2017年7月31日月曜日
瀧春樹「炎天を突き抜け麒麟の首である」(『樹句集Ⅲ』より)・・
『樹句集Ⅲ-「樹」創刊25周年記念季語別アンソロジー』(書心社)、樹同人代表・太田一明「『樹』創刊二十五周年を祝す」は以下のように記している。
「樹」にはいろいろの樹がある。松の木があれば杉の木のある。瀧主宰の指導方針は「自身の肉声で自身の今を書く」である。肉声は個性に他ならない。松に向かって杉になれとは言わない。松は松のまま育ってくれればいいのである。(中略)
句を募集し始めてから五年が経った。作者の中にはこの世にいない方も居られる。残念でならない。
と。また、瀧春樹の「あとがき」には、傍題は「樹俳句歳時記」としたがとして、
ただ一、四〇〇余句の季語と三、〇〇〇ばかりの句数では、歳時記というには拙く、同人による「季語別アンソロジー」と位置付けている。
句の分類は、春、夏、秋、冬、新年、雜の部の他、「花の彩時記の部」を特別に加えた。理由は、今「樹」誌上で連載を続けている《花の彩時記》を念頭に置いた。
このシリーズは、管見にして過去に比較的例句の少ないと思われるものや、手許の歳時記に単独で記載のない、主に山野草を中心に俳句でどこまで書き込めるかという試探と言えなくもない。
と記している。ところで、「樹(たちき)」俳句会歌というのがあるらしい。作詞は伊藤ミネ子「樹節だよ人生は」という題の歌で、(「浪花節だよ人生は」のリズムで)とある。面白いのは「樹句会」という部分をそれぞれ別の俳句会の名を入れて歌えば、すぐにも〇〇俳句会歌というのが出来る。お試しあれ。一番から三番まであるが、一、二番を以下に紹介しておこう。
一 樹に入って素直に詠んだ
少し褒められその気になった
軽い気持ちが本気に化けて
よせばいいのに俳句漬け
樹句会は男の男の人生よ
二 嘘も詠えと教えてくれた
恋も詠えと教えてくれた
そんな春樹に振り廻されて
燃えた女がまたひとり
樹句会は女の女の人生よ
誌を読んでいると指導はなかなか厳しそうだが、また、無類に楽しそうという印象である。
ともあれ、雜の部立から一人一句を以下にあげておこう(雜・無季の部があるのに意外に雑の句が少ないので・・)。
杏色
束ね髪頬の丸味の杏色 渡辺ひでお
銀波
森よりいできて銀波にすいこまる 夏田風子
鶚(ミサゴ)
ゆったりと風のミサゴの鋭き眼 安行啓二
落暉
落暉が不気味な平和部厚く肉焼かれ 瀧 春樹
「樹」創刊25周年おめでとうございます。
2017年7月30日日曜日
近恵「夕焼が足りないジャムの瓶に蓋」(「豈」第137回東京句会)・・
昨日は、隔月奇数月開催の「豈」第137回東京句会(於・白金台いきいきプラザ)だった。同人以外では、佐藤榮市さん、また、初めて、近惠さんが参加された。いつもの同人メンバーだけでなく、他の参加者があると句会がいきいきする。気楽に参加いただけると嬉しい。
以下に一人一句を紹介する(サークル形式の投句は清記原稿をそのまま画像にして以下に挙げた。愚生の技術ではパソコンで打つのは全くできないので)。
鈴木純一↑
青枯れし少年のまま「気を付け」 川名つぎお
ラベンダー水平に風吹き替わる 羽村美和子
夏荻に触れて脈絡なく血族 近 恵
本日は筋肉質な積乱雲 山本敏倖
十年後われは留守なり沙羅の花 福田葉子
ときどきはひまわりにある立ち眩み 杉本青三郎
砂日傘眠くなる曲続きをり 堺谷真人
夏の蝶追いかけ星になった村 早瀬恵子
そのたびに成長とげし女郎蜘蛛 小湊こぎく
眠るらしトルコ桔梗を言いながら 佐藤榮市
空蝉の灼けておらんか空のうち 大井恒行
次回、第138回句会は、9月23日(土)午後1時~5時、於・白金台いきいきプラザ(地下鉄・白金台下車1分)。同人以外も参加自由、雑詠3句持参。
2017年7月28日金曜日
南陀楼綾繁『街を歩いて本のなかへ』(原書房)・・
南陀楼綾繁(なんだろう・あやしげ)、1967年、島根県出雲市生まれ。その名前からして怪しい。何者だろうかと思う。その名前に惹かれて、数年前、「週刊読書人」に連載されていたコラムを楽しみにして読んでいた。愚生は、ことさら本好きというわけでもないが、昔、書店にいたせいか、出版業界のあれこれについて、すこしは興味がある。
「一箱古本市」は彼のアイデアらしい。一箱だから、開こうとおもえば、全国どこででも開ける(ただし、採算はわからない)。「・『本屋』の概念が変わる?」で、
改めて思うのは、これだけネットが発達していても、本を必要としている人たちは確実にいるということだ。いやむしろネット時代が本の必要性を高めたと云えるかも知れない。
