2020年2月29日土曜日

仲寒蟬「始祖鳥の気概受けつぎつばくらめ」(「牧」春号〈創刊号〉より)・・・



 「牧」春号〈創刊号〉(牧の会)、櫂未知子「牧開ー創刊に寄せてー」のなかに、

 (前略)その寒蟬さんを中心として「牧」が創刊されるという。「ああ、大牧先生の、『牧』なのだな、いい名を選ばれたな」と思った。

 とある。また、創刊特別インタビュー「仲寒蟬が語る”俳句¨その魅惑の世界」のなかの後半に、以下のくだりがある。

 —「牧の会」での寒蟬さんの立ち位置は?
 仲 私は主宰ではないし、結社のようなヒエラルヒーのトップではありません。フラットな、先生とか師匠とか、上下関係のないのが「牧の会」の特徴です。先生と呼ばれるのは病院の中だけで充分です。私は代表という名の「牧の会」の窓口だと思っています。

 たぶん、このような体制と運営を実現するべく奥付には、仲寒蟬の名は無く、発行人・大部哲也、発行所・「牧の会」木村晋介、編集人・池田和人と、なってあるのだろう。その「牧の会」会長・木村晋介の「発刊の言葉」には、「」は、大牧広の「人と社会を透察した俳句心を大切にし」「ささやかでも俳句界に新しい息吹を送り込みたいという志から」、「牧」を発刊し、

 仲寒蟬氏を俳句の指導者として集まった仲間であり、「牧」の代表には同氏が、また副代表には小泉瀬衣子氏が就いています。

 とあった。小泉瀬衣子は大牧広の実娘である。ともあれ、創刊号より、以下に一人一句を挙げておきたい。

   人ころすものとは見えず冬の水      仲 寒蟬
   毛糸編む禁欲的な膝頭         小泉瀬衣子 
   何もせぬと言ひつつ婆は冬構       朝倉由美
   満ち潮に不意をつかれし春の海      阿部れい
   歓びは大地の讃歌牧開く         池田和人
   檗や海見ゆるまでまつすぐに       石井府子
   玉子かけ用玉子や寒明くる        猪子洋二
   福祉課の窓口に蝶きてをりし      大江まり江
   そのうちに飯でもといふ猫じやらし    大部哲也
   誇らしくもありし傘寿や梅二月      鎌田保子 
   冬暖か帆船は帆を干してゐる       菊池修市
   通勤快速すべり込むとき初燕       木村晋介 
   二人居の二個の貴さ蕗の薹        熊谷由江
   みちのくの哭きながら咲くさくらかな   玄葉志穂
   この冬木あばらの骨とたがはざり    髙坂小太郎
   宿坊の風呂吹き甘し善光寺       小林美恵子
   神童のやうな眼差し春の馬        庄司紅子
   行く年や積荷の重しまつりごと      鈴木靖彦
   避難所の大釜で炊く嫁菜飯        関根道豊
   月冴ゆる波の上に波光りたる       髙橋秋湖
   あたたかし温氏の握手忘れずや      對崎芙美
   マニキュア乾くいとまや春の虹      能城 檀
   量子コン発想変はる宝船        野舘真佐志 
   歳の差を考へてゐる春炬燵       長谷川洋児
   凧糸の風の重さを子にわたす       早川信之
   力みなき墨痕を背の年新た        日立 早
   しばらくはこの世にすまうなめこ汁   深江久美子
   フラワーショップに花は片仮名彼岸西風  福田洽子 
   星一つ二つ流れて師走かな        藤 房子
   囀は明日の空にとつておく        堀渕螢庵
   不意に来る平和にあらず桜どき      本田康子
   寒梅や耳鳴り耳で聴いてをり      前田千恵子
   焚火了へ己の闇に帰りゆく        溝川史朗
   葱買うてどう生かさうかバスの中     安田直子
   家系図に見知らぬ名前鳥交じる      山田まり
   学童の爪つやつやとセロリの香     若林ふさ子 
    
 

               撮影・鈴木純一「春の水低きへつかへつっかへて」↑

2020年2月27日木曜日

來空「見事(みごと) 港(みなと) 波波(なみ)とゴミ」(「鬣」第74号)・・



 「鬣 TATEGAMI」第74号(鬣の会)は、第18回鬣TATEGAMI俳句賞の発表である。三冊が授賞になっている。「藤原月彦氏『藤原月彦全句集』(六花書林)に対して、寺田京子全句集編集委員会(筆頭者・小檜山繁子)『寺田京子全句集』(現代俳句協会)編集に対して、川本皓嗣『俳諧の詩学』(岩波書店)に対して」とある。
 愚生は、林桂の追悼文のふたつ「暮尾淳ー含羞の人」、「短詩人・来空氏を悼む」に目が留まった。とりわけ「短詩人・来空氏を悼む」については感銘が深かった。その中に、

  時折、手書きの原稿コピーを戴いていたが、その最後の原稿を次に紹介して、追悼に代えたいと思う。『河東碧梧桐全集』の編集者ではなく、作家としての來空の姿が偲ばれる。氏には、向陽的でポジティブな作家という印象がある。「来空このところ文章なかなか手つかず、実は5・5㎝の脳動脈瘤が残ったままのためか、考えようとすると頭痛がしたりが多くなりました」と添え書きがあるものである。タイトルは「興す古(いにしえ)の巣(コトバ)」である。適宜、行間を摘めて表記していることを付記する。
   *
 私、來空。日本のポエムを書く時、
「ウレシイ。オモシロイママデ投げ出してヨイノダ。」
あたりが、今も私を囲んでもたらすヨロコビ。
ポエムを書いて二十年経過した一女性、最近、
 こすのこすこのすこ          ひづる
作品を送ってきた。逆さまに読んでも出てくるコトバ回文は日本、大昔からある。
 私、小学生時代、アメリカの原爆投下、悪夢を叫んだ。
  ヒロシマの真白火(ましろび)     昌行
 この回文、実は後日、マンガ映画の展覧会で採用、有名。町中、回文も日常化していた。(後略) 

 とあった。來空(鈴木昌行)は、この文中によると、晩年は八王子市の桜の里「椿」に起居していたらしい。かつて愚生が小金井市に住んでいた頃、前原町の都営住宅に住んでおられて、会いたいと申し出があって、武蔵小金井駅南口に、今でもあるフロンティアという喫茶店で二度ばかり会ったことがある。その後も何度か、便りをいただいたが、いつのころからか、音信が途絶えていた。たぶん、愚生が十分に、真摯に彼の話を聞かなかったからであろう。正直に言うと、『河東碧梧桐全集』の刊行を独力でされていたことに敬意を払ってはいたのだが、その、彼の作品についていけなかったためであろう。確かに碧梧桐が俳句を短詩としたことから短詩人に拘っていたのでろうが、元来がいい加減な愚生は、呼称などはどうでもいいではないか、そして、それを、とにかく面白がるという純な魂を愚生は持ち合わせていなっかったのだ。とはいえ、現代において、特異な詩人を失ったことは確かなことである。だれも、その追悼文をしたためなかった、その意味で林桂の追悼文は貴重である。 
 ともあれ、同号より、一人一句を挙げておきたい。

  均等に磨きどの鏡に入らう        𠮷野わとすん
  ここはむかしのうなそこ松の雨        堀込 学
  遺失物翼一対大花野             青木澄江
  初しぐれ像とネズミの時間論         丸山 巧
  進水や錻力(ブリキ)の船に旗を立て     西平信義
  
  弔(とむら)ひの
  煙(けむり)
  (うみ)
  (た)ち籠(こ)める           中里夏彦

  透明の
  羽毛一片

  野末にふる                 深代 響 

  蜩や今日が明るく終わります        永井貴美子
  福達磨値切った分だけご祝儀に        堀越胡流
  この頃のデコラティブなる月の空       九里順子
  大爆笑蒲公英諸君総入歯           梧桐貴子
  人型に切り抜く夜のレモン        西躰かずよし
  蟻蟻と遠い石段登る             永井一時
  空に混ざらぬことを選んで黄落す       佐藤清美
  うすらひに雲ひとひらを睡らせり      水野真由美
  サアカスは去りアワダチソウばかりなり    佐藤裕子
  白鳥のように眠気わたしたち         大橋弘典
  寒くって一面ダイヤモンド輝き     伊藤シンノスケ
  みいらまたぱりぱりしていく夕べ  
              旭日旗        林 稜
  風信子根の国の根の白きこと          蕁 麻
  火加減と塩梅や冬暮れる           樽見 博
  
