2013年12月31日火曜日
「鵞」・・・
巷では、NHKの紅白歌合戦が始まっている。
紅白の白色はもともとは源氏の白旗、対して紅色は平家の赤旗に由来する源平合戦がその端緒であるという。かつて戦陣では例えば錦の御旗というように、錦や綾などに文様を刺繍したものを軍旗として用いたが、武士階級が形成されると多くは麻布などを白地のまま掲げたのだそうである。源氏はその古式にのっとって白旗を守り続けたのである。
先般、勧められてブログを書きはじめたのだが、本日で早くも、今年最後のブログをしたためることになった。
本年の締めに、かつて愚生にとっては、まぼろしの雑誌だった「鵞」を取り上げたい。
手元にあるのはわずかに2冊、第二号(1981.7)と第5号(1982.6)である。編集発行人は忘機庵こと大岡頌司。定価1000円。発行所は大岡頌司がやっていた印藝書肆・端渓社。
大岡頌司は広島県呉市生まれ、中学校で俳句部の部長。中学校を卒業後地元の印刷会社に就職し、19歳で上京した。1954年(17歳)には、寺山修司「牧羊神」に参加、のちに「俳句評論」同人となった。初期句集『遠船脚』をへて、独自の三行表記作品を発表した。
ともしびや
おびが驚く
おびのはば 大岡頌司『花見干潟』
ちづをひらけば
せんとへれなは
ちいさなしま 『抱艦長女』
愚生らは、大岡頌司・酒井弘司・安井浩司を称してサンコージと呼んでいた。
「鵞」の執筆陣を少し紹介してみよう。まず二号には安井浩司、島津亮、阿部鬼九男、津沢マサ子、尾利出静一、栗林千津、小山清峯、太田紫苑、鶴岡梨江子、若林波留美、伊藤四郎、酒井弘司。五号には執筆者として2号で記したほかに、村松彩石、坂戸淳夫、中尾寿美子、木割大雄、長谷川櫂、佐藤輝明、志摩聰、酒巻翳一郎(現在「豈」事務局の英一郎)など錚々たるメンバーである。
逆光の夏うつくしき普請かな 長谷川櫂
春の四方へ
冠り被れる
はじめなれ 酒巻翳一郎
啓蟄や薬味走らす修羅の舌 志摩 聰
亡びより受け継ぐ吾れの亡びかな 木割大雄
秋の夜の途方にくれし水たまり 栗林千津
霞草わたくしの忌は晴れてゐるよ 中尾寿美子
人の死や砂時計また逆立たす 坂戸淳夫
新人は考えつつありかの毛桃 安井浩司
はてどなく二月にのこる雪月花 島津 亮
筍の竹にならねば無盡蔵 阿部鬼九男
下駄箱に空箱いくつ春は逝く 津沢マサ子
荒れ狂ふ音を遊ばすうしろかな 太田紫苑
山里は諸事簡略やみそさざい 尾利出静一
あかつきの来ないかなしみくらげ咲く 若林波留美
昼ふかく山葵田へ鳥つきささる 酒井弘司
それでは、皆様、良いお年をお迎え下さい。
生国を思う青空おおみそか 恒行
枯れナス↓
2013年12月30日月曜日
「むらさきばるつうしん」・・・
詳細はよく知らないが、「むらさきばるつうしん」は岩尾美義(1926~1985)が発行していた雑誌である。誌名は、岩尾の自宅が鹿児島市紫原にあったことによる。
愚生のあいまいな記憶によると、穴井太の(天籟通信)にいて、赤尾兜子「渦」、また、前原東作「形象」にも参加していたのではなろうか。
何より瀟洒な雑誌で、一年目の表紙絵は、創刊当時(1981年)は、香月泰男、二年目がマリノ・マリーニ、三年目は山口長男と贅沢なものであった。
また、寄稿者の面々は、ベテランから若手、伝統から前衛まで、錚々たるメンバーで、愚生には眩しい俳人ばかりだった。
俳句の前には、詩を書いていた岩尾は、詩人の黒田三郎特集や木原孝一、石原吉郎などにもページを割いていた。
その錚々たるメンバーの一部を記しておくと、穴井太、市来宗翁、川崎三郎、大岳水一路、国武十六夜、平井照敏、八住涼、宇佐美魚目、大沼正明、白木忠、岸本マチ子、広瀬直人、福田甲子雄、安井浩司、横山康夫、藤原月彦、辺見京子、野間口千佳、松田広之、布施伊夜子、脇本星浪、秦夕美、大屋達治、大庭紫逢、また時評文は佐藤鬼房、和田悟朗、飯島晴子今は名を見なくなった仁藤さくら、はらだかおる、筑網耕平、筑網敦子など。
きみゆけば遠く空(くう)なる芭蕉かな 安井浩司
