2021年7月31日土曜日

小暮陶句郎「涅槃図の泪のラピスラズリかな」(『薫陶』)・・・

  


 小暮陶句郎第3句集『薫陶』(ふらんす堂)、その「あとがき」の中に、


 (前略)『薫陶』は「ひろそ火」創刊から八年四ヶ月の間、毎月積み重ねてきた俳誌が100号を数えた平成三十一年四月までの四四四句を収録した。そして元号が令和へと改まった五月以降の作品を次の句集に纏めるつもりである。(中略)

 今回の句集名「薫陶」は「ひろそ火」から優れた作家を世に送り出したいという願いと、陶芸家としての「陶」の文字へのこだわりによるものである。これで平成に詠んだ句を纏めた三冊の句集名に全て「陶」の文字を冠したことになった。還暦という人生の節目を前に、このような句集が上梓出来たことはまことに嬉しい。(中略)

 未曽有のパンデミックを体験したことも俳句の肥やしとして、世の中の変化に柔軟に対応しながら、「ひろそ火」の仲間と共にさらなる俳句の高みを目指せれば嬉しい。


 とあった。奮闘を祈りたい。そういえば、随分以前に、愚生がちょうど今と彼と同じ年齢の頃、彼とカラオケに行ったことを思い出す。若い世代らしく、身振りをまじえた弾けた歌は上手かった。これも随分大昔になるが、辺見庸がカラオケの下手な奴は小説も下手だ、とちらと呟いていたことがあったなぁ・・・。ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておきたい。


  ぼんぼり無き被災後の花日和      陶句郎

  命みな水の化身や大花野

  菊練りの陶土に呑まれ木の葉髪

  白が白汚してをりぬ春の雪

  花筵凸凹人も凸凹に

  蛇穴を出づ金銀の砂つけて

  両の手は太古の器水の秋

  しろがねの太陽色鳥をこぼし

  影光影光影春疾風

  影何か描くごとくに糸桜


 小暮陶句郎(こぐれ・とうくろう) 1961年、群馬県伊香保町生まれ。



          芽夢野うのき「朝顔の花の地図にてやや迷ふ」↑

2021年7月30日金曜日

豊田すずめ「終日のステテコ敗戦記念の日」(『俳句の杜 2021 精選アンソロジー』より)・・・


 『俳句の杜 2021 精選アンソロジー』(本阿弥書店)、帯の惹句に、「今この季節/今この出会い/再びない機縁/結びつけるもの/時が磨き上げた/充実の俳句世界//16人の作家による100句と書き下ろしエッセ―を収録 」とある。

 愚生に恵まれたのは、50年以上の友人である(俳人ではない)T・Mから、「近所の居酒屋の呑み友だち、と言っても大先輩」の方が収載されているので、と送ってくれたのだ。俳号・豊田すずめ、いかにも俳諧的な号なのだが、句歴には、「や」→「わわわ句会」(三輪初子指導)とあるではないか。袖すり合うも他生の縁どころか、けっこう縁は深いらしい。「や」はもとはといえば、辻桃子主宰「童子」を飛び出した方々が創刊した俳句雑誌である。愚生は、初期の「童子」には、若輩ながら、短いエッセイを連載させてもらったこともあり、なかなかお世話になった。もちろん「や」には創刊時から親しくさせていただいている。また、豊田すずめの書下ろしのエッセーには「木村功の付き人時代」とあって、愚生が過した3年弱の京都時代を思い起こさせた(愚生は、アルバイトで大映の小道具係やエキストラだったが)。とにかく、愚生好みになるが、句をいくつか挙げておこう。


  福笑ひいちばん笑ふ人あはれ       すずめ

  陽炎や世間の見えぬ眼鏡拭く

  礼状が恋文になる桜東風

  無頼派になれぬままなり麦藁帽

  白絣鎌倉文士駅舎前

  傷物のパナマ目深にアルカポネ

  カマキリが通りますからお静かに

  一葉や頭痛・肩こり・茸飯

  立秋の洲崎玉の井北千住

  葉鶏頭鬱の字を見て鬱になる

  開戦日ころり虫歯の抜け落ちる


 せっかくだから、以下には、本アンソロジーから、愚生の知人や現代俳句協会関係の方の一人一句を挙げておきたい。


  人類忌献花のごとき時計草      石原 明

  花冷えの裳が見え木花開耶姫     伍賀稚子 

  前も後も花の息して淋しさよ     新庄佳以

  日傘買う母に合わせた花の色    高橋句美子

  葉切蟻季をばらばらにつるつるに   福富健男


豊田すずめ(とよた・すずめ) 1940年、東京都生まれ。



撮影・鈴木純一「佐嵯餓泥(ササガニ)の首をかしげた面ざしは」↑

2021年7月29日木曜日

仁科 淳「秋天をあふぐ噂のミルフィーユ」(『妄想ミルフィーユ』)・・・



  仁科淳第1句集『妄想ミルフィーユ』(ふらんす堂)、「はじめに」のタイトルに「ひきこもり歴三十二年ー統合失調症発症 妄想のなかの日々ー」とあり、


 俳句をつくりはじめたのは伝えたいことがあったから。

 人に弾かれ世に弾かれしてもやっぱりひとに支えられてきた。

 その感謝は誰かに何かを感じてもらえることで

 昇華できるものでもないけれど。やっぱり発信したい。(中略)

 そして所謂「普通」の生活を生きられることが

 一番しあわせなことなのだと。

 手にとってくださった方が感じてくださればと祈りつつ――


 と記されていた。巻末の一句のみが一頁一句立ての以下の句であり、他は一頁二句立ての見開き4句のレイアウトになっている。


  きみに会ふまでに八重桜に変はらん


 句を読み、略歴などを読むと、俳句は独学のようである。因みに、句集名に因むであろう句は二句ある。


  「妄想」と追はで視野に蜘蛛を追はで

   秋天をあふぐ噂のミルフィーユ


 の句である。ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておこう。


  共に負はせてくれよ旱天に鳥

  我がゐておぼろ君ゐてうつつかな

  此の春のたたへてをれぬ涙かな

  冬麗や聴こえむ耳孔骨に空く

  泣き初めの無きや泣きをさめの無くて

  疾風に捥がれて花の入水かな

  新書の栞そそけをり春ふかし

  露の身の悲喜にながせる涙かな

  蛇足かと思ふが蛇足穴まどひ

  口実に病つかはず放屁虫

  カンパニュラ戀如何にうらぶれようか

  冬鵙の法に触れなばかまはぬか

  些事あまたある視野にも鏡餅


 仁科淳(にしな・じゅん) 1971年、山形県生まれ。 



     芽夢野うのき「ヤブランに日の差すまえの雨やさし」↑

2021年7月28日水曜日

平塚らいてう「みどり児の眠る真昼や合歓の花」(『平塚らいてう』より)・・・


  奥村直史『平塚らいてうーその思想と孫から見た素顔』(平凡社)、本書は、10年前に出版された平凡社新書『平塚らいてうー孫が語る素顔』の増補版である。著者・奥村直史は「平凡社ライブラリー版 あとがき」のなかに、


 「満州事変以後一九三〇年代、おばあちやんは日本の社会状況をどのように考えていたの?」祖母が生きている間に、そう尋ねてみたかった、聞いておきたかった、と繰り返し思った。(中略)

 この十年、この疑問を解明するために色々考えてきた。遅々としながらも、なんとか少しずつまとめて毎年『平塚らいてうの会紀要』に投稿させてもらった。未だ完全とは言えないけれども、祖母がどのように十五年戦争を体験し、考えてきたかを私なりにまとめた、それが増補部分「平塚らいてうと『十五年戦争』ー一九三〇年代動揺を超えて」である。


 とある。そして、「元始、女性は太陽であった。真正の人であった」の平塚らいてうを、


 (前略)私は祖母を「おばあさん」ではなく「おばあちゃん」と呼んでいた。そして、確かに「ご飯ですよ」と呼びにいくことはあったのだが、遊びたくて呼びかけたことは・・・どうも記憶にない。

 そんな気やすく誘える雰囲気ではなかったのである。怖い人ではないし、不親切とも思わなかったが、身近に感じる人ではなかった。(中略)

 内にこもり、感情表現も乏しく、自分からしゃべることも少なく、いつも内向して自分一人の心的世界に閉じこもりがちな、祖母の硬い生真面目な性格が大きく作用していたのであろう。私の生まれたのは祖母が六十歳になろうとする頃であったから、私の知っているのは「髪の毛が白くなった」祖母であったが、その時も「はにかみや」という人にはなじみにくい一面は、小さな孫に対してもなお残していたのである。


 本書は、同居した孫ならではの、じつに丹念に、平塚らいてうの素顔が描かれ、それもかたくなな、それでいて真に人の愛を信じている素顔が伺える。手に取られ、一読あれ、と思う。ここでは、愚生は、ただ平塚らいてうの俳句について記された部分をのみ、以下に引用しておきたい。


 「疎開」に伴って、らいてうはそれまでの東京で過ごしてきた「日常」から離れて、今までと違った新たな生活スタイルを実行することとなる。原稿執筆を離れ、それまで未経験の農耕生活に取り組むと同時に、玄米菜食を実行し、自分の体に自ら手を当てることを通して、頭痛や吐気をはじめとした病との闘いに取り組むという、多面にわたった「新たな体験」を試みる生活となった。加えて「俳句」が口をついて出ることも始まった。娘時代にいくつか俳句を投稿したことはあっても『青鞜』に参加してからは、筆を執るのは評論やエッセイの原稿ばかりであり、俳句から三十年ほど遠ざかっていた。(中略)

 敗戦後一九四七(昭和二十二)に東京成城に帰ってから、中村汀女の主宰する月例句会に参加している。俳句の内容はほとんどが戸田井でみ身の回りの自然詠である(奥村直史「平塚らいてうの俳句の検討ー疎開時代の理解のために」『紀要』八号、二〇一五年/奥村直史「中村汀女と平塚らいてう①~⑳」『風花』七四六ー七六五号、平成二十七年六月ー二十句九年一月』。 


