2015年2月28日土曜日
和田悟朗「水のはたらき泳がぬ人も水を呑み」(「風来」20号)・・・
「風来」(代表同人・和田悟朗)20号は本年2月15日に発行されたばかりだった。
「白燕」を終刊させ、「風来」が創刊されたのは「白燕」終刊後のほぼ一年を経た平成二十二年5月、季刊誌だった。20号・巻頭言に和田悟朗は以下のように記している。
ぼくは現在、昨年の三月ごろ以来、急速に体力減退中となってしまった。歩行困難・直立困難・呼吸困難に陥っている。日々の行動にいろいろと工夫を重ねている。衰退のエネルギーを使って新しい衰退の境地には、新しい体験がひそんでいるのではなかろうか、と生命の存在を静かに見守って、生きたい。ぼくの今年の年齢は、六月の誕生日までは〈満九十一〉、六月の誕生日以後は〈満九十二〉、世常の表現で〈かぞえ九十三〉である。
ついに、その誕生日を迎えることはかなわなかった。「衰退のエネルギー」とは永田耕衣が言ったことである。和田悟朗にはかねてより三人の師とういうべきか、影響を受けた人がいる。赤尾兜子、橋閒石・永田耕衣である。その晩年というべき最後の年は久保純夫の「儒艮」に「即興に連作し思いがけずも新しい境地をみつけたように思ったという」大作を連続して発表した。
「風来」20号記念ともいうべき玉文には、「風来」の句会には許しを得て欠かさず出席したという花谷清と、個人誌「儒艮」・久保純夫の二人が寄稿している。餞であり、そのまま冥福を祈る言葉となったように思う。
この卵どんなひよこか卵呑む 「儒艮」より
たましいに手足のありて兜虫
ひょうたんを呉れしひと今日休みらし
人間の衰えながら紅葉狩 「風来」20号
万物は水か流れる十二月
秋日浴び地球を歩く志
2015年2月24日火曜日
和田悟朗「肺を病み大脳少し人麻呂忌」(「俳句界」3月号)・・・
和田悟朗氏が逝去された。報道によると23日に肺気腫で死去。享年91。
今月発売の「俳句界」3月号に「天と地と人と」と題した特別作品21句を発表されていたので、健在だとばかり思っていた。改めて21句を読み直してみると、掲出の病の句があり、続けて、
元気かと問われ答えずヒヤシンス 悟朗
の句が置かれていた。
ヒヤシンスの句といえば、和田悟朗の師の橋閒石の「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」の句を思い浮かべる。当然ながら、その閒石先生に「元気か」と尋ねられ、対話しているのである。悟朗氏は閒石の亡きのち「白燕」の終刊まで代表をつとめていた。
和田悟朗の70歳の時の句集『少閒』の「あとがき」には「〈閒〉は、いうまでもなく昨年逝去された橋閒石先生のお名前から勝手に一字頂戴したものであって、『少閒』ということばは「小閑」とほぼ同じような意味である『疾小閑』とは『小康』というところか」とあったが、肺を病んだ悟朗氏に小康は訪れなかったようだ。
ともあれ、愚生にとっては、和田悟朗氏は、何と言っても赤尾兜子と切り離しては思い浮かばない。それは愚生が俳句の修練のごく初期に赤尾兜子の「渦」に拠っていたことにも関係していよう。
和田悟朗は兜子亡きあとの夫人赤尾恵以に継承された「渦」の行く末について、よく相談に乗られ、「渦」の今日までの継続に力があったと思われる。あるいは、また、鑑賞現代俳句全集第6巻(立風書房)の高屋窓秋鑑賞において、確か「原始人のことば・・・、窓秋はそういうことばを選び出す」と指摘していたことが、記憶に残っている。
もうしばらくすれば、『和田悟朗全句集』が上梓されるというようなことも漏れ聞いていたので、いささかの無念を禁じ得ない。合掌。
秋の入水眼球に若き魚ささり 悟朗
春の家裏から押せば倒れけり
日だまりのいずこにいても狙撃さる
腦軟化して点点と寒雀
