2019年2月28日木曜日
遠山陽子「象などを見るうかうかと春を病み」(「弦」41号)・・
「弦」41号(弦楽社)、表2に、「高橋龍さんを悼む」(遠山陽子)とある。「あとがき」には、「私事ながら、昨年末に急に体調を崩し、心臓の手術を受けた」とあった。そして、
暮れから正月にかけて入院生活からようやく生還して編集を再開、戴いていた原稿を整理しているとき、驚いたことに、旧臘、原稿を送って下さっていた高橋龍さんの訃報を聞くことになったのである。今回の龍さんの文章は、いつもの研究的なものではなく、ご自分の産まれ故郷流山について、幼少時の追憶を交えつつ歳時記風に書かれたもので、誰が読んでも自分の故郷を思い起こすような懐かしさに充ちた文章である。龍さんもこのようなものを書く心境になられたのかと思っていた矢先の訃報であった。
とあるように、高橋龍の幼少時の自伝としても読める。愚生には初耳のことばかりであった。まさに高橋龍の絶筆であろう。題は「追想十二ヶ月」。一月から十二月までを追想の歳時に合わせて書いている。例えば「四月/米屋」では、
昭和十一年九月に父が急死したので生活に困ったわが家では、わたしと妹を伯父(父の兄)に預け、母は東京で自活することになった。伯父は米屋で堅実な人だった。(中略)伯父は長男が独立して青果商になるらしいので、わたしを米屋の跡継ぎにするつもりになったのか、朝炊く米を毎日変えて、今日は農林一号、次の日は日稲銀坊主とその味のちがいをわたしに覚えさせた。(しかし昭和十五年に米は配給制となって米屋は消滅してしまた)
また、「八月/出征兵士」では、
八月に入ると支那の戦火は拡大し、流山の町からも続々と兵士が招集された。わたしの家は駅に近かったので毎日見送りに行った。布製の日の丸の小旗が無いので、半紙に丼の蓋で赤インクの日の丸を画き半紙の片側に糊をつけ篠竹の枝に貼り付けたが、糊が乾かないうちに打ち振るのですぐ切れてしまう。午前中は旗を作り午後は見送りというのが毎日であった。
さらに、「九月/父の死」では、
母が不在であったのか、父はわたしを連れて「運座」へ行った。運座とは旧派の句会のことである。元々流山の旧派の宗匠は祖父の芳之助(蔦丸、不及斎を継いで五世風馬)であったが、昭和六年に死亡。その後を平井靖修という高島流易断の占師が継いでいた。場所は電気屋(東京電燈の集金人)の奥座敷で、中へ入ると部屋を四角に取囲んだ人たちが話もせず黙って何か考え事をしているようで異様に思えた。
とその様子が書かれている。戦前の史実としても、このように語られるとまだ遠い昔のこととは思えない。「十月/蝗捕り」では、
三年生(昭和十三年)十月の日曜日の朝。田圃で蝗を捕り先生(和田芳美)の下宿へ持って行く。先生は蝗を茹でて乾し自転車で千住の佃煮問屋へ売りに行き、代金に自分の小遣いを足した十円を国防献金として陸軍省に送金し、献納機の資金にした。年末に、陸軍省から感謝状が送られてきた。陸軍大臣板垣征四郎(陸軍中将)と書かれていた。和田先生はゲンコツ先生といわれていたが、鉄拳制裁とかパワハラではなく、コツンである。
これらを読むと、改めて髙橋龍はなかなかの文章家である(かつて、高柳重信編集時代の旧「俳句研究」の匿名コラムでは、他の人の文体を模して書いたことも一度や二度ではない、と聞いている)。ほかに福田若之「わたる孔雀ー三橋敏雄の句作と想像」は新鮮な三橋敏雄句論、そして鴇田智哉「遠山陽子『平成三十年』雑感ーすくと立つ」には、
遠山陽子さんの句に私は、硬質なイメージをもっている。いや、頑固に固いというわけではない。なんというか、ウエットでない、でも即物すぎもしない。(中略)静かな気高さの雰囲気がある。いい意味で、土着的でない、農村的でない、ということかもしれない。
と、まなざしが優しい。ともあれ、以下に、遠山陽子「平成三十年」の句から、いくつかを挙げておこう。
原子力空母(ロナルドレーガン)しづかな灰色(グレー)年移る 陽子
初日さす核のボタンは机上にあり
カズオ・イシグロ真冬のスーパームーンかな
平服でお越しください春の黄泉
踏みすべる小石も夏のはじめかな
かたつむりつるつるつらつらつばきの木
かもめくる敏雄は雅号もたざりき
おほをんなかく老い紅葉かつ散れり
娘婿幸一さん
かくも逝き急ぎし君よ玉緒(みせばや)よ
黄海も黄河の果ても雁の空
2019年2月27日水曜日
梅内美華子「疲れたら自然と眠くなりますよ ああ原子炉(わたくし)はいつ眠るのか」(「現代短歌」3月号より)・・
(前略)福島の原発事故が起きた現在、わたしたちは福島の経験をみずからの経験とすべきだろう。福島の八年の苦難が培ったものを、日本全土に架橋する時だ。
この、アジテートをよしとしたいと思う。原発による苦難は、その廃炉への射程からすれば、まだ8年しか経っていないのだ。この一部始終は忘れられてはならないにもかかわらず、他の原発は目白押しに再稼働をしている。よくいわれる様々な立場がある、などというのは、たぶん、被災の当事者ではないからそう言えるのであり、愚生も含めて、心の奥底で、仕方ないのではないかと、諦めている部分があるのではなかろうか。声にならないまでも、その声を届けなければならないのではないかと、改めて思わされた。それにしても、俳句総合誌で「原発を詠む」という特集をしたとして、およそ駄句の山を築いてしまうのではないかという恐れが十分にある(ごく少数の句をを除いて)。それでもたぶんやる意味はあるだろう。で、詩歌のフォルムの違いによる現実的な困難を引受ける意味はたぶんそれぞれの作者に降臨するだろう。
本特集で吉田信雄は「故郷喪失」に書く。
昭和十五年から十七年にかけて、高さ三十メートル余りの海岸の段丘の上にひろがる山林を軍が拓いて飛行場ができました。勤労奉仕という無償の労働力でつくられた飛行場でした。(中略)
終戦後、飛行場には誰もいなくなりました。(中略)飛行機のタイヤや燃料タンクをとった。(中略)それに海水を汲んで塩を焼いたんです。(中略)昭和二十三年には国土計画興行株式会社が土地の払い下げを受け、塩田を拓きました。西武グループの創業者の堤康二郎が戦前におこした会社でした。
つまり、昭和三十年代、その国土計画興行の所有していた土地を東京電力は買収交渉をし、原発を建設した。
飛行場に次ぎて塩田つづまりは原発となるわがふるさとよ 吉田信雄
一時帰宅に帰ればわが家の軒下に飼い犬は死せり繋がれしまま
原発禍に人影のなきふるさとの墓のみ祖の骨を拾へり
結びに、吉田信雄は、
ふるさとがなくなるということは金銭で購えるようなことではないと痛切に思います。しかも、わたしの家は廃棄物の中間貯蔵地で、中間と言いながら、「最終」になってしまう危惧もあります。そのことを後世に伝えていくことがわたしの義務ではないかと感じています。
と記している。
地元では使へぬ百万キロワット山越え遠く首都圏へ行く 伊藤正幸
また、高木佳子は「『当事者』を問う」で、「場とことば」として、
ことばもまた、時期によって、場によって、読み手の質によって変化する。変化は読み手(受け手)によっては、思いもしない興味深い反応が生まれる。豊かな読みにつながればいいが、意見が違えば拒絶する。あるいはバッシングするという短絡的な反応として現れてくるのが現在の状況だ。
と苦悩し、「私たちに『当事者』はいなくなったのであろうか?そうではなくて、この不条理な状況をどうかんがえるのか、それもまた『当事者』であると言えないだろうか」と述べている。
あるいは、江田浩司「岡井隆の短歌を中心にして、『原発と前衛』について考えたこと」では、
岡井短歌の本質に通底する特質がある。岡井固有のジェンダー観に根を置く岡井の原発の歌は、岡井隆の前衛性と分かち難く存在している。岡井短歌が内在する否定の前進性は、科学やテクノロジーの進歩主義と同次元に語ることはできないが、どちらも近代主義のパラダイムの枠の中にあるのである。
と指摘している。ほかにも興味深い論考、エッセイが多くあるが、ここでは、アトランダムに短歌作品を以下にいくつか挙げておきたい。
この国に女宰相生(あ)るる日と核兵器持つ時代(ときよ)といづれ 岡井 隆
亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこに暗くこごれば 〃
癌ゆえに逝きし妻ぞ被爆地の福島に住み逝きにし妻ぞ 波汐國芳
「廃炉担う若い力」というけれど誰にも担う義務はないのに 梅田陽子
食べるわけないと思ひつつ想像する水仙の毒を食べてそれから 小林真代
事ここにいたりてなほも再稼働したがる顔を見たい、見せてよ 佐藤通雅
原発を恐るるは無知か安全を言ひ張ることもあはれ蒙昧 中根 誠
わが部屋より原発の塔の点滅日々見てをれば責めるもむなし 猿田彦太郎
蝶形(てふがた)の四国うつくし一点に燐(りん)集まりてしんしんと燃ゆ
高野公彦
稼働せし日はごくわづかその後も冥王(プルトニウム)を抱きたるまま
紺野万里
とこしへに原発事故の起きぬことねがひて春の雪空あふぐ 田宮朋子
撮影・葛城綾呂 有明のスーパームーン↑
2019年2月26日火曜日
筑紫磐井「無駄なほどの水で君等を無害にす」(「俳句界」3月号より)・・
