2017年9月30日土曜日
髙柳重信「目醒め/がちなる/わが盡忠は/俳句かな」(「現代俳句」10月号より)・・
第41回現代俳句講座に澤好摩「髙柳重信と多行表記」の講演録が掲載されている。多くの俳人が多行表記の俳句に慣れ親しんでいないと洞察して、じつに平易に、丁寧に高柳重信の俳句を語っていた。冒頭には、
実は「多行形式」と「多行表記」ではだいぶ内容が違っております。「多行形式」と言いますと、もともとあります「俳句形式」と対立するものと思われ、逆に、多行をあまり快く思わない人たちからは、俳句とは別ものとして括りだされてしまう恐れがある。そこで私は注意深く、「多行形式」と「多行表記」を使い分けて、というより、「多行形式」とはあまり言わないようにしてきたわけです。
と述べ、講演の終わり近くでは、
(前略)多くの人は髙柳重信を前衛派の人だと思われていますが、重信は前衛ではありません。むしろ俳句作品史を引き継いで、かつそれを更新するために、新しい方法論を生み出した。またイマジネーションを重視してロマネスクな世界を書き留めながらも、方向的には決して詩、いわゆる現代詩というものに近づくことはなかったんです。俳句形式の名誉を守るべく常に鋭意努めている人でした。それに、伝統派と目される俳人も非常によく理解していて、優れた作品に対する読みも的確でした。もっと言えば、俳句の、真の意味での「目利き」でした。
と、正しく述べている。だから髙柳重信は、いわゆる前衛派と言われた作品については、いわゆる伝統派に対するよりも、厳しい批評をした。自分こそ言葉の正当な在り方において、もっとも伝統的だと思っていたのではなかろうか。
澤好摩は髙柳重信編集長時代の「俳句研究」を長くその膝下で支え、髙柳重信亡き後の数年間は(富士見書房に売却されるまで)、三橋敏雄、高屋窓秋、阿部完市、藤田湘子などとの合同編集体制時の、その実務を、あたかも髙柳重信が存命中であるかのように忠実に実行していたのだ。
澤好摩、昭和19年、東京生まれ。
船焼き捨てし
船長は
泳ぐかな 重信
明日は
胸に咲く
血の華の
よひどれし
蕾かな
かの日
炎天
マーチがすぎし
死のアーチ
飛騨の
山門の
考へ杉の
みことかな
デュランタ 撮影・葛城綾呂↑
2017年9月29日金曜日
志賀康「千秋や風を問う葉と葉を問う風と」(『主根鑑』)・・
志賀康第4句集『主根鑑』(文學の森)、著者「あとがき」に言う。
もともとわたしの俳句は、上へ上へと繁りゆく樹冠の盛大さはともかく、地の深さに隠然と、しかししかと湛えられた存在の気に、時を経てたどりゆくものへの想いを強く持っていたように思う。本集を『主根鑑』(おもねかがみ)と名付けたのも、地中まっすぐに伸びてゆく一本の根に託したものの顕われであっただろう。いまはただ、草木の根や水底の魚と息づきを共にすることを、ささやかな希みとしていきたい。
『幺』から4年ほどしか経ていないとはいえ、句集ごとに世界を拡げてきた志賀康の句業を思えば、待望された句集である。収録句は320句、自身も、
前句集里程の前方に多少なりとも歩み出ることができたのではないかという思いを確かめつつ、この三百二十余句をもって、せめて慰めとするほかはあるまい。
と自負を込めて述べている。
愚生は「未定」と「豈」の創刊号同人でもあるが、一時期、事情在って、その双方の誌を辞して、全くの無所属だった時がある。志賀康は以後の「未定」に同人となり、支え、そして「LOTUS」を創刊するにいたった。その未定もほぼ40年になろうとする先般、ついに多行形式のみの俳句を標榜するに至った直後に解散してしまった。さびしいことであるが、これが時の流れというものだろう。「豈」と「未定」は、よく比較されたが、内容は全くことなる兄弟誌のようで、同時代を閲してきたことにちがいはない。「豈」は節目節目で変節をしてきたが、「未定」にあった俳句に対する先鋭な在りようを具現しているのは、志賀康や酒巻英一郎、豊口陽子らが生んだ「LOTUS」誌であろう。
ともあれ、本集より、いささかの句を以下に挙げておきたい。
山鼠らも神口を聞く衆生なれ 康
柳絮とぶ汝が頭の中を恐れずに
空木咲いてされば化身の音の雨
魂と魄空と海へと帰るのか
螵蛸(おおじがふぐり)に晴れの唄びと来つつあり
幼年の悪夢もかくや花筏
鈴虫にいつも老いたる雨の神
利き腕の意識兆さん風の葦
熊の友あり夢では熊に襲われて
父は酔うて端ある地図を認めない
菜の花の口から風の無言歌を
根の族の空位に叫べ秋の石
志賀康(しが・やすし)1944年、仙台市生まれ。装幀は、童話作家であり、俳人だった巌谷小波の孫の巌谷純介。
2017年9月28日木曜日
白石正人「月祀るいつか地球も祀らむか」(『嘱』)・・・
白石正人第一句集『嘱』(ふらんす堂)、序句は大木あまり「詩の河はいつも激流青胡桃」。序文の石田郷子は、
古本のアデンアラビア燕来る
打座即刻における潔さは、失わない青春性であり、また青春性とは一見相反するようにも思える無常観でもあろう。私はそれを俳句の世界に限らず貴重なものだと思う。
と述べる。ポール・二ザン『アデン・アラビア』といえば、愚生の年代では、かの有名な冒頭の「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせはしない」というフレーズがまさに独り歩きしていた。『嘱』の著者が1951年生まれとあったから、しかも東京生まれの、東京育ちでは、きっと早熟な高校生の頃だったに違いない。そして、著者「あとがき」に「二〇一四年八月、彼は癌で急逝してしまった。痛恨の極みとはこのことかと思った。ごめんな。この句集は梅本育生に献じます」とあった。
