2020年5月31日日曜日

池田澄子「生き了るときに春ならばこの口紅」(『此処』)・・・




 池田澄子第7句集『此処』(朔出版)、集名に因むような句がいくつかある。例えば、

   此の世の此処の此の部屋の冬灯       澄子
   こころ此処に在りて涼しや此処は何処
   秋蝶のゆきどころないように其処
   また此処で思い出したりして薄氷
   柚子の皮刻み此の世よ有り難う

 「後記」の中に、

 八歳の夏、かの戦争で父を奪われ、人は死ぬ、死は絶対であると知って以来、此の世の景の儚さを忘れることができない体質になったようだ。偶々人に生まれ多くの人に出会い、その先にある別れの怖ろしさに、一瞬の現象をも含め様々の出会いを深く意識し、別れを怖れる自分をも眺めながら生きてきたようだ。二〇〇一年に師が逝き同じ年に育ての父が、そして母、そして夫が逝った。逆縁は許さぬと夫々に申し付けてあるので、あとは自分の死だけである。
 自分の死は怖くない。

とあり、

 (前略)そしてある日、思い付いてしまった。句集を纏めることで自分を区切り、僅かの未来を、死別に怯えずに一度生きてみたいと。

 とあった。 池田澄子も思えば遠く来たものだ。中原中也は、続けて、「十二の冬のあの夕べ」と詠ったが、池田澄子は、さしずめ「八歳の夏の夕べ」だったのだ。とはいえ、愚生はまだ未練たらたら、此の世に執着して、「生きてゆくのであらうけれど/遠く経てきた日や夜の/あんまりこんなにこひしゆては/なんだか自信が持てないよ」である。
ともあれ、集中より、愚生好みの句をいくつか、以下に挙げておきたい。

   空気より大地儚し鳥の恋
   三月十一日米は研いで来た
   大雑把に言えば猛暑や敗戦日
   天高く柱燃えたり流れたり
   ゆく河も海もよごれて天の川
   敏雄忌の鈴に玉あり鳴らしけり
   踊り場で家人と会いぬ遠花火
   生まれ順死に順返り花真っ赤
   三月寒し行ったことなくもう無い町
   冷蔵で供花着くメッセージも冷えて
   行きたくない処へ行く日茄子の花
   さくらんぼ彼の世も時の流るるか
   海底は渚に尽きて天の川
   この家も遺影は微笑ささめ雪
   
 池田澄子(いけだ・すみこ) 1936年、鎌倉市に生まれ、新潟で育つ。






    撮影・鈴木純一「あとはもう蛍袋も待つばかり」↑

2020年5月30日土曜日

さとう野火「日の丸も仏壇もなしおらが春」(『五年日記』)・・・




 さとう野火句集『五年日記』(東京四季出版・平成19年8月刊)、表紙カバーに刷り込まれている言葉は、

 定年後の二度の入院で死生観を考えるようになり/かつて取材した文人墨客の老境とこぼれ話をまとめ「辞世のうた」と題して執筆中である/学生時代に「現代俳句はこれでよいのか」と自問自答して苦しんだが/その思いは今も変わらない。

 愚生が、さとう野火に出会うのは、愚生が18歳の時、昭和43(1968)年である。上洛して、立命館大学二部文学部に入ると同時に、「立命俳句」(立命館大学俳句会)に入部したことによる。巻末のさとう野火の略歴には、「昭和35年、山口草堂主宰『南風』入会/昭和37年立命館大学俳句会発起(47年廃部)/昭和45年「『獣園』発起(52年廃刊)」とある。いま思うと、さとう野火とは8歳ほどしか離れていない兄貴分なのだが、当時は随分と離れた小父さん風であった。俳句についていつも熱心に語りつづけ、倦むことを知らなかった。正月にも帰省しない愚生に、毎日、家に来いと言われ、年末年始には、食事だけではなく、風呂にも入れてもらったりした。両親とも同居されていて、愚生らは、いつも玄関からすぐに二階に上がっていた。路地の向いは歴史学者・会田雄次の、これは門構えの立派な家だった。その当時の奥さんが城貴代美だった。愚生は、「立命俳句」7号を出してすぐ、学校には行かず上京した。 
 その「立命俳句」7号(1970年3月刊)は終刊のつもりで黒表紙にしたが、それを見た久保純夫(当時・純を)が、高校生の頃からの仲間たちと野火宅通いを始め、「立命俳句」を引き継ぎ、後の、戦無派作句集団「獣園」を創刊した。



久保純夫発行・編集・土井英一時代の「獣園」、表紙絵は大谷清(今、気づいた)↑


 さとう野火は2012(平成24)年7月26日、享年72、現在の愚生と同齢で亡くなった。本書の「あとがき」に、長くなるが引用する。

 (前略)洛東、安養寺の村上四明師に俳句を勧められたのは夏休みに入ったときで、素直に有季定型に入れず悩んだ。当時、前衛運動が盛んで、俳壇も例外ではなかった。戦時中の言論弾圧、戦後の短歌俳句に対する第二芸術論の余波があった。やがて山口草堂の指導を受けてモノの見方、リアリズム、リゴリズムを学ぶが抵抗ばかりした。何か人間臭いものでないと現代文学ではない気がしたからである。

  扇風機ビジネスマンとして笑ふ      野火

 昭和三十七年秋立命館大学に俳句同好会を発足させた。大学事務局に行くと顧問の教授がいるとか。そこで紹介されたのが国崎望久太郎教授(歌誌ポトナム主宰)だった。一年後に会員が二十名を超えると国崎教授は「松井利彦君が『近代俳論史』を出版したので本学の講師に申請しよう」と言う。結果筆者が卒業した年から実現した。立命館俳句は十年ほど続けたが「七〇年闘争」で学内の拠点を失い廃部した。
 一方、昭和四十五年、卒業と同時に、十代、二十代の仲間を集め「獣園」を発足させた。 

 その後、赤尾兜子に誘われて「渦」に在籍するが投句せず、兜子の急逝後休詠。本句集を編む6年前に梶山千鶴子主宰「きりん」に入会したという。千鶴子主宰には「収録句が硬いとご指摘されている。ひょっとすると草堂の影響かも知れない。次の五年日記は呼吸のような句に挑戦してみたい」とあった。
 愚生と知り合った頃は、すでに、大阪の洋装産業?という会社員で、東京出張の折は、当時の新宿南口にあった旅館を定宿にしていて、愚生は、必ず訪ねて行った。その宿もいまは新宿駅南口の再開発で無くなっている。まもなくして、さとう野火(佐藤浩〈ゆたか〉)は京都新聞社に転職し、定年までつとめた。いつの事だったか忘れてしまたったが、さとう野火は言うともなく、愚生に呟いた。「卒業して就職すると、みんな俳句を辞めてしまう。俺はそれが淋しい・・」、愚生は、ちょうどその頃、結果的に3年間ほど、意識的に俳句を書かない時期があった。再度、書き出すためには何が大切だったのか。簡単にいうと方法的にも行き詰まっていた。書きたくなるまで待とうと思ったのだ(もっとも、すべては忘却の淵に沈んではいるが)。たぶんその時は、「野火に、淋しい思いはさせたくない」と思ったにちがいない。髙柳重信は、最初は偶然に俳句に出会うが、二度目に俳句を選ぶ時が本当に俳句に出会うときだ、と言っていた。
 ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておきたい(実にオーソドックスな句風になっていた・・・)。

   大乗の空研ぐ風や初比叡        野火
   地に磁気の春眠深き北枕
   落款を押す極上のおぼろ月
   花筏巌にすがりし悲の記憶
   クローバー死者の形して少女寝る
   万緑のパレットに白絞る
   泡(あぶく)ごと海女浮く命綱十尋
   炎天下われに用なきビルばかり
   死にちかき金魚は己が泡追ひ
   通草の実とれそでとれぬ宙の笑み
   浄土とは薄墨色か蓮枯るる
   茜雲芭蕉が枯野どのあたり
   霜踏めば人口骨の響きあり
   成すことのまだあり五年日記買ふ