「俳句界」3月号(文學の森)、第20回山本健吉評論賞受賞作・宇井十間「スンマ・ポエティカー造型論における世界観の問題」全文掲載。特集は「『読み』の深さ・重さ」、論考は青木亮人、その一句鑑賞に宇多喜代子・黒田杏子・山﨑十生・岸本尚毅・上田日差子などだが、何と言っても指を屈するのは筑紫磐井特別作品50句「虚子の非戦」だろう。ブログタイトルにした「無駄なほどの水で君等を無害にする」の句の君等は原発のことをアナロジーしていると言っていいかもしれない。しかし、原発だけではない、当然、君等は僕等である。先行する「僕等」を詠んだ句、高山れおな「無能無害の僕らはみんな年鑑に」のパロディ―であるかもしれない。時代を遡れば、かの社会性俳句時代に多くの君等や僕等が詠まれた。連帯や絆がまだ信じられていた時代のことだ。佐藤鬼房「友ら護岸の岩組む午前スターリン死す」。平成の終り近くに、まさに平成を代表する句群、それも他の俳人の誰にも似ない磐井文体を佇立させての、その圧巻の50句から以下にいくつかを挙げておこう。
古典乙1 せんじゆといへるところでふね 磐井
不図(はからずも)医者に呼び止められて死す
常に誰もいびつな顔で戦争す
買ふたびに妻は高価なものとおもふ
駄句おほく評論あふれ健吉忌
眠りては醒めない妻を冀(こひねが)ふ
子規 国を憂ふるときに詩がうまれ
信念は大河にも似た大革命
性懲りない この道を行く 帰れない
投票をボイコットしに行く日なり
医師一人患者一人に死者一人
また戦争 視力まつたき老人が
角膜に浮かぶ原爆第3号
★閑話休題・・『WEP俳句年鑑2019』「俳句の〈現在〉について」・・・
筑紫磐井つながり・・『WEP 俳句年鑑2019』(ウエッブ)で筑紫磐井は「兜太・なかはられいこ・『オルガン』ー社会性を再び考える時を迎えて」を執筆している。その中に、
ビル、がく、ずれて、ゆくな、ん、てきれ、いき、れ (なかはられいこ)
(WE ARE!三号 二〇〇一年一二月)
この予想外の内容(見て分かるようにメッセージなどはない)、表記、韻律は、明らかに社会性を持ちながらも社会性を超えた文学となっている。定型、季語、季題を破壊しなければ作者の思いが伝わらないのである。(中略)
川柳が、こと社会性に関して、優柔不断であった伝統俳句を超えた一瞬ではないか。
と記している。また、他にも西池冬扇、坪内稔典、岸本尚毅、角谷昌子、酒井弘司など多くの論者がそれぞれ持論を展開しているが、「俳句の〈現在〉について」、平成の終りに、その俳句の見取り図を明確に、具体的に描いていたのは林桂だった。以下に抄録しておこう。
昭和の社会性や前衛の兜太と過渡の詩の坪内、平成の存在者や天人合一、アニミズムの兜太と口誦性、片言性の坪内は、私などからは遠くで軌を一にした軌跡に見える。兜太は主に書く内容に拘だる変遷であり、坪内は俳句形式の認識に拘って変遷である。この二人の俳句観の変遷を追うことは、昭和俳句と平成俳句の変遷を追うとともに、その本質を考える今後の課題となり得るだろう。
そして、また、角谷昌子が「ユネスコ無形文化遺産登録についても各協会が一緒に協力してゆく必要があるだろう」と晴朗に述べているが、この問題についても林桂は、
二〇一一年に、T・トランストロンメルが俳句詩でノーベル文学賞を受賞している。ある意味、俳句は世界文学として認知済みである。俳句は日本語の属性だと考えるのならばともかく、多様な言語の中に俳句の可能性が残されているとするならば、日本の俳人が受賞でいるように、質の高い翻訳テキストを充実させる方がよのではないかと思う。そこで俳句を洗い直すことも可能だろう。
とまっとうに述べている。
2019年2月24日日曜日
中山よしこ「白一輪ヘップバーン似のチューリップ」(第188回「遊句会」)・・・
先日2月21日(木)は、第188回遊句会だった。兼題は、春の雪、あさり、チューリップ。点盛りは最高点を山田浩明と中山よしこが分けたが、グログタイトル句はレディーファーストで、また、愚生の意中の句でもあったので、「白一輪」の句にした。以下に一人一句を・・
悔いならば積もるほど有り春の雪 山田浩明
浅蜊炊く匂い濃き路地佃島 渡辺 保
喫水(きっすい)を下げて帰港す浅蜊舟 石飛公也
孫は泣きもう笑っておる春の雪 石原友夫
再生のお衾ならむ春の雪 石川耕治
遠い日の試験の苦(にが)さ春の雪 植松隆一郎
砂抜かず拗ねた浅蜊のふたつ三つ 橋本 明
大槌の海にも浅蜊風薫る 横山眞弓
天窓にふわりふんわり春の雪 中山よしこ
海埋めて何が本場(・・)の浅蜊汁 川島紘一
海たえまなく流れ在日の浅蜊 大井恒行
*欠席投句・・・
クレヨンで描(か)いた最初はチューリップ 武藤 幹
蒸し浅蜊悪友の説く儲けぐち 春風亭昇吉
結露拭くガラスの向う春の雪 加藤智也
婚礼の行列静か春の雪 林 桂子
教壇にたった一本チューリップ 原島なほみ
次回は、3月21日(木)、兼題は、陽炎・朝寝・寄居虫。
左から佐藤文香・高山れおな・山田耕司↑
★閑話休題・・本屋B&Bトークイベント、高山れおなVS山田耕司『不純な旅の夢』・・
昨日、2月23日(土)夕刻は、下北沢・B&Bで行われた高山れおな『冬の旅 夏の夢』(朔出版)・山田耕司『不純』(左右社)の刊行記念トークイベントに出かけた。愚生は、予約チケットがインターネットでのカード決済でしかできないことに、ぶつぶつ文句を言ったら、どうやら、愚生ぐらいの年代の者は、ほとんどが入手できず、挙げ句、高山れおなに、老人は来るなということかと文句たらたらのメールを送ったら、さすがにこちらで手配をと、筑紫磐井、池田澄子、澤好摩、仁平勝などの老人?組にはそれぞれの刊行元関係者から別途立替えておいて下さった(深謝)。もちろん、トークは仲間うちの褒め言葉ではなく、内容など、有意義な中身だった。彼らが文字通り閲してきた平成時代の俳句、そして、お互いの句について率直、自由に語り合っていた。ましてこの場で、山田耕司の篠笛(桐生の地元の祭りで吹いているらしい)も聞けると思わなかった(拍手)。
愚生はと言えば、最近ではこうしたイベントにも、かつてと違ってほとんど参加することもなく過してきたが、二次会では、久しぶりの方々、加えて、現代俳句の前線にいる若い世代、それも20代の人たちとも歓談ができ心地よい疲労となった。もちろん、同席ついでに遅ればせながら「豈」次号62号の打ち合わせもできた。いよいよ、順調ならば、高山れおな第一評論集も6月には刊行される予定だそうである(版元には入稿済)。恋うご期待!以下に2句づつ・・
夏帽を胸にK氏た大円蓋(ドーム)仰ぐ 高山れおな(山田耕司選)
ひねもすの春愁のガム緑いろ 〃
脱がせあふ服は迷彩ほととぎす 山田耕司(高山れおな選)
抱いてみてあやしてもみて冬の石 〃
夏帽を胸にK氏た大円蓋(ドーム)仰ぐ 高山れおな(山田耕司選)
ひねもすの春愁のガム緑いろ 〃
脱がせあふ服は迷彩ほととぎす 山田耕司(高山れおな選)
抱いてみてあやしてもみて冬の石 〃
2019年2月23日土曜日
丸山巧「慟哭は澹(しずか)にみちて冬銀河」(「鬣」第70号より)・・
「鬣」第70号(鬣の会)は、第17回鬣TATEGAMI俳句賞発表もさることながら、特集が佐藤清美句集『宙の音』評・池田澄子他、中里夏彦句集『無帽の帰還』評・高山れおな他、上田玄句集『暗夜口碑』評・酒巻英一郎他と、それぞれ読みどころ満載の号である。
本号には、「追悼 大本義幸」と題した丸山巧作8句と林桂「追悼・大本義幸ー『君たちの書くものが現代俳句だ』」も掲載されているので、ここでは、それを紹介したい。丸山巧は他のシリーズ「愛蔵五句」のコーナーも「悼 大本義幸」として大本義幸の5句、彼がともに歩んだ「北の句会」の大本義幸出句(年月日を付した)を挙げている。「北の句会報」を編集・発行していた彼だからこその記録である。
また、林桂は、大本義幸について、
俳句の戦後第一世代と呼ぶべき作家がいる。坪内稔典、澤好摩、摂津幸彦、大井恒行、そして大本義幸もその一人だ。物心の中に戦争の記憶があった、それ以前の世代は、高柳重信や金子兜太、鈴木六林男、佐藤鬼房などの影響下にその活動を支える同行世代の役割が回ってきたが、坪内らは、彼らの仕事を見ながら、基本的には切れていて、自分たちの仕事を始めた。これらの人々は昭和四十年代には、同人誌活動を中心に頭角を現してきていた。それらの活動を纏める重要な役回りをする必要欠くべからざる人物がいる。それが大本義幸だ。「日時計」「黄金海岸」「現代俳句」「豈」と、大本は参画している。同世代の交流の場を作るのにも貢献している。しかし、その気質は、役者として表舞台に立つよりは、演出やプロヂュースする方が合っていたもかもしれない。きっとその最たるものが、摂津幸彦だったのだろう。
と記し、また、
(前略)大本の言葉には不思議な明るい重量感がある。これは真似して出来るものではないだろう。彼の、俳句と言葉に対する、少年のような信頼から生まれるものではなかったか。ある意味では、この世代の最も大切な作家だったのではないだろうか。
と喝破している。
丸山巧「愛蔵五句」 悼 大本義幸
河とその名きれいに曲がる朝の邦 大本義幸
〔平成20年『硝子器に春の影みち』〕
薄氷(うすらい)のなか眼をひらくのは蝶だ 〔平成17年10月北の句会〕
空箱(からばこ)のひとつに風花 鬼は外 〔平成18年2月 〃 〕
くれるなら木沓がほしい水平線 〔平成18年6月 〃 〕
耳深く白い帆は来る鯨を連れて 〔平成24年11月 〃 〕
◆第17回 鬣TATEGAMI賞は、以下に授賞決定!