「穿」編集人・梅本育生↑
梅本育生・・どこかで聞いた覚えがあると思い、探した。昔の雑誌はほぼ処分してしまった愚生の匣底に一冊だけ残っていた。「穿」6号(1981年2月、言游社・定価600円)、その号に梅本育生の作品はなかったが、編集後記を書いている。「穿」6号には、「豈」創刊同人だった小海四夏夫の短歌「濡羽つばめ」14首が掲載されている。その後、杳として行方のわからない小海四夏夫が贈ってくれたものだ。その小海の作品を二首、以下に挙げる。
三角筋の厚きを頌めつきゝ腕に鎮静剤をうつ看護婦(いもうと)よ 小海四夏夫
病むわれにさぶしく響く暴走の彼らも地上を恃むほかなし
その雑誌には特別に岡部昌生のオリジナルのフロッタージュが挿みこまれている。小特集1「フロッタージュの脈動・岡部昌生のしごと」が組まれ、9ページほどの絵画作品が掲載されている。梅本育生はその編集後記に以下のように記していた。
今号は新しい試みとして、岡部昌生氏のオリジナルを扉に挟んだ。これは氏の手描きによる一冊一枚のオリジナルであり、もちろん一枚ずつストロークが違う。息をとめ、手首の動きに全魂を込めたストロークをじっくり視て欲しい。
と・・・。改めてこの雑誌をみると、夭折した安土多可架志「首都攻撃」の20首も掲載されいるではないか(彼は俳句も書いていた)。
朗らかにふるまふことをよしとせる雇ひ主も雇はれし者らも 安土多架志
胸痛むこともなく内乱のこと戦争のことも教養として
想い出話めいたことを記してしまったが、以下に『嘱』の句をいくつか挙げよう。
因みに栞は髙柳克弘「酒場に集う人々」がしたためている。
祈ること願ふことなし残る蟬 正人
藻の花やめだか居るかと尋ねられ
要らんこと引受けて来し年用意
蓮の実飛んで百三十八億年
採血の手の冷たきを詫びらるる
わだつみに帽振れの声沖縄忌
箱庭に行乞の人置きにけり
2017年9月27日水曜日
前田霧人「国会へウスバカゲロウ集合す」(「北の句会」晩夏号)・・
「北の句会」報告VOL85・86・87号合併号(晩夏号・20178月)、北の句会は「豈」と同様、隔月に開催される句会である。この立派な報告の冊子は丸山巧が編集している。投句は席題1句+自由詠1句の合計2句で、事前投句らしい。欠席投句も認めているらしい。句会への出席者と欠席者合わせて約30名ほど。メンバーをみると「豈」から堀本吟、北村虻曵、岡村知昭、そして大本義幸など。大本義幸は咽頭がんで筆談だと思うが毎回のように出席していたようであるが、さすがに7月の例会は欠席だったらしい。また、本句会報の特徴は欠席投句者の選句評がついているところだろう。その大本義幸のコメントに、
私事ながら、2月に入院してはじめた抗癌剤投与も3月からは片道2時間の週一回の通院で、ここ半年。手も足もうごかなくなりました。路上転倒六回、今回はお休みさせて下さい。
とあった。大本義幸はこれまでも最初の咽頭がんの大手術以外は、その都度初期段階で乗り越えてきたが、さすがに七度目、肺癌には苦闘しているらしい。先日の愚生への便りでは、6月13日に最後の抗がん剤投与をし、すこし楽になると思っていたらしいが、初めての路上転倒でズボンは裂け、膝の傷は今も残っている。さらに転倒を繰り返した。カリウムが過剰でふらふらになり、プールのなかを歩くよう感じで、右足の指が上らないのに気付いたとあった。結果、義足を使っているともあった。その義足(ギブス)をもうすぐはずせるということだった。
とにかく、いつも大本義幸は不死鳥のように、その都度よみがえり、彼自身にしかできないような彼らしい句を作り続けているのだ。
句会報告から参加者のいくつかの句を以下に紹介する(テープは席題)。
たましいテープ剥がしていく遊び 野間幸恵
振り向いた仕草がとても金閣寺 岩田多佳子
芹摘むに膝ついており家滅ぶ 新井君子
実存を見てきたように蟇 坂本綺羅
知らぬ地の知らぬ植田も懐かしく 宗本智之
真夜中の象の向こうに卯波立つ 木村オサム
祝婚の碧羅天より紙テープ 丸山 巧
綿毛指す廃墟に蒼き馬の影 浅井廣文
あやめあやめ盗聴テープが喘ぎ出す 堀信一郎
お花見をしないと決めた春が行く 原 千代
神仏に在ったことなし水を打つ 谷川すみれ
訣れでもゴールでもないガムテープ 大本義幸
ヒメジョオン貌を得るため夢に飛ぶ 野口 裕
明易やリサライオンの骨密度 植松七風子
床の間の糸屑拾う鉄線花 中山登美子
テープとび切れるラッパをカモメまふ 島 一木
テープ起こしは不要ですゴキブリ研究会 寺西建舟
桜吐くハイウエイを吸い込むテープ 堀本 吟
『芋粥』の朗読テープ夏立ちぬ 三谷白水
テープに砂しかし明治の海を聞く 泉 史
桃をんな卑弥呼もももも投げテープ 二宮白桃
仏法僧寺のあたりをぎゃっと飛ぶ 井上せい子
水よどむ薄暗がりに杭一つ 北村虻曵
昆虫をスライス終わらぬ会議 竹井紫乙
蝌蚪うごく影は自身を離れゐて 波多野令
折鶴のうすむらさきへ座りけり 岡村知昭
九条に傷テープ貼るゴキカブリ 前田霧人
2017年9月24日日曜日
山本敏倖「吊し柿まだ抵抗の色残す」(第138回「豈」東京句会)・・
以下に一人一句をあげておこう。例によって、純一句は画像で・・・(愚生にはパソコンでの円形にする入力技術がないので)。
← 鈴木純一
からだ半分ひぐらしの湿りかな 吉田香津代
鳳作忌ぼくの体は今も海 羽村美和子
寝入らんと月光の橋渡りたる 福田葉子
方眼紙にかくれる鈴虫の闇 山本敏倖
初しぐれ白墨で描く経絡図 堺谷真人
こころにも一枚羽織る逢瀬かな 早瀬恵子
前例のない五体となりて休暇果つ 小湊こぎく
