2014年1月31日金曜日
私は織田信長である・・・
北野元生(きたの・もとお)は、「何を隠そう私は織田信長である」と自己紹介する。
もとよりそんなことはあろうはずもないのだが、「そうですか」と応えると、浦島太郎のように「竜宮では老化は存在せず、最新の技術革新によっては細胞や組織が若くなることができるのである。従って一度は信長となったの受精卵は亀と乙姫の手によって、若い夫婦のもとに供与されたのであると」のたまうである。こうして「昭和12年に北野の人間として今日に到り」、かつ、近々には「また竜宮に赴く可能性が高い」と。
北野元生は、仏教大学大学院で坪内稔典教授の教え(西東三鬼研究)を受けている最中に「豈」に入会したいと、筑紫磐井に(懇願したかどうかは不明?だが)直接アタックして、豈の会の秘かな申し合わせにしていた入会時、愚生より若いという年齢制限の枠をあっさり破壊してしまった。というわけで、現在、豈入会への障害はなにもなく、無差別の先着順のようなものになっている。もっとも発行人・筑紫磐井がノーといえば実現しないが・・・。そのあたりは、並の結社より限りなく主宰に近い権威を有している。かの山口誓子は神に近しと言われていたことに匹敵するやも知れない。
(もっとも、磐井は磐井で、怖いお姉さま方にお伺いをたてることは忘れなていないようであるが)。
現在、北野元生(「船団」では北野元玄と名乗っていた)は「船団」「豈」「LOTUS」に所属している。
このたび第一句集『赤道を止めてーバベルのライン』(文學の森)を上梓したので、愚生の仲間ということもあって、少し、褒めておきたいが、北野は褒められて喜ぶような御仁ではない(心の内は知らないが、すくなくとも表向きは)。
少し、否定的なことでも述べたた方がほんとは喜ぶマゾ的なひねくれ者とでも言ったほうが良いかもしれない。
北野元生は幼少期から、俳句になじんできたようだが、実際に句をつくりはじめたのは近年のことで、「船団」での発表を嚆矢とする。
貪欲な勉強家だから、あらゆる傾向の俳句を詠み、テーマでその実をせめているようである。
愚生は古い人間だから、奇矯な句よりも、時折り、彼がみせるオーソドクスの平凡と思われるような句に魅かれるのである。
鹿児島大学歯学部教授だったときもあるようなので、その地に因んだ句のなかから、最近の「豈」55号から句を上げておきたい。
題して「熊曾建」。
子らは地に騾馬を描きし松が梢(うれ) 元生
吾が落す泪とは知れ草の露
そして、本句集において、愚生の力遠く及ばず、申し訳ない跋を記すことになってしまったが、あらためて、北野元生の今後については、「この一集を読まれる人々のそれぞれの判断にゆだねるべきことであろう」ことを繰り返しておくので、是非お読みになっていただきたい。
因みに、序文は内藤三郎、解説九堂夜想。
生真面目に涅槃西風あり春画あり
晴天の今日柿を吊る首を吊る
ウロボロス劣等感を初期化する
ピーターパン・シンドロームかも、虹は
剥製の海市に右を差し入れる
山火事を囃して父を焼き尽くす
ドイツ語で話しかけたら愁思だった
赤道を止めて追い越せ間に合わぬ
2014年1月30日木曜日
「一の上に 寝る」・・・
前回の渡辺隆夫つながりで一本を紹介しよう。
渡辺隆夫は吉田健治作品集『青い旗』(抒情文芸刊行会)の鑑賞文に以下のように記している。
一の上に 寝る
これには色々な光景が浮かんで来る。板子一枚下は地獄の船乗りさんから、硬いベッド に横たわる遺体まで。人生の色々な局面で、我々人間は硬い板の上に横たわる。しかし、 イワシ以下の雑魚に至っては、擂り身となってカマボコ板に横たわることもある。人間は幸 せな動物なのだ。
突然、イワシが登場するには訳がある。ここ鑑賞文の前に一句、「空のイワシをトランペットで踊らせろ 健治」が引用されているからだ。
吉田健治(吉は下の一が長い吉です)は知る人ぞ知るのゴム毬論の山村祐の志をついで短詩サロン発行者である。1939年、東京・荏原区(現・品川区)生まれ。計314編を収めた『青い旗』は『孤塔』に続く第二作品集。跋文を寄せている谷口慎也は吉田健治について次のように述べている。
自分の作品を俳句として、あるいは川柳として読んでもらっても結構だ。すなわち読みの 窓口は ご自由にということなのだ。だがそれは、自分は俳句的でありながらも俳句でない もの、川柳的で ありながらも川柳でないものを書いているのだという、いわば痛みを伴な う、彼の逆説的な意思の 表明でもあるのだ。このふたつのジャンルから疎外され、傷つき ながらも、それでもなお一行の詩 として自立するものを書き続けるという強靭な意思。こ の実に困難な詩的状況を生き抜いてきたのが吉田健治という書き手であり、それが今回 の作品集『青い旗』として結実しているのである。
作品集全体は作品Ⅰ、作品Ⅱの章立で、作品Ⅱの章は、連作、群作の作品、とりわけ、実兄の死や東日本大震災、また、自らの病との闘いなどを「生老病死吽」というテーマで書き、収録したあたりは感慨深いものがある。
立春の光の捧に射ぬかれる 健治
十二月紐が一本垂れてくる
とんてんとんてん病気を叩いて鞣している
点滴 に わたしの空 が吊って ある
生きのびて命一秒呼吸する
殴られた空気は青い旗立てる
2014年1月29日水曜日
六福神と鶉・・・
『六福神』(角川学芸出版)は渡辺隆夫の川柳第6句集、『鶉』(私家版・限定200、西村家)は西村麒麟の第一俳句集である。
渡辺隆夫は1937年愛媛県生まれ、西村麒麟は1983年大阪生まれにして広島は尾道育ちである。
単純に計算して、年の差46歳、まあ隆夫は麒麟の倍以上は生きて来た。
さすがに、それだけで人生の厚みが違おうというものである。
渡辺隆夫も「あとがき」によるといろいろと俳句の会にも参加してきたらしい。近来にない批評精神溢れる川柳である。川柳だから批評性を喪失しては何もならない、当たり前といえばあたりまえだが、辛辣さにおいて群を抜いているように思われる。『六福神』の序文はらふ亜沙弥、跋文はサーモン・渡辺、帯文は成田利一。