  詩さえ
  野蛮ぞ
   
  啼く蛙(かわず)              上田 玄 

  (きやう)に経(ふ)
  今日(けふ)
  狂相(きやうさう)の
  夾竹桃(きやうちくたう)           林 桂

  明日から柚子咲くことになる世界       外山一機 
  


撮影・鈴木純一「カタクリの音は未だし城の址」↑

2020年2月26日水曜日

中内亮玄「月は差延どこまで俺から消そうか」(「俳諧旅団 月鳴」創刊号)・・



 「俳諧旅団 月鳴」創刊号(狐尽出版)、献辞がある。

  もし主体に依存して写生するのは
  むしろ寄る辺ない現象にすぎぬ私自身を
  徹底して懐疑する故である

  日常に旅し
  五七五の器に言葉を注ぎ
  鮮やかな映像を浮かび上がらせ
  あなたと
  このささやかな世界を
  わずかな時間を
  共有できたらいい

  よりよく、生きよう

                 俳諧旅団長 月鳴会主宰 中内亮玄

  多くの人たちの祝辞に送られての船出である。

  
   師を思うひとつに厚きてのひら忌      中内亮玄
    てのひら忌(てのひらき)・・作者が、師である金子兜太を偲んだ言葉

 ともあれ、「俳諧旅団長級俳人」と称された方々の一人一句を以下に挙げておこう。

  神の息花野明りをふと消しぬ         猪狩鳳保
  誕生日を明日に七夕竹ざわざわざわ      植田郁一
  何よりも御身大切更衣           塩谷美津子
  移民法可決鮟鱇鍋沸騰           ナカムラ薫
  コート脱ぐそのまま涅槃までの距離      林 和清



★閑話休題・・須藤徹「めめんともり逆白波が陽を掠め」(「こだま」令和2年1月号より)・・・

松林尚志「山茶庵消息」の「『須藤徹全句集』に触れて」に以下のようにあった。

  (前略)なお古いことになってしまったが、須藤氏と私の出会いに触れておきたい。平成九年、現代俳句協会が創立五十周年を迎え、記念特大号が出ている。編集長橋爪鶴麿氏の案でこの号のために「二十一世紀の俳句を考える」の座談会がもたれた。この座談会は私の司会で、安西篤氏、須藤徹氏、大井恒行氏の四人で行われた。須藤氏に期待するところが大きかったのである。

  春雷にランボー読む手ふるへけり   『宙の家』
  聖ジュネの遠き断崖つちふれる    『幻奏録』
  天の川シュペルヴィエルの唇は鳥   『荒野抄』
  めめんともり逆白波が陽を掠め 「ぶるうまりん」 

 愚生は、すっかり忘れていたのだが、あれは現俳協50周年記念号であったのか・・・(20年以上前のことだ)。ともあれ、「こだま俳句集」から以下に一人一句を挙げておこう。

  寒満月無言貫き中天に         松林尚志
  埋み火に突っ伏せし刃は五十越せず   勝原士郎
  初釜や手前茶を点て渇を癒す      小島俊明
  孫帰りカルタ一枚コタツ中       石井廣志
  湯に浮きし柚子われに触れ恥らひし   阿部晶子
  飛ぶやうに駆け抜けるニュース竜の玉 山田ひかる 
  侘び助やひととき茶腹間借り生     奥村尚美
  
   

2020年2月25日火曜日

山田耕司「少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ」(「円錐」第84号より)・・



 「円錐」第84号、なかに「一九六七年生まれによる俳句思潮史/『それでも』と彼は言った」という今泉康弘と山田耕司の連載の往復書簡がある。まず、「♯07 今泉康弘→山田耕司」の中に、

 (前略)日本では一九八〇年代くらいまで、「パンツ」といえば下着のことのみだったような気がします。(中略)今後、年月が経つにつれ、「パンツ」に下着の意味のあることを知らない人々が増える可能性があります。そうなると、俳句、というより文字の読解にも問題が起こります。

  少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ    耕司

 この少年兵の行為について、ズボンを脱ぐことだと思う人が出てくるわけです。ぼくが拙著『人それを俳句と呼ぶ』で「街」や「煙突」を考察したのも、白泉や耕衣について考察しているのも、この問題を考えたいということがあるのです。

 と、便りされている。また、その返信の「♯08 山田耕司→今泉康弘」のなかには、山田耕司が、桐生市のエフエム局で開局以来、今年一月で第651回を迎え13年目の、これは毎週一回一時間、山田耕司が選んだ音楽とトークで構成されている番組があるという。題して「やまだ学塾・今夜は耕司中!」。FM桐生では毎週土曜日の午後6時から一時間、スマートフォンでもアプリをダウンロードして聴けるという。その中に、「うた街先生」があって、「うたの中では知っているが、行ったことがない音の旅」というコーナーがあり、例えば、歌のなかの地名「函館」に行ったことはないけれど、誰もがあるイメージを抱く。こうした誰もが抱くであろうイメージが宿っていて、共有感がある。それらを、

 (前略)多くの人々の無意識の領域にくいこんでいるようなイメージの庭。これをうまくいいあらわす表現があるとしたら、どのように呼称すればいいのでしょうか。
 さて、それを仮に〈妄想知〉としておきましょうか。

 と述べ、結びに、

 今後、読者が「パンツ脱ぐ」というところを「ズボン脱ぐ」と解釈する時代だくるかもしれませんね。それでも、、男しかいない職場で、追い詰められて、下着である下着の方の「パンツ」を脱ぐ方が《面白い》と想像力を広げる読者が現れることを私は信じます。むしろ現実が変化することで、妄想知による読解が、読者の間になんらかの〈共有感〉を濃くしていくかもしれません。そもそも、この句自体が、現実に即しているわけでもなく、妄想を拠り所とすることこそ喜びとしている作品なのですから。

 と述べている。ほかに「円錐」本号の特集は「後藤秀治句集『国東から』」であるが、ともかく、以下に一人一句を挙げておこう。

  秋潮の潮目湾曲しつつ消ゆ        後藤秀治
  断頭台(ギロチン)の捨てられてあり花畑 今泉康弘
  人影も日も去り雪の跨線橋        澤 好摩
  煮凝りを盛るや小皿の青海波      和久井幹雄
  またの名は鬼の醜草しほに咲く      大和まな
  同じ椀並べ置きたる寒さかな       江川一枝
  我が影のてっぺんに咲く曼珠沙華    田中位和子
  マフラー結ぶ天井桟敷僕の場所      栗林 浩
  自動ドア自動拍手や寒波急        立木 司
  人体の筋もさまざま水引草        小倉 紫
  近衛兵の肩に鳩ゐる初時雨       荒井みづえ
  脚置いてゆくな老いたるかまどうま   橋本七尾子
  来た道を戻ると別の雪景色        小林幹彦  
  船歌を青嶺にあげて最上川        丸喜久枝
  孫と指す軍人将棋去年今年       三輪たけし
  落し水亡き友に泣く友と居り      山﨑浩一郎
  逆縁も無縁も負うて二度童子       横山康夫
  火葬場を出て烏瓜仰ぎたる        味元昭次
  おでん酒少し零して注がれぬ      原田もと子
  かしわ手に泳げるものは泳ぎくる     山田耕司
  
  

撮影・鈴木純一「ものの芽 青空に寸止め」↑

2020年2月24日月曜日

皆川燈「起きよはや垂氷したたりはじめたり」(『朱欒ともして』)・・・



 皆川燈第二句集『朱欒ともして』(七月堂)、本集の集名に因む句は、

   朱欒ともしてケンムンと二人っきり    燈

著者「あとがき」には、

 (前略)本句集のタイトルは第二章に収めた二十句の中の一句から採った。この二十句は二〇一七年十一月に、夫や友人たちと加計呂麻島を訪ねたときの旅が下敷きになっている。加計呂麻島は周知のようにトシオとミホが出会った場所である。私が二十代のはじめに「対幻想」という言葉を知ったとき、同時に私に迫ってきたのが島尾敏雄の作品群だった。あの日、夕闇迫る呑之浦に分け入って自分の原点に立ち返る思いがした。
 本句集の表紙絵を飾る絵は、その旅へと誘ってくれた加計呂麻島出身の友人のお嬢さん、司香菜さんの作品である。

