2016年8月30日火曜日
三橋敏雄「実に少しづつ核汚染秋の風」(『定本 三橋敏雄全句集』)・・・
『定本 三橋敏雄全句集』(鬣の会「風の冠文庫」・税込2500円・限定400部)の刊行がなった。林桂と「鬣」の同人諸氏の奮闘による。敬意を表したい。
その編集後記には以下のように記されている。
所謂戦後派と言われ、しかるべき仕事をして亡くなった俳人の生涯の全句集が纏められてきている。三橋敏雄もしかるべき存在として、その刊行を鶴首していたが、その様子なく、ついに痺れをきらして刊行当事者のひとりとなることとなった。晩年は人気作家であり、生前に『三橋敏雄全句集』(一九八二年)『三橋敏雄全句集〈増補版〉』(一九九〇年)と、二度にわたり全句集が刊行されたことも、あるいは、それ以降をも纏めた生涯を俯瞰する全句集の刊行の必要性を希釈してしまったのかもしれない。しかし、戦中から少年俳人として登場していた、最も長いキャリアを持つ戦後派の俳人として、三橋は、その仕事を俯瞰する必要がある。そして、そのためのテキストは是非とも必要であろう。
現に、このテキストを編みながら、自分は三橋の一面しか見ていなかったのではないかと、しきりに思われたのである。
これで、三橋敏雄の句業の主要な全貌を俯瞰することが出来るようになった。文庫版ではあるが、今後の俳句を担うであろう若い人たちにも手がと届く値段である(三橋敏雄にとっては、若い人などという意識はなく、つねに作品制作上のライバルという意識であったと思うが・・・)。著者生前最後の句集『しだらでん』以後の紙誌に発表された句のなかから以下にいくつかを引用しておきたい。
日の紅葉月の紅葉となりにけり
キューと亀鳴いていたる事実誰に告げむ
理心流使手の祖父鬢寒し
一滴もこぼさぬ月の氷柱かな
寒明くる闇の宇宙は闇のまま
生まれ合ふ五月蝿(さばへ)や見えぬ核汚染
敗戦は豫(かね)て当然終戦日
安産の後の空腹麦の秋
はんざきのひそむ山川なまの水
被爆地の夜夜をひとだま弱り絶ゆ
地球から見えざる地球去年今年
寝ては起き歩き駈け坐し去年今年
(辞世)
山に金太郎野に金次郎予は昼寝
三橋敏雄(みつはし・としお) 1920(大9)年11月8日~2001(平成13)年12月1日。東京府八王子市生まれ。
*【定本 三橋敏雄全句集の申し込み】↓
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電話・FAX 027-232-9321
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9月5日、毎日新聞記事を追加↓
2016年8月29日月曜日
鎌倉佐弓「弓に矢をつがえよ永遠を射ぬかん」(『鎌倉佐弓全句集』)・・・
『鎌倉佐弓全句集』(沖積舎)には二冊の未刊句集が収められている。ひとつは、第一句集『潤』からもれた、いわばエチュードの時期の句を集めたものだ。高柳重信風にならえば「前略十年」の句50句、『夕日の輪』である。この初期句集には、当然ながら、現在に至る鎌倉佐弓の句のモチーフと良質な抒情が胚胎している。もうひとつは、文字通り最新句集として刊行されるはずの未完句集に相当する『雲の領分』である。全句集「あとがき」には以下のようにしたためてある。
私の人生には、大きく分けて三つのできごとがあった。一つめは俳句との出会いと「沖」への入会である。「沖」で俳句を学んだ十数年間じは、楽しくかつ充実したものだった。二つめは夫である夏石番矢との出会いだろう。私が困った時、悩んでいる時、いつも的確なアドバイスをくれ、背中を押してくれた。三つめは俳句を英語に翻訳して出版したこと。どんなにわずかであっても、私の伝えたいことが伝われば。そう思って送り出した英訳句集だったが、私の俳句世界は格段に広がっていった。
