2019年6月30日日曜日

藤原月彦「致死量の月光兄の蒼全裸(あおはだか)」(『藤原月彦全句集』より)・・



『藤原月彦全句集』(六花書林)、著者「あとがき」に、

 (前略)この本には藤原月彦として上梓した六冊の句集が完本収録されている。
『王権神授説』と『貴腐』は深夜叢書社の社主の齋藤愼爾氏により刊行していただいた。『盗汗集』は端渓社の大岡頌司氏にお願いした。そして『魔都』シリーズの三冊は宮入聖氏の冬青社から出してもらった。「黄昏詞華館」本編に発表した俳句はこの『魔都』三部作にほぼ収録されている。当時はこのような色合いの作品をつくっているのは私しかいなかった。もちろんBL俳句というジャンルもなかった。元号でいえば昭和の末期の頃に、こんな俳句がつくられていたというアリバイとして、この本を出してもらうことになった。

 とある。月彦こと藤原龍一郎は、現在は、「里」で媚庵の俳号で句を発表しているが、他誌では、龍一郎名でも発表している。かつて、彼が句作を再開して以後、俳号の「媚庵」について尋ねたことがある。その折りは、ボリス・ヴィアンの『日々の泡』ですよ・・と答えられた。100巻続くはずだと思われた幻の「魔都」も、当時は、実現の射程に入っていたのだろう、と期待していた。が、あっと言う間に、本来の立ち位置である短歌の世界に軸足を移して行った。
 藤原龍一郎は慶應大学に入学したものの、早稲田短歌会に入りたくて、翌年、早稲田大学を受験し直して入学したくらいだから、ある意味、短歌こそイノチだったのだ。しかも、それは、時代をよく担っている短歌だった。


      「豈」創刊号(FIRST OR LAST)↑

 巻末の藤原月彦略年譜にあるように、攝津幸彦とともに「豈」の創刊同人、そして、今は無き「未定」の創刊同人でもあった。じつは、それは愚生と同じである。昨年、大本義幸を喪ったので、いまや、「豈」の創刊同人は、愚生と藤原龍一郎と二人だけになっている。創刊は1980年、16名による船出だった。今年でちょうど創刊39年の同人誌である。結社誌でもないのに、よくぞここまで続いたものだ。
 遡ることほぼ45年前、彼の第一句集『王権神授説』は、忘れもしない東中野のとある喫茶店で彼から直接手渡された。たしか詰襟の学生服姿だったと思う。以来、藤原月彦は意中の俳人となった。その「後記」に、月彦は、

 夢と夢のあわいのかそかな覚醒の刹那、狂気のように襲ってくる言葉の奔流。ぼくは、俳句形式というフレイの剣をとってたちむかい斬りむすんだ。その時飛び散った悪夢の破片こそがぼくの俳句作品なのである。

 と言挙げしている。青春の香気、才気が香る。本全句集には、栞、跋文も収載されている。中島梓「貴腐・跋」、菊池ゆたか「魔都・栞『俗と聖のからくり』」、仙波龍英・栞『百恵許せよダンプもきたぞーあるいは松鶴家千歳(このひと)を見よ』」。その仙波龍英は言う。

(前略)活字が残るという妄想を抱き暮らしている一団が、そのことを誇り(・・)とさえして存在する。

 という。身の毛もよだつような怖ろしい現実である。だが、これもまたいささか口調が厳しすぎるかもしれない。おだやかな言い回しに変えよう。ニッポンにはゲンザイでも、(後略)

  ともあれ、本集より、いくつか愚生好みに、気ままに句を挙げておきたい。なぜなら、どの一句をあげても、月彦の句だから。あとは読者が好きに選べばいい。

  弾痕疼く夜々抱きあう亡兄(あに)と亡兄(あに)    月彦
  全山紅葉徒手空拳の正午(まひる)かな
  絶交の親友(とも)には視えぬ水瓶座
  やが雨季街に情死の噂冴え
  生国の山河は死後も日雷
  日も月も流れて天の澪標(みをつくし)
  死者とゐて空気濃くなる麦畠
  中世の春も土星に環ありしか
  男装の美少女しやがむ草いきれ
  裏庭のカンナ淫らに變聲期
  孫太郎蟲這ふ戦前の新聞紙
  鬣に雪ふりナチス少年隊
  佐川一政的欲情の旱梅雨
  人間に化ける百草百千鳥
  桜散る梅沢富美男飛ぶ闇へ
  肉弾の夜ごと夜ごとの世紀末
  男根に朱唇女陰に日雷
  有頂天時代よ春よ永遠よ
  亀鳴けり女装の兄を羨めば
  帝都晩秋百鬼夜行ぞ面白き

 藤原月彦(ふじわら・つきひこ) 1952年、福岡市生まれ。




★閑話休題・・秦夕美「ピエロ来るひといろ欠くる虹まとひ」(「GA]83号)・・・


 「豈」同人つながり・・、藤原月彦と秦夕美はかつて二人誌「巫朱華(プシュケ)」を出していた(1983~1988年まで9冊刊行)、略年譜によると「言葉遊びの限りをつくしたという実感がもてる活動をした」と記されている。その通りで、俳句形式のなかで、言葉を読み込んだり、形を整えたり、本全句集にもあるが、一行の文字数で全ての句をそろえるなど、果敢な試みだったように思う。
 「GA」は秦夕美の個人誌である。言葉を自在にあやつる手つきは、当代一といってよいかも知れない。小冊子ながら、俳句、短歌、エッセイ、それぞれに魅せられる。現在は蕪村句についての連載もある。表紙はいつも秦夕美邸の庭の草木をコピーしたものを使われている。本号作品は、(レッドバロン」赤い男爵からランボーの『母音』の色と公候爵子男の爵位を組み合わせて十句。「母音の夢」とした)とある。

  Amerikaへゆくつもりなし涅槃西風     夕美
  青すゝき男爵某にわたす銃
  さてもさて十三月の小石かな
  ぼんぼりにかろがろと夜のきたりけり
  帝都にはあはぬ手鏡さみだるゝ
  
  たそがれの色こばみつゝまとひつゝ鳥とも蛇ともならず息する
  あらあらと影伸びくる雑草を刈るや刈らずや四月一日
  色即是空などとは言ふな今生は五情のまゝに流れ過ぎゆく



 

2019年6月28日金曜日

横須賀洋子「永遠の欠席を告げ兎とび」(『体感』)・・



 横須賀洋子第4句集『体感』(文學の森)、著者「あとがき」の中に、夫君だった村井和一の横須賀洋子第一句集『絆』(昭和44年刊)の跋文の抜粋が記されている。一部を孫引きしよう。

  横須賀洋子は、女なのに、化粧や着かざることに熱心な方ではない。だから、洋子の三面鏡は、ただあるというだけで、狭い部屋の片隅に積まれたままになっている。
 しかし、ぼくは、洋子が、洋子自身の工房でじっと鏡を見つめながら、俳句を作っている姿を想像する。(中略)
 空しさ、不安、いら立ち、悲しみなどから始まって、生きることのこわさやおかしさに至るまでの、いわば生命の実感がそこには生きている。

 その夫・村井和一は、「東日本大震災の二日後に旅立ちました」ともあった。愚生が現代俳句協会に入会したての頃、協会事務所など、さまざまな機会によくお会いした。全く偉ぶるところのない人で、しかし、温和にはっきりと意見を述べられるかたで、その見識について学ぶことの多かった俳人である。だからというわけでもないが、横須賀洋子と聞けば、なぜか必ず村井和一(ワイチさん)を思い起こす。

  目高にも学歴があり賞罰なし     和一
  真夏には死にたくないが仕方がない
  絮吹けば五十万年飛びますねん

 こうした俳諧味、イロニー、諧謔味は、横須賀洋子にとってもまた掌中ものと思われる。
 そして、この趣は、たぶん第一句集『絆』よりはるかに深められているように思う。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

  声かけて咲いたか咲いた桃の花    洋子
  尺蠖ととことん気の合う暮らしなり
  その人の訃報が消えてから花野
  煩悩の艶をならべるさくらんぼ
  しかしもしややがてそうかとねじり花
  亀鳴けり歳時記を出たばっかりに
  カーネーションむかし愛国少女の日
  中指は小指に遠し秋の暮
  一時間後を忘れる人と見るさくら

  人工の骨も身の内汗を拭く
  うたたねに秋の蝶抱きこなごなに
  サルビアの良し悪しを突く庭の鳥
  サルビアの半身散って猛るいろ
  スプーンの背から葬列おりてくる
  暗い沼から嬰をうけにゆく祭笛
  葉書の中で虎は四隅を淋しがる 