少年や紫雪(しせつ)を浴びてまぼろしに
邯鄲や地上三尺まで暗し
即興に生まれて以来三輪山よ
後の世はヘリウム漂う夏帽子
永劫の入口にあり山ざくら
寒暁や神の一撃もて明くる
われわれは地震になじみ焼茄子
天国に一歩近付き菊を刈る
人類の弱り始めや猫柳
歓声は沖より来たり風車
2015年2月19日木曜日
林桂「悼・三橋敏雄/生き死には繰り返しません年の暮」・・・
掲出の句は、この度、林桂が上梓した句集『ことのはひらひら』(ふらんす堂)の「広瀬川ひらひら―初出『俳句』(5月号)2002(平成14)年5月1日」からのものである。正確に記せば各漢字にはルビが振ってある総ルビの作品。
悼・三橋敏雄
生(い)き死(し)には繰(く)り返(かへ)しません年(とし)の暮(くれ) 林 桂
三橋敏雄は、この句の発表された前年の暮、2001(平成13)年12月1日に逝去した。享年81。悼句の下敷きは当然ながら三橋敏雄「あやまちはくりかへします秋の暮」に拠った句といえよう。並んでいる次の句は悼・佐藤鬼房である。鬼房は三橋敏雄が亡くなって約一ヵ月半後、2002(平成14)年1月19日に続けて死去した。享年82。このとき、三鬼のいわゆる三人の弟子のなかでは、二年後に亡くなる鈴木六林男を残したことになる。
悼・佐藤鬼房
夜(よ)の空(そら)を魂(たま)の容(かたち)に焚(た)き火(び)かな
愚生、勝手に「魂の容に」は、佐藤鬼房「壮麗の残党であれ遠山火」の句を想起した。
『ことのはひらひら』は、林桂一行形式の句集(といっても今回の句集のほとんどに詞書が付されているのだが)としては『銅の時代』(牧羊社)以来、28年間38編432句が収められているという。単独句集の序数では林桂第6句集ということだ。林桂の長い後記を読んでいただければ、この間の経緯は詳細に記してある。つまり、この28年間多行形式の俳句を試みながら、同時に多くは、句に詞書を配した方法意識に貫かれた句を書き続けていたことが理解できる。句の収載は編年順。例えば、「ひらひら」の初期に書かれた「1985・日常のひらひら」では、
若書の方法から自由になることであり、刻み込むように書き残す意識から自由になることであった。「俳言」とは「時代」に添って生き消えようとする言葉だったのではないか。そのように現状に生き生きと働きながらその寿命の短い言葉で書いてきたらどうかということであった。目的地のない遁走意識だけが明瞭だったと言ってよい。取りあえず、「前書」で、「日常」という俳句空間を作って俳句に貼り付けて、一句自立の俳句文脈を異化させようと考えたのである。一句自立の願いを自ら揶揄するようにしながら、俳句に流しこもうとしたのである。「ひらひら」は、その記号として貼り付けた咄嗟の思いつきの言葉だった。
と書き留めている。例えば、「時代に添って生き消えようとす言葉」には、林田紀音夫が現代仮名遣いで俳句を書くのは、現代の猥雑さに賭けるためだと記したことにどこかで通底する心性なのかも知れない。とはいえ、林桂にとってもまた、俳句形式と言葉の関係の一回性に賭ける言葉の責め方については、多行表記と一行表記では異なっているのだろう。
そして、高柳重信が一行の句を山川蟬夫名をもって書かざるをえなかったようにはその道を回避するべく、林桂は一行の俳句をもう一つ別の世界に連れ出してみたかったということではなかろうか。多行形式もいまだ未踏破のものであるならば、一行の句もまた未踏破のものなのである。
死亡退学届。手続きに両親の元に行くのが辛くて、一人っ子だしね、とクラス担任は言う。
葛(くず)の葉(は)の起(た)ちあがらんとして斜(なな)め
告別式の夜、僕は飲んだくれた。ありがとう。竹内。
胡桃橡(くるみとち)の実(み)欲(ほ)しくてならぬ日暮(ひぐれ)かな