ブログタイトルにあげた句「弓に矢をつがえよ永遠を射ぬかん」の「矢」は、夫・夏石番矢であり、「弓」はもちろん自身・鎌倉佐弓のことであろう。名を詠み込んでの意志表示である。
ともあれ、初期句集と最新句集からいくつかの句を挙げておこう。
三月の空にあまりし枝を剪る 「夕日の輪」
芽吹きゐて移り上手な渓こだま
父が植ゑし柏枯れたいように枯れ
くぼめるは何を忘れし冬帽子
見えぬ風見えないままに断崖へ 「雲の領分」
葦原のそこからは雲の領分
皿二まい先に割れたいのはどちら
手の平のこの水が国壊すとは
ゆれる梢まだ夏に触っていたい
風もまだつぼみ大空にふるえる
因みに栞文は復本一郎と神山睦美。
鎌倉佐弓、1953年高知県生まれ。
2016年8月28日日曜日
南方熊楠「ありがたき御世に樗の花盛り」(『ヴァーサス日本文化精神史』)・・・
坂口昌弘『ヴァ―サス日本文化精神史』(文學の森)は「俳句界」に二年半に渡って連載された稿をまとめた著である。「あとがき」には、
今回の連載もヴァ―サス(VS)批評の形をを踏襲したが、対象は俳人に限定せず、詩歌文学精神、芸術精神、哲学思想、広い領域の精神を表現した人々の比較を試みた。ここでの精神とは、人生観、死生観、自然観といった観・見方・考え方である。文学の創作にかかわらず、人々は何らかの人生観を持ち、日々の行動・創作に無意識に影響を及ぼしているが、その精神を明らかにしようと試みた。
とある。〇〇VS〇〇となってはいるが、比較対象された人物のそれぞれが独立した像を結ぶようにも顕わされているので、日本文化精神史入門の書として読める。愚生のようなその道に詳しくない素人にもそれなりの理解が届くのがいい。
最後の章は「「白川静VS梅原猛」だが、愚生には白川静の与えた影響にくらべると、素人目にも梅原猛の比ではないように思える。それを証明するように、著者・坂口昌弘も本著のいたるところで白川静の考え方を参考に持ち出している。
各章VSは「釈迦VSイエス・キリスト」にはじまり、最終章の「白川静VS梅原猛」まで15対・30名に及ぶ。坂口昌弘の郷里は和歌山県だったように思うが(思い違いだったら失礼・・)、「南方熊楠VS釈迢空」は特に面白く読ませていただいた。その因縁を以下のように述べている。
「粘菌は生死の界を研究するには最も都合のよいもので、生物の生と死とは同じである」と、私の親族で博物研究者の坂口総一郎は熊楠から聞いた話を、大阪朝日新聞に「高野登山随行記」と題する文章に書いている。大正九年、坂口が熊楠に随行して高野山の管長に会う途中、高野山の植物・粘菌採集をした時に聞いた話である。坂口は昭和天皇の紀伊行幸の際に、和歌山県側の実行委員として宮内庁と交渉をし、また戦艦長門に泊まり込み天皇と食事をし、熊楠と共にご進講をしていた。熊楠は仲介役が介在することを嫌い、自分で交渉するといって聞かなかったという。坂口総一郎の生存中にもっと熊楠の話を聞いておけばよかったと、今は残念である。
進めて、さらに、
熊楠の思想において最も特徴的なものは「事」という考えである。(中略)詩歌においても、「物」の客観写生と「心」の主観写生・抒情・想像の対立を考えがちである。高濱虚子と河東碧梧桐の俳句観の対立においても、「物」と「心」の二面性において俳句精神史が語られてきた。しかしながら、言葉の表現においては「物」と「心」以外に、物と心が交わるところに「事」が生じていることに注目する必要がある。
と展開する。一方、釈迢空については、
白川が「口」という漢字は祝詞を入れるための器であったことを発見したように、迢空は文学の発生を「呪詞(じゅし)だと直観した。人から神に向けての言葉が「寿詞(よごと)」であり、神から人への言葉が「祝詞(のりと)」であった。その祝詞は海坂のかなたにある「常世(とこよ)」からもたらされたものであり、「まれびと」(=神=異人)が唱えた言葉であり、それが詩歌のルーツとなった。