一方、『鶉』は序文、跋文ともになし。「あとがき」もなく、最近では珍しく、実にシンプルな造りである。愚生も第一句集は何も無かったが「あとがき」は書いた。麒麟の健気さ、潔さを褒めておきたい。
君が代を素直に唄う浪花のポチ 隆夫
春の家なま足なま葱なま卵
老いらくのラブ・イズ・オーバー春の雪
毀れつゝ地球に秋が来ています
アルジェリア企業戦士はテロの的
亀鳴くと壇蜜の蜜ひとしづく
柳俳全没、日本沈没遠からじ
天皇に似た人もいるバスの旅
原発跡地を基地とする法案
人類が最後に死ぬでSHOW
渡辺隆夫について、序のなかで、「こんなに真面目に不真面目な句が書けるのはタカオさんしか知りません。川柳の批判性と俳句の痴呆性を併せもった鬼才なのです」(らふ亜沙弥)と讃えられ、また、跋のサーモン渡辺は「地を這う川柳」では渡辺隆夫氏の川柳は、蚤虱を詠んだ俳聖の心情に通じるものがる。氏の川柳は『地を這う文学』なのである。〈中略〉つまり、地を這って生きてゆくことが文化であり、文学なのであると氏は我々に川柳で指ししめしてくれている。〈中略〉十七世紀末の元禄時代(一六八八~一七〇四)に栄えた文化、俗に『元禄文化』というが、ここにも氏の川柳を読み解くヒントがある様に思う」と述べている。
だが、「あとがき」で渡辺隆夫は言う。「近作二〇六句を集めて『川柳 六福神』とした。私には第六句集じあたる。六というのは私のラッキーナンバーのようで、五で終りたくはないが、七までは行きたくないという変な自動制御が働くらしい。つまり、これで私の川柳もオシマイということになる」。
さてさて、渡辺隆夫は惜しまれて?川柳にお別れ宣言というわけだ。これも、処し方の一つなのかもしれない(愚生を含めて世にはびこる俳人などよりは潔い・・・かも)。
ともあれ、川柳に通俗性があるのは当然のなりゆきとしても、若い西村麒麟の句にも、軽く、好ましい通俗性はある。その通俗性は青春性にも通じているようにも思える。歴史的仮名遣いで書かれた句群が、その猥雑性、現代の猥雑さを救いだしている。
虫売りとなつて休んでゐるばかり 麒麟
新米や大働きをするために
すぐ乾く母の怒りや大根干す
耐へ難き説教に耐へずわい蟹
節分の鬼の覗きし鏡かな
父はわがTシャツを着て寝正月
すぐそこで蟹が見てゐるプロポーズ
冷麦や少しの力少し出す
香水や不死身のごときバーのママ
ナンテン↓
2014年1月27日月曜日
藤原龍一郎のカタルシス(解放)・・・
「東京俳壇」(東京新聞)小澤實選に、藤原龍一郎が投句をしている。
愚生が眼にした最初は、昨年12月1日、月間賞として、飾ケイに囲まれた次の句だった。
菊坂に終りの秋の日があたる 東京都江東区 藤原龍一郎
その後、数回入選を果たしている。今月の句は、
タクシーに銀座の坂のクリスマス
藤原龍一郎、かつて月彦という名で,愚生より四歳若い俳人であった。
龍一郎は本名であり、歌人として、すでに10冊以上の歌集を持ち一家をなしている。
数年前から俳誌「里」では眉庵という俳号で句を発表していた。
俳号の由来はヴォリス・ビアンの『日々の泡』からだと言っていたので、洒落た名で、これはこれで俳句に遊ぶつもりになったのかな、と思っていた。それはそれで、興味深い自在な境地も生まれてくるかも知れないと秘かに期待もした。
しかし、今回は、俳号でなく本名である。退路を絶った感じもあるのかな、と、少しは驚いた。
その昔といっても愚生が俳句を始めるもっと以前、清水径子と中尾寿美子が秋元不死男「氷海」を廃刊に際し、継がず、一投句者として永田耕衣「琴座」の投句欄から再出発したことは、俳壇の伝説として語られていた。
大げさに聞こえるかも知れないが、藤原龍一郎という名声を思えば、それぐらいに匹敵するのではないかとさえ思えた。
月彦ではなく、眉庵でもなく、龍一郎の俳句を目ざしているのかも知れない。
その月彦に初めて会ったのは、彼がまだ学生服を着ていた頃、確か東中野駅近くの喫茶店でのこと、いや、当時、攝津幸彦とともに「黄金海岸」を発行していた盟友の大本義幸がバーテンダーをやっていた「八甲田」であったかも知れない。何かの打ち合わせで上京してきた坪内稔典、そして、攝津幸彦、さらに石寒太(毎日新聞・石倉昌治の名刺をもらった記憶がある)などもいたように思う。
その折り、月彦の第一句集『王権神授説』(深夜叢書社)を手渡されたのだ。
弾痕疼く夜々抱きあう亡兄(あに)と亡兄 月彦
致死量の月光兄の蒼全裸(あおはだか)
憂国や未婚の亡兄(あに)の指を咬み
絶交の親友(とも)には視えぬ水甕座
抱きしめて春の帆となる裸身かな
思えば、月彦十代の句群かも知れない。
彼がデビューしたのは、21歳のとき、1973(昭和48)年「俳句研究」五十句競作第一回佳作第二席からである。のちに、愚生も投句していた赤尾兜子「渦」同人として迎えられた。
上掲の句のような幻想的な句を発表し続け、俳句の新しいシーンの一翼を担っていた。
秦夕美との二人誌「巫朱華(ぷしゅけ)」を出していたこともあるが、ある時から、歌人・藤原龍一郎の方に完全に軸足を移してしまった。以来、月彦は杳として姿を現していない。
お互の若き日、ある句会を退けたとき、歌人では福島泰樹が好きだといって、「涙なくして泰樹の短歌は読めないよね・・・」と言い合った記憶が、いま蘇る。
いつだったか、彼に「『渦』時代の大井さんのことはみんなとってあります」よ、と言われた。それも遠い昔で、どうやら、それら多くの雑誌類はほとんど処分してしまったらしい。
今は愚生が、藤原龍一郎のことはすべて見ていたいよ、と秘かに呟いているのである。
彼にはいささか迷惑かもしれないが・・・。
現在、短歌も俳句も龍一郎にとっては、自身からのカタルシス(解放)であるにちがいない。
ビワノハナ↓
2014年1月26日日曜日
豈句会・・・
豈の句会は奇数月の最終土曜日が定例で、二ヶ月に一度開かれる。
