2019年1月31日木曜日

武藤紀子「皓々と十三夜月逝かれたる」(「円座」第48号より)・・


                  祝「圓座」創刊 「一山の鳥一つ木に秋の晴 魚目」↑

 「円座」第48号(円座俳句会)は、武藤紀子の師・宇佐美魚目追悼号である。執筆陣のいずれの筆にもしみじみとさせられる。森川昭連載「新・千代倉家の四季(40)ー芭蕉・西鶴そして宇佐美魚目さん」では、発見された資料の真蹟書翰をめぐる部分の中の日記に、今でいう裏紙をはりあわせてある紙背文書(しはいもんじょ)というのがあって、それが西鶴からの手紙で、それを軸装にすると、片面が失われる事態を生じるので、

 そこで魚目さんにお願いして日記の当該部分を臨写していただき日記帳にはめこむことになりました。私たちは魚目さんがいとも易々と書き写されるのを見て感嘆しました。

 と記されており、書家としての魚目を垣間見せてもらった気がした。その他は、中田剛連載「宇佐美魚目ラビリンス」、中村雅樹「頬落葉、・二宮真弓「訃を聞く夜の時雨けり」、青木亮人連載㉟「刻まれた句、漂う夢ー氷、きさらぎー魚目追悼ー」、関悦史連載㉗「平成の名句集を読むー宇佐美魚目『薪水』-白昼のかくれんぼの鬼」、藤原龍一郎連載⑱「句歌万華鏡ー魚目俳句との交響」、松本邦吉連載㊱「魚目の内なる『魚目』、橋本小たか連載㊷「九尾のインバネス⑥魚目を読む」、高橋睦郎妄選「魚目百句」。その他、同人・会員欄の作品にも魚目追悼句は溢れていた。「百千鳥集」巻頭から5名の方のみになるが以下に一人一句を挙げておきたい(長谷川櫂は別)。

   一生を白露まみれや魚目逝く      長谷川櫂
     空海の
  『風信帖』にしみじみ先生の墨の色    二宮真弓
  セーターの白の面影記憶とす       山田歌子
     悼・宇佐美魚目先生
  みちのくに訃報を聞くも十三夜     白石喜久子
     悼
  鷹渡りぬあとは波音あるばかり     小川もも子
     魚目先生ご逝去
  しぐれ傘持つてゆかれよ彼の世にも   秋山百合子


★閑話休題・・宇佐美魚目「すぐ氷る木賊の前のうすき水」(「俳句」昭和48年5月号より)・・

「俳句」昭和48年5月号(角川書店)は、「特集・期待する作家〈鷹羽狩行・宇佐美魚目〉である。それには、宇佐美魚目「秋収冬蔵(25句)」、エッセイに森澄雄「古典の中に」、論に大峯あきら「白き『時の裸形』」。前掲出「円座」に青木亮人は、私淑した画家・香月泰男との比較で「香月が黒の画家とすれば、魚目は白の俳人といえようか」と述べていたが、大峯あきらもまた、同誌のなかで「魚目氏は現代俳句の中で白を描きうるほとんど唯一の貴重な作家であると、私はおもっている」という。その「宇佐美魚目略歴」に、

 昭和二十年八月十五日のま昼は鹿島灘の波打際にいた。からだ一つがやつとの穴の中から一個中隊の人間の眼が沖の方に吸いつけられていた。武器らしきものは戦車の主砲一門だけであったが弾丸は一発もなかった。いよいよ最期の時が来た。各員、「石ひろえ。」の声で巻き起こつた、かすかなさざめきも、石ころの少ない砂浜のかなしさもすべては遠い昔のように果敢なく、おぼろとしていて、現にあるのは水平線を蔽いつくす夥しい艦船とポケットの中の石の重みだけであつた。空も海もいよいよ青く、波はまつ白に砕けては散つた。しかしそこに在るのものは風景ではなく、箱の形をした空間があるだけであつた。

 たぶん、宇佐美魚目もまた、敗戦に、敵艦を目前にして闘う武器もなく、玉砕を思ったにちがいない、その砂浜での光景は、永遠に描かれることのない「白」のイメージだったと・・・・。
 以下は余談になるが、同誌のもうひとつの特集コーナー「古典と私」で、坪内稔典は「豊かな〈他界〉」と題して、以下のように書いていた。所属は、当時、愚生と同じ赤尾兜子主宰「渦」と記されてあった。

 俳句を書くことは、自己の資性を掘りさげることでもあるが、自己の資性を掘りさげる試みは、いやおうなく時代との軋轢や亀裂を生じる。これは〈表現〉にとって不可避のことであり、例外は本来的にありえない。〈他界〉意識は、こうした軋轢や亀裂を根拠として生じる。

 実に若々しい玉文である。もう46年前のことになってしまった。そして、

 人間存在が,いつも〈他界〉をもち、〈他界〉を含めてこそ人間存在の全体性が言い得る限り、古典は日とともに私の内なるものとして重みを増すだろう。

と結ばれている。好々爺になるには、まだ早い。思えば先般、『月』を上梓した辺見庸と坪内稔典は、たしか同じ齢だったような気がする。



2019年1月30日水曜日

大沢美智子「崩れゆくさまも見せうぞ白牡丹」(『旬日』)・・



 大沢美智子第一集『旬日』(本阿弥書店)、序は能村研三、それには、

  大沢美智子さんの第一句集名を『旬日』とした。

   うちの娘でゐる旬日の雛かな

 旬とは季節のはしりの手頃な時期をいい、旬の食べ物はその頃合いのことをいう。一か月を三分割して初旬・中旬・下旬というように、旬日とは概ね十日間ことをいう。
 あと数日で他家に嫁いでしまう娘との貴重な時間を大切にしながら雛を飾った。「うちの娘でゐる」という表現には親として感慨無量の確かな実感がそこにあった。

 という。また跋文の森岡正作も、集名となった句について、

 (前略)お雛様を飾る期間は大体十日間ぐらいで、その間はお雛様を我が子のように可愛がり、慈しむというのである。お雛さんと遊んだお嬢さんももうお嫁さんになり、お雛さんを見ていると娘さんのようでもあり、その子供時代まで思いが遡ることもあるのである。入門当初からこのような豊かな句を詠む大沢さんの才能を、翔先生は早くから見抜いていたのであろう。

 と率直に述べている。 ともあれ、集中より、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  着せ替へて白涼しけれ黄泉て父    美智子
  髪切つて産み月に入る冬帽子
  シベリアの子が戻り来と白鳥守
    林翔先生ご逝去
  菊凛々今お別れの時止まれ
  囀りの空をみがいてゐたりけり
  冬花火音霊(おとだま)は嶺々駈けめぐり 
  春の月欅の洞にそどきけり
  春愁や壁画の中に棲む鳥も    
  風船葛ふるふるたれが息入るる
  ランドセル放りて魔女やハロウィーン
  美登利信如まぎれをらぬか酉のまち

大沢美智子(おおさわ・みちこ) 昭和15年、東京生まれ。


2019年1月29日火曜日

三橋敏雄「昭和衰へ馬の音する夕かな」(「多摩のあけぼの」N0.129より)・・


             題字は三橋敏雄 ↑

 「多摩のあけぼの」NO.129(東京多摩地区現代俳句協会事務局)の巻頭エッセイは、遠山陽子「阿部青鞋と三橋敏雄ー敏雄の密着癖」である。最近、若い俳人たちのあいだで人気急上昇中らしい阿部青鞋の様子も伺えて興味深い。昭和15年、新興俳句弾圧事件で、俳句を発表することを断念していた三橋敏雄、阿部青草鞋について、文中に、

  (前略)一晩三百句の句会も続けられ、この頃の成果は青鞋の墨書手書きの句集『尺春庵集・上』に収められている。

  淋しさや竹の落葉の十文字    羽音(うおん・青鞋
  白梅の影おとしたる匂かな    雉尾(ちび・敏雄
  春かぜやあまくつめたき菓子一つ 仆兎(ふと・白泉
  逆立つて流れてゆくや彼岸花   吹石(すいせき・昇子
  味噌蔵の前をとびゆく螢かな   母屋(もおく・吐霧
  冬河の遠き流や茨の実      三梅
  暖かやはやての中の紅椿     古柚(こゆう・青柚子

