2018年6月30日土曜日

普川洋「余生にも余生があって木の実降る」(「ぶるうまりん」第36号)・・



 「ぶるうまりん」第36号は、特集「普川洋の顔」である。山田千里「推理小説を読み解くようにー普川洋の俳句と川柳を超えた世界ー」で、

 普川洋の中には、普川洋と普川素床という二人の人間がいる。普川洋は、俳人の顔であり、普川素床は川柳作家としての顔である。普川はどこで、その顔を使い分けているのだろうか。

 とその冒頭に記している。そして、普川洋特集を組むことになったきっかけは、

 二〇一六年一月から五回にわたっての、川柳スープレックスで「連載放談 普川素床読解入門 小津夜景×柳本々々」を目にしたからである。

  ギャグを考えていると闇がじゃあね、と云った

普川のこの句について、五回にわたって、連載放談されているのだ。あらゆる角度から、句を解剖している。

 という。また、平佐和子「透明人間」では、

 「ぶるうまりん」の仲間うちでは、普川さんは透明人間として知られている。何故そう思われているのか。彼は何時も欠席投句をしているが、吟行の時も欠席投句である。

 と、不思議に面白い普川洋の人柄にも触れている。しかも、吟行句会まで出席しないで投句のみとは、天邪鬼な川柳に相応しいようにすら思えた。
  他の記事では、今泉康弘の「ぶるうまりん 三十五号評」や芙杏子「豊口陽子の『箱』を読む」に興味を抱いた。ともあれ、同誌よりいくつか句を引いておこう。

   昭和は死んだが面白い映画だった    普川素床
   老人の狭き歩幅や冬日和        生駒清治
   浮遊する踵 箍のない邑(くに)    伊東 泉
   嬰児ねむる列車音は見つめつづける   土江香子
   野火嬉嬉として進むとも退るとも    吹野仁子
   あと五年ならば五年の冬灯(ともし)  芙 杏子

 そういえば、昨日は、「ぶるうまりん」を創刊した須藤徹が2013年6月29日に亡くなっての、彼の命日だった。誌面になぜか盟友・松本光雄の名が見られなかったのは淋しかった。



          公演を終わって出口近くでの春風亭昇吉↑

★閑話休題・・・【昇吉の会】

 昨夜は、遊句会で一緒の春風亭昇吉の落語会(国立演芸場)に出掛けた。満員御礼であった。
 演目の前半は、古今亭今いちが一席、昇吉は新作落語『旅行日記』、そして谷川俊太郎作(本田久作脚本)の『ハーデイ・ガーディ』があったが、谷川俊太郎の特徴である言葉遊びが落ちに結びついていく段は、愚生には少し難しかった(愚生の耳が遠いせいもあろうか)。ただ後半の古典落語、人情話しの、清廉潔白の武士「柳田格之進」は、愚生もふくめ、馳せ参じた遊句会の面々も感動しきりだった。遊句会では、いつもは彼に酒食の世話をよくしてもらっているのだが、これも春風亭昇太内弟子時代の気配りの修行が実っているのだと納得した。しかも、愚生の知らない所で、東大経済学部卒業の彼の著書『東大生に最も向かない職業』(祥伝社)があり、全日本落語選手権・策伝大賞優勝をはじめ、数々の落語選手権優勝の履歴があるとは、これまで知らなかった。しかし、それも、昨夜の舞台で納得がいった。
 郷里岡山では、経済学部出を生かした、地元局の経済番組の司会ももっているらしい、どこかの大学の非常勤講師もしているらしいこともわかった。

 春風亭昇吉(しゅうんぷうてい・しょうきち) 1979年、岡山生まれ。



2018年6月29日金曜日

齊藤保志「虚貝手に二つ三つ終戦日」(『花投ぐ日』)・・・

          

 齊藤保志第一句集『花投ぐ日』(コールサック社)、集名に因む句は、

   父の日の海に花投ぐ日となれり     保志

である。解説は鈴木光影。著者「あとがき」には、次のように記されている。

 会社を定年退職後、精神的にも健康でいられる方法を考えていたところ、偶然杉並区報で明治大学の社会人向け俳句講座「俳句大学」の生徒募集の記事を見つけ、応募したことが俳句との出会いになります。(中略)
 立花藏さん、鎌田俊さん、林誠司さん、遠藤若狭男さんなどなど、どなたがどの派に所属しているか、日頃どういう句を詠まれているかなど全く知らぬまま、自分の予定で空いてさえいたら、その方の句会に参加させていただこうということで、沢山の方の句会に参加させていただき現在に到っております。また、保志(ほし)という俳号は角谷昌子さんに命名していただきました。

また、帯文の鈴木比佐雄は、

 齊藤保志氏の句には、戻らない父からの便りが届く。すると「路地裏にパン焼くかをり」が漂いはじめ、「竿竹の売り声」が春の風に乗って響き渡り、「いまだ見ぬ父眠る島」に「梅雨の蝶」となって、「父の日」には太平洋の海に花を投げ入れるのだ。

と記している。身心ともに健全でいるために始められた俳句だそうだが、本句集誕生もまた幸運な旅の始まりいうべきだろう。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  母よりの柿部屋中に陽の匂ひ
  薄紙を解かれて雛の深呼吸 
  瞳まづ瞳の色や蟬生るる
  乳切ると言ふ人の来て神無月
  石階(きざはし)の上の神より春の風
  幻戯山房川より暮れて花芒
  万の黙刻む礎(いしじ)や雲の峰
  骨壺をもろ手に包みすきま風
  電飾の木は熱もたず憂国忌

齊藤保志(さいとう・ほし)、1942年、東京生まれ。


           撮影・葛城綾呂 モジズリソウ↑    


2018年6月28日木曜日

江田浩司「山鳩のさりたる庭に日は翳りわれ亡き後(のち)のうす闇にあふ」(『孤影』)・・



 江田浩司歌集『孤影』(ながらみ書房)、憂愁のただよう歌群であると書いて、本を閉じあらためて、帯の惹句を読むと、愚生が述べるまでもなく、以下のように記されていた。

 湿り気をおびた曇り空の下、憂愁の影を惹きながら歩む一人の旅人。もう十分に言葉の豊穣な果実を捥ぎ取ったか。果汁の滴り、両掌に受けるのはさびしい定型の水音だ。

 愚生よりも、一回り若い歌人のこの憂愁は、いったいどこから来ているのか、それが、いうように定型のなせるわざなのか。江田浩司は、これまで俳句についてもよく発言している。集中の「孤客」には、

  秋の日のほこりをはらふ身のうちは「衰燈絡緯寒素(すいとうらくゐかんそ)に啼(な)く」と

 中唐の夭折した詩人・李賀の詩文を込めた一首が置かれている。また、集名「孤影」に因む歌は、

  火の中にむち打つ音を聞きながらあゆみゆけるは孤影なりけり

 であろう。先著、江田浩司『岡井隆考』の批評性を思えば、放埓な岡井隆を批評した、その手のうちに、かくも憂愁を湛えさせているものはなんであろうか、と、立ちどまらざるをえない。ともあれ、集中より、愚生好みのいくつかの歌を以下に挙げておこう。