 また、ブログタイトルにした「みどり児の眠る真昼や合歓の花」には、


 俳誌『風花』三号、一九四七(昭和二十二)年に掲載された、祖母の句である。成城に戻って、戦前からの成城での知友・中江百合宅で、中村汀女の指導の下に開かれる句会「秋草会」に祖母は参加する。この句は、二歳の私の昼寝姿をスケッチいたものらしい。恥ずかしいような、くすぐたいような思いであるが、祖母の温かな視線がうれしくなる。


 と記されている。以下、文中より句を挙げておこう。


  今日もまた山の夢みる草の花

  道折れて片頬ぬくき枯木道

  菜畑に大根の花きれぎれに

  雲低き山路を栗の花明かり

  こらもきてあそび暮らしつまつのうち


 奥村直史(おくむら・なおふみ) 1945年、東京都世田谷区生まれ。



        撮影・鈴木純一「厳かなゑみ浮かべつつ桃來る」↑

2021年7月27日火曜日

月犬 「馬鈴薯の眠りの中のウクライナ」(『夜の鹿/植物圖鑑/火の匂ひ』)・・・


  月犬第2句集『夜の鹿/植物圖鑑/火の匂ひ』(夜窓社)、著者自装、封書に三分冊されている(「壱 夜の鹿/唇からナイフ」「弐 植物図鑑/地獄の黙示録」「参 火の匂ひ/迷はぬ犬/マンドリン」)。集名のひとつ「夜の鹿」に因む句は(原句は正字)、


   少し野蛮とても優雅な夜の鹿      月犬


  だろう。本名は略歴にあるが三宅政吉。愚生がお会いしたのは、もう十年以上以前のことである。愚生20歳代の初め頃からの付き合いであるワイズ出版社主・岡田博の紹介で、装幀家として紹介していただいた。俳句では、彼の師系、連衆は知らないが、現在、れっきとした俳誌「らん」の同人・月犬である。それ以外の来歴については、愚生は、とんと知らないので、本句集巻末の自筆略歴によると、


一九五一年福岡市生まれ。十代からマンガを描きはじめる。同人誌『跋折羅』を経て『幻燈』(北冬書房)、『走馬燈』(書肆フリークス)などに作品を細々と発表。貸本マンガ史研究会会員。『貸本マンガ史研究』に貸本マンガに関する論考を、これも細々と発表する。

二〇〇四年ころから俳句を作り始める、句集に私家版『鳥獣蟲魚幻譜抄』(夜窓社/二〇一七年)がある。


 と記されている。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。


    月光ノ届カヌ場所二横タヘヨ

    引金にヒルガオ撃鉄に風

    たんぽぽまづ撃鉄を起こさねば

    たましひの話などして松の花

    栗の花溢れ不眠の映写技師

    剃刀の刃の上を這ふ蝸牛

    熱帯の蝙蝠。大佐は行方不明

    宙吊りの鼬が見える冨士も見える

    傷口が乾かぬ。春の虹がかかる

    燕来たとしても約束は破る



      芽夢野うのき「脱皮直前の蟬ためらいの飴色」↑

2021年7月26日月曜日

池田澄子「じゃんけんで負けて蛍に生まれたの」(「俳句界」8月号より)・・・


「俳句界」8月号(文學の森)、特集は「文語と口語~それぞれの魅力」と「文學の森各賞を読む」である。前者の特集の執筆者は、総論が、岸本尚毅「文語の魅力/自由律俳人と文語」と坪内稔典「口語の魅力/口語が活躍する」、中岡毅雄「俳句はなぜ文語が主流なのか/文語俳句が主流な理由」、成田一子「文語と口語は混ざっても可か/言葉のコーディネート力」。他に「文語と口語、名句ピックアップ~それぞれの魅力」では文語と口語の作品各4句ずつを挙げ、解説めいたエッセイが収載されている。 これらのエッセイには、意外に口語の魅力が語られている。例えば、


 (前略)あき子の句(愚生注:土肥あき子〈夜のぶらんこ都がひとつ足のした〉)。ポップスの歌詞と地続きであるような言葉。メロディが無くても負けない。口語の海は広く深く豊か。(加藤かな文)

 (前略)会話体の響きや語気を句に持ち込むことによって、文語とは違った新しい韻律が生まれる。ここに口語俳句の可能性が広がっている。(依田善朗)

 (前略)「切字」を使わない工夫を重ねることで、いま、ここにある実感と、こことは違う場所への想像力あふれる俳句が生み出されるのではと思っている。(三宅やよい)

(前略)とても難しいけれど、少し遠い距離感もまた、文語俳句の魅力である。

 最後に、以前私が作った口語俳句を挙げて、

  晩秋のどこに置いたかしら眼鏡     一葉  (山本一葉)


 論考の中では、岸本尚毅「文語の魅力」が、自由律俳人の句を例句にして、具体的で最も説得力がった。以下に、少し長くなるが引用する。


  いかにも俳句らしい姿といえば、有季定型と文語旧仮名。この姿は歴史の産物である。有季定型は連歌の発句以来、文語旧仮名は俳句固有ではなく、ある時代までの書き言葉がそうだった。(中略)

 作品に応じて口語と文語を使い分けた様相を種田山頭火を例にして見ていく。(中略)

   そうてまがる建物つめたし

   何か捨てゝいつた人の寒い影

   雪もよひ雪とならなかつたビルディング

 「つめたし」が文語。「捨てゝいつた」「寒い影」「雪とならなかつた」が口語。

  口語を文語に変えると「何か捨てゝゆきし人の影」「雪もよひ雪とならざりしビルディング」となる。文語にすると、山頭火らしい呟くような調子が失われる。逆に、文語を口語に変えると「そうてまがる建物つめたい」となり、「つめたし」という、いかにも冷たそうな響きが失われる。(中略)

 いっぽう、ある俳句が生まれるときに文語か口語かを選択するスイッチがあると考えたらどうだろうか。すくなくとも白泉と山頭火はそのようなスイッチを持っていた。ただしそのスイッチは口語が文語かをフラットに判断するのではなく、あえて、例外処理を行うかどうか(スイッチを入れなければ原則通り)を決めるものだった。

 山頭火が例外的に文語を用いたのは、「つめたし」「濁れる水」などの語感に惹かれてのことであろう。自由律俳人にとっての文語の魅力は、重く硬く鋭い音の響きにあったのではなかろうか。

   *

 仮に住宅顕信が文語という選択肢を持っていたならば〈重湯のさじ冷たい枕元に置かれる〉を「重湯のさじ冷たき枕元に置かる」としただろうか。〈冷たい夜のペロリとうげた壁である〉を「冷たき夜のペロリとうげし壁なり」としただろうか(「うげる」は顕信の出身地岡山の方言。「剥がれる」の意)。

 本誌本号には、他に、佐高信の「甘口でコンニチハ!」は、脱原発の吉原毅(城南信用金庫名誉顧問)を迎えての対談。文學の森各賞を読むでは、「豈」発行人・筑紫磐井は文學の森大賞『俳句という無限空間』(大輪靖宏著)鑑賞を、愚生は、「『山本健吉評論賞』を読む/摂氏華氏 兄」を執筆した。図書館・書店などで立ち読みでもしていただければ幸甚である。また、山﨑十生は、句集『未知の国』で「文学の森賞」に入賞している。ともあれ、アトランダムに本誌の掲載作品からいくつかを挙げておこう。


   かの銀河いちまいの葉をふらしけり    富澤赤黄男

   木の実独楽風を回して止まりけり     日下野仁美

   シベリアへつづく青さを鳥帰る       坂本宮尾

   牛タンに麦飯あれば自粛でも        星野高士

   陽炎を来て陽炎に遊ぶなる         鎌田 俊

   露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな       攝津幸彦

   木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど  阿部完市

   たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ    坪内稔典

   ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ       田島健一

   分校に花粉症などいなかった        山﨑十生

   多磨さくら加藤の墓を妻が掃く       加藤郁乎



     鈴木純一「カブトでもクワでもなくてカナブン派」↑

2021年7月25日日曜日

葛原妙子「出口なき死海の水は輝きて蒸発のくるしみを宿命とせり」(「詩歌の森」第92号より)

 


 「詩歌の森」(日本現代詩歌文学館館報)第92号、ブログタイトルにした短歌は、関川夏央「葛原妙子(くずはらたえこ)の衝撃」より。その中に、


 (前略)それ以後の「前衛短歌運動」に焦点を当て、寺山修司が亡くなる一九八三年までの三十年間を『現代短歌 そのこころみ』という本に書いた。

 書き終えて十七年、短歌とは縁が薄くなったが、今も時折、記憶した短歌が口をつくことがある。そのひとりが葛原妙子である。

  奔馬ひとつ冬のかすみの奥に消ゆわれのみが累々と子をもてりけり

 五〇年、四十三歳の彼女が中井英夫の『短歌研究』に投稿した歌である。歌人としては異例に遅いデビューである。

 五十代に入って、妙子の歌は変貌する。

  おほいなる雪山いま全盲 かがやくそらのもとにめしひたり 

  噴水は疾風にたふれ噴きゐたり 凛々(りり)たりきらめける冬の浪費よ (中略)

 どの歌集にも「師、もしくは師系に関する謝意あるいは表敬の辞が一行もない」ことに気づいた塚本邦雄は、「倨傲なるべし葛原妙子」という言葉を贈った。(中略)

 短歌は一瞬を固定すると同時に、歴史そのものを批評する力がある。そう私に実感させた葛原妙子は、カトリックの洗礼を受けた五か月後の八五年九月、七十八歳で亡くなった。


 とあった。その他、川柳作家・新家完司「人間はおもしろい」、俳人・山田佳乃「ヘッセ詩集」、朝日新聞記者・佐々波幸子「啄木の時代からつなぐバトン」、詩人・八木幹夫「詩心を求めてⅡ-時限爆弾としての俳句」などのエッセイがそれぞれに面白い。それらのエッセイのなかから、いくつかの句を以下に挙げておこう。


