2021年1月31日日曜日

箭内忍「凍空へ無人の波打ち際の音」(「となりあふ」創刊号・2021春号)・・・

 

 「となりあふ」創刊号(となりあふ発行所)、「『となりあふ』創刊に寄せて」は今井聖「只の道」。招待俳人の句は、


  明るみに出て狼狽の蓮根(はす)くびれ  中原道夫

  三寒の思案四温の決意かな        神田松鯉


 箭内忍「『となりあふ』創刊にあたって」の冒頭には、


 師、故吉田鴻司は酔ってよく「俳句ってのはねぇ(ドンッとテーブルを叩いて)、むにゃむにゃなんですよ!」と俳論を語った。むにゃむにゃは、その時々によって違ったり、よく聞こえなかったりする。俳句は座の文芸、作者ありきの作品、継続は力なりとよく言ってた。俳句の「いろは」は「わらがみ句会」という心底楽しい句座で教わった。

 二〇〇六年、吉田鴻司が他界して消沈していたある時、『河』の先達の追悼句会があり、そこで出会ったのが今井聖と清水哲男だった。その縁で『街』に入った。

 今井聖の俳論は、吉田鴻司とは真逆だ。俳句は文学だ、『街』の句会は大学院(初心者向きではない)だという。共通点はどちらも常に俳句のことばかり考えている(いた)ことだ。


 とあった。構成は「んの衆」と「いろは衆」に分かれていて、「いろは衆」には「春季・巻頭選考会議」というのがあり、箭内忍と神保千惠子の選考評が付されている。ともあれ、ここでは「んの衆」の一人一句と「いろは衆」巻頭作家の一句を挙げておきたい。


  ちやらちやらと嘘つくポインセチアかな    箭内 忍

  冬天のその先宇宙ステーション       神保千惠子

  尻振つてペンギン陸へ冬来る        鈴木わかば

  寒鴉ケバブに匂ふ裏通           谷川理美子

  ショーウィンドウの中は三密クリスマス    原 美鈴 

  煤逃の貧乏ゆすり強くなり         廣川坊太郎

  隣より聞えて来たる大くさめ        眞鍋芙美子

  「ご遠慮します」烏賊墨のスパゲッティ   水谷由美子

  マスクして羽根のやうなる眉の形      安田のぶ子

  短日や口と同時に手も動き         山口ぶだう

  笑ひ声足さるるテレビ歳の暮       久保田真由美



         芽夢野うのき「青空の艶をしたがえ枯れすすむ」↑

2021年1月30日土曜日

照井三余「両端に雪を残せし沈下橋」(第21回「ことごと句会」)・・・


  第21回「ことごと句会」(2011年1月20日付)、雑詠3句+兼題「明」1句。郵送により、事務局の金田一剛は、切手句会と呼んでいる。とにかく、一人一句を以下に挙げておこう。


   寒月の薄き刃は濡れている           渡邊樹音

   日と月と星といふ名の宝石屋          金田一剛 

   シンフォニーいちょうひた降る夜の街路(みち) 渡辺信子

   寒月の残りを食らう明け烏           江良純雄

   初み空洗ひ終りし心(こころ)干す       武藤 幹

   枯蟷螂叱った時の父に似て           照井三余

   寒雷はやがて明るき鳥に会う          大井恒行


〔一口評〕

⑬「両端に雪を残せし・・」、鮮明な実景だと思います。―恒行

⑯「寒月の薄き刃は・・」、何とも不気味。恐怖感、怨念を感じる。ー幹・・・「刃」の月が桃色、白色などに濡れて見える。ならば読み手は作者についてゆけるのですが。―三余

⑲「シンフォニー・・」、落葉が音符。ブレストで奏でる秋のエンディング。-純雄

⑭「寒月の残り・・」、石を啄む鴉の飢えを見て、何とか句にと思案していましたが、こういう表現ができるのですね。「残り」!恐れ入りました。―信子

③「初み空」は、「初御空」にとしたほうが俳句トラディショナルかとおもいます。―剛

㉓「枯蟷螂・・」、色を失った静かな枯蟷螂。情景がよくわかる。年老いた父を思い出し泣けてきた。―樹音

㉔「寒雷は・・」、プレリュードとして捉える。―純雄



  撮影・鈴木純一「鱗(ウロクヅ)ノ我ガ月呑マナ氷二上ル」↑  

2021年1月29日金曜日

目迫秩父「狂へるは世かはたわれか雪無限」(「多摩のあけぼの」NO.137より)・・・


「多摩のあけぼの」NO.137(東京多摩地区現代俳句協会)、巻頭のエッセイは、水野星闇「もうひとつの療養俳句ー評伝・目迫秩父と『雪無限』」。その結びに、


  (前略)逆境にあっても、やや古風なスタイルの中にしっとりとした情感が滲み出るリリカルな作風が、本来の目迫であったと句友達は証言している。時には、覇気満々の頼もしさを感じさせる実作一本の俳人であった。しかし、暗く重たく、そして澄み透って行くその作品群は、突然の死によって永遠の終結を迎えたのである。

 師の林火は、突然の目迫の死を嘆き、次の悼句を捧げた。

  寒や死に抗しつづけし薄屍        林火

  誰が禱りし焼かれかぎろふ千羽鶴

  百千鳥柩の汝を運ぶ上


 とあった。目迫秩父(めさく・ちちぶ)横浜市生まれの生年と没年は、現代俳句大辞典(三省堂)では、1916・3・24~1963・3・18、享年46だが、本稿では、生まれが1917(大正6)年になっている。俄かには調べられないので、どちらかが、誤植なのであろう。他の秩父の句を、同誌より、いくつか挙げておこう。


    枇杷の花安房にはまれの雪をみき   秩父

  外套も鞄も海もただ黒し      

  よべわれの仮死に夏月真赤とよ

  すきまなき宙の雪片相触れず

  熱に狂へる咳大尽と申すべし


さて、「多摩のあけぼの」の題字は三橋敏雄。毎号、会員の一句「あけぼの集」と前号からの一句鑑賞が掲載されている。「あけぼの集」から、いくつかを以下に挙げておきたい。


  おう来たか兜太朗人冬日向        安西 篤

  ふり向きて別人なりし冬木立       江中真弓

  どこかで汽笛ガラスへ響く文化の日   金谷サダ子

  十二月かなしいものから燃やしてゆく   沢田改司

  セーターの闇から這い出すきつね耳    芹沢愛子

  晴れ過ぎし海を眩しむ三橋忌       遠山陽子

  したたかに生きる古書店鏡花の忌     永井 潮

  切り株は静かな器兜太の忌        宮崎斗士

  秋刀魚焼く無頼の過去を煙(けむ)にして 武藤 幹

  影笛に焦がれ死にする影の鳥       大井恒行 



    撮影・芽夢野うのき「ゆく鳥のはなむけ岸辺をはつゆき」↑

2021年1月28日木曜日

米田双葉子「懐手出さねばならぬ人来をり」(「子規新報」第2巻第81号)・・・

 


「子規新報」第2巻81号(創風社・子規新報編集部)、今号の特集は「米田双葉子の俳句」。その寺村通信と小西昭夫の対談のなか、「東洋城と白蓮」の部分に、


 小西 今回、双葉子のことを調べていると、むしろ今まで知らなかった東洋城の姿が見えてきて面白いのですが、白蓮との恋にも触れられています。長崎の東洋城研究家の長川虎彦の話として、伊藤伝右衛門に嫁いだ白蓮の歌集『踏絵』はほとんどが相聞歌、すなわち恋の歌ですが、それはすべて東洋城に当てた歌であることを伝えています。

   妻もたぬ我と定めぬ秋の暮   東洋城

 という句を三十歳の時に残し、東洋城は生涯妻帯しませんでした。七十四歳になった白蓮は東洋城ゆかりの深い栃木を訪ね大平山の東洋城の第一句碑を訪ねたそうです。白蓮はその時、目を患っていて失明に近い状態だったそうですが、碑面を静かに撫でていたそうです。

