「鬣 TATEGAMI」第74号(鬣の会)は、第18回鬣TATEGAMI俳句賞の発表である。三冊が授賞になっている。「藤原月彦氏『藤原月彦全句集』(六花書林)に対して、寺田京子全句集編集委員会(筆頭者・小檜山繁子)『寺田京子全句集』(現代俳句協会)編集に対して、川本皓嗣『俳諧の詩学』(岩波書店)に対して」とある。
愚生は、林桂の追悼文のふたつ「暮尾淳ー含羞の人」、「短詩人・来空氏を悼む」に目が留まった。とりわけ「短詩人・来空氏を悼む」については感銘が深かった。その中に、
時折、手書きの原稿コピーを戴いていたが、その最後の原稿を次に紹介して、追悼に代えたいと思う。『河東碧梧桐全集』の編集者ではなく、作家としての來空の姿が偲ばれる。氏には、向陽的でポジティブな作家という印象がある。「来空このところ文章なかなか手つかず、実は5・5㎝の脳動脈瘤が残ったままのためか、考えようとすると頭痛がしたりが多くなりました」と添え書きがあるものである。タイトルは「興す古(いにしえ)の巣(コトバ)」である。適宜、行間を摘めて表記していることを付記する。
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私、來空。日本のポエムを書く時、
「ウレシイ。オモシロイママデ投げ出してヨイノダ。」
あたりが、今も私を囲んでもたらすヨロコビ。
ポエムを書いて二十年経過した一女性、最近、
こすのこすこのすこ ひづる
作品を送ってきた。逆さまに読んでも出てくるコトバ回文は日本、大昔からある。
私、小学生時代、アメリカの原爆投下、悪夢を叫んだ。
ヒロシマの真白火(ましろび) 昌行
この回文、実は後日、マンガ映画の展覧会で採用、有名。町中、回文も日常化していた。(後略)
とあった。來空(鈴木昌行)は、この文中によると、晩年は八王子市の桜の里「椿」に起居していたらしい。かつて愚生が小金井市に住んでいた頃、前原町の都営住宅に住んでおられて、会いたいと申し出があって、武蔵小金井駅南口に、今でもあるフロンティアという喫茶店で二度ばかり会ったことがある。その後も何度か、便りをいただいたが、いつのころからか、音信が途絶えていた。たぶん、愚生が十分に、真摯に彼の話を聞かなかったからであろう。正直に言うと、『河東碧梧桐全集』の刊行を独力でされていたことに敬意を払ってはいたのだが、その、彼の作品についていけなかったためであろう。確かに碧梧桐が俳句を短詩としたことから短詩人に拘っていたのでろうが、元来がいい加減な愚生は、呼称などはどうでもいいではないか、そして、それを、とにかく面白がるという純な魂を愚生は持ち合わせていなっかったのだ。とはいえ、現代において、特異な詩人を失ったことは確かなことである。だれも、その追悼文をしたためなかった、その意味で林桂の追悼文は貴重である。
ともあれ、同号より、一人一句を挙げておきたい。
均等に磨きどの鏡に入らう 𠮷野わとすん
ここはむかしのうなそこ松の雨 堀込 学
遺失物翼一対大花野 青木澄江
初しぐれ像とネズミの時間論 丸山 巧
進水や錻力(ブリキ)の船に旗を立て 西平信義
弔(とむら)ひの
煙(けむり)が
海(うみ)に
立(た)ち籠(こ)める 中里夏彦
透明の
羽毛一片
野末にふる 深代 響
蜩や今日が明るく終わります 永井貴美子
福達磨値切った分だけご祝儀に 堀越胡流
この頃のデコラティブなる月の空 九里順子
大爆笑蒲公英諸君総入歯 梧桐貴子
人型に切り抜く夜のレモン 西躰かずよし
蟻蟻と遠い石段登る 永井一時
空に混ざらぬことを選んで黄落す 佐藤清美
うすらひに雲ひとひらを睡らせり 水野真由美
サアカスは去りアワダチソウばかりなり 佐藤裕子
白鳥のように眠気わたしたち 大橋弘典
寒くって一面ダイヤモンド輝き 伊藤シンノスケ
みいらまたぱりぱりしていく夕べ
旭日旗 林 稜
風信子根の国の根の白きこと 蕁 麻
火加減と塩梅や冬暮れる 樽見 博
詩さえ
野蛮ぞ
啼く蛙(かわず) 上田 玄
京(きやう)に経(ふ)る
今日(けふ)
狂相(きやうさう)の
夾竹桃(きやうちくたう) 林 桂
明日から柚子咲くことになる世界 外山一機
撮影・鈴木純一「カタクリの音は未だし城の址」↑
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