豈には、もともと句会がなく、攝津幸彦生前は、奇数月最終日31日、午後6時頃、新橋・三井アーバンホテルのロビーで待ち合わせをして、歓談。それから、蕎麦屋、そして喫茶店でお開き、句会はやらず、四方山話で時間を過ごすというものだった。
案内のハガキには、攝津の独特な文字でただ一言「三井アーバン にて 待つ」と手書きされたものが舞い込むだけだった(返信は無用)。
さすがに、大晦日には、誰も来ず、集まったのは、愚生と仁平勝と攝津幸彦の三人だったことがある。家庭を返り見なかったのではなく、背中に家族からの罵声(?)を浴びて出席していたのだ。
いつのときにか、まだまだ若かった高山れおなが筑紫磐井に「僕は句会というものにでたことがありません。一回経験してみたいのですが・・」という相談をして、攝津幸彦に話を持ちかけて始まったのが豈の歌舞伎町句会(ルノアール談話室)だった。
言いだしっぺの高山れおなだが、当分の間は句会に来ていたが、そのうち、面白くなくなったらしく、いまでは11月の忘年句会のみには顔を出すといった有様である。
もともと、愚生も攝津も句会にはあまり重きをおいていなかったので(攝津最晩年は自分の句会として楽しみだったようであるが))、相変わらず愚生は出たり出なかったりをした。攝津が亡くなって、ピンチヒッターならぬリリーフをすることになって発行人を三年間、それを筑紫磐井に発行人をしていただきたいと頼み込んで、そのとき、句会は愚生が責任をもってやるという交換条件を持ち出されたのが運の尽きで、現在まで来ているのである。
昨日の句会はもともと余り参加者の多くない句会だが、事務局長の酒巻英一郎、いつも司会をやっていただいている鈴木純一や「蛮」の新年句会とかさなったりで少なく8名だった。
おかげで、無点の句まですべて、なぜ無点になるのかまで論議できたので、それはそれで有意義だった。
加えて、関西から転勤で横浜に居を構えた堺谷真人の参加を得たばかりか、川名つぎおが休憩後の後半の司会を堺谷に譲って、これがまた、なかなかの采配振りであった、という、思わぬ付録がついた次第。愚生は相変わらずの超低空飛行が続く(出句3句のうち二つしか開かず、しかも一点のみずつ)。
煮凝やどいてくれとも言えぬまま 小湊こぎく
骨の無き身を凛として飾海老 堺谷真人
愛猫に背狎れの木あり春月夜 福田葉子
腰高に卒寿となりし銀の帯 早瀬恵子
寒晴や利き腕に金属疲労 川名つぎお
しゃぼん玉規格外品が売りです 羽村美和子
行きずりの人でしかなく斜め雪 岩波光大
荒星の裏なお淋し銀の匙 大井恒行
ウメ↓
2014年1月24日金曜日
夢道「僕を恋うひとがいて雪に喇叭が遠くふかるる」・・・
前回に続いて、出久根達郎の話から入る。
出久根達郎のエッセイに「雪に喇叭が」というのがある。出久根の古本屋修行時代のことである。
毎朝、店の前を通る着流しの男性がいて、商家の旦那然とした恰幅のよい人がいた。
それが、俳人・橋本夢道だったが、店に寄ったことはない。
ただ、夢道の家の前を、商いのために汗だくで大荷物を乗せた自転車を押している出久根少年をみて、「あゝ古本屋さん?」とつぶやいたという。
出久根の勤めていた店の丁場には夢道の色紙が掛かっていた。この色紙をあっせんしたのが、坊主頭で堂々とした体格、達磨尊者に似た加藤裸秋という夢道の友人である。
その裸秋が出久根に「君が好きな夢道の句を言ってごらん、それを頼んでやる」と勧めてくれ、選んだ句が、
僕を恋うひとがいて雪に喇叭が遠くふかるる 夢道
である。裸秋は「うらやましいねえ」と出久根少年を冷やかす。
出久根少年は、徳島生まれの夢道が高等小学校を出ると隣村に丁稚奉公に行ったという経歴を知って、自身が中学校を卒業すると丁稚修行に出たことと重ね合わせて、親近感を抱いたのである。裸秋は「俳唱」というハガキ通信を毎月出して、出久根少年に渡していた。
たまたま戦没者の杉塔婆 山の人生 裸秋
田中有罪極ったり鳳仙花の紅白縷(モツ)れたり
橋本夢道の全句集(未来社・1977年刊)の序文は、中村草田男「庶民詩人・抒情詩人 橋本夢道氏」に金子兜太「リアリズムの韻律」、古沢太穂「橋本夢道ーその人と作品」の三名。「うごけば、寒い」は夢道の獄中句。
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ 夢道
からだはうちわであおぐ
四天梅雨に路地の栄坊死にし香奠飯粒で貼る
貧乏桜よ東半球は千四百万トンの春の灰降る
第二芸術や吾が句集なる菊日和
2014年1月23日木曜日
『石神井書林目録』・・・
これまで、つとに聞き及んでいた詩歌専門の古書店・石神井書林について、
最近、ある人から送っていただいて、ことに楽しみにしている。
前号91号(2013・10)には永田耕衣・瀧口修造・土方巽と表紙にあった。
巻頭写真ページには、加藤郁乎宛の署名入りのものが、これでもかと言わんばかりに掲載されている。
素人の愚生にも、出所は、先般亡くなった加藤郁乎の蔵書であろうと推測できた。
永田耕衣、吉岡実、岡田隆彦、富澤赤黄男、髙柳重信、土方巽、中西夏之、飯島耕一、谷川晃一、澁澤龍彦、笠井叡、細江英公、種村季弘、白石かずこ、多田智満子、加藤周一等など、錚々たるメンバーに幅広い交遊が伺える貴重なものばかりだった。
愚生の友人のS氏などは、郁乎宛の署名がある知人の俳人のものは、あるいは、特に安く出されていたりすると、つい(他の古書店などでも目に付けば)買い求めているらしい(友情熱いというべきか)。
バブル以後、大衆化した俳人の多くの句集はやむなく売り払われているが、その際、「駄本一括」などと言われて値にならないものもあったり、狭い部屋には蔵書するというわけにもいかず、ゴメンナサイと詫びながら、始末をしているという現状だ。
某有名俳人の近くにあるブックオフなどには、句集がよく100円均一で並べられているという。もっとも、百円均一でも売れないものは処分される定めである。