  久しぶりに閉めた雨戸に指挟む    井上和子

  寝転んでテレビ体操見ています    岸本 清

  東京の天気予報も聞いておく     谷口 義

  タクシーも地下街までは来てくれぬ  戸倉求芽

  東京のパパはじしゅくで帰らないぼくは今年もブラックウイーク

                        (藤枝市)小五 石塚文人

  鶴羽をひろげ朝かげ放ちけり     山田弘子

  参観後青田まで来て母怒る      今井 聖

  桜咲くどすんと象はうんこして    坪内稔典

  天高く柱燃えたり流れたり      池田澄子

  敗戦日化けてでも出てくりゃいいに  辻 征夫

  弾痕の塀を背中にマンゴー売る    草野早苗




    芽夢野うのき「向日葵であるべきひまわり仰ぎ淋し」↑

2021年7月24日土曜日

野間幸恵「地動説ろまんちっくが必要だ」(「Picnic」No.3)・・・


 

「Picnic」No.3(TARO^冠者)、巻頭言に野間幸恵「5・7・5を企む『Picnic』」が掲げられている。


俳句を書き出して、かなり早い時から言葉で景色を書くのではなく、言葉の景色を書くという意識になっていきました。それは言葉の関係だけに集中すると、575から異質な世界が現れたり、言葉が全く違う表情になるという、嘘のような偶然の積み重ねによります。

私にとって、575作品は言葉にリズムを与えることだったり、独自の喩を作り出せることだったり、虚構を虚構として示すことだったり、欲張りですが、それは定型というやわらかい椅子のせいだと思っています。


という。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。


  裏打ちのちょっとずれてる春の月      木下真理子

  きさらぎのまえもうしろもあらそいに   あみこうへい

  アメリカ製のゴミ箱の蓋閉まらない     樋口由紀子 

  別の世へ身を傾けて祭笛           鈴木茂雄

  入り方がよく分からない骨密度        榊 陽子

  お天気と豆腐は西よりくずれけり       梶 真久

  蓮根を食べると穴の味がする         月波与生

  和を以って以下は省略夏落葉         岡村知昭

  みんな寝て中崎町の月あかり         妹尾 凛

  天と地とローマの柱かつぐかな       中村美津江

  蝉時雨木馬勝手に回り出す         木村オサム

  さいだあとか見事に抜ける武家屋敷      松井康子

  貼り紙は「しばらくドアを休みます」    広瀬ちえみ

  不老不死その大きさがわからない       石田展子

  きつつきへ方程式がほどけない        野間幸恵 



     撮影・鈴木純一「斯(カウ)ヤツテ戦争二ナル黄金虫」↑

2021年7月23日金曜日

赤城さかえ「秋風やかかと大きく戦後の主婦」(『評伝 赤城さかえ』より)・・・


 日野百草『評伝 赤城さかえ —楸邨・波郷・兜太に愛された魂の俳人』(コールサック社)、帯の推薦の辞は齋藤愼爾、それには、


  令和3年から遡ること54年前、大虚空の彼方へ旅立った俳人赤城さかえの評伝が気鋭の日野百草氏によって出版されたことは奇跡と呼ぶべき出来事のように思われる。

巻末の資料集から赤城の『草田男の犬』を読まれたい。この評論が昭和22年に発表されたことを知り戦慄にも似た驚きを覚えないだろうか。赤城の評論と俳句は殆どが病魔と死神に纏いつかれ、痛みと嘔吐で七転八倒、身悶えながら、時には自ら筆を執ることもままならず口述筆記に委ねた箇所もある。そのことで文章が乱れたりすることは無く清廉静謐、微塵の乱れも感じさせない。近現代史の闇に久しく埋もれていた赤城の全的復活に与って力のあった日野氏に満腔の祝意を表したい。〈二人の巨人〉が新たに脚光を浴びることになる。


 とある。愚生の知っている赤城さかえも『戦後俳句論争史』(俳句研究社)の「『草田男の犬』論争」の一方の当事者としてものである。その著の発行を年譜で見ると1968年だから、愚生が二十歳の頃、発売とほぼ同時に買ったことになる。半世紀以上前のことだ。それは「俳句研究」の広告をみて注文した。その後『赤城さかえ全集』(古沢太穂、石塚真樹監修、赤城さかえ全集編集委員会編・1988年)にも収録されている。それは、草田男の句、


    壮行や深雪に犬のみ腰をおとし    中村草田男


 をめぐる論争で、「俳句人」(昭和22年10・11月号)に掲載された赤城さかえのデビュー作である。


 (前略)論争をごく短簡に書けば、草田男の俳句を認めるさかえと、草田男を戦争協力者として俳句そのものも認めないとする連盟の一部勢力、そして双方に与する俳人たちによる論争である。(中略)

 さかえは当時の連盟の主流を占める風潮とは真っ向対立する論陣を張った。(中略)


  ーさて、この句の功績は、何と言つても、人々が熱狂してゐる喧騒の中から、深雪に腰   をおろしてゐる哲学者「一匹の犬」を見出した作者の批評精神である。この一匹の「草田男  の犬」によつて、そこに画かれた群衆図は単なる写実を遥かに超えた詩の世界を展開する。(中略)


 この一文は「草田男の犬」を代表する一文であり、日本の俳論を代表する有名な一文である。この一文があらゆる現代俳句の重要性を孕んでいる。そして草田男に対して最大級の評価を下している。それにしてもなんと格調高く適確、かつ純粋な一文であろうか。九条であれ、震災であれ、コロナ禍であれ―現代の社会性俳句の詠み手は「草田男の犬」に近づくことができているのだろうか。赤城さかえの想いを引き継いでいるのだろうか。


 と日野百草は続けている。その日野百草「補足」によると、2017年2月、月刊俳誌「鷗座」に2020年2月まで連載され、大幅に改稿したとあるが、2016年12月に急性心筋梗塞を発症し、連載第一回の「序に代えて」は、病室での執筆になったという。幸い命はとりとめ、その間、入退院を繰り返して、全37回の連載を終えたという。巻末の資料編には、赤城さか略年譜、句集『浅利の唄』、評論「草田男の犬」、加藤楸邨「赤城さかえ追悼」、本書の登場人物の略歴などが付されている。


    八方に夏あをぞら悔いも若し       赤城さかえ

    セルを着て宿痾の白きふくらはぎ

    短夜やわが咳けば波郷痰を喀き

    鰯雲の底にわれ在り発熱す

    忘るまじ秋日に全裸の捕虜の群を

    寒林となり鳥ごえの渡りおり

    爆音かぶさる基地の空より雲雀の声

      十二月一日父逝く

    寒夜酔うて糞まるや泪あふれ落つ


 赤城さかえ(あかぎ・さかえ)1908~1967年、享年58。広島市生まれ。本名・藤村昌(さかえ)。

 日野百草(ひの・ひゃくそう) 1972年、千葉県野田市生まれ。



       芽夢野うのき「汝オリーブな風です涼しげに」↑ 

2021年7月22日木曜日

關考一「桃ぢきに傷みて人の指を責む」(『ジントニックをもう一杯』)・・・


 關考一第1句集『ジントニックをもう一杯(ひとつ)』(ふらんす堂)、序は中原道夫、その中に、 


 この關考一という男、一人っ子で育ったこともあってか、どこか天真爛漫、無邪気な処もあって妙に明るい。鰥生活で有り余る時間は小説など読み耽り、落語もどのくらいのめり込んだ時期があったのか知らないが、博覧の上に噺家の声音遣いもやってのける。


   夏足袋や毎度ばかばかしき噺


 寄席で培った”ばかばかしき”噺の味(エキス)が、後半では滲み出て、これこそが彼の持ち味、目指す方向のひとつなのではと思わせる。


と記されている。また、著者「あとがき」には、


 危うく狸を轢きそうになった。

 ヘッドライトの光の隅をヒョッコラ、ヒョッコラ、俯いて、走るとも歩むとも無く一心に向かって来る。

 五〇キロ程で車が行き来する県道で、なり振り構わず急ブレーキを踏んだ。

「だめか」と思われた刹那、狸はL字にターンして、見れば運転席側の窓の下を、蓑を着たような丸っこい背中が後ろへ動いて行く。(中略)

 あの狸は存外、強かなのかも知れない。しかし不格好だ。でも狸の煎餅はとんと見ないし、野生の癖に文明や世間の流れにも意外に適応している様だ。

 よし、間抜けに見えても不格好でも、右往左往、一七音の試行錯誤を繰り返しつつ人生の往還を渡って行こう。これも俳味と云うものかも知れない。

  ここに、穴から這い出た如き拙い句集が世に出た。


と、あった。ちなみに、集名に因む句は、

   

    虹失せぬジントニックをもう一杯(ひとつ)    考一


であろう。ともあれ、集中より、愚生好みに偏するがいくつかの句を挙げておこう。


  君乗るやかくも小さき瓜の馬

  むかでむかで死してみじかくなりにけり

  行く春を千住の雨が引きとめむ

     千住素盞雄神社

  大丸は父の編みたる茅の輪なり

  山笑ふ田もまた笑ふ水鏡

  煮大根含めば雪の味したる

  ニンゲンにアース必要青き踏む

  仰向いて蟬である日の終わり来る

  雁行や眼瞑らねば見えねども

  読初に音読できぬもの開く

  弁当を使ふ速さよ三尺寝

  ベランダを一夜仕立ての月見舟

  テーブルはもう薫風に出してある

  九竅(きうけう)のかくも居良いか風邪の神

  宝船やはり転覆してしまふ

  神の留守穴(とぼそ)・突起(とまら)にあそびかな

  初風呂や命の嵩の湯が溢る

  燃え上がる性格にして焚火番

  

 關考一(せき・こういち) 1963年、埼玉県川口市生まれ。



  撮影・鈴木純一「TOKYOいま梅雨(アメ)に下むく化粧かな」↑

2021年7月20日火曜日

井上弘美「八月が来る玉砕の鉄兜」(『夜須礼』)・・・


  井上弘美第4句集『夜須礼(やすらい)』(角川書店)、2008年から19年までの359句を収載。集名の由来については、


    夜須礼の花傘を呼ぶはやち風

によります。「夜須礼」は京都今宮神社の摂社、疫神社の祭礼で、三大奇祭「安良居祭」の傍題です。平安時代から続く疫病退散の鎮花祭で、桜の季節に行われています。祭の主役は「花傘」で、この傘の下に入ると一年間災厄を免れるというので、人々は競って傘に身を寄せます。今宮神社は母の産土神社なので、母もまた幼い頃から花傘に身を寄せたことでしょう。赤い花傘が風に揺らぐと、母がやってくるように思えます。