福田甲子雄全句集刊行委員会(代表・瀧澤和治)
『福田甲子雄全句集』(ふらんす堂)
四ツ谷龍氏 『田中裕明の思い出』(ふらんす堂)
「俳句四季」3月号・「俳壇観測」194↑
★閑話休題・・筑紫磐井「俳壇観測」連載194ー同世代はなくなるものー七十代がしたこと、果たせなかったことー(「俳句四季」3月号)・・・
では、大本つながりで、●大本義幸(「豈」創刊同人)の以下のところを紹介したい。
大本義幸といっても現在では余り知る人は多くない。しかし、大本氏なかりせば、攝津幸彦や坪内稔典などの登場はずいぶん変わったものになっていたかもしれない。その意味では現代俳句の恩人である。堀本吟は「一九七〇年代ニューウェイブを作った一人」だという。(中略)
しかし平成一五年以後はほとんど全身に癌を転移させ、手術や放射線治療、化学治療を受けていた。咽頭も切除され、声の出ない俳人としてそれでも句会に出席していた。壮絶な後半生であった。句集は『非』『硝子器に春の影みち』と少ないが、「おおもっちゃんの骨は俺が拾う」と言っていた攝津幸彦が夭折して後は、作品はもっぱら「豈」に発表していた。「豈」に行く末を看取るつもりであったかも知れない。それでも生き抜く意志があったことは最近の句からも分かる。
われも死ぬいまではないが花みづき 大本義幸
2019年2月20日水曜日
齋藤愼爾「狐火に読みしは常陸風土記のみ」(『逸脱する批評』より)・・・
齋藤愼爾『逸脱する批評(クリティーク)ー寺山修司・埴谷雄高・中井英夫・吉本隆明たちの傍らで』(コールサック社)、解説は鈴木比佐雄「作家たちと根源的(ラディカル)な対話を試みる人」。その結びに、
齋藤氏の解説は、いつのまにか『逸脱する批評(クリティーク)』となって、言葉を駆使する作家たちの人間存在の在りかを深く詰問してくる。そして言葉に囚われた作家たちが逸脱する宿命や、人間への哀感を見詰めて新しい言葉の可能性を読者に誘ってくれる。齋藤氏はその意味で時代の中でも次の時代を透視しようとする作家たちの言葉の関係を根源的(ラディカル)に対話し続けている。その熱量の強さがこの『逸脱する批評(クリティーク)に』に宿っていて稀有な批評の地平を創り上げている。
と述べている。愚生にとっての齋藤愼爾は深夜叢書社の本を注文して店頭に並べる、愚生が本屋の店員だった時代にさかのぼる。約45年も前のことだ。推測するに齋藤愼爾がじつに奮闘し苦労を重ねていた時期だったと思う。月末には直接注文のための電話をしても出ない。でも、時代の尖端をつく書物は売りたかった。時代の先を走っていた五木寛之も埴谷雄高も中井英夫も吉本隆明だって、その後のようには売れてはいない時代のことだ。その間に混じって、マイナーポエットと思われていたが必読と思われた句集も出版されていた。
愚生は、書店員の特権で、給料日清算の伝票買いが出来たので、安かった給料のほとんどを前借のようにして買ったこともあった。とくに深夜叢書社から出る句集はことごとく買った。齋藤愼爾句集『夏の扉』もその一冊だった。
本書のなかでは,『俳句殺人事件 巻頭句の女』(光文社)であったろうか、
この文庫にはユニークな仕掛け(トリック)がある。偶数ページ下段に横組みで夏目漱石から対馬康子、黛まどかまでの「現代俳句」が象嵌(ぞうがん)されている。読者は推理小説の珠玉を読了したあと、もう一度、名句未読の愉悦にひたれる。「推理小説」プラス「現代名句辞典」。それが本書だ。これは絶対に買いである。是非とも座右に置いていただきたい。
とあるが、ながらく座右に置いていた文庫も先年の断捨離で、いま手元にない。が、愚生の記憶では、句が記載されていたのは本の柱だったように思うが、本書では「偶数ページ下段」と書かれているので、愚生の記憶違いなのだろう。そして、ブログタイトルに挙げた齋藤愼爾の「狐火に」の句が、寺山俳句の〈模倣(ミミイク)〉した例というなら、愚生もまさにそうした句で、その文庫のぺージに象嵌されていた句は、
春愁の血は眠れずに佇っている 大井恒行
だったと思う。当時の寺山修司は、いまだ俳壇に受け入れられず、寺山修司の俳句が好きだ、と俳人のだれかに言おうものなら、白眼視されてさえいた頃だ。
本書「寺山節考」(1)には、
私は何度も寺山はつに逢っている。著作権料や印税の支払いに訪ねている。だから高取、小川、田中氏の三人の描く「はつ」像が正確だと首肯する。
とある。愚生は一度だけ寺山はつに会ったことがある。澤好摩から引き継いだ「俳句空間」第6号の寺山修司特集のために、たしか八王子だったか高尾だったかの自宅を訪ねた。当時、新書館で、寺山修司の本を多く出していた編集者の方が、親切に同行して下さった。たぶん、愚生のような素人では門前払いが関の山だと思われたのだろう。通俗的にいうと寺山はつは、実に著作権についてはうるさかったのだ(NHKはいくらで、某紙はこれこれだと等々・・・)。それでもその人の口添えもあって、相応の著作権料で合意をし、「三橋敏雄選・寺山修司100句選」が実現した。それは「俳句空間」が新装の銘を打って(新装刊・・)、取次店を通しての全国書店委託発売を実現した再出発の号だった。
そして思う。深夜叢書社の仕事もすごかったが、その後、彼が朝日グラフや朝日文庫、あるいは三一書房の「俳句の現在」シリーズなどの仕事が、もし、なかったとしたら、現在の俳句のシーンは、まったく別のものになっていたか、無かったと思う。
ただ一冊、愚生の手元に残っている一冊、齊藤愼爾が解題を書いた『寺山修司の俳句入門』(光文社)は、「俳句航海記」として、齋藤愼爾が、「俳句とは何か」、つまり、「1 定型、季題、季語」、「Ⅱ 一句一章、二句一章」、「Ⅲ 切れ字について」等々を忍び込ませている。この入門書「寺山修司百句」から以下に少し挙げておこう。
目つむりいても吾(あ)を統(す)ぶ五月の鷹 修司
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
流すべき流灯われの胸照らす
花売車どこへ押せども母貧し
父を嗅ぐ書斎に犀(さい)を幻想し
齋藤愼爾(さいとう・しんじ) 1939年、京城府(現・韓国ソウル市)生まれ。
★閑話休題・・木下利玄「牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置の確かさ」(清野恵理子著『咲き定まりて』より)・・・
『逸脱する批評』のなかに、齊藤愼爾『スポーツ小説名作集 時よとまれ、君は美しい』解説があり、その中の三島由紀夫「剣」つながりであげるのだが、清野恵理子著『咲き定まりて』(集英社・税別2400円)は、市川雷蔵の全出演映画、エピソードをふんだんな画像とともに描出した大冊である。それには、1963年「新潮」10月号に三島由紀夫が発表した短編小説「剣」について、市川雷蔵が、その映画化を強く望んでいたことも書かれている。話は飛ぶが,本著の「あとがき」に、仁平勝の「貴重なアドバイスを頂戴し」とあって、そういえば、仁平勝は映画フリークでもあったな、と思い出したのだ。
また、本書の見返しに速水御舟の「墨牡丹」とは,いかにも雷蔵らしいように思えた。愚生は別にして、雷蔵ファンなら、手元に置きたい一書にちがいない。
因みに、映画『剣』(三隅研次監督、舟橋和郎脚本)は、同書によると、小説発表後、わずか半年後の1964年3月14日に封切られている。小説の書評で「『剣』の主人公の国分次郎は三島氏自身を思わせる」と記したのは石原慎太郎だった。
2019年2月19日火曜日
渡邊白泉「戦争が廊下の奥に立つてゐた」(「しんぶん赤旗」2月8日より)・・
2月8日付「しんぶん 赤旗」の「金曜 名作館」のコーナーに、今泉康弘が「俳人 渡邊白泉 没後50年」ー繊細な感性と時代への不安ーを書いている。玉文である。中に、
1940年、新興俳句運動は治安維持法により弾圧された。白泉もまた検挙にあい、特高警察に連行される。だが、白泉は明確な反戦思想を持っているわけではなかった。白泉は一市民として、日常の中で感じる戦争への不安や違和感を見つめ、鋭く形象化した。戦争は怖いーそうした一市民の自然な感情さえも、戦時下ファシズムは許さなかった。
戦後、白泉は沼津の高校教師として後半生を過ごした。さらに今泉康弘は以下のように筆を継いでいる。
気の狂った馬になりたい枯野だった
わが頬の枯野を剃ってをりにけり
など、孤独と鬱屈を湛えた作品がある。白泉は教え子から、なぜ俳人として活動しないのかと問われて、今後また弾圧を受けるのが怖いからだ、と答えている。だが、その一方で湧き上がる作句意欲を止められず、一人で作句し続けたその矛盾を抱えて後半生の白泉は生きた。それは弾圧の傷を抱え続けることであった。
