2015年1月31日土曜日

福田葉子「初蝶のかの一頭はダリの髭」(豈句会)・・・



今日は、隔月の「豈」171回の東京句会。愚生の住む多摩ではまだ昨日の雪が道路に残り、
夜、その雪は、日陰の道で凍てついていた。
以下に当日の一人一句を記す。

   初蝶のかの一頭はダリの髭         福田葉子
   感覚を束ね目覚める雪の音       杉本青三郎
   
   はくてう【白鳥】同じものと等しい
            ものは互ひに舞ふ      鈴木純一         
    
   湯たんぽに着せる豹柄ひつじ組     吉田香津代
   葉ぼたんの耳鳴り皇帝円舞曲      羽村美和子
   雪の白テロの黒い血占うて         岩波光大
   東京焦土層に雁首と釘           川名つぎお
   発熱の吾も乗らんにいかのぼり      堺谷真人
   お降りに助六さがる路地の見得      早瀬恵子
   山は尿りトリュフの脳は遠浅に       無時空
   黒き白き鳥すさぶ日の大和かな      大井恒行




2015年1月30日金曜日

「射ち来たる弾道見えずとも低し」三橋敏雄・・・7

「風」第七号↑

「風」は第7号で終刊する(昭和13年4月20日発行)。そのまま「廣場」に移行、創刊される。その終刊号に三橋敏雄は「戦争」57句を一挙発表する。同号には渡邊白泉の高名な句、「銃後と言ふ不思議な街を岡で見た」「遠い馬僕見て嘶(な)いた僕も泣いた」「海坊主綿屋の奥に立つてゐた」など「車輪」14句を発表している。
また「風」終刊後記に、白泉は以下のように記した。
 
 巻頭、三橋敏雄君の「戦争」五十余句は大勉強である。若いから、お年寄りだからといふ条件を芸術の世界で云為することは無意味なことでしかないが、この二十歳に満たない青少作家の将来はわれわれの注目に値する。この稚い混沌のなかには少なからぬ金純分量がふくまれてゐると思ふ。慢心と自恃とを混同せず、あくまで粘り強い根気を徑とし、若々しい才気を緯として精進して行ったら、素晴らしい作家ちなるにちがひない。

                 戦争                  三橋敏雄
        1
  迷彩貨車赤き日出をよぎり過ぎる          『弾道』所収
  ここだ照る迷彩列車はゆき戻らず           〃
  迷彩貨車車輪をも妖(あや)にいろどれる       〃   (・・・妖にいろどれる)
  房暗し迷彩を貨車の外にせり              〃
  迷彩貨車に日を見ずてゆく兵寝たり          〃
        2
  緑陰に酒を飲むべし若き兵               〃
  若き兵その身香し戦(いくさ)の前            〃  (・・・戦の前)
  総て軍馬臀立て憩ひ繋ぎある                  以下掲載句は総て『弾道』所収
  竝びては立てし銃口を支へ立つ
  鉄兜樹間にかむり鬱と立つ
        3
  酒を飲み酔ふに至らざる突撃
  射ち来たる弾道見えずとも低し
  砲音のわたるを背後より聞けり
  熱き風鋼管に湧けり湧きつづく
  好晴の野戦の弾に中るべき
  鉄兜頭蓋を隠し更に射たる
  熱き掌に射ち乾らびたる銃のあり
       4
  獄々(やまやま)の立ち向ふ獄(やま)を射ちまくる
    機関銃獄の斜面に射ちさだまる
  獄を攻む小銃腕にほのけぶり
  獄を攀ぢ射たれたり転げ落ち怒(いか)
  獄を撃ち砲音を谿に奔らする
       5
  砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
  そらを撃ち野砲砲身あとずさる
  撃ちつげる砲音の在処(ありか)おなじならず
       6
  暁の敵前渡河の天(そら)をいかる
  弾に撃たれ河幅流れつつ漲る
  河の天(そら)故に砲声も流れ冷ゆ
      7
  戦車部隊日のもとに現(あ)れ地を覆ふ       〃  (・・現れ・・)
  戦車ゆく無限軌道は鳴りたるみ
  戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
  喬き日に戦車かならず灼け転ぶ
      8
  散兵壕曲折あれば陰も照る
  塹壕に支那の活字の書を瞥す
  塹壕に硬き底ぞも踏まれある
  夜も赤き塹壕に身を落し寝る
  塹壕の夜も土匂ひ兵ねむる
      9
  機関銃黒し街区にしづみゆき
  窓の下機関銃手となり潜む
  機関銃隠れ噴きつつ月落ちたり
  機関銃射手駈け出でて持ちすすむ
  舗装路を匐ひ移りつつ射ちつくす
     10
  戦争の路地づたいゆき角に照る
  戦争の街区に見られ海たひら
  あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
  商館に銃火あふるる窓あり扉あり
  夜目に燃え商館の内撃たれたり
  照明弾厦の高低を照らし降(ふ)りぬ          〃  (・・・降りぬ)
  壁厚く弾痕の各々に月出たり
      11
  壁残り厦のかたちは撃たれ立つ
  壁の街窓立ち残りたるままに
  壁の街硝煙匂ひ眼には見えず
      12
  戦友の血飛沫(しぶき)を見る火線なり       〃  (・・血飛沫・・・)
  火線構成昼の銃火は見えはしる
  撃ち挟まれ徒(あだ)に鉄条網曇る          〃  (・・徒に・・)
  鉄条網これの前後に血流れたり
  鉄の兵器彼我に忽ち燃えのこる