夜明けの雨秋のかけらが寺山的 小町 圭
覗かるや内視鏡にて我が秋思 猫 翁
それぞれが辿りつく闇曼珠沙華 佐藤榮市
人違ひされてにこにこ敬老日 渕上信子
矛か楯か脊椎動物ってか 川名つぎお
つかのまを草木に消え初嵐 大井恒行
次回は、例年通り一足早い忘年句会、11月25日(土)午後2時から、雑詠2句持参。
午後5時頃より忘年会。場所はいつもと変わって府中市グリーンプラザ・地下1F集会室(京王線府中駅直通歩1分)。遠路の方々からも参加予定があります。皆さんお出かけ下さい。
ホトトギス 撮影・葛城綾呂↑
2017年9月23日土曜日
たなべきよみ「蝶々の終(しま)う旅なり花野なり」(第171回「遊句会」)・・
一昨日、9月21日(木)は、第171回遊句会、於:たい乃屋だった。午後三時から開催された句会の二次会で、不良老人?たちと一緒に、あやうく帰宅が午前様になる所だった。養生訓からすれば、寄る年波を考えなくてはいけないが・・・、奇しくも宮沢賢治忌だった。
ともあれ、一人一句を以下に挙げさせていただく。兼題は、秋場所・胡桃・花野・当季雑詠。
しあわせはクルミの重さてのひらの 春風亭昇吉
ひねもすを老いの掌(て)のなか胡桃二個 たなべきよみ
昼寝醒(さ)めあれはいずこの大花野 植松隆一郎
地球割る程の覚悟の胡桃割り 山田浩明
裃(かみしも)を解きて花野の浮浪(はぐれ)雲 橋本明
秋場所や裏で北斎ふて寝かな 石川耕治
秋場所や読めぬ四股名が五つほど 村上直樹
汗怒号引きて花野の菅平 川島紘一
歩兵銃墓標に立てつつ花野征く 渡辺 保
秋場所や「や」の字「や」の字の星取表 中山よしこ
昭和天皇贔屓の四股名隠しけり 石原友夫
大海のごとき花野へ三輪車 山口美々子
亡き母の夢は花野に終わりけり 武藤 幹
坂東家辞して立ち寄る横綱碑 天畠良光
いく年も降るセシウムに大花野 大井恒行
以下は欠席投句から、
日に二便シャトルバス来る花野かな 加藤智也
文字書かぬ今人(こんじん)の脳胡桃割る 林 桂子
主なきベッドの脇に胡桃2個 原島なほみ
来月、10月19日(木)の兼題は「体育の日・狗尾草(えのころぐさ・ねこじゃらし)・秋の蚊)であるが、愚生は、遊つながりというわけではないが、一年ほど前からの約束で、「吟遊」20周年記念会に出席予定なので、遊句会は失礼する。11月の遊には、もちろん参加予定である。
★閑話休題・・・
その「吟遊」創刊20周年記念「吟遊同人自筆50句選展」が2017年10月18日(水)~22日(日)午前11時~午後6時(最終日のみ午後5時まで)が神田・東京堂書店6階ホールで開催される。カタログや各同人の著書も展示販売されるということである。会場へのお誘いとしてお知らせしておきたい。
大道寺将司「癌囚と吾れ呼ぶ人や秋夕焼」(「六曜」NO.48)・・
「六曜」NO,48(「六曜の会」)は、先般5月24日に亡くなった同人・大道寺将司の追悼特集である。享年69。執筆者は獄中からの句稿の受け渡しの労をつねにとった太田昌国「君逝くか遠き彼岸の道なるを」と詩人の倉橋健一「霧深き海にかそけく骨を撒け」の二人と「六曜」発行人の出口喜子「大道寺さんと『六曜』」。いずれも愛情あふれる筆致だが、倉橋健一のタイトル?句?には、寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」が下敷きにあるように思える。「六曜」同人になるについての縁は、太田昌国が以下のように記している。
日本では死刑が確定すると、極端に厳しい処遇になる。「(死刑囚の)心情の安定のため」という名目で、面会や差し入れ、手紙のやり取りできる範囲が制限されるのだ。差し入れも間遠になる。仕方なく、拘置所に備えられている官本リストを見て、彼は子規の句集や俳論を手にしたようだ。見様見真似で万もの作句を試み、いくらか納得できる作品ができた九六年ころから、当時は存命だった母親宛ての手紙の末尾に、俳句を添えるようになった。それが、大道寺君と外部世界を結ぶ交流誌『キタコブシ』に載るようになり、第一句集『友へ』(ぱる出版、二〇〇一年)も出版されて、それを目にされた方が繋いでくださって、『六曜』との縁ができた。
そしてまた、
「危めたる吾が背に掛かる痛みかな」
自らが担い、多数の死傷者を生み出した七四年八月三〇日の三菱ビル爆破以降の四三年間の日々、彼は片時もこの思いを忘れずに生きたように思える。その行為の過ちを批判した文章を私は何度か書き、それを彼にも差し入れた。その私にして、棺に最後の別れを告げるとき出てきたのは「お疲れさま」という言葉だった。私の母の死に際して寄せられた、母の友人の忘れ難き句をわが心として、君を送る。
とあった。追悼最終ページに大道寺将司作品が掲載されている。その中からいくつかを挙げておこう。
棺一基四顧茫々と霞けり 将司
解け易き病衣の紐や冴返る
地震(なゐ)止まず看護婦の声裏返る
新玉の年や原発捨てきらず
蜘蛛の子やいくさは人を狂はする
以下には、同号の「六曜」同人・自選集から一人一句を紹介する。
西隣東隣も燕来る 綿原好美
ひまわりの太首に棘空青し 岩男 進
三川の桜と語り昏睡す 岡本 匡
要塞の窓が切り取る夏の海 神田ししとう
頭から離れぬことば青葉闇 喜多より子
病葉や刺を残して落ちゆけり 佐藤富美子
サンプルに群がる女夏来る 柴野和子
チアガール大の字に跳ね夏来る 玉石宗夫
戦わぬための闘い将司の忌 出口喜子
頬をうつ雨の硬さや原爆忌 望月至高
2017年9月22日金曜日
衣川次郎「どの首もさみしき長さ渡り鳥」(『青岬』)・・
衣川次郎第三句集『青岬』(角川書店)、集名の由来について著者「あとがき」には、