と結んでいる。自筆で浄書された全句集に相当する原稿が、そっくりそのまま、発見されたのは、白泉が勤めていた学校の金庫からだった。後に写真製版されて刊行された。
街燈は夜霧に濡れるためにある 白泉
銃後といふ不思議な街を丘で見た
鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ
夏の海水兵ひとり紛失す
一本の道遠ければきみを恋ふ
今泉康弘(いまいずみ・やすひろ) 1967年、群馬県生まれ。
琉球風画帖 ②明治橋↑ 画・ローゼル川田
★閑話休題・・ローゼル川田詩集『廃墟の風』/風景はパッチワークのようだった (あすら舎)・・・
ローゼル川田は多才の人らしい。絵も描かれているので、詩集のなかには、いくつかの挿画もある。先般の「奔」2号には、親泊ちゅうしん、という名で俳句を発表されている。七つの顔を持つ男ではないが、様々な顔を持っている。花デイゴ家族の墓は基地の中 親泊仲真(ちゅうしん)
の句は、2012年沖縄忌俳句大会の大会賞だったという。「あとがき」の冒頭に、
いつも何かを通り過ぎている気がする。
いつも何かが通り過ぎていく気がする。
強弱のない心象は強弱の現実に左右されている。
とある。ともあれ、本ブログの紙幅もあるので、短い詩を以下に紹介しておこう。
チルダイの色
いつの頃からか
仏桑華やクロトンの垣根はブロック塀になっていった
灰色の両脇のブロック塀を歩いていると
チルダイ・・・気だるくなる
灰色の路上
灰色のブロック塀
灰色の曇り空
チルダイは灰色の風景からきているのかもしれない
灰色は埃の色
青い海 青い空 観光のキャッチコピーの島々
赤や青や黄色を適当に混ぜると灰色になる
同時性として現れた灰色の迷路
チルダイの色
ローゼル川田(ろーぜる・かわた) 団塊世代、那覇市生まれ。
2019年2月18日月曜日
臼田亜浪「かつこうの何處までゆかば人に逢はむ」(『俳句の地底』より)・・
本書の中では、「俳句と小説」の章で、愚生の俳句修行のきっかけのひとつでもあった「ある程ほどの菊投げ入れよ棺のなか」の夏目漱石や芥川龍之介に触れられており、さらにその「『俳句と小説』について【追補】」に以下の記述がされていた。。
(前略)ここで、社会のことを、あまり言うつもりはないが、そういう社会の変革なくしては、日本の文学、俳句も含めて、の真の意味での現代化はできないということは間違いなさそうだ。俳句の座の問題とともに、いや、同じ意味といえるかもしれないが、これらが、現在の我々に突き付けられた課題と言えるのではなかろうか。
あるいはまた、「俳壇の諸相」の「阿波野青畝あれこれ」には、青畝「虫の灯に読みたかぶりし耳しひ͡兒」(大正六年)の句について、窪田般彌の解釈を引用して、
この句なども、ごく常識的に読めば、秋の虫の音も耳は入らずに読書に熱中している「耳しひ兒」の姿を思い浮かべるだろう。だが、私にはこの「耳しひ兒」は、虫の交響曲を聞きながら読書をしているように思えてならない。これは、私自身、日頃レコードをかけながら仕事をする習慣があるからだろうか。
その見事さに驚かされる、と賛意を示しているが、そういう解釈は幻想的で面白いが、事実、阿波野青畝は、幼少より難聴だったので、「耳しひ兒」は自身のことだったと思う。内発する抒情が留められている。 愚生は一度だけ、阿波野青畝宅で宇多喜代子がインタビューする場に立ち会ったことがある(たしか森田峠も健在だった)。一通りの話が終わった後、愚生は無謀にも、阿波野靑畝に、「俳句にとって一番大切なものは何ですか?」と質問した。その答えは、「客観写生」や「花鳥諷詠」ではなかった。即座に「それは言葉です」と返ってきたのだ。もしかしたら、青畝の新しさとはそうした「言葉で書く」という認識だったのではないかとも思う。
加藤哲也はまた「純粋俳句」についての論を試み、芭蕉の高みを目指すという理念を掲げているが、愚生はといえば、その才もなく、当初より「芭蕉とは歩く道を異にする」と誰かが言ったことを真似て、芭蕉の高みなど最初から放擲している始末なのである。
ともあれ、臼田亜浪の句を、もう一句、本書より孫引きする。
木曽路ゆく我れも旅人散る木の葉 亜浪
そして、本書の書名の由来となった言説は、たぶん、以下によるだろう。
俳句は、日本文学の黎明から、現在に至るまで、常に、少なくとも、その底流にはずっと流れていたのである。まさに、日本文学の「地底」にである。
という。
加藤哲也(かとう・てつや) 1958年、愛知県岡崎市生まれ。
2019年2月16日土曜日
杉山隆「襲ひ来む未来とは何夜の庭の騒ぐ青葉にわが対ひをり」(「ジャム・セッション」終刊号より)・・
「ジャム・セッション」終刊号(編集・発行人、江里昭彦)。江里昭彦「終了宣言にして訣別宣言」は、同人誌の相棒であった中川智正の死刑執行により、すでに前号にても終刊が予告されていたので、別段驚くべきことでもないはずだったが、追悼をするに訣別宣言とは穏やかではない、とおもったのだ。その理由について、
(前略)処刑後に判明した二、三の、不可解にして不愉快な事実について述べることで、あわせて訣別宣言の性格を持たせることとしたい。(中略)
私のだした結論は、こうである。
「カエサルのものはカエサルへ返せ」のひそみに倣って、「オウムの人間はオウムへ返そう」。今後とも中川智正は、隠れキリシタンならぬ隠れオウム信者ともども、世人の非難と嫌悪という煉獄のなかに棲みつづければよい。
私はというと、中川氏のことをきっぱり忘れて、別の方角へ、別の季節へ、歩みだそう。
ではあるが、中川氏が残した俳句と文章は価値あるものなので、多くのひとの記憶にとどまってほしいと願う。テクストの価値と、そのテクストを生み出した人間の人格とを分けて扱うのが、文芸の世界の常識なのだから。
と記されている。他には「中川智正と江里昭彦の往復書簡ー〈手記〉について」が掲載されいる。今号では、江里昭彦の俳句作品が読めなかったのは、残念だったが、代わりに、「紹介」で江里昭彦選の樋口由紀子『めるくまーる』30句の中から、いくつか以下に孫引きで挙げておこう。
入道雲この高さならだいじょうぶ 由紀子
厚化粧だったり薄化粧だったりする笑い
自転車で轢くにはちょうどいい椿
うしろから触れてはならぬ帰還兵
練り菓子へ無政府主義者がなつかしい
もういいわブルドーザーで決めるから
空箱はすぐに燃えるしすぐに泣く
★閑話休題・・中村遥「木の花の白ばかりなる帰省かな」(第33回俳壇賞受賞作より)・・
昨夕は、本阿弥書店「俳壇賞・歌壇賞の授賞式と懇親の集い」が、アルカディァ市ヶ谷で行われた。近年愚生は、あまり外に出ていないので、数年ぶりに坪内稔典、佐佐木幸綱とは抱き合って挨拶をした。八十を超えられたが、愚生などよりはるかに艶やかでお元気だった。その他にも久々湊盈子、田村雅之、池田澄子、大久保白村、菊田一平、酒井佐忠、松尾隆信、三宅やよい、鳥居真里子、内村恭子、広渡敬雄、鹿又英一、戸恒東人など、また、現代短歌社・田中惣一郎、ふらんす堂・山岡有以子、六花書林・宇田川寛之、昨日に続いて東京四季出版の西井洋子、上野佐緒など多くの方々と挨拶し、久しぶりに歓談した。
ともあれ、もう一人の「歌壇賞」の一首を以下に挙げておこう。
灯台にうまれた者のさびしさに夜どおし鍋を磨いてすごず 高山由樹子
2019年2月14日木曜日
九堂夜想「忌の空につるめる蝶の紅万字」(『アラベスク』)・・
九堂夜想句集『アラベスク』(六花書林)、「あとがき」はなく、略歴も簡便。飾りは表健太郎の帯文のみのシンプルな出で立ち、真田幸治の装幀も良い。集名は、以下の句に因んでいるだろう。
春深く剖かるるさえアラベスク 夜想
表4側の帯に、
初めて、「九堂夜想」の文字を見た瞬間、ぼくはこの名の主が、虚構と幻想の論理を巧みに操れる曲者に違いないと察知し、それは確かに当たっていた。ー表健太郎
とある。約500句、鳥の句の占める割合の多さ、そして、いわゆる樹・草・虫・魚・で彩られた織物という感触である。いずれの句を挙げても、その表現された世界のレベルは保たれているので、読者による様々好みの句を抽き出してくることができるだろう。
太陽のあばらは視えて十字街
あゝ死児の頭上に千の太陽が
日(ひ)の沖へ合掌泳ぎの王母らよ
ともあれ、無作為ながら以下に鳥の句をできるだけ挙げておこう。自ずと著者の趣向が伺えると思う。
鳥游ぐらし夥しき佚書に
王亡くてひたに孔雀は卦踊りを
ゆく鳥や崑崙の葱ひとすじを
