2014年11月18日火曜日

 神野紗希『山﨑十生セレクト100「自句自戒」鑑賞』[(破殻出版)・・・



昨日の小原啄葉と同様、3.11以後を詠み、書き続けて句集『原発忌』(破殻出版)もある山﨑十生の代表句100句を鑑賞して見せるという離れ業を神野紗希が試みている。
もちろん句集『恋句』(破殻出版)さえもある十生だから、すこし喩は悪いが小原啄葉が現実の戦場詠の俳人なら、山﨑十生はさしずめ〈震災想望俳句〉の貴重なる実践者ということになろうか。
それにしても山﨑十生はさまざまな企画と試みをするものである。神野紗希に自句を鑑賞させて、それを自戒にする諧謔に浸るとは、マゾヒズムの歓喜かも知れない。
さらに神野紗希にはすでに『子規に学ぶ俳句365日』(草思社)、『虚子に学ぶ俳句365日』(草思社)もあり、これで、山﨑十生も子規・虚子に並び立つ俳人として、その名を後世にとどめることができるのではなかろうか。
ともあれ、やっかみは別として、愚生好みの十生「車座になつて銀河をかなしめり」は、以下のように鑑賞されている。

  「かなしむ」という動詞には、「愛しむ」すなわちいとしく思う、素晴らしく思うとういう意味と、「悲しむ」すなわち悲しく思うという意味がある。この句はあえて漢字表記を避け、どちらとも取れるようにしてある。そのことで、複雑な感情が一句にこもった。車座は、同じ時間を共に過ごしていることを強く感じるフォーメーションだ。車座の青春の今も、天体の時間の運行の中ではほんの一瞬に過ぎないことを「かなし」んでいるのだろう。
   
神野紗希は、その「あとがき」に、

十生俳句は、ときに痛々しいまでの道化に徹しながら、常識に泥む我々の心を揺り動かさんと挑んでくる。他の作家に比べて、山﨑十生の百句と向き合うのには読者のエネルギ―がいる。それだけ、一句一句に彼の精神が宿り、漲っているということだ。私がそうしたように、たくさんの読者に、十生俳句と格闘してもらいたい。

と記している。山﨑十生、もって銘すべきか。

気になるもう一句を挙げておくと、十生「目の上のたんこぶ大事心太」(『精霊術入門』紫の会、1986年刊)の句は、後に攝津幸彦の「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」(『陸々集』弘栄堂書店、1992年)の句の原型、発想を促がした句ではなかろうかとも思うのである。句の構造も近い。
当時をふり返って思うと、「豈」の31日の会や、攝津幸彦と住居地も近かった山﨑十死生(当時の俳号)は、句評を交わしたり、何かの折によく会っていたように思うからである。しかも十生と幸彦は同齢であった。


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