2019年7月31日水曜日

辻内京子「永き日の小鳥屋に水匂ひけり」(『遠い眺め』)・・



 辻内京子第二句集『遠い眺め』(ふらんす堂)、帯の惹句は小川軽舟、それには、

  身近で親しい情景なのに、なんて静かなんだろう。/それを遠く眺める目は、生きてきた時間を見ているのかもしれない。/私は辻内さんと同世代だから、とりわけそう感じる。/思わずその時間を呼び止めたくなる。

 と記されている。集名の由来については、著者「あとがき」に、

 句集名『遠い眺め』は「目の前を遠く眺めて春焚火」に拠ります。春焚火を眼前にしたときの心理であり、言うなれば人生の実相であると思います。眼の前のことだけにとらわれていると決して見えないこと、それはちょっとした心の置き方によって気づくことができます。日常の中で見えるものや景色を詠む。そこにもう一歩先にある世界が立ち現れ句に重層性が生まれる。それが私の目指す俳句表現です。

 と、言挙げされている。このところ「鷹」創刊55周年を記念してか、「鷹」連衆の書物の上木が続いている。ともあれ、以下に印象に残った句の中からいくつか挙げておきたい。

  心よりからだ素直や水澄めり      京子
  雪だるま片側暮れてゐたりけり
  炎昼の港やジープ錆びてをり
  フライドチキン骨の血のいろ冬の海
  振りかえりつつ遠ざかる日傘かな
  父のため作る一間やゆすらうめ
  亡き人の白桃つよく匂ひけり
  いちじくを食ふ唇のゆゆゆゆと
  次のなき約束クリスマスキャロル
  篳篥は立ち上がる音や堂涼し
  信号に人は従ひ秋の暮
  
 辻内京子(つじうち・きょうこ) 昭和34年、和歌山県生まれ。




★閑話休題・・関口比良男「しかばねのひとつがふいに咳をする」(「現代俳句」8月号より)・・


 「現代俳句」8月号(現代俳句協会)の「直線曲線」に山﨑十生は「八月に思うこと」と題したなかに、以下のように述べている。

 (前略)関口比良男の言葉に「無季を容認し、口語を容認し、破調を容認するのは作家としての真情を尊重するからである」がある。これは、俳句の基本的なあり方であり、「有季・定型・旧かな」を絶対条件と決めつけてしまうことは危険である。それは、個人的な理由に過ぎず「有季・定型・旧かな」のお題目を押し付けることは作家としての真情には程遠い。自由で柔軟な態度こそ、俳人としてあるべき姿である。(中略)
 「紫」の師系が、ホトトギスの流れに分類されているのは、関口比良男が、上林白草居がホトトギスの有力同人だったから無理もないことである。しかし、「紫」の師系は、関口比良男が、富澤赤黄男・高柳重信等と同人誌活動を共にしたことのほうが、「紫」の系譜として本流ではないかと私自身は思っている。

 以下は、同誌同号同文中の山﨑十生の句である。紹介しておこう。

  もう誰もいない地球に望の月     十生
  合歓の花被曝元年生まれかな
  アフガンの冬 青空で飢え浚ぐ


2019年7月29日月曜日

滋野さち「『戦争は嫌だ』と言える令和かな」(「川柳スパイラル」第6号)・・



 「川柳スパイラル」第6号(編集・発行人 小池正博)、特集は「現代川柳の縦軸と横軸」、論考は、藤本秋声「京都柳檀と革新の歴史」、桒原道夫「『川柳雑誌』発刊までの麻生路郎」。
 前者の藤本秋声の論について、門外漢の愚生の無知ゆえに、とりあえずの結社・団体などの離合集散について、概略を知ることはできたが、その離合集散の歩みが、どのような理念のもとに、あるいは、戦前であれば、支配権力との対応などによって、つまり何によってもたらされたのか、その原因がうまく愚生に届かなかったのは残念だった。またべつのチャンスを待ちたいと思う。
 小池正博「川柳を届けるということ」では、「重版出来」に「じゅうはんしゅったい」とあったが、愚生が書店員だった頃は、「じゅうはんでき」と言っていた(時代も変わったものだ。昔は、版元・書店でのやりとりは、パソコン・メールなどもなく、営業マンと直接に電話などだったので、「しゅったい」はたぶん発音しにくかったから、現場では使われなかったのだろう)。大量でなくても少部数でも「重版」は重版だった。それが短期間で行われれば、「たちまち重版」という宣伝文句にもなっていた。もちろん大量の場合は○○刷(すり)と言い、例えば、5刷(ごずり)、10刷(じゅうずり)ともなれば、まあ、ベストセラーに近づく・・というような感じだった。ともあれ、一人一句を以下に挙げておきたい。

  「前向きに」と言われ回転椅子回す      滋野さち
  エステサロンに白雪姫の遺灰         森山文切
  精液が菩薩になってゆく 無外       くんじろう
  いちごみるく風味にハグされる舌       八上桐子
  利が在ると言われてみんなの気が揃う     石田柊馬
  見送ってブルーグレーが残される       一戸涼子
  パンダにもなれる朝焼けにもなれる      畑 美樹
  握ってもさすっても地味な指         小池正博
  このことはフリーズドライしておくわ     浪越靖政
  万博にPを忘れる大奇術           川合大祐
  いいピアノですね死体も隠せるし       飯島章友
  撤回もせずに桔梗の青だった        清水かおり
  印鑑をかざすと消える遊園地         悠とし子
  閲覧できます毛羽立った文字が並んでいる   湊 圭史
  マトリョーシカな日曜参観          兵頭全郎




 ほかにイベントのチラシが入っていた(写真上 ↑)。9月28日(土)15時~17時「現代川柳と現代短歌の交差点」(於:梅田  蔦屋書店店内4Fラウンジ)、司会は小池正博、パネリストは、岡野大嗣・なかはられいこ・平岡直子・八上桐子。参加費1500円。主催:梅田蔦屋書店、共催は港の人。川柳の応募などがあり、問い合わせは、主催の蔦屋書店 umeda_event@ccc.co.jp

     

2019年7月27日土曜日

打田峨者ん「思ひ出せさうな気がして優曇華よ」(第149回「豈」東京句会)・・

 


 今日は、隔月開催の「豈」第149回句会(於:白金台いきいきプラザ)だった。颱風襲来の予報もあったが、とりあえずは晴れ。以下に一人一句を挙げておこう。

  濡れ縁だったり瑠璃蜥蜴だったり      羽村美和子
  落雷が咬む映像の一刹那          笠原タカ子
  夏草に深まる廃屋の自由          川名つぎお
  偏平足寝釈迦の如くシエスタ        打田峨者ん
  B4の夕立しかもモダニズム         山本敏倖
  雲つかむ話何やら心太           杉本青三郎
  蟬の爪穴を這い出てくる私         小湊こぎく
  その蚊帳にどんなに入りたかつたか      渕上信子
  不器量な金魚を値切る昼下り         福田葉子
  部活終え三三五五のアキレス腱        早瀬恵子
  踝に力瘤あり夏登山            伊藤左知子
  日盛りのうつらや戯画に波の音        大井恒行 

