2022年2月28日月曜日

安井浩司「花鶏ども流れる宇宙も化粧して」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・

 


  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(13)


    花鶏ども流れる宇宙も化粧して      浩司

 

 既刊されている安井浩司の句集は十七冊であるが、「花鶏」を題とした句は、第十五冊目から第十七句集までに見られる。


   花鶏(あとり)ども並べる有(う)毒の電線に    山毛欅林と創造』

   花鶏待つどの山上も空処持ち             『空なる芭蕉』

   百穴にみな消えてゆく花鶏(あとり)ども         『宇宙開』  

   法華塔北の花鶏の逆(さか)戻り               〃

   花鶏ども流れる宇宙も化粧して                〃

   花鶏搏つ崖いちめんの色垢や               『烏律律』


 十七冊の句集の主題は「旅」であり、それは「俳句」と「安井浩司」の言語の深層への旅であった。掲出六句も一句毎に言語の深層への旅である。

 掲出した六句は出版順に書き出したのだが、一句目に「並べる」という「花鶏」への作者の意志が表されている。三句目は、「みな消えてゆく」と作者の見守る視点に変わり、四句目で、「逆(さか)戻り」と動行を仰視し、そして、掲句の「花鶏」の句になる。

 「花鶏」の季語は秋にある。

 晩冬から冬にかけて、ユーラシア大陸北部(シベリア)から、日本全国各地に飛来する渡鳥である。安井の出生地、秋田県でのその、花鶏の映像を見る機会があった。山林の中、一本の流れる川、この川辺一面を、一斉に飛び立ってゆく様子は、まさしく「花鶏ども」の大群であった。現在でも、大群は時おり飛来するが、毎年、少数の群れが、十月から五月くらいまで各地にいるようだ。

 角川大歳時記によれば、江戸時代、山地、森林、畑に渡ってきた「花鶏」は「好んで群れを成し、幾千百ということ知らず(『本朝食鑑』)」、また、『日本大百科全書』では、「群れは数万羽になるのもめずらしくなく、『日本書紀』巻29には、六八一年十一月、天を隠して飛んだ大群の花鶏の」記述を見る。

 千五百年前の事である。

 この「花鶏」の雄は頭と背が黒色。胸と肩は橙色を帯び、腹は白く、全体に華やいだ雰囲気は鮮やかに目に写る。雌は雄よりも淡い色彩だが、落ちついた色合いは、やはり華やかさがある。

 秋とはいえ、「長月六日」(陰暦九月)、太陽暦では十月となる。

『おくのほそ道』、最後の旅路の十月、別れと去りゆく秋を惜しんだ大垣での芭蕉の句、


   蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ      芭蕉


 そして、江戸中期、芭蕉が没した後、象潟で芭蕉翁を偲んで菅江真澄は、板戸(秋田県)の山路に分け入り「木々の紅葉がことに色よく染まり、それに朝陽(ひ)があたって、まばゆく見捨て通りすぎるには惜しいほどである(『遊覧記』5)と記した。

 別れ惜しむ秋へのさびしさと、「まばゆく見捨て通りすぎるには惜しい」秋。しかし、「花鶏ども」掲句には惜しむ秋の情緒はない。錦秋の美しさも、冬を告げる花鶏が飛来する華やいだ雰囲気も、万物、天地間すべてのものは美しく、一際、花鶏の飛ぶ群れは美しい。


   花鶏ども流れる宇宙は化粧して       浩司


 一際、美しい「花鶏ども」に、宇宙間に存在する数限りない一切の事、物、が、祭事や祝事の日に「化粧」するごとく、思わず「化粧して」しまうのではなかろうかと戯けてみせた晩秋の美への諧謔の一句。

 幻想的で難解に感じる掲句も、俳句の当たり前な読みを言葉に読めば読めてしまう。そして、どこまでも俳句であるにもかかわらず詩を感じる。詩であるかないかは読者が感じるかどうかという曖昧なものであるし、俳句が詩であるということではないが、十七音の世界が、宇宙を感じさせてしまうのは詩の力であるように思える。中七、下五の「流れる宇宙も化粧して」の比喩が詩言語となり、「花鶏」の季語と組み合わされている。それ故に、どこまでも俳句である一句に詩を感じることになる。

 詩を感じることで、たとえば、掲句の「宇宙」を万有、万象での宇宙と捉えれば、俳句の読みの自由は、作品同様に無限となる。

 最後に、安井の俳句が、幻想的であっても、俳句の基本である視て書くことから俳句を起こし、観念的と思える俳句も、安井の現実(個我)から書き起こされていることが、詩の実感として残されている。そして、ここでも「文体」と「構造」になるが、個我からの天地への視点、世界に対してのベルグソン的一点透視画法の文体に対して、もの皆等しく、個我と、天と地の万有の「俳句の構造」が、秋田の地に眠る安井の、俳句の未来に託した願いであるが、若き俳人たちに伝えていきたかったことであろう。


                                            photo:kunigou 

2022年2月27日日曜日

攝津幸彦「あたし赤穂に流れていますの鰯雲」(「垂人 41」より)・・


 「垂人(たると)41」(編集・発行 中西ひろ美、広瀬ちえみ)、中に、鈴木純一「超訳 芭蕉七部集/『春の日』(二)なら坂やの巻」がある。連載である。本号だけでも10ページに及んでいる。やがて、一本にまとめられれば、面白い読み物になると思う。冒頭部分のみだが、以下に引用しよう。


     三月六日野水亭にて      且藁

   なら坂や畑うつ山の八重ざくら

  奈良七重七堂伽藍八重櫻・・・・京から奈良へ入る手前に、奈良坂という坂がござましょう。今じぶん参りますと、あちこちで斜面を耕す人を見かけます。陽気も良くなり、畑仕事が始まるのですな。かつての賑わいは失われたとはいえ、奈良の都でございますよ、八重櫻でございますよ。けふ九重に、と古歌にある如く、今も変わらず、花は咲くのでございますな。

 野水さん、お庭の桜も、なんと見事に、匂いぬるかな、でございますな。


  その他、「や・かな・けりの句会/句会のおまけの回転題詠句会」、「雀連会2/芭蕉七部集『冬の日』最後の歌仙『霜月や』と連句実作」など盛沢山。広瀬ちえみの「こんな本あります⑪」の魚住陽子著『水の出会う場所』(駒草出版)評には、昨年8月に亡くなった魚住陽子の句集が待たれてならないとあったが、仄聞するところによると、遺句集の企画があるらしい。ともあれ、以下に本号より、一人一句を挙げておこう。


   眼鏡ふく数へ日だからみじゅくだから   中西ひろ美

   いくつもの一生涯や冬銀河         川村研治

   走り去るトラック 豚の耳ピンク     高橋かづき

   寒牡丹その名は卑弥呼きのうきょう     坂間恒子

   ブロッコリー花の数だけ死んでいく     中内火星

   理髪屋のホース頭をスワンとす       渡辺信明

   春の山地図を広げて眠くなり       ますだかも

   夢の虫石の街路のどこからか        野口 裕

   魔術師のいちのさんの指の音       広瀬ちえみ



★閑話休題・・攝津幸彦「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」(「香天」通巻66号より)・・


 攝津幸彦の句のつながりで、「香天」通巻66号に、三好つや子「攝津幸彦を探る」が掲載されている。その中から想い出深い一句を挙げた。この句は、第6句集『陸々集(ろくろくしゅう)』(弘栄堂書店)の帯に、仁平勝の合本形式の「『陸々集』を読むための現代俳句入門」の中から愚生が選んだものだ。それには「これは『陸々集』の思想的なマニフェストにほかならない」(仁平勝)とある。


   

         撮影・芽夢野うのき「春の雪母老いたれば泥となり」↑

2022年2月26日土曜日

武藤幹「墓仕舞い決めた数の子噛みながら」(第34回・メール×郵便切手「ことごと句会」)・・

 

 第34回・メール×郵便切手「ことごと句会」(2022年2月19日・土)、出句は雑詠3句+兼題「歌」の計4句。以下に一人一句と寸評を挙げておこう。


  水嵩の背伸び川面も春の歌        江良純雄

  鬼の目を覗けば寒き伽藍堂        渡辺信子

  ソプラノ歌手隣家に在りて夜の梅     武藤 幹

  饒舌にしたたかに降る夜の雪       渡邉樹音

  しずり雪五センチ伸びる傷ひとつ    らふ亜沙弥

  囚われた墨書春に向け滲む        照井三余

  酔いどれの決意新たに万歩計       杦森松一

  じょっぱりの歌石っこ流れ葉は沈む    金田一剛

  ふと墜ちる神のありなん花に蛇      大井恒行


★寸評★

「墓仕舞・・」ー墓仕舞は一世一代の決心、そう簡単には決められない。でも決めないといけないの心情を感じます(松一)。我が家でも墓仕舞いがあり、兵庫県と横浜の距離で大変な思いをしました。数の子の食感に近かったような、今更ながら感じています(亜沙弥)。子孫繁栄の意がある数の子。墓仕舞いとの取り合わせが非常に現代を感じさせる(樹音)。