これまで、本に関する発信は都市中心で、地方の本好きはそれを受け取る側だった。しかし、情報が均一化し、双方向のコミニュケーションが可能になったことから、地方でも本に関する活動を行う機運が生まれたのだ。
と言う。あるいはまた、「再販制」と「委託制」が、出版業界の売り上げが下がり続けているにもかかわらず出版点数は増えているとしてと指摘しているが、もっと言えば、とりわけ、新規参入の版元には、取次会社は次の新刊が出るまで、売り上げ金の支払いが保留される契約になっていたので、いきおい新刊を次々に出さざるを得ない、そうしなければ保留された売上金の回収ができないという構造的な問題をはらんでいたと思う(愚生がいた十数年前のことだから、今は少しは改善されているかもしれないが・・)。
本書第3部「早稲田で読む」には、愚生の定年後に勤めた出版社が高田馬場にあったので、昼休みにはよく馬場坂上から早稲田方面に歩き、古本屋を覗いていた。平野書店や三楽書房、その2階にあった丸三文庫、坂を下って現世までが、昼食後の散歩コースだった。というわけで、その頃のことを鮮やかに思い出させてくれたのだ。
そうそう、第二部「古い本あたらしい本」の章のなかに、田島和生『新興俳人の群像ー「京大俳句の」光と影』(思文閣)の書評があって、著者の「近所の入口に、『戦争が廊下の奥に立つてゐた 渡辺白泉』という手書きの紙が貼られていて、見るたびに気になっていた」という。そして、その結びは以下のように記されている。
国家権力が思想や言葉を管理することが、多くの悲劇を生んだ。この一年ほどでじわじわとキナ臭くなっていることを考えると、悲劇がまた繰り返されるかもしれない。気がつけば、それは「廊下の奥に立つて」いるのではないか。
(『サンデー毎日』二〇一五年四月五日)
挙げられていた白泉の句を孫引きして以下に記しておこう。
銃後といふ不思議な町を丘で見た 白泉
赤く青く黄いろく黒く戦死せり
繃帯を巻かれ巨大な兵となる
2017年7月27日木曜日
岡田耕治「冷房の風来る弱いところへと」(「香天」通巻48号)・・
「香天」(2017年7月・通巻第48号)は、先に岡田耕治が上梓した『日脚』の特集である。批評は、彼が十代からの同行者というべき久保純夫「真ん中にいて、隅っこ」、土井英一「句集『日脚』を拾い読む」が筆を執っている。半世紀の長い付き合いなので、気心もしれて、自ずから句の読みも深く、かつ、友情に満ちた、厳しい指摘も垣間見える評文だった。例えば、久保純夫は「内側の水増えてゆく箱眼鏡」「いくたびか小さく死ねリ花氷」「大南瓜もう半分は考えず」「せめぎ合うことの静かにいぼむしり」「戦前の一日終わる薄かな」「さまざまな記号たずさえ羽根蒲団」の句に対して、
耕治のよさ(・・)は〈箱眼鏡〉も〈花氷〉にしても、そのモノに寄り添っている感覚が常に存在していることである。つまり実際の経験に裏打ちされているのが、読み手には容易に想像できるのである。それが句の世界をより深くしている。大南瓜の〈半分〉、〈静かに〉せめぎ合ういぼむしり。薄や羽蒲団にもあらたな像が表象されている。概念としての像を裏切る営為が、固有となる方法。一見平平凡凡に見内容が、実は思いの外強く逆転している像が見えるだろうか。線対称ではなく、点対称、あるいは非対称。岡田耕治は俳句形式の新たなる地平を展開しているのかもしれない。
秋の空一番前の真ん中に
ここが岡田耕治の立ち位置なのだろう。そう、真ん中にいて、隅っこの感覚を横溢させること。
と述べ、土井英一は、
この句集は四章に分かたれており、その節目節目は作句勝地うの画期と軌を一にしている。第一章は『花曜』編集長時代の八年間九九句。第二章は『光芒』同人時代の四年間八四句。第三章は『香天』宗匠時代の四年間一四四句。第四章は『香天』・ツイッター併用時代の二年間一三八句。(中略)
期を追うごとに作句ペースが倍倍ゲームのように上がってきていることが読み取れる。今やエンジン全開といったところだろう。
と記している。その岡田耕治の全開ぶりは「香天」本号の作品発表がざっと150句ほどだろうか、多作である。その多作ぶりは、近年の久保純夫を髣髴とさせるが、ほぼ同レベルの句をじつに多く一度に読まされるのは、その力量に感心はしても、愚生のような年寄りには少しつらい。美味い佳汁を少しいただければけっこう満足するのだが・・・。ともあれ壮年の奮闘にはひたすら敬意を表するのみである。
そのほか、随想や一句鑑賞もあって、充実の一冊、充実の岡田耕治である。多芸多才の印象である。
招待作品は、ふけとしこ。その人に献句した岡田耕治の句を最後に挙げておこう。