 さとう野火(さとう・のび) 昭和15年8月15日~平成24年7月26日。享年72.大分県竹田市生まれ。


撮影・芽夢野うのき「ポストへ落とすこころ桃色月見草」↑

2020年5月29日金曜日

広瀬ちえみ「あの鳥がほしいと言えば撃つかしら」(『雨曜日』)・・

 


 広瀬ちえみ第3句集『雨曜日』(文學の森)、集名に因む句は、

  うっかりと生まれてしまう雨曜日   ちえみ
  雨曜日だったね全部おぼえている

  である。帯の惹句と表4帯の15句の抄出は中西ひろ美。それには、

  かつて誰もが覗かずにいられない広瀬ちえみの沼があった。
  長い時をかけて木立が繁り、今は沼は見えない。
  ちえみを探したければ、旅をしてそこに行けばいい。

 とある。著者「あとがき」には、

 『セレクシション柳人 広瀬ちえみ集』(二〇〇五年/邑書林』)を出してからもう十五年も経ちました。相も変わらずいい年をして、夢を見ながらふわふわと生きてきたように思います。
 かつて「広瀬ひえみ」を評することばをたくさんいただきました。「ニヒリスト」「ナルシスト」「迷路の少女」「沼のちえみ」「穴のちえみ」等々。自分でもわからない「私」を、さまざまな方向から照らししてくださったことばを思い返しながら、句を書いてきました。(中略)
 さて、今でも沼はあるだろうか、穴、ニヒリスト、ナルシスト、少女は?どこにも行かずにいてくれたでしょうか。それとも・・・・。
 この句集を読んで下さる方々のことばを、楽しみに待ちたいと思っています。

 としるされている。ともあれ、愚生好みになるが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

  長老が「春!」というのを待っている
  そのみちもどのみちも雪になりますの
  かき混ぜるだけで戦争できあがる
  死んでからゆっくりやろうと思うこと
  地図ひろげたましいはこのあたり
  咲くときはすこしチクッとしますから
  墜曜日だからお外に出たらだめ
  うつつとはいきなりけがをするところ
  六人の三人転ぶ今日の予報
  とりあえず輪ゴムでおとなしくさせる
    三月のだった 二句
  窓だった玄関だったという瓦礫
  春眠をむさぼるはずのカバだった
  口裏の裏の寸法まちがえる
  正装の下に包帯巻いている
  春の野の自分はお持ち帰りください
  午後からは豹が降るかもしれません
  もっと深い藍になるまで雨を聴け
  情けない顔にみがきがかかる犬
  蝶殺め詩人は蝶の詩を書いた  
 
 広瀬ちえみ(ひろせ・ちえみ) 1950年生まれ。



       撮影・鈴木純一「アジサイの間違い探しあと二つ」↑

2020年5月28日木曜日

ねじめ正一「稽古場にあん馬持ち込む麿赤児」(「猫町」NO.1/5月号)・・




 「猫町」NO.1/5月号(発行人:三宅やよい)、NO.1だから創刊号には違いないが、それらしい言葉も何もない。唯一、表紙裏に萩原朔太郎『猫町』よりの「私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、/いつも熱心に考え続けた。(以下略)」の数行が献辞されている。10名ほどの同人での出発であろうか。坪内稔典の巻尾の5句は特別扱いだろう。 基本は各人の句とエッセイで、各人に見開き2ページを自由に使えという構成である。とはいえ、中に、創刊号らしい言葉を近江文代は、

  猫町(necomachi)ついに創刊!それにしても、何というスタートだ。書きたくはないが書いておこう。(中略)
 これが遺作にならぬよう、しっかりと生き抜いていこう。

 と書きつけている。ともあれ、以下に、愚生好みになるが、一人一句を挙げておこう。

   春愁の猫町からのお引越し       赤石 忍
   春うらら濃厚接触まで三歩       今泉秀隆
   朧月もう口開けて泣きましょう     近江文代
   分断の壁の隙間のホッカイロ       沈 脱
   長嶋茂雄春夏秋冬桜咲く       ねじめ正一
   永き日の水につかっている昆布     藤田 俊
   げんげ田を鴉の声で走り出す     三宅やよい
   一番に教室を出て卒業す        諸星千綾
   空に頭ぶっつけたい日のブランコよ   山崎 垂
   永田町二丁目三丁目ちんちろりん  芳野ヒロユキ
   行く春の黒猫の目にゆきあたる     坪内稔典



     撮影・芽夢野うのき「はつなつの花白くつむ幻舟よ」↑

2020年5月27日水曜日

今瀬剛一「ほんたうは寒くて罷りたる憶良」(『芭蕉体験 去来抄をよむ』より)・・




 今瀬剛一『芭蕉体験 去来抄をよむ』(角川書店)、本書は、今瀬剛一主宰誌「対岸」に、平成9年から平成12年1月号まで60回の連載されたものをまとめたもの。構成に苦心のあとがうかがえる。タイトルの次に、句(原文)が示され、〈作品・語句の解説〉〈この章の問題点〉、最後に〈現代俳句との関連〉が記され、ここには、具体的に、今瀬剛一が同時代を共有したであろう俳人の句が挙げられている。説明もよく行き届いている。例えば、

句ははるかにおとり侍る

(原文)
  いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆   去来

  去来曰、「猿みのは新風の始、時雨は此集の美目なるに、此句仕そこなひ侍る。たゞ、有明や片帆にうけて一時雨とはいはゞ、いそがしやも真帆も、その内にこもりて、句のはしりよく、心のねばりすくなからん」。先師曰、「沖の時雨といふも、叉一ふしにてよし。されど、句ははるかにおとり侍る」ㇳ也。

 〈作品・語句の解説〉
・いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆・・・去来作。季語は「しぐれ」、「冬」。切れは上五、切れ字「や」。「猿蓑」所収の作品。(中略)

 〈この章の問題点〉
 いそがしや沖のしぐれの真帆かた帆
 有明や片帆にうけて一時雨

 改めて初案と再案を比較してみよう。先ず「いそがしや」を「有明や」に直すことによって、作品の情景が明確になり、時間性も加わった。
 初案の「いそがしや」という表現はどちらかというと傍観的である。しかも面白がっているところがある。去来はそのことに気がついて「有明や」に直したのだと思う。(中略)
さらに言えば「いそがしや」などという知的な表現は対象と正面から取り組んでいないという点において弱い。したがって作品が落ち着かない。作品自体を一種の説明にすぎないものとしてしまっている。そうした弱さに思い当たったのではないかと私は考える。(中略)

〈現代俳句との関連〉
 先人たちの遺してくれた作品もまたすっきりとした作品、そしてその外から湧き出てくる情感豊かな作品ばかりである。

  ピストルがプールの硬き面にひびき   山口誓子
  風花のかかかりてあをき目刺買ふ    石原舟月
  代馬の泥の鞭あと一二本        高野素十

例えばこれらの作品はどうであろう。一読内容が明快に伝わってくるのである。(中略)
これらの秀作に共通することは、表現を最小限度に抑えているということである。(中略)読者はその背景から湧き出る語らなかった内容を感じ取り、作者の感動を追体験するのである。去来の言う「句ははしりよく」という内容は、おそらくそうしたすっきりした表現を言ったものと思う。その反対が「心のねばり」ということであって、古今の作品を見てもそうした傾向の作品は全て残っていない。

 と記されている。こうした、はっきりした物言いには、「はじめに」においても、著者自身の言葉として、俳句への現状認識と方途を述べていることにも表れている。以下に抄出する。

 (前略)これは私も含めての話であるが、現代俳句はあまりにも痩せすぎていはしまいか。自分の本当の内部から出た言葉ではない言葉の遊び、没感動的な作品が横溢してはいないか。その原因はいろいろあろうが、私はその一つに芭蕉を忘れているということがあるのではないかと思っているのである。いまさら芭蕉でもあるまいという人がいるかもしれないが、いまだからこそ芭蕉が大切であるというのが私の考えなのである。