姿見よ告天子(ひばり)ころしてきて燦(かがや)く 仁藤さくら
永き日を歩いてきたる絵蝋燭 津沢マサ子
ちちははのけむりや冬の卵佇(た)つ はらだかおる
食卓にアンモナイトや始祖鳥ならぶ 筑網耕平
植物に風吹き尽くし闌ける秋 藤原月彦
医師だった岩尾美義は、折笠基金を創設し、折笠美秋の治療、入院費用の援助を全国に呼びかけて、多くの俳人がそれに応じたように記憶している。その折笠美秋は「妻 智津子(チコ)よ」と題して、10句を「むらさきばるつうしん」(VOL.4 NO.1 1983・6・1)に寄せている。
後悔未練あるまじと説く妻よ どこで泣いてきた 折笠美秋
妻の手が我が手 一文字書くことも
また、飯島晴子は「作品私見」と題して「VOL.2 NO.3 1981.1」号に次のように述べている。
言葉というものに対する認識の違いは人によってあるのしても、俳句は言葉でもってつくられて いることは、誰も文句のつけようのない事実である。言葉というものは、いやおうなしに時代と関 わって存在するものである。時代の空気のニュアンスから、俳句だけを隔離することはできない のは当然である。われわれは、今という時代の空気の質感のようなものに、もう少し敏感になって もよいのではないかと思う。
最後に、岩尾美義の句を挙げておこう。
蝸牛ぽーとほほえみわたるかな 美義
ひなげしをはみだしていく乳母車
なみだつぶ空より下は紫蘇畑
クロガネモチ↓
2013年12月29日日曜日
「騎」・・・
愚生の記憶違いかも知れないが、1991年6月、16号「折笠美秋追悼特集」を出して以来休刊中である。
創刊同人は10名、阿部鬼九男、岩片仁次、大岡頌司、折笠美秋、川名大、坂戸淳夫、佐藤輝明、志摩聰、寺田澄史、安井浩司である。その後、牛島伸、高橋龍を迎え、志摩聰が退会したが、黄泉國同人折笠美秋を入れて休刊号は10名であった。その後、編集発行人・坂戸淳夫も旅立ったが「騎の會」は解散してはいない。
いずれの同人も高柳重信親衛隊とよばれた俳人らであり、「私たちの“精神圓心”に在った折笠美秋氏」(16号編集後記)のための雑誌だった。
もし、折笠美秋健在であれば、「俳句評論」は廃刊することなく、ともかくは存在したであろう。
やんぬるかな、その時、美秋は筋萎縮性側索硬化症で、すでに全身不随、自発呼吸ゼロ、発声不能だった。重信が唯一、後継とたのんだ美秋には、重信の死は、すぐには知らされず、伏せられた。
「騎」に発表された美秋の句は、妻・智津子が美秋の目,口の動きを読み取ってのものだ。
「火伝書」と題した創刊号の10句の詞書は「多行俳句は髙柳重信氏一代にてこそと固く思いおり候されどされど多行形式の火消し置くは返す返すもくちおしくて候て」とある。
雨だれは
目をみひらいて
落ちるなり 美秋
句病みとや
雪病み
花病み
月病みして
紅殻や天の揺籠解体して 鬼九男
朝風(あさかぜ)
前置詞(ぜんちし)
宿痾(しゆくあ)
十六夜薔薇(いざよいばら) 仁次
葭葦の浜あり伊能忠敬一行来る 頌司
何に触れ狂れとぶ蝶か存へよ 淳夫
吉野山いま咲く花を血に染めて 輝明
閑にゐて忘閑の餉を菫守 聰
汝ははきに騎らむとするや独活畑 澄史
天心を飛ぶ肉蝉と呼ばれても 浩司
川名大は評論「連作の座における『蝶墜ちて」の句の読み」。
表紙絵は亀山厳。
サザンカ↓
2013年12月24日火曜日
天皇の肉食宣言・・・
明治5年の新聞記事に、
我ガ朝(チョウ)ニテハ中古以来肉食ヲ禁ゼラレシ二、恐レ多クモ天皇、イワレ無キ儀二 思召シ、自今肉食ヲ遊バサレル旨、宮内ニテ御定メコレ有リタリト云。
とある由、浜田儀一郎『江戸たべもの歳時記』にある。
もちろん、一般庶民に肉食のブームがきたわけではない。明治天皇の服装も変わって西洋式になり、外交上、宮中でも肉食を採用して、西洋料理を供しなければならないという事情があったらしい。岩倉具視の指示によって皇居馬場先門に民間の西洋料理店を開かせるようにしたともある。これが後の精養軒である。
それにしても、
