2014年10月30日木曜日

遠山陽子「かき抱く一本杉の中は秋」・・・

掲句は、先般、上梓された遠山陽子第5句集『弦響』(角川学芸出版)からのもの。帯には高橋睦郎が「陽子さんの近作に敏雄蘇生しての新作かと驚くこと屢々だ」と賞揚。集中、『弦響』の巻尾に「敏雄に和す」と章立てして、陽子句が置かれ、三橋敏雄の原句と併記されいる。因みに掲句は以下のように和している。




    世界中一本杉の中は夜       敏雄
    かき抱く一本杉の中は秋      陽子 

以下、いくつかを挙げておこう。

   人は燈をふやす夕べぞ秋のかぜ   敏雄
   人は火を作る夕ぞ渡り鳥        陽子

   原爆資料館内剥き脱ぐ皮手套    敏雄
   革手袋落してきたる爆心地      陽子
  
   労働際赤旗巻かれ棒赤し       敏雄
   国民学校荒梅雨の万国旗       陽子
   
   鬼赤く戦争はまだつづくなり      敏雄
   鬼も見よ氷河はすでに溶けはじむ  陽子


   はつなつひとさしゆびをもちゐんか 敏雄
   くすりゆびつかはず桃を交配す   陽子

   太陽は目にいつぱいの暗い事態(チェルノブイリ)   敏雄
   収束不能(フクシマ)を敏雄は知らず敏雄の忌     陽子

遠山陽子(本名・飯名陽子)昭和7年東京市生まれ。本句集は平成17年から26年までの作品376句所収。この期間は個人誌[玄」に『評伝 三橋敏雄―したたかなダンディズム』を執筆連載した期間に重なる。


2014年10月28日火曜日

文献書院・山田昌男氏に会う・・・



去る25日から来る11月3日まで神田青空古書展が行われている。
過日、その期間に一度お会いしようということになり、愚生は青空市の「ブンケンロックサイド」で待ち合わせた。
もとはと言えば、神田古書センターの7階にあった文献書院を今は娘さんが中心になってサブカルチャー専門古書店「ブンケンロックサイド」として切り盛り、その一隅に俳書が並べられている。
実は、愚生は若いころから、文献書院の山田昌男氏に色々お世話になっている。
俳句文学館もまだ開館しておらず、大塚にあった(現在は自宅兼5階建てのビル)ガラス戸の引き戸だった文献書院に原稿を書くための資料を求めに行ったことがあったのだ。
相対的にまだ十分古書値もしていた頃、給料が5万円くらいのときに五千円ほどもした飯田龍太の句集を買ったりした。いまだったら、俳句文学館で句集閲覧をしているだろう。
あるいはまた、俳書の整理にはずいぶんお世話になった。
愚生の窮乏、入用の際に、本を売りに行ったこともある。もう時効だから書いても差支えないと思うが、山頭火の『其中日記』『草木塔』(まだ山頭火の著作が世に出回る以前のこと)を愚生の一度目の妻の父(曹洞宗の僧侶だった関係で大山澄太から山頭火本を所蔵)から借りたものを、その妻と一年ほどで離婚し、父はまもなく他界されて、そのまま本を返すチャンスを逸し、加藤楸邨『野哭』や加藤郁乎句集(海程社)などと一緒に売り、生活費の足しにしたこともあった。


                                                    文献書院・山田昌男氏


その山田氏とほぼ34,5年以来の再会なので、もとよりお互い顔もわからずの待ち合わせとなったのだった。
近くの喫茶店で今は無き高柳重信、中村苑子、松崎豊、細見綾子、沢木欣一、鈴木真砂女、飯田龍太、大野林火、松崎鉄之介、岸田稚魚、鈴木鷹夫などとの想い出話を聞いた。
現在、80歳を越えられて古書センターの7階の店からは撤退されたが、元気いっぱいは変わらず、まだまだ俳書の商いは忙しすぎるほどやっているのでと言い、古書の倉庫になっている御茶ノ水女子大近くの自宅ビルにもお邪魔することになった。
三年前にアキレス腱を痛められてからは、趣味だった社交ダンスはやめられたということだったが、まだまだ頑張りますよ~と握手をして別れたのだった。


                 カラスウリ↑

2014年10月23日木曜日

高井几董「やはらかに人分け行くや勝角力(かちずもう)」・・・



10月23日は高井几董(たかい・きとう)の忌日である。1741(寛保元)~1789(寛政元)年。幼名、小八郎。別号、晋明、したがって晋明忌。京都の人。蕪村に学んだ。
掲句は相撲に勝った力士が歓声のなかをおだやかにかき分けながら進んでいるのであろう。
以下に数句を、・・・
  