と指摘している。その他、熊楠が、当時「エコロジー」という言葉を用いて、神社合祀令に対して反対運動を起こしたことなど、現代の地球規模の問題にもふれる認識を得ていたことなど興味深い。
ともあれ、坂口昌弘の思考のなかにタオイズム(道教・道家思想)が色濃くあることは、その他の章を読めばおのずと明らかなようにおもわれる。
センニンソウ↑
2016年8月26日金曜日
鈴木志郎康「俺っちは化石詩人になっちまったか」(『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』)・・・
81歳の鈴木志郎康の詩集『化石詩人は御免だぜ、でも言葉は。』(書肆山田)が上梓された。
愚生が学生の頃、1970年代、現代詩は全盛のように思えた。その中で鈴木志郎康はプアプア詩人として「極私的」詩を発表し続けていた。
それは今も変わっていない。「あとがき」に、
この詩集も自分のことばっかりです。そこで、この詩集に収めた詩は「極私詩」というのがふさわしいと思いましたね。「極私詩」、なんかかっこいい。
とにかく、書き手の詩人がごちゃごちゃと自分のことを書いた詩なんです。主題を読者と共有して感動をもたらし、普遍性を追求する詩と違い、主題を「わたし、あたし、俺っち」の生活とこだわりに限って口語調で語っていく詩なのですね。まあ、読んでもらって、ひとりの詩を書く老人の存在を感じてもらえば、幸い、というわけです。
と記しているが、元をただせば「極私的」という言葉も志郎康の造語だったのではなかろうか。
本詩集は2015年3月から2016年4月までに書かかれたものである。タイトルにした「俺っちは化石詩人になっちまったか」はweb詩誌「浜風文庫」に発表された詩である。
鈴木志郎康の生活ぶりは「あとがき」に詳しく書かれているので、多くは記さないが、要介護の生活で、介護タクシーで病院に通ったり、それでもその日常から「言葉を貰うというのが、詩を書く上で大変励みになる」という。
恣意的に一番短いと思われる詩を以下に紹介しておきたい。
ドブチャクが続いて困ったもんだ。
ドブチャク、
ドブチャク、
トップチャックならまだしも、
ドブチャクはいけません。
でも、
ドブチャク、
ドブチャクが続いているんですね。
困ったもんだ。
ほら、
また、
ドブチャク、
ドブチャク。
2016年8月22日月曜日
宮澤明壽「かうやつて戦争は来る鶏頭花」(『そらまめ』)・・・
宮澤明壽第一句集『そらまめ』(青磁社)の集名の由来は、次の序句より。
そら豆や黙認の眼となりゐたり 明壽
宮澤明壽(みやざわ・めいじゅ)昭和5年、東京生まれ。句集には平成2年から28年の句を選び収めたとあった。
句歴は「炎環」(石寒太)、「雁坂」(中嶋鬼谷)、「扉」(原雅子)とある。
著者の住所をみると埼玉県在住とあるのに、京都の青磁社からの刊行とは少し変わっている。もっとも歌人の方々にはなじみの深い、良い仕事をしている出版社。本著『そらまめ』も装幀・造本は、愚生の好みである。
ともあれ、いくつかの句を拾って紹介しておきたい。
さみだれの上がりし道の匂いかな
グスコーブドリ弐圓弐拾銭曝書
ねぢばなのねぢれはじめのはなひとつ
しんがりの影は踏まれず雲の峰
遠い日になるのが怖し酔芙蓉
ちりぢりに別れて駅の秋夕焼
晩年の永き有耶無耶寒に入る
蹤きてくる足音の外れ冬の霧
開巻は眼の句、巻尾も目の句であった。
綿虫のゆくへ私の目の行方
クワ↑
2016年8月21日日曜日
本井英「秋風の聞こえはじめてやがて吹く」(『開落去来』)・・・
本井英は第4句集『開落去来』(ふらんす堂)の書名の由来を、「あとがき」に