ふけとしこさん
夏の手帳カバーにペンを眠らせて 耕治
2017年7月26日水曜日
松本邦吉「逆光の昭和背高泡立草」(『かりぬひ抄』)・・
松本邦吉『かりぬひ抄』(ふらぬーる社)、自跋に、
本書は、俳句を学びはじめた二〇〇一年から二〇一六年までの句の中から、菲才ながら独力で四二〇句を選んだ。句の構成は心緒にかなうほぼ制作の年代順とし一部の句に前書を付した。
とあり、扉裏には、オクタビオ・パス『弓と竪琴』の「われわれが詩にポエジーの存在を問うとき、しばしば、ポエジーと詩が勝手に混同されているのではなかろうか?」が献辞され、最初のぺージには自序として、
春の野はまだかりぬひのひかりかな
の句が掲げ配されている。加えて装幀も自装であることをおもえば、本集のすべてに松本邦吉の目と手が行き届いていることに気付かされないわけにはいかない。自跋の「独力で四二〇句を選んだ」とあったことに、愚生は、ふと、高屋窓秋が「俳句は一人でするものものです」と言った言葉を思い出す。最後は俳句を作ることもまた孤独な作業であるという覚悟を述べたものだと、理解しているが、座の文学と言われようと、言われまいと創作に関わるということは、所詮、そういうものかも知れない。端整な句姿の句群である。
詩人の松本邦吉が句歴に「二〇〇一年六月二十八日 突然、五七五のリズムに襲われる」と記すとき、他人にはうかがい知れない何かがあったのだろう。ともあれ、本集よりいくつかの句を以下に挙げておこう。
湘南
盗まれし鶴かもしれず春の雲
チェーホフの話少女の息白し
冷奴かたちくづしてしまひけり
平成の皹皸の痛むなり
いづこにも四門ありけり冬籠
おぼろ夜の朧を抱くも抱かざるも
鰯雲捨てがたきものなほあまた
波ハミナ光ノカケラサングラス
黙禱の果てなき秋の暑さかな
松本邦吉(まつもと・くによし)1949年、東京生まれ。
2017年7月24日月曜日
武藤幹「木下闇我らが無為を包みけり」(第169回遊句会)・・
数ヶ月前から「遊句会」に参加させてもらっている。きっかけは、40年ほど以前に知り合ったシャンソン歌手の石原友夫から、先師の坂東孫太郎(源五郎とも。本名・輝一)が亡くなって3年半、俳句の専門家がいないので、俳句を作る仲間としてちょっと覗いてくれないかと、持ちかけられたからだ。それにしても、坂東孫太郎の没後、一周忌には遺句集『坂東孫太郎句集』(遊句会篇)を出し、その後も指導的な主宰者をおかず、句会が続けられて来たというのだから立派なものである(句会報も出されている)。
参加してみて、「一杯やりながら、わいわいやりましょう」の遊句会が、実は、いまだに伝統的な句会の作法を維持していることに少し驚いたのである。それは、句会の方法が、現在、ほとんどの句会では、投句された句を清記したコピーが回ってきて、選句をするという具合に変ってきているのだが、この遊句会は、今なお一杯やりながら、各人三句を清記し、清記を回し、気に入った句をメモし、選句用紙に選句をし、披講し、句を選ばれた者は、名乗り、点盛りをしながら、「いただきました」と点盛りの発声をする。 このような市井の句会にこそ、俳句の伝統的な作法がいまだに生きているのだと少なからず感動したのだった。
愚生はといえば、相変わらず、どこの句会に行っても低空飛行であることは言うをまたない。
ともあれ、以下に当日、7月20日(木)、遊句会の一人一句を挙げておきたい。兼題は青柿・木下闇・晩夏だった。
白球を吸い込みし空はや晩夏 渡辺 保
引く波と浜の葦簀(よしず)や晩夏光 武藤 幹
青柿の落ちてさずかる己が影 たなべきよみ
青柿や逆上がりする子らたわわ 石原友夫
青柿の葉に隠れるも処世かな 植松隆一郎
大波を待つサーファーや晩夏光 石川耕治
君を撒く白き航跡晩夏光 川島紘一
シネマ終え六区に零(こぼ)るる晩夏光 橋本 明
オトコ右オンナ左へ晩夏かな 山田浩明
逆光の晩夏の富士のよごれ雪 石飛公也
青柿や息子はやっと係長 中山よしこ
晩夏この激しき雨を共に濡れ 大井恒行
以下は欠席投句より
青柿や首を縦には振らぬ女(ひと) 林 桂子
どぅうどぅると海泣きおりて晩夏かな 原島なほみ
宿題に追われる子らの晩夏かな 加藤智也
因みに、次回の兼題は、盆踊り・無花果・秋めく、当季雑詠。於・たい乃屋。
2017年7月23日日曜日
榎本とし「耳福とは聞えて三たび時鳥」(『榎本とし遺句集』)・・
榎本とし遺句集『筍飯』(榎本好宏編・航出版)、集名の由来は、疎開先の句会で母・榎本としが特選の賞としてもらった短冊、林浩平「帰り待つ筍飯に布かぶせ」の句に拠る。母は帰郷するまでこの句を床柱に掲げていたという。榎本好宏の父・錥男はアッツ島で玉砕していた。編者は、
