2014年11月29日土曜日

堺谷真人「大ぶりの鑰(かぎ)もて閉づる枯野かな」・・・




本日は、恒例の「豈」忘年句会・懇親会だった。遠くは関西から堀本吟も参加した。
いつもとは違って2句出し5句選である。
以下に一人一句(最高点の堺谷真人は敬意を表して掲出より別の一句)を記す。

    繙けばどれも偽史なり鱶煮られ          堺谷真人
    神の留守ワイフの紐が見つからぬ        小湊こぎく
    葱の鞭ときおり使う老婆いて            福田葉子
    古文書の熾火(おきび)を探す冬ざるる      植松七風姿
    ふゆざくら同じ話をいくたびも            鈴木純一

    置く波の
    波を洩き去る
    覚悟あり                        酒巻英一郎

    柊がよく似合ふ死は真盛り             筑紫磐井
    冬眠に付けと自分に打診せり           川名つぎお
    ゴリラのデコピン熊の肝つぶれる         多仁 竝
    ああ死骸 仰向きて蟬 そわ謀反         岩波光大
    箱庭にファンキーな雪降っている         中戸川奈津実
    ふるさとは裏葉色なりくぐらねばならぬ      高橋比呂子
    メジャーコードの追悼の唄冬薔薇         曲 風彦
    虎耳草(ユキノシタ)刀自は蓬髪耳尖る      堀本 吟
    風花や川の流れが細く淀              照井三余
    クリスマス噴火ながらにやってくる        早瀬恵子
    虚舟(むなしぶね)漕ぎつつ隊を崩さざる    大井恒行 

懇親会には、池田澄子、北川美美の両名も駆けつけた。
皆さん、よいお年をお迎え下さい。
          


  

   

2014年11月27日木曜日

中島敏之『俳句の20世紀を散歩する』・・・



本著(鬣の会刊)の解説で林桂は以下のように言う。

二十世紀は、その若い定型詩俳句の春秋に富む道行きの世紀であった。その短い不安定さをエネルギーに変え、展開し続けることでようやく表現形式となり得るような冒険的存在だったろう。表現の可能性を証明されて呼び出されたのではなく、可能性に賭けて呼び出された俳句形式の二十世紀は、試行錯誤の展開力が支えていたのだろう。そのダイナミズムは、「俳句史」にとって最も輝かしい季節となるのかも知れない。中島の『俳句の二十世紀を散歩する』は、そんなことを思わせるわくわく感がある。

本書全体は年代を区切って五章にまとめられている。愚生が同時代として、ともに歩んだ著書の章は、ほぼ「Ⅲ 1966(昭和41年)~1974(昭和49)」、「Ⅳ 1975(昭和50年)~1984(昭和50年)」、「Ⅴ 1985(昭和60年)~1996(平成8年)」である。従ってここでは、蔵書の趣味のない愚生でも、整理の網をかいくぐって棚に眠っている本も多くある。Ⅲ章の冒頭の「戦後はどう詠まれたか(楠本憲吉『戦後の俳句』」(社会思想社)は今でもことあるごとに引き出してもいる。

中島敏之は書名を「・・・・散歩する」と逍遥しているかのように韜晦させているが、それぞれの書の紹介のタイトル、例えば、Ⅰ章の「花鳥諷詠を愛し、美の結晶を十七文字で描く(『川端茅舎句集』」、「永遠の新しい俳句『白い夏野』高屋窓秋」、「俳句を詩的表現として根源的に論究(『過渡の詩』坪内稔典)」等々、各書に付されたタイトルを通覧するだけでも、自ずと俳句史をたどることになるのである。その見識に中島敏之の俳句に対する愛情が感じられる。
同人誌「鬣」に連載されていた折から、楽しみな読み物だったが、一本にまとめられて、なお一層中島敏之の厚みに触れることができた。
その中島敏之が「俳句との真の出会い。私はこの本だった」というのは『郷愁の詩人與謝蕪村』(第一書房)だという。その結語に、