 この手書きの句集を見るだけで、青蛙が非常に面倒見のよい丹念な人であり、カリスマ性を備えた人物だったと判るのである。敏雄は青鞋を深く敬慕し、青鞋も敏雄の才能や人間性を愛した。昭和十七年、敏雄が自宅でささやかな結婚式を挙げたとき、青鞋が仲人をつとめている。

 と記されている。また、

 昭和四十八年、句集『眞神』において敏雄は主題と主峰の見事な転換を見せる。新興俳句の新しさを求める精神と古典の古格を備えた、他に類のない世界を作り出し、世を瞠目させたのである。長かった船上の苦悩が実を結んだのだと言えよう。(中略)
 平成元年六月『畳の上』で蛇笏賞を受賞する。無季俳句作者の始めての蛇笏賞受賞であった。阿部青鞋との出会いも、賞をもたらした大きな力の一つであったと言えよう。その平成元年二月、青鞋は都下東村山市の次女宅で没している。
 
 ともあった。記事中よりそれぞれの句を以下に挙げよう。

  梟の目にいつぱいの月夜かな    青鞋
  雑巾が大きく颱が熄んでゐる
  くさめして我はふたりに分かれけり
  かあかあと飛んでもみたいさくらかな

  たましひのまはりの山の蒼さかな  敏雄
  絶滅のかの狼を連れ歩く
  鈴に入る玉こそよけれ春のくれ


★閑話休題・・訃報あり!髙橋龍氏 死去 1月20日、享年89。・・

 遠山陽子個人誌「弦」にも多く寄稿されていた高橋龍が亡くなられた。北川美美、酒巻英一郎、上田玄などの連絡によると1月20日に死去、親族にて密葬とのことであった。御冥福を祈る。



2019年1月28日月曜日

笠原タカ子「if(イフ)に畏怖大根いっぽん転って」(第146回「豈」東京句会)・・



 昨日、1月27日(日)は、例隔月の最終土曜日ではなく、会場の確保の都合によって、翌日の日曜日になった。ひときわ冷えのまさる一日だった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。

  改元や天仙・地仙・水仙花         早瀬恵子
  狐火のひとつが乗り物めいて来る     吉田香津代
  明日まで冬の旅する忘れ物        小湊こぎく
  ゲバルトやボトルキープの日付あり      猫 翁 
  春を待て黄色い線の内側で         渕上信子
  (えくぼ)ってこんな字なのね久女の忌 笠原タカ子
  薪に芽だった全共闘のかなた       川名つぎお
  枯芙蓉百年死んでいるつもり       羽村美和子
  七草を見分けることもなく粥へ      伊藤左知子
  もがり笛風を結ぶに葉を落とす       大井恒行



★閑話休題・・竹下しづの女「たゞならぬ世に待たれ居て卒業す」(『竹下しづの女』より)・・


 坂本宮尾著『竹下しづの女ー理性と母性の俳人/1887-1951』(藤原書店)。大冊の著書でいまだ読了するに至っていないのだけれど、丹念に資料を掘り起こし、存命だったしづの女の次男・健次郎、三女・淑子にも協力してもらい、これまで明らかになっている資料による事実の齟齬についてもよく言及している。端的に一例を挙げると「しづの女」の本名が、これまでは「静廼(しずの)」とあるとされきたが、「シヅノ」であることを突き止めている。また生年も一年違っているという。従って正しくは1887年(明治20)3月19日であり、生地は福岡県京都郡大字中川(現、行橋市)171番地である。今後、竹下しづの女について書かれる評伝が出てくるとしたら、本著を避けて通ることはできないだろう。

  緑陰や矢を獲てはなる白き的           しづの女
  短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてちまをか)
  


2019年1月27日日曜日

山頭火「伐つては流す木を水に水に木を」(『山頭火俳句集』より)・・・

 

 夏石番矢編『山頭火俳句集』(岩波文庫)、夏石番矢の解説「ー水になりたかった前衛詩人」には、

  (前略)各年ごとの山頭火の俳句は、『山頭火全句集』が句集、雑誌、新聞、日記、書簡などという記録媒体の種類ごとに並べられているのと違って、山頭火による句作の順序を私が推理して配列した。
 この1000句を読むと、山頭火が実際に生きた時間の流れが伝わり、彼の実際の人生体験をベースにしながらもそこに制約されない、彼の思いの流れも味わうことができるだろう。そこで初めて山頭火という俳人の実体をつかめるのではないか。

と記し、その結びには、

 ここで、とりあえずの結論を述べよう。不眠と憂鬱という近代人の苦しみをつねに抱き、酒や睡眠薬によって根本的には救済されず、最も斬新で最も短い短詩=俳句を作りながら、旅をして水になりたいと願ったのが、種田山頭火という男であった。
 またこうも言える。視野を海外にも広げれば、種田山頭火は、二十世紀前半の世界の前衛詩人の主峰をなす一人だと。

 述べている。そしてまた本文庫には、句作品のほかに重要と思われる日記、随筆、略年譜も収められ、従来、喧伝されてきた境涯を主とする山頭火像とは違う、新たな詩論家の面をも見せている山頭火に出会うことが出来る。例えば、昭和10年4月4日の日記の最後には、

□感覚(・・)なくして芸術ー少なくとも俳句は生れない。
□俳人が道学的(・・・)なった時が月並的(・・・)になった時である。

 また、随筆「最近の感想」の中には、

 季題論が繰り返される毎に、私は一味の寂しさを感じないでは居られない。ただ季題という概念肯定のためにーむしろ季題という言葉の存在のために、多くの議論が浪費されつつあるではないか。もしも季題というものが俳句の根本要素であるならば、季題研究は全然因襲的雰囲気から脱離して、更に根本的に取り扱われなければならない。
 私は季題論を読むとき、季題(・・)という言葉よりも自然(・・)という言葉を使用する方がより多く妥当であり適切であると思う。

 という。愚生の遠い記憶だが、故郷山口・湯田温泉にあった句碑には、

  ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯   山頭火

 とあったように思う。



★閑話休題・・古田嘉彦「今朝は壁に塗り込められた鰐がずっと寒い」(「吟遊」第81号より)・・


 山頭火つながりで、「吟遊」第81号(吟遊社)に、夏石番矢篇『山頭火俳句集』の書評を鈴木光影「溶けてゆく形式と内容」、古田嘉彦「岩波文庫『山頭火俳句集』を読む」が掲載されている。その古田嘉彦評の冒頭に、

 この選集の画期的なところは、まず夏石番矢の「解説ー水になりたかった前衛詩人」で世界俳句の中において山頭火を位置付けたことだろう。外国人の俳人と話をしていて山頭火の作品への称賛を聞くと、山頭火は世界で共有されうるのだと納得する。私は自由律というよりは、安部完市が晩年唱えた「不定形」という言葉を使いたいのであるが、不定形の俳句は日本より海外で三行、あるいは一行の短詩として広まっているのではないか。

 とまっとうに述べている。「不定形」という言葉で思い出すのは、愚生がかつて十代の終り、京都にいた頃、「集団 不定形」という雑誌に、ペンネーム(俳号)で句作品を発表していた。その雑誌には、愚生より先輩格として堀本吟が詩を書いていた(当時の「現代詩年鑑」には堀本吟の名があった)。ともあれ、「吟遊」本誌より山頭火の句を以下に孫引きしておこう。

 雪、雪、雪の一人     山頭火
 闇が空腹 
 たんぽぽのちりこむばかり誰もこない
 食べるもの食べきつたかなかな
 憂鬱を湯にとかさう
 ことしもおはりの憂鬱のひげを剃る
 こんなにうまい水があふれてゐる
  
  

2019年1月26日土曜日

打田峨者ん「日や月や儀や名づけ得ぬ雪の味」(『夜航樹』)・・

 