 その時白蓮は乞われるままに歌を色紙に書いて栃木を立ち去ったそうです。その歌が、

  夢をうつゝうつゝを夢とみる人に

    おもひ出の日ようつくしくあれ

  ながれゆく水の如しとみづからを

    思ひさだめて見る夏の雲

の二首だそうです。



 とあった。あと一つ、面白かったのは、


小西 (前略)これも今回双葉子の特集を組むことで知ったことですが、双葉子の文章を引用しますね。「今は故人となられたかの山本健吉氏が若年にしてある俳句の綜合誌を担当されてゐた頃、各結社の代表作家の句を順次掲載しようと先生を訪ねたことがあるといふ。『渋柿』の優秀な作家の句を掲載させてほしい」と要請したところ、先生は『渋柿』の作家は皆優秀だよ』と言つて謬もない。爾来山本氏は先生を毛嫌いしたものか、後年山本氏の編んだ歳時記の例句に渋柿の句は一句も載せないといふ珍現象となつたのは、知る人ぞ知る話である」。(中略) 

寺村 今、小西さんのお話を聞いて山本健吉の『現代俳句』を見てみましたが、確かに松根東洋城は取りあげられてないですね。もちろん「渋柿」の俳人は取りあげられていません。東洋城の「狷介」が山本健吉の「狷介」の話になりましたね(笑)東洋城を含め「渋柿」の俳人たちを読み直す必要があるかもしれませんね。


 という件りだった。そうそう、それと堀本吟「近くの他人ー現代川柳論ー132回」で、愚生のブログに、句と写真で、たびたび登場していただいている鈴木純一について、次のように触れられていたので、紹介しておきたい。


 (前略)「垂人」には、風変わりな短詩系作家鈴木純一が居て、今は実例を掲げるスペースがないが、歴史をさかのぼって昭和のモダニズムの時空に生れたような、ダダイストとか未来派のアバンギャンルドに似かよう作品を出してくる。あるいは、言い方を変えると、純一は、江戸趣味を残した辻潤のような風狂人の心情の再現なのだろうか?

「垂人」は、俳句や川柳の様々な言葉のスタイルを、一つの重要な言葉遊び領域と受け止めて、自在に追求している個性派たちのモダニズム集団である。方法が多様であれば、反面虻蜂取らずの浮薄さも出てくるものであるけれど、いまのところ、彼らの差し出す作品群は、コンセプトもわかり、レベルが高い。


 ともあれ、せっかくの米田双葉子(1910・2・28~2001・12・18、宇和島生まれ)の特集なので、いくつかの句を本号より挙げておきたい。


  一姫二太郎その一姫のうらゝかな     双葉子

  老いらくの恋しづかなり桜漬

  桃咲ける丘やぽかりと昼の月

  笑はれてわが屁なりけり日向ぼこ

  息つめて蛇見き蛇も我を見き

  煮凝りやあらぬところに目玉ある


    教員の授業放棄は教職の自己生命の断絶なり、

    と絶叫してスト参加に反対して敗れし双葉子へ

  雪に凍て果てゝも守る誠かな      東洋城

    突如の指令によりスト中止のため正義を

    貫徹し得る結果となりし同子へ

  雪の竹直き即起ちにけり        東洋城



        撮影・鈴木純一「昭和史の端がほどけて飛行雲」↑

2021年1月27日水曜日

岡井隆「歌はただ此の世の外の五位の声端的(たんてき)にいま結語を言へば」(「現代短歌」NO.83より)・・


 「現代短歌」NO.83(現代短歌社)の特集は「追悼 岡井隆」。佐伯裕子「『鵞卵亭』のリアリズム」と「岡井隆の秀歌50首」選、メール対談・加藤治郎VS大辻隆弘「岡井隆の歌集を読む」、「歌集解題全34冊」、林浩平「プリコラージュの詩学」など。

 興味をひかれたのは、加藤治郎と大辻隆弘の対談の冒頭で、「ベスト歌集は『人生の視える場所』『禁忌と好色』」とあって、お二人が初期に手にした歌集がいずれも現代歌人文庫『岡井隆歌集』であった、ということ。それに対して、佐伯裕子の「秀歌50首」には、『人生の視える場所』からも『禁忌と好色』からは一首も採られていなかったことだ。幅広く大部の数の歌だから、そういうこともあるだろうが、もしかしたら男性歌人と女性歌人では、抽いてくる歌が違ってくるのかも知れない。林浩平の論の結び近くに、


  (前略)岡井隆の文学論の書きぶりの大きな特徴は自ら語る「書き癖」に表れている。(中略)

 こうした書きぶりを「出たとこ勝負」と呼んでおきたい。入念に吟味した素材を用意して、隙のない論理構成で展開する論者というタイプではない。ありあわせの材料で出たとこ勝負、そんなプリコラージュ式の岡井の文学論は、滋味掬すべき味わいを持つテクストとなるのである。


 とある。愚生にとっては前衛短歌運動の岡井隆であったから、『土地よ、痛みを負え』であるが、改めて、驚き、手に取った歌集は、岡井隆が疾走し、短歌を書かなかった時期を経た直後に出た『鵞卵亭』である。愚生が書店員だった頃の、その詩歌の棚に、仕事で、その歌集を棚に差したときである。それ以来、さして読むことのなかった岡井隆を最後に読んだのは、晩年の大冊『ネフスキイ』である。果敢だとおもった。


 ひぐらしはうつとしもなく絶えぬれば四五日は〈躁〉やがて暗澹(あんたん)  隆


 あと一つの思い出は、たしか、東京で、坪内稔典らと開いた現代俳句シンポジウムの三橋敏雄と岡井隆の対談で、岡井隆が日野草城は俳句界でもっと見直されていいのではないかと語ったことである。そして、「子規新報」第2巻・第81号の宇田川寛之「となりの芝生―「短歌の現在・163回」の結びに、「『未来』の編集発行人は大辻隆弘氏が引き継ぐことになった」とあった。ともあれ、本誌本号より、いくつかの歌をランダムに挙げておこう。


 キシヲタオ・・・しその後(のち)に来んもの思(も)えば 夏曙(あけぼの)のerectio penis

 原子炉の火ともしごろを魔女ひとり膝に抑へてたのしむわれは

 詩歌などもはや救跋(きゅうばつ)につながらぬからき地上をひとり行くわれは

 来年もわれら同志でありうるかそれはわからぬそれが同志だ

 灰黄(かいこう)の枝をひろぐる林みゆ亡びんとする愛恋ひとつ

  右翼の木そそり立つ見ゆたまきわるわがうちにこそ茂りたつみゆ

 ヘイ 龍(ドラゴン)カム・ヒアといふ肥がするまつ暗だぜつていふ声が添ふ

 白鳥(はくてう)のねむれる沼を抱きながら夜もすがら濃くなりゆくウラン

 つきの光に花梨(くわりん)が青く垂れてゐる。ずるいなぁ先に時が満ち


 岡井隆(おかい・たかし) 1928年1月5日~2020年7月10日、享年92。名古屋市生まれ。



          芽夢野うのき「いつ死ぬも無になる蠟梅の盛り」↑

2021年1月26日火曜日

水岩瞳「風花を追ひ風花に追はれけり」(『幾何学模様』)・・・

                                  


 水岩瞳第二句集『幾何学模様』(ふらんす堂)、集名に因む句は、


   エプロンの幾何学模様レモン切る    瞳


 であろう。 著者「あとがき」には、


 三年前から始めた短歌も、短歌とは何かという問いはありません。小説は勿論、短歌も紆余曲折を経て、今では何でもありになりました。何でもありとは、表現の多様性であり、表現の多様性あってこそ、文学です。(中略)

 だから、「俳句とは何か」「俳句は文学なのか」という問いが付きまといます。俳諧はもっと自由なものではなかったのか。(中略)