 次回は、いつもの奇数月最期の土曜ではなく、会場の都合で、9月29日(日)、午後一時より、同場所で開催。どなたも参加自由です。




  ★閑話休題・・特集「『令和』の一句」(「俳句新空間」第11号)・・


 「俳句新空間」第11号(発行人:北川美美・筑紫磐井、協力者・佐藤りえ)の特集は「『令和』の一句」、「新元号『令和』施行後はじめての一句をお寄せいただきました」とある。総勢44名の方々が寄稿されているが、本ブログでは紹介しきれないので、「豈」同人のみになるが以下に挙げておこう。因みに、「前号作品鑑賞ー平成三十年収穫帖鑑賞」は、もてきまり・小野裕三、両氏ともに犀利な批評眼が光っている。

  仰け反れば令和の空や燕子花      夏木 久
  令和初湯して聴くは弥次郎の大法螺   井口時男
  そして令和卵の殻を重く剥く      山本敏倖
  能天気令和元年時鳥          渕上信子
  姿勢よき鶏の歩よ夏来る        飯田冬眞
  松の芯令和の空気外苑に        坂間恒子
  新緑を二人三脚のティアラ       神谷 波
  たんぽぽやぽぽぽぽぽつと生きたいわ  田中葉月
  暗君や阿部一族的令和 春       大井恒行
  令和元年そぞろにやまと心かな     加藤知子
  水使ふ令和の春の日数かな       秦 夕美
  昨日より眉細く引く改元日       北川美美
    令和元年五月一日
  祝典や人の上には人おかず       堀本 吟
    レ・イ・ワの折句として
  礼尽くし井戸の中より鰐の王      髙橋修宏
  春うらら戻れば戻る雛の道       神山姫余
  思い出せぬ言葉あまたや初夏の空    福田葉子
  持つところいくらかあつてドナウ川   佐藤りえ
  若葉してみあらかに日の継がれたり   五島高資
  陽炎の天にちぎれて野に遊べ      筑紫磐井 


   
撮影・中西ひろ美 ↑ 

2019年7月25日木曜日

大木あまり「甲冑のどこに触れても花の冷」(「東京新聞」7月20日、夕刊より)・・・



  「東京新聞」(7月20日、夕刊)の福田若之の俳句時評「ここに句がある」では、このところ、俳壇では、いくばくかの論争になっているらしい「花の冷」を取り上げて、以下のように述べている。長くなるが引用する。

 (前略)片山は「花の冷」という表現をおかしいとする指摘に賛同して次のとおり記す。「『花冷』は『花の頃の冷え』という意味であるが、『花の冷』では花が冷えているようではないかというのである。確かにそう思う」。なるほど「花の冷」は文脈次第で花自体の冷えとも読みうる。だが、それなら「花の雨」はどうか。通例では「花の頃の雨」を指すが、『日本語大辞典』を引くまでもなく、降りしきる花の雨に喩(たと)えて言うこともある。ちなみに「花の雪」と言えば、これは花を雪に喩える表現だ。しかし、だからと言って「花の頃の雨」を「花の雨」と言うのがおかしいことにはならない。「花の冷」も「花の雨」と同様の言い回しと思えば妙なことはない。大木あまりの《甲冑のどこに触れても花の冷》などは、むしろ花自体の冷えと読むほうがむずかしい。
 他にも「花の」と言うことで「花の頃」ということを示しうるような言葉の積み重ねがある。たとえば、田捨女(でんすてじょ)《逢坂の関ふきもどせ花の風》などにみられるように、「花の頃の風」を「花の風」という。大峯あきらの《花の日も西に廻りしかと思ふ」という句は「花の頃の太陽を詠んだものだ。こうしたことを顧みずに、少しの違和感だけで「花の冷」を拒否するわけにはいかないだろう。

 と至極まっとうに述べている。その他、岡田一実の俳句連作「花の鵜」について、

 「花の鵜」は、先例がまったくないとは断言できないが、少なくとも今のところ、季題として人口に膾炙した言葉ではない。
(中略)
 これから書き継がれていくことになるかも知れない。新しい季題として、魅力十分の言葉だ。

 とも述べている。俳句の言葉は、本質的に、俳句形式の外側にではなく、一句における言葉と言葉の関係性、つまり俳句の形式の内側にしかありえない。俳句の文法も同様である。それだけに、俳句は自由であり、かならず、細い道であっても、常に残されているのだ。



★閑話休題・・金子兜太「陽の柔わら歩ききれない遠い家」(『金子兜太ー残す言葉/私が俳句だ』)・・



 『金子兜太 私が俳句だ』(平凡社)、黒田杏子が金子兜太から聞き取ったあれこれが編集・校正された一本、コンパクトで読みやすい。多くは金子兜太が語ってきたことで、愚生も、ある時期、金子兜太にインタビューをしたこともあるし、誰彼との対談にも同席させてもらったこともある。今は、兜太の日記も公開されているから、ほとんどのことは喋ってもかまわないようなものだが、それでも下世話なこととなると、まだまだ、健在の方々がいらっしゃるので、名誉のために、公にはしゃべれないこともある。本書の兜太自宅の庭、床の間の写真などをみると、元気な頃の兜太の姿を思い出す。ご自宅の庭で、指さしながら、そこに咲いている花は、皆子が植えたもんだ、と言ったことや立禅の際の故人の名を呼びながら、毎日100人ぐらいまでは、といったことなども・・。健啖家だったことも・・。「秩父音頭とアニミズム」の章には、
  
  俳句は、五七五で書く短い詩である。そして、俳句は人から教えられるものじゃない。自分で見つける創作である。そういうことを、私は最初に学びました。
 五七調や七五調は、古事記や日本書紀の時代から続く、日本の言葉のリズムです。話し言葉や書き言葉も、このリズムが我々の体に自然と染み込んでいる。

 と語っている。 

  河より掛け声さすらいの終るその日    兜太

金子兜太(かねこ・とうた)1919年、埼玉県生まれ。2018年2月20日死去。享年98。

 

2019年7月22日月曜日

日下野仁美「吊るされて海の色恋ふ貝風鈴」(『風の仮面』)・・



 日下野仁美第三句集『風の仮面』(文學の森)、集名に因む句は、

  朴落葉風の仮面を拾ひけり      仁美

 跋は、坂口昌弘「良きことのあるを信じて」、その中に上掲の句について、

 句集名の「風の仮面」という言葉だけからでは意味が明瞭にとれなくて風そのものが仮面になったイメージがあるが、仮面とは朴落葉の比喩であり、風が朴落葉を落としたか、あるいは風という冬の気が朴落葉を作る契機となったということが分かる。風と仮面の間には詩的飛躍がある。朴落葉を仮面と思うのは作者のユニークな詩的発想である。

 と記されている。著者は結社「海」の副主宰だということもあるかも知れないが、海を詠んだ句が多くある。先ずは巻頭句からして、「初富士の翼大きく海に立つ」であり、最後の章「男富士」には、「海へ出てよりは迷わず秋燕」がある。その間の各章で海を詠んだ句を挙げれば切りがないほどである。例えば、数例を挙げるが、