貌鳥は貌をはずせり姉の門
鳥風や彩なす雲を乳柱に
地類あゝ鳥雲に影奪い合い
諸がえり日は血脈を濁らせつ
鳥雲にながるる妣の雲脂(ふけ)ならん
古歌にわななく火食鳥と地と
重力の十指の影の鳥や雲
鵟ども千痕の日を剥き垂らし
鳥やみな日に忘らるる花うてな
鳥透くは他界にちぇ秋果つるべし
瑠璃鳥や姉のまなこに入水して
鳥古りて虹にすわるる日やあらん
孔雀大虐殺百科辞書以前
黒鳥に太陽はいや冷えゆくも
鳥風や祖(おや)を殺めし石(いわ)と手と
鳥や絶ゆ̪眦すでに砂を引き
ねむりては孔雀の刻(とき)をガラスペン
空井戸や薄荷匂える鳥女
鳥女ふと草市は静もれる
鳥女氷砂糖に涙して
咲わんか数(す)に鳥女あゆめるを
ひたぬらす幻日なれば鳥おんな
鳥女抱けばせせらぐ逆さ水
忌木なか火に産卵の鳥おんな
劫をゆく無頭の鷹とおもわれて
ふたなりを太陽鳥は叫(おら)ぶらん
鳥類は裂ける太陽系覃(ふか)く
鳥の王鳥へは遺響のソプラノを
裏声の母喰鳥が直紅(ひたくれない)
卵生の兄まどろめる匂い鳥
鳥食らつとに毬(があが)を咥えては
鳥過ぎて野には呻めく石柱
日を離ればなれの鳥や石室や
無門とや何首鳥(かしゅう)匂える踏みはずし
唾打ちのしばらく巫鳥吃るかも
さえずりや野の大糞の神さびを
鳥葬の冬青空の拉鬼体
野巫なんで美食の鳥を眸(まみ)の上
夕の鳥ふいに筮へ刺さらんと
罔象(みずほ)きて紅葉鳥らの仮声は
空国の鳥ひこ塩を娶るとや
虚國(ここく)ではてのひら祀るとぞ雁よ
鳥撒きのくさめ鳴物停止(ちょうじ)とや
かりがねや霧食みのみな虛國とぞ
鳥ひそと他屋にかくるる根踊りや
つくよみや鳥錆びの海ふるわせて
姑獲鳥なら白蓮の夜を梳くだろう
玉吸いの命命鳥かひな曇り
劫をきて虚空守とや命命鳥
命命鳥おんおんと石哭くものを
鳥身の兄を降ろせる散米や
ひもし鳥とて裏海を祓わんと
夜鳥また内紫貝(うちむらさき)を月小屋へ
鳥絶つに天衣の胸の遊(すさ)ぶかも
九堂夜想(くどう・やそう) 1970年、青森県生まれ。
2019年2月13日水曜日
角谷昌子「まどろみのままに貰はれゆく仔猫」(「あだち野」2018年アンソロジーより)・・
2018年アンソロジー「あだち野」(あだち俳句会)、表紙裏に「客観写生の確立をめざす」と掲げられている。巻頭随筆には、角谷昌子「猫と俳句と私」、金子敦「『絵葉書』と『福笑い』」、林誠司「庶民の詩」の寄稿がある。その角谷昌子のエッセイの中に、一時は「十匹以上の猫まみれの生活」だったとあり、
猫との暮しは二十年以上になる。いまではとうとう最初の猫の孫ともう一匹だけになってしまった。
いつも傍にいて、心を傾ければ応えてくれる猫は、俳句と同じだ。猫と俳句のおかげで生きる力を得たし、日常生活が豊かになった。猫の視線で自然を見渡すと、それぞれのいのちがぐっと身近になる。
という。ブログタイトルに挙げた「貰はれゆく仔猫」は、角谷家から「里子に出される猫を見守ったときの句」だと記してあった。ともあれ、同誌から一人一句を挙げておこう。
小児科の待合室の金魚玉 一枝 伸
少年の不思議な力青嵐 松木靖夫
水の面を蠢く蝌蚪の黒だまり 水本ひろ人
雨音を覆ひ隠して未草 西川政春
荒海へ吹きもどさるる波の花 村井栄子
空蝉の乾ききつたる力かな 河合信子
銀閣寺で眺めし月も今日の月 二瓶里子
短夜や兵隊還るおもちゃ箱 菅沼里江
人気なき家の片隅草雲雀 小松トミ子
誘はれてゐる食事会春浅し 尾形けい子
スタンプの滲む宅配春の闇 天野みつ子
閼伽桶にさし入る春日母の声 石田むつき
シスターの手荷物ふたつ春コート 澁谷 遥
地下鉄を出て木枯に吹かれけり 伊藤弘子
模擬テスト窓より外は虫時雨 竹内祥子
下駄の歯にかみつく雪を叩きけり 岡田みさ子
丸き背を反ればくすぐる春の風 越川てる子
猛暑日や思ひ切り割る貯金箱 田ケ谷房子
急流に水草の花湛へけり 國井京子
園庭のドームの屋根と木漏れ日と 三浦恒子
木登りの先は青空樟若葉 矢作十志夫
酉の市路地の置屋に灯がともり 田ケ谷やすじ
一夜にて積もる一枝綿帽子 五十君與志子
山並は入道雲を上に乗せ 渡辺 徹
雪解けの山ことごとく迸る 田口 修
春霞空のいちぶにスカイツリー 佐藤やよい
自転車の籠の中から千住葱 吉村すみえ
ひとときの色鮮やかな柘榴かな 水tに義江
豊の秋生あるものの淫らなる 高野敏男
2019年2月12日火曜日
西川徹郎「湖底の駅で星の出予報していたり」(『惨劇のファンタジー』より)・・
綾目広治『惨劇のファンタジー—西川徹郎十七文字の世界藝術』(茜屋書店)、西川徹郎宇研究叢書の第1巻でもある。同著には資料編として、西川徹郎自選句集『黄金海峡』(240句収載)、「十七文字の銀河系(西川徹郎=西川徹真)略年譜」、西川徹郎主要著作一覧、諸家西川徹郎論一覧が収録されている。また自選句集『黄金海峡』には、未刊の第15句集『永遠の旅人』、第16句集『冬菫』、第17句集『湖底の町』から、それぞれ数句が収録されている。
本著の目次には、「序にかえて 読みの方法論」をまず示して、各句集ごとに節目をつけ、第1章「隠喩の冒険ー『無灯艦隊』『瞳孔祭』」、第2章「シュールレアリスムの冒険ー『家族の肖像』『死亡の塔』、第3章「実存を問うー『町は白緑』『桔梗祭』」、第4章「浄土教を背景にー『月光学校』『月山山系』『天女と修羅』」、第5章「ファンタスティックな俳句へー『わが植物領』『月夜の遠』『銀河小学校』、第6章「惨劇のファンタジーー『幻想詩論 天使の悪夢九千句』、「抗う俳句 結びにかえて」と分け、詳細な資料編・略年譜などを通覧するだけでも、西川徹郎の句業の来し方の特徴が伺われる。例えば、第1章において、
(前略)さらに阿部誠文は同論文で、再び西川俳句の難解さの問題に言及して、「西川徹郎の俳句は、難解だという、そこには誤解がある。西川徹郎の俳句をわかる俳句だと思い、理解(・・)しようとするからだ。西川徹郎の俳句は、わかる俳句ではない。伝わってくる俳句だ。イメージとして伝わってくるし、音楽としても伝わってくる」と語っている。
と述べられている。あるいは略年譜とはいえ、詳細を極め、編の齊藤冬海は、西川俳句の特徴を以下のように、
(前略)独自の〈実存俳句〉を創始した。◆それは明治の正岡子規や高浜虚子の花鳥諷詠・客観写生等といった文語による伝承的俳句論や種田山頭火・尾崎放哉等の自由律俳句、戦前戦中の新興俳句や口語俳句、更には戦後の「海程」等の社会性俳句や前衛俳句、高柳重信の等の多行書き俳句、感覚だけで詠まれた金子兜太等の無思想俳句、娯楽番組化した坪内稔典の片言俳句や軽薄俳句等、明治・大正・昭和・平成の今日迄、正岡子規巳来、百五十年に到らんとする近現代俳句史の〈有季定型〉の趣味的俳句論や〈季語季題〉偏重の伝承的美意識で作られた俳句を否定し超絶した、森村誠一が松尾芭蕉の〈蕉句〉と比肩し〈凄句〉と命名した〈世界文学としての俳句〉の屹立へ向けた〈反定型の定型詩〉論の提唱と実践であり、それはまさに、〈十七文字定型〉の胎内原理〈反俳句の俳句〉〈反俳句即俳句〉を顕彰し、日本の詩歌文学一千年の伝統と対峙する〈反伝統の伝統〉詩としての俳句革命の実践であり、西川徹郎が提唱する、世界文学・世界藝術の極限を切り拓く〈十七文字の世界藝術〉の樹立に外ならない◆
と、言挙げしている。ともあれ、自選句集『黄金海峡』より以下にいくつか句を挙げておこう。
不眠症に落葉が魚になっている 徹郎
男根担ぎ佛壇峠越えにけり
樹上に鬼 歯が泣き濡れる小学校
ねむれぬから隣家の馬をなぐりに行く
父はなみだのらんぷの船でながれている
食器持って集まれ脳髄の白い木
畳めくれば氷河うねっているよ父さん
なみだながれてかげろうは月夜のゆうびん
遠い駅から届いた死体町は白緑
抽斗の中の月山山系に行きて帰らず
綾目広治(あやめ・ひろはる) 1953年、広島市生まれ。
2019年2月11日月曜日
樋口由紀子「暗がりに連れていったら泣く日本」(「オルガン」16号より)・・
「オルガン」16号、座談会は「樋口由紀子『めるくまーる』を読んでみた」。座談の主は田島健一、鴇田智哉、福田若之、宮本佳世乃。なかに「しばらくが山茶花の塀越えてくる」という句についての件では、
宮本 こういう「山茶花」は季語に見える?
鴇田 一句だけ見れば、見えるね。でも句集のなかで見るとそうでもないね。
田島 「山茶花」はまだいいんだけど、〈昼寝する前はジプシーだったのに〉の「昼寝」とか。
宮本 季語に見えないよね。
鴇田 でも「ジプシー」の句は、俳句の句集にもし入っていたら、「昼寝」を季語として読まれるよね。
宮本 その下地の差って何だろう?