 横須賀洋子(よこすか・ようこ) 昭和11年、神奈川県生まれ。


2019年6月27日木曜日

平得壯市「差別なき園の生活や風香る」(『飛んで行きたや』)・・・



 平得壯市俳句・短歌集『飛んで行きたやー沖縄愛楽園より』(コールサック社)、集名に因む句は、

  羽あらば飛んで行きたや里の春       壯市

であろう。解説は大城貞俊「慰霊碑の供花に飛び交う夏の蝶」、題は平得壯市の句、

  慰霊碑の供花に飛び交う夏の蝶       壯市

 に拠る。解説の大城貞俊は、

 本句はとりわけ創造力を喚起する。何の慰霊碑なんだろう。なぜ供花が行われたのか。供花は蜜のように甘い希望の喩えなのか。なぜ夏で、なぜ蝶なのだろう。無数の蝶か一匹の蝶か。瀕死の蝶か若々しい蝶か。蝶とは私なのか。作者は元ハンセン病患者で家族との隔離を国家権力によって余儀なくされたのだ・・・・。(中略)
 作品にはハンセン病を患ったが故に、理不尽な差別と偏見に悩まされた一人の人間の苦悩と闘いの日々が刻まれていた。優しさと激しさ、孤独と不安、希望と絶望、自らを励ます言葉、なぜか素直な心で吐露されていた。印象に残る俳句や短歌には表題にあげた作品以外にも数多くある。

 と述べている。また著者「あとがき」には、

 私はだれかに俳句や短歌を学んだことはない。独学で、思うままに日々の感慨を大学ノートに書き綴ってきた。私の作品は、俳句らしいもの、短歌らしいものに過ぎない。日記を書くように短歌や俳句を書いてきただけだ。
 沖縄戦では私の母方の両親が犠牲になった。姉も甥も犠牲になった。だから私は、病への差別や偏見だけでなく、戦争へも怒っている。沖縄の「慰霊の日(六月二十三日)」には、摩文仁に行って慰霊祭にも参加した。昨今の辺野古新基地建設についても大きな疑問を感じる。沖縄を基地の島ではなく平和な島にしたいと思う。

 としるしている。ともあれ、集中より、句と歌をいくつか以下に挙げておきたい。

  激痛の灯下に足を妻こする
  父在らば百と〇(ゼロ)歳曼珠沙華
  村ごとに言葉異なる天の川
  星空に指笛響く沖縄角力(しまずもう)
  予防法撤廃後の生活(くらし)冬談義
  麻痺の指なめて辞書引く寒椿
  偕老のちぎり重ねて花開く
  一年(ひととせ)に二十人も減り逝く園の春
  予防法の歴史の怒濤鰯雲
  なんぶちと呼ばれし悲哀冬昔

  吾が病い必ず癒ゆると信じつゝ父は待ちおり十年経ちても
  みにくくなりし子の現身(うつしみ)を知らずして逝きにし母は幸せならんか
  この病は運命だからうらむなと低き言葉で父は云ふなり
  子の親になれる日あると思わずに子の誕生に喜び隠せず
  縫いあげし浴衣を吾れに着させんと暑さいとわず妻はためさん
  姉の名を平和の礎(いしじ)に確かむる除幕式に急ぐ妻子らと共に
  花嫁の父と呼ばるる晴れの日に出席できず祝電で済ませ
  吾が命刻まれる如く足萎える妻を看とりて八年経ちぬ
  真心に看とりて呉れし看護婦は免許なき故に解任されぬ
  療園に所得格差が憚りて弱者中心の運営乱る
  予防法撤回後の世を夢に見つ余命幾ばく焦るものあり
  吾が命洗わるる如し癩園を出て来て那覇でバスを待つとき

 平得壯市(ひらえ・そういち) 1936年、与邦国島に生まれる。


2019年6月26日水曜日

柴田多鶴子「永き日の半ば朽ちたる釣瓶かな」(『続 小筥携え』)・・



 柴田多鶴子『続 小筥(こばこ)携えー俳句の旅ー」(角川書店)、見開きページに旅先の地名や行事名などと5句にエッセイが付されているという構成である。いわば旅吟とエッセイを収めた一書。著者「あとがき」のなかに、

 あまり丈夫な身体ではなく、外出嫌いだった私が、俳句をはじめてからは猛暑・厳寒・雨天をいとわず句材をさがして出掛けています。また年齢・性別・環境の違う多くの会員と教室や句会で出会うことで心の世界が広がりました。私にとって俳句は、必須アミノ酸のようなもので、元気の源となっています。今後も俳句を入れる「小筥」を持って時間を作り出掛けようと思います。

 と記されている。ブログタイトルにした「永き日の」の句は「伏見」で詠まれた5句のうちの一句である。他に、「弾痕の残る旅籠屋冴返る」「春光の届かぬ宿の裏梯子」などの句もある。愚生も二十歳の頃、京都に3年間居て、一度だけ伏見、寺田屋に出かけたことがある。言わずと知れた寺田屋事件は坂本龍馬暗殺で有名になっているが、歴史上は、その前にも尊王派同士の切り合いの現場となっている。とはいえ、現在の寺田屋は当時のままではなく、移築再建されたものらしい。エッセイにある次の部分などを読むと、下戸の愚生とは違って、お酒もたしなまれるようだ。

 寺田屋のある伏見という地域は、昔から良質な地下水に恵まれていて、かつては伏水(ふしみず)と言われたという。名水のあるところ名酒ありで、土地の名水を利用して酒造りが盛んに行われ、その一つ黄桜の工場を見学した。店の由来である黄桜(鬱金桜)が庭に植えられている。(中略)街にはお酒の試飲をさせてもらえる所もあり、よい匂いが漂う。酒粕、酒まんじゅうもおいしそうだ。

 ともあれ、以下にいくつか旅吟地の一句を挙げておこう。

   ルーアン
 火刑地を訪ねしあとの暑気中り
   フランス国鉄
 野うさぎの穴だらけなり夏木蔭
   ジャカランダの花
 ジャカランダ夏の潮よりなほ青き
   祇王寺・滝口寺
 横笛の寺の色濃き実むらさき
   万博記念公園
 枯れきれぬものの騒ぎて蓮の池
   芭蕉のふるさと
 糸ざくら伊賀の組紐七色に
 
柴田多鶴子(しばた・たづこ) 昭和22年、三重県生まれ。




★閑話休題・・藤井貞和「あけがたのとこに/視界をてさぐりしています」(「四」の「言語集」の最期の2行より)・・


 愚生もぼちぼち、昔のあれこれを整理しているのだが、筥底より同人誌「四」NO.2(制作発売 書肆山田・1982年4月刊・定価300円)が出てきた。「四」は4名の同人のことである。その名は、阿部岩夫・鈴木志郎康・藤井貞和・八木忠栄。詩篇は、みな長い詩なのでこのブログでは紹介しきれない。よって、表紙裏(表2)に記された、署名なき献辞詩を紹介し記しておこう。たぶん「四」の頭韻、脚韻が考慮されている。

  よけ切れない 夜の 酔った余人たちが 四
  辻に 炎える 余燼残るかと よわいも 夜
  っぴて 重ねられて 身を捩る 四月錐
  よれよれの 上衣が 夜風にあまる 横によ
  ぎれと 横っ飛び 余生をけって呼び戻す
  四方の余力を さて 余り酒の 卓上にかわ
  き 一年の二十の四 夜籠もりに よに

 ちなみに4名の詩編の題は、八木忠栄「ある結末による即狂曲」、阿部岩夫「旅の夢に踞る軀」、鈴木志郎康「頬寄せ」、藤井貞和「言語集」。

  

2019年6月25日火曜日

柳本々々「童貞じゃなくなった日に玄関をとおると母のおかえりの声」(『短歌ください』)・・


 
 穂村弘『短歌ください 双子でも片方は泣く夜もある篇』(KADOKAWA)、「本書は、ダ・ヴィンチ』2015年11月号~2018年4月号に連載された「短歌ください」をまとめたものです」とある。著者「あとがき」には、連載開始から10年が経って、

 その年月の間に、投稿者の中なら歌集を出版して、いわゆるプロの歌人への道を歩みだした人も数多く現れました。彼らの活躍のおかげもあって、さらに投稿数が増え、全体のレベルが高くなっています。でも、そのハードルを越えて、新しい才能が次々に登場しています。息をのむような傑作に出会う喜び。短歌を全く読んだことのない人にも、本書のどの頁からでも開いて貰えれば、その魅力を実感していただけると思います。

 としたためられている。愚生は散歩途中で、新聞をよむためによく立ち寄る近くの新町文化センター図書館で「新着図書の棚」に面見せで置かれていたので、つい手が伸びてしまった。
 パラとめくると最初に、「豈」の忘年句会にも参加してくれた柳本々々の名が飛び込んできた。それで早速借りて、またまた、パラとめくると、柳本々々がけっこう入選していた。 入選歌には、穂村弘のコメントが付されているのだが、ブログタイトルにした短歌には、