岬は人生を顧みるのには絶好の場である。港の突堤に立つのも好きだが、先が開ける突端は様々なことを考えさせる。
三陸の岬や浜は、今祈りや鎮魂の場ともなっている。東日本大震災は多くのいのちと財産、生活の場を根こそぎ獲っていった。人生観を変えざるを得ないほどの衝撃をもたらした。『青岬』は残されたものの希望という意味を込めて名付けた。
とある。そしてまた、
生活を基盤とした存在感のある俳句、庶民の生活感覚を大切にし、平明で抒情、・俳味のある句を心がけてきた。社会的なことに取り組んだのも、現実がそのような状況だと思えるからだ。
という。言えば『青岬』の句群はそうしたことの証左であり、それを証明していると思う。
また、俳号の由来は、妻の故郷だという。高野ムツオの跋文には、「私の俳句は破壊、喪失してしまった故郷東京と精神的な故郷となった衣川に根を持っています。私の原風景がここにあります」。と平泉近くに生れ育って東京で学生時代を過ごした私も即座に頷いた。
と述べている。そして「無骨ながらも繊細な感受」を指摘しているが、その詳細な部分は直接、本句集にあたっていただくとして、愚生は、衣川次郎の詠むいくつかの尻に、赤城さかえ「秋風やかかと大きく戦後の主婦」の「かかと」のたくましさ、生命力、精神力の強さに通じるような部分を感じるのだ。例えば、以下の句、
獣みな尻持ちいたり年つまる 次郎
尻なぜかなつかしくなる秋の暮
泉汲むいのちあるもの尻をもつ
なかなかにたくましい尻なのである。何事に処するにしても下半身は重要である。
ともあれ、以下にいくつかの愚生の好みの挙げておこう。
土筆など煮るから歳を尋ねらる
沖縄忌海に出口のなかりけり
流木に家屋の記憶つばめ来よ
押しくらまんぢゆう貧しい子から出された冬
春泥に育ち春泥に転ぶ
ほたる手に妻の壊れてゆきつつあり
春の河馬見過ぎて妻とはぐれけり
きのふとは違ふ足音敗戦忌
2017年9月16日土曜日
高山れおな「我が汗の月並臭を好(ハオ)と思ふ」(『天の川銀河発電所』より)・・
佐藤文香編著『天の川銀河発電所』(左右社)、以前少し触れた山田航『桜前線開架宣言』が1970年生まれ以降の短歌版若手の歌人アンソロジーであれば、その姉妹版の1968年以降生まれの現代俳人版アンソロジーである。いろいろ面白く読ませる工夫がなされた本なのだが、正直に言えば、愚生のような年寄りには、活字が小さすぎて、お手上げのところがある(虫メガネ必須)。
もっとも、若い、他の分野の人たちにも読んでもらいたいということらしいから、それはそれでよしとしよう。佐藤文香のセンス満載の本で、何よりも助かるのは、「読み解き実況」と題した部分は愚生に、親切に句の読み方を示唆してくれている。その実況の対談相手が上田信治、小川軽舟、山田耕司、坂西敦子というのもまた良い。
ここでは「豈」同人を贔屓して、「読み解き実況」の高山れおな篇「王様の恋と教養と軽薄さ」から、
上田 ぼくはやっぱりれおなさんが一番すごいと思います。圧倒的な才能だと思うね。この水準で書けてる作家が、この集中はもちろん、今の俳句界に何人いるだろうか。言語的才能っていうのは要するに、その人が選んだ言葉がそう配列されると、あるはずのなかった豊饒さが現れるってことでしょ。れおなさんのどの句をとっても、これだけきらびやかだっていうのは、塚本邦雄とか加藤郁乎とかの才能のあり方を思わせるよ。
佐藤 王様です。なのに、持っている教養とかお茶目さみたいなのとか、青春性までをも、ちゃんと手渡してくれる。私はなかでも恋の句がすごく好きで。〈七夕や若く愚かに嗅ぎあへる〉〈失恋や御飯の奥にいなびかり〉。
もともと、高山れおなは、もっと若い頃には、有季定型の俳句のみを書いて、しかも落ち着いた大人ぶりの句をなし、その頃から、句そのものはしっかりしていた。
また、「関悦史という多面体」の山田耕司×佐藤文香では、
編集 関さんは俳句に詳しくない人でも分かる感じがしました。
山田 散文の文脈がある。韻文の文脈じゃなくて。飛躍とか切れがわかりにくくないんでしょう。
とあって、納得。
あと一人の「豈」同人・中村安伸の句も加えて、幾つかの句を以下に挙げておこう。
麿、変? 高山れおな
無能無害の僕らはみんな年鑑に
げんぱつ は おとな の あそび ぜんゑい も
黄落や父を刺さずに二十歳過ぐ 中村安伸
サイレンや鎖骨に百合の咲くやまひ
雪片の一瞬を全方位より
人類に空爆のある雑煮かな 関 悦史
年暮れてわが子のごとく祖母逝かしむ
倒れゆく体が我や山笑ふ
2017年9月13日水曜日
古田嘉彦「『あなたは今天にいる』と聞くのを待つ/・・」(『華茎水盤』)・・
古田嘉彦詩集『華茎水盤』(思潮社)、著者はかつて古田嘉の筆名で「豈」同人であった時期がある。現在、俳号も古田嘉彦名で、昨夜、訃報の吉村毬子と同じくLOTUS創刊同人である。詞書を付した句は、詩の一行のようであるのも不思議ではない。
例えば(「LOTUS」第36号より)、
「人の心は何にもまして、とらえがたく病んでいいる。」(エレミア書十七章)可視的になれない。
抑制できぬオーロラ濃度のヤツデ
ブログタイトルにしたのは「『天』-オネゲル交響曲『三つのレ』第一楽章冒頭が聞こえる。」の詩編からである。略歴によると、1993年の第一詩集『水狂い』(土曜美術社)からはじまり、詩学社、思潮社などから多くの詩集など、著書を上梓している。
ここでは、本詩集の中から一番短い詩篇を挙げされてもらおう。
チューリップ
チューリップは生死を超えて灯る
染め出る 勝つ
赤い障壁作りに加担して
守る 緩衝しあう
中の空間にある海 彗星 雛鳥を