 芭蕉ほど作風を変えた人はいません。作風の変遷を繰り返しながら、俳風を打ち立て、不易流行を宣布し、最後は軽みについて力説した芭蕉です。しかし、晩年の俳風が芭蕉の究極の作風というわけではない。そう誤解されることを恐れて、「俳諧いまだ俵口をとかず」と言い残しました。この言葉は、俳諧の可能性は無限にあると、芭蕉が固く信じていたということではないでしょうか。


 とあった。誰しもだが、俳句を志した人の多くは、口の端にのぼらせるか否かは別にして、句を書くたびに、「俳句とは何か」という問いを発しながら、句を書き続けるのである。そういう魔訶不思議な形式なのだ。


 俳句を始めて十四年、まだ俳句がよくわからないという私の疑問に、池田澄子先生は、「私もわかりません。わからないから、俳句をしているのです。」と、答えて下さいました。わからないから、俳句をしている。この御言葉に、私は大いに納得し、大いに励まされました。(同前)


 ともあった。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するが幾つかの句を挙げておこう。


  戦争に使はれし日々花の雨

  零戦は飛ぶ八月の海の底

  忠魂碑のそばの馬魂碑五月雨

  色変へぬ松にも変はりたき心

  鶏頭の十四五本の中の鈍

  ダ・ヴィンチの未完の右手冬深し

  もう誰のものでもないと切れた凧

  脱脂粉乳いまは無脂乳昭和の日

  旧舎から移らぬ象や木の実落つ

  黒板に晴の字残る三月忌

  鯉幟のなかの青空折り畳む


 水岩瞳(みずいわ・ひとみ) 名古屋市生まれ。



★閑話休題・・・訃報・北川美美「囀りやたしかに空の空は空」(「豈」63号より)・・・


  北川美美は、「豈」同人にして事務局、BLOG「俳句新空間」等にも、協力してもらっていた。繰り返された入退院の闘病中も「WEP俳句通信」に、三橋敏雄論を書き継いでいた。が、彼女の訃報に接することになった。

 去る1月14日に亡くなり、葬儀その他は、終えられたということだった。享年57の若すぎる死である。ご冥福を祈る。合掌。

 北川美美(きたがわ・びび) 1963年9月24日~2021年1月14日、享年57。



撮影・鈴木純一「多くの俳人は変わりたがるが、ほとんどのランナーは変わっている」↑

2021年1月25日月曜日

夏礼子「春の空きっと誰かが溺れます」(「戛戛」第124号)・・・

 

「戛戛」第124号(詭激時代社・第3次詭激時代通巻168号)、「戛戛」124号付録に「追想 和田吉史遺文」があり、夏礼子「出会いのつながり」がある。各務麗至の「覚書」によると、


 お二人が亡くなられて、もう何年になるだろう。和田プリント、と、聞けば、昭和後半から平成半ばにかけて、

 香川の中讃や西讃といわれる地方の文化文芸の印刷物の大半を担ってきた印刷所で、あの時代の香川の同人誌関係の人ならば、特別思い出したり忘れられない感慨深いものが過ぎるのではないだろうか。

 学校関係や福祉関係に及ぶ印刷物や文集など、その誠意と精確さから、一番にはその安価からだが私もその後家族ぐるみで懇意にして貰った一人だったから、(中略)

 いろいろな人たちとの交流を文章だけでなく現実に目の当たりにしていたから、随分多方面から重宝されていたように思っている。そしてそんな香川の文化の一翼を担っていたと言っても過言ではない和田さんご夫妻の事が浮かんだのは、

 やはり若い頃のお世話になってのお蔭が忘れられなかったのと、私の個人全集的精選集繋がりだと思ってしまう。(中略)

 今は殆んどが終刊しているが当時の和田プリントの同人誌関係への貢献は尋常ではなかったと思えるのである。(中略)

 決して忘れてはならないものを改めて示してくれた和田さんに、夏も私も、で・・・、感謝と追想の思いに手を合わせるだけであるが、

 あの、青き若きを育ててくれたような時代が確かにあったことが、幸運としか思えないような不思議な年齢になって今も書きつづけている。


 と記されている。また本誌には各務麗至「いいよりこの海」、「闇のなか」が収載されている。が、その「あとがき」には、


 今回—四、五十年前の初心の頃の作品で、特に読んでもらいたいのを編集しました。

時々過去の作品を出してきますが、歴史的仮名遣い正字旧漢字ですけれど、

書いた当時の本人も旧漢字や旧仮名遣いは知らないのですから難しいと思う必要はないのです。感覚でわかっていただければそれでいいのです。読めると思います。

 というのも、文章から自然に見えてくる思うままでいいのです。 


 とあった。ともあれ、ここでは、夏礼子の句「この道」から、いくつかの句を挙げておきたい。


  一本の鉛筆がある敗戦日        礼子

  冬夕焼会いたいときに会いたいな

  三人の日と書く「春」や桜餅

  トランプにジョーカー道に落とし穴

  マフラーは巻くもの両手つなぐもの




★閑話休題・・・塚越徹「伊能図のまゝの御祖師まいりかな」(ivy)・・・

 塚越徹は「豈」の創刊同人である。本職は眼鏡店であり、愚生が生涯にたった一度、近眼鏡を作ってもらったのは彼だ。幸いというべきか、その頃の0.6程度、乱視の視力は現在もなお、0.3程度はあるので、普段は眼鏡をかけていない。もう、映画館、劇場にも行っていないので、その眼鏡は机の中に眠っている。ただ、最近は老眼も進行しているらしいので、手元の天眼鏡は必須である。彼は、多くは詩を書いていたが(「豈」には石原吉郎論を書いていたように記憶する)、近頃、思い立ったように句群を送って来る。その中から、本人には迷惑かもしれず、無断であるが、捨て置かずにいくつかの句を紹介しておきたい。


  古き家内にivyが侵略し          徹

  年号に養蚕あってしかるべし    

  指を彫る耳を作れるips

     地下鉄の「東京水」で手を洗う

  朝顔(ケンゴシ)の天の川まで至るべし



         
芽夢野うのき「ひたひたと氷晴れなるこぶしの芽」↑

2021年1月24日日曜日

久保純夫「飛ぶよりも歩くを選び初雀」(「儒艮」VOL.34)・・・


 「儒艮」VOL.34(編集・発行 久保純夫)、「回想録(七)-熊野のことなど」は、愚生もほぼ同時代を歩いてきたせいか、興味深く、面白い。もっとも、愚生らがすでに想い出話ができる年齢に達してしまった、ということなのかも知れない。今回は愚生の名も出てくる(すっかり忘却のかなただったが、そうだったな・・・と思い出すのみ)。そこには、


(前略)こんな経験を重ねながら、『熊野集』を作った。装丁は僕と流美子で考える。黒地に金文字。金色の大小の正方形。帯にはこのような言葉が。「水のエロチシズムに透過し、まつろわぬ魂の揺動に、地霊の誘いを聞く。」大井恒行さんが考えてくれたのだろう。抄出を。

  種を蒔き終えし眼と出会いけり

  時雨傘見えざるものにひらきけり

  たましいのはじめにありし黄水仙

  抱き眠る八十八夜の火縄銃   (以下、略)


 他にも、「水際に兵器性器の夥し」「水甕の水の深さの国家かな」のなどの代表句を収めている。この『熊野集』によって、久保純夫は現代俳句協会賞を受賞した。そういえば、『熊野集』の原稿をいただき、打ち合わせをしたのは、彼が現俳協の行事などで、東京泊のとき、定宿にしていたらしい品川プリンスホテルで夕食を共にしながらだった。後に、彼の妻となる流美子女史とも初めてお会いした。また、この回のエッセイには、鈴木六林男の蛇笏賞受賞のお祝い会のことも記されているが、六林男から、参加御礼だと言って、贈られてきた毛布は、「ムリオの毛布」といい、我家でいまだに愛用している。ともあれ、本号より、一人一句を以下に挙げておきたい。