 つまり芭蕉だけでなく、蕪村もいる。俳句は楕円のように二つの焦点をもつものになった。俳句がポエジーの器としても発見された。俳句がまた新しくなったのだ。 

と記している。本書に納められたのは50編、今後も「鬣」連載は続くようだから、まだ楽しみは続く。

カリン↑

2014年11月25日火曜日

辻のまねはできない―



今日はダダイスト辻潤の忌日だ。1944年11月24日に上落合のアパートで死んでいるところを発見された。今でいえば孤独死ということになろうか。それも餓死であったと伝えられている。享年60。
辻のまねはできないーこれがある時代の青年の彼に向ける軽蔑であり、讃仰であったのである」と述べたのは『ニヒルとテロル』(川島書店)の秋山清だ。その秋山清は、

    迷つて来たまんまの犬でゐる      芳哉
    雀等いちどにいんでしまつた

の句をあげて、「すでに芳哉は人間世界をニヒルしていた」と言う。
理屈はどうあれ、一時期愚生が辻潤を好きだと思っていたのは、ある本で、辻潤は冷奴が大好きだったと書かれてあったからだ。愚生は今でも冷奴が大好きで、真冬であろうと豆腐は冷奴でなければならない、と思っているほどである。豆腐尽くしの食事だったら文句は言わない(フランス料理のコースよりはるかにいい)。
そういえば、かつて今は無きコーベッブックスで永田耕衣や加藤郁乎などの見事な造本を手掛けていた渡辺一考が、神戸から上京して「ですぺら」という店をやっていると聞いていたが訪ねていない。愚生が、確か新陰流兵法転会(まろばしかい)の合宿で奈良に行った帰路にK氏と一緒に神戸の自宅を訪ね、その折り、今一番いい俳人は三橋敏雄だと語ってくれたのが渡辺一考だった。
想い出ついでに言っておくと秋山清の子息・秋山雁太郎に最初に会ったのは彼が教育社闘争を闘っていたとき(現在もなお闘争中であろうと思っているのだが)、愚生の働いていた弘栄堂書店労組結成直後に三多摩地域での労働運動に加わるようにオルグに来たことによる。もう40年前のことだ。
そして、ごく最近まで「辻潤研究」の雑誌をだしていた京大俳句会の大月健が亡くなった。


                                                   枯れハス↑

2014年11月22日土曜日

波郷「霜柱俳句は切字響きけり」・・・

                

 昨日21日は、波郷忌であった。それに合わせるように依田善朗『ゆっくりと波郷を読む』(文學の森)が贈られてきた。そのタイトルをいいことにゆっくり読みたいと思っている。思い起せば、愚生が文學の森「俳句界」に居た頃、依田善朗は第13回「俳句界」評論賞(平成23年)を「横光は波郷に何を語ったか」で受賞した。選者が替わって二度目の受賞であった。その折に感じていたことは、きちんと書かれていて安心して読める評論という印象だった。もちろん本書は、その当時の印象を裏切ってはいない。
波郷を書いて10年、「あとがき」に依田善朗は以下のように記している。

 書きながら、俳句とは何か、季語とは何か、定型とは何かということを波郷とじかにお話ししてきた気がする。そして私も波郷同様、「俳句を作るといふことはとりも直さず、生きるといふことと同じ」ということを最も大事にしたいと思う。

 話は横道にそれるが、多くの俳人諸氏は、波郷の下句「俳句は切字響きけり」を、俳句の特質としてよく引用されている。愚生はそのことも分からないではないが、もっと大事なこととして常に言い及んでいるのは、この句が「俳句研究」(昭和17年12月号)に「大東亜戦争一周年を迎へて」という特集の中に掲載発表されたということ。そして、久保田万太郎、前田普羅、山口誓子、大谷碧雲居、長谷川素逝、瀧春一、石塚友二、石田波郷が5句~7句を発表した中で、ただ一人、いや強いていえば久保田万太郎と二人のみが戦意昂揚の句を詠むことなく、当時の時代状況に対して、それを直接詠むことなく、とぼけた句を詠んで発表していることであった。タイトルは障りなく「一周年に當たりて」で・・・

   山行や群山氷るその一つ      波郷
   石打つや銷然と瀧涸れにけり
   十二月鎌倉の海来てみずや
   霜に呵す茂吉光太郎亦老いず
   霜柱俳句は切字響きけり