     花火尽きて美人は酒に身を投げけむ   几董
     明けいそぐ夜のうつくしや竹の月
     白藤の猶さかのぼる淵の鮎  



   

2014年10月22日水曜日

冨士田元彦のこと「石神井書林目録」94号・・・



 知人から、参考にと送られてきた「石神井書林目録」(94号・2014-10)は小特集「荒野への出撃―現代短歌と冨士田元彦」だった。
そうだった・・いつだったか、すっかり失念していたが、年賀状の返信に訃報の知らせの葉書をいただいたことを思いおこした(愚生には急だった・・・なァ)。
愚生が今は無き弘栄堂書店に勤務していた頃、冨士田元彦はたまに店に立ち寄って、傍にあった喫茶店でお茶を呑んだりした。
愚生が俳句をやっていたのを知っていたからだが、彼が編集発行していた映像+現代短歌「雁」をたまにもとめていたこともあろうし、その縁で雁書館から歌集を出したいという人を紹介したこともあった。。先日、その雑誌も整理してしまって手元にはもうない。
映画評論にも健筆をふるっておられた。
雁書館の出版物は現代短歌が主流であったが、取次会社を通さず、直接取引のあるごく少数の書店のみで扱われていた。
今回の目録では塚本邦雄の書簡葉書(冨士田元彦宛)一括で324000円とあった。塚本邦雄は筆まめだったらしく、いつだったか高柳重信宛ての書簡・葉書を福田葉子(重信・中村苑子を最後までお世話していた)から見せてもらったことがある(たぶん、今は娘の高柳蕗子に・・)。
ほかにも冨士田元彦宛の署名入りで塚本邦雄『緑色研究』、塚本邦雄自筆歌稿、寺山修司『田園に死す』・『血は立ったまま眠っている』、岸上大作冨士田元彦宛葉書書簡・『意志表示』、前登志夫書簡・葉書、詩集『宇宙駅』・自筆歌原稿、春日井建、福島泰樹、河野裕子、山中智恵子、村木道彦、若山牧水、中井英夫自筆草稿「浜田到小論」などなど、興味深いものばかりが写真入りで載っている。その雁書館立ち上げの芳名帖に中井英夫は次のように記していた。

雁と冨士田元彦のために
 雁映る富士の高嶺に似て高らかに 持つべき友は ひとの声する
                                     中井英夫





2014年10月21日火曜日

「朱夏」創刊20周年記念祝賀会・・・



一昨日、10月19日(日)、アルカディア市ヶ谷に於いて、「朱夏」創刊20周年記念祝賀会が開かれた。愚生の隣に坐る?はずだった筑紫磐井は腰痛のため欠席とのことだった。
というわけで、愚生の隣には池田澄子。祝賀会に先だって、午前中に行われた「朱夏祭」では、池田澄子が「俳句という器」という講演をしたようで、同じテーブルに坐った八木幹夫ともども「澄子さんの講演が聞けると思ったのに・・・」と少しからかう。
愚生の右隣は内田修、朝日俳壇・歌壇ではおなじみの名である。
主宰・酒井弘司の挨拶は、「新風を求めて20年、広い視野をもって交流、今、咲いているあかままの野の道の半ば」と述べ、その人柄と粘り強い志を感じさせた。このことは当日にいただいた「朱夏20周年記念号」(117号)の冒頭に以下のように記されていた。

  「朱夏」は、常に〈新風〉という旗を立ててきました。月並にならないように。清新へと。
 このことは、時流におもねず自らの俳句表現に徹するということでもあります。
 「朱夏」とともやってきた歳月は、〈持続すること〉〈ぶれないこと〉を自らにいいきかせてきた道でもあります。
 この野の道に立つと、二〇年という歳月は、まだ「道半ば」という思いが拭えません。

愚生などは忸怩たるものがあるが、願わくばこの言のいくばくかでも肝に銘じたいと思った。

帰りに短い時間だったが、八木幹夫、八木忠栄、井川博年、工藤政秀(「朱夏」の表紙絵の画家)、池田澄子とお茶を飲んだ。

「朱夏」の創刊は平成6年8月、季刊。数年前から「朱夏賞」を創設、該当者なしの年もある。今年で第8回。ここでは、各回の受賞者の冒頭句を挙げておきたい。

    炎天や愚直に杉の直立す         中岡昌太
    シベリアの氷平線死者の手立っている 望月たけし
    心太死は遥かとも近しとも         川嶋隆志
    夜の秋指輪さらりと抜けやすし      池畑朝子
    新しき学問に触れ恵方棚         米山幸喜
    天の川詩人はいつも恋してる       清水和代
    天の川いつしか夢の歳おなり       稲垣 愛
    秋浜辺少年ナイフ埋めにくる       日下温水  