愚生は20代の頃から、たまたま文献書院の山田昌男氏にお世話になっているが、生活に困ると、やむなく売っていた(最近の氏はご高齢になられたてはいるが元気で、まだ、まだ現役・・)。古本の値段が安くなって、買取もただ同然のようなこともあり気の毒であると嘆いておられる。
その頃は、献呈されたものではなく、なけなしの金をはたいて買った本だから、だれに遠慮することもない。今はとっくに無くなってしまった椎名誠の『国分寺書店のおばば』には、愚生もよく売りに行ったものだ。なにしろ、必ず定価の半額で買ってくれていたから、売る前から必要な額だけの本をもって店に行けばよかったのである。その代金は、生活費と旅行などに消えた(あるいは、別の本に化ける)。それだけ高い買取価格を続けていたのだから、店じまいになるのは仕方ない(その後は一時陶器店に変えて商売をしていた)のかも知れない。
話を元に戻して、石神井書林の話になるが、その店に愚生が興味を一段と魅かれたのは、出久根達郎のエッセイによる。「浮世離れの古本屋」として店主・内堀弘について「店はあるが、開けていない。通信販売をしている。客はハガキで注文を寄こす。長い取り引きをしながら、一度も見たことがないのである」と、そして、石神井書店の目録がいかに独特な店主の志であるかを述べたのちに「けれどもこの喧騒軽薄な現代に、尾形亀之助のような貧乏詩人を愛し、詩歌の本を嬉々として集め商う、著者のような奇特な古本屋がいるのだ。まだまだ日本は捨てたものではない」と・・・。
今日の残月↓
2014年1月21日火曜日
「合歓」第63号・・・
「合歓」は久々湊盈子が代表を務める短歌誌。久々湊盈子は17歳で「心の花」に入会、後に加藤克巳「個性」に入会している。歌集に『熱く神話を』『黒鍵』『家族』『射干』『あらばしり』など、評論に『安永蕗子の歌』ほか。「憲法九条を考える歌人の会」呼びかけ人。
盈子の姉の長澤奏子は小川双々子「地表」同人。義父が湊楊一郎で、三橋鷹女、中台春嶺、藤田初巳らと出していた俳句誌「羊歯」の編集・発行を手伝っていた。俳句との縁は深い。
その「合歓」で平成24年6月6日、74歳で逝去した長澤奏子遺句集『うつつ丸』の批評特集を組んでいる。
執筆陣は、生前の長澤奏子の所属した句誌、遺句集の刊行に尽力された方や交流のあった俳人のなかから、中村正幸、勝野俊子、今井真子、林桂。
長澤奏子は小説も書いていた。句と小説を納めた『長澤奏子作品集』(南方社)、句集に『水際記』(砂子屋書房)、小説集『星芒』(砂子屋書房)、そして、生前に句集出版を願っていたが、遺句集となってしまった『うつつ丸』(砂子屋書房)が遺された。
『うつつ丸』の帯文は宇多喜代子。以下の様に記している。
長澤奏子には、現実世界のあれこれを軽く楽しい一句に仕立てるというところはない。 自他の存在を、ことばにこだわりつつ作品に残してゆく俳人である。
長澤奏子に会った最初は坪内稔典らと名古屋で俳句のシンポジウムを開催したときであったように思う。武馬久仁裕に会ったのもそのときだったろう。詩人の北川透、今は亡き「地表」の小川双々子、伊吹夏生、白木忠ともそうだったように思う。もう三十数年も前のことだから、愚生に記憶の自信はない。
さみしさのホモ・サピエンス瓜食んで 奏子
寄りかかる言語さびしき秋扇
宇宙にも永遠の団子虫はをらむ
われに賜ふひと世の水や遠雪嶺
墓原のどこも明るき春の昼
己が死を遠くにおきて芋洗ふ
死に近き母の眠りや桐の花
病める腸ぬかれてみれば山粧ふ
病む兎必ず立てよまた跳ねよ
何はさて口腹大事寒茜
2014年1月20日月曜日
小山貴子著『自由律俳句誌「層雲」百年に関する史的研究』・・・
新傾向俳句誌「層雲」は1911(明時44)年4月に荻原井泉水が尽力して創刊された。表紙絵は中村不折。
井泉水は創刊の前年、全国を行脚中の河j東碧梧桐を訪ねて新傾向俳誌としての創刊を相談した。その創刊号に記された意図を次のように語っている。本著からの孫引きだが以下に上げておこう。
層雲は俳壇を文壇に紹介せんが為に出たるものに候
俳壇の諸兄に対しては素より広く俳句研究の機関たるべく候へども主として新機運に向 って猛進する作家の道場たらんとを期し候 文壇の諸兄に対しては広き意味に於て我等 と同趣味なるものゝ会堂たるべきは勿論に候へども主として独逸文学を唱道する者の舞 台たらんことを期し候(「編輯室より)
本著(私家版)は「層雲」百年とあるように、もともとは「層雲」百年を記念しての「層雲」百年史を構想のはじめにしていたらしいが、最終的に個人出版として世に問うことになったようである。とはいえ、「層雲」の歴史は、自由律俳句の歴史には欠かせないもので資料的にも大きな足跡を残している。
「層雲」の歴史を通しての研究はまさに労作というに相応しい。口絵のカラー写真は50ページを超える。今ではなかなかお目にかかれないものが多い。
全体を第一期(明治44年4月~大正15年・昭和元年)、第二期(昭和2年~昭和19年)、第三期(昭和20年~昭和54年・平成元年)、第4期(平成2年~平成23年)と分けて論述されている。
第四期は、「層雲」にとっての危機であり、その内情を少しはうかがうことができる。外部から見る限りでは、「層雲」の終刊と分裂、そして、十数年を経ての「層雲」の復刊は、苦難の道とも言えるだろう。
愚生が同時代として、少しでも垣間みたものがあるとすれば、第三期最終あたりの放哉・山頭火ブームあたりから、第四期初期の「層雲」終刊にいたる、わずかのあいだ、近木圭之介・藤本一幸や住宅顕信、そして、「豈」同人の藤田踏青あたりの仕事、最近の和久田登生ということぐらいであろうか。そのわずかではあったが、野村朱鱗洞『禮讃』、『海藤抱壺句集』などの復刻は記憶に残っている。
他に、自由律俳句全体としての資料と言う意味では、『自由律俳句作品史』(永田書房、上田都史・永田龍太郎編)、『自由律俳句文学史』(上田都史)がその歴史を眺望するには欠かせないありがたい書であった。