 今回のテーマは、「童貞」または「処女」です。「このテーマは投稿するしかないと思いました」というテンションに充ちていました。

童貞じゃなくなった日に玄関をとおる母のおかえりの声
                     (柳本々々・男・33歳)
 一見なんということもない「母のおかえりの声」に、何故かどきっとしてしまう。いつも通りの「おかえりなさい」が、特別な意味を持って〈私〉の心に響いたのでしょう。

 とあった。また、

 私を取り上げてくれた産婆さん今なお処女で現役だって
                     〈はるの・女・28歳)
「数えきれないほどの出産を間近で見てきたからこその選択なのかもしれない」という作者のコメントがありました。確かに不思議な説得力がありますね。神話めいた味わいに惹かれました。
 
 というのもあった。ともあれ、以下は、愚生の知り合いのよしみで柳本々々の入選歌をいくつか挙げてこう。

 先生はほんとはなにをしてるひと? きわどいことをきいてくるなきみ
 信号のすべてが青で帰る日が五日続いて異変に気づく
 雪なのに雪なのに雪なのに雪みないで帰るほどに疲れて
 これでもかというハードなキスをしたあとにふつうの顔で乗る新幹線
 壁ドンをしてくる男子を払いのけ狼を撃つために帰った
 あたしたちゴミなんですかと面接の会場ぜんぶにに響き渡る声    (・34歳)
 ダンボールくださいのことば言えなくて包装屋さんで新品を買う

穂村弘(ほむら・ひろし)1962年、北海道生まれ。



2019年6月24日月曜日

江田浩司「『たくさん死ねば/せかいは)/たくさんうつくしい』みぞれはすぐに水にかへれり」(『重吉』)・・



 江田浩司歌集『重吉』(現代短歌社)、著者「あとがき」のなかに、

 二〇一六年十月から十二月に、町田市民文学館「ことばらんど」において、開館10周年記念「八木重吉ーさいわいの詩人(うたびと)-」展が開された。わたしは重吉の手作りの詩集や自筆原稿、写真や遺品を近くに見て、不思議な感情にとらわれた。わたしはその感情にかたちを与えるために、一年間、重吉の歌を詠うことを思い立った。本書の全体の構想が浮かんだのはそのときである。

 とある。最初に、八木重吉の、

   断章
 わたしは弱い
 しかし かならず永遠をおもふてうたふ
 わたしの死ぬるのちにかがやかぬ詩なら
 いまめのまえでほろびてしまへ
                重吉
 の詩編とその裏のページには、

 このちひさな本を八木重吉の御霊(みたま)にささぐ。

 の献辞がある。各15章に構成された歌篇の前には、ほとんどは5行(4行もあるが)の詩が添えられている。例えば、ⅴ章では、

 わたしの追ふもの
 すなほなる思ひににがく
 野をゆく詩(うた)のこころのまま
 よくはれた日に
 もんもんとことばを生み
 夏のかなしみをめぐる

 すずし日のあをぞらまぶしいたづらに夏の野をゆくこころのままに
 うすら陽をあびたる傷はひかりたりわか草もゆるこみちをゆけば

 というように始められる。ともあれ、歌のみになるがいくつかを以下に挙げておきたい。

 ほこるべきなにものもなきはるの日にうす日のなかに手のひらをいれ  浩司
 かなしみを糧にいきたる人ありてちひさな種をはるにはまくよ
 けふもまた力をいれずゆくしろい雲さへあればいいのだ
 なにとなくひるのひかりに照らされてあゆみゆきにしかなしみは肉
 やがてくる詩歌のために生きてます「聖書」に雨のふるときを待ち 
 死を恃(たの)むこころをうたふひとはゆくあきの日にしづかにいかる
 ここに詩があります息をしてゐますこれがわたしの生贄(いけにへ)なのです
 いたづらに稀(まれ)なるひとの詩をおもふこのかなしみよほろびてしまへ
 ひとすぢのあなたの聲にたてこもりこの世もいいとしばらくおもふ
 ふゆのいろ海をわたりてくる祈りひとりのをんなを愛するいのち
 ちちの死とははの死にむきわれあると思へばこころやすらかなりぬ

江田浩司(えだ・こうじ)1959年、岡山県生まれ。




★閑話休題・・・福島泰樹「『革命万歳!』歓声をあげ駆けてゆく難波大助二十四歳」(「現代短歌」7月号より)・・・


上掲の江田浩司つながりでいけば「現代短歌」7月号(現代短歌社)の特集は「現代短歌を評論する会」である。そのパネルディカッション「今、批評のあり方を問い直す」の「席者の声」で、江田浩司は、

  (前略)「現代短歌を評論する会」の活動には、そのような、内なる「歌壇」を超克うことで、外部にある権力や抑圧を行使する装置として歌壇を解体、、あるいは脱臼することを目指すこと。個々の表現者の力を結集して、何ものにもおもねらない、短歌の革新を目指そうというテーゼの理想の実現です。それは自由な創作者としての自己とのあくなき闘いでもあります。内なる「歌壇」の超克による、権力装置としての歌壇の解消は、文学としての短歌の将来にとり最重要課題の一つると思います。

 と述べている。話はかわるが、同誌同号より、福島泰樹の「うたで描くエポック 大正行進曲・三十七章『金子ふみ子の歌』」より、いくつか以下に挙げておきたい。

 天皇の赤子であるに飢えに泣き死んでゆくのはなぜかと問いき   泰樹
 神聖にして侵さざるべき人なるか無籍の者とし、われは生れき
 獄庭に咲くつつじ花、ギロチンに斃れた友の赤いまなざし
 出生地神奈川縣横濱市町名番地悉(ことごと)不詳
 家の中ではらんぷが灯り閉め出され腹をすかしてそれを見ていた
 天帝は見て下さっているのです貧民窟に咲く花となれ
    大正十二年十二月二十七日虎の門、大逆事件発生
 「革命万歳!」歓声をあげ駆けてう難波大助二十四歳
  


2019年6月23日日曜日

栗林浩「追越せぬものに逃水わが言語」(『うさぎの話』)・・



 栗林浩第一句集『うさぎの話』(角川書店)、序文は高野ムツオ「言葉の多重の光」。栞文に今井聖「栗林浩の中の『少年』」、澤好摩「俳句を書くということ」、塩野谷仁「確かなる視点」。集名に因む句は、

   イギリスのうさぎの話灯を消して    浩

 である。その「あとがき」には、

  俳句を広く勉強する意図で、あえて多くの句会に出席させて戴きました。傾向が違っても佳句や好句が沢山あることを知りました。そのせいで、自分の独自の句柄を完成させていないような気がします。節操のなさを、どうぞご寛恕下さい。

 と謙虚に述べている。栞文のなかでは、澤好摩が以下のように述べているのが、とりわけ印象に残った。

  俳句を書くということは、大げさに言えば俳句形式が誕生して以来、今日までの形式の歴史に関わらざるを得ないということを意味する。それは形式の歩んできた過去と現在を意識しつつ、ひいては明日の運命を考えることでもあるに違いない。とは言え、これは短時日に実現可能なことではなく、不断の努力の結果、次第にその人の思想として顕現してゆくものであろう。この点に関しては、氏の評論活動を通じて自得された部分が大きいと思われる。
   
 それらを評して高野ムツオは序文の結びに、

 語り口は穏やか、ときにメルヘン的、ときにユーモラスだが、鋭い批評の光が言葉の背後から多重に差し込んでくる。その光こそ栗林浩の俳句の魅力である。

 と述べている。栗林浩は、今は亡き最初の師・磯貝碧蹄館「握手」で研鑽されていた。だから、最初に紹介を受けたのは糸大八からであったかも知れない。これまで、栗林浩は批評的散文を書き、なおかつ句を書くという両つながらの道を選んできた。それも驚くべき進化をともなってであった。ともあれ、本集の中から、いくつかの句を挙げておきたい。

   痛むゆゑ膝折る象や秋時雨
   ほうたるや息するたびに火が点いて
   もう二度と蟬は通らぬ蟬の穴
   中ほどがさびしい花のトンネルは
   影ばかりおつうが鶴でゐるあひだ
   二人きりなのに耳打ち小米花
   無骨とは骨のあること鬼房忌
   花菜漬いまなほすこしだけ左翼
   行く夏のからとむらひか沖に船
   手の蜜柑放る真似して放らざる
   北限の花野を無蓋列車行く
   大根を吊るだけと言ひ釘を打つ
   かまくらを出て知る星の高さかな
   腕なき抱擁の像ぼたん雪