 と記されている。また、

 各章の最期に「DOU みそひともじをみちづれに」と題して短歌風三十一文字と俳句のデュエットを収めた。拙い試みではあるが、古い詩型が五分と五分で響き合うことを夢想した。

 とある。 まずその「DUO・・・」の中から、

  『パルチザン伝説』を夜ごと読む日々よ汝の柩の窓を思いて
  アンデスのリャマの毛糸は炎いろ

  のえらいてういちこやすこやきびきびと織り機は午後のシャトル飛ばしぬ
  冬深し絹の着物という伝言

  蛸壺からの連帯という葉書くる蛸壺ゆらし潮を思えり
  新聞紙にくるまれぬくき寒玉子

  ひたひたと寄せる近江の真水あり浮御堂まで歩いて候
  さみだれのにおい『緑色研究』は

  わらわらと母親たちが緑陰を抜け出て歩行巫女となりゆく
  縄文の甕にまきつく秋思かな

  毬投げあったりして幸せな日々でした市ヶ谷本村町は新緑
  花盛りの森よ日当るバルコンよ

 いずれ、これらの詞書のようでもあり、そうでもないようである三十一文字は、皆川燈が閲してきた時代を負っていよう。いわば句よりも、沈潜することなく、それらをくきやかに伝えていると思われる。
 ともあれ、以下には、愚生好みに偏するが、句をいくつか挙げて置きたい。

  アキアカネの大洪水を抜けられぬ
  天も地もいのちみなぎる辺土(ほとりのくに)
  訣れがたきこの世と言えり青蜜柑
  磔刑の手足やわらぐアキアカネ
  一位の実落としたちまち飛び去りぬ
  火を焚けばここら解放区(カルチェラタン)なる
  臈たけて千年のちも苦蓬
  あやめの辻でこころが曲がる振り返る
  老い方が足りぬしろばなさるすべり
  
 皆川燈(みながわ・あかり) 1951年秋田県生まれ。


撮影・鈴木純一 「真言の中をすすめて沈丁花」 ↑

2020年2月23日日曜日

石川耕治「咲き残る椿に重し春の雪」(第200回「遊句会」)・・



 先日の2月20日(木)は第200回「遊句会」(於:たい乃家)。愚生は家中、色々あって、平日の夕刻から夜にかけての外出がなかなか難しくなって、失礼することになった。2020年2月20日、200回の2並びの句会になった今回は、是非とも参加したかったのだが、やむを得ない仕儀となった。で、いつものことながら、すばやく句会報にして送って下さっている山田浩明の添え文を一部、無断借用させていただいて、以下に引用したい。
 
皆様、ご機嫌いかがですか?
記念すべき第200回遊句会の句報をお送りいたします。でも、記念すべき今回の出席者は、11名。寂しかった。
特に会長が欠席したので、もう一つ盛り上がりがね~ぇ。
とはいえ、欠席投句者が6名も居たおかげで、句数トータルでは51と、まずまず。
もっとも欠席投句18句に対して20(10名×ベスト2)しか配分できず、不公平感は残るでしょうが、ま、お許しください。(急遽、ベスト3にも出来なかったものですから…)
そんな中で欠席者でのダントツは原島さん。2句合計で10票。ベスト3だったらどこまで行ったんだろう!
そして出席者トップは、石川さん。6票の最高点句だけでなく
3句合計11票集めた大ヒット。「もう止めようかナ」は、もう無いね。

ともあれ、以下に一人一句をあげておきたい。ちなみに兼題は「入学試験」「余寒」「春雪」。

 春雪や夜間飛行の離陸待つ         中山よし子
 行き暮れて終着駅の余寒かな         渡辺 保
 無気味とは廊下の奥の余寒かな        村上直樹
 大緋鯉ひねもす動かぬ余寒かな        川島紘一
 忘れたきコトあまた有り『一、入試』     山田浩明
 春の雪軍靴きしませ二二六          天畠良光
 お守りの数が頼りの入試かな         前田勝己
 入試日の夢に目覚める翁かな         武藤 幹
 星一つ流るる宙や余寒あり         山口美々子  
 金星の孤(こ)にして妖(あや)し余寒あり  石川耕治
 メルカリにセーター出して春の雪      植松隆一郎

☆番外欠席投句・・・

 隣りから気配の消えて余寒かな       原島なほみ
 「同伴」の抜き衿の粋余寒かな        林 桂子
 石ひとつ転がしてゆく余寒かな        加藤智也
 入試本番の机の端の消しゴム        春風亭昇吉
 十八の入試前夜の男ぶり           大井恒行

 
次回(201回)は、3月19日(木)、兼題は「子猫・草の芽・桜餅」。 



★閑話休題・・・福田若之「波があるというほどはなく冷たそうに揺れる」(「オルガン」20号)・・・


 本号の「オルガン」は作品のみのシンプルさ、扉裏の写真によると、多くが吟行句らしい。ともあれ、一人3句あたりを以下にあげておきたい。

  人が来て駅をみがいている師走     田島健一
  あの先にまだ時代あり冬の薔薇
  命日もあまぐり売りや初氷
  輪郭を日向の塵としてゑがく      鴇田智哉
  マフラーを巻くその上の空とかほ
  ゐたひとをしるべに橋を写し取る
  咳はおばあさんがしたのか髪が青い   福田若之
  若く痩せたシェフの写真風鳴る冬
  わからない着ぶくれてあなたは怒鳴る
  稲城長沼観覧車の向こうも冬     宮本佳世乃 
  カラフルなマスク乗り込む向河原
  鶴見線やがてLIFEが見えてくる



2020年2月20日木曜日

米岡隆文「スウィングの雪崩の音の遥かより」(「杭」第78号)・・・



  「杭」第78号(杭俳句会)、前田霧人の健筆ぶりがうかがえる。「歳時記雑話」に「俳人の一句」さらに「編集後記」。「歳時記雑話」は「(2)月はどっちに出ている」。なかの「(3)ねぶりのひま」のなかに、

(前略)即ち、現行の歳時記は現代俳句協会編『現代俳句歳時記』の「序にかえて」にいう「かつての太陽太陰暦との妥協の産物」などではない正真正銘の太陽暦に基づく歳時記である。
『改暦弁』の誤謬を看破し現行の歳時記に道筋を付けたのは明治七年(一八七四)刊(五月、為山序)の俳諧撰集、四睡庵壺公(しすいあんここう)編『ねぶりのひま』である。

 という。そして、その根幹部分を引用したのち、

 『ねぶりのひま』は、新暦をつぶさに読み解くことにより、旧暦の二十四節気はそのまま太陽暦の新暦に用いることが出来ることを十分に理解すると共に、「暦は公布也、前二書は家言也。」として、『改暦弁』は暦学的(天文学的)根拠のない、誤謬の恐れのある私見であることを見事に看破している。
 また、「すでに二月の始に立春の節あり。」として、旧暦歳時記と同じく立春などによる季節区分が可能であり、月次割の区分も一ヶ月ずらせばよいことを示唆し、加えて「二月を初春とすれば一月は冬なり。されども年のはじめなれば、その言葉なくて叶わず。」として、「大かた是まで歳旦に用い来る」題を「新年の題」として別掲し、旧暦歳時記から新暦歳時記へのスムーズな移行手順を明示する。
 『ねぶりひま』すぐあと、明治七年八月に最初の太陽暦歳時記が刊行されるが、春夏秋冬、新年の部立てを完全な形で最初に用いた新暦歳時記が誕生するのは、それから三五年後、明治四二年(一九〇九)のことである。


との述べている。ともあれ、一人一句を以下に挙げておこう。

  頭上の花火雄のゴリラがドラミング  稲垣濤吾
  九谷焼の小皿に載せて秋満開     江川昌子
  育ち行く孫の自慢や秋深し      大橋総子
  あるがまま生きて悔いなし冬の虹   岡島 衛
  俳諧の戯義の世界や薄紅葉      髙橋宇雀
  朝寒しメリーゴーランドの馬震へ  田中さかえ
  マチネーの無伴奏バッハ秋暑し   田村さとこ
  猫の目の以心伝心春の月       辻本冷湖
  ともに棲む修羅も仏も年用意     鶴羽葉子
  嬰の名を歌音と名付け八月尽    中里日日起
  わが日本戦に負けて国栄える     中村貫治
  秋の夜半哲学的に時事悶々      中室久朝
  雪割れて乾ききつたる冬の空     花城功子
  入相の鐘に急かるる法師蝉      平井 翔
  でじたるな夜のあなろぐなしぐれかな 前田霧人
  魂は宇宙に逝きし秋天に      三木冨士子
  有明の磯の香りとのり筏      山下都代美
  天地創造向日葵がお手伝い      米岡隆文
  一病と吾 秋の楕円の中心に     綿原芳美