しかしまもるだけでなく照り出る
ポンポン菊のように守るだけでなく
牡丹のように照り出るだけでなく
秘儀を鍛えて垂直になる
どれ程多くの彗星を失ってきたか
雛鳥を慈しみきれなかったか
色素を整えきれずに叫んでいたか
花弁を空へは連れていけない
しかしチューリップは
放棄された午後の中心にあって
強く訪れるようでありながら
癒す
私を
いつしかチューリップの花弁が絶え間なく
空から降ってくる午後に
私はいる
古田嘉彦(ふるた・よしひこ)1951年、埼玉県生まれ。
2017年9月12日火曜日
吉村毬子「剥落の千手たはむる曼珠沙華」(「LOTUS」第36号)・・
酒巻英一郎より訃報がもたらされた。
吉村毬子、享年55。若すぎる衰弱死。去る7月19日のことだという。最近発行された「LOTUS(ろーたす)」第36号には、作品と連載評論「エロティシズムのかたち(七)『朝』における生死の見性」が掲載されており、健在だとばかり思っていたから、にわかには信じられなかった。彼女は中村苑子論を書くこと、俳句を書くことがある限り死なない、とも言っていたからだ。
その最後の評論となった稿に、髙柳重信の、
まなこ荒れ
たちまち
朝の
終わりかな 重信
の句を引用したのち、次のように書きつけていた。
飲食や朝の蟬から頭が腐る 三橋鷹女
胎内に朝の木は在り憂かりけり 中村苑子
草の露吸うてすげなき朝なりけり 沼尻巳津子
水中に棒立つはながきながき朝 津沢マサ子
(中略)「俳句評論」の女流達の「朝」の嘆きである。鷹女句は最終句集『橅』集中のものだが、前句集『羊歯地獄』の〈泣き急ぐは死に急ぐこと樹の蟬よ〉を受ければ我が身に侵食してきた死の予感を独特の口調で表出していると思われる。苑子の朝は心象風景であっても曖昧にせぬ語り口で女故の幽愁を表現し、巳津子句も「すげなき」と嫋やかな中に女の直情を込めている。マサ子句の覚醒の際の浮遊はリアリティを強要させない不思議さに誘われる。いずれも夜の闇から救済された朝の景とは言えないが、切磋琢磨する女流達を照らした月光は新しい光となって彼女らに降り注がれたのである。
三年ほど前、『手毬唄』(文學の森)を上梓し、その評判も良かっただけに無念の思いが深い。
ただ、今は冥福を祈るしかない。
以下に「LOTUS」第36号に発表された「不二五光」20句の中からいくつかを挙げておこう。
雛の闇より吃音の自鳴琴 毬子
春満月欄間を抜ける魂の数
虚空像のうつつの不二の裏表
蓮池に筥迫落とす五光かな
枇杷たわわ琥珀を廻(めぐ)る蝶の腸
天窓の穴に喃語の菫咲く
2017年9月11日月曜日
金原まさ子「螺旋階段のぼるとき胸鰭をつかう」(『昭和・平成を詠んで』より)・・
栗林浩『昭和・平成を詠んで』(書肆アルス)には「伝えたい俳人の時代と作品」の副題がついている。その意味は目次をみるといっそう明らかになる。収録された俳人は次の通り相当に高齢の方々ばかりである。中で一番若い俳人が大串章79歳であり、次に池田澄子80歳である。以下に収録俳人をあげておくと、金原まさ子105歳(行年106)を筆頭に、後藤比奈夫、金子兜太、伊丹三樹彦、小原啄葉、勝又星津女、木田千女、橋本美代子、橋爪鶴麿、依田明倫、柿本多映、星野椿、黛執、有馬朗人、大牧広、友岡子郷、池田澄子、大串章。
本著をすごいなと思うのは、雑誌のシリーズ企画などではなく、著者・栗林浩が身銭を切って、すべての方々にインタビューして内容を構成していることである。余人には出来がたいことである。その労たるや愚生の想像を超えている。
ブログタイトルに挙げた金原まさ子の句は、昨年末に発行した「豈」59号に、招待作家として発表された「から騒ぎ」と題した20句からのものである。丁寧にも栗林浩がそれを拾ってくれているのだ。実は、現在編集中の「豈」60号にも作品依頼をしていたのだが、それはかなわず、つい先日、6月27日に逝去された。毎号の「豈」には無理を言って作品をいただいていたが、俳句作品の鮮烈さにおいて、まったく100歳をとうに超えたとは思えないものだった。さらに失礼をも承知で、第4回攝津幸彦記念賞選者をもお願いしたが、それはさすがに、いつ発行されるとも分からない「豈」にはとうてい無理なお願いであって、さすがに丁重に御断りがあった。しかし、いつも恐縮していたのだが、「豈」への掲載作品の号が出るたびに、美しい、じつにしっかりした筆運びの文字で書かれた御礼の便りをいただいていた。見事だった。
また、装幀に使用された糸大八の絵(片山由美子所蔵とあった)も、久しぶりで糸大八に会った気分で、嬉しいことだった。
ともあれ、以下に金原まさ子の作品の幾つかを本書より孫引きで挙げておこう。
ひな寿司の具に初蝶がまぜてある まさ子
ヒトはケモノと菫は菫同士契れ
エスカルゴ三匹食べて三匹吐く
ああ暗い煮詰まっているぎゅうとねぎ
身めぐりを雪だか蝶だか日暮れまで
鶴に化(な)りたい化りたいこのしらしら暁の
別々の夢見て貝柱と貝は
にこごりは両性具有とよ他言すな
栗林浩(くりばやし・ひろし)、1938年、北海道生まれ。
2017年9月10日日曜日
鈴木光影「投下せしミサイルいくつ夏の雲」(「コールサック」91号より)・・
「コールサック」91号(コールサック社)の「俳句時評」に、鈴木光影「俳句の無形文化遺産登録と松山宣言」と題した記事が掲載されている。少し引用すると、
(前略)松山宣言上の言葉を引用すれば、「たった十七音で独立した詩」「自然からたまわるもの」「民衆性」である。この三本立てにしている点からも遺産登録は「松山宣言」を踏襲していることがわかる。(中略)