「水嵩の・・」ー目の前の多摩川も今まさにそんな風情です(信子)。

「鬼の目を・・」ー勇気ある行動こそが、本質を見透かす!(幹)。

「ソプラノ歌手・・」ー暗い中にも梅は香りと姿を浮び上らせる。ソプラノ歌手のどうでも目立つイメージに重ねたか(純雄)。

「饒舌に・・」ー夜降る雪は確かにこのようだ!作者の感性に同感!!(幹)。

「しずり雪・・」ー5センチ伸びる事がどの様に計られるか?(三余)。

「囚われた」ー「囚われた」をこだわりと解釈。春の陽気にこだわりが緩んだか(純雄)。

「酔いどれの・・」ー酔いどれは、明日こそは、と決意はするのだが、なかなか実行に至らない。その決意は、いつも新たになされるが、酔いが醒めると、つい面倒くさくなる。そういう親父ってよくいそうだ。「万歩計」・・、おそらく健康維持のための散歩なのだ(恒行)。

「じょっぱりの・・」ー「じょっぱり」は津軽方言で意地っ張り、「石っこ」も賢治の童話にも出てくるなど、方言が上手く生かされている。ただ、「石は流れ葉は沈む」は、いささか安易かもしれない(恒行)。

「ふと墜ちる・・」ー 蛇を神としたのが面白い。しかも堕ちた神となれば、ほとんど人間。花は派手なほど人間くさくていい(純雄)。


 因みに、事務局・金田一剛からの伝言は以下、「3月も安全郵便句会とします。武藤さん、兼題提出お願いします」。


撮影・中西ひろ美「人生に『最後』を作る愉しみのありと教へてくれし先人」↑   

2022年2月25日金曜日

水野真由美「書かざれば伏字はなけり風花す」(『草の罠』)・・・

 


 水野真由美第3句集『草の罠』(鬣の会・風の花冠文庫)、帯は無いが、カバーの表3側にそっと林桂の惹句が置かれている。それには、


 遊びたりない思いを草の罠に結んで帰ったものだった。

 この小さないたずらは、あす同じ草の道を選ぶ友へのメッセージでもあった。

 水野真由美の俳句のことばも草の罠だろう。転んでくれる未知の読者を待っている。


 とある。また、著者「あとがき」には、


 新型コロナウイルス感染症の「緊急事態宣言」と「蔓延防止等重点措置」は生活の感覚を変えた。誰もがマスクをしていることへの違和感はマスクをしていない人への違和感になった。盛り場の店の一斉休業を最初は戦時下のようだと感じたが何度目かで見慣れた光景になりはじめた。

 生活とはあっけなく変わるものだと改めて思う。平時から戦時へも、こんなふうだったのだろうか。

 何が変わって何が変わらないのか、あるいは何を変えるべきで、何を変えてはならないのかー見えづらくなっている。

 詩は見えづらいモノやコトを見るためにもあるような気がする。

 最短という定型から詩としか呼びようがない一つの世界が立ち現れることが不思議で俳句を読み続け、やがて書くようになったことを思い出す。


 とあった。集名に因む句は、


     しろき人影ーフクシ2017・9・9

   海が海を消してゆく日や草の罠     真由美

 

 であろう。ともあれ、以下に、愚生好みになるが幾つかの句を挙げておきたい。


   遊べる神も田の神も去り再稼働

   まだ種子の遠い空へと登る木よ

     「車窓からはあたしが見える 三年前はまだ若かった」と歌っていたが

     何才の女ならこういうふうに言えるのだろうと思った。銭湯の有線で

     「赤い橋」を覚えた。


   友の背の彎曲を手に緑夜なり


     彼女も私も急いで大人になった子どもなのだ。

   木いちごを摘みつつ母を失へり

   ゆりかごにむぎわらぎくの音のこる

   縄跳びを抜けて一人は昼の影


     高崎市の酒亭「三月兎」店主松岡明氏、同店の句会の翌日、二〇一七年

     十二月十八日、店内にて急逝。日本酒だけを置く店だ。最後の投句は

     「旅の果て山茶花に聞く海の音」「山茶花の命散りゆく闇と寝る」。

     昔昔、高校にも学生運動があった。高崎映画と「シネマテークたかさき」

     を応援していた。

   山茶花の散る音を聞きに行つたのか  

   男らは紙風船を打ち合へり

   葱抜きしより現世の昼澄めり

   いくさ来る見えないいくさの来る枯野

   蜩を日暮れ惜しみと呼ぶ村よ

   くるぶしに初しぐれ来てははの声

   旗手ならずまた鼓手ならず父の夏

   

 水野真由美(みずの・まゆみ) 1957年、前橋市生まれ。




★閑話休題・・水野真由美「山眠り眠れぬ鬼は星を浴び」(「鬣 TATWEGAMI」第28号より)・・

「鬣」つながりで、「鬣 TATEGAMI」第28号(鬣の会)は、創刊20周年記念号である。特集は、「『風花冠文庫』の二〇年」と「阿部青鞋を読む」。前者には、愚生も「風の花冠文庫についてー未来の読者のために」を寄稿させていただいた。また、本号は、「第20回鬣TATEGAMI俳句賞発表」でもある。授賞作は、井口時男『金子兜太 俳句を生きた表現者』(藤原書店)と志賀康句集『日高見野』(文學の森)、慶賀。いつもながら、隅から隅まで充実の誌である。巻頭の特別作品から、一人一句を挙げておこう。


  山茶花の

  ひかりふる

  庭

  あひ別る                深代 響


  とんぼうも飛行機雲も水平に       九里順子 

  銀杏の匂い 削除という手法       西平信義     

  とがった朝のようなピアス      西躰かずよし


(みな)

  見上(みあ)

(つき)の吐息(といき)

(き)き洩(も)らし         中里夏彦 


  

      ・鈴木純一「春の霜消えるためにも光らねば」↑

2022年2月24日木曜日

徳田千鶴子「忘れえぬ照葉の空の明るさも」(「馬醉木」2021年10月・創刊百周年記念号)・・・

 


 「馬醉木」2021年・10月号・創刊百周年記念号(馬醉木発行所)、百周年記念祝句各3句は、宇多喜代子・矢島渚男・黒田杏子・片山由美子。ブログタイトルにした徳田千鶴子「忘れえぬ照葉の空の明るさも」は、「祖父四十年忌を修して二句」と前書を付された二句のうちの一句。記念号の記事中では、掲載された評論が興味深い。その題を紹介しておくと、篠弘「『近代』を獲得した秋櫻子」、今瀬剛一「秋櫻子・登四郎・翔そして」、能村研三「登四郎・翔の馬醉木時代」、西嶋あさ子「『仲良く』の人 水原春郎先生」、角谷昌子「水原秋櫻子の革新性」、今井聖「『新興俳句』は『花鳥諷詠』であった」、筑紫磐井「『馬醉木』と新興俳句ー特に高屋窓秋との関係」、岸本尚毅「『友』をめぐって」、坂口昌弘「秋櫻子と「馬醉木」の系譜を振興俳句に括ってはいけない」、蟇目良雨「高野素十第十一句集『初鴉』出版事情」などである。中でも、偶然にも4名が新興俳句と「馬醉木」の関係に賛否の言及をしているのだが、ここでは、事実関係を詳細に当たった筑紫磐井の論により説得力があるように思うので、その要約を、筑紫自身が論じた「俳句四季」1月号の「『俳壇観測』連載228/『馬醉木』100周年ー馬醉木と新興俳句」から、一部になるが、引用しておきたい。


 (前略)要は、秋櫻子や「馬醉木」は新興俳句であったかどうかという歴史的評価が今もって定まっていないのである。しかしこれは、評価という価値以前の事実の検証がない爲もある。(中略)

 最も注目したいのは、加藤楸邨の評論で、「新興俳句批判(定型陣より)」(俳句研究昭和10年三月号)、(中略)「新興俳句の風貌」(「馬醉木」昭和十一年一月号)と新興俳句の論争は一手に加藤楸邨が引き受けている。それも決して新興俳句に批判的ではない。最も特徴的なのが「新興俳句の風貌」で、ここでは楸邨は新興俳句作家として九名を上げ作品を紹介しているが、その筆頭に水原秋櫻子と山口誓子をあげているのである!