私がずっと思い込んでいたのは、「帰り待つ」は、帰ってくるはずのない父が、もしかして帰ってくるかも知れないと、そして「筍飯」は、私と弟二人のことで、「布かぶせ」はこの三人を「私が守っていますよ」の意だろうと、私も成長するに従い、そう思うようになっていた。しかし、母にはそのことについて、一度も問いただしたことはない。
と記している。そして、榎本好宏は大学を出、忙しい新聞社勤務で母とゆっくり話す機会がなかった。「杉」創刊の話を、母の俳句仲間の猪俣千代子から聞き、
俳句から遠ざかっていた私も、母と共通の話題が持てるからと思い、親子で一緒に「杉」に入会した。この句集に入集した作品は、「杉」に発表した作品の中から選んだ。また二十年余の作品を「杉」から抜き書きしてくれたのは、私の娘に臼井由布だった。母が生きていればきっと喜んでくれたに違いない。
とも述べている。母没後十年、句姿の美しい榎本としの遺句集である。以下にいくつかの句を挙げておきたい。
奥深に金色寒き仏具店 とし
桐の花越後に夕日見ず終ふ
駅の名に小海日照雨(そばへ)のうまごやし
五臓ややよみがへるやにつばくらめ
道おしへゐておろそかに通られず
牡蠣小屋を通り抜けして西日あり
道聞くに種蒔く人を止めにけり
七月や逆さ別れの子の忌くる
2017年7月22日土曜日
小津夜景「あたたかなたぶららさなり雨のふる」(『フラワーズ・カンフー』)
『第8回田中裕明賞』(ふらんす堂)↑
小津夜景と柳人の兵頭全郎・右端に小池正博↑
今夜は、四ッ谷三井ガーデンホテルのピッツアサルヴァドーレクオモ四ッ谷に於て、「小津夜景『フラワーズ・カンフー』を祝う会」が開催された。明日は第8回田中裕明の受賞式だという。
いわば前夜祭のようなものかも知れない。若い俳人・歌人・川柳人などが多く、熱気のある会だった。愚生もすでに参加者としてはあまり多くない年寄り組だろうな・・・と思った次第。「豈」同人では遠路ながら小池正博、また、橋本直、関悦史、次号より同人参加の佐藤りえに会った。
ふらんす堂の『第8回田中裕明賞』の選考委員会の選考経過を読むと、第一位に岸本尚毅・四ッ谷龍が推していて、他の選考委員・小川軽舟、津川絵理子も評点が入っているので、小津夜景の受賞は順当であったろう。
中でも小川軽舟は以下のようにのべていて納得だった。
私も一句目の「あたたかなたぶららさなり雨のふる」というのは、読んだときにビックリしました。私もアルヴォ・ベルトのCDを昔買っていたので、その印象もありましたし、四ツ谷さん仰るように子規の句も思い出しました。子規の句は山本健吉『現代俳句』に一番最初に出てきたと思うんです。子規の句を踏まえながら、子規から始まる近代俳句とは別の世界が真っ白なところから始まるんだという、ある意味宣言のような句だと受け止めました。それが実に軽やかにさりげなく詠われていて。「たぶららさ」をひらがなで書いたところも上手いなと思いましたね。
俳句界では久々の新星の登場という感じだが、それだけ、今後の小津夜景の歩み方に興味と期待が寄せられている。因みに、品切れだった『フラワーズ・カンフー』の三刷が決まったとふらんす堂の山岡有以子が報告し、是非、さらにお買い上げ下さいと挨拶宣伝していた。また、先日106歳で亡くなられた、存命であればお祝いの花束が贈られていたであろう、金原まさ子(長女・植田佳代)からの花も飾られていた(下の写真)。
故・金原まさ子(長女・上田佳代)よりの花↑
ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておこう。
とびらからくちびるまでの朧かな 夜景
もがりぶえ殯(もがり)の恋をまさぐりに
長き夜のmemento moriのmの襞
ふるき世のみづにも触るるミトンあれ
人はいさ蓮にしづかなみづばしら
くらげみな廃墟とならむ夢のあと
小津夜景(おづ・やけい) 1973年、北海道生まれ。
2017年7月17日月曜日
逆井花鏡「昏睡の母呼び覚ませはたた神」(『万華鏡』)・・
逆井花鏡『万華鏡』(雙峰書房・春月文庫)、句集名は次の句から、
万華鏡の中の宇宙や春日さす 花鏡
実は、この句集が送られてきたとき、とっさに「俳壇」7月号特集「つい口づさむ名句名吟ー韻律の魅力、俳句の愛誦性に迫る」のなかで、鳥居真里子がエッセイ「万華鏡と俳句」の末尾に、愚生の句「万華鏡寂しき鳥の手の夢ばかり」をそっと忍ばせてくれたので、てっきり、その特集を読んだ著者が手づから句集『万華鏡』を贈って下さったのだと思ったのだった(同時期だったので)。