「戦争」57句は、約二か月後、「サンデー毎日」(昭和13年6月26日号)に於いて、山口誓子は、

 (1)こヽに挙げたものは総て無季作品であるが、かういふ無季作品を見てゐると、季といふ観念に捉はれないといふやうな消極的な意味においてゞなく、季といふ観念を全く漂白し去つたといふ潔い感じがする。これは戦争を戦争の裡に見ようとする絶対的な立場からは当然なことである。前線無季俳句はこヽまで行かないと嘘である。
 (2)私は主義として無季作品を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればかういう方向のものを作るのではないかといふ気がする。
  
と述べた上で「私はこの無季作品に近親さを感ずるのである」と激賞したのであった。それもそのはずである。18歳の三橋敏雄は「私は、なけなしの想像力を以て、競ひ応へやうと決意したものだ。表現の外形には、当面の鼓吹者、山口誓子の方法を借りる事とした。既に、山口誓子俳句の表現様式の典型は樹立されてゐたからである」(『弾道』後記)と、誓子の方法を自家薬篭中のものとしようとして試みていたのである。

モミジバスズカケ↑
 

2015年1月29日木曜日

「驛寒し機関車の汽罐見ゆれど噴かず」敏雄・・・6

                                             [
                                             「風」第6号↑

「風」第六号は第五号より予定より四か月遅れて、翌昭和13年3月1日発行となった(奥付は「風」第二巻一号)。三橋敏雄は「H驛断章」の題で5句を発表している。そのうち4句が、改作された句を含めて句集『太古』(『青の中』には再録)に収録。

       H驛断章 (句集『太古』では「停車場と改題)            三橋敏雄
  貨車の横冬の西日は遂になし
  驛寒し機関車の汽缶見ゆれど噴かず  『太古』所収
  冬の驛校内に煙すヽみて来たる       〃   (・・・構内へ煙すすみて来る)
  機関車の車輪ならびたる雪jけはひ     〃   (・・・竝びたる雪催ひ)句集『青の中』再録
  寒き夜を機関車走りいでむと動く      〃   (・・・出でむ・・・)

発刊の遅れた事情のいくつかを、白泉は「後記」で次のように記している。

(前略)★(注・編集兼発行者)兼尾さんは大分ご苦労様だつたのである。警察の人がたびたび調べに来たり、これはまあどこでもの話だから、別に問題の起こらなかつたことを幸としなければならない程であるが、購読者の人々からは一わたりずらつと催促される。(中略)三鬼さんに会へば、会つて俳句の話になつて僕のドグマチックが益々佳境に入つて僕の眼鏡が愈々僕の鼻からずり落ちさうになつて来ると、「時に、風は出ますか」と呼ぶ静かな声がきこえてぼくはしよげてしまふし、窓秋さんは僕の赤面を楽しみに何度も何度も僕に同人費を渡すし、初巳さんのうちへ遊びに行けば、そうれ御覧なさいと言はぬばかりの顔が何べんも僕の視力を弱めてしまふし、青柚子は俳句が出来た出来たと脅すし、三橋敏雄君には悲しさうな顔を示されるし、、僕も参つた。
★さあその皆様御待兼の「風」第六册が出来上つたのである。誰も文句はない筈だ(白) 

考えてみると、今は大小あまたの俳句誌があるが、愚生の所属する「俳句空間ー豈」を除いてはおおむね、月刊、季刊を問わず、キチンと遅れることもなく刊行され続けているのだから、よほど世の中は平和なのである。有難いことにちがいない。


2015年1月28日水曜日

「汝が額に花火の音はながからぬ」三橋敏雄・・・・5

                                                 「風」5号↑

「風」五号(昭和12年10月1日・一冊20銭、送料3銭)に、三橋敏雄は、「煙突林」の題のもと、10句を発表し、「愚昧の言」と題したエッセイを発表している。

         煙突林                                三橋敏雄
   煙突林暁けて来らしも四肢のほとり
   木々喬しまことに朝日はずみつつ          『太古』所収(木木喬し・・・)
   町々にをさなら暁けてはだかなる          『青の中』所収(町町に・・・)
   運河ひでりくるぶし太く沿ひ来たり            〃       (・・・来り)
         夜のうた
   戀しげく柿の裏葉の夜をかよふ           『太古』所収(「春秋」の題あり)
   汝が額に花火の音はながからぬ
         二百十日後日抄
   唐黍の垂毛やあかしうろこぐも *9 『青の中』所収・『太古』所収(「村」の題あり…赤し)
   唐黍やとほ山かけてのこりかぜ
   こどもらに唐黍の毛は高そよぎ           『太古』所収
   唐黍はたそがれみのり兒が食ふ            〃   (・・子が・・)