  刻々と明けゆく海や初日の出
  コスモスに来て波となる海の風
  水仙の香り鎮めて海暮るる
  夫に買ふ朝顔市の海の色(愚生注:夫は「海」主宰の髙橋悦男である)
  ふる里の海より上がる今日の月
  海の風葉牡丹に来て渦となる
  朝顔や海より深き海の色
  探梅や手の平ほどの海見えて
  朝顔の終の一花の海の色

 ことほどさように日下野仁美は「海」の作家である。ともあれ、以下は、愚生好みに偏するが、他の句をいくつか挙げておきたい。

  風生の木の実時雨となりにけり
  風船売り一つを空へ放ちけり
  降りみ降らずみ名残りの雪となりにけり
  花の種母の遺愛の鉢に蒔く
  叶はざることは余白に日記果つ
  とどまればそこが終の地蜷の道
  初蝶の飛ぶといふより漂へり
  盆祀る父母の知らざる世を生きて
  不老不死の水と札立て水澄めり 
    
 日下野仁美(ひがの・ひとみ) 昭和22年、茨城県生まれ。

2019年7月20日土曜日

橋本明「『ご自愛』が往(い)ったり復(き)たり土用見舞い」(第193回遊句会)・・



 先日、7月18日(木)は、第193回遊句会(於:たい乃家)だった。愚生は2ヶ月ぶりの参加であった。最初に書いておくと、明日21日(日)朝、Eテレの日曜美術館に春風亭昇吉が出演する。彼の地元・岡山は備前焼きに関してのものらしい(日本画家・小野竹喬も)。愚生は、家人に録画予約してもらった。ともあれ、以下に一人一句を挙げておこう。兼題は「孫太郎虫」「アロハシャツ」「土用」。

  海街(うみまち)の戸籍係のアロハシャツ   植松隆一郎 
  片恋や色違ひ買ふアロハシャツ         林 桂子
  アロハシャツ時代がヤンチャしてた頃      山田浩明
  土用三郎乗り換え駅の月見そば         石原友夫
  水平線夕日のゆがむ土用かな          武藤 幹
  群青を白く削ぎ来る土用波           天畠良光
  おひさまの機嫌損ねて土用入り        中山よしこ
  川底の孫太郎虫今日飛んだ           川島紘一
  甲板に咲きしアロハシャツの花        山口美々子
  アマゾンの冷蔵便は土用丑          春風亭昇吉
  孫太郎虫の居所悪ろし句の不出来        石川耕治
  土用波立ちて海岸赤い旗            加藤智也
  夏土用熱田の杜のひつまぶし          渡辺 保
  孫太郎虫壱口百圓罰遊戯(ゲーム)       橋本 明
  姿見や踊るはアロハ舞うハワイ         石飛公也
  土用という野放図な波が来る          大井恒行 

次回は、8月15日(木)、兼題は、法師蟬・鰯雲・風の盆。

  

  

2019年7月19日金曜日

杉風「昼寝して手の動(うごき)やむ団(うちわ)かな」(『蕉門の一句』〕・・・

 


 髙柳克弘『蕉門の一句』(ふらんす堂)、帯の惹句は「三六五句の芭蕉の弟子達が求めた揺るぎない完成への道」とある。つまり、凡例にも記されているように、

〇本書は、二〇一八年一月一日から十二月三十一日まで、ふらんす堂のホームページに連載した「蕉門の一句」を一冊にまとめたものです。
(中略)
〇巻末に季語と俳句作者の索引を付しました。

 とある一本なのである。最初に、もう一つ付け加えて貰いたかったことをお願いしておくと、愚生のような古典に疎い者にも便宜を図ってもらえるよう、巻末の作者索引に氏名を付していただければ、もっと有難かった。例えば、支考→各務氏杉風→杉山氏、のように・・・愚生浅学にして、その氏が分からない、もしくは記憶していない門人も居て、俳人以外の一般的な読者への便宜をも図って欲しかった、というところである。もちろん、このようなことで、髙柳克弘の書き来ったことについてのものは、いささかも減じられることはない。
 ブログタイトルにした杉風の句は、本日が7月19日なので、その日の句を挙げたということ。因みに解説文は以下、

昼寝して手の動(うごき)やむ団(うちわ)かな    杉 風 

誰にでもわかり、親しみやすい。蕉門俳諧の持つ大きな特徴の一つである。親しみやすいのは、まるで謎かけのような作りになっているからだ。上五中七の「昼寝して手の動やむ」までが、「昼寝していて手が動いているのはなぜ?」という謎かけで、下五の「団かな」に至って答えが示され、「ああ、団扇で扇いでいたのか」と納得する。読後感がすがすがしく、それが一句全体から感じられる涼しさともかかわっているだろう。こんがらがった難解な涼の句など、ありえないだろうから。なんということのない日常のスナップであるが、動から静へ移行する瞬間を捉えて、余計な叙述を排したのが巧い。(『続猿蓑』)季語=団扇(夏) 

 という具合である。365日、いわばどこから読んでもいい。ただ、著者の志は、
「終わりのない闇に対するーあとがきにかえて」によく表されている。

(前略)作品は、作り手にとっては、終わりのない闇です。どこまでいっても、完成というものがありません。(中略)
 終わりのない闇に立ち向かうにあたって、先達や同志がいることは、幸福です。ただし、その幸福に甘えては、現代に続く素晴らしい俳句の礎を築いてくれた蕉門の俳人たちに、顔向けができません。つねに緊張感を持って、俳句という詩に相対してゆくことーそれこそが「伝統俳句」の道ではないでしょうか。

 と締めくくっている。この問いかけには、いわゆる「伝統俳句」が失っているものへの、著者のいらだちがはらまれているように思える。
 その他を挙げておくと、一月一日の句は、

日の春をさすがに鶴の歩みかな     其角(きかく)

「日の春」は、「今日の春」の略で元日、其角の造語だそうである。従って季語は「日に春」新年。そして、十二月三十一日は、

年こしやあまり惜しきに出てありく   北枝

 この句には、

(前略)いくら惜しいとはいっても、寒い中をふらふらと特に意味もなく出て歩くというのは、異常な行為、あえて異常な行為をして、ふつうの人々が見過ごしている感情や事実に気づかせるのが、俳諧師の重要な仕事だ。

 とあった。 

 髙柳克弘(たかやなぎ・かつひろ) 1980年、浜松市生まれ。


2019年7月18日木曜日

生駒大祐「手が触れてゆきことごとく片影に」(『水界園丁』)・・・



 生駒大祐第一句集『水界園丁』(港の人)、2008年から2018年の約10年間の作品を収める。著者「あとがき」に、

 その間に幾度か雨が降り、晴れわたり、時には雪が降りましたが、「俳句を書き、論じることで俳句に貢献する」というスタンスはあまり変わっていないようです。 

 とある。 章立ては、最近の句集には珍しく「雜」の章があり、それも、「冬」から始まり「春」と「夏」の間に「雜」が挟み込まれている。最後は「秋」。ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておこう。 