 とあった。「安良居祭」を詠んだ句は、いくつかあるが「夜須礼」の漢字を入れた句が、もう一句ある。


   夜須礼の鬼に会いたきむらさき野


 そして、恵送いただいている主宰誌「汀」7月号には、連載「読む力を詠む力へ(7)」には自身の一句が、自句自解のようにして入っているのだが、「今月の季語『滝』」には、本句集にも収載されている句、


  月魄(げっぱく)となる山中の飛瀑かな    弘美


 があり、その一文の最後に「この句は、夜を迎えた湯滝を想像して詠んだ一句で、『月魄』は月の精。人の消えた山中の滝に、月の精が降臨するところをイメージした。青白く発光している滝を思った」と記されていた。本句集における愚生の気に入りの句だった。ともあれ、愚生好みに偏するが、いくつかの句を以下に挙げておきたい。


   「汀」創刊 綾部仁喜先生より祝句「足跡の一筋長し春汀」を賜りて

  長汀をゆく足跡冴ゆるまで

   悼 綾部仁喜先生

  雪嶺を仰ぎ一死を仰ぐなり

  潮満ちて椿の森のくらさかな

  寺町は石積みの町花木五倍子

  獅子舞の茣蓙を打つたる砂塵かな

  夢二忌や沈金の蝶散らしたる

  砂町に波郷恋ふれば霙けり

  綿菅の絹のひかりをほぐしたる

  月の秋水都のみづをひとすくひ

  水瓶(すいびやう)に花鳥尽くせる霜夜かな


 井上弘美(いのうえ・ひろみ) 1953年、京都市生まれ。



   芽夢野うのき「ルリタマアザミ十年戻ればそこにある」↑

2021年7月19日月曜日

高柳重信「友はみな征けりとおもふ懐手」(「俳句四季」8月号より)・・・


 「俳句四季」8月号(東京四季出版)、特集は「戦争を詠むということ/後世に残したい戦争を詠んだ句」。論考は外山一幾「戦争俳句を読みたくない」、樫本由貴「令和のいま、戦争を詠むということは」、今泉康弘「近代・機械・戦争ー戦火想望俳句とは何か」。「後世に残したい戦争を詠んだ句」は、以下に紹介しておこう( )内は句を選んだ執筆者。


   大戦起るこの日のために獄をたまわる    橋本夢道

                        (飯田史朗・黒岩徳将) 

   戦死せり三十二枚の歯をそろへ       藤木清子(栗林浩)

   爛々と晝の星見え菌生え          高浜虚子(田島健一)

   夜濯ぎの水に涙ははばからず       文挾夫佐恵(松下カロ)

   玉音を理解せし者前に出よ         渡邊白泉(松本てふこ)

   春暁の樹々焼けゆくよむしろ美し      桂 信子(宮﨑莉々香)

   友はみな征けりとおもふ懐手        高柳重信(大井恒行)


 他にも、山﨑十生「紫 創刊八十周年」(今月のハイライト)、青木亮人「現代俳人スケッチVOL.24/ー坪内稔典」など、興味、面白い記事も色々あったが、ここでは、筑紫磐井「俳壇観測」連載・223の「二つの協会ー協会に入ろう・どんどんはいろう」の部分を以下に引用しておこう。


 (前略)目的で見る限り二つの協会はあまり変わりなく、伝統とか有季とか、前衛の言葉も出てこない。

 「この会は、現代俳句の向上を図るとともに会員相互の親睦を深め、文化の興隆に寄与することを目的とする」(現代俳句協会規約第三条)

「この法人は、俳句文芸の創造的発展とその普及をはかり、もって我が国文化の向上に寄与することを目的とする」(俳人協会定款第四条)

 現に二つの協会に入会している人も多い。協会より会員の方が進歩的なのである。

(前略)協会への入り方がわからないという人も多い。こういうコラムでいうのは不適切かも知れないがニーズがあれば答えるのもコラムの担当者の仕事だろう。入会したい人がいれば、筑紫が運営する雑誌「俳句新空間」(会費無料。一般下会員には雑誌無料送付)に参加していただければ好きな協会に推薦させていただく。

〇俳人協会:推薦枠をもっている。入会金二万円と年会費八千円。

〇現代俳句協会:推薦人になる。入会金五千円と年会費一万円。ただし私の雑誌は現俳の支援団体になって助成金が出るので入会金を新規入会者に還付する方針である。


 因みに、筑紫磐井は、本年4月より、現代俳句協会副会長に就任している。俳人協会でも長年にわたって評議員を務めていたと思う(愚生の記憶では・・)。

 それにしても、現代俳句協会も入会しやすくなった。設立初期には総会で過半数の賛成必要であったり、愚生の入会のころ(30年前)は、推薦人の他に、最低10票くらいの賛成票が必要だった。愚生は数年前に辞めてしまったが、日本文藝家協会は、たしか二名の会員推薦が必要だったように記憶している。

 ともあれ、本誌本号より、いくつかの作品を以下に挙げておきたい。


  汗吹いてあげる万歳してごらん      津髙里永子

     噎せ返る百合の小路を残さるる       中西夕紀

     長き疫禍

  この秋は犀の鎧もほころびぬ        角谷昌子

  くりかへす白雨のやうに黒い雨       堀田季何

  一枚のうすき桔梗の絽のきもの燃えてしまいてこの世にはなし  永田 紅

  もう誰もいない地球に望の月        山﨑十生

  写真にはたくさんの息夏落葉        対馬康子

  ゆるく着て端居の人になりにけり    こしのゆみこ

  山滴る川を隔ててつぎの駅         花谷 清 

  天の川華厳の滝へ繋がれり         石倉夏生



     撮影・鈴木純一「地方紙の詰碁が詰まず茄子いただく」↑

2021年7月18日日曜日

高橋まさお「広忌やにつぽん戦後のままでいい」(「こんちえると」第44号)・・・

 


 「月刊 俳句通信紙「こんちえると」第44号(牛歩屋主人)、ブログタイトルにした句は、「大牧広三回忌記念俳句大会」の愚生が天に選んだものである。じつは愚生は選句の締め切り日を失念し、送稿した折は、間に合わなければ、ボツにて異存なし、としたためたのだったのが、義理堅くも、別建てになるにもかかわらず、一号遅れの本第44号に、わざわざ掲載されたのである。恐縮のほかはない。従って、愚生が選んだ大会の天・地・人の句を以下に挙げておきたい。いずれも師の大牧広の句が下敷きになっていよう。


 天・広忌やにつぽん戦後のままでいい   高橋まさお

 地・どの路地も輝く海へ大牧忌       福田久司

 人・その地平信じて立ちぬ広の忌      林みよ子


 「こんつえると」は牛歩屋主人こと関根どうほうの月刊通信紙と銘うたれているが、師・大牧広の顕彰のために、すべてが費やされているようにも思える誌である。そのコンセプトは「私と時代を視つめ 生きている証しを詠む/詠みと読みの協奏/いのちの一句募集」と記されている。本号の特集は「追悼 伏見芳村」。また、変ったところでは、特別寄稿として武良竜彦「髙野ムツオの震災詠総括7」の連載があある。また、高橋まさお「時事詠を読む(二十七)」、関根道豊「時評もどき・六月」では、各新聞俳壇選者が採った時事詠句が掲載されている。それにはまた、「今泉康弘著『渡邊白泉の句と真実ー〈戦争が廊下の奥に立つてゐた〉のその後』を読む 2」も紹介されている。ともあれ,本誌より「こんちえると俳壇(雑詠)」第25回の句と追悼の伏見芳村の句を以下に挙げておこう。

 

   人生の放課後にゐてかき氷       田村専一

   その先は断崖といふ沖縄忌       池田和人

   健忘といふ贅沢よハンモック      木村晋介

   あいさつは予約とれたかあつぱつぱ   村田妙子

   小太りの金魚育てて老い二人     小山いたる

   またの世はギリシアの辺りで金魚売   伏見芳村




★閑話休題・・・加藤郁乎「長生きは淋しきものよ椒酒くむ」・・・


 加藤郁乎からいただいた便り(椒酒だから賀状・2008年)、左上に「知友次々となくなり 話相手すくなきが淋し」と記されている。郁乎はこの4年後(2012年5月16日)に亡くなる。享年83。



       芽夢野うのき「桔梗一本机上にはるかなる岬」↑

2021年7月17日土曜日

江田浩司「岡井隆第三歌集を手にとればわたしのためにはじまる他者(わたし)」(『律ーその径に』)・・・


 江田浩司著『律(りつ)ーその径(みち)に』(思潮社)、本扉には、著者と岡井隆のツーショット(未来新年会・1993年1月7日)と献辞「本書をわが師岡井隆の御霊に捧げる。」がある。内容は、詩篇、歌篇はもとより、句も鏤められているが、それは,果して句なのか、歌なのか、あるいは連句風に仕立てられた詩篇となるのか、愚生には見当がついていない。もちろん、それらは、一首としても一句としても読めるし、数行の詩としても読めるという眩暈に満ちている。最後の5章は、献辞にもあるように、文字通り「〈あゆみ寄る余地〉眼前にみえながら蒼白の馬そこに充ち来(こ)よ 岡井隆『朝狩』」を据えて、「О氏に」と付されて、10首が並ぶ。その冒頭三首は、


 それ以後の三十四年うたはあり髭の歌人に逢ひて青夜(せいや)

 さまよへる詩(うた)のゆくへをたづねたり遅れて来たる蜻蛉(せいれい)として

 『朝狩』の扉をひらき幸福が、いや人生があけたと思ふ

 