  糸縒の白身を愛し逝きにけり      久保純夫

  摩天楼冬三日月の折れる音       上森敦代

  冬日向家族写真を撮りませう      岸本由香

  何でもない暮らしの中の栗ごはん    久保 彩

  ふくら雀わたしにも鈴つけておく   近江満里子

  無人列車過ぐゆく空の曼珠沙華     伊藤蕃果

  赤い月人工にして生ぬるき       曾根 毅

  大伽藍超え蝶の目的あるように     妹尾 健

  牛膝ひざに飛びつく拉致の跡      志村宣子

  ゴム跳びの三人の子の耳袋       金山桜子

  この翅でやつて来ました隙間風    藤井なお子

  梟の求人情報出ていたる        原 知子



         撮影・鈴木純一「二人いて寒いと言えば川凍る」↑

2021年1月23日土曜日

高山れおな「犇犇となほ犇犇と密事始(ひめはじめ)(「俳壇」1月号)・・・


 「俳壇」一月号(本阿弥書店)、筑紫磐井「俳壇時評」は「俳句一三〇年史」に、桑原武夫が「第二芸術」を「世界」12月号に発表してから七十五年目にあたり、この間の戦後俳句の動向について触れた後に、同じ韻文であっても、詩・短歌・俳句の動向について、


 面白いのは、類似した定型詩であるが、短歌は俳句と微妙に違う流れを持ち、現代詩はほとんどこうした流れを超越しているように見えることだ。ただ、鼎談では触れていないが、近年はいずれも大衆化に突入したようで、私は、平成時代の俳句は、上達法に明け暮れていると思っている。


 という。そして、同号掲載の鼎談「戦後75年 詩歌の歩み」(筑紫磐井・川野里子・野村喜和夫)で戦後の戦争責任をめぐる問題、あるいは、前衛の概念などをめぐり、それぞれの違いを披歴した後、終盤に、


野村 (前略)わからないのは現代の句です。田中裕明の〈水遊びする子に先生から手紙〉、どこが俳句なんだろう。どこが詩なんだろう。なかはられいこの〈ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ〉はレトリック的な冒険があるかもそれないが。短歌もそんな感じがします。いわば一つの重力として、文語的なもの、あるいはメタファー的なもの、あるいは、ちょっと重いかなというような言葉を入れないと、表現は拡散していくばかりですね。現代詩もそうです。(中略)

川野 今の短歌にもそれはあって、そういう意味では今、この瞬間しかない。このモノしかない、という断裂して、断片化していく世界というものに、まさに刻々と立ち合っている。その感覚を私も共有しています。

 だけど短歌では、時間の中から汲み上げてくるしらべ、韻律、言葉というものを「自分の言葉や体を通して時間を汲み上げる」ことができる。これが実は戦後からの宿題に対する答えになりうるのではないか。(中略)

筑紫 虚子の俳句はどうってことのない俳句だけれど、意味を読む向う側に「俳句って何なのか」という問いがある。こちらの側に「俳句とは何か」という問い掛けがあれば、いろいろな俳句の読み方がうまれるのじゃないかと思います。(中略)

野村 川野さんが最後におっしゃた「時間を汲み上げる」とはすてきな言葉だ。僕が言った「限りなく拡散していく現在に対して、それをつなぎとめる言葉の重力」というのとちょっと似ているかなあ。基本的には「まず、自分の中にある時間ということでしょうけれど、いい言葉だなあ、やってみようとおもっています。

 と語られている。ブログタイトルにした高山れおな「犇犇となほ犇犇と密事始(ひめはじめ」は、「『牛』のある字を詠む」の企画のなかの句である。他に、面識のある方々の一句を挙げておこう。


  歯固犇(ひし)と仏稜風牛肩炙肉(ビステッカ・アッラ・フィオレンテーィナ)

  はも                高山れおな

   いかのぼり牧の起伏の百町歩     太田土男

   年酒酌む物やはらく生きめやも    鈴木節子

   句心は火牛の如く去年今年     小暮陶句郎

   謎解きの件に入る炬燵かな     宮本佳代乃




★閑話休題・・・志賀康「人あまり笑わず小さき野を焼けり」(「俳句界」2月号)・・・

 特別作品は、茨木和生、岩淵喜代子、志賀康。特集は「みちのく俳人競泳」と「てにをは再入門」。ここでは、愚生とはすれ違ったが、愚生も創刊同人だった今は無き「未定」同人の志賀康、総合誌での特別作品では、なかなか読めない俳人だから、是非紹介したかった。ともあれ、本号の特集より、目についた俳人の一人一句を挙げておきたい。


   死の端が見えてをるなり青簾       武藤紀子

   山越えの雲の降らせる春の雪       茨木和生

   下萌えや昨日も今日も川の音      岩淵喜代子

   蟲死んで冬の野になお蟲の闇       志賀 康

   姥捨の山仰ぎゐる雪女          照井 翠

   町ひとつ津波に失せて白日傘       柏原眠雨

   通う血がありて凍れる銀杏の木     高野ムツオ

   日も月も全裸や蛇の冬ふえて      鳥居真里子

   春はすぐそこだけどパスワードが違う   福田若之



            芽夢野うのき「流連の男蹴飛ばす白椿」↑

2021年1月22日金曜日

久々湊盈子「散りたまるさくら花びら踏みてゆく平和の残滓でなければよいが」(『猛獣を宿す歌人達』より)・・

  


 今井正和歌論集『猛獣を宿す歌人達』(コールサック社)、解説は鈴木比佐雄「民衆の悲しみを背負う『猛獣』を心に映す人」。著者は「はじめに」で述べているように、「本書は、沖縄の歌誌『くれない』の主宰玉城洋子氏から執筆の機会をいただいて成立したものである。二〇一六年十月から二〇二〇年十二月までの全五十回の歌壇時評をまとめた」ものである。また、「あとがき」には、

 

 書名の『猛獣を宿す歌人達』とは、自己の内部に噴出する詩作へのエネルギーに満ちている人たちを指し、その抑えがたい思いを短歌にぶつけている歌人たちの事を言う。その短歌制作の熱意には、敬愛の念を抱く。


 と記されている。あと一つ、石牟礼道子全歌集『海と空のあいだに』(弦書房)より(二〇一九年十二月)の評「猛獣を檻に入れて」では、石牟礼道子の一首を引いて、


  いちまいのまなこあるゆゑうつしをりひとの死にゆくまでの惨苦を

 人間の眼は、苦しみ、悶え、あがきなど、死んでゆく悲惨な姿をも見てしまう。人間には、他の人間の最期を見届ける使命のようなものを感じるのだ。

 石牟礼道子の歌集には、私たちが予期するほど、水俣病に関する歌は収められてはいない。歌を始めた頃、「あなたの歌には猛獣のようなものがひそんでいるから、これをうまくとりおさえて、檻に入れるがい」といわれたという。その通りに、猛獣は奥に潜ませて表には出ていない。


 と結んでいる。ブログタイトルに久々湊盈子の歌を挙げたので、もう一首を、その評とともに挙げておきたい。


  軍縮という語このごろ聞かずなりフリルレタスをさりさりと食む

 たしかにこのごろは軍縮から遠ざかっているようだ。レタスに歯ごたえがないのは、平和という実感が稀薄になっていることの投影であろう。食事をしながら、世界のどこかの紛争を聞いている作者は、あるいは一人の人間としての無力を噛みしめているのかもしれない。


今井正和(いまい・まさかず) 1952年、埼玉県秩父郡両神邑(現小鹿野町)生まれ。



★閑話休題・・久々湊盈子「秋風秋雨に打ちふせられしコロチカムのうすくれないも見て過ぐるなり」(「合歓」第91号)・・・

 「合歓」第91号(合歓の会)、毎号のインタビューは「雁部貞夫さんに聞く」。招待作品は花山周子「自転車日和」、「この歌集この一首」は「三枝昂之の歌」。それぞれの一人一首を挙げておこう。


