「弦」第43号(弦楽社)、主な内容は、遠山陽子令和2年作品「杜國の地」、その作品鑑賞を髙野公一「米寿白光」、そして、澤好摩「不思議な共感ー三橋敏雄と高柳重信」、遠山陽子「三橋敏雄を読む(6)/『しだらでん』(平成八年十一月十八日刊より)」。その遠山陽子の「あとがき」には、
今年は三橋敏雄生誕100年の年である。平成生まれの若い作者にとっては、敏雄はすでに歴史上の作家となっているのだろう。しかし、敏雄の予見どおり、三・一一があり、フクシマがあった。世界中が分断と対立の様相を呈し、そしてコロナ。「人類憐憫(あはれみ)の令あれ天の川 敏雄」の句は、未だに生々しくわれわれの目前にあるのである。
と記されている。本誌中、愚生が興味をひかれたのは、澤好摩の、
(前略)ある話をしているとき、どうも高柳重信の記憶が間違っているように思ったので、「先生、それは違うと思います、それは・・・」と言いかけたら、高柳重信は「澤は帰っていいぞ、明日から来るに及ばず」と、いきなり破門を言い渡されたのである。あまりに突然なので、驚いたが、ここで簡単に破門されてはかなわないと思ったので、「いいえ、そうはいきません。明日、『俳句研究』の校正刷りが出ますので、それを持ってお宅に伺います」と言って、席を立った。
恥ずかしいことながら、高柳重信から破門を言い渡されたのは、これで二回目であった。一回目は北山印刷の社長が仲に入って、何とか取りなして戴いたのであった。
そのとき、「俳句評論」の同人ではないが、時折、句会に顔を出していたB氏が「澤君、あのねぇ」と高柳重信と私の仲裁に入ろうとした。その瞬間、大きな声で三橋敏雄が「おい、やめろ。余計なことをせず、こっちへ座っていろ」とB氏を引き止めた。これは正解だった。仲裁なんか入れば、話は余計にこんがらがるし、収まるものも収まらなくなったに違いない。三橋敏雄はそのことをよく分かっていたに違いなく、助けられたのである。
とあった。澤好摩が、高柳重信のことを「先生」と言ったか、どうかは怪しいが(というのは、当時、先生と言っていたのは女性陣で、男性群はみな、「高柳さん」だったような・・・)、こうしたエピソードは、じつに三人の機微を得ている。もっともこのエッセイでは、「俳句評論」(創刊十五周年記念号・昭和47年11月)に掲載された、高柳重信・三橋敏雄・折笠美秋の「座談会ー『有季・定型』をめぐって」が引用紹介されていて、それが、示唆に富んだもので、これについては、読者諸兄姉が直接当たられたい。ともあれ、ここでは米寿健在の遠山陽子の作品をいくつか以下に挙げておきたい。
帰去来(かへりなむいざ)星載せて冬欅 陽子
蛇覚めるころペンキ屋がやつて来る
ウイルスいづこピンクのスーパームーン
果て知れぬ花の奈落やわが昭和
筍のけもののごとき抱き心地
身籠りてより紫陽花を知り尽す
古びゆくものに佳人や鳥渡る
鎮座せし南瓜に悪しき空模様
色好む男は佳けれ長ひさご
見たかりし米寿の敏雄十二月
撮影・鈴木純一「いつだつてモグモグタイム春擦り」↑
0 件のコメント:
コメントを投稿