2015年2月17日火曜日
「不思議な共感」の「みことかな」三橋敏雄・・・12
「みことかな」と題して三橋敏雄は、「俳句評論」200号・終刊号(昭和58年12月)に「追悼・高柳重信」を書いた。その中に三橋敏雄が初めて「高柳重信を東京代々木上原の俳句評論社に訪ねたのは、昭和四十年一月二十日であった」と明確に記している。この日、三橋敏雄は高柳宅から数分しか離れていない場所に引っ越してきて、一段落して銭湯に行き、帰り道に予告なく、突然、高柳を訪ねたのであった。
代々木上原の不動産屋の最初の斡旋は高柳宅の一軒おいて奥隣りだったらしいが、さすがにあまりに近すぎるので、数分ほど離れたところに引っ越したのだ。
これには、少し訳があって、いつだったか、夫人の三橋孝子(三鬼晩年の弟子の一人)から直接伺ったことがある。
「孟母三遷の喩えがあるでしょ・・・。トシオちゃんのためにはジュウシンさんの傍がいい。私が勝手に引っ越しを決めたのよ」。
当然ながら敏雄は「高柳訪問をごく自然なかたちで実現させようという、年来の私の思いに、いささか慌しく一致するものであった」と記し、高柳はその訪問について、
彼と僕とは、歩いて数分の距離といい、ともに歎き、ともに苦笑するための、いわば、もっとも手頃な相手であった。(中略)
彼と僕とは、遠くで呼び応える不思議な共感を、共に心の内側に抱いてきたのであった。だから、彼と僕とが話していると、外見の甚だしい相違にもかかわらず、性格や性質の端々にまで、類似が類似を呼びあい、しかも、その類似は、とめどなく伝染してゆくのであった。
それら「不思議な共感」の一例として、昭和46年の名古屋における第14回俳句評論全国大会のあと飛騨高山に俳句評論同人一行と遊んだとき、「すでに高柳の近所から八王子の家にもどっていたが」、時折作品を見せ合っていた。そのなかに飛騨の近作を交換した途端、二人には終章を「みことかな」とする句がいくつかあったのである。それを三橋敏雄は「私は彼と共に、かの飛騨の地より全く同じ言葉を拾ってきた一致をよろこんで、いさぎよく下りることとした。拙句はのちに『風干しの肝吊る秋の峠かな』ほかに改めて生かした。/高柳の死は、たとえば右のような同経験的な『不思議な共感』を私から奪った。この上は、永遠に彼の近所に引っ越さなければなるまい、とも思う」と述べた。その三橋敏雄が高柳重信の近所に永遠に引っ越したのは2001(平成13)年12月1日のことだった。
そして、三橋敏雄の「風干し」の句は、のちに句集『鷓鴣』に収められ、三橋敏雄から高柳重信にゆずられた「みことかな」の句群は、
飛騨(ひだ)の
美(うま)し朝霧(あさぎり)
朴葉焦(ほほばこ)がしの
みことかな 高柳重信
飛騨(ひだ)の
山門(やまと)の考(かんが)へ杉(すぎ)の
みことかな
飛騨(ひだ)の
闇速(やみはや)の泣(な)き水車(すゐしや)
依(よ)り姫(ひめ)の
みことかな
など飛騨「みことかな」連作の十句となって、のちに『山海集』の冒頭を飾ることになった。
2015年2月9日月曜日
飯田良祐「季語は義肢 公孫樹は黄になりませう」・・・
飯田良祐(いいだ・りょうすけ)。1943年生まれ。2000年川柳をはじめる。その後、良祐、銀次、くんじろう(竹下勲二朗)の三人で読みの会「川柳・柳色」を立ち上げ、「川柳倶楽部パーセント」「バックストローク」などに参加。2006年7月29日死去・・・。
戦争も並んでいるか冷やしアメ 良祐
背後霊の部屋にハイルヒットラー
季語は義肢 公孫樹は黄にそまりませう
切れは膿 濃縮ジュース煮詰まりて
侘びは枇杷 湖には湖の愁ひあり
寂びは錆 アパルトヘイトとは如何に
花は穴 アナクロ三次方程式
雜は像 ロールシャッハは受けるべし