2020年2月19日水曜日

好井由江「桐咲いて鳥いて小宅容義忌」(『風見鶏』)・・



 好井由江第四句集『風見鶏』(ウエップ)、平成25年から令和元年10月までの作品333句を収める。著者「あとがき」に、

 題名の「風見鶏」は、洋館の屋根などにとりつけられた鶏を摸ったもので、どんな風にも応えて回る姿はどこか憧れ的なものがあり、これまでにいくつかの句に詠んできました。また、俳句を作る上であらゆる対象に順応できる風見鶏のようにありたいとも思いもあります。

 と記されている。集名に因む句は、

  啓蟄の日なり晴れなり風見鶏    由江

 である。ブログタイトルに挙げた「桐咲いて鳥いて小宅容義忌」、小宅容義(やすよし)の忌日は5月27日。2014年に亡くっているから、もう5年が経つ。新宿歌舞伎町の飯屋「ひょっとこ」を経営し、愚生はそこで波田野爽波に初めてあった。愚生が小宅容義に出会う前、版元が深夜叢書社というだけで、彼の句集『火男』を買った思い出がある。当時の愚生ら、若い俳人の面倒はよく見られていた。お陰で、同人誌「雷魚」にも二度ほど執筆させていただいた。ともあれ、本集より、愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておこう。

  稲妻と機嫌の悪い蛇口かな
  蝶々のどこつまんでもされるまま
  重そうに鶯餅をつまみたる
  かくし絵の真っ白な馬五月くる
  列の中に犬いる三島由紀夫の忌
  草笛は鳴らず草笛吹いている
  赤まんまなりに雨粒とどめたり
  きのうよりひしゃげて霜のサッカーボール
  鶏頭を倒せばけむり立てて冬
  太陽は片手で隠れ薔薇の昼

 好井由江(よしい・よしえ)1936年、栃木県生まれ。




★閑話休題・・・米山光郎「湯豆腐や俳句は一字にてくづれ」(『どんどの火』)・・・


 ウエップつながりで、米山光郎第四句集『どんどの火』(ウエップ)、集名に因む句は、

  母が名を甲州紙にどんどの火     光郎 

著者「あとがき」の中に、
  
 百歳を過ぎた母が、甲州紙に自分の名前を書いて燃やしたことがある。母がどんな気持ちで燃やしたのかは知らないが、どんどのぬくもりが私の心に残っていることはたしかである。母は今年百六歳。健康である。

  と記されている。 師の石原八束を詠んだ句も多い。

  桜散る中に八束の声を追ふ   
  八束亡し小日向坂に卯つ木咲く
    八束生誕の地
  秋咲きのたんぽぽ晴れの八束の地

ともあれ、集中いいくつかの句を挙げておこう。

  栗の風空井戸の闇のぼりくる
  べそかきのべそにしほからとんぼかな
  清貧のいのちありけりががんぼう
  仏壇に火蛾のきてゐる敗戦忌
    龍太逝く
  きさらぎの谷川に舞ふひかりあり
  くれぎはのひかりをひいてねこじやらし

米山光郎(よねやま・みつろう) 1938年、山梨県生まれ。
  

        

2020年2月18日火曜日

中田剛「大花火仕舞けばけばしくなりぬ」(「白茅」第20号・休刊号)・・・



 「白茅」第20号(白茅俳句会)、「編集後記」に坂内文應は、「小誌『白茅』は、この二十号をもってひと休みとなる」と記し、また、羽野里美は「『白茅』休刊ののちも、神奈川と新潟の句会は続けて」いくと記している。創刊から7年の歳月を閲している。「ひと休み」というからには、再刊を目指しておられるのだろう。
 本号には、「白茅アンケート」として、「❶いま一番関心のあること(世情から日常まで、何でも、感銘を受けた本、絵、音楽など)。❷俳句、専門分野に関して、いま最も感じている問題点や所感など。❸日頃のモットー(人生観、世界観、生活信条など何でも)。❹直近のお仕事、テーマ(終わったもの、これからの予定)。❺小誌『白茅』誌の印象。提言など」とあり、60数名の方々が答えている。愚生のような覗き見の趣味のある者にはけっこう面白いが、紙幅もあるので、ここでは安井浩司の回答を紹介しておきたい(こうしたアンケートに答えた例はごく少ないので)。

 安井浩司(結社に所属せず)
➀特に無し。②俳句形式の真の源泉とは何か。③たとえ〈迷走〉と思われようと、ただ〈歩む〉のみの思いを、詩の営為の根底に据えて―。④俳句形式における「絶対言語」とめぐり会う旅ーそれは今後共、不変と申しておこう。⑤坂内文應句集『天真』の根源の詩精神を継ぎ、「白茅」誌の再出発を祈る。

 あと一つは、青木亮人の連載「俳句と、周りの景色(20)/述志」、その結語を引いておきたい。

(前略)ところで、述志としての俳句はいつ頃まで存在したのだろう。大正生まれの髙柳重信や三橋敏雄、飯田龍太、森澄雄等の句群には述志の風貌がまだ残っていたかに感じられる。激しい志を底に湛えて俳諧に遊ぶ彼らは常に孤独で、しかも翳りを帯びた矜持があった。杜甫や保田のように、頑として変わらぬ俗世間に敗北しつつも、「永劫」の詩文学を信じ、俳諧を守り、支えようとした俳人たち。俳句を「御用文学」と取り違えた俳人群の称賛に包まれながら、戦後の経済繁栄のさ中に、孤独に耐えつつ、

  流れ弾や父の座に草生い茂り     敏雄

 最後に句作品の中から、一人一句を以下に挙げておこう。

  憶ふべし真葛の雨に消ゆるもの       坂内文應
  知らぬうち大勢死んで秋立てり       中田 剛
  法師蟬声の減りゆくきのふけふ      石川やす子
  大昼寝してゐる石もありにけり       神蛇 広
  バザールは虹のかけらを瓶に詰め      久保京子
  愛さるる人となりたし風五月       熊瀬川貴晶
  アメンボや流れて戻りまた流れ      小山宗太郎
  菊を餉に女人家族はまどかなり      清野ゆう子
  令和元年水無月晦日八十六歳(やそむとせ) 長谷部司
  蟬時雨あらたな声を加へては        服部由貴
  炎天や我を踏みゆくもの何ぞ        羽野里美
  高校に女流剣士や立葵           本間良子
  向日葵の頸動脈を断ちにけり        山鹿浩子

  

              撮影・鈴木純一 水ぬるむ ↑

小暮陶句郎「なにもかも手放してゐる大枯木」(『陶冶』)・・・



 小暮陶句郎第二句集『陶冶』(朔出版)、第一句集『陶然』からすでに16年以上が経過し、第二句集として纏められたのは、平成15年から23年、つまり、結社誌「ひろそ火」を創刊するまでの8年間の作、331句を収載している。ということは、近いうちに、今後もさらに句集刊行の予定があるということだろう。「あとがき」には、

(前略)そのように大きな変化のあった八年間。それは私にとって「陶冶」の時代でもあった。仲間と共に見つめた四季の移ろい。本当に密度の濃い時間のなかで詠み続けてきた俳句を、このようにまとめることが出来たのは望外の喜びである。もちろん、題材としてはライフワークの陶芸や実行委員長を務める夢二忌俳句大会のことなども多く反映されいる。

 と記されている。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておこう。

   唇の動けば歌留多飛んでをり     陶句郎
   指先も笑ひさうなる福笑い
   涅槃図の巻き残したる象の足
   蒼空にまだ負けてゐる花の山
   皮脱ぎて極彩色の竹となる
   あかがねとなりし太陽夕凪げる
   黴の香の陶土火の香の登り窯
   潮傷みしたる日の丸秋の航
   高原の風の尾掴む草紅葉
   啄木鳥の使ひ果たせる森の音
   もう踏まれ馴れたる落葉道の音
   
小暮陶句郎(こぐれ・とうくろう)昭和36年、群馬県渋川市伊香保生まれ。

 
夢二の港屋 ↑



★閑話休題・・・俳人「九条の会」新緑のつどいー2020年年4月26日(日)午後1時~於;北とぴあ・・・                      

   恒例の、俳人「九条の会」新緑のつどい では、安西篤講演「金子兜太という存在」と永田浩三「ヒロシマ・ナガサキを伝える~表現の不自由に抗って」が開催される。チラシをアップしておこう。興味のある方は、ご参加ください。