その号のエッセイ「愚昧の言」の「二」に三橋敏雄(当時17歳)は言う。

  我々は最後まで意識せずにほんとうのものを俳句に残してゆかねばならない。―といふことから、我々の出発点はつねに到達した地点に置かるべきである。
 そして其時の我々の周囲に、必ずなくてはならぬもの、それはまつたうな懐疑と、もう一つひたぶるな情熱、この二つだけである。

この「風」五号には、読者作品欄の選句を高屋窓秋が行い、作品を「春」と題して9句発表している。読者作品欄の「立場と方針」に「諸君は俳人の為に句を作ることを止し給へ」と記している。
また、作品「春」の9句の中の3句は「河」と括られた小題がある。その3句を紹介しておこう。

   花かげの別離男は河をゆきぬ                      高屋窓秋
   胎動に愁へり痛み眙(み)つむ河
   河玻璃にひえびえ泪にじむなり

この年(昭和12年)、高屋窓秋は書下ろし句集『河』を刊行。直後7月7日には盧溝橋事件によって日中戦争に突入した。


 
                    スイセン↑

 

2015年1月27日火曜日

「諸君は俳人の為に句を作ることを止し給へ」(窓秋)・・・・4



前回に引き続いて「風」のことに触れておこう(表紙・カットは小澤青柚子)。
「風」は三号で早くも「七月号が抜けた」(編集後記)。従って奥付によると「風」三号の発行日は昭和12年8月1日。編集・発行者も谷澤芳太郎に変わっている。新同人に高屋窓秋と阿部青蛙を迎え、窓秋は、読者俳句欄の選者を第5号から担当することになり、その募集広告が掲載されている。そして阿部青蛙は「葛飾の冬」46句の力作を発表し、「『俳句朗詠調試作』という傍注を付すべきかも知れない」と後記に記してある。

    (みさ)け飽かぬ鷺のまにまに氷(ひ)を踏みゆき       阿部青蛙
    ともるとき冬ぞらの藍篠の来ず
    うすら氷を踏み弾帯の光れりき




三橋敏雄は、「風」三号より同人として参加、「或る遺作展」12句を発表していることは前回にも触れた。今回は「風」四号(昭和12年9月1日発行・編集兼発行者 小西兼尾)に発表された「軍人」12句を留めておこう。

   軍人は晩婚にして鳥撃てり    (句集『青の中』所収)           三橋敏雄
   鳥銃を疎林に向けて暁けはじむ
   軍人の日焼けて持ちぬ金時計
   汗ばみて軍人は妻とほく連れぬ
      裏町Ⅰ
   露の路地汝が前額のひたにあり
   角時計鳴りわたりたり路地に吾に
   路地せまくはざまのそらへ髪伸びたり
      裏町Ⅱ
   路地の路地ひとかげあらず雷雨来る
   わが路地のくろき門標を雷わたる
   ひとのこにあつき雷雨はしみとほり
   みぢか夜にゆきむかひしは禿の爺
   植林にちらと老鶯のまなこあり

「風」四号の編集後記には渡邊保夫と発行者・櫻井武司の出征により「再び発行所が移転した」とある。とはいえ、後記の署名をみると、渡邊白泉、小澤青柚子が実質的に実務を担っていたと思われる。
因みに、同人住所録による人数は以下のように30名。
会津隆吉・阿部青蛙・荒木海城子・稲川榮一・飯島新松子・飯島草炎・江原佐世子・岡崎北巣子・奥澤青野・小澤青柚子・小澤蘭雨・熊木一男・熊倉啓之・小西兼尾・西塔白鴉・櫻井武司・澁谷吐霧・高屋窓秋・高井洒水・中島叢外・中村秀湖・南雲山査子・長谷川友太郎・羽根田左芙男・冬木胖・古川衛士・松澤黒洋・三橋敏雄・渡邊白泉・渡邊保夫。


   

「真の芸術はやがて真の自由主義に胚胎する」・・・3



タイトルの言葉は「風」創刊号(昭和12年5月1日・風発行所)の創刊の辞の一節だ。戦前発行の「風」である(創刊・昭和21年5月、石川県金沢から澤木欣一編集発行の誌とは別の誌)。
最後の結びを以下に記す。

 大志細心、昭和俳句確立のためにはわれらはただ邁進の一途あるのみ。時まさに五月、郭公暁天を浩ぐるのとき『風』はいま漂漂颯颯と出発する。文神まなこあらば幸に祝福を垂れたまへ。
          昭和十二年春
                                                 小 澤 蘭 雨
                                                 小 澤 青柚子
                                                 渡 邊 白 泉
                                                 小 西 兼 尾
                                                 熊 倉 啓 之
                                                 櫻 井 武 司

創刊同人は14人である。編集後記の署名は(白)とあるから渡邊白泉(編集人・渡邊威徳)である。発行人は小澤秀雄(青柚子の本名)。その編集後記の終りに、

 鳳作へ一部贈ることにした。好晴の日一冊を灰にして青柚子と僕と二人の手から風船とともに天上せしめる手筈になつてゐる。(白)