書名の「開落去来」は、私が大切にしている虚子の次の言葉からとった。
人生とは何か。私は唯月日の運行、花の開落、鳥の去来、それ等の如く人も亦生死して行くといふことだけを承知していゐます。私は自然と共にあるといふ心持で俳句を作つてゐます。
(「ホトトギス」昭和二十四年四月号)
と述べている。自らの達観もそこに求めているのだろう。またそのことを仁義として「花鳥諷詠」の根本的立場だと示している。
ともあれ、いくつか句を挙げておきたい。
虚子に〈廃川に何釣る人ぞ秋の風〉の句あれば
廃川に釣る杞陽ぞ秋の風
按ずるに「みや」と啼くゆゑ都鳥
火の山の裾や夏野を貼り合はせ
俳誌「夏潮」を思えば
討死も覚悟の一誌獺祭忌
とつとつとつとつとつとつとつ狐去る
停車駅ではゆつくりと降れる雪
蟻の道仲良しなどはをらぬらし
寒禽の声からみけりちぎれけり
数珠玉のまだ色づかぬ青二才
本井英(もとい・えい)、昭和20年、埼玉県生まれ。
2016年8月18日木曜日
打田峨者ん「落書あり≫NO MORE PEACE!!≪蓮は実に」(『有翼樹』)・・・
句集『有翼樹』(書肆山田)著者・打田峨者ん、1950年東京小金井生まれ。俳諧者、なぐり描き俳画者(内田峨(たかし)。
「追書」に、以下のように記してある。
本書、第三句集には一九九八年から今春までの二三八句を収め、編集は四季別の部立(雜(ぞう)を含む)に加えて「句日記」と「連作」、それら本文の前後に、¨さきぶれ”及び”なごり”の句を据えて構成した。既刊二句集との句の重複はない。
また、冒頭には、
俳句の言葉は、およそ個体であり、言うに事欠いて言えば”物塊¨である。折々ややもすると、あたかもそれが二本の指もしくは割り箸を使って、又はピンセットを以てヒョイと抓み上げることができるものででもあるかのような、そんな心持にさせられるのは、ひとり天涯に此の私だけであろうか❓(仮に私だけであったとしても、私はその運命を甘受し、あまつさえ運命愛(アモール・ファティ)へと育成するに毫も吝かではないのであるが――)
と述べ、後半に至るに、
ジャンク・アートやノイズ・ミュージックとして概念化され、洗練(無毒化)されて、¨市民権¨を得る前のノイズそのもの、ジャンクそれ自体としての音塊を、変則的リズム・ショットとして投げ込んでは亀裂の如き余白態を創り出すジェイミー・ミューアの言わばダダ的方法意識 ̄― これは私の中で、日本近代に於る¨常ならぬ人¨赤尾兜子の実験的俳諧精神とそのフモールの丹田に於て累(かさ)なり合うのである。
と言挙げしている。句歴28年、無所属、常に単独で俳諧・俳句をなしてきた打田峨者んの志と方法をよしとしよう。その昔?赤尾兜子こそはもっとも前衛的と云われた詰屈とした文体を生み出していた俳人だった。
打田峨者んのいくつかの句を挙げておこう。
雨一番 鉄葉(ブリキ)に春のオクターブ 峨者ん
天金に明治の塵や鷗外忌
本盗の束の間 帰燕の夕間暮
古書市や傍線紅き『智恵子抄』
1945.8.15
「せしめたり」―-雑音(ノイズ)を玉(ギョク)とせしめたり
2011.3.12―-極東アニミズムの不意の黄昏
原発忌 山川草木国土悉皆
9.19(土)未明――アメリカに牛耳られ安保法制
可決。戦後七〇年目の秋の事、折しも子規の忌日
終りたる長き「戦前」 柿を剥く
2016年8月17日水曜日
浅沼璞「敗戦忌かそけき箸の音ばかり」(「俳諧無心」句会)・・・
昨日、16日は江古田・旭丘集会所で「俳諧無心」の句会に招かれ参加した。
夏休み期間中とあって、帰省する学生もおり、いつもの会よりも人数が少ないということであった。
台風7号が接近し風雨の心配あって、少し早めの散会となった。
浅沼璞の日大ゼミを中心とする会で、愚生にとっては若い人たち、学生の感受性の今を垣間見ることができ、いい勉強ができた。
