まるで表札のかかった玄関で立ち止まるかにように、私たちは題で立ち止まり、それから家の内部である本文に入ってゆく。ところが俳句の場合、読み始めると同時に私たちは家の内部と同じ本文の中にいる。

 むろん、私は一行詩と俳句の優劣を言っているのではない。一見、内容的に差異がないかのように見えて、実は構造による決定的な差異が生まれていると言いたいのだ。題があるかないかの構造の差異は、多行形式の俳句においても同じであるように思われる。(中略)

 とはいえ、一行詩を書こうとして、俳句のさまざまな方法が有効だったのも事実である。どちらにしろ、世界を一行で表白しようという行為は、詩の始原の強靭な光があるように思う。(以下略)


 と記されている。高岡修の志向を伺える表明にもなっていよう。ともあれ、集中より、いくつかの詩行を挙げきたい。


    引力

 何という悲しい行為だろう。薄羽蜉蝣の屍さえ地に敷きつめてしまう


    窓泥棒

 窓枠を、じゃない。奴らはじつに巧みに窓そのものを盗んでゆく


    住所変更届

 モルフォ蝶の新しい住所はメルトダウンの炉心です


    共同幻想

 指切りの指を切りつくして手がどこにもない


    曲線 

 自殺曲線があるのなら他殺曲線もありだろう。たとえば、文明が進めば進むほど殺意の無い殺戮が増えてゆくような他殺曲線 


    盲導犬  

  嗅ぎ分けているのは人間の闇です


    影

 広島の石段に灼きつけられてからです。人間から影が剥がれやすくなったのは


    みずすまし

 死の表面張力を出られない


   ゴミステーション

 使用済みの微笑の仕分けがわからない

  

   靴

 足を脱いだ靴から逃亡しはじめる


   烏揚羽

 死んだら烏揚羽は漆黒の虹になる。憧れてなお飛べなかった空の高みへ、死後の羽根の色をかける


 高岡修(たかおか・おさむ) 1948年、愛媛県宇和島市生まれ。



        撮影・中西ひろ美「緑蔭や人類敗北の記念」↑

2021年6月11日金曜日

摂氏華氏「コロナウイルス何を喰ふらむ初御空」(「円錐」第89号)・・・



「円錐」第89号(円錐の会)は、第5回「円錐新鋭作品賞」の発表である。(円錐編集部・山田)の筆によると、


  過去最多67編のご応募をいただきました(中略)同人誌の企画にこれだけ多くの方々が参加して下さることに感動しています。

 募集条件は、未発表の20句(多行作品は10句)。作者の俳句歴や年齢などの条件、一切不問。選考は、円錐編集部・澤好摩、山田耕司、今泉康弘。(中略)

 審査の上、20句を対象に第一席から第三席までを選出。句単位での顕彰は5句。あらたに「これからに期待する作家」という枠を設けさせていただきました。

 編集部としては予想していたことではあるのですが、三人の審査員の推薦作品が、まったく、重なりません。バラバラです。これこそが、個々の価値観を頼みに活動する同人誌ならではの結果、と言えるかもしれませんが。(以下略)


 とあった。ちなみに、「花車賞」(澤好摩推薦)には森瑞穂「吊革の穴」、「白桃賞」(山田耕司推薦)には原麻理子「距離」、「白泉賞」(今泉康弘)には摂氏華氏「王の行方」。 摂氏華氏は、すでに喜多昭夫という歌人にして短歌誌「つばさ」の主宰でもある。ともあれ、受賞作、推薦作より、いくつかを挙げておこう。