序の戸恒東人によると、航空会社に長年勤務したキャリアウーマン、かつ、多趣味の人らしい。描かれる句の情景にそれがさまざまに表現されている。それを以下のように戸恒東人は述べている。
逆井花鏡さんは、小学二年生から清元を始め、現在清元と小唄の名取りであり、ほかに河東節三味線で歌舞伎座助六公演にも出演されるほどの実力者である。春月の新年会では、大学の同級生の尾上胡蝶さんと小唄・三味線の余興をして頂いているが、こうした邦楽の実力と素養が、三味線や歌舞伎を素材にした多くの優れた俳句作品の背景となっていることを上げなければなるまい。
ともあれ、集中よりいくつかの句を以下に挙げておこう。
ハンカチの木の花は片結びかも
ふらここを漕げば思はぬ高さかな
大いなる富士の全景初飛行
雛祭芸妓の襟の抜き加減
塔頭は拝観謝絶春時雨
夢に見し母の若さよ赤のまま
五月雨や立三味線の一の糸
胸に貼るお岩の乳房盆芝居
逆井花鏡(さかい・かきょう)1946年、千葉県野田市生まれ。
2017年7月16日日曜日
菟原逸朗「春めくや物言ふ蛋白質に過ぎず」(「儒艮」21号より)・・
「儒艮」(儒艮の会)は久保純夫の個人誌である。今号・21号には、評論として久保純夫が大阪俳句史研究会例会に「和田悟朗 人と作品」と題した講演からおこされた「和田悟朗 人と作品ー『和田悟朗全句集』のことなどー」が掲載されている。それには、和田悟朗の初学時代からはじまって晩年、『和田悟朗全句集』(飯塚書店)に関わる経過、そして、なによりも「儒艮」誌に、多く句を「疾走」として発表し、第二の開眼をしたというあたりは実に興味深いものがあった。その過程に以下のように記した部分がある。和田悟朗を見舞った折りのこと、
地球には水が多すぎる――人間にも
メロンの水は命の水・最期の水
メロンの水(果汁)を今生の終りに口にしたいというのは本人が希望した。その場に居合わせた筆者たちは、「臨終に叶わなくても、お供えしますよ。」と言い合った。その折の話を種にした俳句であった。
ブログタイトルにした菟原逸朗の句に和田悟朗は、俳句作家としての出発点があったという。菟原逸郎とは、たぶん後に「渦」で歩みを共にする西村逸朗のことであろう。
あと一つは、土井英一の「『四季の苑』漫遊(16) 純夫句集『四照花亭日乗』斜め勝手読み」が面白く、読ませる。久保純夫の盟友だけあって、久保純夫を語って的を外さない。
この男の体内にはどうも性愛、というより性そのものに関する妄念がとぐろを巻いて蹲っているらしく、作品の大半はその妄念への偏執・愛着・賛美・肯定、あるいは妄念との格闘・妥協・共存その他の産物である。その表出は多くばあい隠喩であるが時にあられもない表現をとることもある。私はそういう傾向がどうも生理的に受付けにくい体質に生まれついているらしく、執拗に繰り返し表現される性の妄念に正直辟易している。(中略)
『久保純夫作品D/B』13000句のうち『花曜』時代34年の作品はたかだか1600句に満たない。実に圧倒的大多数は『光芒』以来のここ十年余の作なのである。この間、妻のるみ子さんを亡くした。亡くしたあと純夫は一年ほど泣き通した。泣いて泣いて泣きじゃくった。人目を憚らず泣いた。体中の水分が抜けたかのごとくに体が縮んだ。が、不思議なことに創作意欲だけは失われなかった。(中略)第八句集『美しき死を真ん中の刹那あるいは永遠』で心の区切りをつけたあとは、もうどうにも止まらない勢いで噴火するようになり、勢い余って若い奥さんまで娶ってしまった。
その他、今号では久保純夫『四照花亭日乗』から、6人が30句選をしている。一句づつを挙げたい。( )内は選者。
愛も恋も掬えぬ穴開き玉杓子 (上森敦代)
愛人のリトマス試験紙になって (久保 彩)
野菜屑溜ればミネストローネかな (瀬川照子)
抽斗の出し入れに鳴る箪笥かな (妹尾 健)
好きにしていいよと輪ゴム手渡され (曾根 毅)
少女ありモップを股に挟みたる (原 知子)
2017年7月14日金曜日
長谷川つとむ「春の夢きものどころに集れり」(「黎明俳壇」第一号より)・・
「黎明俳壇」第一号(黎明書房・定価500円)、第一号には第1回~3回までの投句による募集結果、入選句が発表・掲載されている。
表4の案内には、第4回~6回まで隔月の募集期間と発表が掲載されている(当面の第4回は7月31日までが募集期間で、発表が9月1日)。投句料は無料。投句先は黎明書房内・黎明俳壇 係宛、選者は黎明書房社長にして俳人である武馬久仁裕。