  真昼から暗むは雨意の帰り花       大祐
  ひぐまの子梢を愛す愛しあふ
  金澤の睦月は水を幾重かな
  新潟に近くて雪の群馬かな
  あらはるる二つの川も春の川
  日の沈む音の聞こゆる梅見かな
  シュワキマセリ水中のもの不可視なり
  暇すでに園丁の域百日紅
  憧れて秋となる夏鳩時計
  雁ゆくといらだつ水も今昔
  抜く釘のおもはぬ若さ雁渡る
  水中に轍ありけりいなびかり

 生駒大祐(いこま・だいすけ) 1987年、三重県生まれ。


★閑話休題・・阿部青鞋「永遠はコンクリートを混ぜる音か」(「阿部青鞋研究」第二期第一号より)・・


 妹尾健太郎は「青い鞋にー第二期の開始にあたって」で、

 青鞋の号は、山路に暫しの休息を終えた者の再起を意味する。
『俳句の魅力 阿部青鞋選集』刊行前後(平成五年~十年)に「阿部靑鞋研究」という小冊子を六号まで手作りした。それから二十年という歳月に茫然とする。

 と記している。「第二期は年に二~三号は出していきたい」ともいう。この第二期のパンフのようでもある冊子は、全国のコンビニでネットプリントすることができるのだそうだ。一枚に広げるとA3用紙の大きさである。なかなかのアイデアである。
 本号の執筆陣は、西川由野「靑鞋一句」、内藤羊皐「原初の水」、小川義人「靑鞋が愛した美作➀」である。ちなみに、便宜のために、奥付を以下に記しておきたい。

 「阿部靑鞋研究会」(発行者・妹尾健太郎 Twittr HN  羽沖、発行所・北千住出版、印刷所セブンイレブン他、270-0001 松戸市幸田3-133-8 妹尾方)


2019年7月16日火曜日

永島靖子「花野にて母抱きしことひたすらに哀しかりしが淡くなりしか」(『冬の落暉を』)・・



 永島靖子『冬の落暉をー俳句と日本語』(邑書林)、著者4冊目の散文集。第一章に「俳句時評」(「鷹」平成22年~2年間)、第二章に「俳句随感」(折々の随想・追悼文「鷹」に連載の「遠近往来」から)、第三章に「『鷹』編集後記(「鷹」昭和50年~55年)、第四章に「経歴一通」(総合誌の依頼による執筆に補筆)を収載してある。著者「あとがき」によると、書名は邑書林社主・島田牙城によるという。また、

 拙句に〈廃駅あり冬の落暉を見るために〉があるが、冬の字は、本書に先立つ拙著の題に夏、秋の文字を冠しているので、今回は冬。しかして、次なる春を期すという。

 と記されている。その季節の文字を含む著書は、エッセイ集『夏の光ー俳句の周辺』(書肆季節社)と随想集『秋のひかりにー俳句の現場』(紅書房)である。他に評論集『俳句の世界』(書肆季節社)があるので、女性俳人としては、同じ「鷹」で競われた飯島晴子同様に論作、両輪の作家であることがわかる。
 第一章「「俳句時評」は、著者自身も述べているが、「執筆時より十年近く経ち、何とも出し遅れの証文の感があるが、その頃の時代証言になる部分も多少はあろうし、執筆者としては、それなりの意見開陳した積もりもあり、それらを現今の俳壇状況や世相に向けて発信しておきたく思うのである」(あとがき)といい、そこにはいまだ古びない指摘がなされている。そして多くは、これからの俳句を担うであろう若い世代に対しての希望を、期待を込めているのが、後進へのよき叱咤と激励になっていよう。
 この十年の時間の間隙には、「追記」として補筆されているので読者としては不自由はない。かつて、藤田湘子健在の「鷹」の記念会で、お会いして以来、お住まいが隣りの駅・西荻であったので、愚生の務めていた、今は無き吉祥寺弘栄堂書店にも、お顔を出されていたこともある。
 ともあれ、本書では、最近に属する「情熱の句・歌集」の項を、以下に少しく引用しておきたい。それは、髙柳重信、楠本憲吉、塚本邦雄について書かれた掉尾の部分である。

  結論的に、私が何よりも感動するのは、三冊に通底する情熱及び自恃と抵抗の念である。前記塚本の「解題」の一部を引いてみる。

   われらは老いて行く。死者は永遠に若い。『隠花植物』は、『水葬物語』は、
   そして『蕗子』は若い。私達が魂まで老いるなら、これらの處女詩歌集も死者に
   なるだらう。

 ある時の高柳重信の眼差を私は忘れない。高柳宅で話がたまたま塚本作品に及んだ際、「ああ『水葬物語』は僕の・・・」と言いつつ遠い所へ柔らかい懐旧の眼差を向けられたことを。それは、平素の舌鋒の鋭さとは異質のものだった。
 スマホに見入る今日の青年達の胸にも、こうした熱い魂の生き続けていることを願う。
                         (「鷹」二〇一九年六月号)  

 少ないが、本書中の永島靖子の句歌から、

  汗と紙と万年筆や重信忌      靖子
  桐の花嘆きは薄き紙につつむ
  ゆふぐれの一睡深し松の花
  新聞紙大の春愁ありにけり
  さびしさも透きとほりけり若楓
  
  窓よぎる蝶よ小鳥よときどきは私の小さき怒りの的よ
  ほたほたと蛇(くちなは)に肩叩かるる詩歌の道のはるけきものを
  幾重にもたたみスカーフ一枚を死出の旅路の花冠とせむか
  
 永島靖子(ながしま・やすこ) 1931年、京城(現・ソウル)生まれ。


2019年7月13日土曜日

小島一慶「走り梅雨星野高士はうつむかず」(『入口のやうに出口のやうに)・・・



 小島一慶句集『入口のやうに出口のやうに』(ふらんす堂)、集名に因む句は、

  入口のやうに出口のやうに夏至      一慶

 である。序は星野高士、「序の付録」と題して阿川佐和子。少々長くなるが引用する。星野高士は、

 一慶さんとの出会いは、今も、三十年以上続いている「五色会」という、私にとっては、楽園のような句会の横浜吟行であった。何と言っても一慶さんは、私の青春時代を共に過ごさせていただいた、有名なラジオパーソナリティの草分け的存在。そんな尊敬している彼が、その時に、よく俳句という文芸に出会ってくれたと、神に感謝だ。又、出会うだけでなく、更に進化しつつ常に探求心を向上させて俳句に向き合ってくれているのは、大変に有難い事である。要するに、一慶さんは俳句が好きなのである。いや、好きを通り越して、彼は、俳句に夢中なのである。

 と記し、その初吟行時、本人はビギナーズラックといいながら、特選に選ばれた句が、「波立ちて潮の香もなし春嵐 一慶」である。また、阿川佐和子は、

 (前略)どうせ私はダメ娘ですよお・・・・・。優秀な兄の下でひねくれまくる妹のように、私はヒーヒー泣いてばかりいた。そんな私を見かねたか、一慶さんがある日突然、私に告げた。
「スタッフルームにいるときは、常に秋元さんの隣に座りなさい」
そんな恐ろしいこと、できませんよ。なるべく目を合わさず、存在を消してたいと思っていたぐらいなのに、
「いいから、隣に座りなさい」
 この一慶さんの一言のおかげで、私と秋元さんの関係性に明らかな変化が生まれた。
 (中略)
 一慶さんのさりげない話にはいつも物語がついてきた。名もなき草を取り上げても、銀杏の赤ちゃんを見つけても、旧友の思い出を語るとき、変なプロデューサーにあだ名をつけるとき、一慶さんの言葉の後ろにはいつもワクワクするような景色が広がった。