ところが、4の定型・季語の話題になって両者の方向性にズレが見えてくる。松山宣言においては五七五定型・季語の重要性や日本語の固有性を確認しつつ、俳句を世界化する場合は「季語というルールを強制することは無理」があり、「定型・季語についてはそれぞれの言語にふさわしい手法をとることが適当である」としている。また俳句を「象徴」詩ととらえ、「その民族特有の象徴的な意味合いを有するキーワード」を国や民族や言語それぞれの「言葉の内なる秩序」として発見し、「その言語特有の定型詩や独自の切れ字等の技法が新たに生まれる可能性」を指摘している。これは先に引用した「俳句は日本語に限る」という伝統派の立場からは異議がありそうである。遺産登録では外国語俳句の展開範囲を積極的に広げようとするこのような俳句観は見られない。
とあり、また、
最終章の7では、転じて4を踏まえつつ、遺産登録とは異質で革新的な「宣言」を行っている。「我々はここで、日本語による俳句性の本質とされてきた定型と季語について、世界的な文脈の中ではそれぞれの言語においてその本質を把握すべき問題と考え、俳句的な精神を有する世界のあらゆる詩型を〈俳句〉として新たに迎え入れたい」。
といい、こうした国際俳句から受ける影響、恩恵についての可能性については遺産登録に見られない、という。そして鈴木光影は、
それぞれの国や風土や文化で、それぞれの俳句が生まれうることが、特殊な無形文化遺産としての俳句のあり方ではないだろうか。根源的な俳句性を日本語と共有しつつ、言語表現や題材は個別にかけ離れてゆくことが、将来にに向けて俳句が目指すべき国際化の形ではないだろうか。
と結論づけている。
ともあれ、「コールサック」誌には詩や短歌五行歌、小説やエッセイ、物語、評論など実に多くのものが掲載されているが、ここでは俳人の掲載各人の一句を以下に挙げるにとどめたい。
潮騒の香が干鱈より立つる朝 末松 努
三色菫(さんしき)といへ純白の種(しゅ)も中に 原詩夏至
賢治の灯寅(ひそら)の妙(たい)にぞつつまれり 石村石芯
原爆忌眼(まなこ)見ひらく深海魚 鈴木光影
2017年9月7日木曜日
志磨泉「涅槃図にけふの嘆息加へたり」(『アンダンテ』)・・
志磨泉第一句集『アンダンテ』(ふらんす堂)、行方克巳は帯に、
上手く笑へず上手く怒れず初鏡
泉さんの自画像である/それは、人間関係における/自己表現のむずかしさーー
しかし彼女のうちに備わった/音楽性は その俳句作品に/独自のリズム感をもたらしている
と記している。また懇切な序を西村和子がしたため、句集掉尾の句「白靴や答見つかるまで歩かむ」について以下のように述べている。
最近注目した作である。白靴は夏の季題であると同時に、まだ汚れていない、くたびれていないものの象徴でもあるだろう。この靴で、一歩一歩これからを歩みつづけるのだが、未解決のものの答が、生きることで見つかるだろうという期待を感じる句だ。
亡き人にも、愛する者たちにも、問いかけつつ生きて来た作者である。求める答は容易に見出せるものではないが、言葉の力を信じ、俳句と共に歩むうち、いつかその答は見つかるだろう。見つかるにちがいない。
こうした帯文や序文によって幸福ともいえる句集を編み、俳人として旅立つ僥倖を、たぶん真摯に生きるだろう著者の一途さがうかがえる句集と言えよう。
ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。
草いきれこの道もまた行き止まり 泉
膝抱いてみるほうたるのあらはれさう
思ひ消つ落葉とことん踏みしだき
一頁手前に栞春灯
吾子に買ふ片道切符風光る
夫涼しアンダルシアの地図拡げ
校歌斉唱汗も涙も拭はずに
志磨泉(しま・いずみ)昭和43年、和歌山県生まれ。
2017年9月6日水曜日
関悦史「少年(リトル・ボーイ)の魔羅立つ地平 散り建つ原発」(「鷹」9月号より)・・
「鷹」9月号(鷹俳句会)の髙柳克弘によるインタビューシリーズ「俳人を作ったもの 第11回」は関悦史である。
同じ「豈」同人でありながら、ほとんどプライベートには疎い愚生なので、今号の関悦史のインタビューによって、幼少期からの彼の生い立ちのいくばくかを知ることができた。祖母の介護を語った次の部分にはある種の真実がうかがえた。
関(全略) 祖母は食べ物が何が好みで、これだったら食べられるだろうという判断も、私ならできた。ただ漠然と誰かの役に立ったということではなくて、私以外には誰にも任せられない「のっぴきならなさ」がありました。それで無理やりやっている間に身が軽くなった。自殺への誘惑がやや無くなってきた。
ーー最後に若い人へのメッセージをお願いします。には、
関 あんまりないんですが、強いて言うなら「もっと孤独になりましょう」。若い人たちは非常に多く句会をしている感じがします。(中略)
私はずっと一人でやってきたものだから、みんなすぐレスポンスが来過ぎではないかと思うんです。現代の俳壇の、それも身近な関係内での美意識や流行り廃りに囚われてるのではないか。(後略)
と語っている。
話しは変わるが、先日、『存在者 金子兜太』(藤原書店)を読んでいたら、髙柳克弘の「子馬のように」(兜太さんへの手紙)で、泣かせる文章に出会った。
兜太さんには、以前、秩父で行われる「海程」の俳句道場に招いていただいたことがあります。私を紹介するときに、俳句の世界のじいさん、ばあさんに理解されなくてもいい、俺は分かっているからそれでいい、と言われ、そのあと、控室で一人になった時に、私は涙をぼろぼろ流しました。
という箇所である。若き日の金子兜太もまた、前世代の俳人たちの無理解に対して敢然と闘っていたことを思い出していたに違いない。