ブログタイトルの句の作者・長谷川つとむは102歳(1915年6月18日生まれ)。本誌コラムには「102歳の健康法~人生を楽しく生きる~」とあって、その秘訣が三つ書かれていて、その③には、
いわゆる〈寝たきり〉になるのがイヤで杖をついてゆっくり歩いています。温泉好きですのでデイサービスに一週間に二度送り迎え付きで通っています。
とある。総ページは24ページながらカラーで読み易く、エッセイも永井江美子「俳句の森散歩」、医学博士・古井倫士「いにしえの頭痛診断」、水戸志保「近代と俳句①-文学者達の俳句観」など充実。武馬久仁裕は絵手紙ふうの「選者詠」、「添削講座」、「『野ざらし紀行』の跡を、名古屋に訪ねよう」、「漢字で読む俳句の楽しさ」など、八面六臂活躍ぶりである。今のところ名古屋地方で、シニア限定の感じであるが、「刊行のご挨拶」に、
小社の脳トレーニング書の読者のご要望に応え、昨年12月に、シニア対象の黎明俳壇を開設いたしました。
とあった。その脳トレーニング研究会編で先日、本ブログで紹介した『クイズで覚える日本の 二十四節気&七十二候』(黎明書房・1500円プラス税)が出たばかりだ。
因みに、「黎明俳壇」第一回から第3回までの特選句と選者詠各一句を以下に紹介しておこう。
遠き日と同じ色した毛糸編む 安城市 沓名美津江 (第1回)
生れてからずっと戦争ひなまつり 碧南市 飯伏テミ (第2回)
桜吹雪分け校門の女学生 安城市 杉浦文子 (第3回)
光年の先の私の秋桜 選者詠「秋」 武馬久仁裕
いずれも、詳細は黎明書房ホームページをご覧下さい・・・
2017年7月12日水曜日
中原幸子「せつせつとスパナを磨き桜むの」(『ローマの釘』)・・
中原幸子俳句とエッセ―『ローマの釘』(創風社)、坪内稔典の帯文の惹句には、
中原幸子さんは勉強が楽しくてたまらない。大学院に籍を置いて「日本文化の取り合わせ」を研究する学究なのだが、すごい勉強好き、勉強オタクと言いたいくらいの79歳なのだ。その勉強オタクぶりを読者にも楽しんで欲しいのがこの本である。
とある。愚生の印象では、愚生より3,4歳年上の姉貴ぐらいの歳かな、と思っていたら、愚生よりちょうど十歳上の長女らしい。失礼だが、その年齢を愚生と引き比べれば、文章ははるかに若々しく、学究の徒の名にふさわしく、文中に出てくる数字や、例などが極めて具体的で、自ずと文章には充分な説得力があり、かつ話のオチをユーモラスにつけてくれている。
ブログタイトルに挙げた「せつせつとスパナを磨き桜むの」には、以下のエッセーが付されている。
「船団」92号の特集は「俳句と動詞」だった。金田一秀穂氏をお招きして公開座談会が行われ、とうとう「動詞を作ろう」という話になった。すぐその気になって作ったのがこの物騒な句である。ほかに「桜んでイスタンプールまでちょっと」、「かっこいいなあ桜むを突き放し」などもできた。
「机る」という意味不明の動詞も作った。「机ろうプリーズハブサム若葉風」。
こうして人を楽しませるなどということは、愚生にはとうていできない芸当だが、それだけ面白い。ともあれ、集中の幾つかの句を以下に挙げておこう。
行く春の息つめてから鳴る電話 幸子
鯉幟兜太の尿瓶澄みわたる
ほらごらん猛暑日なんて作るから
休戦ライン真赤に冬の地図
満場ノ悪党諸君、月ガ出タ
中原幸子(なかはら・さちこ)1938年、和歌山県生まれ。
撮影・葛城綾呂 コルチカム↑
2017年7月9日日曜日
須藤徹「鳥籠の空間に泛く大卯波」(「ぶるうまりん」34号より)・・・
「ぶるうまりん」(ぶるうまりん俳句会)は、かつて同人誌でありながら、かぎりなく須藤徹の主宰誌という印象だったが、須藤徹没後、廃刊とばかり思っていた同誌は見事にその後、継続され、同人諸氏の須藤徹への想いがよく顕彰を果たしている。思えば、愚生らの「豈」に似た展開になっている。「豈」も攝津幸彦の死後、廃刊になるところを、夫人・攝津資子の続けてもらいたいの言葉にうながされ存続を決した。誌の内容の評価は?かもしれないが、もはや攝津幸彦の生前に発行された号数を越えてしまった。須藤徹は没するまで「豈」の同人でもあった。「豈」同人だった俳人の中には、現代俳句協会賞受賞者が結構いるが、須藤徹は男性陣では唯一の受賞者だった(あざ蓉子・池田澄子・岸本マチ子・鳴戸奈菜、今回は恩田侑布子、いずれも女性同人である・・)。
ところで、「ぶるうまりん」34号の表紙裏(表2)には、「追悼・渡辺隆夫氏を偲んで」を山田千里が書いている。その渡辺隆夫に須藤徹の追悼文を「豈」に寄稿してもらったのだった。須藤徹は2013年6月29日に逝去、享年66だったから、惜しまれる早逝である。もう4年もたったのだ。