  火の柩あまたの聲につつまるる汝(な)が敗北も歓喜であれと
  ものみなが動きはじめる早朝にさ庭や澄めり山鳩きたる
  つややかに重なりゆける夕闇は青年といふ礫(れき)となるべし
  そそぎたるあをき光に聲はみち虚空の窓ゆいのちあふるる
  ものみなの像(かたち)は影につつまれて歌ごころのみのこる黄昏(たそがれ)
  古(いにしえ)の詩に詠まれたる鷺の足みづからの悲(ひ)に立つごとく寂(さ)
  戦前の光は闇をルビとする戦後に曳ける尾に及ぶまで
  夏空にとどまる雲はしろかねのひかりの綾(あや)をなしてかがよふ




           撮影・葛城綾呂 タチアオイ↑
  

2018年6月27日水曜日

柴田多鶴子「梅雨深し鰓呼吸などしてみたき」(『季題別 柴田多鶴子句集』)・・・



『季題別 柴田多鶴子句集』(邑書林)、柴田多鶴子の第一句集『苗札』にはじまり、各句集『恵方』『小筥携え』『花種』全句と,『花種』以後の未公刊句を収録した、文字通りの現時点における柴田多鶴子全句集である。その帯の惹句には、

    摂津峡の近くに拠点を定め、
 様々な《愛》の姿を基調に素材を拡げてきた
  多鶴子俳句の現在を顕かにする1972句

 とある。掲載句の下には、それぞれの収載句集名が記され、『花種』以後は記名が無いのであるが、その句数はけっこう多い。収録句は昭和62年から平成29年までの間に作られた句で、柴田多鶴子が平成23年に「鳰の子」を創刊主宰して7周年の記念出版でもある。句歴は「狩」「遠矢」を経てとあり、おおむね平明ながら、核心を思わせるというべきか。多鶴子歳時記とあるように一冊一冊の句集を読むのとは違う、季節ごとに配された句には、また一味ちがう句のありようがそこに伺える。
 現住所を見ると、大阪府高槻市とあったので、この度の震災で、恙なきことを祈りたい。
 ともあれ、当季の夏をふくめていくつかの句を挙げておこう。

  老鶯に湖のさざなみ応へしか     多鶴子
  子規堂の息切れしたる蟬の声
  すでに道決めたる我へ道おしへ 
  蛭蓆油のやうなる水の面
  やはらかに混み合つてゐる菜を間引く
  神の留守道の両端濡れてゐて
  あばれ独楽われにかへりて倒れけり
  海神(わたつみ)の遊びごころか蜃気楼
  遠山のむらさきがちに秋桜

 柴田多鶴子(しばた・たづこ)、昭和22年、三重県生まれ。
   



2018年6月24日日曜日

齋藤愼爾「夭逝のいな夭生の冬の蝶」(「夢座」第178号)・・



「夢座」第178号(俳句同人誌夢座東京事務局)、巻頭エッセイは齋藤愼爾【時への眼差し】XIV「常世と現世の間(あわい)にて」で、多くを石牟礼道子と小宮山遠に触れている。また、江里昭彦の連載【昭彦の直球・曲球・危険球】㊾「小宮山遠(とおし)いつか喪服を脱ぐ日」は、偶然にも齋藤愼爾と同じく、小宮山遠論である。この二人がいかに小宮山遠という俳人を大事に思っていたかがわかるものである。齋藤愼爾は巻頭エッセイに続けて「泣きなが原幻視行ー石牟礼道子さんを悼む」と題して20句を発表している。ブログタイトルに挙げた「夭逝」の句は、その20句中の一句である。

   不知火のひかり凪たる三千世界(みちおほち)    齋藤愼爾
   空蝉の骸に苦海の白怒濤
   文字摺草(もぢずり)の精去り泣きなが原真の闇

 などの句も中にある。
 他に「定例句会記録」(「夢座」第375回より)では、先般亡くなった金田冽への追悼献句が寄せられ、追悼文を銀畑二が書いている。その結びに、

   厨房の洌を思う花吹雪    江良純雄

 カレーショップの厨房ですから油は使えません。でも、金田がこの世で一番好きだった食べものは「鯵フライ」でした。テーブルに置かれた醤油やソースが固まりこびりついているような大衆の店でも鯵フライ。たぶん鯵フライなんかメニューにないであろう高級和食屋さんでも、まずは鯵フライを頼む御仁でした。

    鯵フライ残して逝きぬ花の冷え 鹿又英一

 新宿で鯵は釣れないけれど、新宿文化が大好きな男でした。

とあった。それにしても、さらに胸にせまったのは、先日亡くなった佐藤榮市が、その一月前の句会で、金田冽への追悼句「金さんのあの世へ続け花吹雪」を寄せていることだった。そのことを思うと、佐藤榮市はその時、まさかその直後にまさに「あの世に続く」とは思いもよらなかったのではないかと思えるのでした。 合掌。
 ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。

   散る花のこの散る花にまじる蝶     佐藤榮市(遺稿)
   花吹雪地団駄踏んで生きてみる     照井三余
   点滴の瞳の虚ろなるメロン       江良純雄
   てんとむしトマトになって晴れる朝   森 英利
   五月闇巨大迷路のその先に       太田 薫
   足立区や家で花火の音も観ゆる     城名景琳
   ビザなしのカミツキガメにも夏来たる  銀 畑二
   三月の濃淡の無い水平線        渡邉樹音
     追悼 金田冽さんへ
   想い出の思い出横丁鯵フライ      鴨川らーら 



          撮影・葛城綾呂 ツルバラ↑
 

2018年6月23日土曜日

村上直樹「その枇杷は英字新聞袋掛け」(第180回遊句会)・・・


             絵・石飛公也、撮影・武藤幹↑

 一昨日、6月21日(木)は記念すべき第180回遊句会(於:たい乃家)だった。会場の写真を撮り忘れたので、先日開催された展覧会の石飛公也の絵の写真を掲げることにした。  
 兼題は「袋掛」「アカシアの花」「鱚」。
 以下に一人一句を挙させていただく。

   袋掛け孫に産着(うぶぎ)を着せる如(ごと) 川島紘一
   フクシマの桃よ怒りの袋掛          武藤 幹
   ダボハゼが鱚の名代夕の浜          山田浩明
   平成のアカシアの花散り急ぐ        植松隆一郎
   名品を指ほこらしく袋掛け          石原友夫
   大連にアカシア咲いて北帰行         渡辺 保
   ふくぶくと胎児が躍るふくろがけ      春風亭昇吉
   鱚が好き回文遊びに照れ笑い        中山よしこ
   袋掛け恨めしそうに鳴くカラス        天畠良光
   袋掛背伸びの乙女汗ひかり          石飛公也
   初孫も袋掛けたやそのまんま         橋本 明
   父釣りし鱚ねず銀に輝けり         山口美々子 
   『アカシアの花の蜂蜜』五千円        村上直樹
   袋掛け背にふくらむ風のオルガン      大井恒行

★欠席投句・・・

  金昏の夫婦あうんの袋掛            林 桂子
  泣くラジオアカシアの花昭和歌謡        加藤智也
  ふるふるとアカシアの花散り急ぐ       原島なほみ