 である。そして、集名ともなった「律ーその径(みち)に」は第4章であるが、そこから「径」にからむ歌をいくつか引用しよう。


 この空にはほそき径(みち)ありいまだなほ読みあぐねたりトリン・T・ミンハ

 はくめいにひかりを孕みこしゆゑに思惟なす径(みち)をしめすうた人

 さまよへる径(みち)にしるせることの葉のつばさあるべし夢にとぶべく

 ひさかたのひかりの径はきえのこりきぬぎぬの書にさめし歌くづ

 その道はやさしさだけがゆくだらう人のこころをしるひとの手に

 ちひさなる詩へんのしらべそのなかにわたしを終はるそらのみちあり


 そして、「律」、


 うつくしい律(りつ)がわらつたうすさむい風のながるることの葉のうら


 最後に、第2章の「聖ニキ・ド・サンファルに捧ぐ壱〇壱の詩(うた)」から、連句風に配された詩句(歌の前書風にも見えるが)を、まったくつながりを無視してアトランダムに以下に記しておきたい。


    ライフルを構へるニキや冬の星

 弾丸は空を趨りてその痕(あと)を追ふ音や澄み明けをわたらむ

 

    人語なく影のみ水に落ちにけり

 風花はひかりの華となりて舞ふ寒林の影縦横に落ち


    ニキへの手紙 冬の燕に託したき

 東方の女神に宛てて書く手紙 あなたは抱きぬ過去一切を


    木枯らしに蝶の羽音を聞きわける

 冬の蝶うすき光の谿を飛ぶ詩(うた)のゆkへに翼をうちて


    天狼やうすき血のぼる旅をして

 冬の星ながるることを夢に見むこの旅をしも二キの手の痕(あと)  


江田浩司(えだ・こうじ) 1959年、岡山県生まれ。



        撮影・鈴木純一「着衣のマハ/裸のマハ/骸のマハ」↑

2021年7月15日木曜日

塩見恵介「開けないでください虹の窓だから」(『隣の駅が見える駅』)・・・


  塩見恵介第3句集『隣の駅が見える駅』(朔出版)、その帯には、


 平成を駆け抜けた「船団」時代を総決算。

 初夏というよりは「惜春」を思いたい。

 初秋の風を身に受けながら「夏の果て」に心を寄せて。


 と惹句してある。集名に因む句は、


   燕来る隣の駅が見える駅      恵介


であろう。また、「あとがき」には、


 (前略)さまざまな俳句の賞はたしかに現状の俳壇に飛び込むファストパスであるのは確かなのだけれど、この三十年、私はそのパスポートを持つこともなく、しかし有意義に色濃い時間を過ごせたのは僥倖としか言いようがない。俳句に対する恩返しの意味もこめ、この句集を編んだ。したがって、本句集は子育てや仕事など、私個人の生き方にまつわる句だけでなく、時に幼児に、時に女子学生に、時に老いた自分に、変身しながら作った句も多く入っている。また時に虫にも花にも星にもなって作った。

 私にとって俳句は、森羅万象に対する共鳴・共感を探る場である。それを寛容に受け止めてくれる俳句の世界は多幸感に満ち溢れている。(中略)

 句集のタイトルは『隣の駅が見える駅』とした。神戸の阪神電車にはこのような駅があって、いつも私は隣の駅を見て電車を待っている。


と記されている。ともあれ、集中より、以下にいくつかの句を挙げておこう。


   犬動画見て猫動画見て日永

   緑蔭を上書き保存して夕日

   空き缶になって転んで夏休み

   南風こびとは空をウミと呼ぶ

   自転車を鳥居に駐めて秋澄めり

   スタートライン最後に引いて運動会

   球拾いたまに毬栗どけている

   秋空のラの音高きさようなら

   待っているわけではないが初時雨

   十人の手話の拍手や冬銀河

   母マスク子マスク歩くおなかすく

   抱く子にも一粒持たせ鬼は外

   亀鳴いて「愛は勝つ」って誰に勝つ

   関係者以外も置かれ雛飾


 塩見恵介(しおみ・けいすけ) 1971年、大阪府生まれ。 



★閑話休題・・・「第4回口語俳句 作品大賞募集」(主催・口語俳句振興会)・・・・


・募集作品20句(一編) 2019年以降現在までの作品。既発表・未発表を問わない。

・〆切 2021年8月31日(火)

・参加費用 2000円。句稿に同封または郵便振替(00870-8-11023 口語俳句協会)にて

・送稿要領 B4 400字詰原稿用紙一枚に書く(ワープロ可)右欄外に表題を書き、20句(そのままが、選にまわります)。別の200字詰原稿用紙に表題・作者名・所属(なければ無し)・郵便番号・住所・電話番号を明記。

・選考 公開最終選考会を11月、島田市にて開催。

・授賞 作品大賞一編・奨励賞若干編。授賞式は翌年1月、島田市にて。

・発表 口語俳句振興会会報「原点」第9号誌上。

・送り先 422-8045 静岡市駿河区西島912-16 萩山栄一方 口語俳句振興会事務局

          電話・FAX 054-281-3388

・選考委員 秋尾敏・安西篤・飯田史朗・大井恒行・岸本マチ子・谷口慎也・前田弘 ほか旧「口語俳句協会賞」選考委員および「現代俳句」編集長。

・主催 口語俳句振興会、 後援 (株)文學の森 



    撮影・芽夢野うのき「さてはさてはふつか花とてまだ白」↑

2021年7月14日水曜日

大島洋「あれは羅生門の炎か次々鳥になる」(『にぎやかな落とし穴』)・・・


 月波代生・散文集1『にぎやかな落とし穴』(満天の星)、解説は熊谷岳朗「乾杯」、その中に、


 さて、与生さんのペンの強さは何かというと、実践を伴っているからであろうと思う。かくて紫波に突然訪れたごとく、全国各地の大会や句会にも積極的に足を運び、それぞれの良さ弱さを分析し続けている事。(中略)いわゆる自らをも鍛えながら歩み続けている事。そのほかにWeb句会にも参加したり、自身もまた「月波与生と川柳部屋」のブログを開設したり、「川柳の話」等も発行するなど、常に川柳に挑戦し続けているからであろうと思う。


 と記している。また。著者「あとがき」には、


(前略)『与生の川柳ってなんだ』という初心者らしいタイトルで始めたページ、最初の数回は好きな川柳について書いてたものの、当然ながらすぐに書くことがなくなり息切れ、それからは毎月一冊以上句集を読んで勉強して書くという必死で地味な生活が続いた。

 それが七十回を超え現在も続いているのは、稚拙で野暮な原稿を提出する自分を励まして続けさせてくれた『せんりゅう紫波』発行人である熊谷岳朗さんのおかげである。

 二〇一三年にこの二人に会わなかったなら、いま川柳を続けてなかったろうし、この本の誕生もない。


という。この二人のうちのもう一人は「毎月二ページで川柳について何か書いてみない?と誘ってくれたのは徳田ひろ子さん」なのである。散文集なので、多くを紹介するのは困難だが、「分断される川柳、接続する川柳~いま『現代大衆川柳論』を考える」から、結びの部分を引用しておこう。


  (前略)『現代大衆川柳論』(愚生注:斎藤大雄)は、「わかる川柳、わからない川柳」に分断してしまい「分かる川柳が現代大衆川柳である」としたところに最初の躓きがあった。

 それを当事者目線ではなく神の目線のような上位から論じたところに次の躓きがあたった。

 川柳を分断していくのではなく、この時代を生きる者同士が接続するためにツール、つながっていくための方法として川柳を書く、川柳を読む。 

 そのことを意識的に進めていくことが、現代大衆川柳のはじめの一歩になるのではないかと考えている。


 と、述べる。ともあれ、アトランダムになるが、本書の中に引用された柳句のいくつかを以下に挙げておこう。


   外ばかりみている地震後の動悸       北村あじさい

   トンネルに列車が入るそれだけの風景      大島 洋

   日章旗ベッタリ垂れた蒸暑さ           鶴 彬

   のぼったらおりねばならぬじんばらうん    広瀬ちえみ

   人魚棲む町の模型にきょうも雨         川合大祐

   ぎゅっと押しつけて大阪のかたち        久保田紺

   鶴などに折られた紙は眠れない         ひとり静

   きりんの死きりんを入れる箱がない       松田俊彦

   どこを押しても答えてしまう針ねずみ     佐藤とも子

   錆びてきた合鍵すこし重くなる        澁谷さくら

   出て行った窓をしばらく開けておく      米山明日歌

   どこまでが闇だろ辞書を引いてみる       大石一粋

   寝る前に飲むしあわせになる薬         鈴木節子

   つらかった時の写真も貼っておく        荻原鹿声

   まだ言えないが蛍の宿はつきとめた       八木千代

   自画像に三つ目の目を描き入れる         むさし 

   この世という地図にぼんやり立っている   たむらあきこ

   しおり抜く本も自由がほしいのだ        星井五郎

   もう開けていいよと父の遺言書         岩間啓子

   みずみずなみみずくみみずみずみずし     高橋かづき

   待つことにしたのちょっとだけ先で      笹田かなえ

   ずぼらではありますがおっぱいがある      守田啓子

   肉屋から人の声しか聞こえない        徳田ひろ子

   ジョギングの夫婦で同じ靴の減り        真島清弘

   道化師が笑うああ痛いのだろう         水品団石

   二の腕のぶつぶつ今日は卵の特売日       奈良一艘

   振り向けばらっきょうだけに見送られ      月波与生

   怒鳴るの?読むの?問うの?繋がるの?     柳本々々

  

 月波与生(つきなみ・よじょう) 1961年生まれ。



   撮影・中西ひろ美「トンネルを出て夏霧へ行く汽笛」↑

2021年7月13日火曜日

金子敦「逃水を追ふ逃水のやうな吾」(『シーグラス』)・・・ 


  金子敦第6句集『シーグラス』(ふらんす堂)、栞は仲寒蟬、それには、


  『シーグラス』を読み通してこんなに「名は体を表わす」と言うに適う句集はないと感じた。実に様々な色がある。美しいけれども放つ光は原色でなく年月を経た渋みが加わっている。丸みを帯びて誰の心にも和みを届けてくれる。


とあった。集名に因む句は、


    ゆく夏の光閉ぢ込めシーグラス     敦


 である。また、著者「あとがき」には、


  「新緑の光を弾く譜面台 金子敦」という句が、東京書籍株式会社の中学校国語教科書『新しい国語』に採用されることになった。二〇二一年四月から四年間にわたり掲載される予定。誠に光栄なことである。それを記念して、同じ時期に句集を出しておきたいと思った。