居ながらに珍味類なしの大都会 天保5年「柳多瑠」
天保は江戸後期、仁孝天王朝の年号で1831年2月23日に文政から改元、天保15(1845年)年までの年号。下総(千葉県北部)一体で争闘した実録物講談「天保水滸伝」の平手造酒(ひらてみき)ならご存知の方もあろう。ともあれ、江戸時代に「大都会」という言葉があり、かつ句になっているところは少し驚きである。
川柳、いや、およそ文芸というものは、好むと好まざるとにかかわらず世間(現実)を写す鏡である、と言ってよいだろう。
天皇も守れる朝の味噌加減 恒行
ギンバイカの実↓
2013年12月21日土曜日
「大地」金里博と上谷耕造・・・
「大地」54号(檀紀4346[西暦2013] 年・冬、発行所、在日韓国文人協会)が送られてきた。編集人・金里博(キム・リバク)氏から恵送されている。雑誌の中はほとんどがハングルで書かれているので、愚生はお手上げである。中に日本語訳がある詩篇については読むことが出来る。
今号では伊東柱詩集「空と風と星と詩」(翻訳・上野都)が掲載されている。伊東柱(ユン・ドンジュ)は現代韓国でもっとも愛されているキリスト教詩人だという。同志社大学在学中に治安維持法違反に問われ、1945年2月16日、福岡刑務所で獄死した。享年29。「空と風と星と詩」は遺稿詩集である。
金里博氏とは不思議な縁で「豈」41号に特別寄稿として「『時調』について」を執筆していただいた。
「時調(シジョ)」は、韓国の定型詩で、日本の短歌に似ていて、今は裾野も広がり、「時調集」の出版も活発なのだそうである。
「豈」への寄稿によると「海外では『現代三行詩』として在留国国語での『時調』創作が英語俳句や韓国語俳句のように創作されてもいる。韓国では数年前に『國際定型詩学会」が結成されている」という。
前に述べた不思議な縁とは氏の住んでおられる近くに愚生の学生時代からの長年の友人である上谷耕造八幡市議会議員の応援を氏にしていただいていたことである。
上谷氏は愚生より二歳年下、途中から社会党を脱して市民派無党派として、一貫して政治に関わってきた男だった。一昨年志半ばで癌に斃れた。八幡市では自宅を解放した「八幡まるごと館」から「市民の元気しんぶん」を死の直前まで発行し続けた。
その同じ市に俳人・妹尾健氏も居て、愚生がたまたま入洛したときに、妹尾健と一緒に上谷氏を訪ねたのが永の別れの数ヶ月前であった。だいぶ痩せてはいたが、余命を知りながら、なお泰然自若とした風姿は昔と変わらず、社会の現状への志を述べて倦まなかった。
サザンカ(シャンソネット)↓
2013年12月19日木曜日
雪女ならぬ雨女に会う・・・
天気予報は昨夜から、関東南部でも雪か雨と報じていた。
愚生が、かれこれ14,5年は通っている漢方の医療機関がある(健康保険が使えます)。
ここ2,3年は煎じ薬を出してくれるのだが、その薬の調合には一人たっぷり一時間くらいはかかる。煎じ薬の人が4~5人いると、それだけで順番待ちで3~時間はかかる。
雪は少し積もる程度との予報だったので、気持ちはすこしたかぶって初雪の舞うのを楽しみしていたのだ。
しかし、雪はついに舞わず雨、雪女ならぬ雨女の出番のみとなったのだ。
もっとも雪女などというものは、こんな軽い雪ではなく、多くは山中の雪深いところに現われることになっているのだから、都会で雪女を期待するほうが可笑しいにちがいない。
最近、雪女の句といえば、俳人では眞鍋呉夫に指を屈することになりそうだが、なかなかどうして、江戸時代から作はある。
黒塚のまことこもれり雪女 其角
大夜著に今宵待けり雪女 言花
みちのくの雪深ければ雪女郎 山口青邨
雪女チェルノブイリに到くころか 堀本 吟
眞鍋呉夫(天魚)の句集『雪女』(冥草舎、1992、平成4年)の序句に、
M-物言ふ魂に
雪女見しより瘧(おこり)をさまらず
がある。やはり、そこには、現代の病める何かが潜んでいるようである。雪女とは雪鬼と同義である。
