2017年7月9日日曜日
須藤徹「鳥籠の空間に泛く大卯波」(「ぶるうまりん」34号より)・・・
「ぶるうまりん」(ぶるうまりん俳句会)は、かつて同人誌でありながら、かぎりなく須藤徹の主宰誌という印象だったが、須藤徹没後、廃刊とばかり思っていた同誌は見事にその後、継続され、同人諸氏の須藤徹への想いがよく顕彰を果たしている。思えば、愚生らの「豈」に似た展開になっている。「豈」も攝津幸彦の死後、廃刊になるところを、夫人・攝津資子の続けてもらいたいの言葉にうながされ存続を決した。誌の内容の評価は?かもしれないが、もはや攝津幸彦の生前に発行された号数を越えてしまった。須藤徹は没するまで「豈」の同人でもあった。「豈」同人だった俳人の中には、現代俳句協会賞受賞者が結構いるが、須藤徹は男性陣では唯一の受賞者だった(あざ蓉子・池田澄子・岸本マチ子・鳴戸奈菜、今回は恩田侑布子、いずれも女性同人である・・)。
ところで、「ぶるうまりん」34号の表紙裏(表2)には、「追悼・渡辺隆夫氏を偲んで」を山田千里が書いている。その渡辺隆夫に須藤徹の追悼文を「豈」に寄稿してもらったのだった。須藤徹は2013年6月29日に逝去、享年66だったから、惜しまれる早逝である。もう4年もたったのだ。
須藤徹最晩年の6か月、エクセルノートに残された句から松本光雄が「終焉と対話ー須藤徹最晩年の俳句」を執筆している。その中に以下のように述べた部分がある。
最近所謂「句評」というものの持つ意味を原点に立ち返って考えることが多くなった。それはまた「読む」とは何かということにも通底する。句評を書くより、寧ろ純粋読者として作品と一対一で相対して、そこからのみ生起するまだ形をなさない何かを、沈黙の中に暫時閉じ込め、ある熟成時間の後、その何かが発酵してくるのをじっと待っていた方がいいのではないか。その沈黙の期間を経て、いつかある日、「句評」としてではなく、自分の作品のなかで、その「何か」が種子(しゅうじ)として顕在しているのを発見する。そんな邂逅こそ「読む」という行為の根幹をなすものではないのか。
心ばえや佳し。因みに、最後となった五月の横浜句会で須藤徹は、「俳句は意味を消し、意味の痕跡を削ぎ落すぎりぎりのところで成立する」と言っていたという。須藤徹最晩年の句を松本光雄の稿から、各月一句と、招待作家二名の各一句を以下に挙げておこう。
とむらいへ大綿と行く橋の端 (1月)
さみしいと氷吐き出す冷蔵庫 (2月)
木五倍子(きぶし)の花空より人の明るくて (3月)
ドクターヘリの高速の点蝿生まる (4月)
靴下を綠雨の形(なり)に脱いでみる (5月)
十薬に碧空の闇かぶさりぬ (6月)
壺古りて雲を牧すということも 九堂夜想
火へ歩む鹿を最後の秋とせよ 表健太郎
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