ともあれ、最近では、「自由律句のひろば」などが形成されるようになったり、いわゆる俳壇からは、冷遇されてきた自由律俳句もその史的意義も含めて、今後の展望を拓く為には小山貴子の一書は貴重であるといえよう。
思えば、大正時代は世に喧伝されているようにホトトギスの黄金時代というわけではなかった。子規が月並俳句として葬った俳句史を再び顧みることなく、定着してしまった史観があるように、つぶさに見れば、ある意味で大正時代は大正デモクラシーが幻のように消えてしまったように、ホトトギスの時代ではなく、自由律俳句の黄金時代であったともいうことができるのである。
『自由律俳句文学史』(永田書房)に著者・上田都史は次のように結んでいる。
俳句はさなざまな条件によって自由律になる。例えば、口語が俳句を自由律にすると も、心のリズムが自由律にするともいわれた。いずれも俳句を自由律にしただろう。しか し、文学への当為のみが俳句を自由律にする正統であり、また、それが自由律俳句のレ ーゾン・デトールである。
そして、自由律俳句は、十二音から二十二音のブラキストン・ライン内音数で書かれることを厳しい原則とする。従来の自由律俳句は、五七五調十七音を定型とし自由律の故に仇視した。それは、まことに滑稽な論理である。俳句を真に自由律で書こうとするなら五 七五調十七音も、当然、自由律の故に選ばれた自由律の一形式でなければならない。
カリン↓
2014年1月18日土曜日
第324回夢座定例句会・・・
じつに久しぶりに「夢座」句会に出席させていただいた。
夢座句会はもともと紀伊國屋書店ビル地下1F「カレーショップ・ニューながい」のカウンター席で月に一回、その店の常連によって行なわれていた。
その止まり木を多くの素人俳人や玄人俳人が席を暖めては去っていった。
カレーショップの女性主人・椎名陽子氏が病に倒れて、店も閉まり、いまは談話室・ルノアールで句会を開いている。その椎名陽子氏は現在リハビリ中で参加がかなわず、夫君の市川恂々氏が大阪から新幹線で駆けつけては、その灯を絶やさずにいる。
定例句会の回数が324回というから、単純計算でも27年間、毎月欠かさず句会が開催され続けたことになる。歴史は古い。
愚生がその夢座句会にかつて挨拶させて頂いたときの句が、「座すことも夢のひとつに雪うさぎ 恒行」である。
句会のあとの新年会に渡辺伸一郎氏が現われたのを機に、家事に専念している愚生としては、申し訳ないが退席させていただいた。
夢座句会の特徴は一人の持ち点のなかで選句が行われるということだ。
例えば、一人10点持ちだとすると、一句に10点を入れると後は一句も採れない。
つまり一句のみの選ということになる。
その句はただ一人の感銘者によってたぶん最高点10点を得て、それが二人でも居ようものなら20点を獲得してしまい、その句会の圧倒的な最高点を得ることになる。
さすがに最近はそういうアクロバチックな選句は行なわれないようで、今回は一人の持ち点は8点、そのうち一句は2点の特選を選ぶという方式だった。
従って、この日は、特選2点を一句+並選一点を六句、合計七句を採るということであった。
もっとも、愚生の句の成績は相変わらずの超低空飛行だったが、楽しませていただいた。
以下に高点句から順に記録しておこう(内席題句は「骨」)。
うすらひを踏むガリバーの身の重さ 城名景琳
耳飾りはずし鬼火の中に入る 森 英利
千円を正しく使う女正月 鴨川ラーラ
冬すみれ水弾くもの奪うもの 渡邊樹音
冬痩せの和服が曲がる歩道橋 照井三余
火の用心春画一枚貰ひけり 鹿又英一
北風(かぜ)に鳴るアルミサッシの骨密度 市川恂々
流れつつ瓢箪となれ骨美人 佐藤榮市
一月一日桜山神社に詣で 銀 畑二
雪二尺独居老人気配なし 金田 冽
風のいろ日のいろなべて立木のいろ 大井恒行
カレバショウ↓
村上保展 きりがみ展・・・
村上保氏は昨年亡くなられた村上護氏の弟。彫刻家・イラストレーター「赤い鳥青い鳥」童謡集などの挿絵、CDのジャケットなどを多く手がけられている。
都内に出る用事があって、ついでといっては差し障りがあるが、「村上保展 きりがみ展ーすぐそばに居る郷愁Ⅱー」(東京国際フォーラム等B棟1階フォーラムアートショップ内、1月26日まで)を観た。
村上保氏は1950年生まれだから、愚生より2歳下、だが、この歳になると同じといってもよい世代だ。そのせいか作品の多くは、今は失われて久しい風景が幼少時の記憶を喚起するかのようにとどめられている。
個展サブタイトルにあるように昭和の懐かしい風景のあれこれがそこにあった。
2014年1月15日水曜日
有鴇秀記詩篇『眠りの門』・・・
有鴇秀記(あるとき・ひでき)はかつて、富岡和秀(1949年、大阪生まれ)という本名で、俳誌「豈」の同人であった。
句集に『テレパッスウル』、句文集に『魔術の快楽』、さらに詩集『皮膚の声を聴く』がある。
一般的には難解の烙印を押される句風といかにも哲学的な詩文は、俳壇には受け入れられなかったようである。
ただ、永田耕衣は『テレパッスウル』の次の句を上げて次のように述べている。
沼沼に残闕そよぐすすきかな
集中、この一句は一番立派かと思った。第一、格調に破綻が見つからぬ。何やらん混沌明明たる歴史的現実の《そよぎ》が美しい。印象的残像が永遠の韻をなびかせている。世阿弥の幽玄味、その漂いが単なる幻想を超えて、衰えを覚えさせぬ。しかも〈時空〉的リアリティ現成に迷いが加わっていない。和秀俳句の独自な個性はコレカラだろうが、野老はこの一句を不満なく讃賞しておきたく思う。
また、その栞文に、仁平勝は富岡和秀の「非鳥のなげくメタリックの界(サカイ)を越えんや」「てれぱっすうる幽水亭のなるしずむるっく」の句をあげながら、以下のように記している。
近代俳句の理論を、その根底からくつがえしてみせたのは加藤郁乎である。郁乎以前には、たとえ季語を拒否し、写生を拒否したところで、その俳句の尻尾には、現実的な時間(季節)や自然の風景や、日常生活のなかの人や物やあれこれの場面が、どうしようなくぶらさがっていた。まさに郁乎によって初めて、俳句の言葉は、近代俳句のイデオロギーが作り出した「俳句らしさ」の外側に、言葉それ自体として書かれたのである。