 その一慶さんは「あとがき」に言う。

 アナウンサー歴五十年。
 俳句歴は十二年目となる。
 同じ言葉を表現方法とするが、アナウンサーの言葉と俳人の言葉は、全く、別物である。アナウンサーの言葉は、ひたすら外へ向かう。同じものを描写するにしても、アナウンサーは、瞬時に反応し、次々と言葉にして行く。間が無い。沈黙が怖い。興奮は興奮のまま、表現が、オーバーになることが多い。(中略)
 一方俳人の言葉は、ひたすら内へと向かう。一旦、言葉を沈潜させ、熟成させ、表現してゆく。間を大事にし、沈黙を怖れない。
 僕が俳句に夢中になったのは、これまでと正反対の言葉の表現に魅了されたからに他ならない。

 そして、奥方の検査に付き添いのつもりで行ったCT検査で、「奥さんに問題ありません。ご主人の方は、重篤な肺がんです」と告げられる。昨年の七月六日のことだ。

  告白にとほき告知や星祭     

 ステージ4の宣告に、少しも動じない自分がとても不思議だった。(中略)それでも、家族は、相当のショックを受けたようだ。特に子供たちにとっては、正に晴天の霹靂ー。急遽、句集としてまとめようと言うことになった経緯(いきさつ)である。

 としるされている。愚生はこれ以上のことは知らないが、本復を祈りたい。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げおこう。

  昼寝覚この世は音に満ちあふれ
  グァム島のなまこのごろんごろんかな
  極月や棒線で消す住所録
  建国日キャベツの芯までやはらかし
  踊の輪欠けたるところ闇が埋め
  ひぐらしのこゑ父母を知らぬ声
  鳥帰る刹那の風を見逃さず
  一世(ひとよ)では足りぬこの世や白牡丹
  鬼虎魚いやいや笑ふつもりなし
  追いぬいてゆく滴りはなかりけり
  この世だけつながる電話いわし雲
  凩の夜空つまづくもの多し
  九天を一夜支へて霜柱
  うるむ目にかへす目のなし春の風邪
  葉桜や柩に軽きものはなく
  我のなき一と日が見たし百日紅
  円熟に果てのありけり柘榴の実
    チャコちゃん(白石冬美さん)逝く
  ひとり死にひとり生まるるさくらかな

 小島一慶(こじま・いっけい) 1944年、長崎県生まれ。


2019年7月11日木曜日

藤田湘子「海藻を食ひ太陽に汗ささぐ」(『「鷹」と名付けてー草創期クロニクル』より)・・



 山地春眠子『「鷹」と名付けて』(邑書林)、著者「あとがき」に、

 本稿は、「鷹」の創刊から五年間の年代記(クロニクル)で、「鷹」平成二十八年七月号から同三十一年四月号まで、三十四回にわたって連載したものである。その間に鶴岡行馬さんが秋櫻子の楠本憲吉宛書簡を発掘され、それを紹介させていただける幸運に恵まれた。

 とある。本書でも第七章「湘子の馬酔木離脱」の章はもちろんだが、第一章「『鷹』の創刊前後」の章以後、「馬酔木」との確執については、縷縷記されている。それも山地春眠子の冷静な判断、注解などを含め、緻密に描き出されている(それすら、たぶん、表向きの理由に過ぎないのかもしれないが・・)。第8章「鷹独立宣言」もそうで、総ては、作と論の両輪を備えるためと、今後の俳句の新しみと表現のレベルを上げるための厳しい追求だったと思われる。発見された楠本憲吉宛の秋櫻子書簡については、全文引用されているが、その一部を以下に孫引きしておこう。

(前略)先日藤田が来て、今度九州兼任のやうなことになり、月の半分は九州へ行(ママ)ので、編集が出来ないと申しますので早速承知して置きました。試みに八月号の一部を小生がやつて見ましたが、別にむづかしくもなく、十分出来さうに思ひます。
藤田の言ふことは事実と思ひますが、編集をやめる気になつたのは、大兄の御訓しがあつた為め(ママ)と思ひます。馬酔木にとりましては好い結果になりましたので御厚意深く感佩仕ります。昔ならば到底これまで待てなかつたのですが、年をとりますと、事を荒立てるのがいやになりますので、実によかつたと思ひ、大兄の御厚意を繰り返し有難く思ふ次第であります。(後略)

 この書簡を受けて、山地春眠子は、

 ➀ 湘子の仕事が九州関連であること。
 ② 湘子の辞任を秋櫻子は「早速承知」していること。慰留や後任推挙などのやり取りがあった形跡がないこと。
 ③ 湘子の辞任申し出については、憲吉の口添え(ないし根回し?)があったらしいこと。
 ④ 秋櫻子はどうやら、(本人としては我慢して)長い間、湘子の辞任の申し出を待っていたらしいこと。(「鷹」創刊前後、湘子らがいろいろ秋櫻子の「誤解」を解くべく奔走していたことが結局無駄に終わったように見える。)

 と記している。そして、「鷹」「馬酔木」の編集後記と秋櫻子書簡から、湘子の「馬酔木」編集長辞任は四十一年七月初旬、と確定できる、とし、「花神コレクション『藤田湘子』及び『藤田湘子全句集』の湘子年譜にある昭和四十二年八月の「馬酔木」編集長辞任は誤りだったと訂正している。


湘子も常連だった新宿西口の「ぼるが」↑
 現在も営業中

 本書の帯の惹句の冒頭に、「創刊前後五年間の奇跡」とあるが、ここ数年のただ今現在、多くの俳誌が創刊されているが、かくも厳しく、俳句の論・作において、主宰を筆頭に、各同人が情熱的に切磋琢磨した俳誌はないのではなかろうか。俳句形式を追求するということは、それが、単純に楽しい・・などいう、生易しいものではなかったことが理解できる。時代の流れというには、余りに隔世の感である。
 思えば、愚生が、最初に山地春眠子に会ったのは、故・大本義幸がバーテンダーをしていた東中野のバー「八甲田」の近くだったように思う。先日、刊行された『藤原月彦全句集』の年譜をみると、たぶん1975(昭和50)年頃だ。毎日新聞の石倉昌治(寒太)や上京した坪内稔典らと一緒だった。当時、山地春眠子はたしか「週刊新潮」の仕事をされていたように記憶している。ただ、もう44,5年は前のことで、記憶違いかもしれない。その後も彼の連句入門等の著書などによって、愚生は多くの恩恵を受けている。「鷹」創刊号(昭和39年6月30日)より、以下にいくつかの句を孫引きしておこう。

