2015年1月8日木曜日
藤井冨美子「たおやかに虹たてば都市沈みけり」・・・
丸山巧は『藤井冨美子全句集』(文學の森)に収載された「魂の残り香」に以下のように記している。
街の雑踏を歩いていて、ふとすれ違いざまにえも言われぬ優雅な匂いを感じて振り返ることがまれにある。上等の香水だからではない。目を見張る美人だからでもない。何とはなしに気品があってゆかしさを感じるのだ。ほんの一瞬のことで、すぐ人にまぎれてしまう。あれは幻覚だったのかと不思議な感覚に浸る。
藤井冨美子の俳句に出会って刹那に感じたのはそれと似通った感覚であった。
愚生は、不明にして、これまで、まともに藤井冨美子の俳句を読んだことはなかった。それは、何より榎本冬一郎の有名だったメーデー俳句を記憶にとどめ、社会性俳句の一時代を築いた「群蜂」の継承者であること以上に興味を抱かなかったという自身の怠惰によるものである。
この度の『藤井冨美子全句集』の開版は、この愚昧を戒めた。
他にも精緻を極める楠本義雄「藤井冨美子の風景」、解説の堀本吟「藤井冨美子論ー戦後俳句のユートピアをさぐる」、そして、丸山功と同じく、次世代の樋口由紀子「管見ー藤井冨美子」。序文は和田悟朗で、
ことに本全句集の二一六から二一七ページにかけてのあたり、絶唱といして大きば頂を成しているように思われる。
山の木に無心の月のかかりたる 冨美子
どこまでも芒の原か鬼逃がす 〃
天命のおもむくところ秋澄みぬ 〃
水清し花びら清し母の膝 〃
果汁一滴いのち養い冬に入る 〃
空間大きな拡がり、その中に月も鬼も命も自在に遊び、秋から冬にかけて静かに過ぎてゆく様相は、あらゆる存在がいったいとなって作者の心の中に、安らかである。冨美子自身の若年の喧騒は去っており、身辺には清らかな大気があるばかりである。自らすでに還暦近い年齢に達している。このような境地はやはりすぐれた俳人ならでは無心であろう。
と示している。
そして、また、攝津幸彦より一歳若く48歳で夭折した、榎本冬一郎亡きのち、一時期、藤井冨美子とともに「群蜂」代表を務めた伝説的な俳人・川崎三郎の文章に、これも『榎本冬一郎全句集』(牧羊社・1978年)解説以来であったが、藤井冨美子第一句集『海映』解説で出会うことが出来たのは嬉しいことであった。そこには、
さりげなく、それでいて、容赦なく過ぎ去っていく平板な日常の時間の流れの中から、いかにクライシス(危機感)を受感するかという詩の本質に対処していることはあきらかでなのである。
と、以後の藤井冨美子の行く末を予言しているかのようであった。
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