 栗林浩(くりばやし・ひろし) 昭和13年、北海道生まれ。

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2019年6月22日土曜日

攝津幸彦「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」(「俳句」平成13年3月号より)・・



 三日前、いつもゆくカットの美容室の隣りにある国分寺駅北側の古書店・七七舎(しちしちしゃ)が、今どきの古本屋には、珍しく拡張されて、店前の棚には、すべて100円均一の本や雑誌が並んでいた。眼に飛び込んで来たのが、「俳句」(平成13年3月号)だった。それは「連載大特集120俳人の句と言葉に学ぶ(後)」と、「追悼大特集・中村苑子」であり、手に取ると、グラビア「季節と俳人達」は、今よりはるかに若く仁平勝と対馬康子が仲良くツーショットでおさまっているではないか。

   寒中の対馬康子をしつかりと     仁平 勝
   見つめ合う位置に立ちつつ見る枯野  対馬康子

 加えて、驚いたのは、ページをめくると「120俳人の句と言葉に学ぶ」の攝津幸彦を愚生が執筆していたことだった。愚生の記憶から全く消え落ちていた。せっかくだから、最後の部分を以下に引用しておく。

  《恥ずかしいことだけど、僕はやっぱり現代俳句っていうのは文学でありたいな、という感じがあります。「文学」ってどういう意味だって言われるけど、これはやっぱり読み返すたびに新しい何かが見いだされて、その底にはある種の悲しみとか、あるいは毒ですね、そういうものがないとあまり書く意味がないんじゃないかと(中略)その攝津幸彦を評して加藤郁乎は「明治以降そこそこの写生などという馬鹿念にいささかも害されぬ俳本来のなつかしみがある」と述べている。

 さらに驚いたのは、髙柳蕗子が「そのぽん」と題して、知られざる中村苑子(そのぽん)と高柳重信(パパ)と自分(蕗子)が語られていた。その書き出しは、

  母には四種類あるのをご存知だろうか。義母、継母、養母、実母である。
 私にとって「そのぽん」はこのどれでもなかった。
「そのぽん」とは、パパの奥さんの中村苑子である。この話には、ちょっと長い説明を要する。

 とあって、十歳の蕗子が、いつも明晰、判断を仰げば、即座に子供にもわかる言葉で、適切な答えが返ってくるはずだった重信(パパ)に対して、

 「なぜママは帰ってこないの」
パパは返事が出来なかった。そのぽんにも緊張が走って、「それでもかまわない。自分がどこかにいなくなる」と、わけのわからないことを言い出すではないか。(中略)
「そのぽんはどこにも行かなくていいよ。ママを呼び戻して四人で暮らそうよ」と言って泣きだした。そのぽんも黙ってしまった。

 ママとは蕗子の実母・高柳篤子である。ある時、加藤郁乎が「そのぽん」を聞きとがめ、「ちゃんとお母さんと呼びなさい」と蕗子に言う。重信パパに、

 「お母さんはひとりいればいいでしょ。そのぽんをお母さん呼んだらウソでしょ。そのぽんはおもしろいおばさんで、私は好きだから、そんなウソをついて親子のふりをする必要はないでしょ」(中略)
「そうでしょう、パパ。そうだよね」と強く確認した。パパはついに、
「そうだね、それでいい」
と言った。
 このとき、そのぽんは、「いかなる母にもあてはまらない人」に確定したのである。そのぽんとふーちゃん(私のこと)は、役柄や立場に関係なく一対一だ。以後ずっと、ごく自然にそれを通してきた。(中略)
そんなそのぽんだから、母でもなんでもないただの「そのぽん」で付き合あう、というあのときの私の提案を、けっこう気に入ってくれていたに違いない。世の中の人は「平等」や「公平」ばかり気にして、そのぽんのように「対等」を理解する人は、とても少ない。

と結ばれていた。



          春風亭昇吉の母校↑

★閑話休題・・橋本明「黴臭き刻(とき)を律儀に古時計」(第192回・遊句会)・・


  去る6月20日(木)、愚生は事情在って、出席できなかった第192回遊句会(於:たい乃家)が行われた。兼題は梔子・夏暖簾・黴・当季雑詠で、愚生は欠席投句をした。当日の句会報を山田浩明がわざわざ送ってきてくれたので、せめて、以下に一人一句を紹介しておきたい。

  くちなしに過去は問うふまい白は白       山田浩明
  夏のれん上げる腕(かいな)の白さかな     川島紘一
  山小屋の黴のけはひや夜の雨         山口美々子
  夏のれんくぐればそこはでんでら野       石川耕治
  人にすら黴は取り付くさみしがり       原島なほみ
  梔子やかをりばかりの恋心           渡辺 保
  花梔子クールジャズに針おとす         武藤 幹
  「おいでやす」夏暖簾に清(すが)し笑み    橋本 明
  梔子の花の匂いや吉永小百合          村上直樹
  若女将行きつ戻りつ夏のれん         中山よしこ
  吹く風のカビの香やけに懐かしく        前田勝己
  パン黴びて叩けば昇る靑煙り          石飛公也

☆欠席番外投句・・・・

  保線区の梔子の花錆びはじむ          石原友夫
  夏のれん同じ布地のコースター        春風亭昇吉
  家々の癖ある黴の匂ひかな           林 桂子
  夏暖簾誘われてゆくもう一軒          加藤智也
  梔子の香に呼ばれたる鬱の日は         大井恒行
   
 山田浩明の句会報に付されたメールによると、今回の遊句会に欠席した春風亭昇吉からは、

 先日の国立演芸場での会には,「遊句会からたくさんおいで頂きました」とのお礼の言葉を申しつかっています。

 とのことであった次回予定は、7月18日(木)、兼題は、孫太郎虫・アロハシャツ・土用。

 

2019年6月18日火曜日

髙柳重信「身をそらす虹の/絶巓/処刑台」(増補改訂『日本アナキズム運動人名事典』より)・・


「図書新聞」3396号・4月20日(土)↑


 増補改訂『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)、本書を編纂した「日本アナキズム運動人名事典編集委員会」の「増補改訂版刊行にあたって」には、元版刊行から10年後に改訂版を刊行することを期していたという。増補改訂版には、以下の特色があるとも記されている。

1 新たに3,000余名の人物を立項し、元版と合わせて6,000余名となった。
2 附録のアナキズム運動史関連誌リストを充実させ、新たに1945年から日本アナキスト連盟解散の1968年までの機関誌リストを加えた。
3 附録に日本社会主義同盟(1920年設立)の加盟者名簿を収録した。
4 人名索引に加え、機関誌名索引を載せた。

 本書の書評を、項目執筆者の一人である久保隆が「図書新聞」3396号(2019・4・20)に、

 その中でも、多くの俳句表現者が取り上げられているのは異彩を放っている。もちろん、和田久太郎という存在は、わたし(たち)にとって大きな有様だが、俳句表現者として見做す時、幾らか角度が違ってくるといわざるを得ない。だから、西東三鬼、鈴木六林男、髙柳重信、富澤赤黄男、永田耕衣、平畑静畑といった俳句表現者たちを採り上げているこの事典は極めて特異である。「57年『髙柳重信作品集黒弥撒』(琅玕洞)を刊行。この『序にかへて』で富澤赤黄男は『髙柳重信の精神』はアナキズム的な『反抗と否定の精神』であると指摘した。(略)この『黒弥撒』の『黒』には23年1月に刊行された『赤と黒』をはじめ『黒色文芸』などに繋がるアナキズムの思想が認められる。(略)第一評論集『俳句評論バベルの塔』(略)の巻頭の評論『敗北の詩』(略)では高柳は俳句を『敗北の詩』と呼び、俳句作家を『反社会的な存在と捉える。そこには24歳のアナキスト・高柳重信の姿が『虚無的な教条の光芒の中』ではっきりと描かれている。」(「髙柳重信」-平辰彦)
 わたし自身も重信俳句の世界に共感してきたつもりだったが、ここまでアナキズム的様相を色濃く見通すことができなかったといっていい。

 と記している。愚生は、そうした様相のよって来たるところは、むしろ、髙柳が軍国少年として、神道に対する幼少時からの共感の方が色濃く残っていたのではなかろうかと思っている。本書は、それでも、一般に流布されている俳句辞典よりもはるかに懇切に、各俳人達の項目について、高柳重信のみに限らず、よく踏込んで書かれていることだけは確かである。久保隆も記しているが、「広くアナキズムを包摂するという意味で、この人名事典は、多彩な顔を持っている」のだ。