  椎若葉病めば子の声透きとほり     相馬遷子
  夜鷹鳴き硫黄にゆらぐ星ひとつ     堀口星眠
  校庭の春真四角なる愁ひ       千代だ葛彦
  息溜めて真昼麦秋の野の白さ      有働 亭
  激雷の雨ともなはず別離以後      沢田緑生
  晝灯す仕切場飛燕地を打ちて     古賀まり子 
  仙台蟲喰御打ち賜ふ蕎麦くろし    小林黒石礁
  うなそこのごとき夕ぐれ四葩咲く    藤田湘子
  春嵐未治退所者の荷を搏つも      植田竹亭
  瑕瑾なき春の雲浮き遅刻せり      山口睦子
  麦の禾眼をみひらくにわれ貧し     菅原達也

 山地春眠子(やまぢ・しゅんみんし) 昭和10年 東京生まれ。  
  


2019年7月9日火曜日

ふけとしこ「蛭蓆ろろんろろんと水へ水」(『眠たい羊』)・・・



 ふけとしこ第5句集『眠たい羊』(ふらんす堂)、集名に因む句は、

    雪の日を眠たい羊眠い羊     としこ

 集中に、

   春昼のひんやりとある眼の模型

 の句があり、愚生の年代では、句の趣が違うとはいえ、すぐさま、

   犬交る街へ向けたり眼の模型   田川飛旅子

 の句を思い起こす。これも時代の受け持った感性、感受のなせるワザなのかもしれない。あるいは、

   六月を風のきれいな須磨にゐる
   青饅や須磨に眼張を上げて来て

の句には、

  〈あはれにすごげ〉須磨のガストといふ処   高山れおな

の句をつい、思い浮かべてみたりした。ただ「カリヨン」の市村究一郎師を詠んだ句、

       十一月は師の生れ月逝きし月

 にはホロリとさせられた。市村究一郎は、1927年11月23日、東京府府中町に生まれ、2011年11月26日に没している。愚生の住む府中市には、「○○カリヨン」とか「カリヨン会○○」とか、雑誌は出ていないらしいが、句会はいくつかに分かれながらも継続されていて、一年に一度は、かつての「カリヨン」の仲間の皆さんが集まられるという(一年半前までは愚生の働いていた会議室をよく使われていた)。
 また、ふけとしこは「ほたる通信」という葉書通信を毎月?発行していて、それには、数句と短いエッセイが書かれていて、楽しませてくれる。
 ともあれ、集中より愚生好みになるが、いくつかの句を挙げておこう。

   早春を雲もタオルも飛びたがる
   宿り木も宿木も芽を立てて
   走り根を枕に行基風光る
   スズメノチャヒキウシノシッペイ芒種なる
        註・雀の茶挽 牛の竹箆 共にイネ科
   水光る腹を細めてくる蛭に
   箱庭の二人心中でもしさう
   足浸すかなかなまたかなかな
   むささびの穴とや木の葉かかりゐて
   冷たしよ草の青さもその丈も
   冬の日や鞍置場E開かれて
   悪相といふべき榾のよく燃ゆる
    

ふけとしこ(本名・福家登志子) 1946年 岡山県生まれ。

2019年7月7日日曜日

山本敏倖「たんぽぽ月夜すべての蓋を外しけり」(『「山河」創刊70周年合同句集』より)・・・


挨拶する「山河」代表・山本敏倖氏↑


功労賞の右から松井国央・金谷サダ子・沖和子各氏↑




 昨日7月6日(土)は「山河」創刊70周年記念祝賀会(於:アルカディア市ヶ谷)だった。愚生は、本誌に、昨年から(今年で終わり、次期は宮崎斗士)、一つのキーワードと無季、春夏秋冬を含む二つのテーマを詠み込む企画「競作・チャレンジ俳句」の選句と、選評をやらせていただいている。「山河」は、昭和24年に小倉緑村が創刊、加藤あきと、松井国央、そして、「豈」同人でもある山本敏倖が4代目の代表を継いでいる。三代目の松井国央とは、愚生が現代俳句協会青年部員を辞した直後くらいに、先日、亡くなられた大牧広と三人で現代俳句通信講座を務めたときにお会いしてからの大先輩である。思えば、すでに鬼籍に入られた三好夜叉男、寺井禾青もいた。そしていまはLOTUS同人の豊口陽子もいた。会場で、久しぶりにお会いした金谷サダ子は90歳(多賀芳子「碧の会」で句座を共にしたこともあえう)、70歳の愚生も「私のこどものようなものね・・・」と元気いっぱい、「俳句があるから元気!」と仰っていた。来賓のなかで、隣の席になっていた宮崎斗士は、ほぼ同時刻に行われていた「公開シンポジウム『兜太俳句の晩年』」(ゆいの森あらかわ)で、司会の役目を終えて駈けつけた(夫人の芹沢愛子と一緒に)。同じテーブルには、ほかに川辺幸一、栗林浩、松澤雅世、渡辺誠一郎が居た。
 山本敏倖は挨拶で「『山河』は、これまでも、伝統と革新と普遍性を追求し、常に新・新・深を探求し、個性を自由に育てることを歩んできたが、加えて時代の次の俳句を目指して努力していきたい」の述べた。
 ともあれ、以下に「山河」のこれまでの代表者の句を挙げておきたい。

   青峡に沈みゆく触覚だけを残し     小倉緑村
   日当たりのいい球形の目覚めかな   加藤あきと
   父抜けてゆきし網戸を母も抜け     松井国央
   千年を一行にして滝凍る        山本敏倖 

愚生の挨拶で献じた祝句は、

  山と河呼び交わしては七十年(ななととせ)  恒行



   府中市中央文化センターの子どもたちによる七夕飾り↑

★閑話休題・・「第18回 七夕まつり」(東京四季出版・アルカディア市ヶ谷)・・


 今夜も本来であれば、俳句四季大賞・宇多喜代子『森へ』、特別賞・大久保白村『花の暦は日々新た』、「俳句四季」第7回新人賞・吉田篤子、第19回全国俳句大会大賞・大森藍のお祝いに馳せ参じなければならないところだったが、愚生が、府中市シルバー人材センターの請負業務で、7月1日から、職場が府中市中央文化センターに変わり、これまでの芸術劇場分館勤務の、愚生にとっては天職、天国のようなところから、ハードな中央文化、シルバー人材センターの理想である短時間・軽微な仕事というにはチョッピリ厳しい業務・・ということで、さすがに土日の連休をとっての、祝賀の会に参加するわけにもいかず、いまだ慣れない労働をしていた。
 まあ、ボンビーひまなし、死ぬまで働けということにちがいない。よって、これまで、自由にとれた休みもままならないようなので、皆様へは、多々失礼をするかもしれない。お許し願いたい。もちろん、万難を排してのことは、当然ありますので、皆さんの御慈愛にすがりたい。

2019年7月6日土曜日

照井翠「流灯にいま生きてゐる息入るる」(「小熊座」7月号より)・・



 「小熊座」7月号(小熊座俳句会)、武良竜彦連載の「俳句時評」を興味深く読んでいる。特に「八年目の『震災詠』考」は4回目である。前号の「新元号『令和』-天皇制の白髪こそ」も、世の中には祝賀ムードのみが溢れ、まるで全体主義の予兆のようですらあるなかで、