 牡鹿半島渡波桃の浦月の浦ちさき入江の美しかりき       雁部貞夫

 人生はとてもひろい部屋 東から日が昇り水色の空がひろがる  花山周子

 連山を持つ幸福を思わせて蛇笏あり龍太あり甲斐の国あり    三枝昂之

 十年先はたちまち十年の過去となりおのれの齢うべないがたし 久々湊盈子  



       撮影・鈴木純一「蒲団干すこれから先は善いことが」↑

2021年1月21日木曜日

望月至高「コスモスの左右に高層ビル傾ぐ」(「奔」6号)・・・


 「奔」6号(奔編集室)、特集は「1960年代」。記事は代島治彦監督『きみが死んだあとで』上映会とトークの会、内海治彦「山本義隆『私の1960年代』再読」、佐藤清文「太平洋は踊る」など。愚生の注目は添田馨「令和=論(補遺)フェイクとしての『天翔』報道」であった。愚生にとっては難解な論ばかりであるが、編集後記の望月至高「後記赫赫」には、


 (前略)コロナの犠牲者の多くは明らかに貧困層である。日本の医療が崩壊し始めたが、誰もまさかこれほど脆弱だとは思っていなかっただろう。遡れば2009年竹中平蔵菅義偉正副総務省時代の私的諮問会議「地方分権21世紀ビジョン懇談会」に始まる。この時「自治体財政健全化法」が施行され、自治体に分野が異なるものの連結決算を迫った。自治体も経営に失敗すれば、企業なみに破産するとして、市場原理を導入し、自治体間競争を煽ったのである。これによって、公立病院が赤字だと財政再建団体に指定される恐れがあるため、統廃合縮小が行われた。公共性(コモン)が排除されていったのである。厚労省のHPを見ると、2009年(平成21年)から2018年(平成30年)の10年間で公立医療施設は1296から828に、半減しているのである。また、保健所は一市一軒へ。ちなみに大阪市は24軒あったものが、わずか1軒へ。

 この新自由主義の根本的誤謬は、水光熱医療教育福祉ー即ち市民の基本的生存条件を他のものと同列にみなし、単純な損得勘定に載せたことである。(中略)

 その克服に市民と専門家が時間をかけて作成されたマニフェストが発表されている。このような都市を「フィアレス・シティ」(恐れ知らずの都市)といい、コモンを掲げて完成度の高いバルセロナ市が有名である。2020年の「気候非常事態宣言」は世界的に有名であり、「都市公共空間の緑化、電力や食の地産地消、公共交通機関の拡充、自動車や飛行機・船舶の制限、エネルギー貧困の解消、ごみの削減リサイクル」(斉藤公平著参照)など、240項目に及ぶ包括的行動指針が宣言されている。労働者市民の力は既存の政治家を凌いでいるのである。


 と述べてられていた。そして、添えられた便りには、「残念ながら、個人的事情により、6号をもって無期休刊とします」とあった。これまでの奮闘に敬意を表したい。ともあれ、ここでは俳句作品の一人一句を以下に紹介しておきたい。

    聖人は極彩色の枯野ゆく      今井照容

    特別区なめてうろつく穴惑い    綿原芳美

    下放したまま笑う象の三角州   大橋愛由等

    繭に似るバギーの後より兜虫    望月至高

    天涯の蒼き紐から氷る夜      大井恒行



★閑話休題・・・福島泰樹「六月十五日 デモするわれより鮮烈に路上に割れていたりき西瓜」(『甦る、抵抗の季節』より)・・・

 前掲の「奔」と60年安保つながりで、『安保闘争六〇周年・記念講演会記録/甦る、抵抗の季節』(言視舎)。記念講演会は、2020年6月10日(水)13時~、於:憲政記念会館、主催:NO!安保60の会 9条改憲阻止の会で開催された。二つの講演は、保阪正康「歴史の視座に立って 六〇年安保闘争の意味と評価」、高橋源一郎「語り継ぐコミュニケーションとは NOを言わない若者、YESがあいまいな若者」。他に資料編、参加者アンケートなど。パンデミックのなか、500名キャパ、会場側からの100名の人数制限のなかで、開催された集会は、三密を避ける一点突破の「正しく怖れて、自粛を拒否する」(記念講演会実行委員会・三上治「発刊にあたって」)。また、「本講演の開催による新型コロナウイルス感染者は、一人として発生しなかった」と報告されている。愚生がこの本を読むきっかけを作ってくれたのは藤森建二の年賀状による(愚生は二年前から一切の賀状を辞めてしまったが・・)。記録関係者の一人で、ブログ「大槌の風」の人である(閲覧して下さい)。ここでは、本誌より、トップグラビアの歌を記しておきたい。


 マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや   寺山修司

 ヘルメットついにとらざりし列のまえ屈辱ならぬ黙禱の位置    岸上大作

 みな雨に濡れていたっけ泣いていたフランスデモの若者がゆく   福島泰樹

 釈放されて帰りしわれの頬打つ父よあなたこそ起たねばならぬ  道浦母都子

 我は生き彼女は逝きし六月の雨は今年も沛然と降る       世路蛮太郎



       芽夢野うのき「口に咥えて薔薇は真っ赤に踊り出す」↑

2021年1月20日水曜日

遠山陽子「鬼北風や毛の国のみな尖り山」(「弦」第43号)・・・


 「弦」第43号(弦楽社)、主な内容は、遠山陽子令和2年作品「杜國の地」、その作品鑑賞を髙野公一「米寿白光」、そして、澤好摩「不思議な共感ー三橋敏雄と高柳重信」、遠山陽子「三橋敏雄を読む(6)/『しだらでん』(平成八年十一月十八日刊より)」。その遠山陽子の「あとがき」には、


 今年は三橋敏雄生誕100年の年である。平成生まれの若い作者にとっては、敏雄はすでに歴史上の作家となっているのだろう。しかし、敏雄の予見どおり、三・一一があり、フクシマがあった。世界中が分断と対立の様相を呈し、そしてコロナ。「人類憐憫(あはれみ)の令あれ天の川  敏雄」の句は、未だに生々しくわれわれの目前にあるのである。


 と記されている。本誌中、愚生が興味をひかれたのは、澤好摩の、


(前略)ある話をしているとき、どうも高柳重信の記憶が間違っているように思ったので、「先生、それは違うと思います、それは・・・」と言いかけたら、高柳重信は「澤は帰っていいぞ、明日から来るに及ばず」と、いきなり破門を言い渡されたのである。あまりに突然なので、驚いたが、ここで簡単に破門されてはかなわないと思ったので、「いいえ、そうはいきません。明日、『俳句研究』の校正刷りが出ますので、それを持ってお宅に伺います」と言って、席を立った。

 恥ずかしいことながら、高柳重信から破門を言い渡されたのは、これで二回目であった。一回目は北山印刷の社長が仲に入って、何とか取りなして戴いたのであった。

 そのとき、「俳句評論」の同人ではないが、時折、句会に顔を出していたB氏が「澤君、あのねぇ」と高柳重信と私の仲裁に入ろうとした。その瞬間、大きな声で三橋敏雄が「おい、やめろ。余計なことをせず、こっちへ座っていろ」とB氏を引き止めた。これは正解だった。仲裁なんか入れば、話は余計にこんがらがるし、収まるものも収まらなくなったに違いない。三橋敏雄はそのことをよく分かっていたに違いなく、助けられたのである。


 とあった。澤好摩が、高柳重信のことを「先生」と言ったか、どうかは怪しいが(というのは、当時、先生と言っていたのは女性陣で、男性群はみな、「高柳さん」だったような・・・)、こうしたエピソードは、じつに三人の機微を得ている。もっともこのエッセイでは、「俳句評論」(創刊十五周年記念号・昭和47年11月)に掲載された、高柳重信・三橋敏雄・折笠美秋の「座談会ー『有季・定型』をめぐって」が引用紹介されていて、それが、示唆に富んだもので、これについては、読者諸兄姉が直接当たられたい。ともあれ、ここでは米寿健在の遠山陽子の作品をいくつか以下に挙げておきたい。