   水になるとき匂ひたるうすごおり     森 瑞恵

   冷めてすぐしぼむケーキや春の風     原麻理子

   すめらぎの股肱となりし揚雲雀      摂氏華氏

   湧きてはや水は暗渠へ赤蜻蛉       古田 秀

   埋め立ての町に浜の名みやこ鳥     中村たま美

   抜錨の濁りをとほく春の雪        内野義悠

   らしからぬことをしてゐる雛祭     霜田あゆ美

   注連縄や褐色瓶に閉づる毒        千住祈理

   缶詰にぐずる水音秋深し     クズウジュンイチ

   ピンボール突き撃つコルク終戦日     佐藤 修

   にはたづみ鼠花火を往なしたり    舘野まさひろ

   転生したら闘牛をする約束の口づけ   喪屑ちゃん

   窓開けて春をお部屋に案内す       大野美波

   パーカーの手とか林檎を入れる部分    田中木江

   脳に打つ成人の日のチップかな     高林やもり



撮影。鈴木純一「御用学者(カイイヌ)と信じていたに上で吼え」↑

2021年6月8日火曜日

佐藤鬼房「たらちねは日高見育ち蕗の薹」(『佐藤鬼房の百句』)・・・

  


 昨日の本ブログ・志賀康句集『日高見野』つながりで、渡辺誠一郎『佐藤鬼房百句』(ふらんす堂)、装幀は和兎。巻末の「詩魂高翔ー成熟の抗して」の中に、


  (前略) (ほと)に生(な)る麦尊けれ青山河

 (中略)〈陰に生る〉の句が成ったときに、鬼房をして、俳人としての自らの命脈は尽きてかまわないとまで言わしめた。しかし、この言葉は、成熟に抗するとした鬼房には、似合わない。同じ「むぎあき」を詠んだ、〈成熟が死か麦秋の瀬音して〉の成熟に死を対峙させる世界こそ、鬼房の魅力なのだが。


 とある。愚生が、最初に、佐藤鬼房の名を認めたのは、たぶん金子兜太『今日の俳句』(カッパブックス)の「青年へ愛なき冬木(ふゆき)日曇る」だったと思うが、明確に句を読むことになったのは、たしか、坪内稔典のぬ書房(もしくは南方社?)版『名もなき日夜』からで、決定的にしたのは、「鬼房の主題は惨たる慰藉」と言った塚本邦雄の『百句燦燦』(講談社)に収載された鬼房の句「縄とびの寒暮いたみし馬車通る」であり、「ひばり野に父なる額うちわられ」である。本書からは、人口に膾炙している有名なエピソードでもある、次の句と鑑賞を挙げておこう。


  会ひ別れ霙の闇の跫音追ふ    『名もなき日夜』/昭和二十六年

昭和十六年十二月二十八日の夕ぐれ時、中国南京城外で、鈴木六林男と初めて出会う。二人は雑誌に載った作品を通して互いに知る仲であった。六林男は、鬼房の所属する部隊が近くにいることを知り、戦線離脱をして会いに行くのだ。〈跫音追ふ〉から戦場の緊迫感が伝わる。滞在の時間はわずか二時間ほど。後に二人はこの時、特別な話を交わしたわけではなかたと語る。六林男は同じ様に〈会い別る占領都市の夜の霰〉と詠む。戦場での最も劇的で、最も鮮やかな出会いであった。二人は盟友であり、生涯のライバルとなる。


 とある。そのライバルも晩年は、鬼房が三鬼の弟子であったかどうかをめぐり、いささかの対立があり、本人同士だけでなく、弟子スジへ、批判論を書かせようとしたこともあったらしい。それもこれも、二人には、生涯の因縁が何かあったのだろうか。今となっては、泉下で、まだまだ・・・と言っているかも知れない。二人の俳人の気質からくる粘着質なある部分が伺われ、今となっては微笑ましいことではあろう。ともあれ、掲載句の中から、いくつかを以下に挙げておきたい。