 次回第181回遊句会は7月19日。兼題は「裸足」「焼酎」「西日」。




☆閑話休題・・・

 われらが遊句会では唯一の東大卒、若きホープの落語家・春風亭昇吉が、6月29日(金)国立演芸場(地下鉄。永田町駅、半蔵門駅より歩5分)で落語会を開く(昼は14時開演、夜は19時開演)。全席指定2500円(未就学児童は入場不可)。御用とお急ぎでない方は出非ご覧のほど、お願い奉り申し上げます。チケットはインターネット購入はチケットぴあ、電話購入は0570-02-9999、〈Pコード〉482-585、店頭購入はチケットぴあのお店、サークルK・サンクス、セブンイレブン。問い合わせは昇吉落語事務局(03-6432-5659)まで。


 
撮影・葛城綾呂 グミ↑



   

2018年6月22日金曜日

金子兜太「水脈の果炎天の墓碑を置きて去る」(金子兜太先生 お別れ会)・・


金子真土氏↑


宮坂静生氏↑


宇多喜代子氏↑


田中亜美氏↑


黒田杏子氏↑

 本日、6月22日(金)正午より、有楽町朝日ホールにおいて「金子兜太先生 お別れ会」が行われた。開式の辞は宇多喜代子、まずは黙禱。先般、行われた現代俳句協会70周年記念大会の折の兜太の公の出席最後の姿、秩父音頭を歌う金子兜太のビデオが上映された。代表句の朗読は田中亜美。ご挨拶に金子家からは、長男・金子真土による身近にいた者にしかうかがい知れない父・兜太の姿など、心のこもった、暖かい胸にシンと来る言葉ばかりだった。発起人を代表しての挨拶は宮坂静生、また、兜太より「クロモモ」の愛称でよばれていた黒田杏子が最後を締めくくった。「兜太」(藤原書店)という雑誌も、存しておれば白寿を迎えての9月25日に発売が予定されているということである。来場者の献花への御礼の見送りは金子家、現代俳句協会会長・副会長・「海程」方々が長時間立たれたままで対応されていたのが心に残った。
 余りの人の多さに、愚生は目当ての何人かの人には会えなかった(愚生の献花が終盤だったことによる)。が、それでも、久しぶりで多くの方々にお会いした。
  帰路、愚生に同行してくれた遊句会、かつ「海程」会員の武藤幹とともに、有楽町駅前の彼が昔懐かしいという中華料理店に入った。こんな偶然もあろうか、五島瑛巳、西井洋子に会った。
 金子家の血筋からいっても百歳は生きるだろうと思っていた金子兜太。文字通り戦後俳句の最後の一人を失った心境だ。愚生の若き日の乗り越えるべき壁・金子兜太(もちろん才無き愚生の到底及ぶところではなかったが)。愚生60歳代は、仕事柄、金子兜太の対談の幾つか、夏石番矢、大牧広、水野真由美、稲畑汀子、黒田杏子などの場に立ち会わせてもらったことがある。あるいはインタビューでは、ご自宅にもお邪魔した。毎日の立禅では、亡くなった友の名前を一人ずつ思い浮かべ、百人近くになると終るとおっしゃっていた。全く死ぬ気のなかった金子兜太、おもいがけず、その立禅の友たちと歓談していることだろう。
 それにしても、金子兜太の忌日、2月20日は奇しくも小林多喜二忌である。
 ご冥福を祈る。

金子兜太(かねこ・とうた)、1919(大正8)~2018(平成30)年、享年98.



2018年6月21日木曜日

中西夕紀「木の高さよりも飛ばず春の鳥」(「都市」6月号)・・



「都市」6月号・通巻63号(「都市」俳句会)に、仁平勝「五七五のはなし(二)」が連載されている。彼の近著『シリーズ自句自解ベスト100仁平勝』にも俳句の切れについて、繰り返し強調されていたが、切字についての話が冒頭に出てきている。それは、当然と言えば当然なのだが、いわゆる俳句と発句を明確に分つものは何か、ということでもある。近年の多くの論が、近代俳句の行き詰まり?を縫うかのように、江戸期の俳諧から、ひと続きの地平に俳句はあって、座というものもみごとに継承されているという晴朗な言いようが目立つようにおもうのだが、なかなかどうして、俳諧から俳句への道はそう簡単ではない。さすがに、仁平勝は、その辺りを誘導した山本健吉の論に、実に判り易く切り込んでいる。たとえば、山本健吉の「挨拶と滑稽」の一文について、

  そこに「今でこそ作者たちに軽んぜられている」と書いてあるように、それまで切字は、ただ発句の遺産として漠然と引き継がれていた。それを「季題の約束以上に重い」といってみせたのは、山本健吉が最初だと思う。
 ただ、ひとつ反則がある。「白冊子」には「切字」なくては発句(・・)の姿にあらず」(傍点は仁平)と書いてあるのに、「発句」が「俳句」に変えられている。ズルといえばそれまでだが、ようするに山本は、現代の俳句を発句に戻したかったのである。

さらに、

 でも、もういちど確認しておきたいのは、「切れ」とは句末で切れるということだ。くどいようだが、この基本的な認識を共有しないと議論が噛み合わない。

 として、石田波郷の切字論を引いている。詳細と興味のある方は「都市」を読まれたい。どうやら長い連載になりそうです、と結んでいるが、愚生には、当分は「都市」を読む楽しみができた。次号は、川柳について書くとも予言されている。

 俳句の本質は、五七五という定型の不安定さにある。「切れ」の議論はここから始まる。同じ五七五でも、川柳に不安定さはない。だから「切れ」もない。

 と、ともあれ、同誌特別作品から以下に・・・、

   鎖す扉に如来の闇や梅の花      中西夕紀
   いつさいを置き春星へ放たれたり   田中聖羅
   春愁やみんなぬきたるコンセント   大木満里




2018年6月20日水曜日

阿部青鞋「虹自身時間はありと思ひけり」(『カモメの日の読書』より)・・



 小津夜景『カモメの日の読書』(東京四季出版)、副題に「漢詩と暮らす」とあるように、小津夜景流超訳漢詩+エッセイ本である。冒頭に漢詩の原文があり、その訳出があり、そしてエッセイが置かれている構成なのだが、漢詩の門外にある者には、小津夜景の訳詩とエッセイがあれば十分という感じの書でもある。もっとも、謝希孟「芍薬」の原詩に対して小津夜景訳と小池純代訳と那珂秀穂訳の三様の違いは、それぞれ面白く読めた。また、巻末の「本書に登場する主な詩人たち」の註は、初心者には有難かった。
 ところで、ブログタイトルに挙げた阿部青鞋の「虹自身」の句には、

 (前略)この虹は「時間はある」と思うやいなやこの世を去ってゆく。つかのまこの世にあらわれた虹にとって「時間がある」との認識は、とても短い虹の一生における辞世の悟りだったのだろうか。
 わたしが虹に感じていたのは、つまるところこの世のはかなさにすぎない。とはいえそのシンプルな認識を空に投影するとき、わたしは今でも小さなころと同じ気持ちになる。かつてとちがうのは、空をながめてかなしくなるとき、あたかも「もう一度わたしを見送りなさい」といったふうに、わたしのもとをふたたび虹が訪れること。すなわち、じぶんじしんの涙の中に虹がたつしくみを発見したことくらいだ。

 と、なかなか美しく記されている。とはいえ、「ロマンチックな手榴弾」と題された「『悪い俳句』とはいったい何か?」では、その独特な小津夜景の感性、感覚を思うことができても、いささか肯えない美しさだった。

