藤原龍一郎『赤尾兜子の百句』(ふらんす堂)、藤原龍一郎は、愚生と同じく「渦」に所属していたことがある。その頃は、俳号・藤原月彦である。「俳句研究」の50句競作で頭角を現わした藤原月彦を一本釣するべく、兜子は月彦に手紙をしたためたに違いない。その頃の「渦」は、若い俳人たちで溢れていた。50年以上前ことである。
ブログタイトルにした兜子「ゆめ二つ全く違ふふきのたう」について、藤原龍一郎は次のように記している。
『玄玄』の掉尾の一句。『赤尾兜子全句集』(立風書房)の和田悟朗氏のあとがきによると、この句は、兜子の没後み、日記から発見されたのだそうだ。まさに、最後の一句ということになる。
昭和五十六年三月十七日午前八時過ぎ、自宅近くの阪急神戸線十善寺坂踏切にて急逝。
二つの夢とは何か? 何がまったく違うのか? 真意はついに不明のままである。春を告げるフキノトウをみつめながら、そこには生きる意志は生れてこなかったのだろうか。
また、巻末の「異貌の多面体—赤尾兜子の俳句」の中には、
この本の百句鑑賞では、あえて、編年体をとらず、まず、その異貌が感受できる兜子秀句三十三句を第一部として置き、第二部に『稚年記』から『玄玄』までの作品から六十七句を編年順に並べて鑑賞した。(中略)
第三イメージの私の解釈は作品鑑賞の部分に書いたのだが、繰り返しておくと、二物衝撃という具象と具象をぶつけあって比喩を生み出す従来の俳句的技法を一歩進めて、第一の比喩と第二の比喩を衝突させて、第三の暗喩のイメージを産み出す方法ということである。(以下略)
とも記されている。ともあれ、兜子俳句は、どの俳人よりも、もっとも前衛的だったという評価が相応しいように思えるが(それを異貌の多面体といい)、藤原龍一郎の本書によって、よりその在処が、再確認されると思う。本書より、幾つかの句を以下に挙げておこう。
会うほどしずかに一匹の魚いる秋 兜子
「花は変」芒野つらぬく電話線
帰り花鶴折るうちに折り殺す
数々のものに離れて額の花
大雷雨鬱王と会う朝の夢
音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢
広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み
煌々と渇き渚・渚をずりゆく艾
轢死者の直前葡萄透きとおる
戦どこかに深夜水のむ嬰児立つ
花から雪へ砧うち合う境なし
霧の山中単飛の鳥となりゆくも
さらばこそ雪中の鳰とそして
心中にひらく雪景また鬼景
赤尾兜子は、その日の朝、煙草を買いに行くと言って出かけ、近くの踏切で亡くなった。その一週間前に、高柳重信に電話をしている。
以下には、図々しく、愚生の「兜子の三句」という、かつて、「渦」の記念号に寄せた愚生の駄文が偶然にも、出て来たので、この際だから、以下にコピーしておきたい。
大雷雨鬱王と会う朝の夢
俳句思へば泪わき出づ朝の李花
ゆめ二つ全く違ふ蕗のたう
僕のこれまでに俳句結社とのと関わりがあったとすれば(二十歳代前半のわずか数年に過ぎなかったのだが)、唯一「渦」のみである。
京都大学前の書店で聞き知っていた「渦」を初めて手にし、購読を申し込んだ。手にしたそれは「渦」50号特集記念号(昭和44年11月)で、「『第三イメージ』をめぐって」という赤尾兜子・和田悟朗・中谷寛章による座談会が掲載されていた。それまでも兜子の「音楽漂う岸侵しゆく蛇の飢」「広場に裂けた木塩のまわりに塩軋み」などの句に魅せられていたのであるが、中谷寛章にも注目していたからだ。
冒頭の三句は、僕が後に長く愛唱した句で、髙柳重信の「目覚め/がちなる/わが尽忠は/俳句かな」の句と対をなしていた。
僕が上京して、初めて重信に会った時の挨拶のなかで、「兜子は僕の弟みたいなものだから」という親しみを込めた重信の物言いが今でも耳に残っている。(大井恒行)
藤原龍一郎(ふじわら・龍一郎) 昭和27年、福岡県生まれ。
撮影・芽夢野うのき「鉄線花かねがねさびしき彩と気にかかり」↑
0 件のコメント:
コメントを投稿