加藤郁乎の登場は、それまで俳句などにまるで興味を持つことのなかった文学青年を狂気させた。冨岡和秀もまた、かつての郁乎に狂気した青年の一人であった。
冨岡和秀は俳句から離れて久しいが、関西在住の彼が俳句の世界にその名を留めているのは、1980年から90年初頭にかけてのわずか10年ほどであろう。増田まさみの「日曜日」、坪内稔典の「現代俳句」や「船団」、あるいは西川徹郎の「銀河系つうしん」、そして弘栄堂書店版「俳句空間」などである。
ともあれ、本詩集・著者略歴には「『言葉は存在の棲家である』という哲学的言明のひそみにならい、存在の『ひだ』に向けて言語を投じるという営為を行なう」とあるのは、その志ひとつに営為の持続性を感じる。
終わりに詩篇一篇(抄録)をあげておこう。
星の滅亡
夢幻の彼方に過ぎ去った中世をぬけだし
失楽園に落ちついた漂泊の白鷲よ
しかし地上に住む先住者は独りとしていない
中世の闇からこんこんと今の夜に湧きいずる泉が
底無しとおぼしい深淵に巣をつくる人魚の尾びれを潤すのみ
中世のかすかな音を聴ける漂泊の耳にのみ泉の声が届く
ーー中略ーー
くれないの羽ばたきは大きくゆっくりと風を巻き起こし
時のしずくをしたたらせるが
羽は光りを発して不死鳥の鳴き声を蒼空に届ける
湧きいずる泉の水が漂泊の鷲の眼を濡らしたとき
深い淵から噴き上った人型の魚に目覚めが訪れ
滅ぶ星の光りを浴びながら鷲の羽に身をまとわれ蘇るのである
*「眠りの門』(澪標刊)
カレフヨウ↓
2014年1月12日日曜日
本の装い百年・・・
ひさしぶりに御茶ノ水駅に降りた。
坂を少し下ると明治大学のリバテイホールがある。そのなかに入ってすぐの左横が明治大學中央図書館である。そのギャラリーで来る1月19日(日)まで、「本の装い百年ー近代日本にみる装幀表現」展が開催されている(無料)。
明治大学和泉図書館所蔵の「日本近代文庫」から約90点の展示である。
展示の特徴をいえば、現代人ルリユール作品が、原本と並列されていることであろう。
ルリュールとは聞きなれない言葉だが、フランス語reliure=製本ということらしい。
今回の展示は、工芸製本の一線で活躍する約20名の工芸家の手製本。原本をテキストにしながらみずからの工夫をこらした造本を行なっているのである。
例えば、漱石の『草合』『三四郎』(装幀・橋口五葉)に対するのは中村エイコの山羊革装の丸背箱総革装。文字は金箔押しであり、そして、『三四郎』に挑戦しているのは鈴木敬子、和紙くるみ製本、紗の漆貼りという具合・・・。
とはいえ、年月を経て陽に焼け気味の装幀と較べると、どうしてもシンプルでありながらも時間の厚みのある昔の本の方に、より懐かしい感じをもたされるのはいたし方ないのかも知れない。
たしかに気になる装幀というのはある。さしずめ、愚生の青年時代にはランボオ全集の駒井哲郎、活字を中心とした吉岡実、また、文字の多く用いた杉浦康平、独特な書き文字の平野甲賀など、これらはもはや歴史的な書物となり始めているのではなかろうか。
それにしても、泉鏡花『婦系図』の鏑木清方の口絵で鰭崎英明装幀、その口絵の女の鬢の生え際には思わずうっとりとさせられた。
ミツマタ↓
2014年1月10日金曜日
いたやちさと句集『八十八夜ー風になった兄へ』・・・
句集名は、
櫂のない風吹く八十八夜かな ちさと
の句から。「はじめに」で、
自己流でノートにすこしづつ書き貯め「五十歳迄に八十八句創って『八十八夜』という題名 で句集を出したい」と表明したら「いいね、頑張りな」って言ってくれた兄。
『さようなら風に掟も櫂もなし』そんな句を残し彼は五十三歳で病死した。
その約束を果たせぬまま時は経ち私は六十歳に近づいてきた。
兄とは長岡裕一郎のことだ。掲出の句は、裕一郎の辞世の句を受けて創られた句である。
長岡裕一郎は08年4月30日に亡くなった。早いもので、もうすぐ没後16年を迎える。
裕一郎のデビューは、1973年、『現代短歌大系』(三一書房)に応募して新人賞次席、たぶん受賞は石井辰彦だったように記憶したが、(愚生は昨年末、断捨離よろしく、本は図書館に依存することにして、この短歌大系全巻も処分してしまったので、いま、確かめられないのが残念・・)。
同年、「俳句研究」第一回五十句競作佳作第一席に入賞した。彼が19歳のときだった。
いたやちさとは長岡裕一郎の実妹。兄との約束を果たされたのだ。
句集は私家版で大とびらの左ページに「長岡裕一郎スケッチ『猫を抱く妹ちさと』」が掲げられている。
句作品のほかには幼時からの思い出のつまった写真と「あとがき」前ページにはちさと作品として自身が制作した絵葉書と羊毛フェルト猫などの写真が配されている。
夢ふたつ枕ひとつの午睡かな
異国にてアカシアの雨飛ばぬ鳩
電話口姉も私も母の声
春一番手紙ポケット抜け出せず
雪あかり開かずの勝どき寂しけれ
ところで、長岡裕一郎にはすぐれた回文作品があることは余り知られていない、「豈」第5号(1892・秋)、「星の汐 一句両吟」と題された回文句を紹介しておこう。
☆昨日より卯も満ち白く花や来し 裕一郎
死期や汝は黒し魑魅魍魎の気☆
☆娶れただし二十八歳ルツ唄ふ
葡萄蔓いさ血は富士にしたたれと☆
ロウバイ↓
最後に彼の多行句も・・・
藤夜叉は
花夜叉に問ふ
瀧夜叉を
メルツィ君
繪は描くものだ
アネモニイ
マンリョウ↓
2014年1月8日水曜日
佐々木貴子句集『ユリウス』・・・
寒いときに鍋を食べるというのは、冬の季節の特権のようなものかもしれない。
という伝でいけば、その昔、夏の暑いときにアイスクリームを食べるというのも、多分、王候貴族の特権であったように思われる。
江戸時代に北アルプスから万年雪を運んで徳川家に献上したとあるくらいだから、氷菓(アイスクリーム)を作る、つまり雪に塩を加えて氷点を得る技術を利用し、大規模な生産を始めたのはイタリアらしい。