鴇田 俳句句集か、川柳句集かというパッケージの違いはある。
福田 ただ『めるくまーる』には、かなり意識的に季題を詠み込んでいるふうにも読める句がありますよね。〈髪洗うときアメリカを忘れてる〉とか。これ「髪洗う」という季題を意識しているのでは。
など、句を詳細に読んでいて、川柳と俳句の違いについて、当然ながら話が及んでいく。
鴇田 (前略)僕の場合は今、俳句と川柳は傾向の違いだと考えている。どちらも五七五の「句」であることは一緒だよね。その「句」のなかに傾向性の問題として俳句と川柳があるんじゃないかと。(後略)
田島 僕はちょっとそこの考え方が違っています。俳句と川柳がグラデーションで繋がっていると、以前は考えていたのですが、現在はむしろ両者の間にある断絶を考えないと間違えるような気がしています。
と述べている。愚生もどちらかというと近くて遠い、同根の形式の持っているゆえに、それぞれの屹立性を持たないと、究極のところで、句がそれぞれ自立できないのではないかと思っている。
他に青木亮人のエッセイ「あをぞら」。浅沼璞と柳本々々の往復書簡(5)は、今回で最終回。毎回、読ませてもらっていたが、刺激的で面白く、今号では、石田柊馬「妖精は酢豚に似ている絶対似ている」の句について、柳本々々が、
現代川柳の代表句のような句だと思いますが、なぜこの句が現代川柳を《代表=代替》するのかは。(中略)
この「似ている絶対似ている」は強度なんです。でも、無駄に《強すぎる》ことが大事だと思うんです。神はいる、神はいる、と強く主張するあまり、自分が神を信じていないことをさらけだすような言説になっているというか、ほんとうに《似ている》んだったら、ここまで言う必要はない。「妖精は酢豚に似ている」で、いい。でも「絶対似ている」をつけたことで《うさんくさく》なっている。この句の主体のようなものが仮にあるとしたら、いっぽうで主体は《絶対似ている》と信じている。でもその一方で「絶対」ということばと反復まで持ち出した語り手は、どこかでそれを信じていない。そこまで言説化する語り手の《かすかな信じ切れなさ》もこの句には露呈している。絶対といえばいうほどズレていく仕掛けがここにはある。そのねじれ、つかみにくい、ねじれが、現代川柳的だとおもうんです。(中略)右にあげた柊馬さんの妖精の句はこの〈アートロフの超躍〉に似たところがあります。(超躍は、わたしが今つくった超越+飛躍+跳躍の造語です)。
いっかい、「妖精」と「酢豚」をメタファーでつなげる。そして修飾と反復で強度をくわえる。ところがその強度を裏切り、もっと別次元へ水平的に拡張していく。現代川柳にはそのようなところがあるのではないでしょうか。(中略)
このふおんさはなんだろうと。それは、ひとりの人間が複数の主体をもっていることの不穏さです。それは主体のイリーガル、違法な主体のはずです。でも現代川柳はやってしまう。
という。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。
鬼籍から枯木めがけて入る人 宮本佳世乃
線路わきの機械に冬の月あかり 田島健一
草の穂ははるかな舟を患へり 鴇田智哉
身はみみずく海への風をさびしがる 福田若之
2019年2月10日日曜日
大本義幸「霜げたる癌緩和センターの男たち」(「北の句会報告」2019年2月・立春号より)・・
「北の句会報告」VOL94・95・96合併号(編集・丸山巧)の巻末は「緊急追悼特集・大本義幸追善一句抄」である。中に、北村虻曵は「大本義幸の視ていたもの」というエッセイを寄せて、「豈」誌の作品下段にいつも「マスード様」、「マスード拝」が出てくるのに注目して、そのアフマド・シャー・マスードが、北村虻曵にとっても印象深い人物であり、「マスードはアフガニスタンのタジク人で、ソヴィエトの占領に反抗するゲリラとして多くの戦果を挙げ『パンジールの獅子』と呼ばれた」といい、2001年9月11日の米国同時多発テロの二日前に暗殺され、「暗殺者は彼の力を恐れるタリバーンなどに連なるのではないかと見られる」という。また、冨岡和秀は、「さらば地球よわれら雫す春の水」の句を挙げ、以下のように記している。
ファキイルの俳句詩人・大本義幸、貧者の一灯と同質のものがあなたの元にあるだろう。地を這うように地上を遍歴し、聖痕を潜めしファキイルに春の水のごとき雫(すなわち涙)が落ちる。さらばファキ―ル!
他にも大本義幸について多くの方々がしたため、その様子が語られているが、どれもこれも愛惜に満ちていた。ただ、なかでも愚生には。坪内稔典や攝津幸彦の「日時計」時代からの同志であった矢上新八のものに、とりわけ熱くなる思いをした。それはブログタイトルにした「霜げたる癌緩和センターの男たち」について書かれたものだ。
(前略)掲句の「霜げたる」の意味が分からずに辞書を引いたのだが、「落ちぶれてみすぼらしい」と書かれているのを見て愕然とした。あのプライドの高い大本が、自らを霜げた男と自嘲している。彼はそれほどまでに弱り切っていたのであろうか。私は嗚咽を漏らしながら掲句を読み返していた。
ともあれ、以下に追善一句として選ばれた大本義幸の句を挙げておきたい。カッコ内はその選著者名である。
よくなるよ水泡(みなわ)のごとき春の嘘 大本義幸(北村虻曵)
薄氷(うすらい)のなか眼をひらくのは蝶だ (冨岡和秀)
西瓜を齧る鯔がいた汽水の町 (泉 史)
初夢や象が出てくる針の穴 (宗本智之)
十月の鯨は夙によく笑う (野間幸恵)
密漁船待つ母子 海光眸を射る朝 (藤田踏靑)
犬猫清持たざるは涼し通り雨 (井上せい子)
硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ (竹内順子)
秋日とは永遠にものほし竿である (谷川すみれ)
くれるなら木沓がほしい水平線 (森本突張)
われわれは我ではないぞ烏瓜 (木村オサム)
初夢や象がでてゆく針の穴 (坂本綺羅)
水に影それよりあわき四国かな (波田野令)
空箱のひとつに風花鬼は外 (浅井廣文)
我が声は喃語以下なりこの冬は (野口 裕)
薄氷を踏んでいたると鳥翔てり (島 一木)
水を呑む罪過のごとく夕陽背に (中山登美子)
霜げたる癌緩和センターの男たち (矢上新八)
くらがりへ少年流すあけぼの列車 (小林かんな)
星きれい餓死という選択もある (植松七風姿)
硝子器に春の影さすような人 (岡田由季)
骸花(はなむくろ)知らぬ女を抱きにけり (宮本武史)
河その名きれいに曲がる朝の邦 (丸山 功)
風は国境を煽る砕けた虹は納屋にある (堀本 吟)
【追悼句】ー両手で撫でる『硝子器に春の影みち』 樋口由紀子
【訃報連絡への返信あり】 (前略)「作品云々よりご当人の命運の方が圧倒的に在って、何かが言えなかった思い出が、いまも濃厚に在り続けています。」(後略)
石田柊馬
巻末、後記らしい部分に、、
句友大本義幸さんの逝去に伴って緊急追悼特集を企画したところ、それに応えて大勢の会友の皆さんが稿を寄せてくれました。超ジャンル、出入り自由の当北の句会にあって、このような形で各々の思いを結集できたことは、実に意味深い作家冥利に尽きる出来事ではなかったかと、改めて皆さんお礼申し上げます。
とあった。思えば、愚生はこのブログを日日の間をあまり置かずに書くようになったのは、大本義幸の便りに、毎日見ています、励みになります・・とあったからだ。だから、愚生は、日日、オレはまだ元気で生きていますよ・・というメッセージのつもりでブログをアップし、何かにかこつけては、大本義幸の名をその文中に刻んだように思う。攝津幸彦を仁平勝、筑紫磐井、酒巻英一郎と病室に見舞ったとき、エレベーター前で点滴の管をぶら下げたまま、手を振って別れたが、晴天の霹靂ごとく、三日後に亡くなった。それと全く同じシーンが、豊中の病院において、妹尾健と堀本吟と久仁郷由美子とで見舞ったときに生じた。余命を4,5か月と聞かされていた愚生は、これで永の別れか、と覚悟したのだったが、その後、手術で声を失ったものの、それまで以上に彼は俳句を書いた。そして、せめて彼が生きたいと言っていた60歳を超え、70歳も越えてみせた。今度の肺癌も必ず克服するだろうとおもっていたが、さすがに抗がん剤治療による副作用を嘆いていた様子があった。大本さん・・先日、高橋龍さんがそちらに逝ったよ。龍さんには、
龍天に青枯れの葉を玩味するか 恒行
をおくったが、大本さんにはいまだに追悼句を書けないでいる。
大本義幸(おおもと・よしゆき) 1945年5月11日~2018年10月18日 享年73。
2019年2月9日土曜日
木村緑平「生きねばならぬ足袋つくろうておく」(佐瀬茶楽「木村緑平秀句鑑賞・その2」より)・・
昨年末に結成された自由律俳句協会(会長・佐瀬広隆)の機関誌「自由律俳句協会ニュースレター」に同封されていた「木村緑平の俳句鑑賞」というA42枚を折った8ページほどの冊子がある。実に貴重である。それは、佐瀬広隆が父・佐瀬茶楽のノートに書かれていた内容を紹介しているものである。その(1)の「はじめに」に、
父茶楽は木村緑平の句が好きでした。緑平の話も聞かされいましたが、俳句に興味がなかった時代の私には、その話は右から左でした。(中略) 昭和四十四年緑平と書かれたノートをみつけました。父がどれほど緑平の句に魅入られていたか、知ることになりました。ノートに書き記されているだけのもので、推敲や清書もなされてないものです。意味不明な文や表現は子である私が手直ししました。独断、偏向があると思いますが、緑平の理解に役立てばとの思いで掲載させて頂くことになりました。
平成三十年 晩秋 佐瀬広隆
とある。例えば、次のようなもの。
おしめ洗って干してたたんで春の一日
病気の妻のみとりであるが、ここにはもうじめじめした生活はない。しんみりした生活と、緑平ののホッとした嘆息と、妻への愛情がある。(その1、より)
また、(その2)には、
やっぱり生きとらねばならぬ髭剃る
ぎりぎりの極限生活である。そこに胸打つものがある。
*死を見詰めた緑平ではあるが、”髭剃る”に並々ならぬ思いが感じられる。(広隆)
あるいは、