それは、たぶん、今も昔も変わないことだとおもうが、文芸に限らず、その時代の感受と認識を携えてくるのは、若い世代であり、次の新たな作品を生みだす力と土壌も必ずそこに胚胎するということを、改めて思ったのだった。
未熟という不足は、そのまま未来への志を満たすエネルギーを醸成するはずだ。
句会は当季雑詠3句とその批評ののちに、出自が連句の会であるからだろう、当日の句から、各人が「三つ物」を浅沼璞先生の指導のもとに作った。
ともあれ、当日の一人一句を挙げておこう。
垂直につり革垂れる原爆忌 みなまだ けい
盆踊り持たざる者の強さかな 椿 屋烏
ともだちのメールを消して秋の聲 西原紫衣花
風死して銀行前の影を見る 瀧本真知子
星合や線路の上に立つてみる 副島亜樹
ビン底の逆さセピアよ白芙蓉 加藤湖標
これからの氷菓のことを話し合ふ 浅沼 璞
つぐなえる死などはなくて母の秋 大井恒行
2016年8月14日日曜日
石塚真樹「万の瞳(め)を見て月白の被爆船」(「俳句人」NO.664)・・・
「俳句人」NO.664(新俳句人連盟)は「平和特集「2016・憲法が危ない」である。特別寄稿に石寒太、筑紫磐井、衣川次郎、田中亜美が句とエッセイを執筆している。
時評「青い空から誰が、何を」の田中千恵子は、松尾あつゆき「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明」の句を冒頭に掲げたのち、最後に以下のように結んでいる。
広島の原爆ドームを背にして、安倍首相はオバマ大統領と共に、「核なき世界を必ず実現する」と誓ったはずだ。その言葉を空手形にしないでほしい。私たち俳人は、二度と松尾あつゆきのような慟哭の絶唱を詠いたくない。詠う状況を作ってはならないのだ。
明日は敗戦忌である。平和な生活こそが希望を得ることのできる礎なのだ。あらためてその困難な実現に思いをいたしたい。
以下に平和特集の句を掲げておきたい。
春の月またも原発再稼働 石 寒太
戦争に美学と違ふ大義あり 筑紫磐井
国家てふ屋根石重しデイゴ咲く 衣川次郎
白靴もハンカチも無く敗戦忌 田中亜美
軍事基地囲むたんぽぽ坩堝なす 入江勉人
B29無人機となる積乱雲 近吉三男
とんぼ死す目玉に映る核の雨 柚田重代
咲く薔薇の真中にある第九条 丹生幸美
エプロンを丸め街宣夕焼くる 菅谷かしこ
2016年8月13日土曜日
山口剛「戦争が近くなりたる百日紅」(「祭」第55号終刊号)・・・
昨年10月12日、山口剛(やまぐち・ごう、本名 中野剛)は食道がんで亡くなった。享年67。まだ若すぎる、という口惜しい死であった。
このたび「祭」終刊号が、彼の元に残されていた原稿類とともに夫人・中野美智子の手によって発行された。ブログタイトルに挙げた「戦争が近くなりたる百日紅」は、昨年8月、最後の句会に出句されたなかの一句である。
追悼の「山口剛を偲ぶ」では、河村正浩、青木澄江、村上あかね、柳田芽衣、古里昭夫が寄稿している。
彼は、上京するたびによく津沢マサ子宅を数人の俳人ととも訪ねていた。愚生も何回か同行させてもらったことがある。
夫人・中野美智子の「あとがき」の中には、
会員の皆様方より多くのご支援を頂き、また、遠方より沢山のお励ましのお便り、お言葉を頂戴し、55号を最終号として形にすることとしました。今回遺された資料から夫が55号に掲載したかった事柄を充分に載せることが出来たかは定かではありません。素人の私では夫の立場で判断する術もなく、皆様のお力をお借りして、何とか「祭」最終号を発行することが出来ました。本当にありがとうございました。
とあった。以下に河村正浩の「剛さんとの思い出、そして句集より」の中から、河村正浩の追悼句とともに、山口剛のいくつかの句を引用して挙げておきたい。合掌。
一月一日この山川を贔屓する 剛