須藤徹最晩年の6か月、エクセルノートに残された句から松本光雄が「終焉と対話ー須藤徹最晩年の俳句」を執筆している。その中に以下のように述べた部分がある。
最近所謂「句評」というものの持つ意味を原点に立ち返って考えることが多くなった。それはまた「読む」とは何かということにも通底する。句評を書くより、寧ろ純粋読者として作品と一対一で相対して、そこからのみ生起するまだ形をなさない何かを、沈黙の中に暫時閉じ込め、ある熟成時間の後、その何かが発酵してくるのをじっと待っていた方がいいのではないか。その沈黙の期間を経て、いつかある日、「句評」としてではなく、自分の作品のなかで、その「何か」が種子(しゅうじ)として顕在しているのを発見する。そんな邂逅こそ「読む」という行為の根幹をなすものではないのか。
心ばえや佳し。因みに、最後となった五月の横浜句会で須藤徹は、「俳句は意味を消し、意味の痕跡を削ぎ落すぎりぎりのところで成立する」と言っていたという。須藤徹最晩年の句を松本光雄の稿から、各月一句と、招待作家二名の各一句を以下に挙げておこう。
とむらいへ大綿と行く橋の端 (1月)
さみしいと氷吐き出す冷蔵庫 (2月)
木五倍子(きぶし)の花空より人の明るくて (3月)
ドクターヘリの高速の点蝿生まる (4月)
靴下を綠雨の形(なり)に脱いでみる (5月)
十薬に碧空の闇かぶさりぬ (6月)
壺古りて雲を牧すということも 九堂夜想
火へ歩む鹿を最後の秋とせよ 表健太郎
2017年7月8日土曜日
車谷長吉「名月や石を蹴り蹴りあの世まで」(『夫・車谷長吉』より)・・
高橋順子『夫・車谷長吉』(文藝春秋)、文字通り、高橋順子が夫・車谷長吉との出会いからその死までの二人のことを綴った一本である。関係者が実名で出てくる。愚生とは長い付き合いである沖積舎・沖山隆久、九州の俳人にして詩人の高岡修、あるいは愚生が自筆の第一句集『秋(トキ)ノ詩(ウタ)』と第二句集『風の銀漢』を出してくれた書肆山田の鈴木一民、そして編集者の大泉史世は高橋順子の大学時代からの盟友(車谷長吉曰く)とあった。
愚生が車谷長吉の名とその本を知ったのは、かつて大本義幸が車谷長吉『赤目四十八瀧心中未遂』を読め、と言って、わざわざ贈ってくれたからだ。その頃、推測するのだが、大本義幸は四国・松山での店を連帯保証人になった責として手放し、かつ背負った借金のために、名前を変えてまで、大阪に逃げ、印刷所の社員として働き、他人にしょわされた借金を返している最中だったのではないだろうか。アルコール依存症になっていた大本は入退院を繰り返していたはずだ。
あるとき、攝津幸彦は、ボソッと「オオモッチャン、年収300万くらいで生活してるらしい、大変やなあ・・」と言った。愚生だって、それくらいの年収しかなく、たいして変わらなかったが・・。その頃、攝津幸彦は、広告代理店でバブル景気の波をかぶりながら、辣腕をふるっていた。
印刷関連企業や書店労働者は当時、劣悪な労働条件と低賃金だったのだ(労働省の統計では下から二番目の賃金水準だったと記憶している)。そして、借金を返し終わった大本は、最初の癌を患った。咽頭がん、胃癌、食道がん、大腸がんと続き、今度は肺癌らしい。七度目の手術だとしたためられていた。
声なし味覚なし匂いなしこの軀 大本義幸
『夫・車谷長吉』を読むと、かつて車谷長吉が起こした俳句の盗作問題だが、確かに彼の頭のなかには、他人の印象深い句が残っていて、盗作とは無縁のようにそのフレーズが口をついて出て、句に書き留めたのではないかと、思ったことだった。それぐらい車谷長吉という人の思い込みは強かったのではなかろうか。
以下に「永訣」の章の二人句会の句を挙げておこう、席題で鮟鱇、寒椿、まばたき、だった。
鮟鱇を喰うて昼寝妻思ふ 長吉
寒椿今日も女から手紙来る
まばたきをする間に昔の女恋ふ
鮟鱇の行部岬吊られけり 順子
寒椿散り落ちしまま家に入る
まばたきをすればこの海若返る
2017年7月7日金曜日
高橋比呂子「小暑かなよしこの笑窪ころころす」(『クイズで覚える 日本の二十四節気&七十二候』より)・・
脳トレーニング研究会編『クイズで覚える日本の二十四節気&七十二候』(黎明書房・1500円+税)、本日7月7日、新暦の七夕は二十四節気の小暑に当たり、この日から暑気に入るという。
