髙野公一著『芭蕉の天地/「おくのほそ道」のその奥』(朔出版)、およそ芭蕉に関する著作は、数えきれないほど、多くのものがあり、さらに、著者も「あとがき」で述べているように、「昭和・平成の時代は、重要な文献資料の発見が相次ぎ、その研究はこれまでになく熱気を帯びるこになった」のであり、それら先達の研究に多くの恩恵を受けている。とはいえ、愚生は、加藤郁乎の言に倣うわけではないが、芭蕉と歩く道を異にすると、いささか斜に構えてきてはいるのである。言ってみれば、芭蕉に関しては、嵐山光三郎『悪党芭蕉』のような読み物のようなものに、興味をそそられたりする、むしろ、本道から見れば、実に場違いの輩なのだ、ということを告白しよう。
内容については、目次を見ていただければ、おおよそが見当がつかれるであろうから、以下に記しておきたい。第1章「頭陀袋の一冊ー趣味か遺書か鎮魂か」、第2章「いざ、歌枕ー田植え歌・光堂・ねぶの花」、第3章「芭蕉の『天地』ー雲の峰は幾つ崩れたか」、第4章「天空の越後路ー芭蕉は荒海を見たか」、第5章「萩と月ー踵の痛踏み終えて」、第6章「『書留』から『ほそ道』へ―俳諧道中記の発句(1)」、第7章「行く道・帰る道ー俳諧道中記の発句(2)」、第8章「歌仙の時ー素顔の旅の俳諧師」、第9章「天地とともにある俳諧—不易流行論の原像」。
思えば、髙野公一は、小倉綠村、松井国央、山本敏倖と長い間恩義を受け続けている「山河」同人でもある。そして、その誌に掲載されてきたいくつかの彼の論にも、その都度、一読の機会を得てもいる。なかでも、現代俳句評論賞やドナルド・キーン優秀賞を受賞された作品には、注目してきた。むしろ、それゆえというべきか、このたび一本に纏められたことによって、一層の厚みをも感じている。言えば、冒頭の第1章「頭陀袋の一冊」には、改めてスリリングな思いを抱いたのだった。例えば、『曾良日記』の部分では、
西村家に伝えられてきた一書が紛れもなく素龍清書本そのものであることを頴原退蔵博士が確認し発表した昭和十八年に、もう一つの事件が起こった。いわゆる、通称『曾良日記』の出現である。(中略)
それが、昭和十八年に突如、山本安三郎によって翻刻出版され、世に紹介されたのである。(中略)
この書を翻刻出版した山本安三郎は、原本の所有者を学会の誰にも明かさないまま死去してしまう。当時、岩波書店『奥の細道』改版の話が出ており、そこに付録として載せたいと希望がだされていたが、原本を確認できないままに、山本の翻刻をそのまま使用することは出来ないと考えた杉浦正一郎博士と編集責任者は、山本が漏らしていた「伊東」という呟(つぶや)きを頼りに伊東を訪れ、「神の引き合わせのような」原本を探し当てる。杉浦は天理図書館に購入を斡旋(あっせん)したが聞き入れられず、結局、杉浦自身が妻名義の自宅を売却してこれを贖(あがな)い、「私は『日記』が満一好事家の手にでも入って、再び学会に活用出来なくなるようなことでも起これば大変と思って身の程を忘れたのである」と語った。
曾良の腰帳が誰でも手軽に読めるようになるまでに様々な人間ドラマがあった。
と記されている。あるいはまた、第3章「芭蕉の『天地』」では、
(前略)それにしても、芭蕉はなぜ出羽三山に登ったのだろうか。このことをこれまで誰も疑問に思わなかったのは不思議である。三山合祀(ごうし)の社(やしろ)である羽黒山に立ち寄る程度ならまだ分かる。単に風雅を求める旅なら、なにも月山・湯殿山まで苦業の足を延ばす必要もない。芭蕉の求める「風雅」は、月山山頂へ自ら登り詰めることを求める「風雅」であるということなのであろうか。彼が風雅を求めるのは、死と再生の修験の行に自らを追い込んでゆく生き様だということなのであろうか。
と述べられている。ある意味『ほそ道』でのピークでもあるが、登拝では「お山でのことは他言無用の誓いをたてさせられる」とあり、思い出したことがある。余談になるが、愚生が湯殿山に登ったとおり、神体である湯の湧き出る岩の肌を赤い蛇がするすると昇っていくのを目撃した。他言をするとご利益も何もなくなると思い、これまで言わなかったが、不思議な偶然もあったものである。今日のブログで、愚生の悪運も尽きるかもしれない。本書の巻末には、資料として、「『おくのほそ道』旅吟一覧」「『おくのほそ道』発句一覧」「『おくのほそ道』旅中の主な連句」が収載されている。それだけでも、面白く読める。ご一読あれ。そして、
なお、この一書は、父髙野聖魂、養父剛、母ムツ、妻の父大沼悦良、母きみ江の霊に捧げたいと思う。父母は越後で、養父母は出羽で生涯を過ごした。俳諧師芭蕉は三百年前にこの地を巡り、「五月雨をあつめて早し最上川」「文月や六日も常の夜には似ず」と詠んだ。そして三百年後の今なお、梅雨の時節、七夕の季節には、芭蕉その人の霊がこの地を訪れ続け、父母たちと、それぞれの土地の本情といったものを仲立ちにしながら、心を通じ合わせているように思えてならない。(あとがき)
という。ともあれ、本書より、芭蕉の発句をいくつか挙げておこう。
五月雨の降のこしてや光堂
閑さや岩にしみ入蟬の声
語られぬ湯殿にぬらす袂かな
暑き日を海にいれたり最上川
象潟や雨に西施がねぶの花
荒海や佐渡によこたふ天の川
一家に遊女もねたり萩と月
石山の石より白し秋の風
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
髙野公一(たかの・こういち) 1940年、新潟県上越市(直江津)生まれ。
撮影・中西ひろ美「なれとわれかなしをかしにあはひあり」↑