  帰去来(かへりなむいざ)星載せて冬欅     陽子

  蛇覚めるころペンキ屋がやつて来る

  ウイルスいづこピンクのスーパームーン

  果て知れぬ花の奈落やわが昭和

  筍のけもののごとき抱き心地

  身籠りてより紫陽花を知り尽す

  古びゆくものに佳人や鳥渡る

  鎮座せし南瓜に悪しき空模様

  色好む男は佳けれ長ひさご

  見たかりし米寿の敏雄十二月


     撮影・鈴木純一「いつだつてモグモグタイム春擦り」↑

2021年1月19日火曜日

可野謙二「母は海三界一同にひらく海の花」(「不知火海のエビガレ」)・・・


            1993年ごろ(28年前)との添え書き↑

 本日、さとみ謙作こと可野謙二の訃がもたらされた。元妻という方の、その便りには「1月10日に可野謙二はおりからの寒さで『低体温症』で他界しました。1月2日でちょうど80歳になったばかり」とあった。彼は山中で一人で暮らしていた。30年以上前から、愚生の娘や息子にと、山で拾った団栗や木の実、木彫りの牛を贈ってきてくれていた。だから、まだ、子どもだった姉弟は、彼のことを「牛のおじさん」と呼んでいた。そして、物心ついたころには影絵の組み写真を贈ってきてくれたり、彼が手作りの竹笛・篠笛もあった。福岡県みやこ郡にあるらしい、その山小屋は「風工房」と名付けられていた。電気も水道もなく、自給自足の生活だったという。そして、時折、俳句を作っていた。「豈」誌の購読を申し込んできてもいた。自ら影絵と物語を作って、近所の小学校で、ボランティアでみんなに披露していたこともあったらしい。そのうちの一つが、「不知火海のエビガレ」だった。短いので以下に紹介したい。

 


      不知火海のエビガレ

不知火海は島々にかこまれて まるで湖のようです。

まだ夜中の3時過ぎ船だまりでは漁師らの声がとびかって それぞれ夕方仕掛けた立網を目指して船をだします。

薄暗い海にチロチロとタルの熾火浮きが咥えて近づいて来ると船首に身をのり出して構えて一瞬の内に浮きを引き寄せます。それから2時間余り所々に仕掛けた網をヨイショヨイショと引き上げます。

海の底から生まれた様に網にかかった車エビがビビンビビンとはねると年輪を刻んだ漁師等の顔にきらりとひかる微笑が浮かびます。


    他にも、影絵「しまった!!オオカミ」ろいうのもあった↓

            


 とはいえ、彼(さとみ謙作=可野謙二)と直接会い、話したことは、たぶん数回にしか過ぎないだろう。愚生が二十歳のとき、つまり立命館大学2部・夜間部の学生だったとき、彼は既に28歳(10歳くらい上だと思っていたが、このたび正確な年齢をはじめて知った)。大阪にある某大学に、彼を含めて3,4人で、夜、その学内に入ったことがある。学園闘争が吹き荒れていた頃のことだ。その大学のキャンパスは右翼が支配していた。いきなり我々は7,8人の男たちに取り囲まれて、逃げようにも逃げられない。袋たたきにされて放り出されるか、闘うかしかない、と観念した。その時、愚生より、わずか斜め前にいた彼が、突然、空手の構えを見せて、「お前らやるのか!!」と恫喝した。数では圧倒的不利だった愚生らは、その一喝で、向うが折れて、無事に学内を案内してもらった。彼は小柄だったが、すでにして、そこらの学生より遥かに年上のいいオッサンだったに違いない。事実、空手は相当な腕前だったらしい。生まれは、和歌山県熊野の山奥(中辺路町内井川)と言っていた。縁はあるもので、大牟田の俳人・谷口慎也とは地元で知り合いになっていたらしい。さらに大昔、堀本吟・北村虻曵宅に泊まったこともあるらしい。

 この度の訃の便りには、一人で山小屋を作り、50歳から30年を一人で自給自足、これまでさしたる病もなく、生き抜いて、自分のスタイルを貫いての大往生、とあり、100日をめどに実家のある和歌山にいくまで、地元の人の世話になりながら、遺骨も春先までは、その山小屋に安置されいるという。無宗教だったので、戒名は、元妻と娘さんで次のように付けられたという。いい戒名である。


  風魂貫宙赤捲遊泳仙人


 最後に、愚生の元にある5年前のレターパックに記されていた彼の俳句をいくつか挙げさせていただいて、ご冥福を祈りたい。

  

 平成29年3月「上関原発を建てさせない祝島島民の会/御礼とご報告」が貼りつけられていたレターパック↑


   湖底の月の溺れて空に沈む刻         謙二

   地震降りて闇一頭のいななきを聞き

   たんぽぽのぽぽのあたりで風にのれ

   汚染水垂れ流すなよ魚怒る

   金玉を直して強き相撲かな

   虚空よく物容ると兼好いふてダークマター

   水の面にあや織り乱れアメンボ

   尺取虫宇宙に広さ刻々告げり

   樹液あびた個体は暗から闇へ転化をはかれ

   3・11春の心の置き所なし

   母は海漁師魂と枇杷の島

   山怒る核汚染どうしてくれる

  

  可野謙二(かの・けんじ) 1941(昭和16)年1月2日~2021(令和)3年1月10日、和歌山県生まれ。享年80.

  


         芽夢野うのき「どこまでも冬野いっそう白き野風」↑

2021年1月18日月曜日

大牧広「昼すぎて白疲れゐし初国旗」(「こんちえると」第38号)・・・

  


 月刊俳句通信紙「こんちえると」第38号(牛歩屋主人・関根どうほう)、師系/大牧広とあるように、大牧広にまつわる記事も多々あるが、他誌に見られない特徴は、何と言っても、関根道豊「時評もどき・12月」で、三大新聞「俳壇」の投句欄、ならびに、総合誌の秀句を拾って、しかも、いわゆる社会詠・時事詠を多く、これでもか、と言わんばかりに収録していることではなかろうか。月刊紙とされているので、愚生などには、この煩瑣を徒労の積み重ねのようで、むしろ心が痛むくらいだ。しかし、それは、関根道豊という人の使命感のようでさえあり、大牧広の以下の言葉を挙げていることからも伺えよう。


 大牧広先生が逝かれて、はや1年9カ月になろうとしているが、私の耳を離れないのが次の言葉である。

 「『風雅の誠を追う』という俳人の姿勢に溺れることなく地球上に何が起きているかを、しなやかな精神で詠み続けることが現代俳人の課題であると考える/地球上の不幸な出来ごと、戦争、テロ、病気、これらを直視して俳句となす。この姿勢こそが俳句に永遠の力を与えるものだと考えている。」

 大牧先生と「港」30年の、俳句の到達点がここに凝縮されている。


 例えば、「朝日俳壇」、ここでは「豈」同人の高山れおなの選句のみを引用しておこう。


 12月13日・寡婦多く空家も多し柿の村       宇部市 萬 洋子

 12月20日・十二月八日国民マスクせよ       白河市 佐藤佳夫

       マスクして羊の如く冬を征く      宝塚市 沖 省三

 12月27日・出て籠り籠りては出る年の逝く  京都府精華町 土佐弘二  


 その他、特別寄稿に武良竜彦「高野ムツオの震災詠総括1」、高橋まさお「核の時代をどう詠むのか 時事詠を読む(21)」、波切虹洋「虹洋の練習塾」など、愚生の老いの眼には、少し難儀な、文字小さめの記事が満載されている。 ここでは、特集の「2020年の秀句を振り返る」から、「こんちえると俳壇・雑詠【天】の句」の第7回~第18回を以下に紹介しておきたい。