俳人にしたところで、細かい読み方、特に七十二候のものなどはいちいち覚えてはいないだろう。しかも、それぞれは、日本流に書き改められているので、その読み方も、ものの本によって少しずつ違う。そのあたりの定義について本書は、「二十四節気」は『暦便覧』(天明7年「1787年」)を、七十二候の読み方は(訓読み)は、『明治七年 甲戌太陽略歴』(1874年)に拠ったと示している。何よりも二十四節気と七十二候のことについて、明解に「はじめに」で述べている。
1年を4つに分けたのが四季です。1年を24に分けたのが二十四節気です。二十四節気をそれぞれ3つに分けたのが七十二候です。季節の移り変わりがそこに示されています。それらは1年の太陽の運行を等間隔に分けたものです。しがって、月の運行を基準にした太陰暦ではありません。太陽暦です。
それらを「入門クイズ」「二十四節気クイズ」、その節気のなかに「七十二候のクイズ」も入れてあり、それぞれの例句、例歌が掲載されている。最後のページまでたどりつくと、「漢字パズル」や「クロスワードパズル」などを含む「卒業クイズ」が用意されている。
諸兄姉はどれくらい、確実に知り、覚えているのかを試してみてはいかがだろうか。選択式クイズなので、消去法などを駆使すれば、フツーの人ではない、ハイジンならばけっこう高くいい点数が取れるだろう。
因みに本日の小暑のページの最初の部分は以下のように記されている(30ページ)。
「二十四節気クイズ⑪『小暑の次はどんな日?』7月7日~7月22日頃」
夏至から15日ほど経ちますと、二十四惜節気の11番「小暑(しょうしょ)です。もうすぐ梅雨明けの頃です。いよいよ本格的な夏です。では、問題です。
①小暑の次は中暑がくる。〇か✖か?
②小暑の次は、もっと暑い大暑が来る。〇か✖か?
③小暑から立秋の前日にかけて、暑中見舞いを出す。〇✖か?
とあり、見開きの隣のページ(31ページ)には、
「七十二候クイズ」
「小暑」の期間にある七十二候は、ほぼ5日ごとに順に次の3つがあります。
①「温風至」 ②「蓮始開」 ③「鷹乃学習」
では、問題です。2つから正しい方を選んで下さい。
①「温風至」とはどんな時でしょうか?
イ 太陽が照りつけ風を温める時
ロ 暖かい湿っている風が吹いてくる時
問題の解答は巻末に記されている。興味のある方はお買い求め下さい。
因みに「文学で味わう二十四節気」「文学で味わう七十二候」の執筆者は武馬久仁裕、1948年愛知県生まれ。
ドライフラワーふうになったハゴロモジャスミン↑
撮影者・葛城綾呂
2017年7月2日日曜日
櫂未知子「掛香や私雨(わたくしあめ)の脚見えて」(『カムイ』)・・
櫂未知子第3句集『カムイ』(ふらんす堂)、著者「あとがき」には、
この句集の『カムイ』という名は、いささか大げさに響くのだろうか。
しかし、北海道余市市の実家から車でそれほどかからない場所にある神威(かむい)岬の、あらゆる人間を拒むような壮麗なたたずまいを、いつか句集タイトルにしたいと私はずっと願ってきた。
と記し、かつ収録句のなかには、
洗ひ髪神威岬(かむいみさき)に吹かれつつ
もある。句集から受ける印象では、さきの『貴族』、『蒙古斑』の二句集よりもはるかに、立ち姿の美しい句が多い。
櫂未知子に会ったのは、現代俳句協会の青年部委員の時代であった。今では遠い昔のことだが、北海道旭川での青年部主催のシンポジウムでは一緒だったことを思い出す。
何よりも現代俳句協会の創立50周年記念事業の一つとして現代俳句協会青年部論作集『21世紀俳句ガイダンス』では、愚生はその編集後記に今は亡き須藤徹とともに、以下のように記した(当時、夏石番矢青年部長はパリに留学中だった)。
この他にも「青年部通信」を継続して発行するなど、青年部有志の費やしたエネルギーは計り知れないものがある。それも、これも、ひとえに俳句に対する情熱のなせるわざであったろう。扉裏にそれらスタッフを紹介して、尽力に感謝したいと思う。とりわけ、校正においては、櫂未知子の全面的協力を得た。
今でもその尽力に感謝している。その櫂未知子の俳句に対する情熱の結実を本句集にみるのは、たぶん愚生のみではないだろう。
ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておこう。
水占(みづうら)の水うしなはれ敗戦忌 未知子
箱庭に軍隊置いてある夕べ
闇の数すなはち猫の恋の数
水やれば咲くかもしれずかたつむり
風船を手放す自由ありにけり
巨船まだ白し憲法記念の日
一瞬にしてみな遺品雲の峰
両親の遺髪の揃ふ野分かな
月光を居間に通してくれますか
櫂未知子(かい・みちこ) 1960年、北海道生まれ。
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