 ともあれ、本書に挙げられた〈現代俳句との関連〉に引用された句のいくつかを以下に孫引きしておこう。

   竹馬やいろはにほへとちりぢりに   久保田万太郎
   ひらく書の第一課さくら濃かりけり   能村登四郎
   咳をしても一人             尾崎放哉
   少年の見遣るは少女鳥雲に       中村草田男
   たましひのたとへば秋のほたるかな    飯田蛇笏
   水洟や鼻の先だけ暮れ残る       芥川龍之介
   有る程の菊投げ入れよ棺の中       夏目漱石
   病む六人一寒燈を消すとき来       石田波郷 
   足袋つぐやノラともならず教師妻     杉田久女
   尿の出て身の存続す麦の秋        永田耕衣
   きさらぎの尿瓶つめたく病みにけり    日野草城

 今瀬剛一(いませ・ごういち) 昭和11年、茨城県生まれ。



撮影・鈴木純一「アヤメにも明るい面と暗い面」↑

2020年5月26日火曜日

益岡茱萸「先生も加わつてゐし毒流し」(「詩あきんど」第39号「第5回俳句俳文大賞」より)・・




 「詩あきんど」第39号(オフィスふとまにあ)は、2020宝井其角顕彰「晋翁忌」/第5回俳句俳文大賞(主催・NPO法人俳句&連句と其角)発表である。告知には4月4日(土)、上行寺に於て、開催される予定だった記念の句会は来たる9月30日に(水)に延期して開催されるという。選者は、星野高士、松下カロ、宮崎斗士、二上貴夫など。大賞は益岡茱萸(ますおかぐみ)、20句詠「パレード」、準賞は、十一(つなしはじめ)の俳文「蓮根」。ここでは俳文は掲載の余裕はないので、大賞・三席の一人一句を以下に挙げておこう。

   春光やガラスの内の硝子壜   益岡茱萸(大賞)
   冬あおく釣竿すっと輝いて  有瀬こうこ(三席)
   細雪しづかに風に身を揺らす  木幡忠文( 〃)
   日矢射してヤコブの梯子冬の海 木村 萄(〃 ) 

   
 二上貴夫の講評には、「第5回俳句俳文大賞は、二十句詠に41編、俳文に9編、合計50編の応募があり」とあって、「晋翁忌について」には、

 本賞のきっかけは、平成十八(二〇〇八)年四月一日、伊勢原市「上行寺」にて、宝井其角三〇〇回忌を修したことが縁で、その後、毎年「晋翁忌」の名称で俳句会や連句の座が上行寺にて催され、二〇一五年より現在の全国募吟の形になりました。

 と記されている。 ともあれ、「詩あきんど集1」より、一人一句を以下に挙げておこう。

   恙なく無観客試合春四番      二上貴夫
   年賀状「尚尚書」はなかりけり   中澤柚果
   風孕む水なき空の紙鳶       中尾美琳
   だるまさんころんだのかと桜守   立石采佳
   失われし白藤きつとハズリット   木村 萄
   これはまた古稀喜寿米寿初句会  佐野典比古
   チューリップ列へピエロの反戦旗  矢崎硯水
   春の雨ごとにポイント付いてくる  竹村半掃
   


芽夢野うのき「ヤシの木の花天帝にまた頼み事」↑

2020年5月25日月曜日

北杜青「星を見るための階段フクシマ忌」(『恭』)・・・




 北杜青第一句集『恭(かたじけな)』(邑書林)、序は中西夕紀、跋は加藤静夫。序文から帯の惹句が選ばれている。それには、

 現在の青さんの句には硬軟両極がある。吟行句で見せる硬質な句と、文学的な軟質な句である。
 この軟質な句の出現は、これから青さんが、もっと幅を広げていくのを暗示している。
 これからが楽しみな第一句集が出た。

 とあり、跋の加藤静夫は、

 (前略)湘子は「頭で作るな、目で作れ」と言っていたが、その教えを愚直なまでに守り通しているのが実はセイさんだったのかもしれない。小賢しい頭作りの句など見向きもせず、ひたすら目の前に見えるモノに執着し、その本質に迫ろうという一途な姿勢。「鷹」の「北村正」は「都市」の「「北杜青」にみごとに変身したと言っても褒め過ぎにはならないのではないだろうか。

   白魚の海の暗さを飯にのせ
   初夏の白飯よごしながら食ふ

 とは言っても、「敗北」のイメージが完全に払拭されたというわけでもなさそうである。白魚の暗さ、白飯のよごれなどには、順風満帆、日の当たる道を歩いてきた人はあまり関心を示さないようだが、その点セイさんは暗く沈んんだ影(陰)の部分に惹かれる傾向が強いように思えてならない。(以下略) 
 
 ここで「敗北」のイメージと言っているのは、北杜青の「鷹」時代の句「敗北の眼なり枯野の競走馬」をさしている。さらに、

 俳壇の表舞台で、人目を惹くような句を作っている人だけが俳句に貢献しているというわけではない。浮かれず、目立たず、しかし堅実に俳句を追求しているような人が本当の意味で俳句を支えているのではないだろうか。

 とも述べている。ともあれ、本集より愚生好みになるがいくつかの句を挙げておきたい。

  棒術の無音の気合鳥雲に        青
  西行忌裸の影が服を着る
  余花に逢ふふいに遠くに来たやうに

  春闌けて紫しるき虛貝
  螢火忌雀の羽は日を濁し
  薫風やひとかがみをる野の深さ
  腰に魚籠流して替へる囮鮎
  火を御する僧の火箸や光琳忌
  切株の内より朽ちて穴惑
  錆鮎の背頭に鰭立てにけり
  手をつなぐ子の浮きさうな冬日向
  北二十条西五丁目の雪達磨
  葱畑や曇天の日の在り処

 因みに、「螢火忌」は飯島晴子忌。

 北杜青(きたもり・せい) 昭和38年生まれ。



撮影・鈴木純一「エゴの花思わず知らずここに在り」↑

2020年5月24日日曜日

髙岡粗濫「春愁が寝床の猫のかたちして」(第5回垂人杯争奪「メール&FAX題詠大会」)・・




 「第5回垂人杯争奪『メール&FAX題詠大会』結果のご報告」が届いた。題は➀「伝」、②「どこ」、③「ふじ」(③は漢字、ひらがな、カタカナ、表記は自由)。選は互選による松竹梅各1句と並み選3句の計6句選であった。

 松賞・・・・・春愁が寝床に猫のかたちして    髙岡粗濫
   次点句・・空耳や伝導率を問う河童      瀬間文乃
     ・・伝えたき言葉を胸に青き踏む    河村研治
   (△3句、決戦投票のため)

 竹賞・・・・・龍の字のどこに逆鱗黄砂降る    野口 裕

 梅賞・・・・・富士山を見ながら乾く下着かな  広瀬ちえみ

   特別賞1・・・藤垂れてぼくのいどころがないんだ 中内火星
   特別賞2・・・春愁の婦人科赤いべこがゆれ    佛渕雀羅
   
◎「各賞受賞の方々にはやがて副賞が届くと思いますのでお待ちください。次点句には副賞はありません」としたためられていた。ほかに「ご参加各位の選句結果およびコメント(掲載はほぼ到着順)」とあって、これが、皆さん、けっこう長いコメントを寄せられていて(愚生のごとき寸評ではない)、全部でA4紙に8ページにも及び、ほかに投票前の作者不明のときに執筆された?というこれも,各句すべての鑑賞(もちろん、自句も含めて)を鈴木純一が、これまたA4紙に、たっぷり12ページに及ぶ渾身の評(もはや寸評とは言うまい)「第5回垂人杯争奪『メール&FAX題詠大会』寸評」が送られてきているので、これらを読むだけでも、食事を忘れなければ、読了しない大部のものになっている。
 ともあれ、愚生の選んだ松竹梅と並み選3句は以下である。

  松・・・どこへでも行って死ねよと山笑う   新井秋沙
  竹・・・龍の字のどこに逆鱗黄砂降る     野口 裕
  梅・・・ほほえんで言葉は離陸していった  広瀬ちえみ    
  並・・・転舵して五月の富士を真正面     髙岡粗濫
  〃   半夏雨フジコ・ヘミングの襟飾り   坂間恒子
  〃   田鼠遺伝子組換へて鶉となる     鈴木純一