末筆に主宰の近年の句を・・・ 

    この星のいのちはいくつ春立てり     酒井弘司
    焦土いま光の中に青山河
    霜立てり軽くなりたるニホン人

                      ムラサキシキブ↑

2014年10月16日木曜日

三橋敏雄「生活感情」[(昭和12年)の句・・・2



ここでもまた、遠山陽子『評伝 三橋敏雄』の恩恵にあずかるが、次のように記してある。

 同時期、敏雄はさらに、渡邊保夫の発行していた同人誌「生活感情」にも参加する。同誌は、編集人みずからの手によるガリ版刷りながら、俳句、短歌、散文、評論など、多方面の作品を掲載する総合文芸誌である。会費一ヵ月拾五銭。

強いて言えば、渡邊保夫はガリ版では、略字の渡辺保夫と彫られ、会費は6号には拾銭とある。7号は十五銭である。遠山陽子の「生活感情」の記述は克明であるが、この愚生のブログでは、ただ、その折に発表された三橋敏雄の句を再掲載しておこう(「生活感情」4号では「三橋としを」。

「生活感情」第4号(昭和12年8月10日発行)、
    〇連作
梅雨の路地汝が前額のひたにあり             三橋としを
紫陽花はいつそみもだえ陰ふかし
角時計鳴りわたり路地に吾に
緋ダリヤはこゝに聖金曜の日は西に
路地せまくはざまの空へ髪伸びたり
   〇連作
軍人は晩婚にして鳥撃てり
七月のまだきの空は午さがり
鳥銃を疎林に向けて暁けはじむ
軍人の日焼けて持ちぬ金時計
汗ばみて軍人は妻とほく連れぬ

「生活感情」第5号(昭和12年9月10日発行)、
  〇柿に寄す
山は門のあをの柿垂り夕焼けぬ              三橋敏雄   
恋しげく柿の裏葉の夜をかよふ
恋ふる夜はまがき隠れに柿青し
   又
汝が額に花火の音はながからぬ
夜は熱き天地はあらず柿落ちぬ

煙突林暁けて来らしき四肢のほとり
木木喬しまことに朝日はづみつつ
運河旱りくるぶし太く沿ひ来り
町々にをさなら暁けてはだかなる

「生活感情」第6号(昭和12年10月20日発行)、
  二百十日後日
糖黍やとほ山かけてのこりかぜ
唐黍の紅毛や垂りぬうろこぐも
唐黍のかぜ颯颯とこどもゐる
唐黍はたしがれみのり童が喰ふ

「生活感情」第7号(復活第1号・昭和13年9月号)には、三橋敏雄の句はなく、「愚昧の言」というエッセイ。出だしを少し引用すると、

 今日、時代を反映せる俳句と云へば勿論戦争俳句が推されるであらうし、又私も戦争は俳句であればかなり広い範囲の作品を知つてゐるつもりであるから鑑賞文を書くといつても別に不自由ではないのだけれど、本当のことをいふと或るわずらはしさのために、その中からいくらかの作品を書いたりすることの意味を持つことができない。

時に、三橋敏雄18歳の感懐である・・・・・


                    アブチロン↑


2014年10月14日火曜日

三橋敏雄「かもめ来よ天金の書をひらくたび」の淵源・・・1



三橋敏雄が「野茨」第七巻第一号」に「野茨同人評判記」と題した中で「南雲二峰氏の巻」に於いて次のように記した件りがある。

  昭和十一年は過ぎた。
  昭和十二年・・・・・
  次の如き作品が南雲さんのものである。初句会にての
        天金のこぼるゝ冬日に翔ぶかもめ
  これはとてもよい。
  これ以来、南雲さんの足並はそゞろになつて来た。初頭に於いて放した砲弾をして不発ならしめたくないことは、皆の希望である。この間の彼はぢつと思索し次の飛躍にうつる姿勢をとつてゐるのでなければならない。
 二峰氏の」亡霊よ!(前号、渡辺保夫氏が発した筈)
 あなたに私たちは万全の期待をかけてゐるのだ。あなたは彼の背後にいつも、この一年間さうだつた。もやもやとたちこめてゐる。私たちは願つてゐるのだが、こいつ仲々昇華しない。
再び言ふ。
二峰氏の亡霊よ!
起つて、天上の一角に土嚢を築け、たゞの亡霊でないためにあなたはきつとさうするであらうと信ずる。それは正しいリベラリズムにのつとり、もつともつと深刻でなければならぬ。(深刻といふおとは、けつして深刻がれといふのではない)そして今日にも燃えて飛翔せよ。そして天上に至れ。そこには徹したロマンチシズムがあるはずだ。あなたはそこに土嚢を築かねばならぬ。そして地上のわれわれに向つて発砲を開始せよ。そのときこそ我々は、諸手をあげて応戦するであらう。
 