 面白いのは昭和十一年で,この年刊行された単行本の宮田戌子編『新興俳句展望』で「新興俳句結社の展望」(藤田初巳)と「新興俳句反対諸派」(古家榧子)が載っているが、「新興俳句結社の展望」でその筆頭に「馬醉木」が、「新興俳句反対諸派」ではアンチ新興俳句の「新花鳥諷詠派」として秋櫻子と誓子を上げている。一冊の本の中でのこの混乱が、新興俳句をめぐる当時の混乱を如実に示しているようである。因みに、今井聖が新興俳句を花鳥諷詠としているが、古家の方が今井よりはるかさきに秋櫻子と誓子を花鳥諷詠派と断じている。ことほど左様に、根拠もないラベル貼りは虚しいものがある。(中略)

 関東大震災直後、復興、再興、そして新興という言葉が生まれた。小説、戯曲、芸術、国家論、そして短詩型まで次々と新興は生れた。今日の新興は明日の新興ではなかったのだ。昭和一〇年に秋櫻子も「馬醉木」も間違いなく新興俳句であった。昭和十一年から次第に怪しくなって行く。これさえ分れば、「馬醉木」誌上の議論は解決が付くはずなのである。(中略)

 なお、余計なことになるが、新興俳句批判を書いた今井聖は実は加藤楸邨の高弟である。楸邨の新興俳句に寄せる共感を少し学んで欲しい気がする。


 そして、先の「馬醉木」創刊百年記念号に、筑紫磐井は、


 現代俳句を語るに当たって「馬醉木」が欠かせないことは誰も疑わない。昭和6年に秋櫻子が「馬醉木」に発表した「自然の真と文芸上の真」、そしてその後のホトトギスからの離脱は俳壇に激震を与え、昭和俳句史を転換した。

「馬醉木」独立の頃の中心は後述するように、高屋窓秋と石橋辰之助であり、特に高屋窓秋はその新撰な作風から、新興俳句の源流とされている。然し、だからといって「馬醉木」と新興俳句との関係は良好であったわけではない。特に昭和11年から、秋櫻子が無季俳句を排したところから新興俳句史の本流からは外されていっている。(中略)しかし、矢張り「馬醉木」がなければ新興俳句は生れなかった。(中略)

①我が思ふ白い青空と落葉降る

②頭の中で白い夏野となつてゐる

③白い靄に朝のミルクを売りに来る

④白い服で女が香水匂はせる

新興俳句はこの時始まる。このたゆたうような文体。特に〈頭の中で白い夏野となつてゐる〉は新興俳句の最初の金字塔といってよかった。現在も、その認識は変わらないが、秋櫻子の「自然の真と文芸上の真」を文字通り体現した、「馬醉木」俳句の金字塔でもあったことは案外忘れられているようだ。私は「自然の真と文芸上の真」をこれ以上に的確に表した句はなかったように思う。


 と記している。同感である。そして、楸邨の評「かういふ主観の色彩を描こうと意図した句の手法としては、たしかに新機軸である。この句はこれから開拓されるだらうと思ふ俳句の新原野を暗示してゐる点で特に注目を要求する価値がある」(「馬醉木」7年4月「合評会」)を紹介し、かつ秋櫻子の評、「洋画の光線の取扱ひ方に似てゐて、これは又立派に独立した文学的の光線の取り扱ひ方になつてゐる。在来の俳句には甚だ類稀れな行き方であるが、僕はこれで好いのだと思ふし、又ここから新しい道が拓けて行くにちがひないと信ずる」(「馬醉木」7年1月「雑詠評釈)を挙げ、


(前略)句こそ違うが、注目したいのは「俳句の新原野を暗示してゐる」「新ら道が拓けて行く」の評語であった。いこれらは馬醉木俳句の評語であった。しかしまた、「馬醉木」から生まれた新興俳句をゆくりなくも示したのである。

 晩年に窓秋を囲むシンポジウムがあり、会場から「最も強烈な印象を与えた俳人」と問われ、少し間をおいて、ちょっと小首をかしげたポーズで「水原秋櫻子です」と答えていたのお思い出す。ここに師弟は黙契したのである。


 と結んでいる。因みに記念号の祝句と「馬醉木」主宰の句を挙げておきたい。


   月山へ杖もちなほす雁の頃       徳田千鶴子

   歳月のうねりとなりて青嵐       宇多喜代子

   炎天や言葉に生きるほかはなく      矢島渚男

   「ホトトギス」離脱よかつた夕月夜    黒田杏子

   武蔵野の空の青さや雁来月       片山由美子   



      撮影・芽夢野うのき「戦をしない美しき枯れ色なり」↑

2022年2月23日水曜日

小山正見「身代はりの風船数多数多割る」(『大花野』)・・

  


 小山正見句集『大花野』(朔出版)、帯文は伊勢真一(映画「妻の病」監督)、


     ここはどこあなたはだあれ大花野

  全三十六句、まるで「映画」のようだ。

  声が聞こえてくる・・・

  「あなたはだあれ」のささやかき声が

  大花野一杯に響き渡る。

  ほら。


  また、著者「あとがき」には、


 妻邦子の異常に気付いたのは、東日本大震災の翌年、ニ〇一二年のことである。検査の結果、アルツハイマー型の認知症であることがわかった。

 それから十年が経った。妻の病気は今なお進行している。ある時は穏やかに、またある時は急激に。(中略)

 妻と私は、一九七二年に結婚した。来年で五十年になる。

 病気が進んでも、妻は「あなたのはあるの?」といつも私を気遣ってくれた。

 この歳まで楽しく暮らしてきた。存分に生きた。

 妻に感謝している。

 深く愛している。

   暗闇に極彩色の大花野


 とあった。集名に因む句は、「ここはどこあなたはだあれ大花野」からであろうが、「あとがき」の末尾に添えられた句も切ない。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておきたい。


     妻邦子発症

  十二月八日CTスキャンの脳画像       正見

  クリスマス来る筈のなきプレゼント

  松落葉一分おきに聞く時刻 

  家中に蟲身体中に蟲蟬時雨

  家に居て帰るてふ妻秋彼岸

  つい怒鳴る虐待に違ひなき暮

  気休めのピンクの薬去年今年

  また一つ星を消したる朧かな


 小山正見(おやま・まさみ) 1948年、神奈川県川崎市生まれ。



      芽夢野うのき「病むもの寄り添う椿のひらき方」↑

2022年2月22日火曜日

折笠美秋「俳句おもう以外は死者か われすでに」(「俳句界」3月号より)・・

  


 月刊「俳句界」3月号(文學の森)、特集は「俳句は境涯の詩~境涯俳句を読む」である。論考は総論に秋尾敏「境涯の俳句史」、時代別の作品に、岩岡中正「①明治・大正に詠まれた境涯俳句」、角谷昌子「②昭和に詠まれた境涯俳句」、髙柳克弘「③平成・令和に詠まれた境涯俳句」。それぞれの境涯俳句には、加古宗也「村上鬼城」、福永法弘「富田木歩」、鈴木しげを「石田波郷」、松浦加古「野澤節子」、外山一機「村越化石」、大井恒行「折笠美秋」。「私の境涯を詠む」に、鈴木節子・岩淵喜代子・山﨑十生・中村雅樹。他に、「北斗賞受賞作家競詠」では、第12回受賞第一作に伊藤幹哲(まさのり)を含む12名の力作。また、第23回山本健吉評論賞は二名、山岸明子「死刑囚・大道寺将司と俳句」、柳元佑太「写生という奇怪なキメラ」の同時受賞、全文掲載。もう一本の特集は「私の追求したい季語」など、内容もなかなかの充実ぶりである。ここでは、愚生の論も載っているので、それに贔屓して、秋尾敏「境涯の俳句史」から、一部を引用しよう。


 「境涯」は、江戸期には「境界」と書かれ、多くの俳書中に用例がある。(中略)

 虚子は、特別の境涯を持つ人が境涯俳句を詠むことを否定していない。しかし、俳壇の構造が、虚子の答弁をきっかけに「境涯俳句」対「花鳥諷詠」という図式を作ってしまう。(中略)

 昭和十七年、波郷が「鶴」に書いた「俳句は境涯を詠うものである。境涯とは何も悲劇的情緒の世界や隠遁の道ではない。又愛別離苦の詠嘆でもない。すでにある文学的劇的なものではなくて、日常の現実生活に徹していなくてはならない」という一文は、近代境涯俳句の原点とされるようになった。

 波郷の主張は、虚子が特別の人のものと考えた境涯を、万人が持つそれぞれの状況と捉えた点で画期的であった。(中略)

 境涯俳句は、社会が変化し、貧富の差が拡大する時代に繰り返し現れる。芭蕉、一茶、鬼城、波郷の時代はいずれも経済構造が変化し、新たな格差が作られる時代であった。

 そして今、今日の格差社会の中で、また境涯俳句が注目され始めている。

 従来と違うのは、社会の多様性が進行しているということである。障害や性差をはじめあらゆる既成の認識が脱構築されていく中で、従来、境涯と思われなかったものが境涯と認識されていくことも多いと考えられる。文学とは状況認識であり、俳句もまた世界観を基盤に置く。これからの俳人が、何を境涯と考えていくかに注目したい。


 とあった。その意味で、注目は、「③平成・令和に詠まれた境涯俳句」かも知れない。髙柳克弘の選句には、現役の若い俳人も幾人かいる。あわせて、同号より、いく人かの作品を挙げておこう。

  

  ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり    関 悦史

  おとうとのやうな夫居る草雲雀       津川絵理子

  一瞬にしてみな遺品雲の峰          櫂未知子

  ヒヤシンスしあわせがどうしても要る     福田若之

  薄給やさざんくわ積める芝のうへ       藤田哲史

  妻来たる一泊二日石蕗の花          小川軽舟

  花虻に我が乳くさき体かな          如月真菜

  処刑後も夕顔別当まだつるむ         牛島火宅 


  母の墓蛇は春の歯みせにゆく        鳥居真里子

  寝間に本積んで春夜の腓かな         鈴木太郎

  ものの芽や皆拝みたる形なる         辻村麻乃

  十薬やあなたのお骨納めです         鈴木節子

  麦踏のつづきのやうに消えにけり      岩淵喜代子

  雪が降っていますね演出久世光彦       山﨑十生

  外套や傘をさすのが大嫌ひ          西村麒麟 

  万の手のひとつを握り花野ゆく       藤井あかり



      撮影・鈴木純一「とりどりに土の匂いも春の雨」↑

2022年2月21日月曜日

種田山頭火「凩の日の丸二つ二人も出してゐる」(「円錐」第92号より)・・


 「円錐」第92号(円錐の会)、今泉康弘「木枯(こがらし)の詩学」が読ませる。その冒頭「1 木枯の季節は冬か?」で始まる。


 木枯が冬の季語であることは、現代の俳人において当たり前のように思われている。だが、和歌の歴史を顧みると、それは決して当たり前のことではなかった。平安時代には「秋のものだ」とも考えられていたのである。