  すなわち次のような条件を満たしているとき、その句は思わずぎゅっと抱きしめたくなっちゃうほど「悪い」のではないでしょうか。
 ①悪い俳句(=ノワールな俳句)とは、親切な読者ないし読解よって昇華されることをかたくなに拒む、強がりな芳香を放っている。
 ②友のいない、孤独な、この世の外道である性(さが)が、じんわりとにじみ出ている。
 ③この世のすべてを強奪したかのような華やぎと、実は何ひとつもっていない素寒貧(すかんぴん)の哀しみとが、同時に浮き彫りとなっている。
④かがやいていて、せつなくて、ただそこに転がる、最高にロマンチックな手榴弾である。

街角に薔薇色の狼の金玉揺れる    山本勝之

 愚生は、長年俳句をやってきたせいか、句の評価にはどうしても厳しくなってしまう。それでも、三橋敏雄の「かもめ来よ天金の書をひらくたび」や西原天気「てのひらにけむりのごとく菫(ヴィオレッテ)」、石原吉郎「花ひらくごとき傷もち生きのこる」などに出会うと、嬉しい気分になるし、「無音の叫び」と題された土屋竹雨「原爆行」などに出会うと漢詩も悪くないな、と思うのだった。

  夜半いくつ越えて重なる舟の春     夜景

小津夜景(おづ・やけい)1973年、北海道生まれ。



           撮影・葛城綾呂 ナスタチウム↑

2018年6月18日月曜日

徳弘純「出発や麦のほとりに血を流し」(『徳弘純全句集 城』)・・・



徳弘純全句集『城』(編集工房ノア)、帯に「現代俳句(1957~2017)/『非望』から『シーラカンスの夢の中へ』まで/渾身の1700句」とあるように、徳弘純の句業60年間に及ぶ作品が収録されている。第一句集『非望』、第二句集『レギオン』、第三句集『麦のほとり』、ただし、この第二、第三句集は一つの箱に納められた合本句集で、『レギオン』は無季作品のみであったと記憶している。第四句集『褶曲』、第五句集『橋』(「花象」第七号に発表した紙上句集の再録)、そして、最後に収められているのが未刊の新句集の第六句集『シーラカンスの夢の中へ』である。
 愚生にとってはまさに待望の句集が、まさか全句集として刊行されるとは思っていなかった。それは、徳弘純がもはや公に句集を出すことはないという宣言でもあるように思える。
 徳弘純は文字通り鈴木六林男の弟子で、「花曜」に参加、その志をよく継いできたと思う。従って六林男を想う句は多い。

  〈死んだよ(ムリオ)〉とは独り黄昏(こうこん)に立ち止まる  純

 この句の注には、「〈ムリオ(死んだよ)〉は『誰がために鐘は鳴る』(ヘミングウェイ作・大久保康雄訳・新潮文庫)による。スペイン語と思われる」とある。

また、

  (つちふ)ると師に兵燹(へいせん)の句のありし
     *「兵燹や太古のごとき夕まぐれ」(鈴木六林男『定本・荒天』)。

 「全句集『城』の後記」には、次のようにしるされている。

(前略)元の独りといっても、馬齢の重なり以上に、少年時代とは「独り」の中味が異なる。溶明と溶暗。薄暗がりの風景に立ち現れる、「城」と名付けた数々の道化染みた場面。それを噛みしめる。私の「城」は、聳え立つ城というよりも、中世の「土居」の方が相応しい。ささやかな土塁。荒れて古び、草生(む)しながら我意に骨張っている。何かの跡形と思われても仕方がないかもしれない。尋ねて行っても大概は不在で、時に書き置きめいたものに「シーラカンスの夢の中へ」云々などと殴り書きされていて、風にめくれているばかりーー。

 本句集の集名に因む句は巻末の、

   (みんなみ)へシーラカンスの夢の中へ

 である。ともあれ、多くの句を挙げたいが全句集ともなれば切りがない。以下にいくつかの句を挙げるに留めておこう。

   銀行の裏は霙の祭かな
   寒林にデラシネの目のいくつ咲く
   寒鴉非望を捨てに来てみれば
   或る櫂は海から空へ漕ぎ出でぬ
   太陽に鳥うち消されここは無数(レギオン)
   すがたなき廃兵といる夜の橋
   八月や傘立てにある骨の傘
     阪神・淡路大震災
   地の骨に余震止まざり秋水忌
   常しえに磔(はりつ)けられて夜の滝
   窓秋夏野しずかに痛き光さす
     *「頭の中で白い夏野となつてゐる」(高屋窓秋)。
   空蟬の此処にも橋の架かりいる
   隠国(おにぐに)の闇深ければ夢見草
     *「夢見草」は桜の異称。
   行きゆきて火(ほ)の穂(お)を負えり秋の暮
     *「火の穂」-「炎・焔(ホノホ)。
   遠景の仕種は考(ちち)か合歓の花
   北辺の火声は夢か鬼房忌
     *「火声」は「ものが燃え上がる音」(「将門記」註)。
   戒厳へ時間の蹄戛戛(かつかつ) 
   クリスマス海は嘆きを繰り返し 
      幼児回想二句
   火遊びをしても消しても饑(ひも)じかった
   人間魚雷にあこがれた頃五円のころ

徳弘純(とくひろ・じゅん)、1943年、高知県生まれ。


    

2018年6月17日日曜日

祝・「朝日俳壇」選者就任!高山れおな「麿、変?」・・・・


                                             「朝日新聞」6月17日朝刊 ↑


          左・高山れおな、右・筑紫磐井 ↑

 ビッグニュースだ。「朝日俳壇」新選者に金子兜太の後を継いで新選者に就任したのは高山れおな、である。愚生はかつて、金子兜太に「高山れおなって、どんヤツだ」、と聞かれたことがあった。「『豈』の若手俳人で、有望な人ですよ、『俳句空間』新鋭投句欄から出てきた有季定型派ですよ」と答えたら(当時、高山れおなは20代にしてすでに大人ぶりの有季定型の安定した、しっかりした句を書いていた)、「オトコか・・・、オンナかと思ったよ」と言っていた。
 また生前の藤田湘子は、或る時、愚生に「君のところに高山れおなって、いるだろ・・」「ええ、何ですか?」、「彼、面白いね。文章もいいね。独特な視点を持っている・・・」と言われたのを覚えている。
 高山れおな、49歳、攝津幸彦が没した年齢と同じだ。二か月に一度、現在も続いている「豈」の句会は、元はと言えば、高山れおなが「ぼくは句会に出たことがないんです。句会というものを経験してみたいので、『豈』で句会をやってもらえませんか」と筑紫磐井に相談したのが切っ掛けで始まったのだ。そして、攝津幸彦もそれによって句会の面白い面を発見していった。
 最年少にして、結社育ちではではない、いわゆる俳句結社に属さず、独学で俳人になった者が、初めて朝日俳壇選者に就任する(攝津幸彦もまた同人誌育ち、独学だった)。朝日新聞にとっても、俳句の未来、将来を見据えた極めて適切な英断を下したというべきだろう。筑紫磐井は「BLOG俳句新空間」で、

 兜太氏が既存の俳壇、特に保守的な俳壇に果敢に挑戦してきたことは、その俳句を認める人も、認めない人にも肯わないわけにはいきません。そして、高山氏も兜太氏とは違った行き方をとるにせよ、息苦しい既存の俳壇に爽やかな風を吹き込んでくれることは間違いないと思います。最年少の俳壇選者にご支援を賜りたく存じます。