厚見民恭追悼集『黒い旗の記憶』(玄文社・1997年7月刊)↑

 とはいえ、愚生にとって、重要なのは、本事典に「厚見民恭(あつみ・たみちか)」の項目があることである。通称・厚見のオッチャンは、脳溢血で早逝(享年50)したが、当時、立命館大学二部夜間部学生であった愚生に、「集団・不定形」という雑誌に投稿を勧めた。そこに愚生は「林かをる」というペンネームで句を発表した。現在は「豈」同人である堀本吟が、当時の現代詩年鑑に名も見えたる詩人として、詩を発表していた。その頃、愚生はまだ堀本吟に会っていない。愚生が出した黒い表紙の「立命俳句」7号は終刊号のつもりだったが、それを見た久保純夫(鈴木六林男「花曜」に師事)がそれを引き継ぎ、さとう野火、城喜代美らと「戦無派作句集団・獣園」の創刊に繋げて行った。
 その厚見民恭の父・厚見好男も本事典に収載されている。親子で京大関係の出版と印刷を手掛けていたのだ。会社の名を玄文社という(いま思えば「玄」は黒のことだ)。「京大俳句」もそこで印刷されていた。「立命俳句」も破格で作ってくれた。だから、「京大俳句」の上野ちづこも江里昭彦も厚見のオッチャンを通して知っていた。
 オッチャンの父・好男は変り者だったらしいが、彼が関わった『千本組始末記』を書いた柏木隆法も二、三年前に亡くなっている。また、「虚無思想研究」を出していた京大図書館の職員だった大月健も数年前に他界した(本事典の項目執筆者)。
 そうそう、種田山頭火は関東大震災のときに、主義者と疑われて、警察に捕らえられている。とはいえ、れっきとしたアナキストの俳人と言えば、芥川龍之介が絶賛した和田久太郎に指を屈せざるを得ない。獄中自死の際の辞世の句を挙げておこう。

  もろもろの悩みも消ゆる雪の朝   久太郎



2019年6月16日日曜日

中西ひろ美「青胡桃コツンと母に面会(あっ)ってくる」(第6回「ひらく会」)・・



 昨日の雨がまるで嘘のように晴れた本日は、第6回ひらく会(於:府中市市民活動センタープラッツ)だった。いつものメンバーに体調その他で2名欠けたが、いつも通り、雑詠3句出句、選句は一人6点持ち(但し一句の最高点4点まで)の方法で行われた。
 最高点は鈴木純一の円形の句だったが(以下の写真)、選句用紙に記された読み方は、ひとそれぞれで、なかなか面白かった(ブログタイトル句は次点の句)。


           鈴木純一 ↑

 選句用紙に記された、その読みの違いを以下にあげてみよう。

・ひきこもりうたかひよせてはなみの
・うたがひよせてはなみのひきこもり
・きこもりうたかひよせてはなみのひ
・ひきこもりうたかひよせてはなみのひ
・こもりうたかひよせてはなのひきこもりうた
・ひきこもりうたかひよせてはなみのひき

 等々、読者にはどこからでも読めるという、言葉遊びを駆使した、楽しめる句だった。にしては、いくばくの悲哀がこもっているようにも思えた。たぶん回文句を作るよりも作者は苦心惨憺の努力を傾けているのではなかろうか。
 ともあれ、一人一句を以下に挙げておこう。

  蟻塚を蹴散らす四股や夏はじめ      大熊秀夫
  観音堂いまひと息を射干とゆく      渡辺信明
  一門に居り老鶯とほととぎす      中西ひろ美
  薔薇赤き赤き依身も照らす朝     救仁郷由美子
  有明にそっと足差す青鷺かな       成沢洋子
  冷気しきり十字架をのぼる蛇       大井恒行




★閑話休題・・照井三余「日盛りのオスプレイに拳握る」(第五回「ことごと句会」)・・


 昨日、6月15日(土)は、篠突く雨のなか、「夢座」句会改め「ことごと句会」第5回(於;ルノアール談話室区役所裏)だった。ちなみに、この日は樺美智子忌でもあった。出句は三句+席題の一句は「蚊」。ともあれ、以下に一人一句を挙げておきたい。

    (か)きくけこ刺しすせそっと立ちさりぬ   銀 畑二
    薄暑光会えない人と会っている        鴨川らーら
    一匹の蚊に会議室そぞろなり          武藤 幹
    ことごとく水の先まで夏疲れ          照井三余
    蚊柱の向こうに廃墟信長忌           渡邉樹音
    風死んで十秒切りに賭ける筋        たなべきよみ
    飛び濡れて鳥 鳴くを忘れる水無月の      大井恒行
    


2019年6月15日土曜日

伊丹三樹彦「祖母の 母子の 声の溢るる 沙羅の寺」(『俳句納経應聖寺』)・・



 伊丹三樹彦『俳句納経應聖寺』(発行・應聖寺、非売品)、桑谷祐顕「『俳句納経應聖寺』刊行に寄せて」には、

(前略)本書は、言うまでもなく、伊丹先生が度々應聖寺をお訪ねになり、その時々に作られた俳句の集成である。また先生と應聖寺並びに先代住職との永年のご縁を物語る集大成でもある。また、時には、同人や多くの弟子・生徒さんと共に日がな句作に励まれ、度々本堂のご本尊様の前で句会を開催され、ご宝前に奉納された数々の献句集でもある。
(中略)
  我が寺に 迎えに来たよと 仏たち
右は、先代住職佑廣和尚の辞世の句である。平成三年九月、突然、医師から「余命三ヶ月」の宣告を受けてから丸十二年、先代は「仏さんに、まだこっちに来んでええ」と言われたと語り、「人間には自然治癒力がある」などと言いつつ、生に執着することなく、自然体に余命をあるがままに生き抜いた人生だったと思う。その寝たきりの一年余から蘇り、自力で鑿と石槌を握って、「沙羅の寺」門前に、八メートルを超す涅槃仏を刻んだ。頭部と足は石造。胴体は大きなサツキで形成され、四季折々の花を植栽した「涅槃図立体花曼荼羅」を完成させた。
 「三日食べなければ、きれいに死ねる」と、平成十五年五月末日より断食し、その言葉通り、その三日後に逝去し、来迎の仏たちと共に浄土に旅立った。

 と書かれている。應聖寺は、通称「沙羅の寺」と呼ばれている、という。姫路から播州平野を北に20キロ、古代「播磨国風土記」にもその名がある高岡の里に位置している。ともあれ、本集より「追補/新作 平成三十一年四月二十日」の書下ろし句群を主に以下に引用しておきたい(伊丹公子は別)。

  眼中に あふれて煙る 沙羅の村      公 子 
  百千の 句こそが供養 沙羅の寺      三樹彦
  先住の寝仏 石の髭 石の蹠(あうら)
  花の寺は また歌句(かく)の寺 囀れる
  蓮の夢 沙羅の夢 見て 老いて
  沙羅の花 縫うては ついと 宵螢
  亡き妻と歩みしことも 沙羅の寺
  句碑守は妻へ 長子へ 沙羅の寺
  別号は花咲祐廣(はなさかゆうこう) 花の寺
  天上の友に待たれて 沙羅の花
  三途の川ならず 睡蓮の橋渡る
  
  




★閑話休題・・・荻原井泉水「地は寂光の曼陀羅となりし月高し」(「俳句αあるふぁ」夏号)・・・


 仏つながりで、「俳句αあるふぁ」夏号の特集は「俳句と仏教」である。論考は、飯田龍太「愛別離苦」、市堀玉宗「仏道と俳句ー異形衆としての生き方」。採録された俳人は、尾崎放哉・種田山頭火・荻原井泉水・川端茅舎・高岡智照尼・河野静雲・松野自得・森田雷死久・喜谷六花・大谷句仏・名和三幹竹・尾崎迷堂・八幡城太郎・中川宋淵・住宅顕信・大峯あきらの16名。愚生の不勉強で全く知らないでいた俳人もいた。他に、また、伊丹三樹彦が「再会一途」新作10句を発表している。それと、「豈」同人の高山れおなが「夏の扉」新作7句を寄せているので、各一句を以下に挙げておこう。

  初会 再会 偶会 白髪や 老眼鏡   伊丹三樹彦
   「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」展、於京都国立博物館
  数知れず日焼けひじりのうごめく絵   高山れおな



2019年6月14日金曜日

中西碧「弾きおえて残心の指桜桃忌」(第二回浜町句会)・・・



 昨日。13日(木)は、白石正人の地元・第二回浜町句会だった。椎名果歩の送別句会であったが、愚生は、事情あって、二次会は失礼した。参加予定だった鳥居真里子もダブルブッキングとかで欠席された。よって、次回が数か月後、第三回浜町句会として企画されているらしい。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。当日席題は「桜桃忌」。