 打田峨者ん第6句集『夜航樹』(書肆山田)、『光速樹』(2014年)以後、『楡時間』(2015年)、『有翼樹』(2016年)、『骨時間』(2017年)と毎年句集をいずれも書肆山田から刊行してきた。俳壇とは全く無縁にして、俳歴は30年を超える。自らを俳諧者、アンフォルメル俳画者と名のっている。「あとがき」とおぼしき「私記」のⅠに、

  本書『夜航樹』の総句数は二七〇句ー各組曲扉裏の題辞句、及び巻頭・巻末に置いた”さきぶれ句・なごり句”を含む。

 とある。さらにⅡ「俳話のごとく」には、

 ―俳句は良し悪しでも、好き嫌いでも、又、解る解らぬでもない。這入れるかvs這入れないかである。当の作者に固有の句柄・詠風になじみ親しむ前に、さらにはその俳論・俳話の類に精しく分け入る前に、出会いは殆どだしぬけに、アポなしで、向うから訪れる。有無を言わさず亀裂の如き開孔部に吸い込まれてしまう。そんな打座即刻の会遇こそ、俳諧的”出会い頭(がしら)のポエジァ”の妙とも思われて・・・

 とある。そしてまた、「私記」の前の各章題である「無意識ん」「N・A・F・S・H」「余白に献ず reMix」「砂の異聞」「北ホテル 新館」「日や月や」には詳細な自註が付されてある。なかでも「余白に献ず reMix」は、第4回攝津幸彦記念賞「優秀賞」の増補版である。先般、昨年の「豈」忘年句会には静岡・わたなべ柊を介しての句会初参加、句会デビューであったという。
 ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておきたい。

    「オレ」は少女で「自分」は少年 生姜市
   「だぜ」てふ語尾護持せり月の少女団
    かつては我が家に一猫あり。名はタケ(竹)。
    我がえと(・・)の寅なるがゆゑなり。
   枯嵐 あぐらは猫(タケ)のねこちぐら 
   帰路になほ油紋の五彩 麦の雨
   猫舌の火食の猿や初松魚
   戦争は人間が好き 木の実降る
    恩地孝四郎 頌
   蓑虫はクルスより垂れ月に吠ゆ 
   千の裏窓 カーテン東風(コチ)を孕(ハラ)みたる 
   見せ消ちの一語ぞしるき桜闇
   辻順(ママ)荷風を襲ひ夜の虹
     2016年春
   蓑虫にもセシウム事案 風半球
     2015年、正月五日
   てづくねの虚(ウツ)ろの量(カサ)や初織部
   鉄棘線(バラセン)のここなるほつれ 花の奥

打田峨者ん(うちだ・がしゃん) 1950年、東京小金井生まれ。




★閑話休題・・福田若之「ここに句がある」(「東京新聞」1・19夕刊・俳句時評)・・


  東京新聞夕刊の本年の俳句時評担当は福田若之らしい。昨年は佐藤文香だった。本時評「人間と動物のあいだ」(1月19日・土)に、

 小澤實は中沢新一との共著『俳句の海に潜る』(KADOKAWA)のなかで林翔の《鷹が眼を見張る山河の透き徹る》という句について「この句を詠んでいる時に作者は鷹(たか)になっています」と述べている。俳句は通常と異なる知覚をもたらすがゆえに世界を認識する方法として最前線のものだというのだ。だが、ひとがときに一句を介して他の動物になることがあり、それがときに何か興味深い認識をもたらすことがあるとしても、そうなり果てることを俳句の読み書きが到達すべき究極のありようとみなすことはできない。上に見た二句の持ち味は、人間の動物化ではなく、むしろひとがそれらを読み書きしながら人間と動物のあいだで揺さぶられる、その震えにこそある。肝心なのは、この〈あいだ〉の意識なのだ。

 と評している。文中の「上に見た二句」とはの、もう一句は月岡草飛《寒鴉とこよの風に未練かな》(松浦寿輝の小説の登場人物)。本時評の結びは、

 宇多喜代子の句集『森へ』(青磁社)には、《羚羊がいるこれ以上近づけぬ》という句がある。一句は、羚羊(かもしか)への安易な歩み寄りを阻(こば)む決定的な隔たりの意識によって、〈人間と動物のあいだ〉ということの経験を教えてくれている。

 と、述べられている。

2019年1月25日金曜日

白戸昌夫「セシウムや縁は異なもの筍に」(『青田』)・・



白戸昌夫第一句集『青田』(文學の森)、集名に因む句は、

  生き方を問はれて眺む青田かな    昌夫

である。他に類似の句が、
 
  にはとりの声滑り行く青田道

がある。序文は大牧広。その中で、

  秘密保護法山河の冷えし深き霧

 この法律の点について細かく云々しないが、「知らせない」「聞かせない」「言わせない」の七十年前の戦前の空気をそのまま移し替えたものだが、こうした重苦しい法律を、そのまま「深き傷」と措辞した作者の、むしろ、デリケートな気持に深い共感を持つ。
 この句から私は『夜と霧』の、あの鉄格子を思わずにはいられなくなる。

 と記している。また、著者「あとがき」には、

(前略)私のやっている農業は零細で業として成り立たないという厳しさ、後継者がいないという切実な問題はありますが、祖父母の時代からの農業です。細やかながら国の農業を支える一人としてやっていきたいと思っています。
 句集『青田』には農業に関わる句が多くありますが、これからも農業人の視点から俳句の言葉を紡いで精進したいと思っております。

 とある。加えて、師の大牧広の言「俳句は趣味でもあるが、それを貫くところに生きた証につながる文学としての俳句がある」(中略)「私によってこの『生きた証』という言葉は非常に重く、他には俳句をする意味を見出せません。それ程、強烈な動機付けになっております」という。ともあれ、集中よりいくつかの句を挙げておこう。

  ポケットに吉だけ貰ふ初詣
  放射能あまねく降りて文化の日
  鮎食べる母は幸せ測るかに
  吾亦紅出会ひし妣は老けをりて
  除染せし限界村も新暦
  積極的平和を形にすれば蟻地獄
  田まはりのぐるりと田水回しけり
  菊月の生者るいるい無言館
  黄砂降る孔子の徳とPM2・5
  毟りても毟りてもなほ草むしり
  非正規の農夫で生きて暮の秋
  
白土昌夫(しらと・まさお) 1952年,茨城県笠間市生まれ。


2019年1月24日木曜日

小林一茶「亡母(なきはは)や海見る度に見る度に」(「俳句界」2月号より)・・



 「俳句界」2月号(文學の森)、金子兜太(昨年2月20日死去)の一周忌に合わせるように、特集は「兜太と一茶」。丁寧な論考は安西篤「金子兜太は一茶に何を求めたのか」、それには、兜太と一茶の句を具体的に上げて、

 こう見てくると、両者に体質的共感はあるものの、そこには時代状況の差があることはいつわれない。一茶の方が対象への眼が細かく客観的なのに対し、兜太の方は己の体感に即して自己の存在を強く意識しているところがあり、それほど素朴とはいえない。近代的自意識を潜り抜けて来たエゴの強さがあるからだ。

 という。さらに結びでは、

 兜太は「生きもの感覚」で書くことを「生きもの風詠」ともいい、「花鳥諷詠」を超える時代の方向性と位置づけている。さらに生きものすべてのいのちは、かたちは変わっても輪廻して不滅であると信ずるともいう。生死ということ自体あまり気にせず、これも一つの日常と受け止めていく。つまり死をも相対化しているのだ。辞世の場合でも、日常のいのちを詠うような構えが必要で、相手に向かって詠いきるという「ふたりごころ」ともいうべき表現であるべきだとしている。これは一茶が体感しつつも、自覚しえなかった死生観ではないだろうか。

 と述べて、説得力がある。他に、黒田杏子「兜太さんはピカソ」、マブソン青眼「自由と慈愛」、坪内稔典「初雪を煮る老人たち」、井上泰至「山峡の人」、小林貴子「苦難を糧に」、関悦史「兜太句の律動」など、それぞれ自らに引き寄せて、興味ある論じ方をしている。また一茶・兜太の各50句抄出は鳥居真里子。その選の句をみると、愚生は一茶をまともにまじめに読んだことがないせいか、一茶の句には、意外に古典的な新しさがあるようにもおもった。
 同誌今号の「私の一冊」コーナーは秋尾敏、水原秋櫻子著『高濱虚子 並に周囲の作者たち』だった。近作の一句に、