ともあれ、関悦史のいくつかの句を以下に挙げておこう。
ヘルパーと風呂より祖母を引き抜くなり 悦史
人類に空爆のある雑煮かな
テラベクレルの霾る我が家の瓦礫を食へ
数千万人人体実験中正月
「あいつ綺麗な顔して何食つたらあんな巨根に」風光る
2017年9月5日火曜日
上野一孝「ダリヤ咲くゆゑ戦争を放棄せよ」(『迅速』)・・
上野一孝第三句集『迅速』(ふらんす堂)、題名の「迅速」は、
故・森澄雄先生が「石田波郷論」(「寒雷」一九四八年一二月号初出)でお書きになった言葉、
佛教の、或ひは僕等の観念する無常迅速より、本当にやつて來る人生の無常迅速はいつも少しばかり無常迅速なのだ。
から頂戴した。(「後記」)
という。さらに「ここに集成した作品は二〇〇八年から二〇一八年半ばの間に詠んだものである。冒頭のⅠには、まさしく人生無常迅速を体験した二日間に詠んだ句を置いた」とある。その二日間とは、父の死と、師・森澄雄の死のことである。
二〇一〇年八月十七日 父死す
花木槿今際の言葉などなくて
遺されて母のあふげる天の川
翌十八日 師・森澄雄死す
秋昼寝覚めざるままや失せたまふ
草の花師のあらぬ世のはじまりぬ
自身にも「恙ありて」の前書のある「杖つかふ虹指すためと言うておき」の句もとどめている。上野一孝は「寒雷」「杉」といわゆる人間探求派の系譜なのだが、今後は「叙景句を数多く詠んでゆきたいという思ふ」とも記している。
ともあれ、集中からいくつかの句を以下に挙げておきたい。
豊後・大神(おほが)・回天基地跡
春蔭や出撃命令出しまま
いま釣りし鮎を囮に雲流る
午(ひる)よりは植木屋を上げ雪見酒
囀りやいかなる色といふべかり
伯母死す
春の雲になるべく軽き棺かな
神の旅幾柱かは人に憑き
被災地も紛争地も無し絵双六
楤の芽の苦し少年期は遠し
上野一孝(うえの・いっこう)1958年、兵庫県姫路市生まれ。
2017年9月4日月曜日
高橋龍「取替へる生命(いのち)は無かり鳥帰る」(『寶珠花』)・・
高橋龍句控『寶珠花』(不及齋叢書・十三 髙橋人形舎)、「あとがき」に、
宝珠花(ほうしゅばな)これも地名である。ただし中世までは下総国葛飾郡の宝珠花郷であったが、、寛永十八年(一六四一)関東郡代伊奈半十郎忠治の江戸川開削により、右岸は西宝珠村に改められた。それを引き継いで現行は、左岸を千葉県野田市東宝珠花。右岸を埼玉県春日郡市西宝珠花となっている。わたしの郷里流山でも、三輪村が東が三輪野山村、西が三輪野江村に分けられた。鎮守の三輪神社(茂呂神社)も分社された。
とあり、最後には、自身の体調を記して、
酸素ボンベが手放せず、空気は只だが、酸素は金がかかるとぼやきながら、病院へ行く以外はほとんど外出せず、おかげで少しは本も読め句も手当り次第。出来不出来も念頭になく、四月以降数えてみたら一五〇句あまりになった。
としたためられている。とはいえ、酸素ボンベから吸入の管を通して、ますますの健吟ぶりである。味わい深い諧謔の句のいくつかを以下に挙げておきたい。
なよなよに生かされてゐる柳かな 龍
老木は咲き急ぐなり花の昼
五月八日
ダリよりも三日前わが誕生日
みづからを水から救う春の鮒
高柳重信
遂に鳴る耳鐘の音に違ひない
空間は空(から)の棺(ひつぎ)か秋のひる
壥きつき/巻きつく/時間の帯を/秋の虹
2017年9月3日日曜日
銀畑二「遠花火八千七百六十時間の昔」(「夢座」176号)・・
「夢座」176号(発行人・渡邉樹音)の目玉の論考は齋藤愼爾「いま、俳壇は」(【時への眼差し】Ⅻ)であろう。青木健編『いま、兜太は』(岩波書店)と黒田杏子編著『存在者 金子兜太』(藤原書店)を肴にしながら武良竜彦と私(齋藤愼爾)の会話で話は進む。全体を引用できればよいのだが、それは無理な相談、恐縮だが、恣意的に部分的に抜粋する。「俳句」2016年月号の金子兜太、大峯あきら対談に触れた以下の部分、
武良 (前略)詠嘆や悼み、励ましを詠むことが、震災詠として大切だったのか。大多数の俳人が類型的表現に雪崩れ込んだ現象の、言語的危機の方が問題ではなかったか。短歌界はその言語的危機を問題視することを共有しましたが、二人の対談ではそのことへの言及は一か所もない。(中略)
「詠嘆」調の一句しか詠まなかった大峯氏を批判した金子氏が「それを悼んで作る、悲しんで作る、励まして作るということがあってもいいんじゃないですか」という震災詠観にも私は違和感を持つ。
また、
私(齋藤愼爾) 菱川善夫氏がかつて指摘したように、アニミズム志向は「思想的なよるべを失った現代の人間が、伝承された形や、もの言わぬ草木によせて、あらたな魂の浄化作用をはかっているていのものとしか思われない」というべきだろう。山河のすだまに身をすりよせて、それを美化しているにすぎない。風土の美化、伝統の美化、ヤマトの美化、一木一草に神(天皇)が宿るーああいつか来た道だ。
と果敢に述べている。また、江里昭彦「獏は夢を喰い、俳人は飯を喰う」(【昭彦の直球・曲球・危険球】㊼)では、句集評において、
(前略)それぞれ句風を事にしながらも、現実生活と俳句活動との安定した関係(つまり定職と定収入とで生計を支えつつ、余力を用いて俳句に取り組む、という関係)が透視できる。それが共通項んあおである。
概して生活に困窮しない人間は、俳句に過大な期待を抱かないものだ。文学としての高みをめざすとか、社会への影響力をもとうとか、反俗と耽美の別世界を構築しようとか、人間の真実を探求しようとか、そうした〈力み〉とは離れた地平で、安定的に俳句に向きあおうとする。