いかにも美しい仕儀である。前年の9月17日に鳳作篠原は帰天しているのだ。享年31。
勤務先東京堂で三橋敏雄を業務命令のごとく俳句会に引き込んだ、「風」同人・渡邊保夫の推挙もあって、三橋敏雄は三号(昭和12年8月)より「風」同人となった。「ある遺作展」と題して12句を発表している。敏雄17歳。
 
        ある遺作展                            三橋敏雄  

    遺作展階を三階にのぼりつめ  
    遺作展南なる窓ひとつ閉づ
    帽黒き人と見たりし遺作展
    遺作展階下ましろく驟雨去る
         動物園
    園茂り午後のジラフの瞳を感ず
    人間や河馬の檻には立ち笑へり
    ふきあげの見えゐる象の後足なり
         〇
    招魂祭とほく来りし貌とあり
    花火の夜椅子折りたたみゐし男
    指先の風にとまりし悍馬なり
    回転ドアめぐればひとがひかりゆき          
       
ちなみに、遺作展の最初の三句は、三橋敏雄句集『太古』に収録されている。「ふきあげ」はママ。「招魂祭」は「顔と遭ふ」と改作(『太古』には「靖国神社」の詞書で収載)、「花火の夜」の句はママで『青の中』に収載されている。また、10句目「悍馬なり」の上五・中七は改作され「八階に真昼見おろす悍馬なり」となっている。


霜畑↑

*閑話休題
昨年10月、このブログに、当時の雑誌に発表された三橋少年時代からの句の覚書のようなものを記録しておこうと始めたのだが、私事多忙を極めて2回で中断していたものを、何とか少しづつでも継続したいと思い、再び、その時間を作り出したいと思って再開した。


モグラの盛り土↑

2015年1月22日木曜日

眞鍋呉夫「子の畏怖(おそれ)ランプに風が唄ふなり」・・・



「石神井書林目録」95号(2015-1)は真鍋呉夫所蔵本だっただろう島尾敏雄、檀一雄、庄野潤三などの献呈署名入り本が多数掲載されている。それらのなかに真鍋呉夫句集『花火』(こおろ発行所・限定百部・非売品 昭16 毛筆句入り)がある。そして掲出の「子の畏怖(おそれ)ランプに風が唄ふなり」の毛筆句が認められる。162000円とある。
眞鍋呉夫(天魚)は1920年福岡県生まれ、2012年没。10代の終りに、阿川弘之、島尾敏雄、那珂太郎などと同人誌「こをろ(こおろ)」を出しており、戦地に赴く直前に句集『花火』を刊行した。
愚生が真鍋呉夫に初めて会ったのは、レンキスト・浅沼璞の紹介で、関口芭蕉庵で行われていた連句会に連れて行かれたことによる。たしか句集『雪女』(冥草舎)を出される少し前のことだった。その後『雪女』で詩人への賞である歴程賞を受賞され、続けて読売文学賞を受賞された。以後の天魚・眞鍋呉夫の俳人としての歩みは皆さんのよく御存じのところであろう。
その後、これも浅沼璞に連れられて、自宅にお邪魔し、ご夫人の手料理と帰りには漬物だったか、手作りの土産までもらった。また、沼津大中寺の句碑開きのことなどを思い出す。
最後に覚えているのは、何の折だったか、眞鍋呉夫は非戦論を主張していたが、保田与重郎の『絶対平和論』こそは読みなさいとしっかり言われたことである。

『雪女』には、有名になった序句、

     M-物言ふ魂に
  雪女見しより瘧(おこり)をさまらず

もさることながら、前書きのある以下の句なども忘れ難い。

     檀一雄氏と南紀太地の断崖に佇つ
  眩さのはてにありけり継子投

     ひと 亡父天門を「こつてうし」とよぶ
  狷介(けんかい)にして燈籠をこのみけり

     折笠美秋氏筋萎縮側索硬化症にて七年にわたる闘病の
     後刀折れ矢尽きて逝く その夜霰すこし降る 同氏の
     遺句「なほ翔ぶは凍てぬため愛告げんため」に和して
  春あられ折笠美秋なほ翔(と)ぶか

     島尾敏雄帰天
  さびしくて雪の安達太良(あだたら)身顫(ぶる)ひす


そういえば、何時だったか、正木ゆう子、眞鍋呉夫と同席したおりに、しきりに、ゆう子は現代の雪女です・・・と言っていたなぁ・・。



                    枯芭蕉↑


2015年1月21日水曜日

自由律俳句誌「蘭鋳」(発行・雲庵、編集・矢野勝久)・・・



「『蘭鋳』創刊の辞にかえて」に言う。

(前略)若い世代は求めている。自分達の言葉を顕在化させる場と、共に高みを目指していける仲間を。
(中略)
『蘭鋳』創刊の目的。それは自由律俳句の世界を前進させる事。低迷、停滞した現代の自由律俳句界を我々の手で変えていく事。(後略)