三橋敏雄はそのとき「野茨」(東京堂内 発行所 野茨吟社)・発行者は渡辺保夫)の編集者であった。ガリ版刷とはいえ、この号は奥付まで92ページある。三橋敏雄は大正9年(1920年)生まれだから、数えて17歳。東京堂に入社したのは15歳の時。このあたりの事情については、遠山陽子『評伝 三橋敏雄』(沖積舎)に詳しい。「野茨」は東京堂内にできた俳句会誌で指導をしたのは開原朝吉(冬草)で、長谷川かな女の「水明」の幹部同人だった。三橋敏雄が5歳年長の渡辺保夫に誘われて初めて作った句が選に入る。
           
    窓越しに四角な空の五月晴れ     としを

その野茨吟社の機関誌が「野茨」、第五巻第二号(昭和10年11月24日発行)には三橋敏雄のエッセイ「秋心」が掲載されている。これも全文は前述した『評伝 三橋敏雄』に全文掲載されているから、参考にしていただければよい。
それにしても、三橋敏雄第一句集『まぼろしの鱶』の巻頭句・昭和十年代に

    かもめ来よ天金の書をひらくたび

の句の淵源がこのようなところに隠されていたのには驚いた。「徹したロマンチシズム」・・・見事な応戦ではないか。


                                          かりん↑

2014年10月13日月曜日

「散らざれば六十七や幸彦忌」恒行・・・・

                               
                               ↑96年3月、初めて新居を訪う。幸彦、夫人資子。

今朝、台風19号が九州に上陸した。夕刻には関東も強風域に入るらしい。
今日は攝津幸彦の命日である。1996年10月13日、49歳で亡くなった。元気だったころ、本人は冗談めかして、南国忌か南風忌がいいな、と言っていた。攝津幸彦の会社の同僚たちは南風の会というのを作ってその後の文集や全句集の出版などに尽力してくれた。

   南国に死して御恩のみなみかぜ      幸彦

その折の愚生の追悼句は、

   南国忌と言いて幸彦秋に死す      恒行   

だった。忘れもしない10月10日(体育の日)に、順天堂病院に入院したのを聞いて、酒巻英一郎、筑紫磐井、仁平勝とともに見舞ったのだ(愚生は客商売のため夕刻まで職場を離脱・・)。その折、恒例となっていた11月の「豈」句会兼忘年会の相談をした。病院近くに会場を借りて、攝津幸彦は病院を抜け出して忘年句会に参加する手はずだった。それまでに、「豈」同人にも知らせて少しずつ見舞いにきてもらうことにもした。
その企画された11月30日(豈は二か月に一度、奇数月最終土曜日が句会だった)が、まさか攝津幸彦を偲ぶ会になろうとは誰も想像することはできなかった。それほど愚生等にとっては急逝であった(ただ一人、夫人の攝津資子を除いては・・・)。
だから、入院したばかりの攝津幸彦が、他の人の見舞いはもう少し体調が回復してから、というのも聞かず、資子夫人は「豈」事務局・酒巻英一郎に託して、愚生等に幸彦を見舞うように計らったのだ。 
死後、攝津幸彦はその作品とともに成長し、いまでこそ,すっかり有名になっってしまったが、当時、総合誌は「俳句研究」96年12月号を除いては追悼の記事など、ページをさいたところはなかった(同人誌のいくつかを別にして)。それほど俳壇的にはマイナーな存在だった。 つまり、攝津幸彦はいわゆる俳壇の政治的な結社支配から、遠い存在だったのである。
攝津幸彦の死後、求められて愚生は、「ふらんす堂通信」72号(97年4月)の末尾に以下のように記している。

  今、私たちは攝津幸彦を失った。しかし、かつて、折笠美秋が高柳重信の死に際して言ったと同じように、俳句形式をして攝津幸彦を失わしめてはならない、としきりに思うのである。  

攝津幸彦、存命なれば愚生より一歳年上の67歳である。


                                  るりまつり↑

2014年10月12日日曜日

『古沢太穂全集』刊行記念レセプション・・・


                                              太穂ご子息・古沢耕二氏↑

本日、10月12日(日)お茶の水の東京ガーデンパレスに於いて、『古沢太穂全集』刊行記念レセプションが行われた。『古沢太穂全集』(新俳句人連盟)は、昨年3月に刊行され、昨年の今頃、刊行記念レセプションが開催されることになっていたが、昨年は台風のため今日まで延期されていたのだ。今年も台風19号が接近ということで、その天候が心配されたが、どうやら今日開催でセーフであった。
全集の刊行は2013年の太穂生誕100年を記念し、31年間にわたり新俳句人連盟委員長の重責を担った古沢太穂の功績を顕彰するもので、いわば新俳句人連盟の総力を集めての事業でもあったと思われる。「鬣の会」は今年、『古沢太穂全集』に鬣賞を贈賞している。
監修は敷地あきら・諸角せつ子。序文には金子兜太、大牧広、友岡子郷、復本一郎、石寒太、加藤瑠璃子。太穂の俳句理解者の幅広さの一端をうかがわせる。
愚生が古沢太穂の名を記憶に留めたのは兜太『今日の俳句』(光文社)であった。そして、ほぼ同時期に刊行された楠本憲吉『戦後の俳句』(社会思想社)によってである。収載されていた句は、