   客観に主観は並び寒い書架     秋尾 敏

 とあり、あとの一冊に安部筲人『俳句ー四合目からの出発』を上げていたのには、愚生もまた俳句初学の頃、俳句表現におけるダメ出し筲人の、その書に影響されていたことがあり、いまだにその影響が残っているところがある。ともあれ、以下に一茶と兜太の句を鳥居真里子抄出句の中から、いくつか挙げておこう。

  わかなつみわかなつみつみ誰やおもふ  一茶
  春の日や水さへあれば暮残り
  雲に鳥人間海にあそぶ日ぞ  
  とうふ屋が来る昼貌が咲にけり
  あの月をとつてくれろと泣子哉
  蜩やついつい星の出るやうに

  蛾のまなこ赤光なれば海を恋う     兜太
  人体冷えて東北白い花盛り
  呼吸とはこんなに蜩を吸うことです
  燕帰るわたしも帰る並(な)みの家
  よく眠る夢の枯野が青むまで
  陽の柔わら歩ききれない遠い家


 そうそう、あと一つ触れておきたい記事があった。坂口昌弘の連載17「秀句のテーマ・色」の高屋窓秋についての部分だ。「白」の言葉を配した6句をあげて、

 高屋窓秋は白の詩人である。句の「白」は、透明感のある白さであり、心に浮かんだ想像の風景である。白い夏野のイメージがとりにくく、むしろ具体的なイメージが拒否されているところに新しさがある。(中略)
 窓秋の白い夏野は月並み写生のイメージではなく無限に広がる魂の中の白い夏野のイメージである。(中略)白色はこの世を超えたものの色であった。句に詠まれた白虎は、道教の四神の一つであり、中国・朝鮮・日本の古墳に描かれた神である。東西南北と春夏秋冬と青朱白黒の、方角と四季と色が陰陽五行説の神の信仰にまとめられた影響を古代日本文化が受け、俳句も例外ではない。窓秋の白色へのこだわりは潜在意識的には東洋思想の中にある。
 
 窓秋の句について、かく語った人はこれまでいなかった。



2019年1月23日水曜日

永田耕衣「コーヒー店永遠に在り秋の雨」(「らん」第84号より)・・・



「らん」第85号(らんの会)、特集は「岡田一実第三句集『記憶における沼とその在処』を読む」。同誌中に「永田耕衣を英訳する」(連載第二回ー『殺佛』『殺祖』)がある。選句と英訳は鳴戸奈菜&M・M/解説M・Mとある。それには、

 前号に引き続き、耕衣の英訳の試みである。鳴戸奈菜さんと南柏のカフェラナイで、金子晋編『続耕衣百句』を読みながらああでもないこうでもないと議論するのがいつも楽しみだ。まず『殺佛』から五句。

 と緒言が記されてある。例えば冒頭の句は、

  晩年や狭庭を踏むも天揺るる
  late in life:one step in a tiny garden
                           and the whole world shakes 
                               (愚生注*「l」は大きく書かれているが「L」ではない)

  日本の小説を英訳すると短くなる傾向があるが、俳句の場合、英訳でやたらと長くなる句もある。(中略)例えば「天」よりthe whole worldはかなり長い。天だからheavenあるいはthe heavensにする手もあったが、そうするとキリスト教臭くなる。それに耕衣が揺らすのは空でなく地上だろうと奈菜さんが言うので、結局「全世界」が揺れている句となった

 と、面白く読ませてくれる。あと一つ、皆川燈連載「雨の樹のほうへ46 清水径子の俳句宇宙」の冒頭に、

 昨年十一月に、詩人の秋山清を偲ぶ〈コスモス忌〉に参加した。毎年様々な講師を招いて詩歌や文学をめぐる貴重な講演が行われてきたが、第三十回のこの日の講演は原満三寿氏の「俳人・金子兜太の戦争だった。

 とあって、かつて三十年近く?前になるであろうか。渋谷の多賀芳子宅で、多賀芳子に「バカオオイはウチに来なさい」と言われて、当時、「海程」が兜太の主宰誌になったのを機に退会、谷佳紀と「ゴリラ」を発行していた原満三寿、また森田緑郎、小泉飛鳥雄、渋川京子、吉浜青湖、先日亡くなった谷佳紀などとの句座を(いつも一升瓶を持参していた原満三寿)を思い出したのだった(鳴戸奈菜句集の勉強会もそこであった)。そしてまた秋山清の長子・秋山雁太郎が当該の一人だった教育社闘争の現場を思い出したのだった(雁太郎氏は元気だろうか・・)。
 ともあれ、同誌より以下に一人一句をあげておこう。

   夜長に千回お辞儀し名刺と化す      M・M
   天までの螺旋階段時雨けり      嵯峨根鈴子
   原爆ドームは螇蚸の大きな目玉である  山口ち加
   梟を肩にあたまは愛撫せず       矢田 鏃
   国家とは工事現場か冬の暮      もてきまり
   老い方が足りぬしろばなさるすべり   皆川 燈
   みそかごと小悪魔が来る吊し柿     三池 泉
   端麗な葱居酒屋にやすらえる      藤田守啓
   残る虫強き声音の一つ立て       服部瑠璃
   抽斗の奥に抽斗冬すみれ        西谷裕子
   我は吾と遊びて満足秋夕焼け      鳴戸奈菜
   唐突に雌鹿の夜となつてをり       月 犬
   少年はまだ夢のなかきりぎりす     関根順子
   だつたら生きろよ息白いだろうが     水 天
   一歳と七十五歳に正月が来た      清水春乃
   あの頃はあの頃として年新た      柴田獨鬼
   枯れ尾花しなやかに揺れ軽やかに骨  佐藤すずこ
   ボリビアの移民の列に冬来たる     久保 妙
   カタカナとさびれた釘と枯蟷螂    片山タケ子
   菊吸や茎に微塵のひかり入れ      岡田一実
   須佐之男がラセララセラをにらみけり  海上直士
   影の影の影から入る本当の琴柱     五十嵐進
   旅果ててリュックにしまう冬の沼    結城 万 



          撮影・葛城綾呂 寒中のセージ↑

2019年1月22日火曜日

金丸和代「ソフトバンクアコムユニクロガスト冬」(『半裸の木』)・・



 金丸和代第一句集『半裸の木』(朔出版)、序は今井聖、その中に、「まさしく正統派写生句と言っていい」と述べた後で、

 和代さんの句を読んでいくと、なんでもないものの形や風景が実に新鮮な様相をもって見えて来る。そしてその様相に驚いた後、実はその様相は、見える角度や虚飾の無い現実をそのまま(・・・・)写し取ったのだと解って来る。意匠を凝らした表現ではなく、むしろこれまでの俳句的情緒と技術を盛った意匠を剥ぎ取った後に現われてくる生々(なまなま)しいひりひりする「現在」だ。(中略)
 現在只今を凝視しながら「写生」の意味を問い返す。
 金丸和代は「街」という文学運動の橋頭堡だ。

と、言挙げしている。集名に因む句は、

   デモ隊と十一月の半裸の木     和代 

 である。そして著者「あとがき」には、

 一つの物をさまざまな角度から見る、流さず深める、わがままで良い、皆と同じであることに安住しない、いつもまっさらな目を持つ。どれも私が「街」の中で学んできたことです。

 という。ともあれ、集中よりいくつかの句を挙げておこう。

   鼻歌はインターナショナル昼の月
   夏の湾「集会するな餌やるな」
   耳の日とある雛の日の掲示板
   木に登り人でなくなる春の夢
   コンクリート渡る毛虫の全筋力
   冬ざるるカートに増ゆる雑多な国
   孕み猫紐がすうりきれさうに鳴く
   屋上より見る屋上の花芒
   鶏頭の襞の硬さは劣等感
   管理組合鵯の集まる木を切りぬ