2020年2月17日月曜日

金田一剛「山も河も神より借りし木の根開く」(「第10回ことごと句会)・・



 一昨日、2月15日(土)は第10回「ことごと句会」だった。会場は、ルノアール新宿区役所通り、入口のドアには、例の新型コロナウイルスの感染防止のためにマスクを着用させています、という貼り紙がされていた。ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。雑詠3句、プラス席題の一句は「力」。

  青空が湧き出る木蓮の蛇口     江良純雄
  先駆ける 梅一輪の知力かな    武藤 幹
  地震以後海に傾く雪椿       渡邊樹音
  蟬氷なるべく力ぬいて生く     金田一剛
  路地裏を猫背の男寒卵       照井三余
  かたちないものもくずれるないの春 大井恒行




★閑話休題・・照井三余「合掌の隙間から又同じ冬」(「ことごと句」創刊第一号)・・

俳句同人誌「ことごと句」創刊第一号(ことごと句会事務局発行)、編集後記には、「夢座」が経年変化をし一旦解散したのち、令和元(2019)年五月にできた同人俳句会で、代表は、照井三余と渡邊樹音の共同代表、「ことごと句誌」編集長は、銀畑二改め、金田一剛が務めるとあった。とはいえ、「夢座」から、引き続いて、現俳句界きっての論客2名、齋藤愼爾と江里昭彦両名が健筆をふるっている。まずは齋藤愼爾「いま、俳句は/令和俳壇管見」の結語を引用したい。

  朝日俳壇は金子兜太亡き後、高山れおな氏が新選者となった。氏は〈麿、変?〉(まろ、へん?)という二文字俳句の作者だ。決定するまでの波瀾万丈が少しずつ漏れてくる。高山氏を推したとおぼしき朝日俳壇の記者は別の部署へ配属というミステリー。果たして高山氏の選は他の選者と同じ句を選ぶことがあるか。私はまたも、「いや、一ヶ月かそこらで共選するよ」と予言した。共選どころか、四人選者中、三人が共選という朝日俳壇始まってのことも数回(・・)。汀子さん?めでたく高山れおなと共選です!それも早や三回も!(・・・・・)さすがの私も絶句です。
 わたしは廃人を自称するのをやめて、予言者とします。(次回へ)

 そして、江里昭彦は、【昭彦の直球・曲球・危険球】51「兜太が覇者であった時代の俳句(其の一、其の二)で、

 ところで、群雄割拠の時代がつづき、それは常態化していた俳壇だが、ぽつりぽつりと戦後俳句の旗手たちが世を去り、気がついてみると、長寿の兜太一人天下になっていた。近現代史において、兜太は、虚子につづく二番目の覇者とみなすことができる。
 ところがである、戦前の覇者たる虚子は専制支配を敷いたけれど、兜太はまるで違う。多元化が構造として定着した現代では、なにびとも、虚子が行ったような専制支配は不可能なのである。(中略)
 時代としてどちらが健全か、答えははっきりしている。いかに傑出した文学者であれ、その発言や理論が絶対視される時代は御免こうむりたい。そうした文学者は、たやすく国家権力と合体し、抑圧と強制の支配を行うであろうから。兜太はそれを徹底的に嫌った。(・・・前半はここまで)

と述べている。ともあれ、一人一句を挙げておこう。

  避難所に柿剥く人や正座して       武藤 幹
  白黒の写真の金魚真っ赤なり     たなべきよみ 
  スマホさくさくオゾンホールさくさく   江良純雄
  ajisaiをaisaiと打ち七変化      金田一剛
  ことごとく水の先まで夏疲れ       照井三余 
  潮騒の揺りかご星に手が届く       渡邊樹音
  問い返す鳥子の春のかすみぶり      大井恒行

2020年2月15日土曜日

妹尾健太郎「火を水のまぶたにこぼす青鞋忌」(「阿部青鞋研究」特別号)・・




 「阿部青鞋研究」特別号(北千住出版・発行 妹尾健太郎)は阿部青鞋忌(2月5日)にちなむ「青鞋忌作品集」である。コンビニのネットプリントとやらで、全国どこでも印刷可能だという。そのネットプリントえお折り本にしてくれたのだ。44名の方が詠んでいる。「後記」には、青鞋の生涯を二つのサンドイッチに見立て、

 一つは〈時間〉のサンドイッチ、薄いながらもその両サイドをしっかり形成するパンの部分が「大正」と「平成」、中央でどっしりと豊潤な具に満たされている部分が「昭和」である。
 同様に〈空間〉サンドイッチを描けば「東京」「岡山県美作」「東京」となる。
 青鞋さんの逝去から三十一年、句碑も全句集も、流通する作品集すらない俳人の忌日に寄せる一句をごく短期間にツイッターで募った結果がこのネプリ版である。

とある。そのなかから、愚生の知人を含めていくつか紹介しておきたい。

  両端に天と地をおく冬の虹       小川蝸歩
  梅一輪持ち来た人に父語る       麗女(青鞋三女・中川専子)
  心音は我をはなれず青鞋忌       遠山陽子
  尻拭きの短き夜なり青鞋忌     なかやまなな
  全円となる地平線 われら星      堀本 吟
  好奇心は小屋を建てたよ青鞋忌     赤野四羽
  ビニル傘透かし青鞋忌と思ふ      西川火尖
  四海波平らかに美人にあらずよその妻  筑紫磐井
  燭(ともしび)に幾重も円の見ゆるなり 北川美美
  キャベツ剥ぐ手まるき形や青鞋忌    西川由野
  はちみつのなかいつしんにかたつむり  黒岩徳将
  火を水のまぶたにこぼす青鞋忌    妹尾健太郎
  青鞋忌洗いざらしの冬の蝶       大井恒行


 阿部青草鞋(あべ・せいあい)、東京渋谷生まれ。1914(大正3)年11月7日~1989(平成元)年2月5日。




★閑話休題・・・日本太極拳法一楽庵・出井現兵子 葬儀・・・・

通夜・2月15日18時、告別式・2月16日10時(於:日華斎場/多磨葬祭場)。
 愚生は、数年前、今は無き府中グリーンプラザの地下音楽室で行われていた太極拳府中一楽会に、健康と運動不足解消などと、楽な気持ちで入門した。その時、すでに現兵子先生は米寿だったように思う。稽古の合間に結構長い話(世間話も含めて)をされて、愚生も老齢ゆえか、その話を楽しみにしてい節がある。また、準備運動のストッレッチなども、一度として、全く同じ繰り返しはなく、毎回、少しでも変化をつけられていた。ときには、童謡を歌いながら、太極拳法の型を稽古をさせられた。二年ほどまえになるだろうか、稽古に出て来られなくなった。細かいことは全く言われなかった。多くは心持、常に体の隅々に意識を・・・だったような気がする。不思議なもので、先生の直接の指導がなくなっても、いつも先生の眼差しがそこにあるような気がしていた。今、直接の師は内田慎一先生で愚生より10歳は若い先生だが、円満な気質と身体の柔軟な強さをもっておられる。ともあれ、現兵子師は、昨年、一楽庵創設50周年を機に、宗家を娘の出井円美子(えんびし)に譲られていた。合掌。享年92。


              

撮影・鈴木純一 陸羽西線 ↑

2020年2月14日金曜日

小西昭夫「降る雪や祈り・正直・無垢・愚直」(朗読句集『チンピラ』)・・・



 小西昭夫朗読句集『チンピラ』(マルコボ・コム)、赤色のカバーをとると、表紙に小西昭夫の笑顔の写真がいっぱいに広がる(わざわざ、本のカバーをとる人は、あまりいないから、気づかれないかも知れない)。さらに、章の扉などに、自筆の自画像が置かれている。著者「あとがき」には、

 (前略)普通は作品があって展覧会を開くのだが、ぼくたちは作品はないがまず「キャメルK」という画廊を借りた。画廊を借りれば作品を作るだろうという甘い発想である。「自画像に鬚を描いたから鬚を伸ばした」という寺山修司の逆の発想を楽しもうと思ったのである。

