2017年7月16日日曜日
菟原逸朗「春めくや物言ふ蛋白質に過ぎず」(「儒艮」21号より)・・
「儒艮」(儒艮の会)は久保純夫の個人誌である。今号・21号には、評論として久保純夫が大阪俳句史研究会例会に「和田悟朗 人と作品」と題した講演からおこされた「和田悟朗 人と作品ー『和田悟朗全句集』のことなどー」が掲載されている。それには、和田悟朗の初学時代からはじまって晩年、『和田悟朗全句集』(飯塚書店)に関わる経過、そして、なによりも「儒艮」誌に、多く句を「疾走」として発表し、第二の開眼をしたというあたりは実に興味深いものがあった。その過程に以下のように記した部分がある。和田悟朗を見舞った折りのこと、
地球には水が多すぎる――人間にも
メロンの水は命の水・最期の水
メロンの水(果汁)を今生の終りに口にしたいというのは本人が希望した。その場に居合わせた筆者たちは、「臨終に叶わなくても、お供えしますよ。」と言い合った。その折の話を種にした俳句であった。
ブログタイトルにした菟原逸朗の句に和田悟朗は、俳句作家としての出発点があったという。菟原逸郎とは、たぶん後に「渦」で歩みを共にする西村逸朗のことであろう。
あと一つは、土井英一の「『四季の苑』漫遊(16) 純夫句集『四照花亭日乗』斜め勝手読み」が面白く、読ませる。久保純夫の盟友だけあって、久保純夫を語って的を外さない。
この男の体内にはどうも性愛、というより性そのものに関する妄念がとぐろを巻いて蹲っているらしく、作品の大半はその妄念への偏執・愛着・賛美・肯定、あるいは妄念との格闘・妥協・共存その他の産物である。その表出は多くばあい隠喩であるが時にあられもない表現をとることもある。私はそういう傾向がどうも生理的に受付けにくい体質に生まれついているらしく、執拗に繰り返し表現される性の妄念に正直辟易している。(中略)
『久保純夫作品D/B』13000句のうち『花曜』時代34年の作品はたかだか1600句に満たない。実に圧倒的大多数は『光芒』以来のここ十年余の作なのである。この間、妻のるみ子さんを亡くした。亡くしたあと純夫は一年ほど泣き通した。泣いて泣いて泣きじゃくった。人目を憚らず泣いた。体中の水分が抜けたかのごとくに体が縮んだ。が、不思議なことに創作意欲だけは失われなかった。(中略)第八句集『美しき死を真ん中の刹那あるいは永遠』で心の区切りをつけたあとは、もうどうにも止まらない勢いで噴火するようになり、勢い余って若い奥さんまで娶ってしまった。
その他、今号では久保純夫『四照花亭日乗』から、6人が30句選をしている。一句づつを挙げたい。( )内は選者。
愛も恋も掬えぬ穴開き玉杓子 (上森敦代)
愛人のリトマス試験紙になって (久保 彩)
野菜屑溜ればミネストローネかな (瀬川照子)
抽斗の出し入れに鳴る箪笥かな (妹尾 健)
好きにしていいよと輪ゴム手渡され (曾根 毅)
少女ありモップを股に挟みたる (原 知子)
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