 時代は新興俳句の各陣営が弾圧された直後のことである。尾崎喜八、臼田亞浪などの執筆陣は、皇紀二千六百一年の「十二月八日の朝から夜にかけての感動と、それは今思ふだに心が躍る」(亞浪)とその一年後にもその心情を句に込め、戦意発揚の作品を発表している。そうした状況下、その意味では波郷にとって少なからずの覚悟をを必要とする事態であったと想像するのである。つまり「切字は響きけり」の句は、もしかしたら和歌の美意識から切れることが、当時の俳諧における切字の眼目であったように、波郷はその時代から切れてみせることが重要だったのではないか。当時の多くの国民の抱いていた感情から切れることの意志が込められていたのではないかと思うのである。つまり「俳句は切字響きけり」は俳句を愛するゆえにいかなる事態にも左右されることなく俳句を詠み続けるというひそかな波郷自身の存在をかけた宣明だったのではなかろうか。

   十一月三日十二月八日かな      万太郎
   勝ち継ぐや師走八日はめぐり来て   普羅
   敵打ちし後寒月の夜を照らす     誓子
   茶の花やこのたゝかいに銃後なし   碧雲居
   長夜読む志士ら毛唐を斬り捨てし   素逝
   御稜威の下戦意一途に冬ふたたび   友二



                   カツラ↑

2014年11月18日火曜日

 神野紗希『山﨑十生セレクト100「自句自戒」鑑賞』[(破殻出版)・・・



昨日の小原啄葉と同様、3.11以後を詠み、書き続けて句集『原発忌』(破殻出版)もある山﨑十生の代表句100句を鑑賞して見せるという離れ業を神野紗希が試みている。
もちろん句集『恋句』(破殻出版)さえもある十生だから、すこし喩は悪いが小原啄葉が現実の戦場詠の俳人なら、山﨑十生はさしずめ〈震災想望俳句〉の貴重なる実践者ということになろうか。
それにしても山﨑十生はさまざまな企画と試みをするものである。神野紗希に自句を鑑賞させて、それを自戒にする諧謔に浸るとは、マゾヒズムの歓喜かも知れない。
さらに神野紗希にはすでに『子規に学ぶ俳句365日』(草思社)、『虚子に学ぶ俳句365日』(草思社)もあり、これで、山﨑十生も子規・虚子に並び立つ俳人として、その名を後世にとどめることができるのではなかろうか。
ともあれ、やっかみは別として、愚生好みの十生「車座になつて銀河をかなしめり」は、以下のように鑑賞されている。

  「かなしむ」という動詞には、「愛しむ」すなわちいとしく思う、素晴らしく思うとういう意味と、「悲しむ」すなわち悲しく思うという意味がある。この句はあえて漢字表記を避け、どちらとも取れるようにしてある。そのことで、複雑な感情が一句にこもった。車座は、同じ時間を共に過ごしていることを強く感じるフォーメーションだ。車座の青春の今も、天体の時間の運行の中ではほんの一瞬に過ぎないことを「かなし」んでいるのだろう。
   
神野紗希は、その「あとがき」に、

十生俳句は、ときに痛々しいまでの道化に徹しながら、常識に泥む我々の心を揺り動かさんと挑んでくる。他の作家に比べて、山﨑十生の百句と向き合うのには読者のエネルギ―がいる。それだけ、一句一句に彼の精神が宿り、漲っているということだ。私がそうしたように、たくさんの読者に、十生俳句と格闘してもらいたい。

と記している。山﨑十生、もって銘すべきか。

気になるもう一句を挙げておくと、十生「目の上のたんこぶ大事心太」(『精霊術入門』紫の会、1986年刊)の句は、後に攝津幸彦の「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」(『陸々集』弘栄堂書店、1992年)の句の原型、発想を促がした句ではなかろうかとも思うのである。句の構造も近い。
当時をふり返って思うと、「豈」の31日の会や、攝津幸彦と住居地も近かった山﨑十死生(当時の俳号)は、句評を交わしたり、何かの折によく会っていたように思うからである。しかも十生と幸彦は同齢であった。