 金丸和代(かなまる・かずよ) 1943年、高知県生まれ。 



★閑話休題・・各務麗至「朝日吹く風」(「戛戛」第112号・第三次詭激時代通巻第156号・詭激時代社刊)・・


各務麗至は、かつて、二昔以上は前のこと、三橋敏雄監修「ローム」に句作品を発表していた。また、自らは個人誌「詭激時代」を編集発行していた。その「詭激時代」は、近く創刊55周年になるという。「各務麗至定本版精選集 増補全15巻」も刊行準備中であるとある。紹介文に、

 正字体旧字と/歴史的仮名遣いに耽溺した青春/の豊饒。/言葉の豊饒が茲にある。
「反時代的なほどに一貫して芸術至上主義的/志向をくずさず、/端正な文章をつづって・・・大河内昭爾」

 と、原稿用紙にして約100枚少しの短編小説「朝日の吹く風」の在り様をも語ってくれている本著の菜月は、その名前を父が蕪村の有名な句からつけたと聞かされているが、その菜月と交通事故にあって半身に障害をもった大地とのすずやかな物語である。「あとがき」には

 先号の「草子抄」は五年前の作品「セピア」だと記したが、今号「朝日吹く風」はそれより三年古い作品「明日がきて」である。(中略)
 冊子編集や単行本や全集といろいろ試みていたことがはからずも文章修業や人間風景に思いをめぐらす勉強にでもなったような気がして、
 人事といわず、日常といわず、何事も疎かにすることなく恙なく全てに最善を尽くすべく心がけて立ち向かってきたように思う。それというのも、
 他人はわからなくても私は私が知りたくて私の未知と闘っていたのかも知れない。

 と、人生にじつに誠実であるところは自ずと小説にも反映されているように思える。



      撮影・葛城綾呂 1月20日、残念・ダイヤモンド富士↑

2019年1月21日月曜日

石山ヨシエ「漆黒の水に刺さりし冬薔薇」(『自註現代俳句シリーズ・石山ヨシエ集』)・・・



 『自註現代俳句シリーズ・石山ヨシエ集』(俳人協会)、本著は、石山ヨシエ自選100句にそれぞれ短い自句自解を自註とした体裁をとっている。略歴によると、「沖」を経て「門」創刊に参加されいるので、自ずと師との対話というか、故人となってからは、追慕の念が顕著であるが、おおむね直接的に句に描かれていないのも多く、自註を読むことによって、その背景がわかる。例えば(本書では作品は総ルビだが略した)、

   哀しびの押し寄せてゐる梨の花     平成二五年作

 四月十日ご逝去された鈴木鷹夫先生。折しも咲き満ちた白い梨の花が哀しみを象徴するかのようだった。同時作に〈逝く人に白きはまれり梨の花〉。

 とある。また、

   四十九に足す初蝶の白さかな      平成九年昨
 
 五十歳を前に初心に返りたかった。その時、六十九歳だった鈴木鷹夫主宰は「僕は一体何を足せばいいのだろうか」と。

 あるいは、

  月もまた夜桜に添ふ上野かな      平成二十六年作

 「門」の全国大会が上野の「精養軒」で行われた。帰りに夜桜を眺めながら坂を下る。確か満月だったと思う。月が鷹夫先生に思えた。

 という具合である。ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。

  階段の梅雨のせゐではなき暗さ
  神在りの不老橋ゆく手ぶらなり
  大氷柱虛の中にして育ちけり
  中空の春まだ浅し鳥雫
  晴天や胸で切りたる蜘蛛の糸
  明滅のやがて螢の木となりぬ
  初凪やまことの形を草も木も
  八月の雲なき空を怖れけり
  湖底いま銀杏黄葉のはなやぎに
  
石山ヨシエ(いしやま・よしえ) 1948年、鳥取県生まれ。


          撮影・葛城綾呂 白梅↑

2019年1月20日日曜日

中井洋子「国旗掲揚の当番亀鳴けり」(『囀の器』)・・・

 

 中井洋子第二句集『囀の器』(ふらんす堂)、集名の由来は、

    囀がまるい器になつてゐる      洋子

 の句に拠っている。跋は高野ムツオ「その詩魂のありか」。その句を抽いた文中に、

   シリウスに耳がもつとも繋がりぬ

 冬空のシリウスを見つめながら、シリウスと会話しているという句である。「繋がりぬ」が見えない糸電話を想像させる。シリウスは地球に近い恒星で光度もおおきく全天でもっとも輝く星の一つだ。それでも距離は約八・六光年。想像を超える遠さだ。その星と直接繋がっていると断定する大胆さ。そう納得させてしまう力技と方法が中井洋子なのである。言葉を五七五の空間に自分の感覚のみを頼りにできるだけ遠方へと放つ。その言葉と互いに引っ張り合う。その緊張感の中に新しい世界を創造する。

 と、記してたたえている。先師・佐藤鬼房を悼み、想いをはせる句も多い。

    鬼房逝師く
  三寸の麦へ還りしベレー帽
  拳もて袖通すなり鬼房忌
  鉄骨に透けし一山鬼房忌
  外套の鬼房尋ね来る夜明
  
 他にも悼み、惜しむ句がる。

    よし宏師逝く
  旅立ちのめがねに憩ふ青葉光
  薄暮光田中哲也と見し魚道  

 ともあれ、集中よりいくつか愚生好みの句を挙げておきたい。

  綿虫はこの世のところどころ飛ぶ
  わが齢にわが身近づく水蜜桃
  そこまでとそこまでと狐火進む
  父の闇いま我の闇菊咲きぬ
  春のそらより降りてきし乳母車
  白鳥のゐぬとも言へず蔵の中
  大芋虫この世の声を出してみよ
  螢火のひよわを支ふほたるの火
  いくさごの飢えのかたまり大西日
  我も鼬も寝入る呼吸になつてゐる

 中井洋子(なかい・ようこ) 1941年、栃木県生まれ。 



          撮影・葛城綾呂↑

2019年1月19日土曜日

石川耕治「娘(こ)は去りて乙女椿の残りけり」(第187回遊句会)・・・


       「俳句倶楽部」(1990年12月号・福武書店)↑

 一昨日1月17日(木)は第187回遊句会(於:たい乃家)だった。兼題は椿・初笑い・目刺し・当季雑詠。句会場のスナップを撮り忘れてしまったので、先日倉庫より偶然に発見した(愚生は忘却の彼方・・)「俳句倶楽部」(1990年12月号・福武書店)の「現代俳句の最前線」のコーナーで、かたや森澄雄・・で見開きページに載っていたものを自慢?に写真に撮ったものを掲載しておきたい(要するに自己宣伝です・・)。
以下に一人一句を挙げておこう。

   目刺焼く二丁目のバー宵の口           石原友夫
   羽音たて落ちてなほ咲く椿かな          加藤智也
   寄席盛(よせさか)る憂(う)き世逃れて初笑ひ  川島紘一 
   北国へ椿運びし海の道              渡辺 保
   満願の皺や白寿の初笑い            中山よしこ
   みくじ”凶”顔見合わせて初笑い          前田勝己
   逝く時はコロリがいいね椿花           天畠良光
   風に押されし椿吸い込む海の碧         山口美々子
   老猫のよだれ我身や初笑い            石川耕治
   初笑い柴の仔犬の耳笑う            植松隆一郎
   昭和とは土光敏夫の目刺かな           村上直樹
   笑いにもランクがあって初笑い         原島なほみ
   めざし焼くのれんの奥の中国人         春風亭昇吉
   落椿三島由紀夫の首のごと            武藤 幹
   現場から落ちた椿の画像来る           山田浩明 
   50回目の初笑い認知症             林 桂子
   目刺し焼けば移る炎や姉夫婦           大井恒行

次回は2月21日(木)、兼題は春の雪・浅蜊・チューリップ・当季雑詠。



     撮影・渡辺保、広島平和公園にある原民喜の詩碑↑

★閑話休題・・原民喜「戦慄のかくも静けき若楓」(『原民喜』より)・・


 梯久美子著『原民喜』(岩波新書)、本書の中に、

 千葉時代の原は小説のかたわら、精力的に句作を行った。(中略)「原杞憂」という俳号で投句を始めた。同誌(愚生・註、宇多零雨「草茎」)への投句は一九三八(昭和十三)四月までがだ、句作自体はその後も続けている。