  夏草に糞なるここに家たてんか  『名もなき日夜』

  切株があり愚直の斧があり

  胸ふかく鶴は栖めりき Kao Kaoと

  鳥食(とりばみ)のわが呼吸音油照り

  壮麗の残党であれ遠山火

  白泉のもの朽縄も啞蟬も

  やませ来るいたちのやうにしなやかに

  除夜の湯に有難くなりそこねたる

  愛痛きまで雷鳴の蒼樹なり

  みちのくに生まれて老いて萩を愛づ 


  佐藤鬼房(さとう・おにふさ) 1919~2002年、岩手県釜石生まれ。

  渡辺誠一郎(わたなべ・せいいちろう) 1950年、塩竈市生まれ。 



       芽夢野うのき「ワルナスビ何故に儚き色なんぞ」↑

2021年6月7日月曜日

志賀康「人影を野の陰(いん)としてとどめたり」(『日高見野』)・・・



 志賀康第5句集『日高見野』(文學の森)、帯の惹句には、


  遠く日高見の野へまで/見はるかす時空に、

  万物のオントロギーを探る。


とあった。また「後記」には、


(前略)すでに見たことや感じたことをモチーフとして一句に育て上げるーそういうことを俳句に求めたことは以前から少なかったが、今は全くないと言ってよい。書くことによって初めて、今まで見えていなかったものや感じていなかったことが一句に現れてきたとき、それは作品として残される。


と記されており、集名の由来については、


 句集名の「日高見」は、『日本書紀』(景行紀)に、「東(あづま)の夷(ひな)の中に、日高見国(ひたかみのくに)有り。(中略)是を総(す)べて蝦夷(えみし)と曰ふ。亦土地(くに)沃壌(こ)えて廣(ひろ)し」とあり、「日高見」は現在の北上をさし、日高見国は北上川下流、現在の仙台平野の多賀城より北の地域であろうとされている。

 本集は、いまでは遥かに封じられた感のある日高見国へ思いを馳せようというのではない。日高見の野へまでを及ぶ透視の深さにおいて、万物の存在の場を開いていきたいと願ったのだった。


と記されていた。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。


   蜘蛛の巣が最も揚羽を美しく         康

   風穴(ふうけつ)に獣は見せる骨をもつ

   川底の石は重さを放(ま)りて在り

   草結びおのれ一人の罠となす

   丁字草青は音楽となるために

   青梅の球の意識の余り落つ

   つわぶきか宥し返しの了えどころ

   いくぶんは水だと思う春の魚

   野の風は生きてきたなとしか言わないが

   山向こう見たかのように槿落ち

   膝皿貝(ひざらがい)現と夢しか無けれども


 志賀康(しが・やすし) 1944年、仙台市生まれ。

   


      撮影・鈴木純一「こころあて深くつつんで沙羅の花」↑

2021年6月6日日曜日

夏石番矢「人はもろい遠くのコロナ近くのコロナ」(『世界俳句2021』第17号)・・・ 



  ・俳画右下は「ソーシャルディスタンス/風船売りが/微笑みをささげる

           Tsanka Shishikova  Bulgaria ↑ 


  夏石番矢・世界俳句協会編『世界俳句 2021』第17号(吟遊社)、表紙には、「45か国32言語165人482俳句」と記され、「新型コロナウイルス特集」とある。他に「11か国13人俳画」とある。横文字が苦手というより、全く無知に等しい愚生にとっては、外国語の作品は和訳を読むしかない。作品のほとんどは夏石番矢の和訳が付されているので、それのみが愚生の理解の杖である(本書の半分は、つまり、和訳と同じ分量だけ原語で記されている)。特集のなかでは、ティム・ガーディナ— 英国「わび来たる!キャビン熱とコロナウイルス」(柴田絵梨子訳)の冒頭近くに、


 多くの命が失われたとき、国際的なコミュニティーが新型コロナウイルスのパンデミックに多様な反応を示したのは当然である。予想通り、たくさんの詩歌がネット上に、また紙上に溢れだした。ほとんどは玉石混交である。なんであれなにか書かねばと、詩人はすぐにペンをとり、発言すべきと思うことを記したのだ。しかし、多くの場合、私たちが目にしたのは明らかに賢しらな決まり文句か言葉遊びだった。それは、孤独、喪失、活動を強制的に制限されたライフスタイルに対する本物の反応、心からの反応ではなかった。欠落しているのは共感である。自己満足的な褒め合い文化のソーシャル・メディアの大海で失った感情的反応だ。パンデミックの際に連続して作句してきた俳人として、私は膨大な良作を生み出したが詩の本質を見失っていた。(中略)比喩的な斧が比喩的な扉に振り下ろされ、忍び寄るロックダウンの閉塞感は、記されるべきにも拘わらず、記録に残されていない。