寒牡丹の芯は確かに海鳴りで
この国はすでに戦前蛇の衣
母老いて北の渚のようである
晩年へ眼をみひらきて初桜
予告編みるように雪見ておりぬ
白鳥の帰心われらは手をつなぎ
浄土へと君秋風とになつて行く(弔句) 正浩
残照の海にいつまで冬の日矢(追悼)
シロサルスベリ↑
2016年8月10日水曜日
鳴戸奈菜「戦争が目を覚ましそう青柿落つ」(『文様』)・・・
鳴戸奈菜句集『文様』(角川書店)。「あとがき」に言う。
句集名の『文様』とは模様を意味する。「文」一字にも模様の意味があるが、これを知ったとき、そうか、面白い、いつか句集名にしたいと思っていた。なぜなら季語は別格として、五・七・五の言葉はそれぞれの意味、及び視覚的聴覚的効果が結集してこの世の模様(有様)を形成するのではないか、と思うからである。
『文様』の装幀もなかなかいい。装幀者は三宅政吉。鳴戸奈菜が2011年から2015年の五年間の作品を収める第七句集。日常的な所作のなかに日常的な感懐をほどよくほどこした句群は、その自在さをこれまで以上に加えているようだ。以前の硬さは薄らいでいる。
師は永田耕衣。その力技の境地を、長い晩年の月日を鳴戸奈菜は追いかけるていくかも知れない。
ともあれ、いくつかを以下に挙げておこう。
昼のあと夕暮れとなり盆踊り 奈菜
春ショール母の白髪jか抓み捨つ
水中花ひとつ気泡を吐いて静か
この星のいのちいつまで星祭
わたくしは我を不仲で桜の昼
ゴリラよりゴリラのごときゴリラで春
いずれくる人類忌いま花の宴
紅(くれない)という闇の色曼珠沙華
秋風を眺めておりぬひとりひとり
鳴戸奈菜、1943年、旧朝鮮京城生まれ。「らん」発行人。
フウセンカズラ↑
2016年8月7日日曜日
山本敏倖「感情の留守のあたりへ蜥蜴出る」(『断片以前』)・・・
山本敏倖第三句集『断片以前』(山河俳句会)の句数は575句。句集名は以下の二句からの合成か?
断片は彼岸花的急降下 敏倖
海市から感覚以前のかんかく
ただ、彼の「あとがき」によるとこうだ。
題名の『断片以前』は、第二句集から続く音韻との関わり合いを鑑み、言葉以前、言葉が言葉として像や機能が確立するそれ以前、まだ断片にさえなっていない音韻のみで意志の伝達を図っていた頃の思考回路に立ち返り、その気分と感触で、現代の日常使用されている言葉を感覚のみで結合したらどうなるか。自身の来し方の感慨を含め、五七五という韻文で表白したらとの思いをテーマに生れた。
さらに、
あえて感覚優先の選句を行使し、結果は読者の感性に委ねることにした。
とそっけない。愚生のごとき年寄りの感性ではもはや句を読むに難解の淵に沈みこみそうである。
構成は阿部完市の薫陶を受けた時期と、その死去によって完市死後の作品を二部に分けて構成しているという。
感覚とはいいながら、それでも、ブログタイトルにした句「感情の留守のあたりへ蜥蜴出る」は、加藤郁乎「楡よ、お前は高い感情のうしろを見せる」を下敷きにしているのではなかろうか、と思ったりする。
ともあれ、感覚的にいくつかの句を拾い、紹介しておきたい。
東西南北うすくうすめてみずすまし
かたつむりのかたるしすはしかしかんたん
地上まで滝であること忘れけり
この期に及んで亀が鳴く石が鳴く
あじさいのあっけらかんをまいている
薬物のきつねは遠く灯りけり
滴りを追う滴りも追われけり
赤とんぼ文字の起源へのめり込む
おぶらーとする遠火事はみるくの匂い
枯蔦の紆余曲折が捨ててある
沸点ですかうかうかと芽吹いています
鳥居さんの磁気あらしかなきさらぎ
体内の水が鳴り出す十三夜
近松忌遠心力を私す
山本敏倖(やまもと・びんこう)、1946年東京生まれ。「豈」同人、「山河」代表。
フヨウ↑
2016年8月5日金曜日
山田弘子「モンローの手型に落としたる嚔(くさめ)」(『私の俳句入門』)・・・