小原啄葉「樹皮ときに新酒の匂ひ剥がし食ぶ」・・・



小原啄葉第十句集『無辜の民』(角川学芸出版)は、全編が人の生そのものを問い、飽くことなき追求を手ばなすことのない句業といえよう。章題は「大震災」「戦争(回想)」「いのちたふとし」の三章のみ。そして、つまり、戦争の記憶と震災の記憶につらなっている。同時に最終章「いのちたふとし」に繋がっているのだ。
掲出の句「樹皮ときに」剥がし食べるのは、戦時のことである。新酒の匂いなどはなからしてはいない。それは何事かを願わずにはいられない渇望である。
小原啄葉は大正十年五月生まれだから、93歳。「大正九年以来我あり雲に鳥」の三橋敏雄、また金子兜太もそうだが、この世代の俳人は戦争体験を手ばなすことなく、老いてさらにこだわりを深く持ち続け、生ある限り、それゆえにこそ人の未来を招きいれようとしている。

     黒焦げの半裸これみな無辜の民        啄葉
     雪の果通夜なき葬りばかりなる
     鳥帰る難民に似て非なる民
     をみなへし戦・津波に遺骨なし
     寒梅や生涯死者に仕へ生く
     家畜みな野生となりし野分かな
     戸籍のみ村とはなりぬ桃の村
     建国日永久に帰れぬ村なるや
     蛞蝓へそこは棲めぬと詫びたまへ
     夕雲雀降りてくるためまた揚がる



2014年11月12日水曜日

今泉康弘「寺山修司と『差別語』-その書き変えの問題・・・・



「円錐」第63号の今泉康弘の批評「寺山修司と『差別語』-その書き変えの問題」は、避けては通れない現在の表現者の問題を論じている。自らの立ち位置を明確にして論じる姿勢には今泉康弘の書くことへの覚悟を感じさせる内容である。「差別語」の書き変えについての今泉の見解が披歴されている。それは、具体的に入手しにくい原資料にあたりながら、すべての書き変えをあきらかにする道程でもある。例えば、寺山修司没後に出版された『寺山修司俳句全集』(新書館)でも、この全集が価値ある企画であり、仕事だとみとめつつも、著作権継承者の了解を得た上で、という断わりがないので、編集部が勝手に書き変えたということになると指摘している。『寺山修司の俳句入門)(2006年、光文社文庫)については、これには巻末に「本文中、一部考慮すべき表現がありますが、著者が故人のため、また作品が書かれた時代的背景に鑑み、概ねそのままとしました」と記されている。つまり「概ねそのまま」ということは一部を書き変えたということだ、と指摘する。もちろん角川文庫に収録された文庫本は、著作権継承者の了解を得て、「差別語」を書き変えている。これらの事実を踏まえて、今泉康弘は、

ハッキリ言ってしまうと『全集』も、『入門』も、俳句についての寺山の文章を読むためのテキストとしては信用できないものだ。   

と言う。さらに、

作者が故人となっているものを、後世の人が書き変えてはならない、とぼくは思う。まず、ある語が現在は差別語であるとしても、その執筆当時には決して差別のために使われたものではない、という場合がある。それをひとしなみに「差別」であるとするのは短絡的だろう。また、仮にある文章・詩歌の中に差別的な表現があったとしても、その語はそのまま残すべきである。その表現から後世の者は、ある時代に差別語がどのように使われていたかを知ることになる。その手がかりを消すことは、歴史から差別を消し去り、「なかったこと」にしてしまうのである。なお、寺山は挑発的に「差別語」を使うことがあるが、それは決して侮蔑や悪意のためではなくて、偽善に満ちた社会秩序を批判するためである。これが最も重要なのだが、もし作者以外の人間が作品の言葉を書き変えてもよいということになったら、作者という存在意義は消滅する。

もちろん、今泉康弘は次のように言うことを忘れていない。

 念のために言っておくと、ぼくは現在の書き手に対して、「差別語」を自由にどんどん使え、と言いたいわけでは全くない。何よりも、差別という行為は絶対許されてはならないことである。どんな言葉であっても、それを使うことで傷つく人がいないか、どうか、慎重に検討しなくてはならない。