     啄木忌春田に灯す君らの寮      太穂
     ロシア映画みてきて冬の人参太し
     白蓮白シャツ彼我ひるがえり内灘へ

であった。
   
閉会前に、太穂ご子息の古沢耕二氏が挨拶された。面差しは太穂にそっくりである。プロ棋士ということだった。そういえば、太穂は将棋が極めて強かったらしい。その血が流れているのだろう。
愚生の太穂との思い出は、「俳句空間」第8号「さらば昭和俳句」の特集でプロレタリア俳句について、インタビュアーを谷山花猿にお願いし、収録のあと居酒屋に連れていってもらったことだ。たしか、「道標」の事務所で行なったと思うが諸角せつ子も同席されていた。その居酒屋で思ったことは、職場俳句の運動を推進していた頃の太穂は多くの仲間に囲まれ、句の温かさと同じ温かさを有していたにちがいない、ということだった。
もう26年前のことになる。調べてみると太穂はすでに76歳、でもはるかに若く見えたなあ・・・。


                                           ヤナギの実↑

2014年10月10日金曜日

長谷川素逝「うちしきてあしたの沙羅のけがれなし」・・・

                                    多摩川から遠富士↑

今日、10月10日は素逝忌(1907年~1946)である。享年39。
長谷川素逝は句集『砲車』(昭和14年)の戦場句によってことに有名になった。それは、ある意味でホトトギスの客観写生のまっとうな方法がそうさせたと言えよう。
虚子は『砲車』序に、

  素逝君も其後砲兵中尉に昇進したのであるが、不幸にして病を得、今は内地に環送されて居る。然も支那事変は有史以来の出来事であり、その支那事変の俳句における第一人者であり得たといふことは以て自らを慰む可きであらう。

と言挙げしている。

  かかれゆく担架外套の肩章は大尉        素逝
  おほ君のみ楯と月によこたはる
  汗と泥にまみれ敵意の目をふせず
  雪の上にけもののごとく屠りたり
  みいくさは酷寒の野をおほひゆく

しかし、素逝は戦後刊行された『定本素逝句集』からは、『砲車』の句をすべて葬りさったという。

昨日の忌日の橋本夢道は、時代のなかで、自らを貫いていて権力によって弾圧されたが、素逝は盛名を馳せたと言われながらも、つまるところ時代の潮流に翻弄されていた、ともいえる。ならば、その時代が去ってしまえば、眼前の景を詠む客観写生という方法において、素逝の句が静けさを増してゆくのはけだし当然であった。

   うちしきてあしたの沙羅のけがれなし
   ふりむけば障子の桟に夜の深さ 
   いちまいの朴の落葉のありしあと


                    イロハモミジの実↑
   

橋本夢道「大戦起るこの日のために獄をたまわる」・・・



今日、10月9日は橋本夢道が亡くなった日だ。享年71(1903~1974)。
1941年2月、俳句弾圧事件、治安維持法違反によって検挙されたが、上掲の句は同年12月8日日米開戦勃発の日の作。
徳島県生まれ、本名・淳一。高等小学校卒業後上京。1930年、蜜豆・小豆屋「月ヶ瀬」を開店、「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」のコマーシャルを作成。34年、栗林一石路などと「俳句生活」を創刊。戦後は新俳句人連盟の結成に参加した。

       石も元旦である                      夢道
       無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ
       酔わぬ夜は黙った魚のように人に混じって戻る
       四天梅雨に路地の栄坊死にし香奠飯粒で貼る
       母の渦子の渦鳴門故郷の渦
       うごけば 寒い
       からだはうちわであおぐ
               鵙なくや寝ころぶ胸へ子が寝ころぶ
       牡丹咲いて非凡の花と言うべけれ

夢道晩年のこの「非梵の花」句に例えて、「非凡の友」と記したのは古沢太穂だった。そして高柳重信は追想に際して、

  最晩年の夢道は、総武霊園に墓をを立て、その石碑に、獄中の作「うごけば寒い」の句を彫った。そして、それを打ち眺めつつ
   炎天に吾が生き墓石自若たり
の一句を作った。癌を病むこと数年、もはや死は眼前にあった。
 この句は、夢道の死後、たまたま僕の編集する「俳句研究」年鑑に最後の年間自選作品として掲載されたが、その自筆の句稿には、実は「炎天」とあるべきところが、その独特の雄渾な文字で「火天」と書かれていた。死を間近にする衰弱しきった夢道にとって、その日の炎暑の激しさは、ありふれた喩の「炎天」などという言葉では平凡すぎて意に満たず、まさに「火天」であったにちがいない。