  闇へ闇クサレタルクサホタルトナル(腐草螢為)  枝 白紙
  恐竜の骨を見てきし青葉かな           福田鬼晶
  梯梧散る明日命令に従はず            白石正人
  梅雨寒や額より高く燭供ふ            椎名果歩
  どくだみやひとりごとさえ出ぬ疲れ        市原みお
  空調の風箱庭を冷やしけり            福田健太
  飛魚や雲の白さの巡視船             三輪 遊
  凌霄花君に返事を出すべきか           中西 碧
  明治座の目の前に出て桜桃忌          亀井千代志
    椎名果歩を送る
  思惟の花寄せて果てまで歩むかな         大井恒行




★閑話休題・・大牧広「妻が来て帰りて泣きしほととぎす」(「港」終刊号より)・・


同誌同号に衣川次郎は、大牧広の第53回蛇笏賞受賞を祝って、

  じつくりと冷酒を上ぐ真夜の卓     次郎

 と詠んでいる。蛇笏賞授賞式に参列は叶わなかったが、大牧広句集『朝の森』の蛇笏賞受賞は、ついに俳句の頂点に立ったと感慨深かったことと思う。同号に角谷昌子は「現実凝視の作家」と題して、

  大牧広は直球勝負の作家だ。暗喩などの修辞法を余り用いず、直叙することで言葉に力を込めようとする。

 と記している。その通りだと思う。

  敗戦の年に案山子は立つてゐたか    広
  背に腹にしかと懐炉や生きてやる
  一誌一代もとより北風の吹くばかり

 大牧広は、また、俳人「九条の会」に尽力していた。愚生を、その呼びかけ人の一人にしたのも彼だった。金子兜太と大牧広の対談(月刊「俳句界」)に立ち会ったことも良い思い出だ。息女の小泉瀬衣子は「大牧広最後の俳句」を寄せて、

 退院してからの父は、まさに鬼気迫る様子で机に向かっていました。ときに机に俯せていることもあり、ベッドで休むことを促しましたが、父にとって「机」は、病からの砦でもあるかのように、少し休んではすぐにまた机に向かう日々でした。

 と記している。平成に始まり、文字通り平成を駆け続けて終った「港」。色々お世話になりました。ご冥福を祈る。

 大牧広(おおまき・ひろし)、去る4月20日逝去。享年88。



  

2019年6月12日水曜日

黒田杏子「花冷えの月花冷えの星けふも」(「藍生」6月号)・・



 「藍生」6月号(藍生俳句会)は「特集『木の椅子』からの出発」でいわば黒田杏子特集である。来月も続くという。今回の黒田杏子特集には、今は無き、当時の「俳句とエッセイ」4月号(牧羊社)からの転載(第6回現代俳句女流賞・第5回現代俳句協会新人賞黒田杏子『木の椅子』)があるが、愚生がまだ三十代の初めの頃、たしかに久々に、これまでにない魅力のある句集だったことを覚えている。その飯田龍太の選評に、

 黒田杏子さんの作品は、決して巧緻精妙とういうのではないが、生得と思われる明るく若々しい感性がのびのびと示され、読後の印象がまことに爽やかである。感性そのものに瞭かな向日性がある。見たもの、感じたものに余分の粉飾をつけないのがいい。あるいは現代俳句の節穴に目を向けないのも、作品の鮮度を生み出すひとつの原因になっているかも知れない。

 と述べている。その黒田杏子に最初に会ったのは、髙柳重信13回忌の富士霊園への貸し切りバスの中だったらしい。いわば旧「俳句評論」系の人たちに混じって彼女がいた。夏石番矢、澤好摩、仁平勝とまだ健在だった攝津幸彦がいて、彼女は、確か宗田安正の隣に腰掛けておられたような気もするが定かではない。先年、黒田杏子にお会いしたとき、「アンタはちょうど真後ろの席で仁平君と一緒にいた」という。愚生は殆ど失念していたのだが、当時は高屋窓秋、三橋敏雄、松崎豊、阿部九鬼男、寺田澄史などがまだ健在だった。
 本号には、坂本宮尾「博報堂時代の黒田杏子先生」、藺草慶子「黒田杏子という俳人」、名取里美「金の沓の君 黒田杏子句集『木の椅子』を読む」、高浦銘子「句座を共にして」など現役の方々と、旧稿の転載として、永六輔「どこにいても似合う人」、『木の椅子』選評の飯田龍太「明るい感性の魅力」、鈴木真砂女「溢れる新鮮味」、野沢節子「感想」、細見綾子「『木の椅子』選評」、森澄雄「闊達と清新と」、瀬戸内寂聴「木の椅子の作者」、神尾久美子「金の沓爽やかにー黒田杏子小論」、古舘曹人「黒田杏子の分析」など、錚錚たるものである。
 本誌「後記」には、

 (前略)現代俳句女流賞と俳人協会新人賞、この二つの賞が同時に天から降ってきたとき、私は四十三歳。博報堂に勤めて二十年。三十歳からスタートしました「日本列島櫻花巡礼」も母と黒田以外誰も知らない単独行。フルタイムの勤め人の生活のリズムの中で、ようやく佳境に入ってきた頃のこと。(中略)表2の贈賞式のパーティでは、かの高柳重信先生に最初で最後の面会。「この賞は価値がある。選者の顔ぶれが貴重」と。さらに「僕の親友ですよ」と詩人の石垣りんさんにもお引き合わせ下さったのです。まことに得がたい一日でした。

 とあった。以下に『木の椅子』からいくつかの句を挙げておこう。

  雪嶺へ身を反らすとき鶴の声      杏子
  きのふよりあしたが恋し青蛍
  暗室に男籠りぬ梅雨の月
  白葱のひかりの棒をいま刻む
  かもめ食堂空色の扉の冬籠
  柚湯そてけふとあしたの間(あはひ)かな





★閑話休題・・三好美津子「蟻踏んで近づく戦没慰霊の碑」(『疾走』)・・

 
黒田杏子つながりで、三好美津子第一句集『疾走』(角川書店)、序文は黒田杏子、それには、

 考えてみると、「藍生」という集団の中では、三好さんは夏井いつきさんやワシントン在住のアピレゲール・フリードマンさんと同世代。六十代に入ったばかりのまさに女ざかり。人生の花の時代を迎えておられる。
 いまや、いつきさんやアピレゲールさんは名実共に天下に突出した存在の俳人であるが、全く無名の一市民である三好美津子の人生とその俳句作品の豊穣さは、天下に名を馳せるこの二人に比して全く勝るとも劣らない。

 とある。集名にちなむ句は、

  百粁先の初富士へ疾走す   美津子

である。著者「あとがき」には、

 (前略)二十余年の句を読み返すと、その時々の感情が蘇ります。いつも傍らに俳句があったことは、私にとって大きな支えとなりました。
 父が亡くなったとき、句が次々と溢れ出て自分でも驚きました。うとましく思っていた父ですが、ひとりの人間として認め、慕っていたことに気づきました。

と、なかなか切ない。ともあれ、集中より、いくつかの句を挙げておこう。

   うとましき哀し愛しき秋の父
   子はみんな踏むひとしきり霜柱
   銀河爆発地球には春一番
   初花と一番星とひかりあふ
   蟬よりもたしかなる数蟬の殻
   紅梅にけさ青空の開けてあり
   父に告ぐる前に消えたるぼたん雪
   嘘ばかり重ね逝かせし父朧
   泣くときはひとりと決めて春の星
   
 三好美津子(みよし・みつこ) 1956年生まれ。


2019年6月10日月曜日

杉阪大和「花言葉なき一生を水中花」(『思郷』)・・



 杉阪大和第二句集『思郷』(北辰社)、表紙装画は杉阪景雲。帯の惹句は伊藤伊那男、それには、

 杉阪大和の人生の背骨ともいえる飛彈の山河への思い、父母への感謝の念は故郷を持つ都会生活者の、いや読者すべての胸を揺り動かすことであろう。
 手放しの望郷の念と、写生で磨きあげた冷静な観察眼とが渾然一体となって俳境を深めている。

 と、記されている。こうした本句集の基調は、著者「あとがき」に、

 私は四方を山に囲まれた奥飛彈に生まれた。昨年久しぶりに生家の裏山に登ってみた。出城があった山で、少年時代の遊びの拠点であった。そこには昔と変わらぬ美しい風景があり、村を一望していたとき、涙があふれてきた。(中略)
 自分は単に山に囲まれた幼年期・少年期を過ごしたのではなく、山々に温かくまた厳しく抱かれて育まれて来たのだと思ったとき、懐かしさだけではなく、この故郷に愛しさと、感謝の気持ちが湧いてきたのである。

 とある。あるいはまた、

 「春耕」では皆川盤水先生に「俳句の骨法と写生」を、棚山波朗先生には「産土の風土詠」を学んだ。「銀漢」では伊藤伊那男主宰に「抒情と俳味」を学んだことで、私の句風の幅が広がったように思う。