「季語は義肢」「切れは膿」「侘びは枇杷」「錆は錆」「雑は像」などの呼び起こしの語韻が中七・下五の語や慣用語の措辞に変容していき、批評性を獲得していくように思える。その意味では、川柳の言葉使いは俳句に比して自在である。もっとも、川柳は鋭い批評性をこそイノチとしているのだから、それを手放すことはないし、手放してしまえば川柳としての屹立性がなくなる。川柳と俳句、同じ五七五音の定型を基本としながら深い径庭がある。
樋口由紀子の序文によると自死だという。愚生はもともと川柳の読みについては明るくないので、跋の小池正博の評を以下に借りることとする。
樋口由紀子の序文によると自死だという。愚生はもともと川柳の読みについては明るくないので、跋の小池正博の評を以下に借りることとする。
洛陽の鹿 千遍も干す布団
「洛陽の鹿」は「洛陽の紙価を高める」から来ているだろう。晋の詩人、左思のエピソードである。当時、紙は貴重品だった。この句ではまず、「紙価」を「鹿」に変えている。では「千遍」は何だろう。「読書百遍、意自ずから通ず」ではないかと思う。つまり、ここには文脈のねじれがあるのだ。洛陽→紙価→読書百遍→千遍という文脈に、鹿→煎餅→布団という別の文脈が混在してくるのである。(中略)
それでは、そのような作品を読んでゆくには、どうすればよいのだろうか。作者は読みの手がかりをを、それとなく残している。二つのテクストを混在させることにいって一つのテクストにする。作句過程が分かるように一句の中にアリバイが残してある。読者はそれを読みながら、言葉が別の言葉に変容してゆく様相を楽しむことができるのである。
その他、以下に愚生好みの句をいくつか挙げておきたい。
歩行器の太股がやヽ乾きだす 良祐
白線を引いた 貴女はまたぐのか
言い訳はしないで桶に浮く豆腐
卒塔婆かかえてのぞみ自由席
愛国心何とすばやくたたむこと
2015年2月7日土曜日
「鐵兜樹間にかむり鬱と立つ」敏雄(「朝」第四号終刊号)・・・11
「朝」4号↑
「朝」(昭和13年4月1日)は「第一巻・第四号 終刊号)と扉に記されている。そのお知らせの欄には「此の度、いろいろの都合上『朝』を『芭蕉館』と併合し朝同人は『芭蕉館同人』として勉強してゆきたいと存じます。尚詳細は追って他の形式で発表いたします。(編集部)」とある。
この号に三橋敏雄は「戦争」と題して三句を発表している。遠山陽子『評伝 三橋敏雄』によると「この三句は、のちに『風』七号に発表し、敏雄の出世作となった『戦争』五十七句に重複するものである」という。この三句を以下に挙げる。
戦争 三橋敏雄
鐵兜樹間にかむり鬱と立つ 『弾道』所収
河の天(そら)故に砲聲も流れ冷ゆ 〃 (「・・天・・」ルビなし)
あを海へ煉瓦の壁が撃ちぬかれ
ちなみに「朝」第三号に三橋敏雄は「雪つのる展望」と題して5句発表しているのだが、現在のところ「朝」第三号(発行日は推測すると昭和13年3月1日)の原本は所在不明。「朝」第四号の小西兼尾による「朝第三号作品評」によってのみ三橋作品が特定されている。発表された5句の内3句は『太古』に「展望」と題されて収載されている。その5句を孫引きながら紹介しておこう。
雪つのる展望 三橋敏雄
機業地区ひゞきまひるの雪をふかむ 『太古』所収(「工場地區ひびき・・・)
雪ふれど高臺のなき機業地区 〃 (・・・工場地區)
煙突林まさしく雪はふりつもり
一齋に雪の煙突これは黒し 『太古』所収
ふる雪の斑は天(そら)に窓に満つ
ちなみに「朝第三号作品評」の小西兼尾は、