と記されている。また、「戦慄の・・」の句は、原爆を連想させるが、「昭和二十年の初夏、疎開先の岩手県で義弟の佐々木基一が受け取った葉書」(同書)に書かれていたものである、という。上掲の詩碑の写真は、遊句会の渡辺保が帰広した折りに撮ったといい、「もともとこの詩碑は、広島城の旧陸軍第5師団跡の近くに建てられていたのですが、いたずらで、くずおれていたのを、遠藤周作ら友人たちの尽力によって、いまの場所に再建されたのです」と便りにしたためられていた。




2019年1月18日金曜日

谷佳紀「愛は消えてもそこはまぁ紅葉です」(「つぐみ」1月号より)・・



 「つぐみ」1月号(編集発行・津波古江津)、先に谷佳紀の訃報に接したと言ったが、「つぐみ」今号に、文字通り遺稿となった俳句と花谷清句集『球殻』の句集評「句集眼鏡(5)」が掲載されている。その評文のなかに、

 「上手い」とここで言うとき、言葉の扱いに慣れている故の、心情や体感の薄さを思いつつも褒めざるをえないような作品、表面はキラキラ輝きお化粧上手だが、作者の気持ちの動きがはっきりしない表現を指すのだが、それとは逆で、意識とか眼という知の働かせかたに集中し、言葉をそれらと明確につなげようという思いの強さを感じた。

と真っ当に論じている。また、今号「編集後記」には、

 「つぐみ」の仲間としてともに研鑽し、俳句の大先輩として尊敬もし頼りにもしてきた谷佳紀が突然他界したことをこの新年号でお知らせするのは痛恨の極みとしか言いようがない。言葉を失っている。
 今号の〈俳句&エッセイ〉と5回目となる〈句集眼鏡〉が遺稿になってしまった。「もう僕には書くことがないよ」と口癖のように言いながら「つぐみ」への協力を惜しまなかった彼の言葉が耳元を離れない。

 と哀悼が記されてあった。愚生は若き日、縁あって渋谷のオニババこと多賀芳子宅での句会で数年間一緒にさせてもらった。当時から谷佳紀調とでもいうのか、独自の文体をもって俳句を作っておられた。ご冥福を祈る。愚生が「つぐみ」今号の「俳句交流」に「つぐみに捧ぐ」折句7句を寄稿させてもらったのも不思議な縁というべきか。ともあれ、以下に一人一句と愚生の駄句を・・

  象眠る象舎に蒼き冬灯          渡辺テル
  羊雲ベルマートはKiOSKは隣      わたなべ柊
        壁ノ女 褪セテ敗レテ 咳ヲシテ     渡 七八 
  しゃこばさぼてん不合格なら尚よろしい  有田莉多
  冴返るトロイの木馬吾を囲み       安藤 靖
  新年へ太陽一気にかけ昇る        伊那 宏
  漆黒の皮手袋の細き文字         井上広美
  越後路の静かに暮れて穭かな       鬼形瑞枝
  この世の落ち葉こぶしの置き所    小ノ寺いさむ   
  足音も姿も消える枯木山      楽樹(がくじゅ)
  紅葉に隠れ石は石のままの夕焼       谷佳紀(遺稿)
  逝く年のごうごう風の音がする      津野丘陽
  どこからが死かさざんかさざんか    津波古江津
  裸木をなぞる空が生まれる       夏目るんり
  藜群れ恋猫横丁滅びけり         西野洋司
  冬のしゃぼん玉異形細胞ひそむ      蓮沼明子
  榠櫨の実奇妙な時間だと思う       平田 薫
  新生の壮気ただよふ老いの春       藤原夢幻
  カップコーヒー手に女の冬日かな     八田堀京
  飛び出した赤い固まり冬の山      らふ亜沙弥
  美(み)ひとつのつぐのう鳥をつぐりたる 大井恒行




★閑話休題・・「Toriino(トリーノ)」(日本野鳥の会)冬号・・・


「トリーノ」(日本野鳥の会)という季刊雑誌がある。一流の写真家の写真や著名人のエッセイが魅力。「ビジュアルフリーマガジン」とあって、愚生は府中中央図書館に行ったときにいただいている。今号の「自然が織りなす4つの楽章」の写真は入江泰吉、植田正治、川田喜久治、藤原新也、星野道夫。対談は佐治晴夫×柳生博。季節の野鳥(冬)はオシドリであった。
 

2019年1月16日水曜日

大本義幸「くれるなら木沓がほしい水平線」((北の句会報別冊「大本義幸追悼資料」より)・・・



「木靴(きぐつ)」(「北の句会報別冊・大本義幸追悼資料)、これをまとめたのは丸山巧で、「北の句会 報告」の冊子と同じく丸山巧の手作りである。内容は、2003(平成15)年12月7日句会(句会報では6号)から、昨年5月30日句会(92号)までの全投句115句を収載(これ以外に前身の「豈関西句会」、冊子に載っていない「北の句会」については堀本吟が追加調査中)。また、平成20年の句集『硝子器に春の影みち』(沖積舎)の出版を記念して、北の句会全員から、句集からの70句選と、それによって北の句会が選んだ「大本義幸句ベスト」の再録が収録されている。その結果、最高点10点を獲得した句は、

   くらがりへ少年流すあけぼの列車 《第一章「非(あらず)」》10点
 
であり、以下、
   
   初夢や象がでてゆく針の穴       8点
   わたくしがやんばるくいな土星に輪   7点
   硝子器に風は充ちてよこの国に死なむ  6点
   密漁船待つ親子 海光瞳を射る朝     〃
   匙なめて少年の日をくもらせる      

 と続いている。これらの句と、「BLOG 俳句新空間」(第105号・1月11日)の筑紫磐井篇・大本義幸追悼特集「大本義幸 俳句新空間 全句集」約170句収録を加えれば、『硝子器に春の影みち』(平成20年刊)以後の「豈」誌以外に記録された句のほとんどすべてを見渡すことができる貴重な資料となるだろう。
 同封されてきた「北の句会 報告」(2018年9月 秋分号)には、3月定例句会(2018年3月18日・大阪市福島区民センター)大本義幸の欠席選句コメントが載っている。以下に再録しておこう。

 風船を何処までも老ひ風となる   中山登美子
  発想の類似句はありそうだが、「風となる」の遠近法がいい。
 風船を配る税務署春浅し       岡村知昭
  リアル、今頃の景。
 いつまでもある鉄橋下の赤風船    島 一木
  少年の思い出のように忘れられない赤い風船
 血がうすくにじんでいたり薄氷   谷川すみれ
  見たくもない光景だが、そんなこともあるのかと。
 ひらがなになってひさしい嚏かな  岩田多佳子
  漢字で、くしゃみをする人もいないと思うが、作家が老いて。

 因みに、この号は、野口裕句集『のほほんと』の出版祝賀会(8月26日、於:カルメン)が行われ、出席者それぞれによる句集『のほほんと』の10句選を持ち寄り、充実した会の様子も記されいた。
 ともあれ、追悼資料『木沓』より、いくつかの句を以下に記しておこう(攝津幸彦に関する句はすべて)。
 
