谷口智行編『平松小いとゞ全集』(邑書林)、帯の背に、「生地が聖地であった戦没青年の全句集」とある。 また、帯の惹句には、
《甦り》の謂としての《熊野》
父・竈馬(いとゞ)、師・虚子、先達・野風呂らに育てられ、「ホトトギス」の巻頭作家ともなり、京大三高俳句会の流れを強く刻みながら、戦争に翻弄され、満二十七歳にして河南省で銃弾に斃れた繊細鋭利、そして、類い稀な母恋句を生み続けた愛すべき青年。八四七句が遺された。その全てを、主要散文、資料とともに集成する。
虚子選『五人俳句集』に掲載された著者の友四人の俳句を全併録/《時代》が語る俳句集!
とあった。解説は谷口智行「小いとゞ幻想ーふるさと恋し便り欲し」、略年譜は谷口智行・黄土眠兎・森奈良好共編。その解説に、
俳誌「運河」で俳人・平松小いとゞを紹介したのは、二〇一六年八月号であった。その後しばらく、小いとゞに接する機会を持つことはなかった。(中略)
二〇一九年夏、黄土眠兎(きづちみんと)と他、数名の仲間を伴って熊野にやって来た牙城は懇親会の席でこう言った。「智行が熊野の小いとゞを書かなんだら、誰が書く?」と。僕は、
青嵐の夜半小いとゞを書けとこそ 智行
という句で牙城の導きに応えた。(中略)
消燈喇叭ちゝはゝ端居をへしころ
には、、故郷新宮の両親への思いを滲ませる。小いとゞは中国河南省における「〇〇作戦覚え書き」(〇〇は伏字)にこう記している。
虚子先生、あなたは、私にとつて、何と大きな生命の規定を作つてくれたことか。思へば、私の生涯の如何なる事件と雖も俳句と行動を共にしなかつた事はないのです。
如何なる苦難と雖も、翻然と俳句の道に帰ることによつて私は自らの道を確認し得、如何なる幸福と雖も、俳句にこのことを感謝し得るの所以は、先生に師事し得たる私―一の日本臣民―の喜びである。それにつけても私は父に、お父様に、いとゞ先生に何にも代へ難い感謝を捧げ得るのである。捧げざるを得ないのである。(中略)
鈴鹿野風呂著『俳諧日誌 巻二』(昭和三十九年十二月発行)には、小説家・村上春樹の父・千秋が頻繁に登場する。千秋は「京鹿子」において。小いとゞとは別の句会に参加していたようで、千秋が出征した時には京都に小いとゞがいて、千秋が帰還してから小いとゞが出征と、まるで運命の悪戯のようにすれ違いだった。(中略)
野風呂は千秋の出征を嘆き、帰還を喜び、小いとゞの卒業を喜び、出征を嘆き、二人の動向を幾度も『俳諧日誌 巻二』で取り上げている。(中略)
戦争と弾圧の世相に翻弄された小いとゞであったが、内地では四季の自然に目を向け、家族や同郷の子供たちを愛し、ひたむきに俳句を作った。俳句との関わりという点に絞れば、小いとゞは幸福であったに違いない。
小いとゞの記した「俳句を読んでいるだけで楽しい」という普通の生活さえも失くしてしまった時代の大きな波は、災害や環境破壊のみならず、疫病という見えない敵に怯える現在と重なるところがある。
戦争で亡くなった五人の句集を発刊した虚子。その五人の中の一人・小いとゞ。彼の幼少期から死の直前までの俳句を取集した虚子の行いはまさに奇跡に近く、『五人俳句集』(高濱虚子選)は現俳壇における貴重な財産である。(中略)
本書刊行の目的は、戦争に翻弄された夭折俳人の鎮魂(たましづめ)としてだけではない。自然に親しみ、家族を愛し、いかなる時も虚子の教えを純粋に実践し、それを全うした一人の青年を心から祝福したいと思ったからである。
と述べている。いささか長い引用ととなってしまったが、以下には、その夭折俳人の『五人俳句集』からの一人一句と、小いとゞの句をいくつか挙げておきたい。
昭和十九年
夕焼の一点わが機還りしや 清水能孝
凍てゆ手に訣別の句の筆をとる 日野重徳
昭和二十年
如月の北斗光れり祈るなり 菊山有星
月鉾に月がゝかれば舞台めき 上田 惠
炉話の父には言へず母に言ふ 平松小いとゞ
更衣していますやと母恋し
夜の金魚こまかく赤く皆浮いて
紫陽花は栄華の玉もなく枯れて
暑さしのぐと帽子の中に草入れて
かなかなやこの身になさけもつれたる
櫨紅葉実はしがらみと枯まとひ
駅寒し訣別はただ挙手の礼
冬恩愛断ち切り難し断ち切りし
月の陣母恋ふことは許さるる
朧夜はふるさと恋し便り欲し
麦暑く重傷担架ならべられ
現認証書く灯にあはれ火取虫
中原に燕蝶舞ひ戦禍熄む
緑蔭より銃眼嚇と吾を狙ふ
平松小いとゞ(ひらまつ・こいとど) 1916(大正5)年9月26日~1944(昭和19)年6月7日。和歌山県牟婁郡新宮町(現・新宮市)生まれ。
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