 愚生の全ボツの句は以下である。悔しまぎれに恥ずかしくも掲載しておきたい。

  「伝」・・伝・写楽春惜しみける眉目かな    大井恒行
       駅伝のさびしき駅が春の雲      〃
 「どこ」・・すかんぽや不死身の我とどこが違う   〃
 「ふじ」・・鷗など知らぬに祀る裏富士を      〃
       
 せっかくだから、題詠「ふじ」の本句のみ鈴木純一寸評を以下にあげておこう。

 カモメは見かけなかった。  
 山梨の人は「裏富士」とは言わないそうだ。日本一の富士の山、裏も表もあろうはずはない。ないが、少し悔しそうだった。負け惜しみに聞こえなくもなかった。ま、いいけど。
 経験からすると、裏富士の方がはるかに神秘的だと思う。特に真冬の、山梨側から見た富士は神々しい。

 負け惜しみついでに、明かしておくと、この句は、三橋敏雄「裏富士は鷗を知らず魂まつり」に想を得ている。もちろんトシオ・ミツハシ句には及ぶべくもないが、下手な挨拶句・・だったなぁ・・。



撮影・芽夢野うのき「黒業のなきこともなき花石榴」↑

2020年5月23日土曜日

福田葉子「黄昏に黒薔薇咲いて誰の忌ぞ」(「俳句新空間」NO.12より)・・




 「俳句新空間」NO.12(2020 初夏、発売・実業公報社)、筑紫磐井の「編集後記」には、

 ■紙面では、改元に伴い、俳句帖のスケジュールが大幅に乱れた。前号では、平成中の(最後の)俳句帖、本号は令和最初の俳句帖となるようにしたため、年一回の刊行となってしまった。■一方、BLOGの方では、俳句新空間参加の有志によるネット句会(皐月句会)や、俳句評論講座などの新しい試みを立ち上げた。俳人の活動が制約されているところから、従来とは違う活動の仕方を考える必要がある。どこの結社も、協会も、雑誌も従来のような、句会、イベントは出来なくなった。

 とある。ともあれ、本号の「令和四季帖」(新作20句)には、多くの方々が参加されている。以下に一人一句を挙げておきたい。

   春の句もだれかに影を落としゆく     青木百舌鳥
   自動捲の止まってしまう春眠忌       網野月を
          (×月×日 月をの忌日)
   行間に魑魅(すだま)隠れる秋灯下     井口時男
   貌よ鳥マトリョーシカの吐く嬰児      加藤知子
   COVID19に付け込まれ花の冷え         神谷 波
   生きてゐる男女の拾ふ桜貝         岸本尚毅
   朧の夜生きているものゐないのか      北川美美
   熊ん蜂父だと言って入ってくる       坂間恒子
   全人類の舌かなかなの翅と化す       竹岡一郎
   「まあだだよ」声おとし去る夕ひばり    田中葉月
           乳くさき閨の甘さよ寒北斗         辻村麻乃
   死ぬ死ぬと言ふな新茶を送るから     津高里永子
   花辛夷ここまで来れば海見えて       仲 寒蟬
   ゆく雁や握るものみな砂のごと       長嶺千晶
   ポケットに妻の骨あり春の虹        中村猛虎
   取り皿の深さまちまち蛇を呼ぶ       中山奈々
   コロナビール手に大声の7回裏       夏木 久
   少しずつ夜を閉じ込めて大氷柱      なつはづき
   又の世へ薔薇は見頃と打電せる       福田葉子
   野に焼いて草に南限木に北限       ふけとしこ
   静かなときの蝶こはい貌          渕上信子
   メーデーや戦後のはてに「マスク欲し」   堀本 吟
   冬ざれの高崎市民ゴルフ場        前北かおる
   仲さんが姫ちやんを飼ふ佐久の雪      松下カロ
   風花や新宿騒乱いまむかし        真矢ひろみ
   花水木いつか天へとさそひあひ      もてきまり
   野遊びの離ればなれに影動く        渡邉美保
   春光おかさにきてこの午下がり       佐藤りえ
   幸せになりさうなほど雪いつぱい      筑紫磐井

  

撮影・鈴木純一「リアルなるものの角張る五月かな」↑ 

2020年5月22日金曜日

大久保橙青「長き藻をなびかせてゐて水澄めり」(『大久保橙青全句集』より)・・



 大久保白村編『大久保橙青全句集』東京四季出版、帯の背に「句集八冊完全収録」とある。またその惹句には、

 初代海上保安庁をはじめ、日本政府の要職を歴任した大久保武雄、俳号「大久保橙青」。その俳句は定型に徹しつつも、自由闊達で独特の魅力に満ちている。政治家として、戦前戦後の激動を生き抜いた足跡を辿る全句集。

 とある。面白いのは、第一句集『火山』(昭和28年刊』の高浜虚子の序文を、第二句集『霧笛』(昭和38年刊)、第三句集『探梅』(昭和55年)、第四句集『野火』(昭和57年刊)まで、繰り返し同じ序文を掲げていることである。さすがに、第五句集『探梅以後』(平成3年刊)では、稲畑汀子になっている。その稲畑汀子は、遺句集となった第七句集『老いの杖』(平成9年刊)には、序に代える弔辞をしたためている。それには、

 (前略)まこと橙青様は、まなざし高き人であり、姿勢の正しき人であられました。橙青様の御生涯が、人間の到り得る可能性という意味で私共に大きな希望を与えて下さったと思うのでございます。(中略)

   ふるさとの阿蘇の小春に杖曳かれ   汀子

 とあった。第一・第二句集と、橙青が「民衆の芸術である俳句の本は、民衆のポケットに入るべきだ」と言い、いずれもポケット版だったという。他の序文には、富安風生、中村汀女、星野立子、志摩芳次郎など、錚錚たる面々である。また、俳誌「若葉」に掲載された晩年の句を、「若葉」一千号記念のために大久保白村が編んだ第八句集『正義仁愛』(平成25年)の序文・毎日新聞社政治部 山田孝男「霧深く、嵐強くとも」のなかに、

 (前略)この人は熊本の生まれ。逓信省の役人にして高浜虚子門下の俳人だ。
武装解除された日本は、同胞の船が中国、朝鮮、ソ連に拿捕されても手出しができない。大久保は米軍の専門家に学んでアメリカ沿岸警備隊を研究。海上保安庁を設計し、四十八年、初代長官に任命された。(中略) 
 長官在任中の五十年、朝鮮戦争が勃発。大久保は米軍の要請に基づき、吉田茂首相(当時)と協議の上、極秘に元山(ウオンサン・いまの北朝鮮東岸の港)沖へ掃海艇部隊を派遣、二十五隻中二隻沈没、死傷者十九(死者一)という犠牲を払って任務を果たした。
 この作戦は国連軍の上陸を助けた。(中略)憲法違反のの海外派兵だから、すべて秘密。吉田は占領軍や国内にくすぶる再軍備論をハネのけたが、裏では大久保と連携、反共・親米の筋を通した。側近の白洲次郎にさえ死ぬまで明かさなかった。

 という。これを読むと、戦後日本の、戦争による死者が出ていないという、一見もっともらしい言説は誤りだと理解できる。戦後すぐに、まったく秘密にされ、秘匿され、名誉にならぬ戦死を遂げた人が存在したのだ。ともあれ、全句集よりアトランダムにいくつかの句を挙げておきたい。


   黄金と呼ぶ礁(いくり)あり春の海      橙青
   押し花の竜胆色を失はず
   火の国の水美しや芭蕉林
   南風やするする揚る長官旗
   鷹舞うて阿蘇を遮るものもなく
   母恋し秋海棠に立てばなほ
   菊挿せば母のおもかげ菊の上に
   国会をぬけて涼しき句会かな
   わが道をひたすらに行く春の虹
   花吹雪やみ一片の落花舞ふ
   枯草を飛び移りゆく小蜘蛛かな
   雨強き室戸の春を惜しみけり
   天草の遅日の島の散らばれり
   後の月仰ぎ生涯一学徒
   笈負ひて出しふるさとや鳥雲に
   九十を一つ越えたる春を待つ
   