 こうした発想で様々のことに小西昭夫は手を染めているのかもしれない。朗読句集と銘うってあるので、その通りで、公演のための脚本句集とでもいえば、いいのだろう。一公演に句の繰り返しもあるし、継続して、聴きに来てくれる客人への配慮もあるだろう。だから、小西昭夫を知る人ならば、微笑ましく、より楽しめる句集になっているだろう。彼の体験から、聴く側へのシフトが行われている。

 (前略)朗読のスピードに頭がついて行かなかった。それで、自分の朗読にはできるだけ耳への負担をかけないようにしようと思った。(中略)より分かりやすくするために、前書きを入れ、いわば後句付けのように俳句を朗読することにしてみた。これが「チンピラ」の作品群である。(中略)
 願わくば、この句集は声に出して読んでいただけるとありがたい。何てったって、朗読句集なんだから。

 愚生は、東京の田舎住まいだから、遠くてなかなか聴きにいけないが、近隣の方々は、絵の展覧会と合わせて、行かれてみるのも良いだろう。

本集より、チョッピリだが以下に引用しておきたい。

  亀鳴くやアジアに古き雨が降る   「亀鳴く」
  蚯蚓鳴くアジアの古き闇の中    「蚯蚓鳴く」
  ヒアシンス十年前なら死刑のぼくら 「東京」
   結論でございます。
  今もまだチンピラのぼく桜咲く   「チンピラ」
   結論でございます。
  今もまだチンピラのぼく花は葉に
   結論でございます。
  チンピラを卒業できずチューリップ
   結論でございます。
  チンピラはきんぴらじゃない亀が鳴く
   正岡子規に「若鮎の二手になりて上りけり」の句があります。スーパーでは、
  若鮎の空揚げにされ売られけり
   「遊五人展」の似ていない自画像のようなものです。
  チンピラが鳩になるなり鷹もまた
    もう一度言いますが、俳句で大切なことは、元気で、楽しく、くだらないと
    いうことであります。お終いでございます。
  チンピラが蛤となるスズメまた   

 小西昭夫(こにし・あきお)1954年、愛媛県伊予郡生まれ。



★閑話休題・・・羽田知行「就活ノート醒めたところでペンを執る

」(第二回口語俳句作品大賞)・・・


 第二回口語俳句作品大賞(口語俳句振興会・代表 田中陽)は羽田知行(牧之原市、「主流」)が受賞した(口語俳句振興会会報「原点」NO.4)。以下、奨励賞を含む一人一句を挙げておこう。

  未病で生きるつもりへ月の蒼いこと    羽田知行
  鳥渡るセンテナリアンならば愛      石田 榮
  巡礼にはぐれるときどきニホンオオカミ  堀 節誉
  星になってもよいが落ちないか    きむらけんじ
  種を採る風乾く日の千日紅       田中由美子



撮影・鈴木純一 鉄塔が邪魔 ↑

2020年2月11日火曜日

眞鍋呉夫「箒目を踏みはずしたる冬の蜂」(『眞鍋先生 詩人の生涯』より)・・



 近藤洋太著『眞鍋先生 詩人の生涯』(書肆子午線)、版元は先の『眞鍋呉夫全句集』を刊行したところと同じだ。序章「輝く芒」に、

 真鍋先生が亡くなって八年が経った。私は四十三年にわたって先生の聲咳に接してこられたことを生涯の僥倖だと思っている。

 と記されている。従って、本著には眞鍋呉夫とは誰かが、じつに丁寧に書き込まれている。愚生は、眞鍋呉夫の晩年の20年近くは、誰かれの縁で、ときたまお会いすることがあったので、頷かされることが多い。本著では第11章「眞鍋家の食卓」、第12章「不戦だから不敗」は、ことに親近感をおぼえた。さらに終章「終焉記」には愚生には、見えていなかった感銘があった。愚生が浅沼璞に連れられて、関口芭蕉庵で初めて眞鍋呉夫に会い、沼津・大中寺でも、著者自身が挨拶されていたとあるから、遠くからだったにせよ著者の尊顔を拝したことがあったはずがだが、覚えていない(もっとも、人の名前と顔を覚えるのが苦手な愚生には当然のことかも知れない)。




 話は飛ぶが、著者には『辻井喬と堤清二』(思潮社)の著作もあり、眞鍋呉夫と辻井喬に戦後すぐに日本共産党に入党していることについての記述もあるが、これらについても、愚生は良く知らなかった。愚生が辻井喬に会ったのは、加藤郁乎賞の授賞会のとき、その他は、書肆山田の鈴木一民、大泉史世が世話をしていた、何かの講演会、そして、次は「俳句界」の仕事で、直接、セゾン文化財団の事務所に伺ったときだったが、いずれも物腰の柔らかい誠実さが湛えられていたように思う。 
 話を元にもどすが、本書『眞鍋先生』は、眞鍋呉夫の生涯を語った書でありつつ、同時に近藤洋太の、生涯(まだ途中だが)と思想があまねく語られている。第4章「青年俳人眞鍋呉夫」になかに、

 (前略)、眞鍋呉夫の俳句は、新興俳句時代を経、さらに長い沈黙の時間を経て古格を踏まえた、自在で奥行きのある表現を獲得したのだと思う。
 もうひとつ、新興俳句時代を経て、後年、かれは結社を批判し、「師系」を否定した。ことに杉田久女を破門した高浜虚子を嫌悪した。私はこのことを何度も聞いた。終生、眞鍋呉夫は無結社だったが、そのことについては後の章で触れる。

 あるいは、また、第三章「戦時下と『こをろ』の周囲」には、

(前略)「こをろ」結成に先立って、矢山哲治が書いた創刊主旨の「発願」について、そこに暗さではなく、「光り」をいい、「文化は反動の好餌として奪はれる」ことに対し、「文化を親衛」するといい、そして遠く「N・R・F」を目していたことに痛ましさを感じると書いた。
 同じように、この眞鍋呉夫の発言にも痛ましさを感じる。彼より七歳年少で、戦後学生運動に関わった辻井喬は、どこかで思想とは、マルクス主義が引き起こす問題をさしたといっている。対米戦争に向かうあの時期、マルクス主義は敗北し、それを代替するリベラリズムさえも消えかかっていた。眞鍋呉夫たちの年代は、あらかじめ「思想」を奪われた年代なのだ。集団として「こをろ」を見た場合、目的が見いだせなかったからこそ、それぞれ自由にものが書け、したがって掲載禁止、発売禁止の処分を受けた。(中略)

 『戦争はすぐそこまでやって来ていたのだ」。確かに世代的にいえば、眞鍋呉夫は大正9年に生まれ、三橋敏雄もそうだ。また、金子兜太や飯田龍太、髙柳重信などもその前後の生れで、愚生も近藤洋太にとっても、ちょうど父にあたる世代の人たちである。そして、眞鍋呉夫についていう。

  これに反して俳諧が頂いているもの、というよりその原郷は、芭蕉が示唆している意味での「造化」である。だから、原理的に権力と争うようなことはありえず、またいかなる権力とに対しても、媚びず、同ぜず、へつらわない。つまり、非戦でも反戦でもなく、不戦だから、不敗なのである。

 眞鍋はこの文章を「憲法九条には、そういう不戦の心が宿っている、と、考えている」と結んでいる。この文章は、彼が後世の人びとに向けたメッセージだと思っている。私はそのメッセージをしっかりと受け止めたいと考えている。 

 (前略)眞鍋呉夫は、芭蕉がいう「生涯に十句」を遺すことを実践しようとした。晩年、彼は業俳でも遊俳でもなく、自らを「狂俳」と称した。

とも記されている。ともあれ、本書中にある眞鍋呉夫の句をいくつか挙げておこう。

      喊声を口一杯に黒い洪水        (初出・昭和13年6月「芝火」より)
   地底よりむくむくと湧き誌にゆけり
   兵稚し故郷(くに)の時計の音を聴きたり
   銃創を青しと思ふ仮死より醒め
   脳芯に真紅の蝶を飛ばし死す
   夜干して男を刺しにゆく女
   さびしさの果無山(はてなしやま)に花咲いて
   戀の汗つめたくなりし御身(おんみ)拭ふ
   花冷えのちがふ乳房に逢ひにゆく
   春あかつき醒めても動悸おさまらず
   戸口から戸口へ續く枯野かな
   姿見に入つてゆきし螢かな