   柿の木は残し故郷の墓仕舞       早川信之

   あの頃の茶房のマッチ雪が降る    朝賀みどり

   「生きる」とは全身麻酔さめて咳    青野草太

   シャボン玉幼き息を継ぎ足して     波切虹洋

   捨て畑に意地のごとくに葱坊主    足立貴志子

   人を避け人に避けられ暮の春     石原百合子

   曝書して師の終焉の五句に逢ふ     角田大定

   人類が創りし忌なり原爆忌       青野草太

   締め直す蛇口のゆるび敗戦忌      熊谷美之 

   手花火の落ちた闇から昭和の春     田村専一

   オムライスやさしくくずす賢治の忌  若林ふさ子

   鍵盤の一つ沈ませ愁思かな      前田千恵子  


       撮影・鈴木純一「臘梅や母のむくろに触れた手で」↑

2021年1月17日日曜日

安里琉太「日本の元気なころの水着かな」(「滸」2号より)・・・

              


 「滸(ほとり)」2号(編集 安里琉太、髙良真実)、特集Ⅰは安里琉太『式日』(西村麒麟選『式日』抄)、特集Ⅱは西原裕美『わたしでないもの』探訪、他に、同人作品(安里琉太・酢橘とおる・髙良真実・西原裕美・屋良健一郎)と企画「相互評」とある。ここでは、紙幅と愚生の都合で、句と歌の作品のみの紹介に留めたい。『式日』評の福田若之「たそがれの飽和から」の中に、


 (前略)琉太はむしろ龍太の句のモチーフを借り受ける。たとえば、琉太の《寒雲の蒐まつてくる筆二本》は、龍太の《春暁の竹筒にある筆二本》を踏まえたものと読める。ところで、同じく『式日』に収められた《ひかり野に蝶が余つてゐるといふ》は、折笠美秋が彼の妻に宛てた句とされる《ひかり野へ君なら蝶に乘れるだろう》を踏まえたものだ。琉太は、いわゆる「伝統」もいわゆる「前衛」も、隔てなく自らの句に取りこむことができる。ただし、それは彼が句から表層的なイメージを抽象することによる。琉太は、龍太のように書くのでも、美秋のように書くのでもない。仮に同じ二本の筆を得たとしても、琉太は琉太としてしか書けない。

 『式日』の帯に置かれた「書くことは/書けなさから始まっていると、/今、強く思う」という彼の言葉を、こうした文脈のもとに読むことができる。実際、自らの郷土を《かたつむり甲斐も信濃も雨のなか》と書きえた龍太のようには、琉太は彼の「沖縄」を書けないでいる。(中略)

 はじめに記しておいたとおり、『式日』という句集はすでに何度も評されてきている。しかし、どういうわけか、その表題句については、付録の栞に載っている鳥居真里子「雲籠めの白花」に「枯れる」という主題をめぐって軽く触れられている程度で、これまでほとんど語られてこなかった。

  式日や実石榴に日の枯れてをる

 率直に書いてしまうなら、この句はさほどおもしろいものではないと思う。(中略)

 『式日』には《くちなはの来し方に日の枯れてゐる》という句もあるのだが、さして代り映えしない、そのうえこの薄められたような書きぶりで、どうして二句も収めてあるのか。

 鍵は、季節順の配列のなかで、二句がそれぞれ「実石榴」の秋季、「くちなは」の夏季に置かれていることなのだろう。(中略)四季を問わないひかりの古びを、すなわち、おそらくはたそがれのことを言っているのだ。このことはたしかにいくらかあたらしい。(中略)

安里琉太は、ミネルヴァの梟よろしく、たそがれの飽和から出立する。自らの門出の式日を祭りのあととみなすことからはじめた彼は、ここから、さらにいかなるあたらしみを育むのだろう。

  炎昼や未生の鳥を浮かべたる

『式日』の意義は、この句に予感された「未生の鳥」が象徴しうるもの、すなわち、彼の未来の句に懸かっている。

  

 とあり、結ばれている。「書けなさ」とは、彼にとって書けないことではなく、書きたいことはあるが、むしろ、はやばやと書けてしまって、書き切れていない、ということなのではないだろうか。ともあれ、本誌本号より一人一句、一首を挙げておこう。


  紀ノ国の炭うつくしき大暑かな   

  運ぶべく千手観音千の手のひとつひとつのはづされてあり     安里琉太

  乱れ歯の青年笑むに笑み返かへし受け取らざき神も思想も     髙良真実

  泡盛にしぼれば声をあげながらシークヮーサーから小人の落ち来 屋良健一郎



       撮影・芽夢野うのき「知りたいのその奥の葉牡丹の杳」↑

2021年1月16日土曜日

依田善朗「たつぷりと水に浸して鍬始」(「磁石」創刊号)・・・

 

「磁石」2021年1-2月/創刊号(磁石俳句会)、依田善朗「新俳誌『磁石』創刊の辞」に、


 (前略)鍵和田主宰は、「俳句は抒情詩の一つとして、作者の生(レーベン)の実感を、自分自身のことばで、生き生きと表現すべき」と語っていました。その精神を受け継ぎ、「命を伝える俳句」を目指します。生きとし生けるものの命を身体でしっかり受け止め、心で昇華し、全身から湧き出た言葉で語る俳句を作っていきましょう。五七五という短い詩のなかに、自然や自己の実相を表現できたとき、私たちは無上の喜びを感じるのではないでしょうか。


 と記されている。昨年6月に亡くなられた鍵和田秞子主宰「未来図」の後継誌である。特集は依田善朗句集『転蓬』。創刊に寄せては、鈴木節子「高らかに乾杯」、藤本美和子「大きな森」、それぞれに祝句が献じられている。

    

   朗々と磁石に年の立ちにけり     鈴木節子(「門」名誉主宰)

   新玉の年の磁石を森の央       藤本美和子(「泉」主宰) 


 そういえば、愚生の仕事先の府中市中央文化センターの会議室では、この新年にも、日曜日の午前中に「未来図」俳句会の名で句会が継続されている。また、府中市中央図書館の4階、郷土の作家たちのコーナーには、「未来図」全冊、鍵和田秞子全著作物が棚に収まっている(ちなみに坂口昌弘、愚生の本も・・)。本誌本号をみると、その府中句会の責任者は、極光集の井上ひろ子らしい。


   偲ぶ日や堀の一枝の帰り花     井上ひろ子


 とあった。ちなみに編集長は飯田冬眞、その編集後記には、


 (前略)私たちには、鍵和田秞子という「磁石」がある。「命を伝える俳句」の指針であり、磁力の根源だ。この磁石を胸に秘め、極域にあるオーロラ「極光」を目指して行こう。その「航路」こそが、俳句結社「磁石」の歴史になるのだと信じて。


とある。ともあれ、その極光集から一人一句を挙げておこう。


  澄む水の寺の鼓動となり巡る      池田尚文

  ひさかたの大和の杜の竜田姫      今田清照

  杖の身にうしろより傘秋の雨     柿沼あい子 

  太枝の如く生けたる破魔矢かな     角谷昌子

  曼珠沙華地球はいつも燃えてをり    河野絢子

  山頭火忌崩れ石積ふれて行く      長澤寛一

  人と人隔つマスクを外しけり       林 瑞夫

  人の世を揶揄す背高泡立草       細井寿子

  賀状掉尾「すべて仏のお導き」     守屋明俊

  隻眼の鹿も等しく角伐られ       山田径子



★閑話休題・・・鍵和田秞子「金目鯛夕映え色を手放さず」(『鍵和田秞子全句集』)・・・

『鍵和田秞子全句集』(ふらんす堂)、既刊句集に第10句集『火の禱り』以後79句加えた作品、4042句を収録。「句集解題」は角谷昌子、「年譜」は石地まゆみ、「あとがき」に守屋明俊。初句索引と季語索引が付されている。装幀は和兎。ここでは、既刊句集未収録ゆえ、最後の句集『火の禱り』以後の句から、いくつかを挙げておきたい。