2014年11月10日月曜日

磯貝碧蹄館「白桃のお手玉笑い上戸好し」・・・・



「白桃のお手玉笑い上戸好し」の句に「糸大八句集『白桃』を祝す」と前書きがある。
句集『白桃』(糸大八句集刊行委員会)は糸大八の『青鱗集』『蛮朱』に続く第三句集であったが、闘病生活の続く糸大八を励ます意味もあって「円錐」の仲間たちが糸大八刊行委員会を組織して句集を出版した。つまり碧蹄館主宰「握手」の同人でもあった糸大八の句集刊行を祝ってのものだ。その糸大八も今は冥界の人。
今回、朝吹英和の手によって『磯貝碧蹄館 遺句集』が出版された。朝吹英和は「握手」の編集長だった人、碧蹄館の第10句集『未哭微笑』以後、平成18年から「握手」終刊の平成24年までの句から334句を選び出している。
碧蹄館は大正13年生まれ。17歳で川柳を始め、19歳で感動主義の萩原籮月、内田南草に師事。28歳で中村草田男に師事。のちに句と書の一体化を志し金子鴎亭に指導を受けた。50歳で「握手」を創刊した。昨年3月14日に逝去。享年89。
碧蹄館の句集お祝いの会などでは、池袋・ホテルメトロポリタンがよく使われたという記憶が愚生にはある。碧蹄館はいつも意気盛んというか、いつも情熱的であった。一時、病に倒れたのちもそれは変わらなかった。出合いは、たぶん糸大八の配慮で、若造だった愚生にも声がかかったのだと思う。
シンプルな遺句集だが、それが良い。

       胸に棲む獅子の雌伏や初御空       碧蹄館
           朝吹英和氏の『時空のクオリア』を祝す
       冬陽炎繭の時空に楽起す
       死者へ炊く飯は雪より白く炊く
       梅雨の電柱老の左手で叩いてやる
       青天六日天に塵なく筆洗ふ
       戦争の中に消えざる臼と杵
       鞦韆は首を切る音傾ぐ空
       野良犬にたつぷりとある春の水 



2014年11月9日日曜日

森泉理文「山の神林道水源涵養保安林根雪なり」・・・



島田牙城は「理文さんは終生の友なのである」と言う。だからというわけではないが、実にいい仲間を持っているのだなぁ・・・。そう思わせる句集である。
森泉理文「あとがき」には「たいへん申し訳ないことに、この句集を読んでいただくために送ることになっている。どこか開いていただければ嬉しいです。でも無理はしないでください」とある。
森泉理文句集『春風』(邑書林)は、どうやら「里叢書」第一号のつもりらしい。ここからは愚生の勝手な想像だが、「里」の仲間たちは島田牙城をほんのわずかでも助けたいと、島田牙城に好きな仕事をさせようとしているのであろう。
愚生だって牙城には、なかなかお世話になっている。例えば、もう30年は以前のこと、「俳句とエッセイ」(牧羊社)という雑誌に「飯田龍太論」を書かせてもらった。それはどうやらお祝いのための飯田龍太特集だったようだが、それに相応しくない批評文を、馘を覚悟で掲載してくれたらしい。いわゆる俳壇では飯田龍太の時代が喧伝され始めたころのことだったように思う。そしてそれは愚生が商業雑誌に俳人論を書かせてもらった最初だった。
彼が邑書林を興してからも様々な企画があったが愚生の非力ゆえに断ったこともある。にも拘らず、攝津幸彦選集、安井浩司選集、「豈」の発売元なども二つ返事で引き受けてもらっている。
もちろん、宝くじが当たったら、第一に彼のところから愚生の駄文集を出したいというのは本当のことだ。
『春風』にはたしかに「〈俳〉が満ちてゐる」。でも、挙げるのは愚生好みの句にとどめる。

      黄花石楠花天上の花と思ふ         理文
      雪嶺に立ち雪嶺のぐるりかな
      雨女衣新調雪女
      道なくてどこへも行ける氷湖
      能登島に須曾蝦夷穴(すそえぞあな)古墳山笑ふ
      彼岸中日登り道あり続きをり
      金泥といふにはあらず黄砂降る 
      