 例えば、木枯を秋のものだとする例として次のような歌がある。「古今和歌六帖」(編者未詳、九六七~九八七頃成立」の初秋の項の歌である。

木枯の秋の初風吹きぬるをなどか雲井に雁の声せぬ    (中略)

木枯の音にて秋は過ぎにしを今も梢に絶えず吹く風

 木枯の音がして秋は過ぎていった。だが、今、冬の初めになっても、梢には絶えず風が吹いているー。

 木枯は秋に吹き、木の葉を枯らせ、そして秋とともに風音をたてて過ぎ去ってゆく。そのあとで冬がやって来る。そういう順序をうたっている。(中略)

 なお、和歌では古くは「木枯の風」という語だった。(『歌ことば歌枕大辞典』にはこの語で立項されている)。木を枯らす風、ということである。それが省略されて、「木枯」という語だけで木を枯らす風を指すようになった。(中略)

 やがて平安時代の終わる頃、「木枯」の詠まれ方に変化が生じる。即ち「新古今以降中世には、晩秋から冬の詠がふえ、木の葉をはらうと詠むものが増加する」(前掲『歌ことば歌枕大辞典』、「木枯らしの風」の項』。(中略)

 その背景には『古今集』の美学から、中世的な美学への変容があるだろう。(中略)

 『古今集』は明晰な名月を好み、『新古今集』は朧月の美、即ち余情を好む。(中略)

 では、そもそも、なぜ『古今集』は「安定」「明晰」な美を描いたのだろうか?奥村恆哉は、前掲文の中でこのことについて答えている。それによると、まず、『古今集』の編纂は国家的大行事であった。そして、編纂者の紀貫之は、中国文化において詩の果たした役割を、日本において和歌が果たさなくてはならないという理念のもとに『古今集』を編纂した、とする。その理念ゆえに「貫之にとって価値があったのは、人間と自然の、あるべきありようだけである」。それはまた、「律令制社会、律令的秩序」の反映であるとする。つまり、自然と人間との理想的なあり方を「安定」した「明晰」な秩序意識のもとに構成したのである。(中略)

 一方、『新古今集』の場合はどうか。私見だが、ー『新古今集』の時代には、すでに権力は武士に移っていた。天皇を中心とする貴族社会に政治の実権はなかった。貴族たちは権力を失った。こうした貴族たちの詠む歌には、彼らの不安定な社会的立場が反映する。(中略)

 こうして、権力を失った『新古今』時代の貴族達は、無常感の中で、「明瞭」ならざる美、例えば、「朧月夜」を詠んだ余情の美を好んだ。(中略)

「木枯」は、そうした無常と余情の美学の中に組み込まれていったと思われる。それゆえ、かつて、「秋の初風」であった木枯は、新古今以降中世において晩秋・冬の本意を与えられていったのではないか。木枯は貴族社会の没落による美意識の変化により、初秋中秋よりも、いっそう寒さ厳しい晩秋・冬にこそふさわしいものとして観念されたと推測できよう。(中略)

そうして、中世の没落貴族社会の不安が「嵐」「氷」そして「木枯」の美学を作ったと考えられる。即ち、季語観は政治に左右される。季語の本意は人為により変化する。


 こうした、論述の最後の項は「3.『木枯」の句」で、俳・歌人が詠んだ句歌が鑑賞されている。ブログタイトルにした山頭火「凩の日の丸二つ二人も出してゐる」の句には、


 『草木塔』(一九四〇)所収。この句は「銃後」という章に含まれている。同章は日中戦争下の庶民の様子を山頭火なりに描いたものである。〈秋もいよいよふかうなる日のへんぽん〉〈勝たねばならない大地いつせいに芽吹かうとする〉などがあり、これらからすると、山頭火は取り立てて戦争に批判的だったとは感じられない。だが、「遺骨を迎へて」という前書のある〈いさましくもかなしくも白い函〉や、〈お骨声なく水のうへをゆく〉などを見ると、戦争の犠牲になった庶民の悲しみに共感している。同じ章の中に「ほまれの家」という前書きのある句、〈音は並んで日の丸はたたく〉がある。「ほまれの家」とは、戦時下、戦死した家族のいる家を指す。役場がその家に「誉れの家」と記した表札を送ったという。国家のために死んだ人間を権力はそのようにして顕彰した。だが、それは弔意ではない。戦意を高揚させるためである。(中略)

 掲句では、道すがら見た家が日の丸を二つ掲げていたという。つまり、一つの家から二人の戦死者を出しているのである。(中略)

 この時、「凩」は戦時下の暗い時代を生きることの厳しさを暗示している。


 長い引用紹介になったが、興味を持たれたら、直接本誌に当たられたい。ともあれ、本誌本号の特別作品から、一人一句を挙げておきたい。


   栞紐繰るも三日目新日記        後藤秀治

   立つ濤の下は小暗し敏雄の忌      澤 好摩

   一瞥もなくて別れて蛇穴に       大和まな

   ロシナンテ号は自転車ひつじ雲     摂氏華氏

   みずうみに水を見に行く春に死ぬ    来栖啓斗



撮影・中西ひろ美「まもなくね 『冬の 子 春』といふ短詩」↑

2022年2月17日木曜日

久保田和代「長い詫状未だ未完の母の死よ」(第2回「きすげ句会」)・・

 

 本日は、府中市生涯学習センターに於て、実質スタートの「きすげ句会」、雑詠2句+兼題「長」1句、計3句出し。代表者は、杦森松一、副代表・山川桂子、会計は濱筆治。参加者10名。本日は9名出席。愚生の一句は、「きすげ句会」を詠み込んだ挨拶句、「君もすなるげに句会とぞ府中春」を投じたが、残念ながら無点だった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。次回(3月17日午後1時半~4時・木・於:府中市中央文化センター第5会議室)の席題は「和」。


   指先の皹(あかぎれ)癒えて水温む    壬生みつ子

   立ちのぼる土の匂いよ返す畑        井上治男

   庭の柚子風呂に浮んで冬星座        濱 筆治

   オカリナや記憶のカメラ春立ちぬ     久保田和代

   花散れど夢膨らんで長寿かな        杦森松一

   長き旅終の棲家に春一番          井上芳子

   長い影一足先に梅ざくら         大場久美子

   冬の朝「霜柱」なる草を知る        清水正之 

   能管の長きひしぎや冴え返る        山川桂子

   憂き鳥を止まらせ芽吹く木々ありぬ     大井恒行 



   芽夢野うのき「メランコリーまわるまわる岸辺の鳥も」↑

2022年2月15日火曜日

八木三日女「芽に折れるジャズ地下に無頭児双頭児」(「里」2022年1月号より)・・


 「里」2022年1月(第196号・里俳句会)、30ページほどだが、句会報などが無く、シンプルにして、幅無限大の読み応えある同人誌。目次を挙げておくと、虎時「季語を料る その前に その四」、川嶋ぱんだ「巻頭エッセイ・不器男の三ケ日」、里程集「三十六家、三十八編」、菊池洋勝「洋勝のページ/冬林檎」、叶裕「無頼の旅・第一回/蛭子の唄ーローランド・カークという男」、早川徹「現代俳句月評 いきものがたり2/右城暮石と国内外来魚問題」、島田牙城「俳句って難しい五/正・俗・略のこと(一)」、「一里塚/月潮・瀬戸正祥・叶裕・木下周子・流牙亭七軒・中原久遠」、上田信治「成分表160」など。その中の島田牙城「正・俗・略のこと(一)」から、部分を以下に紹介する(本文は正漢字)。


(前略)かれこれ二十年も前の話だが「里」の創設の句会で、「俳句を勉強しないで下さい。不良中年になって下さい」と檄を飛ばしたのには、今も嘘はない。里人が常に心掛けることは、好奇心をもってあらゆることを疑ひ、自らその疑ひを晴らしてゆく努力の姿勢であつて、人がいふことを鵜呑みにすることなかれ、といふことだらう。里といふ字にある八つの窓、そこには季語ちゃんや十七音君やもゐるにはゐるが、だれも、絶対権力者ではない。定型さんと十七音君が同居しきれないやうに、住人たちは皆が皆、ふはふはしてをつて、上段の構へで儂らを威嚇してゐさうな切字どんなんて、部屋の隅つこで膝を抱へ、逃げ出す隙を窺つてゐる風でもある。

   俳句を作り始めるにあたつて、五七五定型に言葉を入れ込み、

   その単語の一つ以上を季語にし、時に切字の効用を活かす

といつた基本から入るのはいいけれど、この一つひとつの部分にしても「絶対条件ではない」といふ心構へは大切だ。「なぜ季語なのだらう」「なぜ五七五なんだ」「切字つて、何」といふ好奇心=疑ひを懐中に持ち続けるといふことになる。

 この俳句の三要素についてはまだいいとして、

   俳句は伝統ある詩なのだから、文語で詠みませう。

   文語なのだから、旧仮名遣ひを使ひませう

などと本気で信じて垂れ流してゐる主宰者やカルチャー講師がゐて、笑ふしかないのだけれど、かうなると文学活動ではなく新興宗教に近からう。芭蕉さんも、自分の言葉で俳句(俳諧)を作つてをつた。