文面から察するに、これが創刊号なのだろうが、誌に号数の明記はない。ちなみに執筆者一覧によると12名(ユニット・さ行を入れて)。1971年~1986年生まれの間らしいから、年齢でみるとおよそ44歳~26歳の間に収まるので、、確かに俳人としては若い世代に属していよう。かつての前衛俳句が30代作家と称された戦後の俳人たちによって推進されたことを思えば、俳句形式に対する野心を抱き、その言語表現の実力をわき目もふらず実現するには適した世代と言ってもいいだろう。にしても(少し苦言を・・)、以下に「若手自由律俳句作品集」の8人一句を紹介するが、俳句形式の未来を展望するには、その俳号がいかにも前時代じみていて、新しみが発揮できるのか、韜晦しようとしているのかしら、と思ってしまう(愚生が古すぎるのかしら・・・)。

  嫌いな人と台風の中ゆく           藤井雪兎
  きずついた夜を切り取る月がほそい    畠 働猫
  嘔吐する母の背骨の蝉時雨         さはらこあめ
  寒い手に寒い手がぬくい           天坂寝覚
  赤信号を渡るおばあちゃんが速くなった  馬場古戸暢
  私を洗濯する湯に浸かる           風呂山洋三
  らんちう優雅に狭い金魚鉢          矢野錆助
  また会えたほこりがくるくるまわってた   中筋祖啓

この号の特集は「長律」取り上げられた作家は栗林一石路・橋本夢道・北田千秋子・岡野宵火・平松星童の5名だが、愚生の不勉強で、一石路、夢道以外の作品に触れることができたのは嬉しかった。
  
 ねぎ畑あおく元旦のあたたかなあめになつている   千秋子
 月はいま雲の中にある封をして封とかく 
 人間の苦悩冬のみづにうつつてゆく            宵火
 金魚はいつもきれいな水の中に生き寒ンの日ざしのしづかな
 ラジオが生々しい海戦の模様を、日本の夜は満天の星 星童
 水のなかまで月夜である石のかたち

何はともあれ、新しい試みがなければ新しい何かも創造されない。次号に期待をつないでおこう。

ミツマタ↑

2015年1月20日火曜日

橋本照嵩写真集『石巻』・・・



 橋本照嵩に人物を撮らせたら、もっともその人らしい内面の表情を撮って示す写真家だという印象は、かつて彼の小野十三郎の写真集を見た時に感じたことであった。彼には『瞽女』という彼を写真家としてデビューさせた彼の原点のような一集がある。
 何より本写真集は、その書名『石巻 2011.3.27~2014.5.29』(春風社)が示すように、彼の生まれ故郷である石巻に、東日本震災後16日後に,やっとの思いで、故郷の肉親に再会してからの日々、彼の現在の生活の場である埼玉の自宅から毎月石巻に通い、かつて生活をしていた現地の写真を撮り続けた。
 愚生は、俳句総合誌「俳句界」にいた頃、その雑誌のグラビア撮影現場に、2、3度、橋本照嵩と一緒だったこともあって、3.11震災後、とにかく、石巻にきて見てよ、と彼は愚生に言っていた。愚生は、一年数か月後、たまたま東北を巡った旅の途中、時間が少しできたので、思い立って、急遽、石巻に行った。
 何の予備知識も案内も、準備もなく、とにかく北上川河口まで歩いた。
 河口の近くだったと思うが、仮設の店舗がいくつか集合しているなかの喫茶店に入って珈琲を飲んだ。愚然にも、目の前に橋本照嵩の写真が掛けてあるではないか。さらにカウンターには彼の写真集まで置いてあった。
愚生は懐かしい気分も手伝って、店の女性に、「飾ってあるのは橋本照嵩さんの写真ですね」と声をかけた。その女性は、「東京からよく見えるお爺さんですよ」と言った。
 橋本照嵩は、たしか冨士真奈美・吉行和子・ねじめ正一らと月に一度、神楽坂で句会をやっているとも言っていた。そのせいか、会うとたまに、この句はどうですかと聞いてくることもあった。その時は決まって、これから句会に行く直前であることが多かった。
 写真集『石巻』には冒頭、本写真集の編集・発行者、三浦衛の詩「鷗」が置かれている。「一万五千七百回のシャッター音/四万七千点のラッシュの中から/不意に現れた 一枚の写真/手には スコップ/土を掘る というよりも/まるで何か 語りかけているようなのだ/後ろには 竜の頭(かしら)のバックホー (以下略)」
 
 写真集最初の写真には橋本照嵩自身が以下のように記している。

(前略)。一週間ほどで肉親とその家族の無事がなんとか確認できた。地震から16日目の27日未明、石巻着。市内はまるでスクラップ状態だ。なんだこれは!なんとも酷い。魚市場からその日全国に向けて発送する魚を積んだトラックを出発直前に津波が襲い、膨大な量の魚が辺り一帯に投げ出された。日を重ね腐乱した魚の臭いが強烈な川口町や湊筑では、炊き出しの数箇所に人が集まっていた。崩れた自家から使えるものを拾う人々の姿もあった。人気の無い倒壊家屋の窓のカーテンが風に煽られバサバサと音を立てた。日常を取り戻そうとするふるさとの営みを、身近なところから写真に収めたい。