国光六四三著『私の俳句入門』(文學の森)は、「俳句鑑賞」「俳諧小説」「俳句評論」の三部構成だが、もっとも説得力に富んでいる部は、山田弘子の俳句を評している「平明と流行」の部であろう。
山田弘子(1934~2010)は兵庫県生まれ、「円虹」を主宰し、その結社誌は現在、娘の山田佳乃が継承している。
亡くなったのは6年前、愚生には、元気盛りに急逝された印象が深い。
掲句の「モンロ-の手型に落としたる嚔(くさめ」に、著者は、以下のように記している。
ハリウッドの映画館で、敷石にはめ込まれた映画スターの手型や靴型を見たときの即興句である。セックスシンボルと云われた女優マリリン・モンローと、くしゃみの取合せの落差が、なんとも云えず可笑しい。
別の部だが、「子規の革新・虚子の伝統」の項で、虚子「独り句の推敲をして遅き日を」の大谷句仏への追悼句が遺作となった経緯を、以下のように述べるときに著者の批評眼が垣間見える。
虚子は有季・定型のきびしい制約のもと、一貫して「平明にして余韻ある俳句」を求めつづけました。ただし、「客観写生」「花鳥諷詠」という二つの指導語は、俳句が平板な瑣末主義に陥る危険性を孕んでいました。すなわち、季題季語を育んできた人々の生活や心情を忘れた、自然界への逃避です。
国光六四三(くにみつむしみ)、1957年兵庫県生まれ。
以下に著書に引用された山田弘子の句からいくつかを記しておこう。
主婦にある自由の時間秋灯下 弘子
霜の夜の君が攫ひに来はせぬか
蕗の薹みどり何枚着てゐるか
円虹をもて六甲の春意とす
パンジーのあなたの好きな色はどれ
居候らしく草取などもして
みよし野の花の残心辿らばや
眼の翡翠のこし蟷螂死にゆくか
2016年8月3日水曜日
菅章江「花火待つ無傷の空と海と人」(『水仙』)・・・
管章江(かん・あきえ)第二句集『水仙』(文學の森)は遺句集である。昭和10年、大分県生まれ、享年79。大牧広はその序文で最初に「港」大森句会に現れたときは、ご主人の介護で目の離せない時期だったと述べ、しばらくして、作者自身も闘病生活に入ったと知り、
そして、今年四月に菅章江さんの訃報に接したのである。私と同世代と思っていたので、胸に深くおどろきと、さみしさが生れて、しばらく消えることはなかった。
とその死を惜しんでいる。
茎立やけなげな笑顔目に残り 大牧 広
図らずも残された夫は、謝辞のなかで、
妻は俳句が好きでした。
好き、というより、妻にとって俳句は、まさに生活の一部でした。(中略)
日中はいつも忙しく働いており、まとまった時間が取れなかったのですが、仕事の合間に手を止めてちょこちょこと手帳に句を記し、また働いては句を書く、ということを繰り返していました。頭の中で言葉を繰りながら、仕事をしていたのかもしれません。
日常生活の中で生まれた言葉を、妻は俳句にしていました。
巻末の長女・川上ひろみによると、遺品の中からは、
俳句があってよかった
夫がいてよかった
娘がいてくれてよかった
のメモが出てきたという。 こうして遺句集が編まれるのは、誰にとっても子の上ない僥倖というべきだろう。
幾つかの句を以下に挙げておきたい。
いまや空し不戦の誓ひ敗戦忌 章江
蒲公英やたたかふ時は素手がある
揚雲雀かなしき性を組み込まれ
狂ひたる時計を合はす建国日
草泊りせし日は遥か父よ母よ
確定申告余命三日をつひやして
干蒲団ふはり心臓眠るなよ
毒茸死ぬほど笑ひしこともなし
夫の手のつめたしひたすら懐かしき
眠られぬ夜は眠らずに青葉潮
天瓜粉夫を大福餅にしてしまふ
見し夢を娘と話す春の川
オオケタデ↑
2016年8月2日火曜日
小島健「蛇の衣暮れては蛇に戻るらむ」(『自註現代俳句シリーズ』)・・・