 と、じつに示唆的に述べられている。また夏石番矢は「見えない戦争と俳句」と題して、


(前略)網あまねく広げられ/捕まった蝙蝠たち/フライパンで料理

 ベトナムの俳句詩人ディン・ニャットハインは、中国の蝙蝠がCOVID-19の中心的な原因と考えている。彼は正しいだろうか。正しいかもしれない。多数の国で、蝙蝠は悪と病気の象徴である。これとは反対に、蝙蝠は中国語で「蝙蝠」と書き、その二番目の文字「蝠」は、皮肉にも幸福を意味する「福」と同じく発音される。ウイルスに感染したものも含んだ生き物にとって、拡大は幸福。ディンの俳句はCOVIDO-19 の増殖を賛美しているのか。「フライパンで料理」された蝙蝠は、私たちに生命力を与えるのだろうか。現在、私たちは問題と混乱に満ちた現実に直面している。


 と記している。ともあれ、本集中より、愚生の知人に偏するが、いくつかの句を挙げておきたい(ここでは和訳のみ)。


  自宅に人々込みあい/壁に/影交差する    アブドゥルカリーム・カシッド

  パンデミック戦慄の姿/ロックダウン 6フィートの距離/われら再びどよめき叫ぶ

                          カルネッシュ・アグラワル

  立ちすくんでー/深い朽葉色の世界より/鹿の泣声   二―ル・ホイットマン

  多くの国で/自由さえ/コロナウイルスに攻撃される  クルト・F・スワテク

  画面に詩が/出すぎる/ウイルス付き?        ジャン・アントニーニ

  距離にもかまわず春の月          ティム・ガーディナー

  聖戦にとほく白シャツ出勤す        長嶺千晶

  たくさんの貧しい母親/不安な屋台商人/市場は閉鎖  ディン・ニャットハイン

  マスクせぬ男はきっと帰還兵        石倉秀樹

  死で始まる命 ベッドの中にも虹      古田嘉彦

  松の木に/新しい飾り/風がマスクを吹き飛ばす  ナデイダ・コスタディノヴァ

  愛は待つ/マスクが/落ちるのを        アレクサンドラ・イヴォイロワ

  六日在宅/よいマナーで/走りでる       バフティヤール・アミユ

  人はマスクを楯とし雀は朝のおしゃべり    夏石番矢  

  しらたまの塩/しんしんと/死に/詩を捧ぐ   林 桂

  シンデレラ眠らせカボチャの花は咲く     乾 佐伎

  星に生れて仰がれる淋しさよ         鎌倉佐弓

  追いかけて鬼ともなれず夏果てる       木村聡雄

  箸の上三日月すりぬける           野谷真治 

  人消えし街にわたしと春埃          鈴木光影

  コロナ後を語るは早し春の暮         鈴木伸一



     芽夢野うのき「言語化の基本は白や柏葉紫陽花」↑

2021年6月4日金曜日

神野紗希「起立礼着席青葉風過ぎた」(『俳句部、はじめました』)・・・


  神野紗希『俳句部、はじめました』(岩波書店)、帯の惹句に、


 詠もう 読もう / 俳句は君を /  待っている 

 ジュニスタ創刊!(中学生の探求学習に最適!)