と述べたのだった。

                                             ザクロ↑

2014年10月8日水曜日

寺山修司「月蝕待つみずから遺失物となり」・・・



今夜は皆既月蝕、十分に堪能したが、月が再び輝きを取り戻すころから雲に覆われてしまった。
近くの農工大まで,散歩をかねて月蝕を観に行った。
畑に囲まれ、街灯もなく、暗さも手伝って月はよく見える。学生や中には親子でシートを敷いて楽しんでいた。上の写真は月蝕下の農工大のトウモロコシ畑である。
さすがにじっとしていると夜の冷えが身にしみてきた。

      汽車と女ゆきて月蝕はじまりぬ     西東三鬼
      月蝕や少年少女ちちあわす      堀井春一郎
      月蝕の謀るしづかさや椎若葉     石田波郷




2014年10月7日火曜日

「逸」第34号・・・



「逸」は少し変わった不思議な雑誌である。同人誌ではない。花森こまの個人誌というところだろうが、今号の招待作品は安井浩司・松本恭子である。さらに和田悟朗の榮猿丸句集『点滅』の鑑賞、加えて妹尾健の評論「石原映水のこと」もある。そのほか愚生にとっては、懐かしい名が散見される。例えば木戸葉三、楢崎進弘、吉田健治、渡辺隆夫、小島ノブヨシ、そして花森こまもその一人である。いずれも特徴のある貴重な作品に評論である。
とくに地味ながら丁寧な俳句史をつむぐ妹尾健の「石原映水のこと」には以下のような記述も見える。享年30で夭折した映水は昭和9年「俳句研究」3.4月号雑感で、

当代の俳人を列挙して『渡辺水巴、池内たけし、星野立子、花木伏兎、山口誓子、水原秋桜子、山口青邨、日野草城、藤後左右、赤星水竹居、山本梅史、何れの一句として読みに堪えるものとてはない弛緩せる低調さを示している』(我らの進むべき道ー『俳句研究』三・四月号雑感 昭和9年4月稿)とする。ー中略ー映水の筆はそれらの人々を含めてすべてを低調と断じて憚らないのである。この論調は昭和俳壇においてホトトギス・新興俳句・自由律俳句の他に日本派とも呼称してよい一派があったことを証明している。この一派は昭和俳句のいずれの傾向に対しても批判的であった

と言う。ここにはたぶんに妹尾健のただいま現在の俳句の流行に対する姿勢もうかがわれよう。
「逸」は年2回の刊行ということらしいから、単純に計算すると17年を閲していることになる。貴重な存在感である。
最後に、雑誌ではめったに読めない安井浩司と松本恭子の句を挙げておきたい。

     草露や双手に掬えば瑠璃王女       浩司
     春陰の寺や午沈のからすども
     悲しみもあらん麦星(スピカ)の乙女座に
     上向きに炎える実柘榴耕衣の絵
     山寺詩「蕉心伸びず時雨待つや」

     家中の留守をひびかせ蝉の声      恭子
     かまつかのかまつかたれば飛び立てよ
     窓あけてある淋しさダリアの家
     残菊やはげしきものを腸に
     薔薇色の柱のへりに死がきてる
  
                     チカラシバ↑

高篤三「浅草は風の中なる十三夜」・・・



今朝、東京は台風18号の風雨に見舞われていたが、昼過ぎには台風一過の青空となった。
高篤三(こう・とくぞう)の句のように、文字通り野分のおもかげの風が吹き、十三夜・後の月がいっそう明るかった。
高篤三については細井啓司の貴重な仕事である『高篤三句集』『高篤三詩文集』(現代俳句協会刊)によって知ることができる。しかし、実はそれ以外に手立てはさしてない。高篤三(本名・篤雄)は明治34年6月2日、東京市浅草区象潟町二番地に生まれた。亡くなったのは昭和20年3月10日(東京空襲の日)。
篤三は戦前の「句と評論」で頭角をあらわした作家。篤一、八巣篤の名で、三橋敏雄、中谷春嶺、渡辺白泉、細谷碧葉(源二)などと競い活躍したという。

    
      水の秋ローランサンの壁なる絵           篤一
      南風は鏡の中に魚となる
      六月の海の碧さにクレー射つ
      算盤の古き重たき秋の風               篤三
      浅草は風の中なる十三夜
      