と期待と無私の支援を記している。ブログタイトルにした「麿、変?」の句については、高山れおなが「根っからの形式主義者なので、いつも形式のことを考えている」(「俳句αあるふぁ」増刊号『わたしの一句』)と記した後の結びに、

 (前略)この句のみは自由律。それがもうひとつの形式性ということになる。自由律の理念とはかかわりなく、自由律の形式だけが踏襲されており、しかも最もミニマムな短律が目指されている。具体的に意識していたのは大橋裸木の〈陽へ病む〉で、同じ四音節で並んだわけである。

 と述べている。 ともあれ、「俳句」創刊65周年記念号(2017、6月号付録「現代俳人名鑑」)から、彼のいくつかの句を以下に挙げておこう。


   雛壇を旅立つ雛もなくしづか         れおな
   秋簾撥(かか)げ見るべし降るあめりか 
   果てしなき涼しさといふ夢も見き
   七夕や若く愚かに嗅ぎあへる
   げんぱつ は おとなの あそび ぜんゑい も
   きれ よりも ぎやくぎれ だいじ ぜんゑい も  
   でんとう の かさ の とりかへ むれう で します


高山れおな(たかやま・れおな)、1968年、茨城県生まれ。



   
 

2018年6月15日金曜日

仁平勝「秋天に白球を追ひ還らざる」(『自句自解ベスト100仁平勝』)・・

 

 シリーズ『自句自解ベスト100仁平勝』(ふらんす堂)、ブログタイトルにした「秋天」の句には、「攝津幸彦逝く」の前書がある。自解には、

 (攝津幸彦は)阪神タイガーズの大ファンだった。子供の頃、父親と見に行った試合で、「藤村富美男のファールフライが美しかった」そうだ。一九八五年に阪神が優勝したときの喜びようはいうまでもない。きっと彼の世まで、藤村富美男のファールフライを追って行ったのだ。

 とある。そういえば、その時は、愚生も攝津幸彦に祝電を打った(夫人の資子さんによるとその電報はとってあったそうである)。思いがけない返礼にタイガーズの法被を贈ってくれたのだった。その法被を着て、まだ小さかった愚生の息子は外に遊びに行って失くしてきた。攝津幸彦の勤務先の会社では猛虎会?の会長だったようだ。優勝した時には、務めていた会社ちかくの新橋駅広場で、酔っぱらって咆哮し、騒ぎまくり、池に飛び込んだらしい。
 本著は自句自解ながら、仁平勝はさすがに批評家らしく、彼の俳句観のエスキスをあますところなく披歴している(以前にも雑誌などで述べてはいたが、改めて記している)。例えば巻末の、「俳句を作る上で大切にしていること」に、

 あらためて私の俳句観をいえば、俳句は発句と違って脇句がないのだから、べつに切れがなくてもいいのではないか。だんだんそう考えるようになった。なぜなら五七五の定型は、もはや切れを必要としないほど成熟していると思うからだ。げんに虚子を始めとして、発句的な切れをもたない俳句はたくさん作られている。
 ちなみに虚子は、「俳句を志す人の為に」という文章で、「切字といふことを昔は大変やかましくいつてゐましたが、それ程やかましくいふ必要はありません。要するに終止言若しくはそれに代る言葉が一句のうちに一つあればよいといふことであります」と述べている。私は虚子の尻馬に乗った。それは、発句的な安定からいくぶん外れるところに、むしろ五七五のリズムが生きてくるように思うからだ。

と述べていることからも知れる(ちなみに仁平勝は、句切れが発句における切れであるなどとは言わない)。言ってしまえば、かつて坪内稔典が主張した「過渡の詩」としての俳句ではなく、むしろ、過渡どころか、俳句として、もはや成熟した詩形となっているのだ、ということである。少なくとも、俳句の現在について、こう分析してみせた評者は、今のところ仁平勝しかいない。他にもいろいろ引用したいところはあるが、それは、読者が手にとって読んでこそ意味があろう。
 ともあれ、本著から句のみになるが、いくつかを以下に挙げておこう。

   童貞や根岸の里のゆびずもう     勝
   片足の皇軍ありし春の辻
   本郷もかねやすまでの夕立かな
     今井杏太郎に師事
   老人を起して春の遊びせむ
     弟和夫逝く
   夏月和厚信士享年五十三
     母ヨネ逝く
   冬菊や遺体の母の乳固し
   立春の電車に座る席がない
   いまに手放す風船を持ち歩く
   夏物をしまふと秋のさびしさが
   よきことを考へながら日向ぼこ



          撮影・葛城綾呂 マツヨイグサ↑


2018年6月14日木曜日

金子兜太「おおかみに蛍が一つ付いていた」(「江古田文学」第37巻第3号より)・・・



 「江古田文学」97(第37巻第3号・日本大学芸術学部江古田文学会)の特集は「動物と文学」。中に浅沼璞が「俳諧における”生きもの感覚”ー戌年にちなんで」を書いている。評文中、金子兜太が『荒凡夫 一茶』(白水社)で、「生きもの感覚」の秀吟として挙げているという小林一茶の発句「犬どもが螢まぶれに寝たりけり」(『七蕃日記』1814年)について、次のように述べている。

 つらつら思えば、「一本の木、一本の虫」という〈一つ〉の精霊の集まりが全宇宙をなし。いわば”生きもの感覚”の〈一つ〉の集合としてこの句は読める。
 ところで現代の季語的観点からすると、狼なら冬で犬は無季「雜(ぞう)」、蛍は夏であるが、そんな分類を”生きもの感覚”はのみこんでしまう。兜太氏のように俳諧の時代をさぐれば、動物学でいうニホンオオカミは「山犬」とも呼ばれ、雜の扱いであった[註]。雜だからこそ逆に四季の分類を超えて”生きもの感覚”を表現しえたともいえなくはない。

その[註]には、以下のように記されている。

 西鶴『日本永代蔵』(一六八八年)巻二ノ三「才覚を笠に着る大黒」に黒犬の丸焼きを〈狼の黒焼〉として売り歩くエピソードがある。これは「薬食いを騙った詐称だ」とする説が一般的なのだが、本文には〈疳の妙薬になる犬なり〉の一節も見え、狼と野犬とをさほど区別していないようにも読める。未分化な”生きもの感覚”を未分化なまま享受する難しさがここにもありはしないか。

と、さらに、浅沼璞は、幾つかの犬の句に評を加えながら、結びを、

 くしくも戌年にイヌ科の句を追うこととなった。果たして〈犬〉という雜の詞は、雜ゆえに四季の分類を超え、視覚的・聴覚的に”生きもの感覚”を具現してきたようである。以上をもって兜太的”生きもの感覚”の〈一つ〉の考察としたい。

と括っている。浅沼璞は本稿脱稿直後に、金子兜太の訃報に接したと漏らし、追悼している。
ともあれ、戌年にちなむ挙げられた文中の犬の句を以下に書き写しておきたい。

   山犬のがばと起きゆくすゝき哉   召波(『春泥句集』1777年)
   むくと起きて雉追ふ犬や宝でら   蕪村(『蕪村句集』1784年)
   人うとし雉をとがむる犬の声    其角(『いつを昔』1690年)
   草まくら犬もしぐるゝか夜の声   芭蕉(『野ざらし紀行』1684年)