  幸彦忌鹿のみむれて哀しけれ         (6号)
  黄砂は黄泉(よみ)でおこった津波だろうか  (7号)
  桃の花つよく匂う夜に腐乱死体の弟といるわが生家 (8号)
  マフラーを頂きまする幸彦の         (15号)
  コスモスはかたかなで書くさようなら     (16号)
  薄氷(うすらい)のなか眼をひらくのは蝶だ  【折句「うめだ」】
  ゆめをみている獺である朝桜         (20号)
  朽葉(わくらば)の墜ちるはやさのわがいのち (23号)
  海をてらす雷(らい)よくるしめ少年はいつもそう (25号)
  薄氷(うすらい)を踏んでいたると鳥翔てり  (26号)
  銀河ありもんごろいどの青痣あり       (31号)
  硝子器に春の影さすような人         (32号)
  形代の鼓動のはじめいなびかり        (34号)
  ふらここのゆりやみしかば死人充つ      (42号)
  ギーと漕ぐ自転車の思想で冬を越し      (48号)
  ぼうたんは異界のにおい濡れており      (51号)
  片影を昼とおもいぬ幸彦も          (59号)
  雨の消印であるかけさの白鳥(しらとり)は  (61号)
  しはしろくてぷよぷよゆきよふれ       (62号)
  死にきれず飽かずみているいぬふぐり     (66号)
  大根は輪切りに死は平手打ち         (67号)
  わっせわせ肋(あばら)よ踊れ肺癌だ     (68号)
  たんぽぽが死にたいと云う夕暮れだ      (69号)
  天上に渦この硝子器に塩軋み         (71号)
  その先に死が見えるかも検査する       (76号)
  凡庸に生きて六度の癌を賜る         (77号) 
  貧困のブレないかたち黄砂来る        (79号)
  螢来よ水の象(かたち)に眠る姉       (80号)
  癌はこわいよ幸彦、巨泉既になし       (82号)
  わが声は喃語以下なりこの冬は        (84号)
  又の世は豆腐になって生まれたし       (88号)
  わが死後も晴れていつかと聞く天気      (89号)
  死を運んで紙風船がやってくる        (91号)
  われわれは我ではないぞ烏瓜         (92号)




 思えば大本義幸は、この浮薄にみえる現在只今を、そうばかりではないぞと全霊で詠んだ、現代版境涯俳句とでも言える句句であった。 

 大本義幸(おおもと・よしゆき)1945年5月11日~2018年10月18日。享年73.愛媛県西宇和郡伊方町に生まれる。愛媛県立川之石高校文芸部一年上に坪内稔典がいた。その坪内稔典とともに「日時計」「黄金海岸」同人で、「現代俳句」(ぬ書房)創刊に尽力した。  


             撮影・葛城綾呂 ↑

2019年1月15日火曜日

樋口由紀子「コンテナがもれなくついてくる情緒」(「晴」第2号)・・



 「晴」第2号(編集発行人・樋口由紀子)、前号の作品評を山田耕司「見上げれば、空は〈晴〉」が書いている。前号の樋口由紀子「冷凍庫に蛸の頭を補充する」「綿菓子の必要以上に巻く事情」の句をあげて、

  (前略)さて、これらの作品は、自らに果たしているさまざまなシバリの果ての結果であることも忘れてはならない。ひょっとしたら、樋口由紀子は、川柳を書く行為を楽しんではならない、と自らを戒めているのかもしれない。あるいは、「ああ、あるある」という他者との共感の回路をあえて塞ごうとしているのかもしれない。
 ともあれ、マッス(大衆)がなだれこむ意味回路から距離を置き、シバリを個人単位において課してゆくことは、川柳という形式の内部を安易にまとめて飲み込まず、むしろ、常に革新させていこうとする姿勢の現れであるのかもしれない。

 と記している。この川柳、大衆については、無縁とは思えない月波与生が「いま『現代川柳論』を考える/分断される川柳、接続する川柳」と題して論を展開している。それは斎藤大雄「現代大衆川柳論」について批評しているのが、その結びの部分に、

 『現代大衆川柳論』は、「わかる川柳、わからない川柳」に分断してしまい「わかる川柳が現代大衆川柳である」としたところに、最初の躓きがあった。それを当事者目線ではなく神の目線のような上位から論じたところに次の躓きがあった。
 川柳を分断していくのではなく、この時代を共に生きる者同士が接続するためのツール、つながっていくための方法として川柳を書く、川柳を読む。そのことを意識的に進めていくことが現代大衆川柳のはじめの一歩になるのではないかと考えている。

 と、これも誠実に記されているのであるが、門外漢の愚生としては、どうもよく理解できないところがある。「大衆川柳」の「大衆とは何か」という規定のないままのせいか、「大衆」のイメージの違いが見えてこないウラミを残しているのではなかろうか。たしかに「わかる川柳が大衆川柳である」という言い方も相当に乱暴な言い方でもあるが・・。 ともあれ、以下に同誌より一人一句を挙げておきたい。

   おぼれてもおぼれなくても海である   松永千秋
   報知器が鳴らぬ善人から燃やす     月波与生
   うんちくで磨かれている五七五     水本石華
   国境にやっと天つゆゆきわたる    樋口由紀子
   厄介をかけますお豆腐の角へ     きゅういち
   助っ人の助っ人になる木が折れて   広瀬ちえみ



2019年1月14日月曜日

佐々木鳳石「お鑑も小さく戦火の新春祝ふ」(「川柳で知る戦争とくらし」1より)・・



 田村義彦「川柳で知る 戦争とくらし」(東京新聞夕刊・連載)、その第1回目に、

 七十年以上前、この国は戦争をしていました。米英中心の連合軍と。で、勝った勝った万歳は緒戦のころだけで、やがて連日連夜の空襲に逃げ惑う日々が続きました。
 その爆弾が雨のごとく降る中、発行し続けた川柳誌があった。現在も刊行中の「川柳きやり」と「番傘」。リアルタイムの戦時下の世相と庶民の思いが凝縮された句は戦乱の中の究極のショートショートだ。本当のことは言えない言論統制下で、工夫の表現で庶民が伝える戦争の実相。

 と書かれ、川柳作品が掲載され、現在連載は6回目まで来ている。俳句と同じ五・七・五の形式をもっているためか、愚生にも興味がある。戦前、新興俳句運動は昭和十五年の、いわゆる新興俳句弾圧事件によって、壊滅し、そこに馳せ参じた多くの若き俳人たちは沈黙し、獄に繋がれたものは病死した俳人もいた。しかし、新興俳句が弾圧を受ける前に、さらに、三年も早く昭和十二年に弾圧されたのが新興川柳だった。

  手と足をもいだ丸太にしてかへし   鶴 彬
  屍のゐないニュース映画で勇ましい

 は、昭和12年、治安維持法違反で再び逮捕された鶴彬は、翌年13年に獄中死する。享年29だった。俳句にも自由律俳句の山頭火に、似た発想のものがある。

    傷戦兵士
  足は手は支那に残してふたたび日本に 種田山頭火

 山頭火は放浪の俳人として名高いが、関東大震災直後、東京に舞い戻っていた山頭火は、主義者と間違えられて、留置されたこともある。

 ともあれ、東京新聞連載を楽しみに読んでいる。その中のいくつかの作品を以下に挙げておきたい。ただし、出典の句は「川柳きやり」と「番傘」のみだと断り書きがあった。

  嘘ばかり聞いて三年八ヶ月    合田笑宇坊
  童話本にも配給といふ活字     小川舟人
  配給の豆腐と肉がかち合はず    田中南都
  売つてやる売つて頂く列にらむ   宮川春渉
  大根の葉捨てる娘を叱りつけ      白秋
  箱野菜せめて半坪ほしく住み    菅野十思
  気前よく羊羹切つて出す落語   矢田貝静吉
  酒に縁なく一月の日記書く      句沙彌
  陶製のアイロンもある新家庭      為雄
  胃ぶころも戦ふ日日の続くなり   水谷要人
  綿供出座布団にする藁を打ち      修雅
  敢然と女性が挑む御堂筋      森本 一

 たまたま、本新聞の上段には、上野千鶴子と荻上チキの新春対談が4回に渡って掲載されていた。その中の上野千鶴子の発言に、

  フェミニズムは女も男のように強者になりたいという思想ではありません。弱者に寄り添ってきた女という経験の中から、弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想のことです。自分だけ勝ち残ろうとする自己決定・自己責任のネオリベ思想とは相いれません。弱者が生きやすい社会は、強者も生きやすいはず。ひとは依存的な存在として生まれ、依存的な存在として死んでいきます。それを受け入れたらいいではありませんか。

 とあった。なかなか難しいことだが、原点かも知れない。

田村義彦(たむら・よしひこ) 1941年、北海道釧路市生まれ。



2019年1月13日日曜日

高屋窓秋「頭の中で白い夏野となつてゐる」(『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』より)・・・



  現代俳句協会青年部編『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂)、序は高野ムツオ、「おわりに」には現代俳句協会青年部・神野紗希。本書はまた現代俳句協会70周年事業のひとつであった。「はじめに」も神野紗希だが、それには、