上掲の写真の染筆は、1997(平成9)年、11月3日、沼津市大中寺で句碑「花びらと水のあはひの光りかな」が建立された折にいただいたものである。
ツワブキ↓
2013年12月18日水曜日
ホモフィクタス 舞踏オペラ
はじめまして・・・
こうして、ブログを書いている本人が実は何をしているのか全く不明なのです。
できれば継続して書きたいのですが、果たしてうまくいっていますかどうか神のみぞ知るという状態です。
うまく、アップできればいいのですが、ともあれ、愚生、初めてのご挨拶とさせて頂きます。
イイギリ↓
できれば継続して書きたいのですが、果たしてうまくいっていますかどうか神のみぞ知るという状態です。
うまく、アップできればいいのですが、ともあれ、愚生、初めてのご挨拶とさせて頂きます。
イイギリ↓
ホモフィクタス 舞踏オペラ
先日8日(日)、久しぶりに、首くくり栲象の首吊りを見るべく出掛けた。
「愛の法廷~ヘリオガバルスもしくは戴冠せるアナキスト~エロスの虐殺」、原作アントナン・アルトー、校正脚色芥正彦。
偶然に何十年ぶりの人や五年ぶりの人やにであったので、時代が止った感じがしたが、
書肆山田の鈴木一民と一緒に観た。
休憩なしの2時間半、公演が終ったのが10時半、さすがに二次会は遠慮した。
それでも帰宅は午前零時、いささか年寄りにはハードだった。
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2013年12月17日火曜日
「ぶるうまりん」27号・・・
「ぶるうまりん」27号が届けられた。
「ぶるうまりん」は須藤徹(2013年6月29日没、享年66)が発行人を務めた同人誌であるが、内実は結社誌に等しい、いや、生半可な結社誌よりも厳しく管理された、隅から隅まで須藤徹の雑誌だった。
その俳句への想いの厳しさゆえであろう。その厳正さを糧として感謝する追悼文に溢れていた。
つまり、「ぶるうまりん」27号はこれまた隅から隅まで「須藤徹追悼号」である。
これで、終刊するのかと思ったが、27号を愛情溢れる編集を行なった松本光雄の「編集後記」によると「『ぶるうまりん俳句会』は、『第二次ぶるうまりん』として、当面続行いたします」とあるので、まずは、須藤徹の俳句への志を、何等かの形で残していく道を選んだと思われる。しづかに声援をおくりたい。
思えば、かつての小川双々子「地表」門下の俊秀であった伊吹夏生、淺井霜崖、白木忠、長澤奏子などを立て続けに、そして須藤徹を失ったのは実に寂しいことである。
追悼号冒頭に、安井浩司は「藤の実に少し見えたるけさの秋」の自句に、須藤徹が「藤の実」に「不死の身」を読み出してくれたと記しているが、今号に掲載された「須藤徹五十句選」の冒頭句が「哲学の周縁に爆ぜ藤の実は」であることを思うと、その句意の底に「不死の身」を沈ませているのは須藤徹のハイデガー的な存在観か・・・。
サザンカ↓
2013年12月15日日曜日
森山光章句集『[法華折伏破権門理、喜悦のみがある] 』・・・
森山氏↑
昨日14日、九州から上京した森山光章氏とジャズバー・サムライでお会いした。
森山氏の召集した友人の方々、玉井保人,平敏功、杉浦浩次、田中征等各氏にもお会いした。
森山光章は1952年、福岡県生まれ。かつては「未定」「連衆」に所属したこともあるれっきとした俳人である。現在、彼のことを語る人はほとんどいないが、「俳句空間」新鋭蘭に登場以来、そのスタイルはほぼ確立されている稀有な俳人である。
現在は個人誌「不虚」を発行、句集はすでに7冊、詩集、歌集、小説集や政治的断章、また思想的断章を加えると15冊以上の著作がある。
小説家の帚木蓬生氏は実兄にあたる。
孤高の俳人にして、詩人、思想家の趣がある。
デビューは『眼球呪詛吊り變容』(1991年、弘栄堂書店刊)だが、その栞文に林桂は「特異な作家であると僕は言ってしまいたくない」と述べ、次のように記した。