この作家の勉強ぶりの凄まじいことは衆知の事実であつて、その結果が今日の彼の作品の強固さをもたらして来たことは否み難い。『鷹』誌上で青柚子君が用語の的確さを述べてゐられたが、、同時には構成の緻密、好ましき限りにおいての才気のひらめき等々々をあげることが出来る。そしてそれにも増して推さねばならぬことは彼の作句態度である。ひと度ある素材を発見するや実にしぶとく喰ひ下つて、いかにして素材の真骨頂を把握せんかと、らんらんと輝きを増す彼の眼である。平たく云へば、如何なる角度から眺めたら、どんな色彩を以てしたならば、いかなる文化面をその背後に装置したならば、いかなる技巧を用ひて表現したならば、その素材が厳として動かす可らざる天与の性格を完全に描写し得るか!といふ事に就いて彼自身の思考を全く一致する迄研究する真面目な態度である。
彼、敏雄君の作品に於て甚だしき失敗作のないことはそれを證明して余りあるものである。
と絶賛に近い評を述べたのち、各個別の句にも筆を及ぼしている。三橋敏雄十七歳の若き日の姿が彷彿とする。
枯芭蕉↑
2015年2月6日金曜日
「冬日とほき陵墓石階を重ねたる」三橋敏雄・・・10
「朝」第二号・敏雄句↑
今回は「朝」第一巻・第二号。小澤青柚子(「三章」3句)、渡邊白泉(無題3句)、細谷碧葉(「鐵工忌」3句)の寄稿。藤田初己による懇切な前号評「朝にほふ」がある。冒頭に「『朝』創刊号の作品とその作者たちの平均年齢とは、新興俳句運動の将来にあかるい希望を約束してくれる。きはめてたのしい心でこの一冊を読みをはつたことをまづおしらせするのが、わたくしの義務である」と書かれてある。
また、三橋敏雄の前号句には丁寧に批評が加えられているが褒めるだけでなく厳しい指摘もしている。例えば「月明かり衢に坂が多く照る」の句については以下のように記している。
第三句―内容は非常にうつくしい。「衢に坂が多く(あって、そして)照る」といふ意味であるに違ひないのだが、どうも第一読の印象では「多く」が「照る」にかかる副詞のやうに誤られ易いと思ふ。下五のなかに二つの概念をつゞけて結びつける叙法は山口誓子のしばしば用ゐる手だが、よほど上手にしないと、せヽこましくなるか、あるひはこの句の場合のやうに、意味の混乱を招き易い。
同号掲載の三橋敏雄は5句。
多摩御稜(『
三橋敏雄
陵の苑こがらしの梢湛めつヽ
冬の陵玉砂利をふむ音停り 『太古』所収(・・・音とまり・・)
冬日とはき陵墓石階を重ねたる
陵に昏れ短日の星斗たちまち見ゆ 『太古』所収
陵を去るつねの冬服にわが背あり
同号編集後記には「三日の新年句会(於細谷碧葉氏宅)は出席者十一名、高屋窓秋、藤田初己、渡邊白泉、小西兼尾等の諸氏お出席」とある。
「朝」第一号 「揺りいづる鐸(すず)の数の 六つ・・」・・・9
「朝」(昭和13年1月1日発行・編集兼発行者 寺川長次・朝発行所)第一巻・第一号は、藤田初己、細谷碧葉、中臺春嶺が寄稿し、同人作品欄は14名。同人欄のトップは三橋敏雄である。同人は三橋敏雄、寺川峽秋、野村盛明、蠟ほむら、岡澤正義、石川一雄、星暁光、牧三郎など。細谷碧葉は細谷源二、石川一雄は後の石川桂郎のことである。
その「朝」創刊号の扉に記されている言葉が「揺りいづる鐸(すず)のかずの 六つあまり 七つか、八つ」。
編集後記には峽秋、敏雄、三郎のそれぞれが記し、句会案内は第一回三田俳句会「時・・・昭和十三年一月二十三日(日)午六時/場所・・・三田大和屋フルーツパーラー(慶応義塾正門前)、省線田町駅より三分、市電三田三丁目下車/費・・・30SEN/雑詠五句 ハガキにて前日中左記宛御送付のこと/芝句三田豊岡町四二 林三郎方」とある。
その編集後記に三橋敏雄は以下のような決意を述べている。
昨日のかゞやかしき新興俳句運動をこヽにわれらが心情ふかく受けつぐべく、その出発点を、この「朝」に託したからには、先づもつてそれを実行いたさねばならぬ。 (敏雄)
発表された句は5句。
断章 三橋敏雄
窓の海あかときくろしちるいてふ 『太古』所収
水重く飲めり陋巷のからす啼き
かぜのまの家々くろく落葉せり