 とある。表4側の帯には、「岩波ジュニアスタートブックス」とあって、他の刊行図書として、中満泉『未来をつくるあなたへ』、鎌田浩毅『地震はなぜ起きる?』、小西雅子『地球温暖化を解決したいーエネルギーをどう選ぶ?』のラインナップがある。表4の惹句には、また、


 俳句は五七五のリズムにのせ、/季節の言葉の力を借りて詠む、/小さな小さな詩です。

 十代で俳句に出会い作句を続ける著者が/その魅力を伝え、作り方を伝授します。

 十七音のカンバスに、一度きりしかない/あなたの「今」を描いてみましょう。


 ともあった。「俳句が世界を変える—あとがきにかえて」の冒頭には、


 科学は、病気を治す薬を発明したり絶滅危惧種(ぜつめつきぐしゅ)を守ったり、世界そのものを変える力をもちます。一方、文学は、世界のとらえ方を変えるものです。


 と記されている。ここでは、「十七音、コトバの宇宙」の章から、一か所引用しておこう。


   月凍(こお)る辺野古(へのこ)の土砂にジュゴンの死  岡田真巳

                           愛媛新聞「青嵐俳談」

 美しい沖縄・辺野古の海。海域には絶滅危惧種(ぜつめつきぎしゅ)のジュゴンも生息していましたが、アメリカ軍基地の移設工事が進む中、二〇一九年には一頭の死骸が発見されました。冬とはいえ暖かい沖縄の月を「凍る」とまで厳しく感じるのは、ジュゴンの死を重たく受け止めるがゆえです。当時、高校生だった作者が、思いをこめて社会に投げかけた一句です。(以下略)


 ともあれ、本書中より、いくつかの句を挙げておこう。


   失恋や御飯(ごはん)の奥にいなびかり     高山れおな

   水の地球すこしはなれて春の月         正木ゆう子

   小鳥来る三億年の地層かな            山口優夢

   まくなぎよ地球は君をこぼさない         池田澄子

   西瓜(すいか)食ふまだ机なき兄妹(あにいもと) 小川軽舟

   神の留守母子家庭ですけど何か          永瀬十悟

   口開けて叫ばずシャワー浴びてをり        五島高資

   春はすぐそこだけどパスワードが違う       福田若之

   霧深き森へ隠そうシリアの子          宇多喜代子

   コンビニのおでんが好きで星きれい        神野紗希


 神野紗希(こうの・さき) 1983年、愛媛県生まれ。


      撮影・鈴木純一「立葵の動きをまねる 悪くない」↑  

2021年6月3日木曜日

赤尾兜子「ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう」(『赤尾兜子の百句』)・・・



 藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』(ふらんす堂)、藤原龍一郎は、愚生と同じく「渦」に所属していたことがある。その頃は、俳号・藤原月彦である。「俳句研究」の50句競作で頭角を現わした藤原月彦を一本釣するべく、兜子は月彦に手紙をしたためたに違いない。その頃の「渦」は、若い俳人たちで溢れていた。50年以上前ことである。

 ブログタイトルにした兜子「ゆめ二つ全く違ふふきのたう」について、藤原龍一郎は次のように記している。


 『玄玄』の掉尾の一句。『赤尾兜子全句集』(立風書房)の和田悟朗氏のあとがきによると、この句は、兜子の没後み、日記から発見されたのだそうだ。まさに、最後の一句ということになる。

 昭和五十六年三月十七日午前八時過ぎ、自宅近くの阪急神戸線十善寺坂踏切にて急逝。

 二つの夢とは何か? 何がまったく違うのか? 真意はついに不明のままである。春を告げるフキノトウをみつめながら、そこには生きる意志は生れてこなかったのだろうか。


 また、巻末の「異貌の多面体—赤尾兜子の俳句」の中には、


 この本の百句鑑賞では、あえて、編年体をとらず、まず、その異貌が感受できる兜子秀句三十三句を第一部として置き、第二部に『稚年記』から『玄玄』までの作品から六十七句を編年順に並べて鑑賞した。(中略)

 第三イメージの私の解釈は作品鑑賞の部分に書いたのだが、繰り返しておくと、二物衝撃という具象と具象をぶつけあって比喩を生み出す従来の俳句的技法を一歩進めて、第一の比喩と第二の比喩を衝突させて、第三の暗喩のイメージを産み出す方法ということである。(以下略)

