2018年6月14日木曜日

金子兜太「おおかみに蛍が一つ付いていた」(「江古田文学」第37巻第3号より)・・・



 「江古田文学」97(第37巻第3号・日本大学芸術学部江古田文学会)の特集は「動物と文学」。中に浅沼璞が「俳諧における”生きもの感覚”ー戌年にちなんで」を書いている。評文中、金子兜太が『荒凡夫 一茶』(白水社)で、「生きもの感覚」の秀吟として挙げているという小林一茶の発句「犬どもが螢まぶれに寝たりけり」(『七蕃日記』1814年)について、次のように述べている。

 つらつら思えば、「一本の木、一本の虫」という〈一つ〉の精霊の集まりが全宇宙をなし。いわば”生きもの感覚”の〈一つ〉の集合としてこの句は読める。
 ところで現代の季語的観点からすると、狼なら冬で犬は無季「雜(ぞう)」、蛍は夏であるが、そんな分類を”生きもの感覚”はのみこんでしまう。兜太氏のように俳諧の時代をさぐれば、動物学でいうニホンオオカミは「山犬」とも呼ばれ、雜の扱いであった[註]。雜だからこそ逆に四季の分類を超えて”生きもの感覚”を表現しえたともいえなくはない。

その[註]には、以下のように記されている。

 西鶴『日本永代蔵』(一六八八年)巻二ノ三「才覚を笠に着る大黒」に黒犬の丸焼きを〈狼の黒焼〉として売り歩くエピソードがある。これは「薬食いを騙った詐称だ」とする説が一般的なのだが、本文には〈疳の妙薬になる犬なり〉の一節も見え、狼と野犬とをさほど区別していないようにも読める。未分化な”生きもの感覚”を未分化なまま享受する難しさがここにもありはしないか。

と、さらに、浅沼璞は、幾つかの犬の句に評を加えながら、結びを、

 くしくも戌年にイヌ科の句を追うこととなった。果たして〈犬〉という雜の詞は、雜ゆえに四季の分類を超え、視覚的・聴覚的に”生きもの感覚”を具現してきたようである。以上をもって兜太的”生きもの感覚”の〈一つ〉の考察としたい。

と括っている。浅沼璞は本稿脱稿直後に、金子兜太の訃報に接したと漏らし、追悼している。
ともあれ、戌年にちなむ挙げられた文中の犬の句を以下に書き写しておきたい。

   山犬のがばと起きゆくすゝき哉   召波(『春泥句集』1777年)
   むくと起きて雉追ふ犬や宝でら   蕪村(『蕪村句集』1784年)
   人うとし雉をとがむる犬の声    其角(『いつを昔』1690年)
   草まくら犬もしぐるゝか夜の声   芭蕉(『野ざらし紀行』1684年)

他には、旧知の中村文昭の詩「猫譚(きふじん)」に出会えたのが僥倖、もう随分とお会いしていないが、健在ぶりが嬉しかった。

 中村文昭(なかむら・ふみあき)1944年、旭川市生まれ。
 浅沼璞(あさぬま・はく)1957年生まれ。 



          撮影・葛城綾呂 十薬↑

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