 大久保橙青(おおくぼ・とうせい) 明治36年11月24日~平成8年10月4日、熊本市生まれ。


撮影・芽夢野うのき「夜通しを蒼ざめ紫陽花の孤独」↑

2020年5月21日木曜日

小林秀雄「おっかさんは、今蛍になっている」(『俳句論史のエッセンス』より)・・




 坂口昌弘『俳句論史のエッセンス』(本阿弥書店)、「本書は、月刊俳句総合誌『俳壇』に、平成二十九年一月から三十回連載したものに加筆・訂正したものである」(「あとがき」)。その「あとがき」には,他にも「優れた俳句作品を残した俳人は多いが、ここでは、純粋で普遍性のある俳句論を残した俳人に限った。俳人の人間関係にまつわる俳壇史や、作品の中味を論じた作品史も重要であるが、本質的な俳句論のエッセンスをまとめるだけとした」とあるように、長年に渡って俳句に関わってきた者ならば、どこかで目にしたり、聴いたりした論述が散見されるだろう。それらの要約をエッセンスとして纏め、著者の評価を加えている。が難解な部分もなしとはしない。少し長い「あとがき」が、そのあたりの著者の苦心をよく表わしている。例えば、
 
 俳人の使命はいかに良い作品を詠むかであろう。俳句論と作品は両輪であるが、必ずしも一致しない。(中略)
 秀句・佳句だけを選び、選んだ秀句・佳句がなぜ良いのかを批評する作品論が大切である。(中略)評論においてももっとも大切なことは選句である。評論以前に秀句・佳句だけを選び、その優れている理由を散文化できるかが批評のすべてである。本質的な俳句論が出尽くした現在、今後は俳句に詠まれる中味・テーマを論じる以外にはない。(中略)
 これからは、過去の有名な俳句論の引用・紹介ではなく、作品の例をあげない一般論や概念論ではなく、一句一句の俳句作品が秀句かどうかを具体的に述べる批評が必要である。作品を通じて普遍的な俳句論が提示できれば良い。さらにいえば、評論を批評できる批評家が必要である。

 と、述べる。目次をみると「正岡子規の写生論」から「山口誓子の俳句論」あるいはまた、「新興俳句について」「山本健吉の俳句論」「戦争協力責任論争」「『第二芸術』論」「『軽み』論争」「髙柳重信の多行形式」「俳句とアニミズム」など、約50項目近くにも及び、俳句論の主要な部分は、ほぼ網羅していると思われるが、本書中、愚生のイチオシは「俳句はなぜ有季定型なのか」である。

 (前略)『万葉集』以前には五七五七七の定型以外の歌が多くあったのだから、飛鳥時代の誰かが短歌を五七五七七の定型に決めて統一したのである。(中略)
 短歌は自然と五七五七七になったのではなく、無理やり短歌を五七五七七にしようと統一的な精神の持ち主が決めたことにより、短歌形式が決まったとしか考えられない。短歌形式と天皇制が千三百年間続いていることは世界史のなかでも不思議なことだが、両者は深く関係する。(中略)
 日本語が五音七音に適しているという発想そのものが誤解であり、間違いである。自然な発生であれば、言語には奇数音も偶数音も存在する。(中略)
 定型が定められた後に、歌人が五音七音に合わせてきた。指折り数えて五音七音に合わせてきた千三百年の歴史によって、逆に五音七音が日本人の歌謡に適するように変化したのである。(中略)自由に歌いたいように歌えば、偶数音や偶数句の歌が多く残るのである。古代日本語にはない律が採用されたのだ。(中略)
 五七五七七は、上代に自然に出来た形式ではなかったことは明瞭である。飛鳥時代に誰かがトップダウンで定型化した。

 これ以上の引用は、本ブログでの範囲を超えてしまうので、読者諸賢は、是非、本書に直接、当たられたい。
 ブログタイトルにした小林秀雄の一行「おっかさんは、今は蛍になっている」の横には、

  たましひのたとへば秋の螢かな   蛇笏
  おおかみに蛍が一つ付いていた   兜太

 の句が記され、「一節目は俳句ではなく、小林のベルグソン論『感想』の一節であるが、この言葉を読んだ人は、小林は気が狂ったと批判したそうである。しかし、小林の評論を一言で表している。(中略)飯田蛇笏の秀句に通う。人と蛍には共通の魂があり、蛍の光が亡き人の魂を象徴する。(中略)金子兜太の蛍も、魂の蛍の伝統の中にある。ここには社会性も造型俳句もない。
 森羅万象の魂を無為自然に理解する情緒・心が評論に必要であることを小林は教えた」。(「小林秀雄の俳句観」)

 と評されている。


         撮影・染々亭呆人「相国寺・藤原定家の墓」↑

2020年5月20日水曜日

山本奈良夫「裸木や余白はすべて谷佳紀」(「つぐみ」NO.193より)・・




 「つぐみ」NO.193(編集発行・つはこ江津)の「俳句交流」の山本奈良夫の句に、故・谷佳紀を偲んだ句があった。奈良夫の句「裸木や余白すべては谷佳紀」の「余白」は、谷佳紀の句集名でもあったように記憶している(違っていたら許されよ・・)。その句と同時掲載のミニ・エッセイに、

 昭和55年、新宿駅小田急デパート前を谷佳紀さんと歩いていた。「ねぇ、もし『海程』が主宰誌になったらどうする!?」と私。「辞める」と谷さん、「だよね」と私。昭和60年『海程』が主宰誌となり、谷さんも私も辞めた。昭和57年『海程』20周年記念大会以来会っていない。言葉が裏切ってぶっ飛ぶことを俳句形式に希った谷さん。(もう五年です小春のお墓皆子様/佳紀)、(先生のご遺体梅の強い今日/佳紀)みたいな追悼句が書けなくてごめんね。

 とあった。「海程」が金子兜太主宰誌になったとき、同時に、原満三寿や大石雄介等、当時の「海程」の中心メンバーの幾人かが辞めている。だが、谷佳紀は兜太の晩年に「海程」に復帰している。同誌同号より、山本奈良夫と「豈」同人でもある、わたなべ柊の句を以下に挙げておきたい。

    あいびきの途中で老いる乳房かな  奈良夫
    きらめいて”星降る二月″新開地    柊



★閑話休題・・関根道豊「モナリザの微笑みいづこ夏マスク」(こんちえると」第30号)・・・


「こんちえると」第30号(版元/牛歩書屋主人・関根どうほう)の副題というか、同誌のめざしているところが、「私と時代を視つめ 生きている証しを詠む/詠みと読みの協奏/いのちの一句募集」とあり、師系・大牧広とある。本号の特集は「大牧広・一周忌に偲ぶ」である。主な記事は「大牧広句集『午後』ー特集 今日の俳句叢書」(角川「俳句」平成8年5月号よりの抜粋、引用)からの再掲載。林翔「未だ夕暮ならず」、成田千空・飯島晴子・岡井省仁・中原道夫・矢島渚男らの「『午後』の一句」。中原・矢島以外は、その人自身が懐かしく偲ばれる鬼籍に入られている。全体に何やかやと詰め込んだ感じであるが、ここでは、「こんちえると広場」のこども「俳句コーナー」の一人一句を挙げておこう。

   えんぴつは3Bがすきかしわもち   若林潤(二年生)
   ねこがきたとても楽しい毎日だ   松原明莉(あかり)(四年生) 



         芽夢野うのき「的のなき青空に撃つ草矢かな」↑

2020年5月19日火曜日

大井恒行「『思い』を書くというのは気恥ずかしいかぎりだ」(「牧神」マイナス3号より)・・

 



 「牧神」マイナス3号(牧神社・1973年7月刊)、この冊子も、資源ゴミ回収に合わせての整理中に発見した、先日の「枯野」創刊号(南方社)と同じく、全く忘却していたけれど、パラとめくると愚生のミニ・エッセイが掲載されていた。勤務先に吉祥寺・弘栄堂書店とある。短文なので備忘のために、以下に抄出しておこう。俳句とは無縁、仕事上のことである。題は「ポケットのほこり」。