他には、旧知の中村文昭の詩「猫譚(きふじん)」に出会えたのが僥倖、もう随分とお会いしていないが、健在ぶりが嬉しかった。

 中村文昭(なかむら・ふみあき)1944年、旭川市生まれ。
 浅沼璞(あさぬま・はく)1957年生まれ。 



          撮影・葛城綾呂 十薬↑

2018年6月13日水曜日

安井高志「血はぜんぶ絵の具にかわる真っ青な海に溺れる東京タワー」(『サトゥルヌス菓子店』)・・




 安井高志歌集『サトゥルヌス菓子店』(コールサック社)、集名に因む歌は、

  子供たちみんなが大きなチョコレートケーキにされるサトゥルヌス菓子店 高志

解説は、依田仁美「概念との対話が放つ光芒」、原詩夏至「海底の雪、しずかな雨」、清水らくは「彼に触れれば」の三名。謝辞に母・安井佐代子とあるのは、これが遺歌集だからだ。昨年4月に31歳で急逝した。解説の依田仁美は次のように記している。

 彼は作風においては、現代短歌に合流する気分が希薄だった。秀歌志向ははない。伝統的な括りには入らない。「完成度」なるものは軽薄と考えていたのだろう。さもなければ「カオスの目」に美神を見ていたのであろう。そういう意味から彼の作の多くは「傑出」している。(中略)
 彼は飛び去る物、移ろいゆく物の美に敏感であった。固定物には関心が薄かった。自作に求めたのは巧緻さではない。流動美、そしてその流動美の同位体の滅亡美であった。彼の作品の良さは吟味という手法では追究し難い。逆に、高速で感じても真価が享受可能な世界なのである。「概念との対話」が放つ「光芒」なのだから。

あるいはまた、清水らくはは、

 安井高志の歌はいい人にとっては、いい。このように評してしまうのは、怠慢かもしれない。けれども、自信をもって、そう言っているのだ。多くの人に届ければ、必ず響く人がいる。技術やテーマにこだわる人、時代との関係性を重視する人。そういう人たちには、魅力的に見えなくても仕方がない。しかし私はこう思っている。生まれてから全く短歌に触れずにきた人が初めて出会ったとして、心を動かしうるもの。そういう力が、彼の作品にはあるのだと。

と述べている。確かに手にとれば、アニメのような現代の若い人の息吹がそこここに潜んでいる短歌だろうと思う。ともあれ、集中より、いくつかの作品を以下に挙げておこう。

  みずうみの底にはしろい馬がいた鱗のはえた子を殺す妹   高志
  墓場から夥しい蝶 赤い蝶 あれがキヨコを食べて飛ぶ翅
  三月のキャベツ畑に霧深く眠れ失声症のアンドロイド
  わらうなら紙飛行機をソドムまで見送るようにとばしてみてよ
  くるしみの果てることなく井戸水は死者たちのためこんこん湧く
  カスピ海にあきれるほどの花束をわたしのために墜落させてよ
  歪曲の、水面の波の線形がわたしをいだく空(うつ)の本質
  ただひとつ教えてくれよwikipedia蛇のたまごが落ちる湖
  那由多まで我が身を砕く焔ならばすべてを抱き空へ還そう
  冬の日の曇り空から田圃まで群れる白鷺 死が降ってくるよ 



          撮影・葛城綾呂 ベラゴニウム↑


2018年6月12日火曜日

宮坂静生「逢ひたくて辛夷の花の傷みゆく」(「岳」6月号より)・・



 「岳」6月号(岳俳句会)は、先月、5月号が「40周年記念号」で分厚く、多くの俳人の祝意に満ちたものであったが、本号は、それと比べると落ち着いて、「岳」の同志諸氏に感謝と今後を語る心意がこもった内容になっている。
 記念大会には、愚生は先約があって、参加叶わなかったが、口絵には、「岳」40周年記念大会記念品のなかに『宮坂静生俳句かるた』があり、その内容が本号に掲載されていたので、最初の句をブログタイトルにさせてもらった。そのなかから幾つかを挙げておきたい。

  青胡桃蚕飼ひの村の石だたみ 
  犬ふぐりさざめきて空くづれ出す
  木の根明く胎児はなにを見てをるや
  コスモスは水平の花かなしみも
  春の鹿まとへる闇の濃くならず
  栃の芽にいま御岳は地吹雪ぞ
  良寛の手毬は芯に恋の反古

 ところで、先月記念号のなかでは、筑紫磐井が「水平(地理)の彼方ー私の季語研究と地貌季語の関わり」と題して、「季語研究には、『垂直研究(歴史的研究)』と『水平研究(地理的研究)」があるのではないか思っている」と切り出し、宮坂静生『季語体系の背景』を読んで、以下のように結んでいるのが印象的だった。

 民族・民俗と個の関係に視野を広げることによる地貌季語の深化が伺えるのである。そしてこの時、意外に虚子やホトトギスの題詠による季語(熱帯季題や大陸季題を含めて)と交差する現場を見ることができるように思うのである。




★閑話休題・・・

「図書新聞」第3355号(6月16日・土)は、金時鐘へのインタビュー「世の美しいことは、書かれない詩によって保たれている」である。金時鐘『背中の地図 金時鐘詩集』(河出書房新社』、また、『金時鐘コレクション』全十二巻(藤原書店)などが刊行中で、新聞記事のリードには、「朝鮮半島が動いている。他方で、歴史を直視せず、憎悪と反目を煽って動かぬ日本に私たちはいる。そのはざまで在日を生き、日本語と対峙してきた詩人はいま、何を思うか。金時鐘に話をうかがった」とあった。
 全部を引用したいくらいの重厚かつ大事な意志を語っているのだが、ここでは、俳句の抒情について語った部分を少しだが、紹介しておこう。

 日本でいう抒情とは、心的秩序を共有する感情のことです。俳句では季語という共通の認識基準があって、私はずっと感性の統括だと言ってきたのですが、詩では抒情も共有されるものなのです。考察は必要ない。詩というのは、このような感情の波長を伴うリズムだと思っている。だから、日本人の誰が何を書いても、情感と抒情が一緒なのです。情感の波動が抒情として受けとめられている。ですが、抒情とはそうではなくて、それ自体が批評であるものです。(中略)
 感情というものは非常にナチュラルなものだと思われていますが、実は作られるものなのです。感情は自然な心情の流露ではなく、作られたものに触発される。それは出来上がった秩序の何かから触発されています。(中略)
 だからこそ批評は、この抒情の中に根づいていかねばならない。私が共感させる機微のような感情を、作られるものとして非常に警戒してやまないのは、なじんで育ったあらゆるものの基調に、五七五のような日本的短詩形文学のリズム感が、抒情の規範さながらにこもっていたからです。

 それでも、俳人の愚生らが、五・七・五を常に快いものだと言ってしまうのであれば、ついに金時鐘の「乾いた抒情」には届かないだろう。また、

 日本の詩人は、非常に観念的、抽象的な詩をかきますけれども、実感がないという意味では、それは詩ではない。理屈を並べているだけです。詩を書く者は、喉元まで突き上げる思いをこらえて生きている。世間の人は、ほとんどそうでしょう。自分のやりたいことで生きられる人など、本当に限られていますから。飯を食わなければならないし、子どもたちを育てなければならない。(中略)
 詩人だってその他大勢の一人ですから、決して選ばれた人間ではない。私が思うことは皆が思うことで一緒なんだね。ところが、日本の詩のほとんどはインテリだけができるような詩です。
 詩がいちばん美しいのは、存在して在ることです。私にとっていちばん美しい国とは、そのような人たちがまんべんなく点在し、長屋にも職場にも学校にもたくさんいる、そんな国です。
 