   うたがふな潮の花も浦の春     松尾芭蕉

   漱石が来て虚子が来て大三十日   正岡子規

に、文語は一つもない。先づ、俳句は自分の使へる言葉で作る。これ、すごく大切なんだ。その上で、「自分の使へる言葉」を増やす努力をしたはうがいい。(中略)

 しかし、分からぬことがある。何故にみなさん歴史的仮名遣とやらで俳句を書かうとして間違ふのだらう。「自分の使へる言葉」の表記、現代仮名遣でよろしいやん。といふ疑問が沸々と湧いてきたからだ。これまた、教壇から飛んできた言葉か教祖のひと言かは知らぬが、「俳句は歴史的仮名遣だよ」を盲目的に信仰してをられるのかな、とね。使へない表記を使うて間違へるとは、滑稽なこと。使へる表記でいいのである。


 因みにブログタイトルにした八木三日女の句「芽に折れるジャズ地下に無頭児双頭児」は、叶裕「無頼の旅 第一回/蛭子の旅ーローランド・カークという男」の文中から拝借した。ともあれ、「里程集」から、愚生にいくぶんか関わりのあった方の句をアトランダムになるが挙げておきたい。


  炭出すやごっぽり夜を引っ張って    川嶋ぱんだ

  悪たれの踏むかはたれの焚火跡      黄土眠兎

  ほろほろ鳥ほろほろ歩いてゐる二月    瀬戸正洋

  狼が人尿舐めに来てゐたる        谷口智行

  凍蝶笑うよこなごなになるまでを    津田このみ

  集落のどんどの櫓寒北斗         柳堀悦子

  去りがての青鷺一羽氷柱花        雨宮慶子

  角材にいよゝ火の着く焚火かな      天宮風牙

  出初式顔の大きなぬひぐるみ       上田信治

  空風や商家は軒を低くして         叶 裕

  雪を拂はば氷あらはれ十二月       島田牙城



          撮影・鈴木純一「淡雪や捨子世に出る物語」↑

2022年2月14日月曜日

樋口由紀子「快適を舐めてみたけどデカすぎる」(「晴」第5号)・・


  「晴」第5号(編集発行人 樋口由紀子)、その「後記」には、


 今号の巻頭文は歌人の荻原裕幸さんにお願いしました。荻原さんに名古屋みどりの会で初めてお会いしたのはもう二十数年前になります。『現代川柳の精鋭たち』(二〇〇〇年・北宋社刊)の解説を堀本吟さんと共に書いていただきました。巻頭文で書かれている「自己規定」発言は衝撃的でした。こうして、ずっと川柳を温かい目で見つめ続けて下さる人がいる、心強く、ありがたく、涙が出そうになります。「自分の居る場(川柳)を居心地よくしましょう」と荻原さんに言われたことも川柳を続けていく指針になっています。


 とある。その巻頭文の萩原裕幸「母としての/他者としての川柳」の後半に、


 その一つは『川柳×薔薇』(二〇一二年、ふらんす堂)、この本は、川柳観、句集論、柳人論、一句鑑賞などで構成された樋口さんの川柳論集である。私の知るかぎりでは、その発生史をはじめ、川柳史に頼らないところで書かれたきわめて稀な、現代の川柳論集である。(中略)一冊を読んで、理屈っぽい感じはあまりないのだけれど、私がかねてから求めていたようなジャンルの「自己規定」が、とても柔らかなスタイルでなされているように感じられた。一からあるいは無から構築したような川柳論集は、現代の川柳にとって画期的なものだったのではないかと思う。

 また、もう一つ『金曜日の川柳』(二〇二〇年、左右社)にも、私は、樋口さんの川柳に対する情熱や良い意味での執念のようなものを感じた。(中略)樋口さんが長く望んで来たのであろう、何々川柳でも、できるだけ多くの人に川柳のおもしろさを知ってもらいたい、という思いがそこに溢れているのを感じた。私が煽ったような、やや狭い明確なジャンルの規定、を真っ向から否定するように、広く、ほんとに広く、柔らかに、豊かに川柳を語っているのを読んで、私は脱帽したし、それらを素直に楽しむこともできた。


 とあった。思えば、『現代川柳の精鋭たち』は、当時、北宋社(渡辺誠)から、何か企画はないかと持ち掛けられて、「豈」の同人であった樋口由紀子や小池正博の川柳が佳かったので、現代短歌も現代俳句もアンソロジーがあるのに、現代川柳にはそれがない。それで、川柳界に無知な愚生は、その全ての実現を樋口由紀子に委ねたのだった。その次に、邑書林のセレクション川柳のシリーズも、社主の島田牙城が、二つ返事で引き受けてくれた。そのいずれの実現も樋口由紀子あってのものだった。そうしてみると、現在、愚生のような、門外漢にも、現代川柳の活きの良さが伝わってくる事態になっているのは、実に嬉しいことである。さらに、若き俳人や川柳人や歌人、あるいは他の散文のジャンルの方々とも交流されているようで、こうした刺激が実を結ぶのも楽しみである。愚生がお会いした頃の樋口由紀子は、冗談のように愚生が本格俳句を目指しています、と言ったら、私も本格川柳を目指しているんです、と答えていた。いずれ本道を歩いているのだという自負が頼みの頃のことである。ともあれ、本誌本号より、愚生好みに、一人一句を挙げておきたい。


  生き死にの匂いに満ちた水飲み場      松永千秋

  慰安所で空回りするオルゴール       月波与生

  戦後史を寿ぐ前に定規じゃね?      きゅういち

  (中略)のところに咲いていたという   広瀬ちえみ

  どうしても雨から雨へ雨の森        妹尾 凛

  静謐や薄手の服が流行ります       樋口由紀子

  無駄花と眠たいことを言うオウム    いなだ豆乃助

  目をとじて花火大会見ていた子       水本石華



       撮影・芽夢野うのき「ひとりふたりと風のなか」↑

2022年2月12日土曜日

福田若之「にゃあにゃあと言やあくださるきびだんご」(「オルガン」27号)・・



 「オルガン」27号(編集 宮本佳代乃・発行 鴇田智哉)、座談会は「自由だけど」のゲストは文筆家・イラストレーター金井真紀。その中から、恣意的になるが、以下に引用しよう。


〇試行錯誤しながら

田島 実を言うと、僕の俳句の作り方はかなり変わっていて。最初、どこかからテキストを持ってくるの。お気に入りサイトから記事をコピペして、てにをはとか句読点とかを全部消すの。言葉のぶつ切りにしたものを、3キーワードずつくらいにして、それを見ながら季語を当て込んでいく。

金井 何それ、やってみたい。

田島 あとは自分の興味本位で面白くなるかならないかで勝負したりして。

金井 いつそのやり方を発明したんですか。

田島 この方法まだ、完成してないんです。(笑)。

全員 (笑)。 (中略)

田島 それで作ったのが〈意味するマダガスカル変な木変な虹〉の句。いろんな人から全くわからないって笑われる(笑)。

全員 (笑)。

宮本 鴇田さんは走った直後に作っていましたよね。

鴇田 走って頭がぼうっとした直後に句を書き留めて。

金井 どんなのができたんですか?

鴇田 〈ぱたる目の6は一気にしらべたい〉とか、そういうやつです。

金井 はあぁー(笑い)、えっそれが降ってくるの?すごくないですか?(中略)

福田 いや、僕はそういうの絶対にやらない(笑)。言葉が先に走るのを割と嫌いますね。書き手として、自分のうわごとが信用できないんです。(中略)それよりは、言いたいことがうまく言えない。書きたいことがうまく書けない、そういうところの葛藤に、自分の本領がある気がしています。


 そして、また、「〇自分が好きだと思える絵を描こう』って」、の小見出しの部分に、


金井 つまりプロになりきれていない。だから「うまい絵を描こう」じゃなくて、「自分が好きだと思える絵を描こう」って決めてます。絵が上手い人は百万人いるから、そっちを目指してもだめだなって。俳句なんかもう完全に素人ですから、やっぱりうまい句を作ろうと思わず、自分が好きな句を作ろうって思う。(中略)

〇「面白く暴れてやろう」と

宮本 話は変わるんですけど、最近、戦争に関する文章を多く書いていますよね。

金井 そうですね。もともと近現代史が好きで。でも戦争の話は自分も含め、みんなどんどん忘れていってしまう。そのうえ歴史修正主義者の悪いやつが「なかったこと」にしてしまう。それはダメだと。一方で、最近「面白く暴れてやろう」という気持ちが湧いてきたんです。ただ暴れるだけでもいいんだけど、面白く暴れるのがいいなと。だからのんきな文章や笑える絵で、悪いやつに対抗してやろうと。ささやかに。

宮本 自分の思いを伝える方法として?

金井 戦争の話を聞いちゃったからには伝えなきゃって、その程度のことなんですけど。(中略)

〇政治もラーメンも

金井 このあいだ本屋さんで、イギリスの姉妹が書いた『プロテストってなに?世界を変えたさまざまな社会運動』(アリス&エミリーㇵワース=ブース)という絵本を見つけて即買いました。木に抱きついて森林伐採に反対する運動とか、独裁者の演説にわざと拍手喝采しておちょくるだとか、古今東西の面白く暴れた事例がてんこ盛りのすばらしい本。で、わたしはこの系譜のなかに渡邉白泉を入れてもいいんじゃないかと思ったんです。〈憲兵の前で滑つて転んぢやつた〉なんて、命がけで笑える俳句を作ったわけですよね。

鴇田 俳句じゃないけど、忌野清志郎の「原発賛成音頭」があったよね。

金井 そういうこと!