 (前略)僕の書店の日常の業務というのは、そのような「思いの丈」ほどには、どうあがいてみたところでほど遠いという感じをまぬかれがたい。それは、ひとえに僕自身の仕事に対する愛着の無さから生じた、日々の送り付けによる多量の書籍の山から生じたり、それの有様はさまざまであるが、とにかく、売り上げ予算の設定された所で、売上げを無視して、ぼくのわずかな「思い」を実現するには、やはり蛮勇とやらが、少なからず頭をもたげなければならない(小心者ハ匹夫ノ勇)。
 匹夫の勇も、たまには、その思惑を跳びこえて、今回のように「アリスの絵本」が素晴らしい売れ行きを示すと、僕の「思い」は、またたくまに「売り上げ」に直結して、「売り上げ」という怪物が断罪してやまぬところの罪だけは免れ、ザマーミロ!という具合の日々是好日をかこつのである。
 こうして僕の日常における「思い」というのは、必らずしも鮮明な出現を用意されているのではなく、いつもポケットの端にほこりがたまっている。そうのようなもので、何かの拍子で落ちてしまいそうなたよりないものなのである。
 いずれにしても、人が他の何ものかに関わる場合に、少なからず何らかの「思い」を抱き、その「思いを思う」ことによって、「思いの丈」の高さを遠望しながら、さらにまた「思いの丈」を延ばし、その「思い」が遠ざけられていく分だけエネルギーのしたたかな蓄積を用意する。あるいはまた「思い」を思わなくなる。(中略)
 とにかく、いまは、様々な「思い」のありようは別にしても、「思い」を「思いつづける」人にこそ称賛あれと希っている。。それ以上に「思い」を書くというのは気恥ずかしいかぎりだ。

 当時、思潮社から分かれたかたちで出発した牧神社の初期出版の『アリスの絵本』(高橋康也・種村季弘編)を、愚生が勤務していた書店で多く売ったので、版元から何かの便りを書くことを求められたのだろう。まったく忘却の彼方だ。思えば47年前、愚生25歳の時のこと・・・。
 思い出した余談に・・、牧神社では『鈴木六林男全句集』が出て、その牧神社から静地社が生まれたようなものだが、その静地社からは確か、坪内稔典『俳句の根拠』、夏石番矢『猟常記』『俳句のポエティック』が上梓されたように思う。
 一方、牧神社にいた渡辺誠が北宋社を起こし、そこから、愚生がいた弘栄堂書店闘争の本を出してくれた。それが『本屋戦国記』(北宋社・1984年)である。


 そして、北宋社からは、後に、仁平勝が一ヶ月で書下ろした『江川卓の抵抗と挑戦』(1989年刊)、さらに現代川柳のアンソロジーの嗃矢ともなった『現代川柳の精鋭たち1 28人集』(2000年刊)、『新世紀の現代川柳20人集』(2001年刊)と続いた。


 



  こうして、振り返ると、『本屋戦国記』を上梓して、まもなく、愚生は、会社から、書店現場を離れて、吉祥寺店から小岩店に転勤し、独りでの隔離就労を条件に、組合弱体化を狙った会社側と、愚生の思惑の双方が渡りに舟のかたちで、書肆麒麟(澤好摩)から総合俳句誌「俳句空間」の発行を受けつぐことになったのだった。
 その5年後、もともと「俳句空間」は赤字でいいと、低賃金の愚生一人ぐらいは何とかなるという余裕も、バブルもはじけて、出版業は廃業、今度は、愚生を文具売り場への転出と同時に、ならばと条件を出しての地域合同労組の活動に足を踏み入れた。その傍ら、ワイズ出版による髙柳重信『俳句の海で』(1995年刊)、中西ひろ美句集『咲』、富岡和秀句集『魔術の快楽』などの出版に漕ぎつけたのだった。あれもこれもすべて四半世紀前のことになってしまった。
 愚生はと言えば、奇しくも、弘栄堂書店の会社解散日と定年退職日が同日(12月31日)になった。それでも、企業閉鎖による退職金条件交渉は争議となり、会社解散後も4月ころまでかかって、ようやく東京都労働委員会の斡旋より、社員はともかく、十数年に渡る長期間、事実上の定めのない雇用だった臨時労働者にも退職金を払う(残った組合員のみになったが)ことで合意に達し、和解したのだった。


          

         芽夢野うのき「車輪梅ひとよふたよを駆けめぐる」↑

2020年5月18日月曜日

宇多喜代子「夏燕生存年齢のしるし」(『l暦と暮らす』より)・・




 宇多喜代子著『暦と暮らす』(NHK出版)、副題に「語り継ぎたい季語と智慧」とある。帯の惹句は、

 立春から大寒まで、俳句で語り継ぐ、昭和日本の「季語暮らし」の逸話集。俳優小林聡美さんご推薦!「宇多さんから『昭和』のバトンを繋ごう!」とある。

 昨日、愚生の目の前を燕が舞って行ったので、本書の中から「夏燕(なつつばめ)来ることの」を紹介しておこう。

     夕暮は人に近づく夏つばめ    大井雅人(おおいがじん)

 田植え開始のころ、田の水口に幤(ぬさ)を立て、田上に植える花や酒や煎(い)った籾(もみ)などを置き、田の無事を願いました。機械による農作業が普及するまでの昭和三十年代まででしょうか、このような景が見られたのは。
 祖父の没後、田宰領(たさいりょう)をやっておりました祖母は、その籾を田の神さんにまで運ぶ役目を担うのが燕だと信じていたようです。田神と山神は同じ神で、春に季節の神として遠くから来臨するという類の民俗信仰はひろく日本に分布していたようで、わが家の軒下に来る燕に対して好意的であった祖母の謂(いい)もこれに準じたものだったようでした。(中略)今も私には、いかなる民俗学の資料や論考よりも、春から夏の間の「燕」を見る祖母の顏つきのほうに納得できるものがあるのです。

 宇多喜代子は、愚生と同じ山口県の生まれ、同じような光景をみて育ったのだ。田んぼの草取りや牛や鶏への餌やり、野菜作り、冬は畑仕事で、それらを手伝ったこともある。その所為というわけでもないだろうが、その頃から、愚生は農業だけはやりたくない仕事の一つだった。だから、今でも(もうその体力は無いが・・)、たとえ家庭菜園であってもやりたくない。つまり、愚生には、農作業をするほどの根気はもとより無いのだ。

 燕は、春の社日(しゃにち・地の神に豊作を願う祭りに来て、秋の社日地の神に収穫の感謝をささげる祭りに帰ってゆくといわれていました。

 という。ともあれ、本書中よりの燕の句を以下に挙げておこう。

  来ることの嬉(うれ)しき燕きたりけり   石田郷子
  みちのくは草屋ばかりやつばくらめ     山口青邨
  つばめつばめ泥が好きなる燕かな      細見綾子
  燕来る軒の深さに棲みなれし        杉田久女
  山塊(さんかい)を雲の間にして夏つばめ  飯田蛇笏 
  燕去るや山々そびえ川たぎち        相馬遷子

 宇多喜代子(うだ・きよこ) 昭和10年、山口県生まれ。



★閑話休題・・・小川軽舟「男役トップの出待ち燕舞ふ」(「ふらんす堂通信」164号より)・・・


 燕つながりで「ふらんす堂通信」164号、今号では「競泳七句」の連載で、「後藤比奈夫先生はご体調を崩され、しばらくの間連載をお休みさせていただきます。4月から一年間にわたって西村麒麟さんにご参加いただきます」とあった。以下その連載一人一句を、

   あちこちに新茶旗立ち新茶買ふ      深見けん二
   ぁまぁしあわせ新茶のための湯を冷まし   池田澄子
   さう言へば新茶呉るるは君のみか      西村麒麟

