「コスモス通信」とりあえず22号(発行者・妹尾健)、今号は「高齢社会と俳句」と題しいる。
俳誌「韻」三十一号に川名大氏が「髙柳言説とホビー俳句」という文章を寄稿されている。たいへん示唆に富んだ一文であるが、気になる部分があったので、少し書いておきたい。
といい、次のように記している。
ここで、私が気になったのは「高齢化社会を背景に」と川名氏がのべておられるところである。我々が当面している社会が高齢社会であることは勿論であるが、それを「背景」にしてホビー俳句の浸蝕が生まれたというのは本当であろうか。むしろ我々の当面している社会は、高齢化を「本質」としているのではないか。その「本質」がホビー俳句なるものを招来しているのではないか、と私は思うのである。つまりその「本質」が余暇を利用して積極的に俳句にとりくむものを意味しているということである。それは高齢社会を生む平均寿命の伸長、医療制度の普及による健康体制の整備、各種の社会制度の完備(完全でないことはいうまでもないが)によってこれまでの「背景」はむしろ「本質」になっているのではないか。インターネットの普及は、旧来の知識量を大幅に拡大しそれは各種の分野に及んでいる。これまで知識を得るための努力はたちまちのうちに自分のてもとに届く事態になってきたのである。俳句もまた変容を迫られた。川名氏のいわれるホビー俳句もまたこの高齢社会の「本質」の影響下に出現してきたのである。同時に川名氏が理想に掲げる髙柳言説(これが言語至上主義の歪曲的受け取りによる誤解の産物だと川名氏は反論しているが)と対峙するものとなったのである。(中略)
高踏的な悪態をもって現代大衆社会に対峙されることは壯とするも、いかんせんそれは本質によって作り出されてくるものなのだ。それには抵抗の方途がいる。具体的な方法がいる。いうまでもなく、俳句は大衆の文学である。俳句を作るに人間が現代大衆社会の本質にしたがって作っていく俳句が大衆の支持を受けるとすれば、現代社会の体制に順応するかたちとなるのは当然である。だが、問題はここにある。(中略)
としながら、妹尾健は、「私についていえば、やはり俳句の目標は、戦後の俳句」と述べ、西東三鬼「広島や卵食ふとき口開く」や秋元不死男「多喜二忌や糸きりきりとハムの腕」や桂信子「手袋に五指を分ちて意を決す」などの俳人・作品各5句を挙げている。
ともあれ、以下に彼の「句日記」と題された句の中からいくつか挙げておこう。
冬晴れに妻の機嫌の高き声 健
一月のあれこれ思う間もなく去りぬ
侘助や声高となれば制止さる
二月来る一日はまず碧梧桐来
懐炉灰男は腹に虫を持つ
★閑話休題・・・坂場章子「月今宵かの地にもかの人らにも」(「鴫」12月号より)
「鴫」12月号「看經抄」に10句選と短評を寄せたのでそれを掲載しておきたい。タイトルにあげた句は愚生の特選句である。
*① 月今宵かの地にもかの人らにも 坂場章子
② 繋ぐかに沖へ向くなり鱗雲 山﨑靖子
③ へうたんは羅睺羅の有漏のかたちとも 荒井和昭
④ かまつかや「こんにちはあ」と下校の児 田村園子
⑤ 川音の満ち蜻蛉の浮かび来る 髙田令子
⑥ 白拍子めく秋蝶の消ゆる蔭 山口ひろよ
⑦ 被災せし犬を預り星月夜 三木千代
⑧ 落し水いきもののやうに匂ふ夜 みたにきみ
⑨ 何処曲がつても花すすき花芒 江澤弘子
⑩ 喪の家の二階に灯鉦叩 佐佐木秀子
■➀あまねく世界を照らしている名月。災厄に遭った人達の遥かな地へと思いを馳せ、救いを願う句。②「今も沖には未来あり」だ。③下句「羅睺羅の有漏のかたちとも」とは、力技の表現。④葉鶏頭の鮮やかな色彩と元気な子どもたちの声。⑤川音には蜻蛉の薄羽を操る風も水もある。⑥白拍子は遊女の異称、儚さがただよう。⑦星月夜こそうれしかれ、とも言う。まして、夜の明けるのを待つ意もある。⑧上五「落し水」で切れるのか、切れずに繋がるのかで、句の趣が違うが、後者で読んだ。⑨見事な花芒の世界が広がっている。⑩二階に灯る明かり。喪中に鉦叩で哀傷が深い。
撮影・鈴木純一 酒田のマンホール ↑
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