 とも記されている。ともあれ、兜子俳句は、どの俳人よりも、もっとも前衛的だったという評価が相応しいように思えるが(それを異貌の多面体といい)、藤原龍一郎の本書によって、よりその在処が、再確認されると思う。本書より、幾つかの句を以下に挙げておこう。


    会うほどしずかに一匹の魚いる秋     兜子

    「花は変」芒野つらぬく電話線

    帰り花鶴折るうちに折り殺す

    数々のものに離れて額の花

    大雷雨鬱王と会う朝の夢

    音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢

    広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み

    煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾

    轢死者の直前葡萄透きとおる

    戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ

    花から雪へ砧うち合う境なし

    霧の山中単飛の鳥となりゆくも

    さらばこそ雪中の鳰とそして

    心中にひらく雪景また鬼景 


 赤尾兜子は、その日の朝、煙草を買いに行くと言って出かけ、近くの踏切で亡くなった。その一週間前に、高柳重信に電話をしている。

 以下には、図々しく、愚生の「兜子の三句」という、かつて、「渦」の記念号に寄せた愚生の駄文が偶然にも、出て来たので、この際だから、以下にコピーしておきたい。 

                  

大雷雨鬱王と会う朝の夢

俳句思へば泪わき出づ朝の李花

ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう  

 僕のこれまでに俳句結社とのと関わりがあったとすれば(二十歳代前半のわずか数年に過ぎなかったのだが)、唯一「渦」のみである。

 京都大学前の書店で聞き知っていた「渦」を初めて手にし、購読を申し込んだ。手にしたそれは「渦」50号特集記念号(昭和4411月)で、「『第三イメージ』をめぐって」という赤尾兜子・和田悟朗・中谷寛章による座談会が掲載されていた。それまでも兜子の「音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢」「広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み」などの句に魅せられていたのであるが、中谷寛章にも注目していたからだ。

 冒頭の三句は、僕が後に長く愛唱した句で、髙柳重信の「目覚め/がちなる/わが尽忠は/俳句かな」の句と対をなしていた。

僕が上京して、初めて重信に会った時の挨拶のなかで、「兜子は僕の弟みたいなものだから」という親しみを込めた重信の物言いが今でも耳に残っている。(大井恒行)


 藤原龍一郎(ふじわら・龍一郎) 昭和27年、福岡県生まれ。



撮影・芽夢野うのき「鉄線花かねがねさびしき彩と気にかかり」↑                   

2021年6月2日水曜日

北川美美「夕立の中にどんどんはいつていく」(「俳句新空間」第14号より)・・・


 

  「俳句新空間」第14号(発行人 筑紫磐井・佐藤りえ)、特集は「北川美美追悼記」、最初に、


 北川美美さんが令和3年1月14日、亡くなられました。享年57。

 平成21年「豈」に入会。平成26年「俳句新空間」(発行所 北川・筑紫)を創刊。「皐月句会」発足にも尽力されました。お知り合いの方々から言葉を寄せていただきました。


 とある。寄稿は、長嶺千晶「北川美美さんのご逝去を悼み」、神谷波「無題」、仲寒蟬「北川美美さんのこと」、松下カロ「きさらぎの鳥」、青木百舌鳥「美美さん」、中山奈々「踊り字じゃないのよ」、佐藤りえ「北川さんのこと」。また、もてきまり「前号作品鑑賞」では、追悼の意を表しながら〈縦半分の東京タワー西日中〉〈真下より蔽い被さる蟬時雨北川美美を引用されている。確か虎ノ門病院に入院されていた時期もあったが、歳晩は、故郷の緩和ケア施設におられように聞いている。愚生の本ブログ「大井恒行の日日彼是」も、蟄居状態の愚生に、何か書けと、筑紫磐井に慫慂され、北川美美が万端整え、作ってくれた。パソコン操作に基本的に疎い愚生に、携帯電話の向う側から、指示してもらい、とにかく、愚生が自分自身で、気が向いたときにブログをアップできるようにしていただいた。従って、ブログ画面のレイアウトなども当初から全く変更されていない(何しろ愚生には変えるなどという技術が無いのだから・・)。合掌。