近藤洋太(こんどう・ようた) 1949年、福岡県久留米市生まれ。



         撮影・鈴木純一「北へ北へ行くほど春と聞く」↑

2020年2月8日土曜日

森潮「枇杷の種皿に残して昼寝かな」(『種子』)・・・



 森潮第一句集『種子』(文學の森)、待望の第一句集であるが、収載句は、平成元年から平成22年までの428句、つまり、森潮の父である森澄雄が亡くなるまでの句群である。著者「あとがき」には、昭和63年8月17日「突然母アキ子が心筋梗塞で亡くなり」「母の残念な死を思えば、父の仕事を続けさせることが、私の使命のように思えた」、そのときから、「菊池一雄先生に相談し、森潮を逆さにした鵜匠慎という俳号を密かに作っていただき、『杉』に投句。初めて掲載されたのが平成元年二月号であった」という。その後、森澄雄が平成7年12月21日、脳溢血でたおれ、回復したのちは、いつも車椅子を押していた森潮が側にいた。のちに楸邨門のライバルだった金子兜太の晩年も長男の真土が付き添っていたように。しかし、飯田龍太の息子も、金子兜太の息子も俳人にはならなかった。しかし、ほぼ同世代と思われる森潮は俳人となり、主宰「杉」を継いだ。だからというわけでもないが、愚生は、澄雄亡きあと、「杉」主宰となった後の句を読みたい、と思っていた。
 句集の劈頭には、

  我もまた一つの闇か胡桃の実     

 の句が、献じられている。また、句集名の由来については、数学者岡潔の『春宵十話』から、

  数学に最も近いのは百姓だといえる。種をまいて育てるのが仕事で、そのオリジナリティーは「ないもの」から「あるもの」を作ることにある。数学者は種子を選べば、あとは大きくなるのを見ているだけのことで、大きくなる力はむしろ種子の方にある。

 に因むと記されている。ともあれ、集中より、愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておきたい。

  家貧し陽はさんさんと葉鶏頭
  夜昼のなくて誠や猫の恋
  安達太良はけふ雲のなか檀の実

    長崎県福江島に曽祖父の生家を父と訪ぬ
  曾祖父はかくれ耶蘇なり花茨
    母七回忌
  胎中のわれの逆しま盆の月
    十二月二十一日、父脳溢血で倒れる
  うるみつつ老いの瞳や冬籠
    三月二十日、アフガニスタンに続きイラク戦争始まる
  誤爆といふ言葉は悲し蕗の薹
  湖と空あはひはてなき雁渡し    
  常臥しの父を抱へて初湯かな
    一月二十九日、誕生日
  わが干支のはじめにもどり寒椿
    八月十八日、父澄雄死す
  見えてゐて帰らぬ父や秋の風  
  死者生者包みてゐたる虫の闇
 
  森潮(もり・うしお) 昭和24年、東京生まれ。



2020年2月7日金曜日

妹尾健「耳袋はずして老人話し出す」(「コスモス通信」とりあえず22号)・・



「コスモス通信」とりあえず22号(発行者・妹尾健)、今号は「高齢社会と俳句」と題しいる。

 俳誌「韻」三十一号に川名大氏が「髙柳言説とホビー俳句」という文章を寄稿されている。たいへん示唆に富んだ一文であるが、気になる部分があったので、少し書いておきたい。

といい、次のように記している。

 ここで、私が気になったのは「高齢化社会を背景に」と川名氏がのべておられるところである。我々が当面している社会が高齢社会であることは勿論であるが、それを「背景」にしてホビー俳句の浸蝕が生まれたというのは本当であろうか。むしろ我々の当面している社会は、高齢化を「本質」としているのではないか。その「本質」がホビー俳句なるものを招来しているのではないか、と私は思うのである。つまりその「本質」が余暇を利用して積極的に俳句にとりくむものを意味しているということである。それは高齢社会を生む平均寿命の伸長、医療制度の普及による健康体制の整備、各種の社会制度の完備(完全でないことはいうまでもないが)によってこれまでの「背景」はむしろ「本質」になっているのではないか。インターネットの普及は、旧来の知識量を大幅に拡大しそれは各種の分野に及んでいる。これまで知識を得るための努力はたちまちのうちに自分のてもとに届く事態になってきたのである。俳句もまた変容を迫られた。川名氏のいわれるホビー俳句もまたこの高齢社会の「本質」の影響下に出現してきたのである。同時に川名氏が理想に掲げる髙柳言説(これが言語至上主義の歪曲的受け取りによる誤解の産物だと川名氏は反論しているが)と対峙するものとなったのである。(中略)
 高踏的な悪態をもって現代大衆社会に対峙されることは壯とするも、いかんせんそれは本質によって作り出されてくるものなのだ。それには抵抗の方途がいる。具体的な方法がいる。いうまでもなく、俳句は大衆の文学である。俳句を作るに人間が現代大衆社会の本質にしたがって作っていく俳句が大衆の支持を受けるとすれば、現代社会の体制に順応するかたちとなるのは当然である。だが、問題はここにある。(中略)

 としながら、妹尾健は、「私についていえば、やはり俳句の目標は、戦後の俳句」と述べ、西東三鬼「広島や卵食ふとき口開く」や秋元不死男「多喜二忌や糸きりきりとハムの腕」や桂信子「手袋に五指を分ちて意を決す」などの俳人・作品各5句を挙げている。

ともあれ、以下に彼の「句日記」と題された句の中からいくつか挙げておこう。

  冬晴れに妻の機嫌の高き声       健
  一月のあれこれ思う間もなく去りぬ
  侘助や声高となれば制止さる
  二月来る一日はまず碧梧桐来
  懐炉灰男は腹に虫を持つ





★閑話休題・・・坂場章子「月今宵かの地にもかの人らにも」(「鴫」12月号より)


「鴫」12月号「看經抄」に10句選と短評を寄せたのでそれを掲載しておきたい。タイトルにあげた句は愚生の特選句である。 




*①  月今宵かの地にもかの人らにも      坂場章子

 ② 繋ぐかに沖へ向くなり鱗雲              山﨑靖子

 ③ へうたんは羅睺羅の有漏のかたちとも   荒井和昭

 ④ かまつかや「こんにちはあ」と下校の児  田村園子

 ⑤ 川音の満ち蜻蛉の浮かび来る       髙田令子

 ⑥ 白拍子めく秋蝶の消ゆる蔭       山口ひろよ

 ⑦ 被災せし犬を預り星月夜         三木千代

 ⑧ 落し水いきもののやうに匂ふ夜     みたにきみ

 ⑨ 何処曲がつても花すすき花芒       江澤弘子

 ⑩ 喪の家の二階に灯鉦叩         佐佐木秀子    



■➀あまねく世界を照らしている名月。災厄に遭った人達の遥かな地へと思いを馳せ、救いを願う句。②「今も沖には未来あり」だ。③下句「羅睺羅の有漏のかたちとも」とは、力技の表現。④葉鶏頭の鮮やかな色彩と元気な子どもたちの声。⑤川音には蜻蛉の薄羽を操る風も水もある。⑥白拍子は遊女の異称、儚さがただよう。⑦星月夜こそうれしかれ、とも言う。まして、夜の明けるのを待つ意もある。⑧上五「落し水」で切れるのか、切れずに繋がるのかで、句の趣が違うが、後者で読んだ。⑨見事な花芒の世界が広がっている。⑩二階に灯る明かり。喪中に鉦叩で哀傷が深い。


      



撮影・鈴木純一 酒田のマンホール ↑

2020年2月6日木曜日

堺谷真人「心臓が無くて傀儡の秋思かな」(「一粒」第92号)・・・



 「一粒」92号(一粒俳句会)の特集は「俳句と神話」、湖内成一・堺谷真人・鈴木達文が筆をとっているが、「豈」同人でもある堺谷真人「俳句の神話ー『翁』をめぐって』は、小見出しに「神話の多義性」「芭蕉の実年齢と『翁』イメージ」「若くして『翁』となった芭蕉」「詩歌史における『翁』の先駆形態」「神話的表象としての『翁』」「結びに代えて」とあり、本格的な論考である。その中から、興味ある視点が記してある部分を引用紹介したい。

 ■芭蕉の実年齢と「翁」イメージ
 (前略)一八〇六年のこと、朝廷は「古池や蛙飛こむ水のをと」の句に因んで芭蕉に「飛音明神」の神号を賜った。下って一八八五年、明治政府は神道芭蕉派と称する宗教団体「古池教会」を認可している。後年、正岡子規が月並宗匠と呼ぶことになる旧派の俳人たちが芭蕉を神聖視した、神格化したというのは決して誇張や譬喩などではない。社会的実質を伴ったものだったのである。 