 橋本照嵩は今でもデジカメではなく、フィルムを使って写真を撮る(『石巻』はデジタルとのことだが)。このモノクロ写真集『石巻』について、佐々木幹郎は、「その見えないものを写し取ろうとする写真家の執念が、この美しさを生む。これは何だろうか。写真家が写しきれないものを写そうとするとき、写真の解釈や分析という、こしゃくな操作が弾き飛ばされる。わたしたちは魅入る以外にないのだ。この風景に」(「図書新聞」2015年1月10日号)と讃辞を送っている。


*橋本照嵩(はしもと・しょうこう) 1939年、宮城県石巻市生まれ。




2015年1月18日日曜日

筑紫磐井『戦後俳句の探求〈辞の詩学と詞の詩学〉』・・・



著者・筑紫磐井は「まえがき」に言う。

本書の結論は「辞の詩学と詞の詩学である。それは難解(前衛)俳句に由来するものだが、しかし、広範な現代俳句・伝統俳句に適用もでき、未来の俳句にも通じる新しい詩学だと考えている。

ということは、目次を見ると、とりわけ、書下ろしの「第8章 阿部詩学の拡大―兜太・龍太・狩行」の中の項目、「1、阿部詩学の展開 (1)『辞の詩学』の吟味 (2)『詞の詩学』の可能性と統合」の部分を読めば、本書の内容はほぼ把握できるということかも知れない。そして、「あとがき」には以下のように述べている。

本書で、「辞の詩学と詞の詩学」として掲げた新しい詩学は、これからの俳句の根拠となってよいと思っている。若い世代を含む新しい俳句には、新しい詩学が望ましいというのが私の考えである。(中略)
あらゆる(「前衛」を含めての)目的は、(特に定型詩にあっては)日本語をどのように改造するかではないか。もし「前衛」がそれを達成できなかったのであれば、、新しい詩学が達成すればよいと思っている。だから、表現史と呼ばれるものに不満なのは日本語を変えるダイナミズムに欠けることだ。秋桜子も、誓子も、草田男も赤黄男もささやかながら日本語の改造に貢献してきた。それを説明できるものにしたい。もちろんそのようなことばかりがこの詩学の出来ることではないし、そのようなことをこの詩学に期待していない人もいるから断言はしないが、可能性はあると信じたいと考える。
 逆に言えば、俳句は思想を表現しなければならないわけではない。思想を表現しても悪くはないが、俳句の視野はもう少し広い。(思想も含めて)表現できる日本語を期待したいのだ。そろそろ「現代俳句のテーゼ」をもう一度考え直す時期にきているようだ(もちろん俳句上達法の時代であっても困るが)。

こうして『定型詩学の原理―詩・歌・俳句はいかに生まれたか」(ふらんす堂・平成13年)から『伝統俳句の探求〈題詠文学論〉―俳句で季語はなぜ必要か』(ウエップ・平成24年)を経て、本著『戦後俳句の探求〈辞の詩学と詞の詩学〉-兜太・龍太・狩行の彼方へ』(ウエップ)までを貫いているのは、何あろう当初からの筑紫磐井〈定型詩学〉なのである。とにかく、新しい俳句には新しい読みが必要だ、という摂理は動かない。

時代の状況のなかから創出された概念の二項の定義を比較しながら、駆使する論調は、筑紫磐井の得意とするところであるが、本書の基本的なタームは「難解」=「前衛」。しかし、表記については「前衛(難解)」ではなく、「難解(前衛)」とあることをみても、展開する論理は周到である。そしてすべては相対的に論じられる。また、意外に面白く、興味深く読めるのが、本文に付された、いささか長い「注」である。
ともあれ、筑紫磐井の卓見あふれる本著をこれ以上紹介するのは愚生の手に余る。
是非の一読をお薦めし、堀切実、川名大との応酬も本書に色を添えているとだけ言っておこう。



2015年1月12日月曜日

高岡修「冬菫わが四肢に浮く釘の跡」・・・



先般、高岡修詩集『火口の鳥』(ジャプラン)が上梓されたと思っていたら、続けて『高岡修句集』(現代俳句文庫・ふらんす堂)が出た。帯の句は「月下とはりんどうが飲む水の音」。愚生と同年生れで、かつ「むらさきばるつうしん」の岩尾美義に師事していたとあっては、同行者とも思える親近感がある。もちろん、愚生は、高岡修言語の力技には遠く及ばないけれど、以前から注目している俳人だ。その巻末エッセイ「俳句における詩的言語論(抄)」には、以下のようにマニュフェストされている。

  むしろ俳句は、書かないという意志において書く文学行為である。小説や詩のような言語を重ねるという行為を捨て、短歌形式の完璧な韻律さえ捨てた。書かないという意志において書くという、世界の表現史上に類例のないパラドクスは、しかし、その作品の内界に、怖るべき高度と広さを獲得した。

そして、「あとがき」には、

 その詩の極北としての俳句世界の現前を、私は半世紀近くもめざしてきた。だが、いまだに道は遠く、険しいままだ。この一書を遥かなる詩界への一里程とするほか、仕方ないようである。

とある。
ここでは、彼の挑んでやまない詩界のもう一書、彼の第16詩集『火口の鳥』を紹介しておきたい。

 (前略)私も今回は、全編を二十行以内で書こうと思ったのです。あるいは、単純に、一篇でひとつのことしか書かないと。(詩集「あとがき」)