 という。ともあれ、愚生好みに偏するが、集中より、いくつかの句を挙げておこう。


   恋猫の尾に花びらの乾きたる

   聖火のごとソフトクリーム掲げ来る

   鰯雲越しにメガホン投げ渡す

   雪女より合鍵を渡さるる

   滑り台経由ぶらんこ行きの風

   銀漢を越ゆる魁夷の白馬かな

   げんこつで笑窪を作り雪だるま

   エッシャーの階段上りゆく朧

   下闇を出て黒猫に戻りけり

   オムライスの旗は靡かず七五三

   

  金子敦(かねこ・あつし) 1959年、横浜市生まれ。


      撮影・鈴木純一「メカニズムは知っているけど虹を呑む」↑

2021年7月12日月曜日

前田霧人「ふるさとの家は更地に水の秋」(「新歳時記通信」第12号)・・・


 「新歳時記通信」第12号(編集・発行 前田霧人)、毎号が労作で、本号も457ページの大部の誌である。第一部に「暦と天地」の第一章に「暦」の解説、第二章~第六章「季節区分・春夏秋冬新年」、第七章に「日」、第八章「月」、第九章「星」、第十章「地」、第十一章「水」と続き、近年の例句も豊富である。巻末に、膨大な主要文献、参考文献、主要歳時記一覧などが付されている。「後記」によると、


 (前略)本号の内容は、暦の基礎から、二十四節気七十二候の沿革、明治改暦、太陽暦歳時記の誕生と成熟までを明示した上で、前号までの内容を除く時候、天文、地理の季題一式を解説し、単行本版各論編の第一部となるものです。(中略)

 本号は約二百部、俳人の方以外への謹呈の予定はなく、また、つて、あてなどありませんが、何とか脱稿までに、出版社が見つかればと思っております。(中略)

 最後に本号のトピックスは次の通りです。(中略)「彼岸潮」は定説の重大な誤りを正すもの、その次の「秋の水」、「秋出水」、「出水」は互いに不即不離の成り立ちを詳述するもので、是非ご参照下さい。


 とある。また、その内容の結論は、気象学のデータを参照しながら、


 378~380頁、「彼岸潮」は春、秋彼岸の頃の大潮で、一年中で最も干満の差が大きいとする説は赤道上の話で、中緯度の日本では、全国的に、むしろ、夏、冬の頃の大潮の方が春、秋の頃の大潮よりも干満の差が大きい。(中略)

 396~401頁、「秋の水」、「秋出水」「出水」の成り立ちは互いに密接な関係にあり、「専ら澄(すむ)心」が本意の「秋の水」が江戸期に「秋出水」の本意を付加し、明治期に「秋出水」の本意が独立して季題「秋出水」となり、「秋の水」は「専ら澄(すむ)心」の本意のみに戻り、更には「秋出水」傍題の「出水」が夏に季を変え独立する過程を詳述する。

 そして、その中で、虚子は季題「秋出水」、夏の季題「出水」の誕生の両方に深く関わっている。


 とも記されている。さらに、創刊号は2008年4月、それから13年が経っているのだ。


 今後は、これまで書いたものを、凡例に基づいて書式を統一し、その後の資料を加え、筆者の考え方の変化も加味して、本号の第一部に続く気象、風、琉球の各論編各部、総論編を全面的に書き直し、脱稿までに、おおよそ三年、出版までに二年、計五年、筆者の年齢が次の大台に乗るまでに、を目途に進めてまいります。


 と言う。大台とは傘寿であろう。見事な心ばえである。敬意の他はない。健康に留意され、ひたすらな健筆を祈るのである。ともあれ、例句から、いくつかの句を紹介しておこう。


   彼岸潮とおほくに見えて父祖の墓      柴田白葉女

   彼岸潮白浮びきて海女となる         鈴木鷹夫

   焼き玉の匂ひ舳先に彼岸潮          鷹羽狩行

   砂山に四五人現れぬ彼岸潮          桂 信子

   ゆくひとへまこと一勺朱夏の水        加藤耕子

   夜も昼もくるぶし過ぎる夏の水       宇多喜代子

   生はとく死は歴(へ)て告(つげ)よ秋の水    白雄

   秋水のなかにゆつくり指ひらく       正木ゆう子

   水の秋ローランサンの壁なる絵        高 篤三

   水澄みて至るところに水の傷        杉本青三郎

   水澄むや宇宙の底に入る私          神野紗希

   金色の鯉をつれ去る秋の水          杉山久子 

   幾人のわれもて埋めん秋の潮        高山れおな

   いちにちのひかりがあそぶ秋の川       飯島晴子

   秋の潮しばらく息を吐かずにおく       佐藤文香

   秋出水島田金谷(しまだかなや)の秋出水    東洋城

   ほつてりと没日(いりひ)ありたる出水村   山尾玉藻

   うつくしき腕見えてゐる出水かな       岸本尚毅

   洪水に大地果てしなく生まれ         和田悟朗

    


     撮影・芽夢野うのき「海菖蒲の雄蕊に目鼻つけたしよ」↑

2021年7月11日日曜日

芭蕉「夏草や兵共(つはものども)が夢の跡(あと)」(『芭蕉の天地』より)・・・


  髙野公一著『芭蕉の天地/「おくのほそ道」のその奥』(朔出版)、およそ芭蕉に関する著作は、数えきれないほど、多くのものがあり、さらに、著者も「あとがき」で述べているように、「昭和・平成の時代は、重要な文献資料の発見が相次ぎ、その研究はこれまでになく熱気を帯びるこになった」のであり、それら先達の研究に多くの恩恵を受けている。とはいえ、愚生は、加藤郁乎の言に倣うわけではないが、芭蕉と歩く道を異にすると、いささか斜に構えてきてはいるのである。言ってみれば、芭蕉に関しては、嵐山光三郎『悪党芭蕉』のような読み物のようなものに、興味をそそられたりする、むしろ、本道から見れば、実に場違いの輩なのだ、ということを告白しよう。

 内容については、目次を見ていただければ、おおよそが見当がつかれるであろうから、以下に記しておきたい。第1章「頭陀袋の一冊ー趣味か遺書か鎮魂か」、第2章「いざ、歌枕ー田植え歌・光堂・ねぶの花」、第3章「芭蕉の『天地』ー雲の峰は幾つ崩れたか」、第4章「天空の越後路ー芭蕉は荒海を見たか」、第5章「萩と月ー踵の痛踏み終えて」、第6章「『書留』から『ほそ道』へ―俳諧道中記の発句(1)」、第7章「行く道・帰る道ー俳諧道中記の発句(2)」、第8章「歌仙の時ー素顔の旅の俳諧師」、第9章「天地とともにある俳諧—不易流行論の原像」。

 思えば、髙野公一は、小倉綠村、松井国央、山本敏倖と長い間恩義を受け続けている「山河」同人でもある。そして、その誌に掲載されてきたいくつかの彼の論にも、その都度、一読の機会を得てもいる。なかでも、現代俳句評論賞やドナルド・キーン優秀賞を受賞された作品には、注目してきた。むしろ、それゆえというべきか、このたび一本に纏められたことによって、一層の厚みをも感じている。言えば、冒頭の第1章「頭陀袋の一冊」には、改めてスリリングな思いを抱いたのだった。例えば、『曾良日記』の部分では、

 

  西村家に伝えられてきた一書が紛れもなく素龍清書本そのものであることを頴原退蔵博士が確認し発表した昭和十八年に、もう一つの事件が起こった。いわゆる、通称『曾良日記』の出現である。(中略)

 それが、昭和十八年に突如、山本安三郎によって翻刻出版され、世に紹介されたのである。(中略)

 この書を翻刻出版した山本安三郎は、原本の所有者を学会の誰にも明かさないまま死去してしまう。当時、岩波書店『奥の細道』改版の話が出ており、そこに付録として載せたいと希望がだされていたが、原本を確認できないままに、山本の翻刻をそのまま使用することは出来ないと考えた杉浦正一郎博士と編集責任者は、山本が漏らしていた「伊東」という呟(つぶや)きを頼りに伊東を訪れ、「神の引き合わせのような」原本を探し当てる。杉浦は天理図書館に購入を斡旋(あっせん)したが聞き入れられず、結局、杉浦自身が妻名義の自宅を売却してこれを贖(あがな)い、「私は『日記』が満一好事家の手にでも入って、再び学会に活用出来なくなるようなことでも起これば大変と思って身の程を忘れたのである」と語った。

 曾良の腰帳が誰でも手軽に読めるようになるまでに様々な人間ドラマがあった。


 と記されている。あるいはまた、第3章「芭蕉の『天地』」では、


 (前略)それにしても、芭蕉はなぜ出羽三山に登ったのだろうか。このことをこれまで誰も疑問に思わなかったのは不思議である。三山合祀(ごうし)の社(やしろ)である羽黒山に立ち寄る程度ならまだ分かる。単に風雅を求める旅なら、なにも月山・湯殿山まで苦業の足を延ばす必要もない。芭蕉の求める「風雅」は、月山山頂へ自ら登り詰めることを求める「風雅」であるということなのであろうか。彼が風雅を求めるのは、死と再生の修験の行に自らを追い込んでゆく生き様だということなのであろうか。


 と述べられている。ある意味『ほそ道』でのピークでもあるが、登拝では「お山でのことは他言無用の誓いをたてさせられる」とあり、思い出したことがある。余談になるが、愚生が湯殿山に登ったとおり、神体である湯の湧き出る岩の肌を赤い蛇がするすると昇っていくのを目撃した。他言をするとご利益も何もなくなると思い、これまで言わなかったが、不思議な偶然もあったものである。今日のブログで、愚生の悪運も尽きるかもしれない。本書の巻末には、資料として、「『おくのほそ道』旅吟一覧」「『おくのほそ道』発句一覧」「『おくのほそ道』旅中の主な連句」が収載されている。それだけでも、面白く読める。ご一読あれ。そして、