『小島健集・自註現代俳句シリーズ』(俳人協会)は、自句自解のほどこされた著者自選300句のシリーズ本である。著者の創作の在り様をうかがうには手ごろな一冊というべきか。著者「あとがき」に、
俳句は本来独立した一句でしかないのに・・・・。蛇足かつ自由気ままな自註になってしまったようです。気楽に、笑って楽しんでご覧いただければ幸いです。
と記されている通り、気ままに書かれていて、創作の秘密にふれるというよりは、小島健の人柄に触れるような趣にあふれている(妻や子を詠んだ幸せ気分の句も多い、酒の句も)。
だが、創造される句もある。例えば、ブログタイトルにした句は以下のように述べられている。
蛇(へび)の衣暮(きぬく)れては蛇(へび)に戻(もど)るらむ 平成十五年作
蛇の抜け殻も蛇同様に不気味ですね。あるいは、夕暮には蛇に戻るかもしれません。ウーン、それは困るなあ。
というような具合だ。もう一つは、別の趣向を・・。
今年竹叩(ことしだけたた)くやおうと揺(ゆ)れ返(かえ)す 平成二六年作
「いやあ、いつの間にか大きくなったなあ」「おう」てなわけで。
ともあれ、以下にいくつかの句のみを挙げておこう。
虫の音のはるかを父母の歩みをり 平成三年作
ゆく春の田螺ほろりと沈みけり 平成七年作
月山を乗せて走れり花芒 平成十二年作
狼は今夜出るぞと山の冷 平成十二年作
鳥籠の四温の水のふくらみぬ 平成十八年作
一生の一所を靡き冬芒 平成二〇年作
日盛や暗きより声かけらるる 平成二三年作
冬銀河時間の砂を撒きにけり 平成二四年作
2016年8月1日月曜日
金子兜太「夏の山母いてわれを与太という」(『現代俳句の断想』より)・・・
安西篤『現代俳句の断想』(海程社)は著者の第三評論集、現俳句界で金子兜太をこれほどしゃぶりつくしている人はいないと思われるが、本著第一章は「金子兜太をしゃぶる」。第二章「個性像さまざま」の中に、阿部青草鞋、阿部完市があるのは嬉しい。また、第三章「俳句形式の問題を探る」のなかでは「俳句の音韻について」が、一時期の音韻論の流行?がきちんと整理されていて貴重。最後の「状況と個」では「俳句初心の頃」が俳句と遭遇した頃の、彼自身の出自が素直に語られている。戦後混乱のさなか自宅の蔵で見つけた祖母の俳誌のなかに臼田亜浪「心澄めば怒涛ぞ聞こゆ夏至の雨」に吸い寄せられたのだという。
兜太がらみでもう一つ「オルガン」6号を紹介しておきたい。
若い人たちの雑誌にしてはめずらしく金子兜太との座談会が掲載されているのだ(兜太も正直で、若い俳人たちを挑発している)。内容はこれまで兜太が語ってきたことに、ことさら新しいことが加えられているわけではないのだが、兜太流与太話はわかりやすい(にくめない)。例えば、高度経済成長期後のこと、
テーマを持つなんてことを嫌うような主張も出てきた。俳句にテーマなんかない、と。もっと日常性を普通に書けばいいんだというようなのがはびこってきて、(中略)そこに鷹羽狩行のような食わせ物が出てきて、まったくしれーっとした顔で主張も何もない、まるで馬の屁みたいな男がね、馬の屁みたいな俳句を作ってそれでもてはやされるという現象があった。あの男にはいい感覚があった。だからニューヨークに行ったりするといい俳句を作る。何もかくあるべきだという考え方はないわけだよ。でも人間が表現するもので、その人間の覚悟とか信念がでてこないというものはさみしいですよ。
と語っている。もうひとつ、「オルガン」では座談会「視覚詩」があって、ゲストに小津夜景を加えて論じている。この方は少し高尚で、こちらは読者の方々に直接読んでもらいたい(愚生には手に余る・・)。
以下は「オルガン」6号から一人一句。
日記にして親しき今日や明日も夏 生駒大祐
目の向きと葵の向きとゆき違ふ 鴇田智哉
うづくまる空に泰山木の花 宮本佳世乃
まひの ここちで あおぐ ふうりん ひかりと かげ ふくだわかゆき