 天皇が象徴するのはその季語を含む農耕文化と詩歌文化である。その稲作文化のど真ん中に象天皇制がある。

 というもの言いには、かつて、竹内好が「一木一草に天皇制が宿る」と述べたことに通じていよう。天皇あってこその天皇制だが、その天皇こそ天皇制から解放されなければ、人権あるひとりの人間として、天皇自身もまた生きられない。じつは「八年目の震災詠」には、これまで溢れすぎた震災詠もまた、震災を詠まなければ俳人(詩人)ではないというような全体主義的な煽りを思わせるような不快感を、そこに見出していたからなのではないだろうか。公共性と倫理的正しさが強調されればされるほど、それに積極的でない人は、表向きは口をつぐんでいくしかないのが一人の弱い人間である。おっとどっこいオイラは生きている、というふうに生きられればまだしも、精神的な風圧と、それが社会的に大きな声になれば、法的な根拠を拡大解釈されて、その空気感のなかで、権力の弾圧にさらされるのは、かつての歴史が示している。それらの両義性をもって、武良竜彦は、

   天皇の白髪にこそ夏の月   宇多喜代子

 の句を捉えている。本号の「八年目の『震災詠』考」は、「照井翠」の思索から➀」で次のように記している。

  照井翠の『竜宮』所収の俳句は、作者の直接的な心情吐露ではない。創作的〈表現の虚実〉という文学的な自己表出への心的欲求を自己の内部に奮い立たせて詠んだ俳句なのである。そうすることで彼女は凄絶な狂気を孕む惨状から、自己を立ち直らせたのだ。『竜宮』の俳句表現の内面的な強度が、同じような被災体験をした者たちの心を震わせるのだ。

 その表現手法の淵源を、照井翠の師事した「寒雷」・加藤楸邨の『野哭』とリンクさせて論じている。俳句が困難なのは、その短さにもよるが、作者の思いの多くを断念せざるをえないからだろう。そうしなければ、現実を契機とする象徴性はなかなか生まれないからでもある。ともあれ、武良竜彦の論に敬意を表して、本誌本号より照井翠と彼の句を以下に挙げておきたい。

   双子なら同じ死顔桃の花        翠
   亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり
   改元や蟻が出て来て陽を担ぐ     竜彦
   咲き満ちて無きが如くに霞草  




★閑話休題・・・朝倉玲子(全労協全国一般三多摩労組書記長)参議院選挙(東京選挙区)、社民党より立候補!・・


 開けてビックリ玉手箱ではないが、テレビニュースを見ていたら、どこかで見た顔が・・と思ったら、愚生がかつて,企業を超えて組織される個人加盟の地域合同労組の委員長だったころ、その書記長で実に優れた丹力の持主だった朝倉玲子(れい子)ではないか。企業を超えた地域の労働運動一筋の女性である。趣味は、たしかダイビングで、素潜りでは、日本において、三本の指?に入るくらいの実力の持主である、と聞いた。当時、新設された労働審判制度で、東京都での唯一の女性審判員を務めていた。もとはエースコックでハイヒールを履いての営業廻りによる腰痛を、職業病だと訴え、解雇され、会社を相手取って一人争議として闘った人だ。選挙ポスターには「働く人の笑顔のために」とある。
 愚生は、そうした地域合同労組活動から、10年前に足を洗ってしまったので、すっかり、情勢に疎くなってしまっていたが、彼女もいよいよ政治家の道か、と思って少し驚いたのだった。大変お世話にもなった。彼女なら、いかなる権力にも、理不尽な攻撃にも、立ち向かっていくと思う。但し、当選して、国会に行くとなると相当高いハードルだと思う。頑張ろう!!!
 


ブログ読者より ジャガランタ↑

2019年7月4日木曜日

林田紀音夫「洗った手から軍艦の錆よみがえる」(「瓏玲」創刊号より)・・・



 「瓏玲」創刊号(瓏玲俳句会)、その中のエッセイの一篇に、東金夢明「俳句徘徊」は林田紀音夫について言う。

 (前略)この時期は、意識的に無季の句に取り組み、発表した。ただ後日、「季語と文語定型の箍をはずして以降、まず文体的に猥雑と言う形で、てきびしく俳句からの仕返しを受けた」と語っている。季語という俳句の根幹のひとつをあえて無視することの代償は大きいと言わねばならない。

 ただ、林田紀音夫は、なぜ現代仮名遣いで俳句を書くか?ということについて、「俳句を現代仮名遣いで書く意味は、現在の猥雑さに賭けるということだ」と言っていた。愚生の若き日、歴史的仮名遣いに見切りをつけ、現代仮名遣いで俳句を書こうと決意した切っ掛けの言である。その試みは、成否を別にして、いまも正しい試みだと思っている。それは、どのように言おうと、歴史的仮名遣いを使うことで、言語の旧的な秩序にどこかで寄りかかるという心性をあらわしているからだろう。いわば、現在の猥雑さに賭けるということはそれほど困難な営為であるということを指していたと思う。それでも歩むしかない。
 本誌創刊号には、多くの俳人からの祝句が寄せられているが、とにかく、以下に一人一句を挙げておこう。

   わたくしは専守防衛ももの花      今野龍二
   平成もすでに幻蛇の衣         東金夢明
   原罪はあるかも知れず林檎剥く     山中正己
   金魚玉竜宮城の容れてあり       中村和弘
   道などはない夏野の自由駆り立てよ   秋尾 敏
   (ぎょく)一つひとつ縁に和するかな 松澤雅世
   探し出す青葉の中の未知なる音    佐怒賀正美
   うぐいすのよく鳴く日なり富士玲瓏   川辺幸一
   瓏玲の旅立ちの朝青山河        青木栄子
   さえずりの浮力をバネに帆を上げよ   山本敏倖
   懸崖は海の他なし道おしへ       日野百草
   ひるがえる度の息継ぎ飛花落花    栗原かつ代
   ソーダ水突然一部発光す        中内火星
   天皇の声澄みとほり発笑顔       香川純二
   かたつむり百まで生きてほめられず   山口紀子
   海開き少女羽化するごとくなり     武悠紀子 
   数だけの器残して四月尽        片桐静江
   裸木に屈託垂れてをりにけり       三拍子
   春泥や深き轍に日のかけら      塩田千代子
   窓際のヴィシソワーズのパセリかな   石田 香
   遠雷の地の底つたうオラショかな    加藤賢明
   裸婦像にみかづきのあり梅雨に入る 長谷川はるか  
   夏館夕陽に染まる古時計        関口 裕
   約束は無けれど土筆煮て喰はな     吉田豊麿
   感情をはがす真昼の春の雷       渡邊樹音
   春雷や兜太の叫びノーモアウォー    宮川 夏
   spring thunder-
            Tohta shouted
           ”No more war!”