「『特異な作家』と呼んでしまえば、その言葉はそのまま森山氏に対する排除的な文脈の中で使われてしまう不安がひとつある。例えば森山氏の文体は匿名性とは無縁であり、自身の世界を強く主張するものである。(中略)氏は久しぶりに現われた『俳壇』の顰蹙を十分かうことのできる逸材である。それはまた、具体的なイメージにならないままに俳句形式を愛する読者に待たれていた作家ということでもある。(中略)ともあれ、森山氏の自己解体の道行の輝きを愛する機会を恵まれたことに今は感謝しよう」。
〈屑〉(くず)に氷(こお)り奈落(しあわせ)へと墜(ゆめ)みる 芙蓉(ししゅう)かおる夜
光章
*( )内はルビ。
句集『[ 法華折伏破権門理(ほつけしやくぶくはごんもんり)]、喜悦のみがる』(2012年、不虚舎刊)は初期の句よりさらに長律になっている。二、三の例を上げて読者に供しておこう。
地湧(ぢゆ)の菩薩(ぼさつ)として僧俗和合(そうぞくわがふ)で[ 魔の所為(だうりなきいま)] を破滅(いけない)する
改變(いけない)あるのみ、滅尽(めつじん)する我(われ)の裂傷(きず)より事(じ)は湧出(ゆしゆつ)す
いいのよ、佛罰(ぶつばつ)なき宇都之(このよ)の頽落(ノーパン)を補導(おさはり)する
志鎌猛「森に聴くープラチナプリントー展」・・・
12月14日(土)、中長小西(銀座一丁目水野ビル4F)で開催中(12月7日~21日)の志鎌猛「森に聴くープラチナプリントー」展に出掛けた。
案内によると「志鎌のこだわるプラチナプリントは、印画に熟練を要する古典技法。ネガと同寸で雁皮紙に焼き付け、仕上りは他にない黒のしまりと細密性を持ちます。これを撮影からプリントまで、すべて自らの手作業で行ないます。
この度、『森に聴く』と題し、自身『自分が撮っているのではなくて森に撮らせてもらっている写真』と語る」とあり、静謐でかつ深遠をおもわせる見事な世界を展開している。
御用とお急ぎでない方は、出掛けて観る価値のある個展です。
他に現在開催中のもので「森ヲ思フ」というタイトルで清里フォトアートミュージアムでは、残りわずかだが、12月23日までウイン・バロック、志鎌猛、宮崎学の写真展ががあるとのことである。
偶然とはいえ、志鎌氏は今日が誕生日とのこと、愚生は明日・・ともに65歳となる。
残りの時間が気にかかる歳になってしまったが、もうしばらくは自然とともに生かしてもらいたいと願いたくなる写真の数々だった。
以下の写真は志鎌氏と奥様の松崎女史(この方に愚生が弘栄堂書店勤務時代にお世話になったのです)。
2013年12月13日金曜日
髙柳重信詩集『旅信』『独樂』・・・
今日は、阿部鬼九男氏宅に、酒巻英一郎、救仁郷由美子、そして愚生ともども訪ねた。吉村毬子も同行の予定だったが、急遽よんどころない事情ができて、残念ながら行けなかった(次の機会に・・・)。
阿部氏宅では、ドイツビールから始まってワイン、メインデッシュ、デザートまで、いつものことながら美味なる手料理をいただいた。
愚生だけは退職した会社の忘年会に呼ばれていたので、夕刻に失礼した。
その折、酒巻氏より、髙柳重信詩集(福田葉子所蔵)のコピーをわざわざ手造りにて製本していただいたのをいただいた(写真上)。
詩集は昭和19年夏、自筆で書かれた和綴じ本のコピー。
『髙柳重信全句集』の岩片仁次の著書目録に「Ⅴ 自筆本・草稿類」によると、異本として「袋綴和本仕立、著者自装、筆書き。献辞・吉永武博兄二献ズ」の記載がある。
さらに補記として「この二著は、当時郡旅にあった吉永武博(南艸)に送ったもの。但し、吉永武博本人は受け取った記憶なしという」の記載もある。
『旅信』は散文詩で長いものでは40行を越す。
『独樂』は概ね短いものが多く、ソネット風、短歌風の詩篇があるが、なかに
「純文学のやうに生きたい
大衆文学のように死にたい」という詩行もある。
また、当時の時局にはばかるような、
「みんな兵隊にゆき
誰もけんくわする相手のゐなくなつた
かなしさよ
犬に石を投げしかな」
というのもあった。
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