月あかり衢に坂が多く照る
日光
日はしろき神厩あり馬を見ざる 『太古』所収(白日の神厩あり馬を見ず)
三橋敏雄、いまだ17歳。「朝」一号発行直後の1月3日に女優・岡田嘉子はソ連に亡命。4月には国民総動員法が公布され、5月に日本は徐州を占領した。8月、火野葦平『麦と兵隊』が刊行され、三橋敏雄が18歳の誕生日を迎える直前の11月、戦火想望俳句の呼称の源となった「支那事変三千句」が「俳句研究」で特集された。
2015年2月4日水曜日
「あまた光る星に蝌蚪の眼追ひゆけり」敏雄・・・8
このあたりの事情については、やはり遠山陽子『評伝 三橋敏雄』が詳しく、2編の詩、句作品、編集後記のすべてを記録し掲載している。そのほか「合歓」には、「帰路」と題して中央本線に乗って実家に帰省した折の父母兄弟・家族のことを描いたエッセイも載せている。早熟、多感な少年のものである。
『三橋敏雄全句集』(立風書房・昭和57年)の著者略年譜によると、「並行して、『馬酔木』十月号の水原秋桜子選に一句入選。同十一月号にも一句入選。『句と評論』十二月号の選者名のない選句欄〈句と評論俳句〉二句入選。その他の新興俳句系数誌へも変名で投句入選したおぼえがあるが、只今のところ追尋不能」と記されている。
このブログでは、参考までに句作品のみを以下に再掲載しておくことにしたい。
蝌蚪の幻覚
暮れてゆく蝌蚪の頭に陽が落ちる
蝌蚪の池樹下生魂のうごめきよ
樹下の蝌蚪青さにもれぬ陽に暮れぬ
蝌蚪走る尾のきらめきに星あまた
あまた光る星に蝌蚪の眼追ひゆけり
房州小映
太平洋つきず春潮躍る見ゆ
雲雀澄み空の碧きに弧と落ちぬ
枯れツワブキ↑
2015年2月1日日曜日
渡部伸一郎「萩白し栩栩然として胡蝶なる」(夢座・171号)・・・
「夢座」171号は追悼・渡部伸一郎の特集「栩栩然(くくぜん)として」である。
「栩栩然として」の説明には「ふわとするさま。飛ぶ羽のように自由で愉快なさまをいう。荘周夢に胡蝶と為る 栩栩然として胡蝶なり」とある。「夢座」誌のほぼ3分の2、120ページを費やして、追悼文と渡部伸一郎の随筆を収録している。最後には絶筆となった、これも暗示的な随筆「至福の時」が掲載されている。
銀畑二は編集後記に以下のように記している。
渡部さんは、南仏アヴィニヨンで、ファーブルの足跡を訪ねる旅の途中で還らぬ人となりました。虫に対する小学生代からの飽くなき好奇心、昆虫採集。虫と対面し対話する。その趣味を越えた自分の為様の源であるファーブルの里を辿る旅にどうしても行きたかったのでしょう。
この最後となってしまった旅の直前も、お身体を病んでいました。退院の後、ご家族は一人旅をするにはまだ速すぎると引き止めたのですが、彼の強い意志に屈し、伸一郎氏を解き放ちました。まるで、蝶を採集箱から逃がすように。そして鬼籍へと旅立たれたのです。
・
渡部さんは、どんな旅の途中でもそこで文章を括る人でした。いつもパソコンを携えて旅をしていました。アヴィ二ヨンの旅で、田舎を走るバスに置き去りになったパソコンは、とうとう見つかりませんでした。渡部さんの複眼は、どんなファーブルを見たのでしょうか。
渡部伸一郎は、1943年東京生まれ。58歳でJSR(株)を退社し、以後は執筆と旅に費やしたという。蝶の採集にも情熱を注いだ。母・渡部マサは加藤楸邨「寒雷」同人。伸一郎も「寒雷」で学び、一時期「豈」同人でもあったが、最後は「夢座」に拠った。
昨年9月8日アヴィ二ヨンで客死。享年71。句集に『蝶』『亞大陸』。エッセー・自伝に『わが父テッポー』『遠くへ』『会津より』(私家版『蝶』を除いてすべて深夜叢書社刊)など。
萩白し栩栩然として胡蝶なり 伸一郎
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