 その他、巻頭のエッセイ、高橋睦郎「こわい俳句」は、眞鍋呉夫の「雪女あはれみほとは火のごとし」。



撮影・鈴木純一「死から生/蟻から蟻/生から死」↑

2020年5月17日日曜日

飯田龍太「冬ふかむ父情の深みゆくごとく」(福田若之「ここに句がある」より)・・




  「東京新聞」5月16日(土)夕刊、俳句時評欄の福田若之「ここに句がある」が、「〈文法の時代〉と伝統」の見出しで、

 雑誌『俳句αあるふぁ』は今年の春号に「俳句と文法」と題した特集を組んだ。編集部の署名のもとに、(中略)「史上もっとも文法に注目が集まり、句のよしあしの判断材料のひとつにしている」その一方で「古典文法勉強しないと使えないものとなり、教わった用法のみが正解であり、文法書に載っていない用法は「間違い」に見えるという、なんとも難しい時代」だという。(中略)規範意識に憑(つ)かれたある種の教条的な伝統主義に対し、同誌が編集部の名において生きた伝統を擁護する立場を明確にしたことに注目しておきたい。(中略)
 この一冊(愚生注・『飯田龍太全句集』)にも収められた《冬ふかむ父情の深みゆくごとく》という一句の自句自解に、おもしろいことが書かれている。「母情という言葉があるから多分『父情』という言葉もあるだろうと思った。ところが活字になってから辞典をみるとそんな字は出ていない」(中略)
 実際には、日本語における「父情」という語の用例は龍太の句より前に遡(さかのぼ)ることができるが、ここでは句をきっかけとした語の広まりに目を向けたい。伝統とは、こうしたいとなみのなかで繰り返し掴(つか)みとられてきたきたものだ。辞書にない言葉を否定するためにだけ辞書を持ち出すといったふるまいの貧しさを思う。そうしたひとの語彙(ごい)は、辞書を超えた言葉の豊かさに達することをついに知らない。

と、至極真っ当に述べている。




★閑話休題・・・虚子「秋風や眼中のもの皆俳句」(「枯野」創刊号より)・・


  愚生、資源ごみに出すべき古い雑誌などを少し整理していたら、すっかり忘れていた「枯野」創刊号(南方社・1982年6月刊)と第三号(1983年7月)が出て来た。それで一応このブログに書影を留めておこうと思った次第(「鵞」〈端渓社刊〉も少し出てきたが、FBで橋本直が購入などと言っていたので、資源ごみに出すのを思い止まった)。
 思い起こすと、ん十年前、「枯野」を何故購入したのだろうか。たぶん坪内稔典の連載「高浜虚子1/〈花鳥諷詠の思想〉」を読みたかったからにちがいない。「枯野」の発行は「枯野の会」で発売元が南方社である。副題に「日本文学研究誌」とあり、執筆者のなかに、当時立命館大学の教授だった国崎望久太郎「真渕歌論の構造」、「本居宣長」が別格のようである。その坪内稔典「花鳥諷詠の思想(上)」には「山本健吉は、高浜虚子には『及び難い東洋的大人(たいじん)の風格』があると言った」と書き出されている。

 (前略)明治三十六年に、
   秋風や眼中のもの皆俳句
 と詠んでいた虚子にとって、大正元年の俳壇復帰以来は、それ以前にもまして〈眼中のもの皆俳句〉でああった。眼中のものすべてが俳句になりえたのは、自然に随順することで日常を優遊の場に化したからだが、そういう句が〈大人の風格〉と見え、そうしてそんな句を書く虚子が〈大器〉と見える、そこに日本近代の人々の生のあり方がうかがえるのではないだろうか。それは、圧倒的に多数の人々の生であり、近代日本を支えた基層としての生であった。

 そして、「枯野」3号「〈花鳥諷詠〉の思想(下)」では、「近代日本における〈家〉は激しい解体にさらされていた」として、

 (前略)しかし、その困難を、〈家〉と〈個人〉の対立として把握するとき、ことに〈個人〉を優位において〈家〉を否定的に捉えるとき、私たちはしらずしらずのうちに或る歪みを正当化しているおそれがないとは言えない。〈家〉が、私たちの多くが根ざしている場所である限り、その〈家〉を積極的に評価する視点をも欠くべきではないだろう。
 ともあれ、虚子にとって〈家〉は、否定的な対象ではなく、積極的に仮構された生の拠点であった。そうした虚子の〈家〉に注目するとき、はたして何が見えてくるだろうか。

 と書きつけている。坪内稔典、たぶん38歳、38年前のことである。


2020年5月16日土曜日

攝津幸彦「懐手犬と月とに触りけり」(「子規新報」第2巻・第78号より)・・




 「子規新報」第2巻・第78号(創風社・子規新報編集部)、三宅やよいが連載エッセイを始めたらしい。タイトルは「動物アラカルト 1」である。「犬」「イヌ」などの呼称には差別や蔑視があることなどに触れつつも、ブログタイトルにした句については以下のように記している。

   懐手月と犬とに触りけり   摂津幸彦

 この句にいる犬は現代の生活のあちこちに存在している犬だろうか。手を差し込んだ懐の闇。その温みは犬の体温のようだが、それと真逆にひやりと冷たい月が並列に述べられているのが不思議だ。手に触れる感触と同時に月に向かって吠える犬のイメージが立ち上がってくるのは「懐手」という古風な言葉の作用だろうか。もはや着流しに懐手をする男の姿も、月に吠える野性的な犬も失われたものであるがゆえに、古典的な犬と月との原風景が呼び起こされるのだろう。

 ところで、愚生の年齢だと、犬と言えば、すぐにも思い出すのが、「草田男の犬論争」の犬の句、

   壮行や深雪に犬のみ 腰をおとし   草田男

 であるが、そうすると、三宅やよいの言うように、たしかに、「(前略)さまざまな俳句にいる動物たちも時代によって違う顏を持っているのではないか」ということになろう。因みに、「懐手」の句は、攝津幸彦第4句集『鳥屋(とや)』(富岡書房、1986年刊)所収。
 他に、本号の「子規新報」の特集は「中川青野子の俳句」である。その略年譜に、1962年、松村巨湫の死によって、「『樹海』終刊後も『樹海同人』の自恃をもって以後、他のいずれの俳誌にも属さず」とあった。「樹海」といえば、思い出すのが、彗星のように戦後俳壇に現われ去った、鈴木しづ子の所属した俳誌であった。ともあれ、いまどきは珍しい、中川青野子の自恃に敬意を表して、「中川青野子30句」(小西昭夫抄出)から、いくつかの句を挙げておきたい。

   春光の一つが動く乳母車       青野子
   青大将消えたる草のまだうごく
   石に腰おろして吾も枯れゆくか
   書き初めや一といふ字を百あまり
   広島忌首突き出して鳩あるく
   冷奴まづ直角のところより
   雪片のぶつかるもあり日本海
   水入れるプールに星のふえうつあり

 中川青野子(なかがわ・せいやし) 1926年~2002年、享年77.

   
   
 撮影・芽夢野うのき「ばら散らす風の名前は俄交尾(にわくなぎ)」↑

2020年5月15日金曜日

三島広志「死の見ゆる人と新茶の話など」(『天職』)・・




 三島広志第一句集『天職』(角川書店)、序は黒田杏子「『天職』の作者」、その中に、

 (前略)「藍生」の賞もほとんどすべて受けて下さっている。何年間も「游気通信」という個人誌も発行されている。その通信を愛読していた私は、この三島広志という俳人が、東洋医学を出発点として、西洋医学その他を含む幅広い手法で人間のいのち、生と死を深く見つめる治療家になってゆかれる過程をまのあたりにしてきた。
 人間のいのちを見つめ、そのいのちをよりよく護り、看とってゆく専門家のひとりとして、日々活動を持続している人物となられたのだ。

 とあった。集名に因む句は、

   天職の一生と想へ石蕗の花      広志

 である。黒田杏子は言う。

 一生と想へ。いつしか作者の心の奥にこのような想念が生まれ、定着してきた。(一生想ふ)ではない。〈想へ〉と書いて、あらためて来し方を振り返る。石蕗の花がよくこの一行を支え、受けとめている。『天職』という句集名を提案したのは、私であるが、この句一句から発想したのでは全くない。この二文字はこの人の治療家として前進を続けるたゆみない人生を遠くから、三十年間選者として見つめつづけてきた私の心にごく自然に浮かんできた日本語なのであった。

 また,著者「あとがき」には、

 句集を編む気は全く無かった。
 人生と俳句を一如と為すのが俳人、明確な意図を持って俳句を創作するのは俳句作家。自分は俳句と適度な距離を置き、生活者として趣味的に関わっている俳句愛好家だ。伝統を掘り下げ未来へ繋ぐ意志もなければ、未開の地を開拓する力量もない。そんな理屈から句集を編む気は全くなかった。