 ともあり、これもまた、思えば、幸せな俳句人生というべきだろう。ともあれ、本集よりいくつかの句を以下に挙げておこう。

   日を連れて笹鳴裏に移りけり       大和
   一斉に裏を見せたる真葛原
   寄せ付けぬ間合いを常に孕鹿 
   裏木戸は生簀に続く鮎の宿
   舌に雪受けてふるさと間近にす
   陶片は土に還らず草ひばり
   孤でもなく陣でもなくて春の鴨
   吊るされて衣に出たる花疲
   煽るより叩く男の渋団扇
   初蝶過ぐ色の覚えのなきままに
   音となる前に遠のく初時雨
   子に譲るもの何もなき日向ぼこ
   裏山へただそれだけの帰省かな 


杉阪大和(すぎさか・やまと) 昭和18年、岐阜県吉城郡(現・飛彈市)生まれ。

2019年6月7日金曜日

小川晴子「麦秋や棒一本の国境」(『今日の花』)・・



 小川晴子第三句集『今日の花』(角川書店)、序は岩岡中正、その結びに、

  初刊の色美しき菊日和

 かつて地域が生きのびるために「いのち継ぎ」という言葉があり、私はさらに「ことば継ぎ」ということを言っている。「始めにことばありき」で、ことばは、いのちである。私たちは、ことば継ぎによって生きてきたが、本書も女系三代のことば継ぎの成果である。 
 掲句は、いうまでもなく「今日の花」創刊の自祝の句。

 と述べている。女系三代とは、中村汀女、小川濤美子、小川晴子のことである。また、著者「あとがき」のなかに、

 女系三代の俳句の道を歩むことは、宿命かと感じる昨今です。
 昭和四十五年頃、東京。代田の家の茶の間で、母と私が火鉢で寒餅を焼いていましたところに、祖母がすうっと横に座りました。寒餅を焼きながら、おしゃべりをしていましたら、祖母が言いました。
「お父さんやパパさんには悪いけど、こうやって三人だけで居るのは良いわねー」と。
 私は、その時の祖母の顔と声を今でも忘れられません。俳人として忙しい七十歳代の祖母が安らぐ家庭、家族の存在の大切な事を教えてもらいました。良き友と共に歩む俳句の道です。また家族の支えにも感謝しています。

 と記されている。もとより汀女の「風花」は、その出発がそうであったように、小川濤美子の時代にも圧倒的に女性の俳句雑誌だった。くわえて、高齢化の波も押し寄せているはずである。それでもなお、岩岡中正がいうように「心に響く、質の高い句」を目指して、「風花」を終刊にし、「今日の花」創刊への道筋を選択した小川晴子の未来に期待したいと思う。ともあれ、集中より、愚生好みではあるが、いくつかの句を挙げておきたい。

      江津湖
  母の歩に合はせ旅の日石蕗明り     晴子
     第13回全国女性俳句大会in北九州(門司)
  来年も訪ふを望みて花衣
  満月を窓に収めておきたしや
      母見舞う
  通ひ路に咲き初むる梅命乞ふ
  寒明の明日に染まり波止動く
  橋多き道の曲りや木下闇
  山の湖百年つなぐ揚花火 
     四月二十二日、母濤美子逝く、享年九十三
  ありがたうあなたの娘で夜半の春
  瑞兆や二重の虹の夕富士に
  夏の宮七本杉の八百年
  朝毎の鳥語に目覚め夏木立
  
 小川晴子(おがわ・はるこ) 昭和21年、千葉市生まれ。


2019年6月6日木曜日

阿部青鞋「空蝉やわが国籍は地にあらず」(『青鞋』/阿部青草鞋没後三十年顕彰・「綱」特別号』)・・



  阿部青草鞋没後三十年顕彰「綱」特別号『青鞋』(編集、髙田清子・豊田加代枝、発行人・小川義人、発行所・福島径子)。愚生に贈られた最終ページには限定300とあり、236の番号が手書きされている。貴重な一本、恐縮の至りである。妹尾健太郎の配慮によると思われる。その妹尾健太郎は「阿部青鞋氏の定型観」を執筆している。そこには、

 表現主体がその精神をどこまでも自由にしてこの空っぽな形式にかかるとき、とんでもなく魅力に富む、見たこともない俳句が生じ得るということだろう。

 と述べられている。また、青鞋の息女・中川専子(麗女)は、「歳月人を待たず」に、

 尾谷という所では一軒家を借りて住んだ。当時の引っ越しの荷物の移動手段は馬車によるものであった。そして、ここ尾谷で昭和二十二年の初冬、私は生まれた。

 とあるから、麗女は、愚生より一歳上、攝津幸彦と同齢である。思えば青鞋は愚生らの父親の世代である。そして、

(前略)お世話になった海田へのお礼として、阿部羽音作詞・作曲「海田茶摘音頭」を提供している。昭和三十一年より岡山市・後楽園での茶摘祭には、毎年五月の第三日曜日に、海田地区の皆さんによる茶摘みと踊りが披露され、今年で六十二回目を迎えた。

 という。さらに小川j蝸歩「俳縁奇縁(青鞋さんと不舎先生)」には、「平成七年、第二回『西東三鬼賞』の翌日、『綱』の主宰、白石不舎による企画『阿部青鞋と渡邊白泉の旧跡を訪ねて』と題して、岡山県英田郡美作町で講演がなされた」とあり、

 津山は西東三鬼により俳句の街づくりを始めて久しい。私はここ美作の地が阿部青鞋により俳句の街になる事を夢見ている。私たちはやっと小さな一歩を踏み出した。しかし、これは夢を実現するための大きな一歩かもしれない。

 と結んでいる。本誌20ページの下段には、写真があり、そのキャプションに、「左 阿部青鞋氏 中 清水昇子氏 右 高柳重信氏」とあるが、名前は記されていない。が、昇子と重信の間に見える顔は、若き日の金子兜太であり、重信の右には赤尾兜子が写っている。貴重な写真だ。
 その他、多くの地元の関係者の方の執筆、例えば、右手采遊「阿部青鞋と永田耕衣」には、

 この間柄は、「刎頸の交わり」と言われた程で、俳句にも共通しているものがあり、二人が同じ題材を詠んでいる句がある。
 さびしさや竹の落葉の十文字    青鞋
 竹の葉のさしちがい居る涅槃かな  耕衣
青鞋は、牧師だということもあって、「十文字」に深い精神性を感じる。耕衣の句には、禅宗の境地を窮めようとした人の厳しさを感じる。

と記している。また、遠山陽子は「阿部青鞋と三橋敏雄」のエッセイを寄せている。
 本書、冒頭の永禮宣子「初めの一歩」を引いておこう。

  わが師白石不舎が、生前目標にしていたことに「作州・三俳人の句碑建立」があった。
 三俳人というのは、西東三鬼、安東次男、阿部青鞋のことである。
 三鬼、次男のことは、津山出身の方でもあり、情報に触れる機会も多いが、青鞋についての知識は、第二回西東三鬼賞俳句大会の後で、住居の跡を訪れるまでは白紙同然、その後も不勉強のままであった。(中略)
 その作風は誰にも似ていなくて、俳句は摘みたての魂のように新鮮であった。

 とある。いま、若い俳人たちの間で、青鞋って、誰だ!面白い!と少しずつ人気が出てきているらしい。本書は、地元の方々の熱意が伝わる一書である。ともあれ、以下に収録句のなかからいくつか句を挙げておこう。

   虹自身時間はありと思ひけり      青鞋 
   想像がそつくり一つ棄ててある
   半円をかきおそろしくなりぬ
   日本語はうれしやいろはにほへとち
   おやゆびとひとさしゆびでつまむ涙
   わが前にくるほかはなき冬日差
   コーヒーをのめばコーヒー過去になる
   はじめから葱をぬく手が葱をぬく
   
阿部青鞋(あべ・せいあい)1914年~1989年、享年74.東京都渋谷生まれ。


2019年6月5日水曜日

髙柳篤子「魚も 猫も わたしも 子供も こんど鳥となる」(『髙柳篤子作品集』)・・

 

 岩片仁次編『髙柳篤子作品集』(鬣の会発行、夢幻航海社・夢幻航海文庫、限定500部、1000円・)、内容は、俳句、詩、散文が収められている。その「書信抄+解説風略伝」は岩片仁次。解説に林桂「髙柳篤子ーそのかがやくことば」。その略伝・岩片仁次は、