イタリアといえばルネサンス、いささか牽強付会のそしりは免れそうにないが、句集名『ユリウス』はどうやら、ユリウス2世がフランスに対抗してローマをルネサンスの中心となしたことに由来しているのではなかろうか。
もっとも、著者自身はどこにも書名の由来などは記していないので、あくまで、愚生の憶測にすぎない。
果たして俳句の再生が著者の思惑通りになったかどうかは、知るよしもない。
中村和弘の愛情溢れる懇切な序文によると「どれも葛藤の中から生まれたもの、楽をしていない句である。自己の内面を俳句という形式にうまく表出できないもどかしさ。近作などは、内面の形象化などを通して克服し、結実しつつある。結社賞の「陸」新人賞に推し、決定したのはその結実を評価しての判断である。俳壇という広い世界での活躍を望んでのことである」と結んでいる。
さすがに師というものは、慧眼である。
その意味では、句集の編みかたであるが、思い切って初期を捨て、最近作のみでまとめ、世に問うという手もあったのではないかと思う。
たしかに、句集は自身の生きて来た足跡といい、著者にとってはいずれも捨てがたい感慨があるであろうが、もしも、師の指摘にあるように文学的野心(俳句形式への挑戦)とい契機を自らのものにするには懐かしい過去を断念する潔さも無視はできないだろう。若い人への、愚生の老婆心というものかも知れない。
年寄りの勝手な言い草と許して下されば幸甚というもの。
愚生好みの句を上げておきたい。
味のするところが雪のとけはじめ 貴子
中空の0おごそかに回転す
水を呑む哀しみとして白鳥くる
百円で買える贖罪だけを愛す
ぎりぎりと締めつけて夜を球にせん
雪晴を仰ぐ巨人の喉(のみど)かな
龍の眼のつぶさにみえし初詣
雪解雫地球は少しずつ乾く
*句集『ユリウス』(現代俳句協会新鋭シリーズ)ご恵投いただき有り難うございました。
アオキ↓
2014年1月7日火曜日
句碑あれこれ
人日の前日、神田明神に、商売繁盛祈願の会社役員らしき人とその一団のサラリーマン諸氏でごった返す中をお参りしようと思ったが、正面から参拝するのをあきらめて、いつものことながら、すぐに裏口を探す悪い癖がでて、やっと辿り着いた所に立っていたのが次ぎの句碑である。
山茶花の散るや己の影の中 筲人
阿部筲人(あべ・しょうじん)だ・・と思った。筲人は三省堂に勤めていたから、神田は縁が深かろう。戦後は「好日」を主宰した。
若葉すやなだれ来る世をみるばかり 筲人(昭和21年)
かつて筲人著『俳句ー四号目からの出発』(文一総合出版)を読んだ。俳句入門書とはいえ一線を画した内容、今は、講談社学芸文庫で入手できる。
富士山頂上を十合目にたとえ、俳壇の頂上には大天狗作家がα数でんと坐って、九号目のβ数の中天狗作家がならび、五合目、四合目には無数の木っ葉天狗が押し合いへしあいという毒舌もさることながら、ともかく裾野からではなく、木っ葉天狗に仲間入りする方法を教えよう、つまり、四合目から出発しろというもの。
ありとあらゆる俳句で、してはいけないことが、例句15万句をもって語られる。
真の伝統俳句?を志すには必読の書である。
ぼくの読んだ昔の版にはなかったが、学術文庫場版には向井敏の解説「日本人の発想の根をあばく」の孫引きになるが谷沢永一は、「本書は有名な『紋切り型辞典』の始めて出来た日本版、日本人の誰もが無意識のうちに陥る月並表現の恐るべき均一性を、最も具体的にあばき立てる事に成功した稀代の名著であり、日本語論および日本人論をめぐる第一級の文献となっている」と記す。
それでも、筲人死後、加藤楸邨の選による『阿部筲人句集』をして「実作者としての阿部筲人は残念ながらついに一家の風を定めるに至らなかったといわなくてはならない」と述べられている。
と・・・思いをめぐらしながら、ついに正面からの参拝をあきらめ、背後から、しかも遠くで二拍手をして、ふたたぶ裏口の階段を下りたのだった。
いくつかの句碑と題した以上、もう少し紹介しようと思う。正月5日の雑煮も少し飽きたといってシラス丼でも食いたいというので、江ノ島へ。まずは俳聖・芭蕉に敬意を表して、
疑ふな潮の花も浦の春 芭蕉
この句はここで詠まれたのではなく、三重は二見が浦作らしい。
次ぎは地元藤沢の俳人・永瀬覇天朗、
桟橋に波戦へる時雨かな 覇天朗
金亀楼別館・江の島館主人・福島漁村、
貝がらも桜の名あり島の春 漁村
最後に江島神社の宮司だった青木蒼悟、
夏富士や晩籟を鎮しむる 蒼悟
2014年1月4日土曜日
黄山房新年会・・・
「地表」同人だった高桑冬陽の絵が書棚の上に↑
さても発端プロトプテルスの乾睡 鬼九男
彼の句集は第一句集が『環』、第二句集が『櫻襲』、第三が『天秤宮』と続くことからお分かりのように句集名は一字づつ増えて行く。この伝で、第四句集は『夏至殺法』である。
現在の住まいは京王永山駅から少しバスで入った小高い山にある。
そこに新年会を理由にして、阿部鬼九男のあれこれの話しを聞きたいと、酒巻英一郎、田沼泰彦、吉村毬子、救仁郷由美子と愚生が訪ねた。
例えば、黄山房日乗の集名に潜んでいる誰彼を訪ねたところ、先師・三鬼、そして赤黄男までは当然としても、なかに、面識のあった日夏耿之介も含まれていることが知れた。
『黄山房日乗』は1986年4月1日から5月末まで2ヶ月間の2ヶ月の記録と日々の一句が収載されている。
例を一つあげると、
「三日、M・ビットソン『ミニー・ザ・ムーチヤー』(澁谷)
仁平勝『詩的ナショナリズム』贈られる。
卓越した評論があらわれると、作品行為はこれを凌ごうとする。評論の帰結は“悲劇の解 毒”にほかならない。
キエフなる天門に聴く春の雨 」
少し恥かしいが、記憶を確認するために愚生の登場する5月2日も載せてしまおう。
「二日、吉祥寺弘榮堂〈現代俳句ブックフェア〉開催。出品のため、大井恒行に句集届け る。「騎」も陳列しあり。
被告席に有ると言ふより、這ひつくばつた句集、論集はカイヤウ青年団の如し。知の戦 略者たちよ!
