藤原龍一郎著『抒情が目にしみるー現代短歌の危機(クライシス)』(六花書林)、帯の惹句に、
現代短歌に魅入られて半世紀、時代と向き合い、果敢に状況に切り込んできた。
短歌形式を選択した自負、塚本邦雄、福島泰樹たち、敬愛する歌人への思いを情熱をもって描き取る。
とある。巻末に、藤原龍一郎の志向、思考を語った「時代の文学という意識を強く持つ歌を」(聞き手:大和志保/2021年1月21日 於:晧星社)、歌誌「月光」67号・2021年3月が再録、入集されている。藤原龍一郎歌集『202X』になどに触れた中に、
藤原 短歌に時代が投影されるのは当然ですが、時代の本質的なところや政治的な状況はあまり歌う必要はないと僕は思っていました。
その時代の人の名前を入れて、時代の表層をうまくピックアップすれば、時代の雰囲気が出せると思っていたのですが、ここ十年くらい詩歌はやはり状況に対して物申すことも必要ではないかと段々思うようになって。この一冊を見ると、そういうものばかりになりました。(中略)
藤原 歌い方は変わってきています。これをメッセージ性と言っていいのかわかりませんが、強くはなってきています。
歌人が詩歌に託す言葉は何らかの形でエネルギーを持っているので、それがどこかへ向かうのは当然です。自分に向けて歌を作るという方法論もあると思いますが、今回は、外の時代状況に対して何か言う形になりました。(中略)
藤原 短歌の役割は、大げさに言えば「一人の人間の生の証明」ということです。「人間の記録」ではなく「生の証明」です。
一人の人間の生は、時代状況の中で、様々な陰影を持ちます。その陰影を、、これからも表現し続けて行くつもりです。
とあった。Ⅱ章中の、追悼・高瀬一誌「プロデューサーの矜持」、追悼・蒔田さくら子「『短歌人』の支柱」、追悼・永井陽子「きらめきという矛盾」も心に沁みた。ともあれ、集中に引用された歌人の歌をいくつか挙げておきたい(旧字は新字にした)。
豹変といふにあまりにはるけくて夜の肋木のうへをあゆむ父 塚本邦雄
春の夜の夢ばかりなる枕頭にあっあかねさす召集令状 〃
六月の雨は切なく翠(みどり)なす樺美智子の名は知らねども 福島泰樹
さなり十年、そして十年ゆやゆよん咽喉(のみど)のほかに鳴るものも無き 〃
階段をころげ落ちるのも定型であればやっぱりつまらないのだ 高瀬一誌
全身火ダルマを想定して宮城前のくんれんである 〃
宝石はきらめき居たりおのづから光る術(すべ)などわれは知らぬに 蒔田さく子
毀誉褒貶の埒外にもう出たりと覚悟の自在か歌に毒あり 〃
公害の町に大きな陽が落ちてあしたのことはたれも言わない 永井陽子
アンモナイトの化石に耳をあててみるだれかにあげたい恋慕がひとつ 〃
大きければいよいよ豊かなる気分東急ハンズの買物袋 俵 万智
夕照はしづかに展くこの谷のPARKO三基を墓碑となすまで 仙波龍英
不況でもにぎやかですがなんにせよ日本のなかはがらんどうです 荻原裕幸
題名をつけるとすれば無題だが名札をつければ渡辺のわたし 斉藤斎藤
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした 笹井宏之
白塗りの殿さまさえも罹患する志村けんの死 嗚呼というまに 佐伯裕子
消毒薬しゅっと手指に吹き付けて食品売り場の結界に入る 松平盟子
すり抜けてクラクション浴びてゐるものはウーバーイーツの黒き自転車 梅内美華子
持続化の〈持続〉うたがい洗いたての指で給付の申請をする 江戸 雪
藤原龍一郎(ふじわら・りゅういちろう) 1952年、福岡生まれ。
撮影・中西ひろ美「新秋の膝つやつやに恥じらへる」↑