そして、そのように書かれた詩編の多くに登場するのが「死んだ子どもたち」であり、不在の「子どもたち」である。さらに詩集名の「火口の鳥」については、以下のように記されている。彼の書斎から見える桜島の、

 その火口の左端に一羽の岩石の鳥がとまっています。岩石の鳥は今にも飛び立とうと言わんばかりに大きく羽を広げています。しかし、羽を広げたまま、その鳥はいつまでもそうしたままです。
 その鳥を発見したのは、四年余り前、突然に息子が三十七歳で亡くなってから一ヶ月ほどのことでした。よく見ると、いくつかの岩石が重なってできているようで、角度的に、私が住んでいる場所からしか、その鳥を見ることができません。それ以来、私は、その岩石の鳥を死んだ息子だと思っているのです。

詩集からは、「子どもたち」が言葉として登場せず、愚生好みだった一篇を以下に挙げておくことにしよう。



あなたの
息を
私に
ください
あなたの息で
私の虚ろが
響きわたります
あなたの
最後の息を
私に
ください
あなたの最後の息で
私の虚ろを
満たします




 
            

2015年1月11日日曜日

「難波田史男の世界ーイメージの冒険」世田谷美術館・・・



難波田史男(1941~1974)の父は難波田龍起(1905~1997)。うまく思い出せないが、難波田龍起の絵はどこかで観ている。その次男が難波田史男だった。龍起が69歳のときに次男・史男は瀬戸内海でフェリーから転落して死去。翌年には長男・紀男も死去。失意の画家はそれでも「絵を描くことで息子たちと共にいるような気持になる」と描けなくなるまで描くべく92歳まで絵筆をとり続けた。
画家の父を持ちながら、ほぼ独学の史男は、激動の60年代の時代の心象を奔放に描く。ときに太陽は黒く、ときにその円は眼を抱いている。32歳で夭折したためか、ついに自由に奔放な線を描き残したままだったように思われる。それらの多くの線に愚生はどこかで出会ったような気分をいだいたのだった。そして、かつて「俳句空間」にイラストやカットを描いてもらっていた平野勇によく似たタッチではなかったかと、ふと、思い至った。その頃、平野勇は武蔵野美術大を卒業して、無農薬野菜や自然食品をリヤカーに積んでひき売りをしていた。「俳句空間」には、小遣いにもならない謝礼で若い彼にカットを頼んでいた。あと一つ、仁平勝の句集『東京物語』の表紙絵も彼だった。もう、25年近くの年月を経てしまったが、平野勇は今頃どうしているのだろうか。
話を難波田史男展にもどすと、彼は15年ほどの短い期間に2000点を超える作品を残していたらしい。本展は世田谷美術館所蔵の800点のなかから250点の展覧だそうである。中に父・龍起のものも三点ほどあった。
パンフには、以下のように記してある。

 不条理の最高の喜びは創造である。
 この世界に於いては、作品の創造だけがその人間の意識を保ち、
 その人間のさまざまな冒険を定着する唯一の機会である。
 創造すること、それは二度生きることである。
             ー史男、27,28歳頃、1968-69年のノートより





あわせて「ミュージアムコレクションⅢ」の「世田谷に住んだ東宝スタジオゆかりの作家たち」とコーナー展示で「宮本隆司の写真」をみた。宮本隆司は愚生の世代には雑誌の連載などで、人気のある写真家だった。いつだったか、首くくり栲象の庭劇場に行った折に、風倉匠や書肆山田の鈴木一民と愚生が一緒の写真のほかに、宮本隆司の撮った首くくり栲象(古澤栲を名乗っていた時代だろう)の写真がピンでとめ、飾ってあったのを目撃した。 

・首くくり栲象・1月の庭のお知らせ----------------

「む」の力

寒ん空の真下で涎を垂らし。

●開催日と開演時間
〇平成27年1月21日(水曜日)夜8時開演
〇22日(木曜日)夜8時開演
〇23日(金曜日)夜8時開演

〇開場は各々十五分前
〇雨天時も開催
〇料金→千円
〇場所→くにたち庭劇場
◎庭劇場までの道筋
中央線国立駅南口をでて大学通りの左側を一直線に歩き、二十分ほどで唯一の歩道橋に出ます。そこを左折する。右側は国立高校の鉄柵で、鉄柵沿いに歩いて三分ほどで同高校の北門に到達します。その向かいの駐車場(赤い看板に白抜き文字で『関係者以外立入り禁止』の文字が目印です)に入って下さい。左奥で、木々の繁みにおおわれた、メッシュシートで囲まれた、平屋の中が庭劇場です。
なお国立駅と向かい合っています南武線谷保駅からですと、谷保駅北口をでて国立駅方面へ大学通りを直進。七分ほどで唯一の歩道橋に着きます、こんどは右折し、以下国立駅からと同記述です。
  首くくり栲象 

電話090-8178-7216
庭劇場:国立市東4-17-3

http://ranrantsushin.com/kubikukuri/index-1.htm
http://ranrantsushin.com/kubikukuri/keitai/



 