餡中の暗殺急ぐ世の嬌たれど 」
鬼九男手ずからの料理をいただきながら、酒巻英一郎提案で、これを機に春夏秋冬の良い時期に訪問をしたいと申し出、鬼九男大人やむなく喜んでといわざるを得ず、次ぎは3,4月に・・ということにあいなった。
すでに日も落ち、オリオンとともに、西空には上弦の繊月がかかっていた。
2014年1月3日金曜日
中央書院版「季刊俳句」・・・
正月も速いものでもう三日である。
TVは箱根駅伝を流している。
ともあれ、昨日とは別のもう一つの雑誌「季刊俳句」を取り上げておきたい。
堀井春一郎責任編集と銘うたれている。
奥付は昭和48年10月15日発行。協力・齋藤愼爾。
目次柱には「時代の詩のありかを多角的に問う、俳句を中心とする文学・芸術誌」と宣言されている
表紙絵はつげ義春。グラビアが朝倉俊博。巻頭の50句は加藤かけい。新しい作家としての30句は和泉加津子。
他は、赤尾兜子、坂戸淳夫、清水径子、蔦悦子、藤村多加夫、川端鱗太、矢部侃、花谷和子、飯倉八重子、加藤一郎。連載評論エッセイに飯島晴子、橋本真理、中井英夫。
対談は五木寛之と塚本邦雄。連載小説に須永朝彦。
季評欄として詩壇は清水昶、美術は谷川晃一、工芸は村山武、歌壇は佐佐木幸綱、映像に冨士田元彦。書評者に西岡武良、高橋康雄、三橋敏雄などの懐かしくも錚々たるメンバーが並ぶ。
独吟歌仙・相澤啓三。
堀井春一郎も30句を寄せている。
招待席には詩作品が吉岡実、短歌は葛原妙子。
70年代以後、後にも先にもこれだけのボリュームと内容のともなった総合誌は見つけがたい。
しかし、この雑誌は堀井春一郎の急逝によってわずか三号のみを発行して露と消えてしまった。
行状記蟇が微笑を湛えけり 加藤かけい
あそび死してその墓に揚羽招(よ)ぶ 和泉加津子
石で埋め野壺に秋の傾けり 清水径子
地が炎えをり掌なる銅貨のひそかな傷 藤村多加夫
星月夜かなけものみちけものゐず 蔦 悦子
螢火のはてはありけり水の牢 坂戸淳夫
数々のものに離れて額の花 赤尾兜子
まぼろしの鶴は乳房を垂れて飛ぶ 堀井春一郎
手の鍵に五月の百足はいまわる 川端鱗太
八月はもっとも遠い父との距離 加藤一郎
さみしさに叶ういちめん黄の河骨 花谷和子
案山子つくる手の上げ下げに諍へり 飯倉八重子
ねむるなり樹下へあつまる絵日傘は 矢部 侃
ジャンボユズ↓
2014年1月2日木曜日
「季刊俳句」・・・
昨日、1月1日は高屋窓秋忌だった。
確か、人日に行なわれた葬儀は、雪まじりの寒いだったよね、とある人に話したら、いや、寒い日だったがよく晴れていた、と言われた。
それでは、愚生の記憶違いなのだろうか。そういえば、三月下旬だった折笠美秋の告別式は霙だったように思ったが、それとゴッチャなってしまったのだろうか。
それにしても元日に亡くなるなんて、いかにも窓秋さんだな、とわけもなく思ったことは確かだ。
三鬼の4月1日も・・・
歳旦の箸置きいくつ窓秋忌 恒行
ところで、今日は「季刊俳句」をとりあげよう。
発行・編集人は宮入聖。創刊号は1983年12月1日。冬青社刊。
創刊号巻頭は「未刊句歌シリーズ1」とタイトルして、約300句の誌上句集『未完の季節』津沢マサ子。
烈日を天に見送るちぢれ髪 マサ子
その他執筆陣は、
寝室に根を梟(さら)しけり風信子(ヒヤシンス) 下村尤二
杜若信徒を繋ぐ遠き景 加藤千晴
小海四夏夫は50首、
家宅捜索の突風過ぎしあかときに想はるるかな 戦後 その愛 四夏夫
「ふるさとは九月」とわれもすこやかに想ふべきかや黄の雨脚に
憂き春の臆面もなき神遊び 大野美紗代
ひまわりの影にはあらず人柱 鈴木紀子
聖餐図イエスを闕(か)きて鎮まれり 塘 健
あわあわと鮒にうまれて口ひらく 森 獏郎
惑星のごとき憂鬱二月尽 若土隆博
惜春やことばの蝶を蝶結び 大屋達治
その他、評論に藤原月彦「聖エロス頌ー宮入聖句集『千年』に寄せて」、宮入聖「榎三吉の俳句ーひょっとしたらこの作品は放哉・山頭火以上かもしえない」、塚越徹「小海四夏夫ノート―小海四夏夫全句歌集『野桜のうた』によせて」など。
蛇捕りやいつ蛇に逢ふ夏の午後 宮入 聖
背泳ぎで友皆んな去る夏の闇
愚生らの眼前から姿を消してしまった宮入聖は、創刊号「編集後記」に次のように記していた。
「今日の詩歌と詩歌人をめぐる状況とは最悪であるとの認識にたち、商業主義やセクト主義に夫陥った詩歌総合誌、玉石混淆の仲良倶楽部と化した結社・同人誌とあくまで一線を画し、孤高を貫いてまいりたいと思います」。
今、この宮入聖に、蛇笏に心酔した評論集『飯田蛇笏』、また、人間国宝の刀工・父宮入行平とその妻を描いた小説『火褥 刀工宮入行平とミヨ子の生涯』の一本があることを多くの人は知らない。
スイセン↓
2014年1月1日水曜日
駄馬もまた春野を恋えり年新た(大井恒行)・・・
新年明けましておめでとう御座います。
本年もよろしくお願いいたします。
とにもかくにも、健康が一番の年齢になってきたようです(苦笑・・)。
年の初めは昨年に引き続き、今は懐かしい、珍しい雑誌の紹介をしておきたい。
というのも、昨年末近く、文學の森「俳句界」を退社して、時間が少し出来たのを幸?に、
かの稲垣足穂にならって、机代わりの林檎箱の机上に、文庫本を一冊置いておくような生活をしたい・・とふと洩らしたのを、山の神は聞き逃さず、本、雑誌の整理を命じられ、断捨離を断行しなさいということになってしまった(あの世に行くまでは身奇麗にというわけで)。
実は3年前、娘の家に、家事全権依詫係りに招致せられ(今年は手にアカギレをつくり)、そのまま引越しの箱の底に眠っていたのを引き出してみたら、一度は公開して、懐かしんでからでも遅くはない書誌が出てきたのを幸い、当面は処分延期にしようと思いとどまったものたちというわけなのである。
で、今回は「T’eRRA」(eの上に横三角の記号が付いています)。
「T’eRRA」(HAIC CONTEMPORANEA DEL MUNDO)創刊号は、奥付けによると1992年1月31日、頒価800円、年2回刊。発行人は阿部九鬼男。別号は黄山房(目黒烏森)。
同人は10人ほど。
山茶花散る時間差で散る 秋田博子
吹越や玻璃に見えざる罅ひとつ 阿部娘子
テロ跡を抱卵の鳥が見ている 小南千賀子
れんげ色にけむり立つ野の香炉 篠原妙子
捨て長靴孵化しはじめる動物園 西口美江
土耳古柘榴爆ずまだあたたかき頭蓋 秦 規子
天馬と駆けるどこまでも風邪熱あり 松本芙紀
天空へは縦に抜け出すよりないか 山岡愛子
破れ旗をスピルバーグが具象する 山口可久実
ほんとに水も売るひとの満艦師に
非史は旅人に百年超の水売りに 阿部鬼九男
文章は阿部九男の「烏森雑記」が主だが、かつては「からすもりつうしん」、現在は「とよがおかつうしん」という棲家地の名をとったはがき通信を出し続けている。そのはがき通信の文字は聖書と同じ大きさというが、表裏にびっしり書かれた内容は、阿部鬼九男の博覧ぶりがうかがえる古今の歴史、音楽、文學、オペラ、絵画におよぶまで、不定期とはいえ、多いときには週刊のペースにもなるもので、もし単行本に仕立てなおしたなら、相当の巻数に及ぶと思われる濃い内容の通信である。
残り少なくなった西東三鬼最晩年、加藤かけいの弟子の生き残りであり、西洋料理のコースから、ジャンクな食べ物まで、いくたび手料理のお世話になったことか・・・、84歳の元気盛りである。
ハナヤツデ↓
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