   千年の礎石を支へいぬふぐり        秞子

   青すすき魔物にあふと占はれ

   ゆふさりを鳴くのがいのち秋の蟬

   文明が銃に行き着く春霙

   捕はれの鸚哥(インコ)騒げる開戦日

   草も木もなびきし世あり建国日

   わが部屋の寝乱れはげし沖縄忌

   深秋や笑つていいよと犬が言ふ

   

 鍵和田秞子(かぎわだ・ゆうこ) 1932(昭和7)年2月21日~2020(令和2)6月11日。神奈川県生まれ。享年88。



        撮影・鈴木純一「鉄筆ハ闇夜ノ霜ノ如ク引ク」↑

2021年1月15日金曜日

石井辰彦「大空を通ふまぼろし(飛行機が二機だつた、とか)には影がない」(『石井辰彦歌集』)・・

 

『石井辰彦歌集』(砂子屋書房・現代短歌文庫151)、帯には、


  歎きの歌人は自らの魂を削って歌を紡ぐ/決して希望を失うことなく/悲しみを祓い浄めるために/ひとり果てしなき道をゆく

単行本未収録連作短歌を多数収録した初の自選作品集


 とある。 石井辰彦にとって、表題に「歌集」としたのは初めてだという。かつ、巻末の「覚書」の中には、


 単行本未収録の連作短歌八篇を、文体の特色や創作時期により四つに分かって収録し、未公刊の長歌二首をこれに加えた。その時々の著書のテクスチュアと相容れなかったため、筐底に秘して来た作品群である。これら十篇は今後も他書には編入せず、本書でのみ読むことができる状態に留めおくこととしたい。


 と記されている。歌論は二篇「定型という城壁ーその破壊と再生」、「心情の器、詩の器ー二〇〇一年九月十一日以後の短歌」が収められている。ここでは、後者の歌論の終盤の部分を少しだが、引用紹介しておこう。


 (前略)詩は言葉で世界を認識しようとする行為である。短歌という詩型もまた、古来そのために使われてきた。詩型とはすなわち詩の器なのであって、言い換えればそれは、心情の器ではなく認識の器なのである。始まったばかりの二十一世紀は確かに困難な時代であり、酷薄なテロリストたちにせよ戦争好きの政治家たちにせよ、誰もがその時々の感情、大辻隆弘の言葉を借りれば、「デモーニッシュな感情」や「正しい認識」以前の、「原初的な心情」にまかせて行動しているように見えるが、そのような感情や心情の吹き荒ぶ嵐の中で歌人は、静かに世界を認識し、その認識を短歌という器に盛り込むべく全力を尽くさなければならないのだ。

 最後に連作短歌の部位に収められた大辻隆弘の一首を引用し、それに並べて、その短歌への批判として書かれたかのような岡井隆の一首を、連作短歌「葡萄系のことば」から引用しておこう。

 タリバンをわが精神の支柱とし耐へたる九月十日あはれ

 征戎(せんさう)を歌へばいきいきと溷濁(こんだく)ししやうもなやしやうもない短歌(みじかうた)

 短歌は「しやうもない」詩型なのだろうか?否!瞬間の心情を超えた認識の器であるかぎり、短歌という詩型は真正の詩たり得るはずなのである。言うまでもなく二十一世紀の短歌は、まず詩でなければなないのだ。


 ともあれ、集中より、挙げれば切りの無い短歌から、いくつかの短歌を以下に挙げておきたい(原歌は正字)。


 (ノド)や渇く 深井の底のまひるまの乱るる星の天(そら)を汲まばや  辰彦

 神掛けて実も葉も赤き七竈(ナナカマド)心見せむややまとことのは

 弟の墓を守(も)るなる鈍色(にびいろ)の海にも雪は降りそめにけり

 水脈(みを)ひとつ残して暮れぬこのつぎは双子の兄として生(うま)れたし

 死者は生者/生者は死者の如くにて・・・ 掲帝(ギャテイ)! 暁天(ゲウテン)には鳥の聲

 難民(ナンミン)の列に我(われ)から加はりぬ。立入禁止区域(オフリミツツ)の(西の)外(はづ)れで

 遥けくも烟(けぶ)れる丘を(さういへば久しく見ない)見て泣きなさい

火と燃ゆる酒を賜(た)べ わが酔ひ痴れしうへにも酔ひてみたき夏の夜(よ)

新しき罪を照らさむ料(れう)として夜更(よふけ)しづかに月 のぼりくる

      反歌(単行本未収録長歌の)

灌頂を美酒もてなさば現身(うつしみ)は(即ち〔すなはち〕)墓碑(ぼひ)。と、言はば言ふべし


 石井辰彦(いしい・たつひこ) 1952年、横浜市生まれ。



          芽夢野うのき「紅梅の一輪崩した犯人いづく」↑

2021年1月14日木曜日

祖翁「清く聞ん耳に香炷(たい)てほとゝぎす」(『そのにほひ(全訳)』)・・


         

  中嶋鬼谷翻刻・解説『弘化三年刊 俳諧集 そのにほひ(全訳)』(私家版)、その「はじめに」の中に、


 (前略)ここに翻刻・解説する俳諧集『そのにほひ』は、弘化三年(一八四六)に芭蕉百五十回忌追福の句碑建立を記念して刊行された句集である。

  清く聞(きか)ん耳に香炷(たい)て子規(ほとゝぎす)   はせを

 句集名は右の句碑にちなんで名付けられたものである。

 ところで、この句集は永年不明であったが、福島幸八氏が「埼玉史談」(昭和四十年発行、第十二巻第二号)に記念句集の存在することを紹介した。

 句集原本所有者は小鹿野町長久保の旧家・高田家。

 写真家であり、郷土史研究家である野口正史氏が『秩父の俳句紀行』(二〇二〇年十一月一日刊)を刊行するにあたり、新たな資料を蒐集した際に原本に辿り着いた。ここに幻の句集が姿を現すことになったのである。拙著はその句集の全訳である。

 漢文の「序」は秩父が生んだ高名な学者、日尾荊山(「解説」参照)。

「仮名序」は江戸の俳人来孤山人卓郎で、句集に登場する見外、爲山とともに江戸三大家と称せられた人物。「後引」(跋)も意中人由之。(中略)

 投句者総数四三四名の大冊。句集は彫り、印刷から見て当時の地方で作れるものではなく、二松學舎大学名誉教授の矢羽勝幸氏によれば「江戸版」と呼ばれる句集であるという。

 

 とあり、また、著者「あとがき」には、


 私が古文書解読に取り組み始めたのは、わが家に残されていた安政年間の古文書の内容を知るためであった。どうにか解読した一部は拙著『井上伝蔵とその時代』(埼玉新聞社刊)の中に、

 第三章 幕末の下吉田村ー無宿甚蔵一件

として収めてある。


 と記されている。愚生がかつて、井出孫六の『秩父困民党群像』の次に、興味をもって読んだのが、秩父事件と俳句を描いた中嶋幸三著『井上伝蔵ー秩父事件と俳句』(邑書林)だった。この著者が、俳人・中嶋鬼谷と同一人物であると気づいたのは、しばらくしてからである。生まれ育った地への愛着であろうか、その地から輩出された文化に対する中嶋鬼谷の愛着にも並々ならぬものが伺える。ともあれ、本著から翻刻の冒頭「百韻」初折の表のみになるが、以下に紹介しておきたい。


        


清く聞ん耳に香炷(たい)てほとゝぎす  祖翁

 ここにもうつし夏の俤          不識

晴れて行く雨のあと追ふ風吹いて      卓郎

 ふねさしもどるゆふべせはしき      兎仙

肴さへあらば開かんひと徳利        双湖

 出入りに袖のさはるまき藁        由之

(こおろぎ)鳴く音も細る月かげに    叩月

 露の光りのもみぢかつちる        幻外  (以下略)


 中嶋鬼谷(なかじま・きこく) 1939年、埼玉県秩父郡小鹿野町生まれ。



     撮影・鈴木純一「草の葉の枯れて楽しもしゆるりぴよん」↑