鴇田 歌詞は、原発は安全でサイコーだっていう内容で、あれって痛快ですよね。平成の俳句では高山れおなの〈げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も〉とか。

金井 俳句の人って面白がるのが得意ですよね。生々しくは言わない。だけど反骨。俳句の人特有の伝え方が何かあると思うんです。(以下略)


 ともあれ、以下に同号より一人一句を挙げておこう。


   かなしいような旨い戻り鰹だったな     福田若之

   うすい血液冬眠の眼になる        宮本佳代乃

   追放会議ふくろうが声つかい切る      田島健一

   住んでゐる人の出てくる冬の朝       鴇田智哉



   撮影・中西ひろ美「降ってやみまた降りたがる今日の雪」↑

2022年2月11日金曜日

岡田耕治「雪の花死者が働きはじめたる」(『使命』)・・


  岡田耕治第3句集『使命』(現代俳句協会)、帯文は久保純夫、それには、


 何を契機としたのか、/いつからか岡田耕治は/緻密な知識人に変貌していた。

 実業における良質な/経験の深さなのであろう。/彼にはあらゆる状況を/受け入れる柔軟さと、/それを進捗する/意志の力がある。/相手の想いに向き合い、/自らの思想を/丁寧に提示する姿勢。/これはあらゆる場面でも/変わらない。さらに、/いまひとつ指摘しておきたい。/その根底には/少年時代の鮮烈な感性が/今も存在することである。/岡田耕治を/信頼する所以である。


 とあった。また。著者「あとがき」には、


 「生んでくれてありがとう」。後部座席に静まっている母に、そう声をかけようかどうしようか迷っていた。二〇二〇年十二月、クリスマスが近づくなか、九〇歳になる母がPCR検査で陽性と判明。一旦自宅で待機していたが、翌日に自宅から三〇分ほどの市民病院が受け入れてくれることになった。(中略)

 今はワクチンの接種が広がったが、この年の暮れは医療従事者への接種もまだ始まっていなかった。新型コロナウイルスの感染による死亡が相次ぐなか、母の年齢を思うと今が別れになる可能性が高かった。しかし、この言葉をかければ、入院中の母はそれが繰り返しよみがえってくるかも知れない。(中略)

 濃厚接触者となった父と私は、この日から二週間、母の無事を祈りながら実家で過ごすことになった。この二週間は、私に改めて命というものを見つめ直す機会を与えてくれた。本句集名の「使命」は、課せられた任務という意味で用いられることが多い。しかし、この時に私に去来したのは、文字どおりこの命をどう使うかという問いだった。

 句集『学校』と『日脚』は、共に机上の正面から私を見つめている。そこにこの『使命』を立てることによって、日ごとに「この命をどう使うか」という問いを前にすることとする。


 とある。愚生は二十代の初め、さとう野火と久保純を(のちに純夫)が中心になって創った同人誌・戦無派作句集団「獣園」に参加した。そこに、まだ高校生だった岡田耕治が一緒にいた。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。


  風光る出口にビッグイシュー立つ      耕治

  水鉄砲振り向いた子に命中す

  一頭でいること久し夏の蝶

  横風の広さを含む噴井かな

    大阪教育大学付属池田小学校

  冬に入る三百を超す非常ベル

  六林男忌の骨が地面を叩きけり

  寒晴や父と母との手を引いて

  香水や時間どおりに訪ね来る

  元号を使わぬ人の蜆汁

  露けしや全力をあげ何もせず

  野に遊ぶことよりも野に在ることを

  郁子僕は僕に生まれてよかったよ

  落葉降る間落葉に留まりぬ

  私をはなれんとする時雨かな


 岡田耕治(おかだ・こうじ) 1954年、大阪府生まれ。



     撮影・鈴木純一「決められたこととはいえど梅香る」↑

2022年2月9日水曜日

中村晋「牛逝かせ牛飼いも逝く被曝地冬」(「青山俳句工場05」第百号)・・


 「青山俳句工場05」第百号(編集・発行人 宮崎斗士)、表2に参加者名簿があり51名とある。目次は、工場らしく「工程表」と記されている。まず「出句一覧」は無記名で102句が並ぶ。そして「選句/7句」(うち1句特選)。次に「作品/作者/選/鑑賞」の作品は五十音順に並べられ、作者・選者名、その選句の寸評・鑑賞が付されている。そしてまとめに「高点句/総得点上位者」一覧がある。あとは通信欄に思い思いの便りが掲載されている。最後に「行員矢のごとし」(アンケートコーナー)とあって、第百回のテーマは「俳歴」、「俳句にまつわる思い出」,「自身の代表句」、「今後に目標」など、各人の人となりが伺える内容である。多いのは、もともと本誌が「海程」系と思われるので、金子兜太との出会いの絶景である。他に、第百回記念特別句会(兼題「百」)もあった。シンプルな俳句作品中心の誌面作りで、ごちゃごちゃもの欲しそうでないのが佳い。ともあれ、高点句の名から、一人一句をいくつか挙げておこう。


  花ひいらぎ記憶ぼかして父と会う     なつはづき

  綿虫や目蓋で受け止める訃報        宮崎斗士

  ふぃくしょんと聞こえて妻の嚏かな     望月士郎

  QRコードのように時雨るるか      山本まさゆき

  灯台のよう寒夜の介護ステーション     清水芙紀

  寝る前に温めておく未来かな        小松 敦

  氷雨かな鉛筆一本が重い          北上正枝

  わが鬱を掛けるにちょうどよい枯枝     黒済恭子

  よそはよそうちはうちです根深汁     平野菜穂子

  冬木の芽百歩で鳥になっている      小枝恵美子 

  百年の真ん中にいる歩道橋        近藤真由美

  百歳を照れて山茶花はらと散る       堀真知子

  百千鳥書店に老いというジャンル      芹沢愛子

  男なんて百害あって冬の恋        古知屋恵子

  石焼き芋百十四銀行を右へ         藤田敦子

  工場長手作りの月宇宙(そら)に百     鱸 久子



       芽夢野うのき「神様が咥えて踊るよ花八手」↑

2022年2月8日火曜日

上田信治「秋・紅茶・鳥はきよとんと幸福に」(『成分表』)・・

  


 上田信治『成分表』(素粒社)、帯文は保坂和志、それには、


 小さい物を見ているときも、/足元にある物を見ているときも、

 上田さんの心はつねに/高い空やそのまた先にある/天体を仰ぎ見ている。

 愛や勇気や生きるモラルが/この本を貫いている。


 とあった。また、著者「あとがき」の中に、


 「成分表」というタイトルは、日々おもうことをその成分に分解して考える、というつもりでつけた。(中略)

 一冊にまとめるにあたって、かなり改稿した。


 とある。初出は、愚生も、その表3の連載はけっこう楽しみにしていた同人誌「里」2006年1月号から2018年12月号とウェブマガジン「週刊俳句」2021年2月14日号である。「『成分表』は、まだ半分残っている」というから、別にもう一本の上梓が待たれる。一話一話に起承転結があって、一部分を引用紹介しても、その面白さは伝わらないだろうから、是非、本書に直接、当たられることをお薦めする。とはいえ、「四十九 蓼食う虫」の一部分を紹介しておこう。


  日常生活を舞台に漫画を描くという仕事を、夫婦で二十年以上続けている。

仕事の中心は「思い出す」ということで、大過去や近過去の一場面について、何かを見つけては形にすることの繰り返しだ。自分の記憶はとっくに描き尽くしてしまって、もう一個人生があればいいのにと、それは何度も思った。

 特別な経験や感動の記憶が欲しいわけではない。ただ、自分ではない誰かが生れてから過した膨大な普通の時間ーわたしたちが別の何かを見ていた時に、その人がその人の人生でみたものの、手つかずの記憶がもらえれば、また二十年分のアイディアが作れる。

 そう夢想するのだけれど、じつは人からもらったネタで漫画が描けることはごくまれで、これまで千話近く作ってきて、片手で数えるほどしかない。

 きっとお互いどうし、蓼食う虫なのだろう。

 人と人で、気を引かれるものや大事なものが、おそろしいほど違うのだ。


 夫婦の夫は上田信治、妻は漫画家・けらえいこまた、巻末には「出典、注、追記ほか」、「俳句作者一覧」が付されていて、これも興味深い。例えば、島田牙城の部分は、


【島田牙城】しまだ・がじょう(1957-)「成分表」は、この人の俳誌「里」で長く連載した。たいへん感謝している。〈満月を明日につまやうじの頭〉「灰皿」


 という具合。「灰皿」というのは、本集に収められたエッセイの題である。ともあれ、以下に文中より、著者のいくつかの句をあげておきたい。


   入口にハンガーのある落花生      信治

   椎茸や人に心の一つゞつ

   萩日和大きな音はバケツから

   吸ひがらの今日の形へ西日さす


 上田信治(うえだ・しんじ) 1961年、大阪生まれ。



       芽夢野うのき「土竜塚父の泣き顔ににて困る」↑

2022年2月7日月曜日

松本余一「春銀河回転木馬跳ねたまま」(『ふたつの部屋』)・・


 松本余一第二句集『ふたつの部屋』(俳句アトラス)、序は林誠司。その中に、


 三句目(愚生注:〈別れても別れても三椏の花〉)、「別れても別れても」という表現は「三椏」の姿であると同時に氏の人生模様をも表現している。 単なる写生とは一線を画す人生風詠の姿勢を見る。人生風詠は人生を直接詠むというより、森羅万象と自分の人生との共振れを起こすことによって生まれてくる。「もの」と「われ」との共振れである。それだけに人生の出来事を直接詠う境涯俳句より、豊かな詩情が得られると言えよう。