 とあり、それでもそれなりの契機があって、宮澤賢治の次の詩にも鼓舞されたようである。

  手は熱く足はなゆれど
  われはこれ塔を建つるもの

  滑り来し時間の軸の
  をちこちに美ゆくも成りて
  燦々と暗をてらせる
  その塔のすがたかしこし

 私も滑り来た時間の軸のあちこちを記した俳句を、我が塔として句集をまとめようと思った次第である。

  と記されている。ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  朝顔や焦土を知らぬ足の裏
  穀象のしんしんと這ふ月明り
  いつからを夕空といふ桐の花
  寒月や皿にかたよる剥きたまご
  冬の雷大都の塵にまみれむと
  胎内も命終も闇こがね虫
  本の蛾をやさしく強く吹き飛ばす
  雪霏々と地表すなはち天の底
  生き延びし父の早世原爆忌
  遠山櫻治らぬ人に触れてきし
  朝櫻濁世に生きてこののちも
  炎天を来てまた戻る処世かな
  また一人看取の汗を拭きて来し

三島広志(みしま・ひろし) 1954年、広島県生まれ。



          撮影・染々亭呆人「円光寺・原民喜の墓」↑

2020年5月14日木曜日

渡邉樹音「木蓮のひとひらマスクになら足る」(「第12回ことごと句会」)・・




 「ことごと句会」(第12回)、とりあえず、4月18日(土)の開催ということになっているが、愚生ら、おとなしき民草は散歩にも出ず、ましてや句会などという密なる会合などするはずもなく、善良なる自粛のもと、ひたすら、文通のみによって、通信句会などという名に甘んじての所業である。かつ、その郵便物も、雨は避けるものの、日に晒し、ウイルスなるものは、紙上にては、一日で死滅すると言われたことを固く信じて、そのまま、最低一日は外に放置、もしくは、郵便箱に入れたままで、翌日に取り出し、かつ消毒用アルコールをしめした紙で、表面を拭き取り、開封前には泡石鹸で手指をよく洗ってようやく、皆さんの句稿にまみえるという次第だったのである。
 かくも用心深くしているに、老齢のせまる身なれば、ウイルスに感染するのもイヤだから、と言いつつ、むしろ、筋力の衰えを日々痛感し、足許こころもとなく、歩けなくなる有様で、やむなく、屋内にて、伝授された太極拳の片足立ちなどをして、その場その場をしのいでいる有様・・・。それでも、それでも、良い句にめぐり会えればという一心、至福のときを得られるにちがいない、とばかり、希望の病にとりつかれている始末である。・・・愚生の下らぬ愚痴、ご託はともあれ、以下に一人一句を挙げて、いささの慰めとしておきたい。投句は3句+兼題「駅」一句、の合計句。

   春愁珈琲カップも落日も        渡邉樹音
   爪立ての猫春陽をたぐる示唆      照井三余
   君を待つ終着駅の初音かな       武藤 幹
   右利きの右指を刺す春の棘       金田一剛
   血まみれの鳩よお前は父を棄て     大井恒行

 次回の投句締め切りは、5月23日(土)、3句+兼題1句「綿」=4句。



撮影・芽夢野うのき「どこか似ている水音と月見草」↑

2020年5月13日水曜日

小川弘子「園丁寡黙私黙然桜餅」(『We are here』)・・

 


 小川弘子句集『We are here』(ふらんす堂)、跋は坪内稔典「グレープフルーツの咲く家で」、栞は火箱ひろ「坂の家物語」。その火箱ひろは、

   We are here We are here 夏鶯
 
 句集の題になった句だ。「あとがき」に説明がある。海外に住む娘や孫、頼りにしている息子、家族揃ってご主人のゆかりの地を訪ねたとき、皆でこの言葉を叫んだという。バイリンガル一家らしい温かないい話だ。
 その時はしきりに鳴く夏鶯を、ご主人が来ていると感じて唱和したのだ。この俳句を詠んだことで、永遠にご主人と共にいる意識が深まったのではないか。心に思えば、鶯や風になったり、獣になったりして傍らに来てくれる。生涯口ずさめる夫恋の俳句があるのは幸せだ。 

と語っている。また、著者「あとがき」の冒頭は、

 表題を「We are here」にするまで、少し迷いました。今は亡き夫が少年の頃、科学学級の生徒として広島県の深い山里のお寺に集団疎開していました。昨年家族とそこを初めて訪れたとき、山でしきりに鳴いていた夏鶯に向かって、皆で呼び掛けたのがこれです。

という。少しシンとした。跋の坪内稔典は、

 さて、小川家句会だが、二時間くらいの句会が終わると、二次会に移行する。弘子さんが数日かけて用意してくれた弘子料理が待っているのだ。イギリス製の大きな皿、フォークとナイフが卓上に並び、息子の伸彦さんが肉料理などを配ってくれる。庭のハーブを摘んだハーブ茶が芳香を放つ。もちろんビール好きはビール、ワイン党はワインを飲む。
 小川家句会の会費は一人千円。かなりのお得感がある。その質において、この句会はとびきり上等だ。いや、これこそがまさに句会なのだと私は思っている。これに類する句会がいくつかあって、それらの句会が私の俳句生活の基礎をなしている。

 と記している。ともあれ、集中より、愚生好みになるが、いくつかの句を以下に挙げておこう。

   萌黄莊住む人萌黄春の空         弘子
   洋行といわれし頃のパナマ帽
   病院のエレベーターでキス五月
   コーヒーはブラック雑念は鶏頭
   シェリー抱き春の坂来るひとはだれ
   みじん切りとか一口大とかうらら
   麦の青すこし猫背の母が来る
   病妻を抱える夫のパナマ帽
   夏草を抜く派抜かぬ派そしらぬ派
   初夏や恒久と鳴く山の鳩
   登り来て吾より高き芒かな
   パピルスの栞挟むや一葉忌
   
小川弘子(おがわ・ひろこ) 1938年、和歌山県生まれ。



   撮影・芽夢野うのき「五月の鳥は舟のかたちの雲に乗る」↑

2020年5月12日火曜日

柴田南海子「淋しいぞわが塚に掘れ蟻地獄」(『朝ざくら夕ざくら』)・・




 柴田南海子第5句集『朝ざくら夕ざくら』(東京四季出版)、平成24年から令和元年まで8年間の句をまとめたもの。序文は坂口昌弘「目を凝らすことが祈り」、その中に、

    湖心まで詩心飛ばせと青嵐
    おほぞらを詩の一塊鳥渡る
 
 作者はいつも「詩」「ポエジー」を意識している。基本は客観写生であるが、単純な写生だけでは俳句を詠む心が満足しないようだ。湖と青嵐だけの風景には満足できない心がポエジーのようだ。詩心が青嵐にまきこまれる。心という主観が客観的風景と合体する主客一致の句風である。

 と述べている。句集名については、

   詩乞ひの目を朝ざくら夕ざくら    南海子

 の句から採ったと「あとがき」にある。また、

 「太陽」創刊以来十八年間、輝く嶺を目指しながら遠い道のりを「太陽」の仲間と旗を振りひたすら歩いて来ました。クリエーターとしてみずみずしい感性が湧き出る詩の泉を胸中にと願いながら。太陽創刊二十周年への魁の一つとしてこの一集を眺めて頂ければ幸いです。

 とあった。ともあれ、愚生好みになるが、本集よりいくつかの句を以下に挙げておきたい。

  神すさび異臭の霧を火口より
    悼津田清子先生
  津田清子師立夏の宙へ還らるる
  隠し井は逃散の口笹子鳴く
  青き踏む龍湖の照りを爪先に
  終命を水鏡して枯蓮
  右取れば詩魔の径なり青葉騒
  大瑠璃や杉の乳房が張る不思議
  遺跡への出入り自在や行々子
  千手より無尽の爽気観世音
  白萩のそより亡き人来る夕べ
  桜紅葉散るありなしの風にさへ

 柴田南海子(しばた・なみこ) 昭和15年、兵庫県明石市生まれ。




  撮影・中西ひろ美「ここだけはいつもどおりの行々子」↑