2021年1月22日金曜日

久々湊盈子「散りたまるさくら花びら踏みてゆく平和の残滓でなければよいが」(『猛獣を宿す歌人達』より)・・

  


 今井正和歌論集『猛獣を宿す歌人達』(コールサック社)、解説は鈴木比佐雄「民衆の悲しみを背負う『猛獣』を心に映す人」。著者は「はじめに」で述べているように、「本書は、沖縄の歌誌『くれない』の主宰玉城洋子氏から執筆の機会をいただいて成立したものである。二〇一六年十月から二〇二〇年十二月までの全五十回の歌壇時評をまとめた」ものである。また、「あとがき」には、

 

 書名の『猛獣を宿す歌人達』とは、自己の内部に噴出する詩作へのエネルギーに満ちている人たちを指し、その抑えがたい思いを短歌にぶつけている歌人たちの事を言う。その短歌制作の熱意には、敬愛の念を抱く。


 と記されている。あと一つ、石牟礼道子全歌集『海と空のあいだに』(弦書房)より(二〇一九年十二月)の評「猛獣を檻に入れて」では、石牟礼道子の一首を引いて、


  いちまいのまなこあるゆゑうつしをりひとの死にゆくまでの惨苦を

 人間の眼は、苦しみ、悶え、あがきなど、死んでゆく悲惨な姿をも見てしまう。人間には、他の人間の最期を見届ける使命のようなものを感じるのだ。

 石牟礼道子の歌集には、私たちが予期するほど、水俣病に関する歌は収められてはいない。歌を始めた頃、「あなたの歌には猛獣のようなものがひそんでいるから、これをうまくとりおさえて、檻に入れるがい」といわれたという。その通りに、猛獣は奥に潜ませて表には出ていない。


 と結んでいる。ブログタイトルに久々湊盈子の歌を挙げたので、もう一首を、その評とともに挙げておきたい。


  軍縮という語このごろ聞かずなりフリルレタスをさりさりと食む

 たしかにこのごろは軍縮から遠ざかっているようだ。レタスに歯ごたえがないのは、平和という実感が稀薄になっていることの投影であろう。食事をしながら、世界のどこかの紛争を聞いている作者は、あるいは一人の人間としての無力を噛みしめているのかもしれない。


今井正和(いまい・まさかず) 1952年、埼玉県秩父郡両神邑(現小鹿野町)生まれ。



★閑話休題・・久々湊盈子「秋風秋雨に打ちふせられしコロチカムのうすくれないも見て過ぐるなり」(「合歓」第91号)・・・

 「合歓」第91号(合歓の会)、毎号のインタビューは「雁部貞夫さんに聞く」。招待作品は花山周子「自転車日和」、「この歌集この一首」は「三枝昂之の歌」。それぞれの一人一首を挙げておこう。


 牡鹿半島渡波桃の浦月の浦ちさき入江の美しかりき       雁部貞夫

 人生はとてもひろい部屋 東から日が昇り水色の空がひろがる  花山周子

 連山を持つ幸福を思わせて蛇笏あり龍太あり甲斐の国あり    三枝昂之

 十年先はたちまち十年の過去となりおのれの齢うべないがたし 久々湊盈子  



       撮影・鈴木純一「蒲団干すこれから先は善いことが」↑

0 件のコメント:

コメントを投稿