 とある。また、著者「あとがき」の中には、


 俳句の五七五は生活のリズム、季語は生活環境、詩情は生活のゆとり。ひとつになって見えてくる。リズムは韻を踏む言葉、季語は四季のめぐりあいという具合に時間の経過につれて離れ難い友のようである。


 とあった。ともあれ、愚生好みになるが集中よりいくつかの句を挙げておきたい。


   海鳴りに向かつて丘の麦を踏む      余一

   てのひらが包まれてゐる春日かな

   ひとひらにまたひとひらのさくらかな

   うららなり眠るも死ぬも眼鏡とる

   風鈴や買ふとき風に好かれたる

   死ぬために長生きしてる通し鴨

   ゲルニカの馬にたづねよ八月来

   白い秋妻が孤独を教へたり

   にげるよりもぐるをえらぶ冬籠

   海見ゆるところと決めて旅始


  松本余一(まつもと・よいち) 昭和14年、東京都小金井市生まれ。



★閑話休題・・大井恒行「現代俳句講座」(府中市生涯学習センター2022年度第1期、教養・生活実技講座)募集中!!・・


 府中市生涯学習センター・2022年度第1期(4月~6月)教養・生活実技定期講座、第一次募集、2月1日(火)~2月28日(月)。


・申し込み方法 ①府中市生涯学習センターのウエブサイトから応募。

        ②往復はがきによる郵送。

        ③来館しての直接申し込み。

・問い合わせ先 183-0001 府中市浅間町1-7

        府中市生涯学習センター 4~6月定期講座募集係

        電話 050-3491ー9849

        東府中駅から徒歩17分、府中駅から「ちゅうバス」多磨行 「生涯学習センター」下車。

・開講日 4月7日(木)、21日(木)、5月12日(木)、26日(木)、6月16日(木)5回。受講料は4000円。定員15名。



      
芽夢野うのき「名はしらねども浅き春とて白き花」↑

2022年2月5日土曜日

宮坂静生「木の根明く天地の世紀はつらつと」(「現代俳句」2月号より)・・

 


 「現代俳句」2月号(現代俳句協会)、本号の特筆すべき記事は、筑紫磐井「俳人協会創設秘史ー60年目の信実であるー」である。もとはと言えば「 藍生」(主宰・黒田杏子)に昨年より連載された「俳人協会創設秘史ー協会卒業論文として」の題で、わざわざ肩書を「現代俳句協会副会長/俳人協会評議員/『兜太 TOTA』編集長」を付けての発表である。本誌全文は15ページに及ぶものなので、読者は直接、本論考にあたられたい。さすがに、現代俳句協会副会長にして、しかも、俳人協会評議員の長い経験から、当時(現代俳句協会から分裂して俳人協会設立時)の俳人協会会報(第1号昭和37年5月安住敦「経過報告」)などを引用し、事実経過を突き合わせての論で、分裂時の表向きの理由ではなく、実証的に実態があきらかにされている。本ブログでは、ごく一部になるがそれらの部分、わずかな部分になるが紹介しておきたい。最初に、全体をイメージしてもらうために、文中小見出しを挙げておこう。


  一 はじめに・・【楠本憲吉による概説】【俳人協会の見解】。二 俳人協会創設事件・・ ①共存の時期(36年10月16日~12月3日)△俳人協会側の活動、△現代俳句協会側の活動、②対立の時期(36年12月4日~)△俳人協会側の活動、△現代俳句協会側の活動。三 俳人協会創設事件・続き。四 俳人協会創設事件の首謀者。 五 俳人協会創設事件の首謀者(続き)。六 現代俳句協会賞と俳人協会賞。 七 俳人協会と現代俳句協会の今後。


 以下には、各小見出しの中から、いくつかの部分を引用紹介しておきたい。まずは△現代俳句協会側の活動から、


 (前略)この記事で注目したい重要なことは、(愚生注:創立俳人協会からの)楸邨の幹事・会員の辞退、龍太の退会であった。なぜ俳壇の良心というべき楸邨・龍太が辞退・脱会したのであろうか。

 表を見ても分かるように、楸邨、龍太の入会・幹事就任は「共存の時期」の了承であった。楸邨への同意、龍太への勧誘は出席者(多分波郷か源義)が穏便に行ったものだろう。しかし草田男の朝日の発言で、聞いていた話と全く違う事態となり「対立の時期」となった訳だから、誠実な楸邨、龍太が入会を拒絶しても信義に反するものではない。(中略)

 三 俳人協会創設事件・続き

(前略)以上から私の結論を述べたい。ある時期(12月3日)まで俳人協会は現代俳句協会内の伝統を掲げる一親睦団体にすぎなかった。多少隠密裏には見えても、現代俳句協会清記(昭和22年9月)では「協会は会員個々の俳句活動は之を全く拘束せず」としているから、伝統俳句の親睦団体を作ることは否定されていない。もちろん「協会」という名称がよかったかどうかは別だ。「懇話会」ぐらいがよかったかもしれない。(中略)

 四 俳人協会創設事件の首謀者

(前略)〇第2回俳人協会発起人会

    〇第一回俳人協会幹事会(俳人協会清規決定、第一回俳人協会賞(石川桂郎)の決定)

 一日の内にこんな緻密な実務を進める能力が草田男にあるとは考えられない。草田男は生れて初めて公職である現俳幹事長に就任し、慣れないトップとして一年半でこんな大騒動を起こした。さらに俳人協会会長に就任しても僅か半年で会長職を擲っている(秋桜子が後任)。草田男は間違いなく昭和最大の俳人であるが、組織的能力はないに等しい。それは、この種の事件に練達した西東三鬼、石田波郷、角川源義であると思う。(中略)

①源義は発足したばかりの俳人協会内の事務所を角川書店内に提供している。これは俳人協会に対する最大の物的支援である。(中略)

②三鬼は、(中略)俳句人連盟を分裂させ、波郷と相談して現俳協の立ち上げの準備をした。(中略)

③波郷は、「現代俳句」の創刊、現代俳句協会の設立、馬酔木の復活などの戦後の動きの中心に常にいた。俳人協会の創設についても、状況証拠から見ても、第一回俳人協会賞を門下の石川桂郎に授与、幹事13人中の3人を「鶴」から出している。実は能村登四郎は現俳協幹事であったが、「(登四郎の先輩にあたる)波郷は当然だと言わんばかりに新協会の設立賛助三十数人のメンバーの中に私を入れたのどぇ、私は現俳協を脱退した形になった」(沖53号10月「わが冬の時代」)とあるようにとても納得した退会ではなかったようだ。(中略)

 六 現代俳句協会賞と俳人協会賞

 (前略)不可解なのはここからで、第9回現代俳句協会賞の選考が不明朗であると草田男は主張するが、本当は逆なのだ。実は、第一回選考委員会[予選会]直後、角川源義から安住敦に俳人協会発足の相談が行われ[俳句文学館第100号・昭和54年8月5日安住敦「創刊当時の思い出」]、まだ現俳協賞(兜子受賞)の決定していない時期に第一回俳人協会発起人会(10月26日)が開かれたことである。兜子に現代俳句協会賞が決まったために俳人協会発足が決まったのではなく、桂郎が現代俳句協会賞から外された時点で俳人協会は実質発足したのだ。草間時彦も同様の認識である(俳句文学館第192号(昭和62年4月5日)「二十年を振り返って」)。(中略)

  七 俳人協会と現代俳句協会の今後

 (前略)俳人協会が、現俳内の伝統の親睦団体にすぎないという事実は「俳人協会清規」が廃止され、昭和41年4月に「俳人協会規約」が制定(改定)されても、その目的にほぼ同文が組み込まれたことからも引き嗣がれることになる。

 では俳人協会が、民法に基づく公益法人となってこれは改善されたのであろうか。実は念願の親睦が消え事業団体化するのとの引き換えにもっと恐ろしいことが起きてしまったのである。社団法人俳人協会は完膚無きまで定款の目的を変更されてしまったのである。

 「社団法人俳人協会は、俳句文芸の創造的発展とその普及を図り、もって我が国文化の向上に寄与することを目的とする。」

「親睦」は消えたものの、最も大事な「伝統」がかけらもなく消えたのである。これは当時の文部省(政府全体を通じてだが)の公益法人認可条件として、一業界に一法人しか認めず、「伝統」と明示することは他の俳句を排斥することになるため国是として認められなかったと思われる。 結局俳人協会は、伝統俳句だけではなく、無季俳句の振興まで任務とすることになったのである(前出「二十五年を振り返って」)。これは多くの俳人にとって驚きであろう。新しい法人制度になってもこの目的は変わらない。(中略)