■詩歌史における「翁」の先駆形態
 ところで、季吟撰の『武蔵曲』序文は二つのことを端無くも示唆している。
 一つは俳諧精神の故郷としての老荘思想への傾倒である。(中略)「逍遥遊のおきな」というのは、超俗と自由を希求する俳諧精神の擬人化に他ならない。ここで注目すべきは「此しまは世界のまんなかなれば」の一節であろう。
  南海の帝を儵(しゅく)と為し、北海の帝を忽と為し、中央の帝を渾沌と為す。(中略)分別智未成以前の生けるカオスを象徴する渾沌は、まさしく「中央=世界のまんなか」に位置する存在なのであった。季吟が「あまりにも上手過るをさらへり」と書くとき、それは滑稽ひいては俳諧が必要とするカオスへの志向と作為・技巧に惑溺することへの鑑戒をふたつながら含意しているのかもしれない。
(中略)二つ目は、 文学論が「翁」との問答体を借りる点である。(中略)ここにおいて『筑波問答』の「翁」は漂泊をその本然的存在様態とする何者かであること、反復来訪するマレビトであることが明らかにされる。

■そのそも能楽において「翁」は別格の特別なそんざいである。だが、禅竹は大胆にも宇宙の根源にこの「翁」を措定してしまった。そして、住吉大明神、春日大明神、諏訪大明神などの諸仏神、祖師、人麻呂、業平、秦河勝から末は一座の棟梁に至るまで、すべてを「翁」の本体、化現もしくは死者であると主張するのである。

■結びに代えて
以上、芭蕉のイメージとしての「翁」、連歌伝承における「翁」、そして能楽において神格化された「翁」についても概観してみた。結果、改めて感じたのは、生前も死後も「翁」と呼ばれたことが、芭蕉が俳諧連歌の神々の系譜に連なる上で決定的なアドバンテージを与えたということである。能面が表象する「翁」と「白髪白鬚」の老人に描かれる芭蕉。両者は神話的表象の世界で近接あるいは部分的に融合し、漂泊する神、智慧をもたらすマレビトという性格を帯びるに至ったのではないか。

 ともあれ、本集より、一人一句を以下に挙げておこう。

  多角形のパスタゆがいて秋ですよ      湖内成一
  小春日やどこかでガラス割れる音      鈴木達文
  糸電話くぐもることも秋の声        堺谷真人
  乳母車囲いて昏るる雪螢         中井不二男
  痒き部位痛き部位あり霧の日々       中村鈍石
  釣り具肩に秋風を切るオートバイ      牛島海平



撮影・鈴木純一 春の缶詰 ↑

2020年2月5日水曜日

佐藤日田路「冬銀河わたくしというえねるぎー」(『不存在証明』)・・



 佐藤日田路第一句集『不存在エネルギー』(俳句アトラス)、跋文は林誠司、その中に、

 この『不存在証明』は四季別に作品がまとめられているが、各章毎に「楽章」「輪舞」と分けられ、「輪舞」には数句毎に「タイトル」が添えられている。これは「タイトル」を含めて、一連の作品群の、”言葉の響き合い”を味わっていただきたい、という意図からである。この少し変わった表現手法は、彼がこれまで特定の俳句の師をもたず研鑽してきた、ということもあろうが、歌人の父、詩人の母の元に育ったということも大きい。

と記されている。表紙の写真も著者自身ものだが、著者「あとがき」には、

 誰しも、己の死と向い合うときが来る。小学五年のとき、このいま母が死んでいないか不安になった。間もなく、自らの死を想像するようになたt。そのとき私の肉体も意識も永遠に無くなる。恐怖の余り拳で風呂場のタイルを撃った。痛みが、恐怖をしばし紛らわせてくれた。
 父は歌人、母は詩人だった。私は十代から詩を始めた。詩には、俳句のような表現上の制約がない。その分、内面を露出することになる。得体の知れない自己表現の願望と自己嫌悪が混在していた。

とある。集中に、次のくがあるが、

  アネモネや姉は美しモネは眩しき     日田路

この句は、愚生には、攝津幸彦の、

  姉にあねもね一行二句の毛は成りぬ    幸彦『鳥子』(1976年刊)

の句が思い起こされるが、この句の改作前、『姉にアネモネ』(1973年刊、攝津26歳)のときは、

  姉にアネモネ一行一句の毛はなりぬ

だった。再録時に「一句→二句」改作されたのだが、4年の月日が経っている。句の難解さからいえば、攝津句になろう(攝津のもっとも難解だった時期の句だから、やむを得ない)。ともあれ、以下に『不存在証明』からいくつかの句を挙げておこう。

  十六夜のちちこんこんと老いてゆく
  上あごに海苔がくっつくだれか死ぬ
  崩れざるもの陽炎の真ん中に
  ふつふつと花積もりゆく完新世
  長生きを生業として春の象
  合掌を沖へとひらく平泳ぎ
  更衣人のままではおそろしい
  下駄箱はたまに私書箱秋夕焼
  
 佐藤日田路(さとう・ひたみち) 1953年生まれ。




★閑話休題・・大木あまり「短日のまぶた押さへてもの申す」(「雲」第73巻)・・


 「雲」第73巻(編集・発行人 伊藤眠)、伊藤眠おられる。掲載されている俳人の中で、幾人かお会いした方もいらっしゃるので、その方々の一句を挙げておきたい。

   鶏頭や風にも険があると言ふ      大木あまり
   ひやわいと呼ぶこの路地乱歩の黒マント  大西健司
   蕎麦食べて年の終りを啜り込む      川名将義
   千人の歌声一陽来復           劒物劒二
   朝の陽や犬が転がる無垢の雪      加賀谷三棹
   梅東風や横須賀港の果て辺野古      織本瑞子
   氷る旗振りたる父を恋いにけり      秋野美広
   鳴き竜の天衣無縫の柳の芽        椿山静女
   背中からひとは乾いて大花野      なつはづき
   銀河にも誕生と死よ火酒あおる      伊藤 眠




2020年2月4日火曜日

宮本佳世乃「手荷物にする骨壺とフリスクと」(『三〇一号室』)・・



 宮本佳世乃第二句集『三〇一号室』(港の人)、このところ港の人から上梓される若い人たちの句集には、序文や跋文も帯もなく、当然ながら惹句もない。まして自選〇〇句というのも無く、シンプルなものが多いように思う。帯の惹句や自選句が載っていたりすると、愚生のようなものぐさ、面倒臭がり屋は、それでもう、句集を開かなくても、そこに最も良い作品が載っているのだろうと思って、中まで読まなかったりする。これに、もし、略歴がなかったら、読者には、句を読むしか手だてが残されていないということになる。それだけ、作者の、あるいは作品についての謎が多くの残されるということになるはずだ(作者は句だけ読めと言っているのだろう)。
 本集には、集名に因むような「三〇一号室」の作品もなく、しいて言えば、「あとがき」にある、

 雪の外階段を上がって見学に行った新築物件に即決を出したのは一月下旬だった。(中略)部屋は幾度か四季を迎えたが、わたしはもういない。

 とある、その部屋のことなのかも知れないが、そこには彼女はいない。いわば、謎の集名なのであるが、集中の作品には、謎めいた句はない。そして言う。

 濃淡の差はあれど、体験は意味となり、私の経験として蓄積されていく。ときが来ると、俳句になることもある。もちろん、俳句になったからといって救われるわけではないけれど。

 淡々と日々を過ごしていたら、ずいぶん遠くまできてしまった。
  この冬も、雪は降るだろうか。

ともあれ、集中よりいくつかの句を挙げておこう。

  葉牡丹の奥のうたごゑあたらしき     佳世乃
  繭玉のなかはまぶしき影の浮く
  木蓮の濡れ階段室へ夜空
  紅蓮しづくの逃げてゆきにけり
  夏川をあがりしばらく川の足
  瓦礫撤去やや進みひまわり高く咲く
  棉吹くとこだま返ってきたる家
  矢印は左右に岐れ枯木山
  風吹いて雪のきのふが光りだす
  大学に食堂のある日永かな
  みづうみのひらくひばりのなかに空
  死の蟬を覆つてゐたる蟬時雨
  空蟬の掴む時間のやうなもの

宮本佳世乃(みやもと・かよの) 1974年、東京生まれ。


撮影・鈴木純一 立春吉報 ↑