と述べている。あまりに長い引用になってしまったが自分を見つめ直す表現が詩ですか?という問いには、「詩とは現実認識における革命だと思っています」とも答えている。




           撮影・葛城綾呂 べラルゴニウム↑








2018年6月11日月曜日

峯田國江「設えの半分済んで白雨かな」(「山河」352号より)・・・



 「山河」(山河俳句会)第352号、第45回「競作チャレンジ俳句」は、二つの縛りがかかっている。今回の課題は「半分」と「夏の季」である。その選句を引き受けているのだが、選ぶのは天・地・人各一句、と秀10句、佳が5句、毎回合計18句を選び、すべてに選句評を付けている。このブログでは、とりあえず天・地・人のみの評を挙げ、その他は句のみを挙げて紹介しておこう。


天、 設えの半分済んで白雨かな      峯田國江
  何の設えであろうか、あと少しで終わるのに、白雨となってしまった。空は明るい。すぐにも止むだろうから、雨をやり過ごしてから、また始めればいいか、そんな気分もある。何気ない光景だが、なかなか味わい深い句というべきか。

地、 緘の字は半分掠れ夏終る        島崎きく子
 封をした「緘」の字が掠れ筆になってしまったのであろう。あるいは、誰からかいた
だいた便りなのかも知れないが、経年のせいか、陽に褪せて「緘」の文字が半分掠れ
てしまったのだ。立秋も近い「夏終る」には、封書にまつわる人への愛惜の気持ちが
表れている。                  

人、 真蛇とは半日影なりさがしもの    津のだとも子
  「真蛇とは」、能面の(しんじゃ)の面のことであろう。般若のなかでも、もっとも罪業  
   深く、蛇の顔になっている面である。蛇も日陰も夏季だが、この句では季節感以上にひとえに  
   真蛇、半日陰が、作者の表現意図の比喩として作用しているそれが探し物であるというのだか
   らなおのこ

秀、 半分こに大小のあり西瓜割       中谷 耕子
   半分は聞こえぬふりの蟇        新江 堯子
  愛国心半分上げます立夏        吉田 慶子
   半分は蛍の化身生臭し         小池 義人
   半分の客は帰りぬ月見草        田中 雅浩
   老鶯や昭和半分絵空事         広本 勝也
  油照半分世田谷交差点         近藤 喜陽
   とりあえず話半分ところてん      平林 敬子
   半分の西瓜いただく盛夏かな      吉田 キミ
   血族は村の半分凌霄花         桜井万希子
佳、 半分はこの世のままの水中花      山本 敏倖
   砂山の半分崩れ夏の果         国藤 習水
   板の間に半分出てる昼寝かな      山本 和子
   炎天下半分ベソかき母さがす      黒岩 隆博
   かき氷赤と青色半分こ         多田 文代
 
 すべての選句に順位をつけ、かつ鑑賞をするのは、真剣な気力を要する。それも甲乙つけがたい水準にあってはなおさらだが、それででも天・地・人くらいはキチンと決めなければ、引き受けた以上、役目が果せない。応募の各作者それぞれとの真剣勝負の選にならざるを得ない。愚生の好悪だけで決めるわけにはいかないのだ。一句としての出来はいかがと問わなければならないからでもある。ともあれ、こういう機会をいただけるのは、愚生自身の句の在り様を見つめ直すにもよいチャンスだと思って、勉強させていただいている。


 ところで「山河」の前代表は松井国央だが、「現代俳句」6月号にテーマ「指輪」で感銘深いエッセイを寄せておられる。それは「ラッキーストライクの緑は戦場へ行った」という煙草の広告のコピーから書き起こされ、戦時の供出品として義務付けられた金属類、父親がその職業がらプラチナや金を加工してパイプの一部などにして、その供出を回避していたこと、幾度となく憲兵隊に踏み込まれたことなどがあったという。そして、このエッセイの結びには、自身のアンビヴァレンツな思いが、以下のように記されていた。

  今、こうしたパイプの一部が、僕の指輪に作りかえられている。かつての国家や戦争に対する、父のささやかな抵抗のシンボルとして、この指輪を誇らしく思うべきか、それとも戦場に散った多くの日本人への裏切り行為のシンボルとして考えるべきなのか、自分自身でいまだに結論が出せていない。


2018年6月10日日曜日

蓮如上人「たのませてたのまれたまふ弥陀なればたのむこゝろもわれとおこらず」(「仏教家庭学校」334号より)・・

 

     左・冊子は「龍谷教学第53号抜刷」(西川裕美子)↑

 「仏教家庭学校」通巻334号(教育新潮社)に、俳人・西川徹郎こと西川徹真(にしかわてつしん)の法話「(ねん)とは聲(しょう)とはひとつこゝろなりー乃至十念は名号の独用(ひとりばたらき)-」が掲載されている。愚生のごとき門外漢には、その言葉使いもいうまく理解できないのだけれど、専門誌とはいえ「お盆用・伝道用施本」とも題されているので、読んでみることにした。これも西川徹郎との縁というものだろう。記されてあるいくつかの部分を引用しておきたいと思う。

 苦悩に沈む我ら凡夫の為に〈任(まか)せよ必ず救う〉と名告(なの)り現れ下さった聲の如来が南無阿弥陀佛です。(中略)
 浄土真宗の他力の信心は、名号と付いて離れず、私たちの日々の生活や悲喜折々(ひきおりおり)を縁として称名となって口に現れ、念佛者としての無碍(むげ)の人生を歩ませて下されるのであります。

「必ず救う」の言には、心が動く。名号(みょうごう)とは「南無阿弥陀佛」,唱えのことだろうと推測するが、素人の愚生にははっきりとは申し上げられない。

 親鸞上人は「みだの本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十聲とのたまへるなり。念と聲とはひとつこゝろなり」と仰せられ、如何なる罪人たりと雖(いえど)も本願を信じ念佛する者は一人洩(も)らさず皆救うという如来の願心を顕(あらわ)されたのです。

また、ブログタイトルにあげた蓮如上人の歌には、以下のように述べられている。

 六字の名号を「弥陀」の二文字に攝(おさ)め、自(みずか)らたのませてたのまれたまひつつ、信心一つで往生を遂(と)げさせんとはたらく波阿弥陀佛の大悲の独用(ひとりばたらき)を讃嘆(さんだん)したお歌です。





 あと一つ紹介しておきたいのは、夫である西川徹真に師事し、真宗学を学んできたという俳人・齋藤冬海こと西川裕美子が第53回龍谷教学会議に研究発表したという「『獲得名号自然法爾』について」である。
 パラパラ捲っていると、小見出しに「『教行信証』に顕れた自然法爾」の言葉に、愚生、門外漢といいながら、はてどこかで聞いたことがあるなと思った。もちろん、本文の方は専門家の研究発表の論であるから愚生には大いに難しい。その結論には、