これがお別れになる日記の重さ膝に置く
はらはらめくる日記のなかの山頭火の顔々
その手垢の跡も山頭火の顔になる
日記と別れてからの寒い日がつつづく
(前略)山頭火が二十冊の日記を託したのは、この世の誰にも言えないことを、緑平さんだけには知って貰いたかったからである。そしてまた山頭火が孤独に耐えることが出来たのは、心の中にいつも緑平がいたからだと私は思う。(後略)
と記されている。木村緑平は明治21年10月22日、福岡県生まれ、炭鉱医として半生を送る。荻原井泉水に師事し「層雲」に拠り、漂泊の俳人山頭火を物心両面から支えた。生涯、雀の句を作り続けたという。享年は79。また、佐瀬茶楽には、佐瀬広隆監修・佐瀬茶楽著『随翁井泉水秀句鑑賞』(2008年、喜怒哀楽書房)があるが、愚生は未見である。ともあれ、この「木村緑平秀句鑑賞」(その1、2)から句のみになるが、以下にいくつか挙げておこう。
三月二十五日
父より白くなった鬢つまみ父想う父の日 緑平
ひぐらしなかせているだけの生活である
年の夜おしめ火鉢にかけて寝る
病妻に白い雲みせておいて街に出かける
ねころべば昼寝になっている
誕生日好きな柿ひとつ柿の木から貰う
国久君来訪
生きとるから逢えもししぐれの音聴く
先に死なれぬ残っている歯をみがく
まだ死ぬことが残っている水を飲む
2019年2月8日金曜日
宮﨑莉々香「おとなたちしたいをかこみおいてけぼり」(「円錐」第80号より)・・
「円錐」第80号(円錐の会)の特集は、80号記念企画で「極私的『平成の名句』」。極私的だから、いわゆる俳壇的な、あるいは世相的なものに傾くよりも、ある時、ある一瞬にその句世界が個的に到来するという僥倖をえた句を挙げた方々が多いように思う。つまり、極私的に選ばれた句が、選んだ人の在り様を自ずと照射しているのである。句に添えられたエッセイによって、それらを窺い知ることが出来る。また、今泉康弘と山田耕司の往復書簡「『それでも』と彼は言ったー一九六七年生まれによる俳句思想史」も興味深い内容のあるものだ。次号以後も続くらしいので、愚生より、ほぼ20年若い彼らが、どのように現在、現状をとらえているのかも知りたいという気持ちもある。
ここでは、極私的に選ばれた句をカッコ内に誰が選んでいるのかを以下に記しておきたい。
【極私的平成の名句】・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
立春の連綿線の呼吸かな 川村貴子(田中位和子)
中年や雪夜の酒をこぼしあふ 糸大 八(荒井みづえ)
幾度も東風の燈明立ち直る 岡崎淳子(後藤秀治)
はかりなき事もたらしぬ春の海 大峯あきら(栗林 浩)
二の津波三の津波の夢はじめ 西大舛志暁(大和まな)
うららかや崖をこぼるる崖自身 澤 好摩(江川一枝)
日と月と蝶さへ沈み真葛原 澤 好摩(和久井幹雄)
雁の空雁ヶ腹摺山の上 澤 好摩(横山康夫)
かなしみの片手ひらいて渡り鳥 AI一茶くん(三輪たけし)
髪も涙もしろがねの母大津波 磯貝碧蹄館(丸喜久枝)
なあと云ひさしてたゆたふ櫻炭 恩田侑布子(澤 好摩)
母てふ字永久に傾き秋の海 恩田侑布子(原田もと子)
麦秋の男一人を消したるに 中山玲子(小倉 紫)
青蜥蜴なぶるに幼児語をつかう 金原まさ子(山田耕司)
息つぎにゆく産道も春の道 原田浩佑(山﨑浩一郎)
泥かぶるたびに角組み光る蘆 高野ムツオ(橋本七尾子)
君逝きし世界に五月来たりけり 池田瑠那(今泉康弘)
囀りや大樹の昏きところより 桂 信子(矢上新八)
さてと立ち上がり水母と別れたる たむらちせい(味元昭次)
エッセイ・終りゆく平成へー「しつこく辺土より」で味元昭次は、次のように結んでいる。ヨシ!と思う。
(前略)私の棲む土佐は辺土中の辺土で、恐ろしい程の老人県である。都市の視点からみれば、実に不便で貧しいのだが、便利も極まった平成の世が失ったものも無数にあり、失った良き物や事の片鱗があるのは辺土の強みでもある。都市より地方、勝者より敗者、利口より阿呆、先頭よりビリ、器用より不器用などを私は好む。そこにこそ人間や美があるというのが、辺土に生きる俳人の覚悟と信念だ。
2019年2月7日木曜日
髙橋修宏「冬青空黒曜石に聖なる血」(「575」2号より)・・
「575」2号(編集発行人・高橋修宏)、表2に「宇宙のように 複数であれ(フェルナンド・ペソア)」のエピグラフが記してある。論考に松下カロ「柿本多映をめぐる段落と結論のない短章」、江里昭彦「獄中への詩論」、星野太「俳句をめぐる四つの命題」、そして髙橋修宏「空無の強度」-高橋睦郎の震災詠をめぐって」だが、本論は、これまでにある高橋睦郎論としては出色であろう。
やすらへ花・海嘯(つなみ)・兇火(まがつひ)・諸霊(もろみたま) 睦郎
の句をめぐって、
(前略)ひらがなによる託宣のような「やすらへ」の呼びかけと、それに対する「花・海嘯(つなみ)・兇火(まがつひ)・諸霊(もろみたま)」という漢語古語の連なり、その表記自体が、ある言語的なエロスさえ湛えて大震災の孕む非日常の異様さを現前させるのだ。(中略)
睦郎の一句に記された兇火=マガツヒ(禍津日神)とは、スサノオのような〈周縁〉では決してない。明らかに「窮極の三神」に至るなかで、忌むべき神として排除された存在である。だが、睦郎は、このような排除され、取り零されたマガツヒ〈禍津日神〉を自らの一句のなかに召喚することによって、原子力という絶対的な〈外部性〉の形象化を試みたのではないのか。当時、一般化した原子炉や放射線、セシウムという措辞に頼るのではなく、言わば記紀神話をプレテキストとして原子力という存在を俳句という詩型の中で捉え切ろうとしたことは記憶されよいはずである。
と述べる。そして、
この魂鎮めのような一句には、阪神大震災における永田耕衣の「白梅や天没地没虚空没」、さらには東京大空襲における三橋敏雄の「いつせいに柱の燃ゆる都かな」にも通じるような、特定の時代を超えうる静かな強度を、三・一一東日本大震災八年後のいま感じるのである。
とも述べている。ともあれ、本誌の他の一人一句を挙げておきたい。
三井寺女詣の日の観月台の睦郎さんへ
秘曲かな何処に月を抱く男 柿本多映
月明に押しゆく骨の乳母車 増田まさみ
形代は髪も手指も持ちませぬ 松下カロ
目礼すいずれ火を噴く火山なれば 江里昭彦
眇の仔みな愛しけれ花吹雪 髙橋修宏
★閑話休題・・山本省吾「立ちならぶ煙突五本風光る」(昭和8年)(「中部日本俳句作家会々報」より)・・
武馬久仁裕「二〇一八年八月。サハリン、樺太俳句への旅」(「中部日本俳句作家会々報」2019年1月号)には、上掲出の句について、冒頭、以下のように記されている。
赤いはまなすの花や茎の長いえぞにうの白い花がまじる生い茂った夏草の中に、錆びたレールは消えていました。消えたレールの向うの方には四本の大きな煙突が見えました(煙突は昔五本あったようです)。(中略)
夏草を掻き分けながら、今から九十四年前、日本領の最北の地樺太で、樺太の俳句を生む出そうとした人たちが本当にここにいて、俳句のことを話しながら歩いていたのかと思うと、感慨ひとしおでした。ここは、旧王子製紙落合工場跡なのです。
落合は今はドリンスクと言います。サハリン州の州都ユジノサㇵリンスク(樺太庁が置かれた豊原)からバスで北へ一時間のところです。
大正十三年(一九二四年)二月、東京から冨士製紙(昭和八年、王子製紙)に職を得てここ落合に伊藤凍魚(一八八九年ー一九六三年)がやって来ました。その凍魚を迎えて、工場倶楽部で第一回句会が行われました。
句会の参加者は九名、凍魚は石鼎に師事していたという。のちに樺太俳句を確立した俳誌「氷下魚」が出される。この落合から南へ2時間ほどの地、大泊(現・コルサコフ)に明治45年、祖父とともに来て大泊中学に入学したのが「凍港や旧露の街はありとのみ」の山口誓子である。
ともあれ、孫引きだが、以下に当時の句を挙げておこう。
春寒の玻璃窓に倚ればくもりけり 伊藤余子(凍魚の旧号)
水辺や木木みな余寒尽きし色 山本一掬
犬の皮着て氷下魚を漁り居り 西原蛍雨
薫風や皇城南一千里 上田純煌(昭和18年)
2019年2月6日水曜日
石牟礼道子「毒死列島身悶えしつつ野辺の花」(「藍生」2月号より)・・
「藍生」2月号(藍生俳句会)は、特集「渡辺京二と石牟礼道子」である。執筆者は、季村敏夫「過ぎ行く者となりなさい」、米本浩二「もうひとつの『カワイソウニ』」、白井隆一郎「狂女と狂児」、齊藤愼爾「涙の意味をめぐってー石牟礼道子さんと渡辺京二さん」、石内都「石牟礼道子さんの手足のゆくえ」、恩田侑布子「石牟礼道子の俳句ーふみはずす近代」である。なかでも愚生は季村敏夫の語りに、
(前略)この世のものとはおもえないつつましさ。苛烈な戦いの源泉である。速度というものをまったく感じさせない、ゆったりとした物腰。ていねいな句帳。「あのときはほんとうに、大変でございましたでしょう」、おもいがけない激励、即座に応えられず、うなだれた。(中略)石牟礼さんの声の響き、「ございましたでしょう」、語尾の「でしょう」、このやわらかさの意味を今日まで考え続けてきた。生死無常の世にあって出会いはある。そうおもう。
とあった。そしてそれは、かつて阪神淡路大震災に遭った季村敏夫が書肆山田から刊行した『災厄と身体』(2012年10月刊・上掲写真書影)の中に、「死なんとぞ、遠い草の光にー石牟礼道子さんと」があったことにもつながっていた。今、改めて巻末の初出一覧を読むと、それには「『記録室叢書』第一冊、震災・活動記録室、一九九六年九月」とある。それは不知火の石牟礼道子を訪ねたときの、季村敏夫、石牟礼道子、季村範江(「市民グループ・まちのアーカイブ」代表)の会話なのである。
この内容は、阪神淡路大震災から、ほぼ一年後、水俣訴訟の一定の決着が出た(1996年)直後のことである。
石牟礼 国も行政も地域社会も担いませんから、全部引き受け直して自覚的になって、もうゆるす境地になられました。未曾有の体験をなさいましたが、もう恨まず、ゆるす。ゆるさないとおもうときつい、もうきつい。いっそ担い直す。人間の罪をみなすべて引き受ける。こう言われるようになったのです。これは大変なことです。今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。(後略)