そういえば、今日はE・A・ポーの亡くなった日でもある。享年40.後にボルチモア市民有志によって墓地を作りなおし改葬さという。また、ポーには10代の妻がいたが、短命で、彼女の墓が土地開発でつぶされたときに、ポーの熱烈なファンだった人物によって、彼女の骨は箱詰めにされたままベッドの下に置いて保管され、ポーの墓の改葬後十年、1885年に彼女の骨もポーの墓地に一緒に葬られることになったと伝えられている。


                                           ムラサキシキブ↑

2014年10月5日日曜日

山根真矢「蟷螂は斧上げてより考ふる」・・・



山根真矢句集『折紙』(角川学芸出版)、句集名は、

    折紙となる前は紙春疾風

からのものだろう。ここで脱線して言うのだが、最近の句集作りはどうもこうして画一的なのだろうと思う。帯の表はだいたいその句集序文からの抜粋(いわば推薦文のようなもの)で、裏はだいたいが自選句が10句ほど並べてある。
たしかに、これでその句集のほぼいい部分の全容が知れるのだから、有難い話には違いない。
しかし、反面それだけで、句集本体を読む必要がなくなってくる、という感想を愚生は抱いてしまう。
これに巻末の著者略歴をみれば、作者に対する謎はほぼ失われてしまうのである。文芸には謎も魅力のひとつだろう。まして作者の等身大の作品がそこに浮かび上ってくると、魅力もまたそこで多くは半減する。
以上のようなことは、むろん山根真矢にとっては関係ないことだから、近年の多くの句集に対する小生の愚痴と思っていいただいていい。
話題を転じて句集『折紙』についていうならば、「蟷螂は斧上げてより考ふる」を一に推したいところだ。斧を振り上げるのが勇ましいというのではない。わざわざ斧振り上げた後に考えるということを、何らかの比喩として読むこともない。いささかのかなしみがそこにある、と思うのみである。枯蟷螂ということもその先には待っているようにさえ思われる。またさらに、句の新味もある。蟷螂が考えるというなしぐさにはたしかに思い当たるものがありそうだが、それでも、句にこう詠まれたことはこれまでになさそうですから・・・。
ともあれ、愚生の好みのいくつかの句を以下に挙げておこう。

   緑陰や声よき鳥は籠の鳥
   名月や水無き川の砂流れ 
   瀬戸内は人容るる海波郷の忌
   水の秋櫂もて岸を押してより
   シュークリーム春の空気も入れにけり
   門の内あれば外あり秋の暮
   福島も桜紅葉のころならむ


                   オナモミ↑      

2014年10月2日木曜日

宇多喜代子「夏帽子日ごとに重き真旅かな」・・・



『宇多喜代子俳句集成』(角川学芸出版)に収められた第7句集と称する実質未刊句集「円心」を紐解くと次ような句に目がとまる。

     短夜の赤子よもつともつと泣け       喜代子
         長崎
     臥してみてまことに青き芒原
     長崎に夜も崩れぬ夏の雲
     隣席はまたも亡き人初桜
     終戦といえば美し敗戦日
     手鞠唄戦のことも唄いこむ
     海へ行くのか天に行くのか流し雛
     いつの世の棄民か棄牛か班雪
     恐ろしきもの三月の宙より来
     並び出て毒かもしれぬ蕨の芽

とりわけ、「長崎」や「終戦」あるいは「いつの世の棄民」には、宇多喜代子はやはり新興俳句の系譜につながる最後の俳人の一人に違いないと思わされるのだった。それは、かつて坪内稔典が宇多喜代子の第一句集『りらの木』が俳壇ではほとんど評価をされなかったことに異を唱えて、弁護をしていたことと重なっている。そのとき坪内稔典は、次のように書いたのだった。

   透明な空虚、それが多分、宇多の美意識の核である。この場合、美意識は、宇多の生そのものと同義だが、要するに彼女は、その核心に透明な空虚をかかえこんでいる。さきにあげた一連の句が、きよらかな哀しみともでもいうべき情感を帯びているのはそのためだ。この点において、宇多の俳句は独自であり、森澄雄らの世界と遜色はない。
                 (初出は「草苑」昭和58年1月号・『世紀末の地球儀』海風社・所収)

そして、宇多喜代子の句法について、高屋窓秋や富沢赤黄男、高柳重信などの句法を踏まえた新興俳句の系譜にうちに自らを置いたものだと指摘していたのだ。

ともあれ、坪内稔典らととも愚生は「現代俳句」に関わり、姉貴分として、常に前を歩いてきた宇多喜代子が、今年第14回現代俳句大賞を受賞したのは実にうれしかった。70歳代の締めくくりの俳句集成といい、これまた「今後の精進の礎」と期すとの宇多喜代子の心映えに敬意を隠しえない。
そういえば、何時頃のことか、もう明確には覚えていないが、何かの会で、関西に出向いたおり、宿もすでになくなり、仁平勝と一緒に宇多喜代子の家に泊めてもらったことがある。夜食にお茶漬け、朝の味噌汁を実に美味しくいただいたことを懐かしく、いま思い出している。