 こうした轍を避けたのが、日本伝統俳句協会であった。優れた官僚で政治家でもあったホトトギス同人会長大久保橙青が、文部省と緊密な連携を取り、有季定型をを「伝統俳句」と呼び、これは「俳句」とは別の事業であると認定させるウルトラCをとった。(中略)

 以上で俳人協会創設の顛末についての詳細を書いた。(中略)

 私としては、こうした事実、特に現代俳句協会および俳人協会の設置目的がほとんど変わらない時代となってしまったことを踏まえて、両協会の未来を考えてみてはどうかと思う。これは一種の妄想であるが、(中略)協会は現在も友好裏に共存できていたことと思うのである。


 さすがに、元文部官僚だった筑紫磐井の構想となれば、あながち妄想でもなさそうである。遠からず、現代俳句協会と俳人協会の大合同も在り得るかも知れない。何しろ、俳人協会が公益社団法人である限り、「俳句文芸の創造的発展とその普及を図り、もって我が国の文化の向上に寄与することを目的とする。」のだから、現俳協と組織統一を計っても何の不都合もない。それには、まず、次期現俳会長・筑紫磐井を誕生させることが第一歩であろう。そのときに、唯一の避けるべき大合同は、戦前の大日本文学報国会の轍を踏まないようにとのみである。 

 ともあれ、同誌同号のブックエリアに愚生は、酒井弘司句集『地気』評を書き、そして、岡田耕治は、久保純夫句集『植物図鑑』評を書いているので、二人の句作品をいくつか挙げておこう。


   星涼しこの世の人は灯を灯す       弘司

   立夏・小満・芒種天地のはじけくる

   カンナ燃ゆまっすぐに立てわが叛旗

   福は内「天に花咲け地に実なれ」

   野の花のようになれたらまた一歩


   甚六が恋する文旦愛しけり        純夫

   文旦に顔を画きたる吾妹かな

   文旦に胎動ありぬ聖少女

   文旦を産み落としたる総理かな

   文旦に触れて切なき人のこと 



        芽夢野うのき「寒卵われば川音少し見ゆ」↑

2022年2月4日金曜日

安井浩司「天類や海に帰れば月日貝」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・

   


 

   救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(12)


      天類や海に帰れば月日貝       浩司


 「天類や」のこの句のフォルムに俳句技術の高さを誰もが認めるのではないか。

 安井のあらゆるものへの探求心のなせる技である。

 月や日(太陽)を天類とし、海の生物、月日貝の文字の組み合わせを「帰れば」のことばで分解し天類とする。

 十二センチメートル程の月日貝は、小さな両耳をもち、右殻の淡黄色を月、左殻の濃赤色を太陽になぞらえて、この名がある。先人のなぞらえ付けた名、月日貝を「帰れば」のことばで分解し月日と貝にしたのだが、再び、月日が「海に帰れば」月日貝となる。この循環は神話世界の循環であるといえよう。そうして、この万物流転の語りを、読者が神話世界へ運ぶことで、掲句は神話の語り出しの一句となる。


            


     廻りそむ原動天や山菫          浩司


 中句の「原動天」をイタリアの古典、ダンテ「神曲」、天国篇の第九天「原動天

以外に考えられるだろうか。

 万物を動かす「原動天」は、第10の至高天の下にあり。第8天以下の動きは、「原動天」によって決定されるという。

 その「原動天」と「山菫」は同時であると掲句は言っているように思える。

 「神曲」の詩型は三行一連で、全体では、一万四二三三行、韻文による長編叙事詩であるが、俳句の一句を詩の一行と考えれは、安井は行数においては、ダンテの『新曲』を越えている。



   山路来て何やらゆかしすみれ草      芭蕉


 追記

 ここから先は、日を改めて掲載させて下さい。ダンテと安井浩司はなかなか簡単には書き出せず、自選句抄の順を変えるわけにもいかず、よろしくお願い致します。




          撮影・鈴木純一「大吉や隣に来る鳥の声」↑

2022年2月3日木曜日

有賀眞澄「糸を吐く少女が消えて残る月」(『愛密集』)・・

          


 有賀眞澄句画集『愛密集』(虹蜺舎)、著者「あとがき」には、


   あすみまかる拠って一夜さひとよ霧

 「あすみまかる」は有賀眞澄のアナグラムである。

 因みにもう一つの「あまがみする」は

   夜は反復期はあまがみする反射

 「明日身罷る」、「甘噛みする」の二つしかできないアナグラムからからそれぞれそれ以外ない作品ができた。従ってこのふたつは自己の自己性の根拠をあぶりだした代表句である。世間に通用しなくてもいいのである。名前のアナグラムには必ずその人のオリジンの一面を写し出すものである。それは今までひととなりを知る友人のアナグラムをつくってきて確信してゐる。霧の中一尺一寸一分の一節切が霧笛のやうに月気を吐く反復と反射のひとときを呼吸せられよ。


 とあった。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておこう。


   むらさきへうぶでおぼろでまる裸       眞澄

   か変かなかなこよなくも来よ濃むさき

   御湿りでござんすこくり花魁草

   素足に手ぶら五人少女のフラフープ

   冬銀河ピアノはまこと打弦なり

   爪先の有心無心月天心


有賀眞澄(あるが・ますみ) 1950年生まれ。



芽夢野うのき「如月の凍れる鳥に呼ばれてけり」↑

2022年2月2日水曜日

安井浩司「万物は去りゆけどまた青物屋」(安井浩司『自選句抄 友よ』)・・

 

  救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(11)


     万物は去りゆけどまた青物屋      浩司


 戸外の寒さの中に一軒だけ灯を灯す店があり、その灯の温さに、昭和中頃のへのなつかしさをを感じる。絶対的さびしさの内に、ある一点の温もりが表われてくる一句である。

 「万物」天地すべてのものが移り変わり、去ってゆくけれど、「また」そのなかで、「青物屋」八百屋の店に万物の実り、果実や青菜が並ぶ。変わり続行ける自然の中の人間の営み。

 「万物は」の掲句は、所収された『四大にあらず』のテーマ、「自然と人(俳人)」を表わす。

 安井はアニミズムの俳人と思われているが、『四大にあらず』で、単なる自然賛美や崇拝を否定する。一切の物体を構成する地、水、火、風の四大元素(自然)である四大だけではなく、自然とともに俳句は、個人の心身と現象界の存在を構成する、色(しき)・受・想・行・識の五蘊(ひとの心身)からも成り立っていることをテーマとした。



    月光や漂う宇宙母あおむけに      浩司


 安井の造語「宇宙母」の句が実感であることを実感した経験がある。

 柔らかな色彩の山桜が咲く頃である。桜並木を歩く私の歩調に合わせるかのように、満月がゆっくりと動いていたが、それは漂うごとくであった。その満月は、「あおむけに」眠る「宇宙母」の顔となり、大きな満月の少し赤みをおびた光の様子が「宇宙母」の頬の色を示していた。大きな満月に母を感じたとき、真の母の姿が表われる。慈愛に満ちた母を全身で受けとめたとき、幻影は実感となる。母を創造し得た掲句に、作者のみならず、「宇宙母」の句を我がものとし得た読者の真の母をも創造した奇跡ををみる。



撮影・中西ひろ美「息切れて足はもつれて日暮れつつ七十歳はラストスパート」↑

2022年2月1日火曜日

秦夕美「見えぬぞえ青い小鳥も金の輪も」(『金の輪』)・・・


  秦夕美第18句集『金の輪』(ふらんす堂』、著者「あとがき」に、


 これは第十八句集。ふっと、「金の輪」という言葉が浮かんだ、と同時に〈金の輪をくゞる柩や星涼し〉の一句が出来た。そうだ、この句のための句集を作ろう。すぐ、ふらんす堂にメール。前句集以後の俳句を書きだしてみたら百五十句しかない。じゃあ、百五十句作ればいい。ひと月ちょっとで書いた。(中略)

 今回は陰陽五行説にちなんで、木、火、土、金、水に分けた。木と火は陽、土は中間、金と水は陰に属し、いろんな吉兆を占うという。「令和俳句叢書」に入れていただいた。はじめての句集が「鷹俳句叢書」だったから、「叢書で始まり叢書で終わる」のもいい。


 とあった。柩の句もいくつかあった。


   般若にはならず柩に大西日      夕美

   冬うらゝ柩のなかの緋色かな

   どこやらで柩もえをり枇杷の花

   金の輪をくゞる柩や星涼し

   青梅に入棺いそぎゐたるらし


 金と柩・・・、これが最後、これが最後と仰りながらも、以後の著作も数冊になろうか。まだまだ上梓されて行きそうである。ともあれ、集中より、以下にいくつかの句を挙げておこう。


  夢の字は艸(くさかんむり)や夏嵐

  水仙や闇にかぶさる闇ありて

  炎昼のマリオネットになき背骨

  火の鳥を翔たす子宮(こつぼ)よ秋の風

  黄塵やテレビは飢ゑと殺戮と

  聖戦のための盾とや汗の痕

  薔薇に雨とても死ぬとはおもへない

  いにしへの水の香ぞする心太

  さみしいといへぬさみしさ花石榴

  八月や息するうちを人といふ

  雁や泪は涙ひきつれて

  

 秦夕美(はた・ゆみ) 昭和13年生まれ。



    芽夢野うのき「神さまが咥えてる踊るよ薔薇寒し」↑