○本名は山本篤子、はじめは山本緋紗子と称し、ついで山本あつ子、高柳篤子。高柳重信と離婚後、広岡まり。本作品は収録の大部分は、高柳篤子期の稿である。(中略)
○生年は昭和五年。戦後最初の住所は東京都港区青山北町五ノ二四東四。
○平成晩年、八十八歳。病めりけり。
(中略)
▷昭和二十八年六月、婚姻届け出。十一月、蕗子誕生。
▷三十三年、「俳句評論」創刊。発行所・代々木上原、中村苑子方。苑子は明治四十三年生れ、但し大正二年生れと詐称した。重信を求め戸田を徘徊することあり。
▷三十六年、暮夜、篤子、蕗子を連れて高柳家を去る。五月、協議離婚成立(重信、後日離婚は本意に非ずという)。篤子、頼る身内なくしばしば困窮す。
▷三十八年冬、髙柳郁子夫妻(旧姓・千秋 重信媒酌人)の仲介により、蕗子戸田高柳家に戻る、叔母美知子預り、篤子、失意のままニューヨークに去り以後、画架・広岡まり。

 と記している。また、解説の林桂は、

 今回の岩片仁次編著の「書信抄+解説風略伝」で二人の出会いを知ることが出来るが、それがいつのことかはっきりしない。戦後の闇市の橋本夢道、石田波郷の出会いに導かれ、富沢赤黄男を訪ね、その席で高柳重信と出会っている。その時を篤子は、「十六歳の私」と証言している。今回の略歴では昭和五年生まれ(岩片仁次編の『重信表』では昭和六年生まれ)なので、昭和二十一年のこととなる。(昭和六年生まれでは昭和二十二年)。しかし、夢道、波郷の言葉として赤黄男が「詩歌殿という雑誌を出している」ともある。「詩歌殿」は昭和二十三年からの刊行である。(中略)
 この二つを照合すれば、昭和二十三年が有力となろうか。篤子十八歳のときとなる。(中略)
岩片仁次は『重信表』において、篤子を昭和二十六年の「黒弥撒」参加からとしている。重信との関わりではそうなるかもしれないが、その出自は最も若い富沢赤黄男門というべき存在であったろう。(中略)
 今回の略年譜で、篤子は昭和五年生まれとあるので、姉弟と訂正するべきかもしれないが。篤子の喜びも悲しみも、岩片にはほぼ我がことである。岩片は常に篤子の味方である。
 しかし、その根本には、篤子の才能に対する敬意があったであろう。同年代の少女の俳句や詩の言葉が、岩片にどれだけ眩しかったか想像できる。その印象は、今なお岩片の中で生き生きと残っている。それが岩片が本集を纏めるエネルギーとなっている。

 と記している。ともあれ、以下に本集より、いくつかの句と、詩編(フーちゃん「椿」昭和三十一年四月)の末尾を紹介しておこう。
  
  陽があたたまるとさびしがる耳        篤子
  皿あかくメロンの肌のふるへしか
  海つてすごいやわたしより青いや
  空から こぼれるネックレス あたしがさわると雨になる
  ただ ラの音を パンと弾く だんだら縞の鳥が飛ぶ
  「どうだって言うのさ」ドボンと錆びた郵船会社
  次は年寄り、次の次の次に泣くのが あたしの番  

    フーちゃん

(前略)
それから
フ―ちゃんは 世界一みたいな アマンジャクになりました
こういう訳を 年雄ちゃんだって
 小(ちい)ばあちゃまだって しらないでしょう 
だから
みんなは悪い子だ! キツイ子だ! って
一日に 幾度も 叱るのです
(中略)
 フーちゃん
いまに ママ子ちゃんみたいに 大きくなって
オシッコも お靴はくのも ひとりで出来るようになったら
 (中略)
 本当は フーちゃんは アマンジャクぢゃないんですよ!って
 小さな聲で おしえてあげましょうね







★閑話休題・・林桂「多行形式への道程」(「鬣」71号)・・


「鬣の会」林桂つながりで、「鬣」71号の特集は、「第17回 鬣TATEGAMI俳句賞」
の『福田甲子雄全句集』評に深代響「言葉が言葉を渡るとき」を、水野真由美が「鞄の中身ー四ッ谷龍『田中裕明の思い出』」を評している。その他の読みどころは、新資料・高柳重信未発表原稿「コラアジュ」、そして、特別評論として林桂「多行形式への道程」が出色。多行表記の俳句の歴史と考え方をたどると同時に、多行形式とは俳句にとってどのようなものかを緻密に論じている。とはいえ、個人句集として、文字通り多行の俳句を世に問うたのは、髙柳重信『蕗子』の上梓、戦後(昭和25年)まで待たなければ、出現しなかったのである。この意義はかぎりなく大きいだろう。
 また、「転載コラム」には、いまでは忘れ去られている論を掘り起こして掲載している。河東碧梧桐「もう君らの手にはないー現代に与ふる書」(「讀賣新聞」昭和八年四月二十八日」、渡邊白泉「新興季論出でよ」(「天香」第2号・昭和十五年五月)、いずれも貴重である。

る。

2019年6月4日火曜日

野間幸恵「広島を去る階段が終わらない」(『ON THE TABLE』)・・



 野間幸恵第4句集『ON THE TABLE』(TARO冠者)、野間幸恵は、いつも装丁で驚かしてくれているのだが、この度も、文具店で売っているスパイラルノート仕様で、句は横組みである。ローマ字が多いのは、愚生のような者には、英語かな?と思って、ほとんどそこは飛ばしてしまいそうになるのだが、最初のページの「HITOKOTO」には、

 ふだんは「題詠」中心で、決めた言葉を10方向から攻める欲張りトレーニングを少人数の仲間としています。それを纏めたのがこの句集です。
 作品は<>に言葉が入っているものは題詠からの選で、何も書いてないものは雑詠からの選です。どのページもリズムを感じられるように配置しました。
 まず形式があり、見果てぬ言葉の光沢を目指すための韻律を書きたい。

 とある。実にシンプルなものだが、以下に、いくつか挙げておこう。「HITOKOTO」にならって、引用句の題は< >に示した。

 <黒> まず黒いパンとタイムが動き出す       幸恵
 <返> 言い返すプリーツの集中力に
 <歩> 金魚ならポストモダンに歩けない
 <空> 空もよう足せないものと足せるもの
 <悪> ビショップは2分の1の悪夢かな
 <金> 降りしきる金木犀である儒学
 <遠> 遠ざかるアイネクライネ石の舟
 <結> くらやみのけつろんとして油滴天目
 <一> イマジンは空に届かず一位の木
 <草々> 草々や主語は粘着質でよい
 <迷> 帽子など枕詞で迷いけり
 <月> 月の暈ポトフと言えばたどたどし
 <行> 成長が遅い木だから一行詩
 
    行間ははれわたる蝸牛の死
    机・椅子そして由々しき90度
    ガリレオが渉るさみしいページ数
    マザーツリー明日を汲んできなさいと






★閑話休題・・「船団の会は、あと一年間の活動によって完結する」(「船団」121号より)・・・

 昨年、「船団の会」の矢継ぎ早の刊行著作物に対して、本ブログで、閉店前のバーゲンセールのようだ、と呟いたことがあったが、まあ、的中してしまった感じ・・。それでも、坪内稔典らしいと思った。あとがき風の「エンジンルーム」には、125号をもって完結するとあって、

 活動を完結させることについては、いろんな意見が会員の間にある。(中略)この際、船団の会の活動を終え、会員は散在する。『広辞苑』によると、「あちこちに散らばってあること」が散在だ。(中略)
 もっとも散在のかたちはまだ見えていない。船団の会としてはこれからの一年をかけて、散在のかたちを追求する。それはもしかしたら俳句の新しい場の模索になるかもしれない。でも、ともかく新しい局面に会員の個々が立つ。(中略)
 ただし、「船団」という名は使わないようにしたい。船団の会は完結するのだから。

 と記されている。愚生をはじめ、多くの現代俳句を志向した、半世紀昔の若いひとたちは、「船団」創刊時の会員だったことがある人も多い。坪内稔典を応援するためだった。「日時計」から始まって「現代俳句」(南方社)以来、「船団」もまた、梁山泊であった。散在して、闘うのが当然の運命だろう。敗北もなく、勝利ももなく・・・。ただ、俳句とは何か?のための闘いである。「船団」は後期、その意味で、坪内の理想はともかくとして、限りなく主宰誌に近い雑誌になっていた。だから、坪内稔典の一声で完結できる。はたして、行く手について、

 だからこそ、あえて完結したい。完結させることで、もしかしたら新しく見えてくる何か。あるいは出現する何か。その何かにわくわくしたいから。

 と記している。これもまた、希望という病、しかし、その病に、もう一度かかろうか。残りの人生は少ないが・・・。同誌同号より2句を以下に・・。
 
  見つめてもチリメンジャコは知らんぷり   陽山陽子
  問いに問い問い問い生きてチューリップ   坪内稔典