季村(前略)イエスが神から見捨てられ、全能の神であるのに、どうしてこの俺を見捨てるのかと声をあげる。いわば自分を見殺しにした神をもゆるすという、水俣の患者さん達の苦痛の果ての声の姿。まさの既成のキリスト教理解を、遥かに凌駕した精神性だとおもいます。
石牟礼 それでなければもうきつい。病気を抱えているだけできついのに、迫害の歴史でした。差別どころではありませんでした。
人をゆるさない、ゆるさないでは、もう行く先がありません。チッソからも政府からも、地方行政からも裁判所からもね、地域社会からも拒絶されて来て。これまで、もがきにもがいたすえに。そういう人達がでてきたんです。
ともあれ、以下ふいくつか本誌より句を挙げておこう。
さくらさくらわが不知火はひかり凪 道子
死におくれ死におくれして彼岸花
祈るべき天とおもえど天の病む
★閑話休題・・天皇「慰霊碑の先に広がる水俣の海青くして静かなりけり」(平成26年)・(「東京新聞」2月5日夕刊)・・
石牟礼道子つながりで、「東京新聞」2月5日(火)夕刊、永田和宏の毎週火曜日の連載「象徴のうた 平成という時代」(52)に、
患ひの元知れずして病みをりし人らの苦しみいかばかりなりし
あまたなる人の患ひのもととなりし海にむかひて魚放ちけり 天皇(平成二十五年)
(中略)いずれも水俣病の患者に思いを寄せる歌である。
この他に当初お忍びで組まれたもう一つの面会があった。お二人だけで胎児性水俣病患者と会われたのである。母親が妊娠中にメチル水銀を摂取し、胎児期にその中毒を受けた子供たちである。車椅子で、しかも重度の言語障害がある二人の言葉にじっと耳を傾けられ、励まされたという。
この会談は、代表作『苦海浄土』で知られる作家、石牟礼道子さんが皇后さまに出した直接の訴えがそのきっかけを作ったという。社会学者故鶴見和子さんを偲ぶ「山百合忌」は毎年行われているが、そこに出席されていた美智子さまから水俣行きのことを聞いた石牟礼さんが、後日、ぜひ胎児性水俣病患者と会ってやってくださいと訴えたのだいう。異例のことであり、直前まで関係者にも伏せられていたというが、両陛下がこの面会を何とか実現させたいという強い思いからなる計画であったのであろう。
と記事中にあった。
2019年2月5日火曜日
武藤幹「悴(かじか)みぬいつか無頼を遠くして」(第3回ひらく会)・・・
昨日、2月4日、府中市市民活動センタープラッツ第4会議室で、第3回ひらく会が行われた。選句は一人5点の持ち点制、それぞれの句が拮抗していたせいか最高は2点で、多くは一句一点のいわゆる並選1点の5句選が多くを占めた。とはいえ、武藤句「悴みぬ・・・」に2点を投じた人は二人いた。その他、一句に2点を投じられた句は、
ゆうづけて
梅さすえりも
ひたをもて 鈴木純一
云ふなれば不思議な勝ちと寒の梅 中西ひろ美
人恋しまでは読めたが雪の句碑 中西ひろ美
春うごく親指コインポケットに 鈴木純一
悴(かじか)みぬいつか無頼を遠くして 武藤 幹
透明な錆浅葱(さびあさぎ)かな水かまきり 大井恒行
ともあれ、以下に他の一人一句を挙げておきたい。
黒姫の色の底ひや雪の村 渡辺信明
初音かな真昼の耳のピクとする 武藤 幹
本読めば才色兼備暖房者 猫 翁
梅小鉢そろそろ孫の産れたか 成沢洋子
春や立つ硯床の墨揺蕩うて 大熊秀夫
立春の我が家われらの猫がいる 中西ひろ美
藪はらや借り暮らしの垣ピラカンサ 救仁郷由美子
サザンカの白のうれしさ散りてこそ 鈴木純一
龍天に青枯れの葉を玩味するか 大井恒行
★閑話休題・・じつは「ひらく会」の前回全句評を鈴木純一が自主的に行って、開催日に各自に配布してくれている。その一端を以下に抄出したい。長大なものもあるので、短いもの二編を以下に・・・。
鈴木純一 記す↓
売り上げの上がらぬ漢崩れ梁 幹
「ノルマ」という言葉はもとはロシア語である
シベリアに抑留されていた人たちが戦後広めた
この言葉はよく使われ私もこの言葉に使われた
共産主義の言葉が資本主義の現場によく働いた
市場は自由という神の見えざる手に委ねられた
経営者にも読める唯一の文字は数字だったので
職場の壁に売り上げの太い数値が張り出された
数値に色が塗られ縁どられ影が付いて飛び出す
棒グラフは聳え立ち塗り潰されげ嵩上げされる
足を運べ靴を減らせ頭を下げろとにかく笑顔だ
「目標」「達成」「あと5日」「力を合わせよう」
数値応援団が「!」を引き連れて舞い踊り狂う
歌舞伎座の昼の部の天井桟敷でポケベルが鳴る
土手に座り焼きそばパンの断面の歯型を眺める
雪解け水が音を立てて簗の棒グラフに押し寄せ
漢は持直し踏ん張り齧りつき崩れやがて諦める
··········································································
干し芋の一陽来復をいただく ひろ美
かんそいも―よく食べた。おやつの類だが、お菓子と言うほどのものではない。火でちょこっと炙ると、もっといい。懐かしい香ばしさ、なめらかな舌触り、深い甘みが、口の中、鼻の奥にひろがる。だがそれは、紅茶に浸したマドレーヌ、なんて背伸びしたものではない。お願いだから間違ってもスイーツなんて笑止な言葉を使わないでくれたまえ。見てくれが貧しいだけ、かえってその豊かさにはは秘密めかしたものが感じられる。懐かしさが蘇る。食べる前にちょこっと火で炙る―あれがいい。あれが『一陽来復』なんだね。陰から陽に変わる予感、その変わり目の手応えが、干し芋にはあった。
··········································································
2019年2月4日月曜日
岡田日郎「渓激ち閃光飛びの雪ばんば」(合同句集『塔』第十集より)・・
合同句集『塔』第十集(風心社)、「塔の会」は五年ごとに合同句集を出している。第十集だから50周年である。巻末の岡田日郎「塔の会五十年小史」には、
昭和43年
「塔の会」の初句会は東京都郵政会館会場に昭和四十三年二月十九日の強い雨の夕刻から開催された。(中略)当時、俳人協会に所属する各結社の中堅メンバーということで、毎月句会を中心に会合が続けられた。
とある。メンバーは星野麦丘人、礒貝碧蹄館、岸田稚魚、草間時彦、鷹羽狩行ら16名だが、初回の句会に参加したのは、その中の11人だった。
昭和48年に塔の会の存続を可否をめぐって論議になったが、臨時総会を開き、句会に一年以上の欠席は会友とし、月例の案内は出さない。能村登四郎、磯貝碧蹄館など6名を会友にし、新会員に細川加賀、池上樵人など6名を加えて再出発している。合同句集は現会員25名、句数は基本84句、エッセイ、略歴、こまかな著作についての記述が付してあるので、それぞれの収載作者の主要な部分は伺い知ることができる。エッセイのなかで、とりわけ印象に残ったのは、七田谷まりうすが、まっとうな厳しい見解を表明していることだった。
俳句の世界を中期的にみると、句集刊行数の低迷、個別の作品・題材のマンネリ化(軽みよりも弛み・たるみ)が目に付く。(中略)しかも概して奇想を新風と勘違いする向きもあり、俳句作品の質的後退は否めない。
と記している。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。
半跏より身を乗りだして時雨けり 石嶌 岳
敬礼をしてゆく男社会鍋 稲田眸子
冷房や源氏の恋のおぞましき 上野一孝
夏池駒ケ岳
雪腐る渓か岩に手当てよぎる 岡田日郎
鉄アレイ五キロ大高源吾の忌 菅野孝夫
富士額らしくも見えて狩の犬 菊田一平
初みくじ日当たる枝に結びけり 栗原憲司
月へ飛ぶ恋猫の胴伸びにけり 小島 健
兵たりし米寿の父が草石蚕食む 佐怒賀直美
人去つて星のプールとなりにけり しなだしん
袖を重ねて形代の流れゆく 杉 良介
億年のひかりむさぼる冬桜 鈴木太郎
鳥帰るどの木の幹も濡れてをり 鈴木直充
楓の芽七日の昼の月高く 染谷秀雄
たはむれに蝶の触れ行く糸電話 寺島ただし
雲の峰家々に湧く生水(しやうず)かな 中山世一
立ち泳ぎして群青を蹴つてをり 七田谷まりうす
裸木の落葉松妣として仰ぐ 根岸善雄
白菜を割るや黄金曼荼羅図 檜山哲彦
一本の冬木を父と思ひけり 広渡敬雄
銃(つつ)とりし父の忌八月十五日 前澤宏光
からすうりいつついつしよにひきおろす 松尾隆信
万葉の世へ真間川の花筏 森岡正作
たましひのゆるびてをりぬ花月夜 山田真砂年
★閑話休題・・森無黄「魔所に入りて怪に遭いけり泊り狩」(「コスモス通信」とりあえず十号 より)・・
明治時代「季語」の創始者として記されていたという。「現代新派」を名乗っていたともいう。その句句が博文館『月分新派句選』(有田風蕩編・明治41年12月刊)に、相当数収められているという。この「コスモス通信」は妹尾健が不定期に出している個人冊子であり、今号のなかで「多行形式の今日的意義」と題されたものを、以下に抄録する。
ゆくりなく
他人の空を
人逝きぬ 中里夏彦
もう一句は、
氷点の
空の美貌に
無帽の
帰還
である。中里夏彦は福島県双葉町の俳人で、原発から五キロ圏内に住んでいたから(家も墓もそこにあった)、たぶん永遠に帰還はかなわないのではなかろうか。妹尾健は、
これらは慟哭である。悲しみは天を貫きとどまることを知らない。人はそれをささえにして生きていかねばならない。この慟哭はとどまることなく私たちをつつみ明日もまた私たちの前にたちふさがる。中里氏の作品はその無帽の帰還をかたりつづけるのであろう。俳人がその前に立ち尽くしてなんの不思議があるのか。いやされることのない悲しみに中で、今日も俳句を作りつつ慟哭をささげていく。この達成はついに多行において果されたといえよう。そしてそれはひとつの道筋となって結実した。私たちはこの形式に新たに目をみひらいていかねばならない。
と語っている。玉文であろう。
中里夏彦(なかざと・なつひこ) 1957年、福島県生まれ。