 即ち「獲得名号自然法爾」の教えとは、無義為義にして自力のはからいの絶対否定である。罪悪深重のこの私を自然転成せしめ、仏智不思議の願力に全託せしめ、次生には无上覚へと至らしめ、現生には正定聚に住せしめる他力の信の広大なる徳用を顕すが、「獲得名号自然法爾」の祖意であると窺うのである。

と述べられている。宗教が愚生のような凡夫自身には困難ではないかとハナから思わせるのは、信仰がこころの修行と同時にあるからなのだろう。話を元にもどすと、はて、どこかで聞いたことがあると思ったのは、山折哲雄に「『教行信証』を読むー親鸞の世界へ」の岩波新書があって、ひさしぶりにその件を思い起こしたのだ。たしかこの本は、山折哲雄が70歳に入ってから書き著わしたもので、愚生にはその年齢が及ぶように重なってきている通俗なる安心が芽生えたことにある。
 『教行信証』は、親鸞自身によって言い出されたものではないにも関わらず、この名辞を最後まで手放さなかったという山折哲雄は、その著の結びに、

 (前略)『教行信証』というテキストは、親鸞にあっては未だ変貌をとげつづける「未完の作品」であるだろうと書いた。親鸞という人間もまた、その意味において「人生の途上」にあるほかなかったのだと言ったのであるが、それでは親鸞はこのあとどのような次の世界にむけて足を運んでいったのであろうか。私の目には、とぼとぼと歩きつづけることをやめない老親鸞の行く先に、ほんのかすかに「自然法爾(じねんほうに)」の光が静かにともっているのがみえている。今、私は、あとわずかのいのちを恵まれることがあれば、その最後の親鸞のそば近くまで伴走しつつ、ともに歩いていきたいものと心から願っているのである。

と述べてて閉じている。


             撮影・葛城綾呂 開花開始↑ 


 

2018年6月9日土曜日

勝原士郎「多喜二と兜太忌重なりとは思ひふかし」(「こだま(木魂)」第253号)・・



「こだま(木魂)」平成30年4月号・第253号(編集・発行人、松林尚志)、先般は「澪」が終刊になり、その後は「こだま」を贈って下さっている。松林尚志は、ブログタイトルに挙げた勝原士郎「多喜二と兜太忌重なりとは思ひふかし」の句について、

 この句の要は「忌重なり」にある。俳人は著名作家の忌日を季語として登録するが、季語が重なることを季重なりといって嫌う。そんな俳人の禁忌と重なる表現としたところに作者らしい皮肉と遊び心を認めてよいと思う。

と述べている。同号掲載の勝原士郎の他の二句は、

   アンパン狙ふ烏介護の姪の通ひ路 あ、     士郎
   中野重治柳兼子至福民芸館休館なれば

 第一句目句末の「あ、」は作者の一瞬の驚きの声であるともとれる。が、さらに「鴉」の「あ」も懸けられていよう。「介護」「姪」「通い路」の韻律も巧みである。
 松林尚志は「こだま」に、先月3月号から、「詩誌『方舟』のことなど」を連載しているが、詩史を語るに貴重な証言であり、後続の者には、じつに有り難い。

 「方舟」は実質的に星野徹、中崎一夫両氏によって立ち上げられたといってよい。当初五人で出発したが、中途から村野四郎師の紹介などで五人が加わり、最終的に十人となって、四十四号まで二十三年間続いた。

創刊同人は「星野徹、中崎一夫、下山嘉一郎、山口ひとよ、松林尚志の五人であった」という。さらに書き継がれることと思うので楽しみにしている。
ともあれ、「こだま」より一人一句を以下に・・・

 声色は団十郎や春一忌     松林尚志
 紅椿落ちずに待てり帰りたし  勝原士郎(3月号より)
 雄松か咳く声に年かへる    小島俊明
 一声にガイドの舌が止まる春  石井廣志
 一人静しばらく声を使はざり  阿部晶子
 声明に呼応し揺るる花楓   山田ひかる
 声紋てふ証拠映像春寒し    奥村尚美 



          撮影・葛城綾呂 マツバギク↑

 




2018年6月8日金曜日

天皇「疎開児の命いだきて沈みたる船深海(しんかい)に見出だされけり」(「象徴のうた」)・・

 


 東京新聞・火曜日夕刊に、永田和宏が「象徴のうたー平成という時代」を連載している。先日、6月5日(火)で21回を閲した。グログタイトルにした歌は平成9(1997)年の作である。本記事の冒頭は以下のように書きだされている。

 太平洋戦争末期には民間人にも多くの犠牲者がでたが、なかでも最も痛ましい事件として記憶されなければならないのが、学童疎開船「対馬丸」の遭難事件である。
 昭和十九年(一九四四)年八月、対馬丸は沖縄県内の国民学校児童らを乗せて長崎に向かう途中、米潜水艦の魚雷を受けて沈没。学童約七百八十人を含む千五百人近くが死亡した。

そして、

平成九(九七)年十二月十二日、実に五十二年ぶりに鹿児島県トカラ列島悪石
(あくせき)島近海で、ついにその沈没船が確認されたのである。遺族らは直ちに引き揚げを求めたが、沈んでいるのが海底八百七十メートルと深海であり、引き揚げは困難として断念された。
 天皇皇后両陛下はお二人とも疎開の経験もあり、かつ犠牲になった児童らとほぼ同じ年齢であることから、皇太子時代から、対馬丸については大きな関心を寄せてこられた。対馬丸の撃沈された日には、毎年二人で黙禱(もくとう)をされてきたという。

また、

 天皇陛下は後年平成二十六(二〇一四)年六月、対馬丸沈没七十周年に当たり、那覇市を訪れ、慰霊碑「小桜の塔」に供花するとともに、対馬丸記念館を訪れ、遺族や生存者との懇談の機会を持たれた。

さらに、

 両陛下が記念館を訪問された平成二十六年は、(中略)「特定秘密保護法」が成立し、さらに「集団的自衛権の行使容認」が閣議決定される直前だった。集団的自衛権の論議では他国の船で避難する国民を助けるためという例が繰り返し挙げられたが、最も必要なときにそれがなされなかったのが対馬丸事件でもあった。
 両陛下の思いが奈辺にあったかは知る由もないが、私は個人的には、このタイミングで対馬丸に対する関心を国民に示された意味は大きかっただろうと考えている。

と述べ、結んでいる。これまでの連載の中では皇后の歌も掲載されている。例えば、
ハンセン病施設(多磨全生園)を慰問したときの、

  めしひつつ住む人多きこの園に風運びこよ木の香(か)花の香  平成3年、皇后

永田和宏の文には、皇太子時代の昭和43(68)年に鹿児島県奄美和光園をはじめとして、平成26年、東北新生園(宮城県)を訪問するまでじつに46年間慰問の旅をされたとある。ともあれ、連載中に掲載された幾首かを挙げておきたい。

 壊れたる建物の散る島の浜物焼く煙立ちて悲しき     平成5年、天皇 
 激しかりし戦場(いくさば)の跡眺むれば平らけき海その果てに見ゆ 平成5年
 なゐをのがれ戸外に過す人々に雨ふるさまを見るは悲しき 平成7年、
 葉かげなる天蚕(てんさん)はふかくねむりゐて櫟(くぬぎ)のこずゑ風渡りゆく
                            平成4年、皇后
 日本列島田ごとの早苗そよぐらむ今日わが君も御田(みた)にいでます 平成8年



          撮影・葛城綾呂 フジ↑