*閑話休題・・・ 集成の宇多喜代子年譜の中で、平成6年のところで弘文堂より『イメージの女流俳句』刊とあるのは、正しくは弘栄堂書店である。この本も愚生にとっては宇多喜代子との有難い想い出のひとつだ。

最後になるが、未刊句集「円心」から今少し、句を引いておきたい。

     元日と一月一日とは不同
     満身に春風一生はかくも長し
        三月十一日以降 原発を円心として
     肉を出て肉声となる声涼し
     帰らざるあまたあまたや鳰の巣も
     夏帽子日ごとに重き真旅かな
     いま飲んだ水を涙に夏夕べ
     八十になればなつたで汗しとど
     腰据えて足袋履くときの左傾右傾
     花見茣蓙だれも坐らぬまま湿る
     今日生まれ明日死ぬ牛の呱呱の声
    



                       リュウキュウスズメウリ↑


大峯あきら「短夜の雨音にとり巻かれたる」・・・



大峯あきら句集『短夜』(角川学芸出版)所収。
たしかにそう思う。清澄のしじまのなかにいる気分、どの句でもいい。そのような句が沁みてくる。
他力の信心とは、およそ縁がうすく、通俗煩悩の魔に悩まされている愚生にとっては、いかばかり近づきたい境地であろうか(およそ無理のようですが・・・)。
「あとがき」に「自我のはからいを捨てて、無限者のはからいにまかせた人生は、もはや日の暮れに向かって過ぎ去る人生ではなく、広大な生命世界の開けを告げる暁なのだ、という真理に気づかされるからです」ともある。愚生はただ、諦めきれぬとあきらめているだけで、嘆いているだけなのかも知れません。
大峯あきら・1929年生まれ、85歳。しばらくは、流れ去らない句のあじわいに浸ってみたい。

          東日本大震災
    はかりなき事もたらしぬ春の海           あきら
    みちのくや上りつめたる後の月
    心持ち夕べが早し花茗荷
    初日出てすこし止りて上るなり
          浜名湖
    みづうみに入り来るうしほ雲の峰
    草枯れて地球あまねく日があたり
    よき壺にたまる埃や神無月
    朴落葉はじまる山の日和かな
    元日の山を見てゐる机かな
    春の雪眺めてをれば積りけり
    静かなる盤石に夏来たりけり
    

                  
                   ヤブミョウガの実?↑

2014年10月1日水曜日

鴇田智哉「あかるみに鳥の貌ある咳のあと」・・・



鴇田智也『凧と円柱』(ふらんす堂)。
「この句集はいわば、心の編年体による」(あとがき)とは、難しい物言いだ。
心に歴史のような確とした編年があるとも思えないが、鴇田智哉ふうな言いぶりと思えば、それはそれでそうした風貌を感じさせる好ましさがあろう。
咳の句を挙げよう。

      あかるみに鳥の貌ある咳のあと     智哉
      咳をするたびに金具のひかる家
      木の皮が貼りつき咳をしなくなる
      

鳥と貌なら「水鳥をみる飲食(おんじき)のあとの貌」皆川盤水、「百舌鳥に顏切られて今日が始まるか」西東三鬼などを思い起こしてみてもよいが、いずれも自らの貌のことである。さすれば、「あかるみに鳥の貌」としたのが新味であろうか。しかし、そんな理屈はじつはどうでもいいことなのだ、と思わせる句集でもある。そしてまた、難しい物言いだ、と冒頭に記したようにじつにわかりにくさの伴う句群でもある。
このことは、愚生の感受の衰えにひたすら起因していることだろうから、作者は気にすることはない。
少し気にかかったのは歴史的仮名遣いよりも現代仮名遣いに変記したとすれば、句の姿はもう一段生き生きした姿を現したかも知れない(大きなお世話といわれそうだが・・・)と勝手に思う。
ともあれ、いくつか、愚生の心にとまった好みの句を挙げておきたい。

     さざめきのさなかに針をしまふ春
     つはぶきは夜に考へられている
     塊として菜の花にうづくまる
     ウミネコはガードレールを見たとのみ
     円柱の蟬のきこえる側にゐる
    
そうそう、「あかるみに鳥の貌」の「あかるみ」は「空風のあかるみに木のまぎれたる」の「あかるみ」だとすれば、よくわかる気がする。

*閑話休題・・・(今年の田中裕明賞はこれでキマリかな???、果たして行方は・・いかに)


                    エンゼルトランペット↑