                 桜紅葉↑
        

2014年11月8日土曜日

「チューリッヒ美術館展ー印象派からシュルレアリスムまで」・・・



芸術の秋、さすがにいたるところ、美術館などでは、人気のものが目白押しだが、大どころはどこも混んでいそうで、よほどでないと出かける気にはならない(年のせいかもしれない)。愚生などには平日という仕儀になるのだが、それでも・・である。
というわけで、むしろこじんまりして、余り人のこない美術館の方が好みなのだが、そうとばかりは問屋も卸してくれない。
散歩がてらに立ち寄るには近くの府中市美術館などは広い公園の中にあってちょうどいい。美術館内にある図書室は無料で美術雑誌や画集も眺めることができる。側には喫茶店もある。
府中市制60周年記念でミレー展をやっていたのだが、いつでも行けると思っていたらあっという間に会期が終わってしまっていた、という次第。
さすがに新国立美術館の「チューリッヒ美術館展」は平日でもそれなりの混み具合だったので、土日はやはり近づかない方がよさそうである。
とりあえずはムンク、モネ、マティス、シャガール、セザンヌ、ダリ、クレー、ピカソ、三菱美術館に来ていたヴァロットン、美術館地元のスイスのセガンティーニ、ジャコメッテイなど、それなりに堪能した。やはり大物の画家は持っているものが違うようだが、ピカソは群を抜いていた。もちろん館地元のジャコメッティは点数も多く出品されていて満足・・・。


     ロダンの首泰山木は花得たり       角川源義
     ピカソ見る人を見て居り霧なき日     中川宋淵
     ボナールの海男はいつも毛糸着て    坂口涯子

                   サザンカ↑

2014年11月3日月曜日

高橋修宏詩集『MOTHER HOTEL』・・・



まず、愚生の駄句を献じよう。

    蘭月の仔どもは爪を剪りそろえ      恒行

高橋修宏(たかはし・のぶひろ)は「豈」同人にして、この度6冊目の詩集を上梓した。その書名が『MOTHER HOTEL』(草子舎)。先に彼が上梓した句集『虚器』、この句集は昨年上梓された句集のなかでは、もっとも質の高い句集の一つであったと思われる。ただ各総合俳誌出版社のアンケートか何かで「今年の収穫」、ベストテンなどではほとんど見かけなかったように思う。この事実は俳句のために憂いてもよい事態であろう。
彼が句集を上梓するたびに愚生が期待してしまうのは、必ず前句集から、句が深みをまして来るからである。『虚器』は『蜜楼』『夷狄』につづく第3句集であった。評論集に『真昼の花火』がすでにある。
彼の今回の詩集を読みこなすには愚生には荷が重いが、それでも以下に書き写す集中の「黙契」は、句集『虚器』における彼の表現意識の根底に触れているように思うのである。

           黙契
  この国の
  蘭月の仔どもたちは、
  まず爪を、そして髪を
  きれいに剪りそろえられなければならない
  下着はすべて脱がされなければならない
  裸体の隅々まで洗い浄められなければならない
  ときおり黄金の斧が振りおろされなければならない
  そして下着という下着は、ただちに
  一本の糸へと戻されなければならない
  戻された糸からは、
  一枚の布が織り上げられなければならない
  (炎昼の眩い光に晒された、仔どもたちの声の谺)
  形代のような列島をおおう巨大な白布からは、
  幾千枚、幾万枚もの旗が裁たれなければならない
  それぞれの旗は、夥しい血に染まり、
  夥しい汗や反吐や体液を吸い取ったのち、
  ふたたび母なる海の水によって、
  洗い浄められなければならない
  くりかえし洗い浄められた旗は、
  来たるべき客人の舟のために振られなければならない
  やがて旗という旗が襤褸になり果てるまで、
  この国の王という王が絶え果てるまで、
  くりかえし振られつづけられなければならない
  

高橋修宏、1955年生まれ。詩誌「草」編集発行人。誌と批評誌「大マゼラン」同人。俳誌「豈」、「風来」同人。   

                                             ピラカンサス↑