最後の一冊、関悦史『花咲く独身者たちの活造り』だけが異例であり、別格である。力みと過剰のまばゆい誇示が、ここにはある。
ともあれ、本誌に一人一句を以下に挙げる。
さざなみのもとに戻って夏の雲 佐藤榮市
あ、ありぃぇ?ヒヤリヒアリではない ホッ 城名景琳
雹落下冷果のように食べる子ら 金田 洌
蛇衣を脱いで来世を近づける 渡邉樹音
かき氷脳に言いたいことがある 江良純雄
宇井靖彦を悼む
その棘を誇れ君は薔薇の一輪 照井三余
藍浴衣下駄は助六神楽坂 太田 薫
トンネルを抜けてトンネル夏の山 鴨川らーら
空の海一万メートル揚雲雀 銀 畑二
撮影・葛城綾呂↑
2017年9月2日土曜日
木割大雄「まあ聴けと墓前に来れば遠雷す」(「カバトまんだら通信」40号)・・
「カバトまんだら通信」40号(発行・カバトまんだら企画)、著者は木割大雄、編集人は榎本匡晃、藤井弥江(みやず)とある。巻頭文の「お久しぶりです」によると、平成8年10月に出し始めて、不定期刊、今号で40号、前号を出したのが、昨年の3月、1年に一冊も出していない、辞めたのか、という問いに、
〈通信〉は、師・赤尾兜子の人と作品について書き続けること。それはそのまま「俳句とは何か」を考え続けること。辞めません。
とあるように、一貫して赤尾兜子の全てについて書き続け、資料をその都度、開示している。実に貴重な通信である。
「兜子への旅ー朝の李花」に、久しぶりに灘の海を見下ろせる住吉霊園の兜子の墓に参ったことと、
初がすみうしろは灘の縹色 兜子
について、
兜子の句には謎が多い。表記も謎のひとつ。仮名づかいの変化も、漢語、ルビの振り方にも統一感がない。題材は言うまでもなく世界は多岐にわたる。ときに弟子を悩ませ、読者を困惑させる。この一句も、縹色などという見馴れない文字を使いながら初がすみ。霞、とは表記しない。
『歳華集』の最終校正に立ち会ったとき「先生、墓の句で始まって墓の句で終わるんですね」と言ったら、兜子は、最後の一句となるはずあった「蟻酸の墓身を盡しつつ浮蛍」を、「ふむ、入れ替える」と言って、その場で、のちの評判になる句「葛掘れば荒宅まぼろしの中にあり」を掉尾に入れたという。そして、先生には師がいなかった、とも記している。
赤尾兜子は初めから最後まで自己流で書き続けたのだ。途中で変化したのではない。伝統回帰なんぞしたのではない。初めっから、多様な、矛盾だらけの文体で書いたのだ。
と述べている。そうだろうと思う。それを髙柳重信は、他のだれにも紛れない詰屈な文体と呼んだ。
愚生が最初に髙柳重信に会ったときに、「大井君はどこにいたのかね・・」と聞いた。愚生は、赤尾兜子の「渦」です、と言うと、「兜子か、あれは僕の弟分のようなものだから・・・」と答えた。だが、愚生は、生前の兜子に一度も会ってない。三年間の京都にいた最後に「立命俳句」第7号を出した。そのとき、「こういう活動もされているのですか」という葉書を一度貰った(それも手元にはない)。あれから、もう47年が経つ・・・。
俳句思へば泪わき出づ朝の李花 兜子
大雷雨鬱王と會うあさの夢
鬱王に魅せられしゆえ恍惚と苦痛と俳句思う泪と 藤原龍一郎
水遺るは好きな鉢のみ兜子の忌 木割大雄
鬱王忌(兜子忌)は3月17日、享年56。兜子は亡くなる1週間前に重信に電話をしている。
撮影・葛城綾呂↑
2017年9月1日金曜日
福田若之「春はすぐそこだけどパスワードが違う」(『自生地』)・・
福田若之『自生地』(東京四季出版)、帯の背に「圧倒的な、初句集」とあり、帯表には書店員らしい三人の惹句が配されている。さらに句作品の構成、内容などを含めて装幀、造本まで,みごとな一冊である。
つづめて言うと、幾つかの特徴的な著者偏愛の語彙を見出すことが出来る。たとえば、消しゴム、かまきり、コノタシオン(小岱シオン)などである。
「もしうわたしが三人いたら、ひとりを仲間はずれにするだろうなって思う。 四人でも」と、彼女、小岱シオンは言った。
夢に着けば先客がみな小岱シオン
そして、
かまきりは言葉に似ている。
少し物、言いたげにかまきりの首
というふうに書かれて自生地の物語は始まり、巻尾の、
孵る。それは、二度と戻れない仕方で帰るということだ。別の自生地に。
やわらかいかまきりのうまれたばかり
で閉じられ、終り、開かれる。
俳句にもようやく、現代仮名遣い、口語を駆使した作品世界をもつ句集が出現したのではなかろうか。加えて、一句独立という近代的な俳句の教条からは、いささかスタイルを異にしている。従って読むほうも、掌編小説でも読むような気分で読み進めると楽しめるだろう。古風に言えば句文集、いや新俳体詩風とでも言っておこうか。
〈文〉の思考とは別の、〈句〉の思考ということについて考えている。だが、句は、一見するとそれ自体がひとつの文字をなしているように見えることがある。
また別の鯨かがやく海上に
宙は無い。∴鮟鱇の宙吊りは無い。
明確に数えなかったが、句数は1000句を超えているだろう。これも掌編の韻文集と思えばいい。世界はすべて切り取られてただあるに過ぎない。いや、それすらあやしいのかも知れない。
ともあれ、いくつかの偏愛語彙の句を以下にあげておこう。
かまきりの足がまた稼働しだした
かまきりをのむかまきりのほそい喉
塗りこめてかまきりの野を消し去る雨
かまきりは冬に葉書は灰になる
飢えもなくかまきりもどき喉黒く
かまきりもどきそのなきがらがなきがらめく
はじまりの小岱シオンの土偶に蚊
小岱シオンは轢かれ飛ばされ散らばる金
日々を或る小岱シオンの忌と思う
また別の小岱シオンの別の夏
福田若之(ふくだ・わかゆき) 1991年、東京都生まれ。
撮影・葛城綾呂、アゲハ蝶↑