  なお、この一書は、父髙野聖魂、養父剛、母ムツ、妻の父大沼悦良、母きみ江の霊に捧げたいと思う。父母は越後で、養父母は出羽で生涯を過ごした。俳諧師芭蕉は三百年前にこの地を巡り、「五月雨をあつめて早し最上川」「文月や六日も常の夜には似ず」と詠んだ。そして三百年後の今なお、梅雨の時節、七夕の季節には、芭蕉その人の霊がこの地を訪れ続け、父母たちと、それぞれの土地の本情といったものを仲立ちにしながら、心を通じ合わせているように思えてならない。(あとがき)


 という。ともあれ、本書より、芭蕉の発句をいくつか挙げておこう。


   五月雨の降のこしてや光堂

   閑さや岩にしみ入蟬の声

   語られぬ湯殿にぬらす袂かな

   暑き日を海にいれたり最上川

   象潟や雨に西施がねぶの花

   荒海や佐渡によこたふ天の川

   一家に遊女もねたり萩と月

   石山の石より白し秋の風

   蛤のふたみにわかれ行秋ぞ


 髙野公一(たかの・こういち) 1940年、新潟県上越市(直江津)生まれ。



  撮影・中西ひろ美「なれとわれかなしをかしにあはひあり」↑

2021年7月9日金曜日

宇佐美魚目「冷えといふまつはるものをかたつむり」(『宇佐美魚目の百句』)・・・

 


 武藤紀子『宇佐美魚目の百句』(ふらんす堂)、巻末の「美を求めて」には、


 (前略)魚目は、ギャルリー・ユマニテで香月の絵を一枚買っている。「舟上」というその作品は、黒い舟の上に黒い人間が乗っている。五人目は右手だけが描かれ、手を振っている。他の四人はみな、腕を組んでいるのだ。

 この舟に乗っているうちの一人は、実は僕なんだと魚目はよく話していた。魚目が敬愛していた香月泰男の言葉がある。

「一瞬に一生をかけることもある。一生が一瞬に思える時があるだろう。」

夜明けの暗い空に真っ赤な太陽がのぼる。

死者はその太陽の下に葬られるのだ。

 あかあかと天地の間の雛納       魚目   (中略)


 句会で誰かが「どうして自分の句がとられなかったのですか」とか「どこが悪かったのですか」などと聞いても、虚子は完全に無視して、そんなばかなことは聞くものではない、句が悪いからとらないのだとばかり、にらみつけていた話も聞いた。それ以来私達も、気楽に質問するということはなかった。

 俳句は教えてもらうのではなく、自分で考えるものだとつくづく思い知ったのだった。(中略)

 高村光太郎の彫刻も、香月泰男の絵画も、高浜虚子の俳句も、それぞれに美しい。

 何か根源的な厳しさを持った美しさがあるように感じられる。

 魚目に強く惹かれたのは、この美というものではないかと私には思われるのである。

 冬の厳しさ、冷たさ、純粋さを持った美なのである。


 とあった。愚生も若き日、香月泰男にはもちろんだが、野見山朱鳥とともに宇佐美魚目に魅せられていた時期があった。愚生の故郷・山口県長門市には香月泰男美術館があり、是非一度伺いたいと思いながら、帰郷することもなく半世紀以上。まだその望みを果していない。ともあれ、本書より、句のみになるが、いくつかを挙げておきたい。


  白湯吹いてのむ春風の七七忌       魚目 (朱鳥を悼む)

  雪吊や旅信を書くに水二滴

  東大寺湯屋の空ゆく落花かな

  初あらし周防に一つつらき墓      (香月泰男の墓)

  雪兎きぬずれを世にのこしたる

  死はかねてうしろにされば桃李

  棹立ちの馬の高さに氷るもの

  雪解山描くに一本朱をつよく

  それぞれに火桶青年爽波あり

  うきくさや密教どこか赤く揺れ

  二ン月やうしろ姿の能役者

   祝・圓座創刊

  一山の鳥一つ木に秋の晴


 武藤紀子(むとう・のりこ) 昭和26年、石川県金沢市生まれ。



     撮影・鈴木純一「更地にはアレチノギクもまちわびて」↑

2021年7月8日木曜日

岸本葉子「空池を黄雀風の吹く日なる」(『つちふる』)・・・ 


  岸本葉子第一句集『つちふる』(角川書店)、集名に因む句は、

 

   つちふるや汀の線のかく歪つ      葉子


  だろうが、「つちふる」では、他に、


   霾や旗の余白に名の数多


 の句がある。こちらの方が味わいが深いかも知れない。また、「あとがき」には、


 (前略)残すことは考えていなかった。兼題や席題、遭遇した事物をきっかけに、思いがけない十七音が自分の中から出てくる驚き、その場を人と分かち合う高揚感のうちに過した。

 立ち止まったのは二〇二〇年、疫病の蔓延のため句会に集うことができなくなったときだ。散逸してしまわないうちに保存しよう。緊急事態宣言のため家にいる時間がかつてないほど長い、今しかない。(中略)

 ひとりの作業も、孤独ではなかった。一句一句に、その句の生まれる場を共有した人々を思い出していた。句の数は、参加する句会の定まった二〇一三年以降が圧倒的だ。作句における句会の存在の大きさを実感する。


 とあった。ともあれ、愚生好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。


  嚏して酒のあらかたこぼれたる

  土を蹴り木の根を踏みて神遊

  伝鎌倉街道烏瓜の花

  秋扇をたたみて軽したたまぬも

  石段の先は水際秋の昼

  水音か枯葉のこはれゆく音か

  四畳半・裸・経済学序説

  外套や消えゆくものに革命歌

  暴虐と伝はる王の裘

  さうあれが海市のくづれはじめなる

  死なないでゐるから餌をやる金魚

  月光を攫ひて戻らざる波か

  凍鶴をもつて墓標となせと文

  ひとつだにこぼれ落ちざる昴かな


 岸本葉子(きしもと・ようこ) 1961年、神奈川県鎌倉市生まれ。




★閑話休題・・・日本現代詩歌文学館・10月10日(日)「きたかみ鬼の国 俳句フェスティバル」(於・さくらホール)・・・


 日本現代詩歌文学館・10月10日(日)「きたかみ鬼の国 俳句フェスティバル」シンポジウム「怖い俳句を語る」。シンポジスト/募集句選者は、宮部みゆき・夏井いつき・神野紗希(コーディネーター)。当日句(一人一句)選者は白濱一羊・照井翠・高野ムツオ・粟津ちひろ。当日句の受付は午前11時~12時半。

当日参加(無料)は、募集句への応募が条件。

★作品募集 締切  8月10日(火)必着

      応募料 2句一組/1000円(専用応募紙は詩歌文学館ホームページからダウンロード)。

      応募先 024-8503 北上市本石町2-5-60

          日本現代詩歌文学館 俳句フェスティバル 係



     芽夢野うのき「ひまわりの種をたべると耳鳴りす」↑

2021年7月7日水曜日

渡邊白泉「鶏(とり)たちにカンナは見えぬかもしれぬ」(『渡邊白泉の100句を読む』)・・・

 


 川名大『渡邊白泉の100句を読む』(飯塚書店)、帯の惹句に、


 多彩な表現様式への挑戦/戦争が廊下の奥に立ってゐた/白泉の人生の全貌と、傑作の斬新な読み解き


とある。まさに川名大の近年の労作である。「あとがき」の中には、


  ところで、本書は「俳句と生涯」という執筆の縛りがかけられているので、従来の方法とは逆に、白泉の生涯を可能な限り具体的に詳細に調査し、それを効果的な補助線として俳句を読み解くという方法を採った。そのために多くの参考文献の博捜をはじめとして、Web検索や、白泉の生涯にかかわる事柄に多くの情報をもつ方々にご教示を仰いだ。


 と記されている。本書に直接あたっていただければ、その詳細にも触れていただけるが、本ブログではそうもいかない。一例のみを紹介しておこう。


   玉音を理解せし者前に出よ   『白泉句集』昭和二十年

 初出は稿本句集『白泉句集』(昭44)で、「函館黒潮部隊分遣隊」と詞書のある三句中の第二句。(中略)

 この「玉音を」の句に初めて具体的に言及したのは神田秀夫である。

  列から一歩「前に出る」のは、ほめられる時も叱られる時もあるが、ここは「前に出よ」といっては教育してきた下士官に対する作者の精いっぱいの皮肉であろう。(「白泉の噴出」既出)

 この昭和六十年に書かれた簡明な評によって、「前に出よ」への私の長年の不明はようやく氷解した。軍隊生活では何ごとによらず、士官や下士官たちは兵に対して、一歩前へ出て行動・発言するよう教育し、兵たちはその規律に従った。軍隊生活を送った俳人たちはそういう規律を体験してきたので、この句にただちに反応できただろうが、戦後教育を受けてきた私には難解だったのである。(中略)

 日ごろ、「前へ出よ」と命令してきた上官の言葉を鸚鵡返しに使った上官への意趣返しである。「前に出よ」によって玉音を理解できない上官の狼狽ぶりへの痛烈なイロニイを打ち出した。

 この句の後の

   玉音終るや長官の姿なし

も、日ごろ、兵に対して皇国思想を吹き込んできた長官の豹変ぶりへの揶揄であろう。


 白泉の句は、戦争に関する戦前の句が、広く喧伝されているが、戦後、俳壇に登場することなく、ひそかに、作られた句に、なかなか味わい深い句も多い。ともあれ、以下にいくつかの白泉の句のみになるが、挙げておきたい。


   三宅坂黄套わが背より降車        昭和十一年

   銃後といふ不思議な町を丘で見た     昭和十三年

   赤く青く黄いろく黒く戦死せり        〃

   繃帯を巻かれ巨大な兵となる         〃

   戦争が廊下の奥に立ってゐた       昭和十四年

           (促音は自筆稿ではすべて小さく表記されている)