 ともあれ、以下に「新春帖」(新作20句)より、「豈」同人のみになるが一人一句を挙げておきたい(北川美美「きたがわ・びび」の句み編集後記より)。


   北里は花明かり憂し折笠忌        福田葉子

   磯焚火ごうとほむらの哭きにけり     中島 進

   望楼へ手すり冷たき梯子段        渕上信子

   マスクしたまま唇はさよならバカ殿忌   夏木 久

   うつし世のゆがんで爆ぜり石鹸玉     五島高資

   ゲリラ豪雨橋はよろこび裏返る      加藤知子

   朝凪ぐや受難のときはいつもそう    真矢ひろみ

   白鳥が象を夢みる水かゞみ        井口時男

   なめくじや生きる嘔吐を繰り返す     坂間恒子

   点々と家点々と花桃           神谷 波

   さびしくて葱ごと夜を抜いている    なつはづき

   逃水のとびらは閉めてきましたね     堀本 吟

   山桜鳥居をくぐる鬼女童女        田中葉月

   僕たちのオリムピックがなかつた夏    筑紫磐井

   煮るものは水ばかりなる遅日かな     佐藤りえ

   鉢合わせの去年の御慶誰も来ず      北川美美



 撮影・鈴木純一「時間なのでヒルガオはここでおしまい」↑ 

2021年6月1日火曜日

照井三余「桜蕊もちこたえるは母に似て」(第25回「ことごと句会」切手句会)・・・


 第25回「ことごと句会」(2021年5月20日付け)、雑詠3句、兼題「怪」1句。以下に一人一句と各寸評を紹介しておきたい。愚生は本日、新型コロナワクチン接種2回目が終わった。今のところ、一回目より腕の痛みはない。平常通りだと思うが、2回目がハードという人が多く、その気分で少し熱っぽいかも・・・。夕食後、片頭痛気味なので、処方してもらったカロナールを一錠飲んだ。


   春惜しむ集ひに一人リアリスト      武藤 幹

   白昼の闘魚かがやく雑貨店        渡邉樹音

   鯵のひらき骨のあるほうとないほう    金田一剛

   背に固き畳に大の字五月風        照井三余

   窓ガラスへ描くイニシャル五月闇     江良純雄

   花の色褪せてピエタの膝の上       渡辺信子

   元彼は怪人二十面相梅雨に消え     らふ亜沙弥

   夏空を眺め体じゅうが痛い        大井恒行


・「桜蕊・・」ー桜蕊は誰のエモーションにも残りませんが、桜の蕊に母の姿を見る作者。いい息子ですな(剛)。

・「春惜しむ・・」ー中途半端な繰り言には、「だから何?」とか言われそう・・(信子)。

・「白昼の・・」ー迷路的な雑貨店。闇と迷路の交錯の中に魚の形をした道具が。雑貨店を宇宙と観る(純雄)。

・「鯵のひらき・・」ーこんなの俳句か!?とも思うが、楽しく又、意味深長である!!(幹)。―作者は何も語らず、読み手に託す(三余)。

・「背に固き・・」ー初夏が似合う句。今やフローリングの床の生活、やはり日本人としては畳に寝転がる文化は大切に受け継がなくてはいけない(樹音)。

・「窓ガラス・・」ー昔昔、こんなことしたなあ。闇が淋しい(亜沙弥)。

・「花の色・・」ー嘆きの色の深さがある(恒行)。

・「元彼は・・」ー昭和の時代、新宿に「怪人二十面相」という店がったのを思い出しました。(・・・・・)。「元彼」の俗っぽさと「梅雨に消え」との妙な味わいを感じました(樹音)。

・「夏空を・・」ー晴れわたった夏空。こういうのを見上げると、体中が痛い!(幹)。


・次回、6月20日締切。兼題「狂」+雑詠3句。



                                  撮影・ノブコ・ワタナベ↑