¨ 

2019年7月2日火曜日

小川軽舟「関係ないだろお前つて汗だくでまとはりつく」(『朝晩』)・・・

 

 小川軽舟第五句集『朝晩』(ふらんす堂)、著者「あとがき」に、

 (前略)私の人生は私の世代の標準的なものである。あえて境涯俳句と呼べるような特色はない。しかし、平成も終わろうとする今、かつての標準がもはや標準でなくなっていることに気づいた。私の平凡な人生は、過ぎ去ろうとする時代の平凡だった。だからこそ書き留める意味もあるだろう。「序に代えて」として昨年の暮に日本経済新聞に寄せたエッセイを載せたのは、そのような意図の一端を知っていただければと思ってのことである。

 とある。その「序に代えて」で、

 (前略)私の家族は、いわゆる「標準世帯」である。標準世帯とは、夫が働いて家計を支え、妻は専業主婦、そして子どもが二人いる四人家族である。終戦直後のベビーブームが終わり、若者が地方から都会へ働きに出て核家族化が進むと、日本の家族の典型的なん姿はこの標準世帯になった。(中略) 私が昭和の時代に育ったのも標準家庭だった。そして、平成の時代に私自身の標準世帯を営んできた。しかし、気づけば、標準世帯はおよそ標準ではなくなっている。標準世帯の黄昏である。
 我が家もいずれ子どもたちが家を出て一人暮らしを始めるだろう。私と妻は、どちらかが先に死んで、残ったほうが一人暮らしになる。今の我が家は、標準世帯の黄昏の時代の、残り火のようなものなのだ。(中略)
 
  家族とは焚火にかざす掌(て)のごとく    軽舟
 
特別仲のよい家族でなくてもよいが、何かのときに家族であることを思い出せる家族、焚火をすればかざす掌の伸びてくる、そんな家族でありたい。(後略)

 と記している。ここには、その標準世帯を、彼がきちんと生きてきた清潔な気息が窺われる。ともあれ、愚生の好みに偏するが、以下にいくつかの句を挙げておきたい。

  春装や転轍の揺れいつせいに 
  レタス買へば毎朝レタスわが四月     
  風呂洗ふことごとくわが木葉髪 
  古暦金本選手ありがたう
  種馬は仔馬を知らず春の川
  あめんぼのもうゐぬ水輪ゐる水輪
  颱風裡蛇口捻れば嗚咽のみ
  初旅や戕牁(かし)うばひあふゆりかもめ
  梅咲いてユニクロで買ふもの軽し
  サイダーや有給休暇もう夕日
  蝶沈み蛾は目覚めたる草深し
  遅刻メール梅雨の満員電車より
  押し通す愚策に力雲の峯
  日向水覗いてゐし子消えてなし
  本人は戒名知らず秋灯

小川軽舟(おがわ・けいしゅう) 昭和36年、千葉市生まれ。



★閑話休題・・星野石雀「春雷を軍鼓と信じ徘徊す」(「鷹」7月号より)・・・

 「鷹」7月号(鷹俳句会)は、創刊55周年記念号である。記念企画の特集は「平成、あの年」と題して、平成元年(大石悦子)から平成三十年(宇多喜代子)まで、その年に作られた自句3句とエッセイが多くの寄稿者によって記事掲載されている。とはいえ、愚生の目に、もっとも飛び込んできた記事は、「謹告 日光集同人・星野石雀さんは五月二日逝去されました。心より哀悼の意を表明します。鷹俳句会」というものだった。随分のお歳だとは思っていた。愚生の若き日より、星野石雀はその名の独特をもっても魅了していたから。略歴に、大正十一年九月一日、東京生まれ、とあるので享年96だ。「豈」同人の酒巻英一郎が、星野石雀の句集を買い求めるために、その自宅にアポもとらずに訪ねたときのこと、見ず知らずの若者を家中に入れ、奥様の手づからの茶をいただき、句集にいたっては、持って行きなさい、とくれたということを、幾度となく感激をもって聞かされていた。その頃、酒巻英一郎は、店頭になく、読みたい句集は、俳人の自宅にアタックしていた。彼は後に「豈」同人になるのだが、攝津幸彦の自宅にも押しかけていた。まだ無名の攝津幸彦、当時,資子夫人は(俳人は嫌いで、幸彦の句もまったく読んでいない)、「句集など知りません。夫は、今、会社です」と団地のドアをにべもなく閉められた、というエピソードもある。
 
  踊り子に閻魔詣での手をひかれ     石雀
  音もなく空母の燃ゆる春の海




2019年7月1日月曜日

乾佐伎「泣いてた過去を流れる星がノックした」(『未来一滴』)・・


  
 乾佐伎第一句集『未来一滴』(コールサック社)、集名に因む句は、

  さよならのコーヒー未来は一滴から   佐伎

 だろう。帯文は鈴木比佐雄。解説は鈴木光影「俳句の未来へ、命がけの跳躍をする新世代の俳人ー乾佐伎第一句集『未来一滴』に寄せて」。それには、

  観覧車私は俳句を追いかける

 巻末のこの一句からは、「追いかける」ことこそが俳句であるという動的な俳句観が窺える。単に客観的な立場から俳句とは何かを探し「追いかける」。その姿勢には、人生と俳句を一致させたところから言葉を生み出す乾氏の、誠実で、自由で、必死の俳句観がある。そのような「命がけの跳躍」によって、俳句だからこそ到達できる真実へとタッチし、まだ見ぬ未来へと昇っていく「観覧車」に自らを乗せてゆく。

 とあった。掲句の「未来は一滴から」の句に、愚生は、どこかで乾佐伎の名に聞き覚えがあるような気がした。そして、即座に思い出したのが、

  未来より滝を吹き割る風来たる  夏石番矢  

 の句だった。解説にも、著者略歴にも記されていないが、確かに愚生のなかで、乾佐伎は、夏石番矢・鎌倉佐弓の息女だという記憶であった。
 父や母を詠んだ句も微笑ましい。俳人である父と母が未踏の道を追い求め、突き進んでいるという、その思いは、たしかに乾佐伎のなかにとどめられているようだ。

  冬北斗父母作る細い道      佐伎
  
 じつに、そうだと思った。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  寒昴感じるための別れです
  ローソクに火を君の明日に光
  雪に眠る小石は母に甘えたい
  どこまでも行きたいウサギは雪になる
  鶯や冬のぬけがら食べて鳴く
  春の闇笑う小人は何人か
  薔薇の赤寂しさからは逃げられぬ
  朝焼けを空に還して鳥の声
  黒葡萄最後の一つはきっと雨
  善い人になりたい林檎はただ赤い
  金木犀の香を食べたいか猫が鳴く
  
 乾佐伎(いぬい・さき) 1990年 東京都生まれ。





★閑話休題・・黒田杏子「戦争は終わつたのです青螢」(「祭演」NO.56より)・・


 自由句会誌「祭演」56号(ムニ工房)、本誌の刊行に関する実務のほとんどを「豈」同人でもある森須蘭が尽力しているようである。今号の特別招待席は黒田杏子、招待席は今井豊。「藍生」主宰とその弟子である。本号より、その二人と「豈」つながりの俳人に限って、以下に句を挙げておこう。

   螢火や兄弟姉妹ちちとはは      黒田杏子
   たけなはの春橋梁に渦なせり     今井 豊
   菜の花の色って説得力なんです    宮崎斗士
   パセリ噛む背中うっすらしている日  森須 蘭
   変身のための空間飛花落花     杉本青三郎
   葉桜を仰ぐキャッチャーミットより  伊東裕起
   Y字路の右も左も盆の月       成宮 颯