   憲兵の前で滑って転んぢゃった      昭和十四年

   夏の海水兵ひとり紛失す         昭和十九年

   終点の線路がふっと無いところ      昭和二十二年  

   砂町の波郷死なすな冬紅葉          〃

   まんじゅしゃげ昔おいらん泣きました   昭和二十五年

   日向ぼこするや地球の一隅に         〃

   石段にとはにしやがみて花火せよ     昭和三十年

   手錠せし夏あり人の腕時計        昭和三十一年

   桃色の足を合はせて鼠死す        昭和三十二年

     教へ子は皆美しく成人す

   秋まぶし赤い帽子をまづお脱ぎ      昭和四十年 

   谷底の空なき水の秋の暮         昭和四十三年


 川名大(かわな・はじめ)1939年、千葉県生まれ。



  撮影・芽夢野うのき「囚われの身にからみつくのうぜんの花」↑

2021年7月6日火曜日

佐藤文香「トケーソー知っとうし触ったあかんとかゆわれてへん」(『菊は雪』)・・・


  佐藤文香第三句集『菊は雪』(左右社)、そのいきさつについては同送された「quca  THE FINNAL」が「『菊は雪』刊行記念特集」で、佐藤文香と太田ユリの特別対談を行っている。その他のいきさつについても、「あとがき」代りの巻末に添えられた横書きの「菊雪日記」に縷縷述べられている。特別対談の中では、


  佐藤 (前略)だから、まずは一番尊敬している同世代の俳句作家たちを信じて、句集を作ろうと思った。自分は、俳句の真ん中を見るときは上を見ているんだけど、外を見るときは平行にみている。自分じゃないところまで行けるような仕事をしているとき、外に開こうという視線ではないんだよね。外向きの視野を一旦捨てることによって、より価値のあるものが作れると思った、という感じです。


 と述べられている。本文の文字が小さいので、愚生などのロートルには、要天眼鏡である(これはガマンするしかない。なにしろ佐藤文香には文香の志がある)。しかも、古世代の愚生には「菊と雪」ときたら、もう一気に戦前の昭和維新の歌に直結して、2・26事件を思い浮かべてしまうほど・・・。与太話はこれくらいにして、「菊雪日記」からは、攝津幸彦関連のところを引用しておきたい。


  3/27 古書店で攝津幸彦句集『陸々集』(弘栄堂書店)を発見。仁平勝による別冊「『陸々集』を読むための現代俳句入門」もセット。1992年刊行。この日記を書き始めるときに、句集を読む際の攻略本のようなものになるだろうと書いたが、先に思いついた人がいるものだ。(中略)

『陸々集』と本書との大きな違いは、この日記を私自身が書いていることにある。もしかすると自分は今、佐藤文香のたった一人の親友としてこれを書いているのかもしれない。


 とあった。じつは愚生が佐藤文香に初めて会ったのは、愚生の勤務先であった吉祥寺駅ビルの今は無き弘栄堂書店に、第一句集『海藻標本』(2008年刊)をみずから売り込みに来られたときだ。たぶん、ふらんす堂・山岡女史に紹介されてきたのであろうとおもうが、愚生はすでに書籍部門の担当を外れていたので、詩歌の担当者に、ちゃんと店頭に並べるように伝えたのであった。こうした営業は、なかなかできることではない。当時、句集と言っただけで、多くの書店では、けんもほろろ、とりつくすべもない冷たい仕打ちが待っていたはずである。ともあれ、愚生好みに偏するが、本集よりいくつかの句を以下に挙げておこう。


   みづうみの氷るすべてがそのからだ      文香

   不器男忌の身にあなたとは闇なるを

   まつぼくり言葉は父をおぎないぬ

   葉脈のわかれつくして氷雨かな

   パターンで書ける俳句や敗戦日

   これが淑気しあわせなどを書きはしない

   特急に夏の一級河川かな

   枯芭蕉かんかくによい風が吹く

   鎌倉や雪のつもりの雨が降る

   雪月花夏のかもめは夏の白

   火は消えるとき火の声の冬の園

   また来たんかと、夏、伊勢丹に思はれたり

   木を過ぎて木々と出会ひぬずつと雪

   香水瓶の菊は雪岱菊の頃

   真菰枯れ折れたり沖は日の塒(ねぐら)

   ほたるぶくろ君に逢ふのを君がゆるす

   また逢ふならば喋ることなどない冬だ

   身にうつす日毎の菊のふるまひを

   ゆめにゆめかさねうちけし菊は雪


 佐藤文香(さとう・あやか) 1985年、兵庫県神戸市生まれ。



          撮影・鈴木純一「梅雨晴間聰太翔平午後六時」↑

2021年7月4日日曜日

あざ蓉子「愛人を水鳥にして帰るかな」(『あの句この句』より)・・・


 

 『あの句この句ー現代俳句の世界』(創風社出版)、その坪内稔典の「あとがき」には、


 俳句雑誌「船団」の最終号(一二五号)に在籍していた人々の自選五句、それを集めてこの本はできている。千句を越す句がここにはあるが、読者の誰かによって拾われ、どこか思いがけない場所で話題になる、そうしたことが起こったらどんなにいいだろう。いや、俳句って、そうした偶然というか思いがけない出会いによって生きる詩なのだ。(その活動の事象としてこの本『あの句この句ー現代俳句の世界』もある。

 「船団」の歴史において、とても刺激的に活動しながら、途中で他界した人がいた。あるいはなんらかの事情で活動の停止を余儀なくされた人も。そういう何人かをここにとどめておきたい。

 まずは熊本県玉名市のあざ蓉子。一九四七年生まれの蓉子には『夢数え』(一九九一年)『ミロの鳥』(一九九五年)『猿楽』(二〇〇〇年)『天気雨』の四冊の句集がある。初夏の集いに現れる真っ赤なドレスの蓉子は、ある時期の船団の象徴だった。

   朧夜やいつさいはづす身の飾り

   春の暮どうしても耳みつからぬ

 (中略)

 ともあれ、「船団の会」としての刊行物はこの本で終わりである。この本の編集中に折原あきの、甲斐いちびん、宮嵜亀、山中正己が他界した。


 としるされている。思えば、あざ蓉子は、攝津幸彦健在の頃の「豈」同人でもあった。愚生は、上京したあざ蓉子と新宿東口の今は無き談話室・滝沢の2階で攝津幸彦、仁平勝とともに会い、その場で、あざ蓉子は「豈」への入会を決め、たしか、その後、あざ蓉子の第二句集のための参考までにという希望を受けて、各人で300句程度の選句を行ったようにも思う。現在、あざ蓉子は病気療養中と聞いている。かくいう愚生は、創刊号の「船団」では会員であった。それは、当時の文字通り愚生らの俳句のシーンを領導してきた「現代俳句」(ぬ書房)を終刊させた後に、坪内稔典が、いよいよ彼中心の雑誌の創刊にエールを送り、いくらでも支援したいという気持ちだったからである(初期には、そういう会員が多かったように思う)。その後「船団の集い」にも参加したことがあるので、古い方などには面識もある。ともあれ、以下に本書より、それらの方の一人一句を以下に挙げておきたい(すべての人とはいかないかも知れないが)。


   前へススメ前へススミテ還ラザル       池田澄子

   炎天に重くひしめく千羽鶴          内田美紗

   牡丹から出てゆく牡丹のやうなもの      岡野泰輔

   人の世に父の日船に羅針盤         折原あきの

   満開の桜のうしろから抱けり         小西昭夫

   ペンギンと空を見ていたクリスマス      塩見恵介

   膝に傷渡船に夏の波がしら          谷さやん

   裸楽し世界よ吾に触れてみよ        津田このみ

   着ぶくれの媼一日して成らず        つはこ江津

   たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ     坪内稔典

   怒るからどんどん増えるブロッコリー     寺田良治

   福助のお辞儀は永遠に雪がふる       鳥居真里子

   桜咲くそうだヤカンを買いに行こ       中原幸子

   BARいつも席に鷹座す角瓶も         能城 檀

   キャラメルの空箱虹をしまいこむ       東 英幸

   天高くみんなで道をまちがえる        火箱ひろ

   人を恋うつまりこうして落葉掻く       陽山道子

   万緑や鳥に鳥の子蚊に蚊の子        ふけとしこ

   黒白(こくびゃく)の花は子午線上に咲く  武馬久仁裕

   小春日や隣家の犬の名はピカソ        皆吉 司

   ナイターのみんなで船にのるみたい     三宅やよい

   ペンギンと桜を足したような人      芳野ヒロユキ  

   空蝉の中に風吹く無言館           若森京子 

   緑雨です今くちびるに触れないで   わたなべじゅんこ



     芽夢野うのき「なぜかかなしや青柿がめにしみる」↑ 

2021年7月3日土曜日

遠藤由樹子「青葉冷え小鳥に頭痛あるかしら」(『寝息と梟』)・・・



  遠藤由樹子第二句集『寝息と梟』(朔出版)、著者「あとがき」には、


 (前略)様々な出来事があったが、私にとってこの歳月は総じて人生のよき季節であったと思う。至らぬことも、嬉しいことも、心躍ることも多々あった。たった十年ほどの月日だが、既に夢に似た眩しさを帯びている。(中略)昨日の続きに今日があり、今日の続きに明日がある。その積み重ねが何より大事だという気がしている。日々の中で、何らかの対象を慈しむ瞬間がある。その慈しむという感情を言葉にして残したいというささやかな衝動に駆られて、私は俳句を詠んできた。自分の俳句は、大切な何かを守りたいという気持ちの表れなのかもしれない。


 と記している。集名に因む句は、


   血を分けし者の寝息と梟と     由樹子


であろう。ともあれ、愚生好みに偏するが、幾つかの句を挙げておこう。


   人を呑む海とは知らずに雀の子

   翼にも骨あるあはれ春の雁

   夕顔や人目に触れぬ鳥の耳

   来年も去年も遠し返り花

   齧ること好きな兎の眼を覗く

   どの径に逸れても桜散りかかり

   あつけなく死ぬ籠の鳥麦の秋

   夏空を音なき国と仰ぎけり

   草おぼろ十日十一日と過ぎ

     追悼 鍵和田秞子先生

   雨を縫ふ緋鯉となりて戻られよ

   切株が草に溺るる日の盛

   折目から傷みし手紙天高し

   ゆく年の泡の色なる月仰ぐ


  遠藤由樹子(えんどう・ゆきこ) 1957年、東京生まれ。



      撮影・鈴木純一「蛍草 あなたは私の母ではないな」↑