2015年1月8日木曜日

藤井冨美子「たおやかに虹たてば都市沈みけり」・・・



丸山巧は『藤井冨美子全句集』(文學の森)に収載された「魂の残り香」に以下のように記している。

街の雑踏を歩いていて、ふとすれ違いざまにえも言われぬ優雅な匂いを感じて振り返ることがまれにある。上等の香水だからではない。目を見張る美人だからでもない。何とはなしに気品があってゆかしさを感じるのだ。ほんの一瞬のことで、すぐ人にまぎれてしまう。あれは幻覚だったのかと不思議な感覚に浸る。
 藤井冨美子の俳句に出会って刹那に感じたのはそれと似通った感覚であった。

愚生は、不明にして、これまで、まともに藤井冨美子の俳句を読んだことはなかった。それは、何より榎本冬一郎の有名だったメーデー俳句を記憶にとどめ、社会性俳句の一時代を築いた「群蜂」の継承者であること以上に興味を抱かなかったという自身の怠惰によるものである。
この度の『藤井冨美子全句集』の開版は、この愚昧を戒めた。

他にも精緻を極める楠本義雄「藤井冨美子の風景」、解説の堀本吟「藤井冨美子論ー戦後俳句のユートピアをさぐる」、そして、丸山功と同じく、次世代の樋口由紀子「管見ー藤井冨美子」。序文は和田悟朗で、

 ことに本全句集の二一六から二一七ページにかけてのあたり、絶唱といして大きば頂を成しているように思われる。

  山の木に無心の月のかかりたる          冨美子
  どこまでも芒の原か鬼逃がす             〃
  天命のおもむくところ秋澄みぬ            〃
  水清し花びら清し母の膝                〃
  果汁一滴いのち養い冬に入る            〃

 空間大きな拡がり、その中に月も鬼も命も自在に遊び、秋から冬にかけて静かに過ぎてゆく様相は、あらゆる存在がいったいとなって作者の心の中に、安らかである。冨美子自身の若年の喧騒は去っており、身辺には清らかな大気があるばかりである。自らすでに還暦近い年齢に達している。このような境地はやはりすぐれた俳人ならでは無心であろう。 

と示している。

そして、また、攝津幸彦より一歳若く48歳で夭折した、榎本冬一郎亡きのち、一時期、藤井冨美子とともに「群蜂」代表を務めた伝説的な俳人・川崎三郎の文章に、これも『榎本冬一郎全句集』(牧羊社・1978年)解説以来であったが、藤井冨美子第一句集『海映』解説で出会うことが出来たのは嬉しいことであった。そこには、

 さりげなく、それでいて、容赦なく過ぎ去っていく平板な日常の時間の流れの中から、いかにクライシス(危機感)を受感するかという詩の本質に対処していることはあきらかでなのである。

と、以後の藤井冨美子の行く末を予言しているかのようであった。



2015年1月2日金曜日

坂東孫太郎「老いが身の妻恋ふ鹿となりにけり」・・・



 坂東孫太郎(源五郎とも。本名・輝一)は、「第124回遊句会出席の翌日/平成25年10月18日、急逝。/最後の句会では、翌月の句会のために左記兼題三つを残す。/兼題=冬の蠅・日脚伸ぶ・芭蕉忌」と遺句集『坂東孫太郎句集』(遊句会・平成26年10月発行)に記されている。
 もとより、愚生は一面識もない。初めて耳にする名である。
 愚生の手元に贈られてきたのは、40年ほど前からの知り合いであるシャンソン歌手・石原友夫からである。
「賀状にかえて」の私信には「四十年来の友達で俳句の師でもあった男が一年前永眠しました。一周忌に句集を作り、縁の方々に配布しました。下町の材木屋の伜で年から年中ジーンズを着て。五十歳で広告代理店コピーライターを辞し、文筆活動へ。いつしか小説より俳句の方が面白くなったようです」とあった。

 その遊句会の面々19名の追悼の献句も巻末に併載されている。因みに石原友夫の献句は「月を背にままよままよと押しとほし」である。

 その坂東孫太郎、朝日俳壇などいくつかの新聞俳壇、NHK「俳句王国」、俳句大会などにも投句されていたようでる。大会特選句もあった。
 「一杯やりながら、わいわいやりましょう」の「遊句会」は今も続いているらしい。
ともあれ、句集から好みのいくつかを拾って以下に挙げ、愚生も冥福を祈りたい。

    嗽して小さな虹を吐き出せり        孫太郎
    満開の桜残して廃校す
    銀ぶらの鳩居堂前甘茶仏
    ぼけてなほ老母とぼける万愚節
    孫が子が犬が許さぬ寝正月
    大振りも小振りも湯気の衣被
    六十を六粒として年の豆
    太陽がまだ許さんと今日の秋
    老いが身の妻恋ふ鹿となりにけり




                    ロウバイ↑



2015年1月1日木曜日

大井恒行「気霜かのあだに夢みる羊はも」・・・・




新年明けましておめでとうございます。
皆様方の本年のご多幸を祈念いたします。
小生にも、いましばらくのご鞭撻をお願い申し上げます。

       乙羊 元旦         
                   
  大川にくさめ落して年明けぬ       恒行