  現代に生きる人々が、新興俳句運動やその作家について知り、考える手引きとなるような本を作りたいと思い、このアンソロジーをまとめた。新興俳句作家四四名にに関する評論と100句抄に加え、新興俳句にまつわる一三のコラムを収録した。執筆者はほぼ10代~四〇代までの若手俳人。新興俳句運動も、多くは当時の若者たちの手によるものだった。時代を共有しない現代の若手が、彼らの作品をどう捉えるだろう。時代を隔てているから客観的に見つめられる部分も、同じ若者同士だからこそ分かり合えることもあるはずだ。
 昭和初期に綺羅星のごとく時代を駆け抜けた彼らの俳句が、新たな荒野を歩まんとする現代の俳人の灯となれば幸いである。

 と記されている。愚生もそう願いたい。貴重な仕事だと思う。宇多喜代子が言っていたように、一人ではできない、組織があってできること、それも手弁当で・・と座談会で述べていたことは、こういうことである。こうした無私の情熱が俳句を支えているのだ。
 本書が刊行されるらしいことは、執筆の数人の方から若干の問い合わせがあったり、川名大からは苦労話も聞かされていた。まだすべてを読んでいるわけではないが、多くの論者、あるいは作品の抄出において、これまで川名大が成してきた新興俳句に関する仕事に大いに恩恵を受けていることが分かる。そういえば、髙柳重信が折笠美秋の見舞いに、みずから「新興俳句の歌」というのを(もちろん替え歌だが)テープに吹き込んで渡したもののコピーを福田葉子からいただいて聞いたことがある。新興俳句の名の下に散っていった多くの若き俳人たちへの愛惜の情と、口惜しみと、その反面のロマンチシズムが、けして上手いとは言えなかったが重信の歌声に籠められていたように思う。その替え歌の歌詞には、白泉や、三谷昭や、赤黄男、窓秋、鷹女などの名などが入っていた。
 若い人たちの各俳人の100選も楽しみ(愚生には文字が小さすぎるのが難点だが
・・)、また、コラムなども、改めて、新興俳句の評価を考えさせてもらった。まずは冒頭の青年部選による「新興俳句百句抄」だけでも十分興味がもてて面白い。以下にその中から幾つかを冒頭近くから紹介しておこう。ともあれ、類書なき座右の書となるにちがいない。

  来し方や馬醉木(あしび)咲く野の日のひかり  水原秋櫻子
  一片のパセリ掃かるゝ暖爐かな          芝不器男
  夏山と熔岩(らば)の色とはわかれけり      藤後左右
  ひるがほのほとりによべの渚あり         石田波郷
  まつさをな魚の逃げゆく夜焚かな        橋本多佳子
  スケート場沃土度丁機の壜がある         山口誓子
  午前五時あざみにとげのなかりけり        伊藤柏翠
  汝が吊りし蚊帳のみどりにふれにけり       中尾白雨
  蛾の迷ふ白き楽譜をめくりゐる          平畑静塔
  重ねたる鉄の切口光冷ゆ             湊楊一郎
  ラガーらのそのかち歌のみじかけれ        横山白虹
  うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく   日野草城
  血に痴れてヤコブの如く闘へり          神崎縷々
  あらはれてすぐに大きくくるスキー       長谷川素逝
  目つぶりて春を耳噛む処女同志          高 篤三 
  花の上に天の鼓のなりいでぬ          井上白文地
  しんしんと肺碧きまで海のたび          篠原鳳作
  街灯は夜霧に濡れるためにある          渡邊白泉
  青空に/青海堪えて/貝殻(かひ)伏しぬ    吉岡禅寺洞
  恋人は土龍のように濡れてゐる         富澤赤黄男
  ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ        藤木清子
  


           撮影・葛城綾呂 葉牡丹↑

2019年1月12日土曜日

崎原風子「鉄打つ音みな新緑に向きひびく」(「奔」第2号より)・・


 
 「奔」第2号(2019年春号、編集発行人・望月至高)、時宜を得たというべきか、「沖縄特集」である。本誌副題にある「句と評論」という題には、戦前に発行されていた新興俳句誌「句と評論」をいやでも思い出させる。『現代俳句辞典』(三省堂)の川名大による解説には、1931年7月に東京で創刊され、38年通巻75号で終刊とあるが、きっかけはその前年37年に細谷源二や中谷春嶺が工場俳句を推進するのに伴って渡辺白泉ら6人が脱退し「風」を創刊したとある。「風」には三橋敏雄も参加していたはずだ。
 崎原風子(本名・朝一)を本誌で見つけたのは、安里琉太「『沖縄』の俳句について」の文中である。愚生の記憶では「海程」が金子兜太の主宰誌になったとき、当時の編集長であった大石雄介、原満三寿、谷佳紀ら当時の有望な若手が「海程」を脱会した。その原満三寿と谷佳紀で「ゴリラ」という同人誌を創刊し(後年、谷は「海程」に復帰、後継誌「海原」にも参加)、20号で廃刊にするのだが、その寄稿者の中に崎原風子の名があったように思う。たしか「ゴリラ」の表紙は小口木版の日和崎尊夫だった。そんなこともあって、懐かしい思いになったのである。いわば、知る人ぞ知る幻の俳人である。金子兜太著『今日の俳句』(光文社・1965年)には、

  ツイスト終り河へ鮮明に靴ぬぐ母   崎原風子(ふうし)
  婚礼車あとから透明なそれらの箱

 の句が収録されている。今回、安里琉太の玉文で、改めて、沖縄生まれの崎原風子がアルゼンチンに移民していたことをおぼろげながら思い出した。その他、今号の沖縄特集には、いわば政治的な主張についての論に多くが割かれているが、その沖縄の在り様が、俳句の表現に具体的な成果として顕れているのか、については、俳句に関わる愚生には一段と興味がある。それは、未来ある若い二人、俳人で写真家でもある豊里友行により直接的に、また安里琉太には、より、内面的、象徴的な句表現としてあらわされているように感じた。
 あと一つ、望月至高「追悼 兜太と六林男」で思い出したことがある。正確な年は覚えていないが、現代俳句協会が、「数は力だ!」で会員1万人体制を目指していた。もちろん会長に金子兜太、副会長に鈴木六林男、小川双々子らがいた時代である。愚生は40歳代で、その頃、久保純夫や山﨑十生、高野ムツオ(全体で、若手の幹事はこれくらいしかいなかった)、そして、兜太の肝入りで創られた青年部長・夏石番矢がいたと思うが、その総会直前の幹事会で、丸山海道がいきなり副会長に抜擢された(当時「京鹿子」200名を引き連れて現俳協に加盟したと言われていた)ことに対して、「今まで何もしてきていない者がいきなり副会長では、スジが通らない」と猛烈に反対にしたのが鈴木六林男だった。小川双々子も続いた。若輩の愚生はただ眺めていたが、それでも、協会の組織運営上からすれば、俳人協会を脱して一挙に200人を加盟させるのだから、それ相応の処遇をもってするのが、組織としての礼儀だろう・・・と組織論からすれば当然のことかも知れない、とも考えた。さらに老害を排する、ということで、役員の定年を80歳に定めることにしたとも記憶している。ともあれ、個人誌ながら、大冊となった望月至高の古稀過ぎてなおの膂力に驚いている。というわけで、以下に、一人一句を挙げておきたい。

  金蠅や夜どほし濤の崩れ去る       安里琉太
  花デイゴ家族の墓は基地の中    親泊ちゆうしん
  みんな武器すて鉄砲百合が痛快      豊里友行
  月光にわたしの縊死を捧げたし      今井照容
  ひとを鶏を強制終了する津波       江里昭彦
  吃音の狐われを蒼きフォビアに誘いつ  大橋愛由等
  乱獲の網に人骨敗戦日          望月至高
  風にある海邦(うみぐに)の声あやはびら 大井恒行



     崎原風子の作品・日録が寄稿されている「ゴリラ」↑  
     本ブログ読者より(匿名氏)より提供(1月14日)。


          撮影・葛城綾呂 焔立つ ↑