2019年7月25日木曜日

大木あまり「甲冑のどこに触れても花の冷」(「東京新聞」7月20日、夕刊より)・・・



  「東京新聞」(7月20日、夕刊)の福田若之の俳句時評「ここに句がある」では、このところ、俳壇では、いくばくかの論争になっているらしい「花の冷」を取り上げて、以下のように述べている。長くなるが引用する。

 (前略)片山は「花の冷」という表現をおかしいとする指摘に賛同して次のとおり記す。「『花冷』は『花の頃の冷え』という意味であるが、『花の冷』では花が冷えているようではないかというのである。確かにそう思う」。なるほど「花の冷」は文脈次第で花自体の冷えとも読みうる。だが、それなら「花の雨」はどうか。通例では「花の頃の雨」を指すが、『日本語大辞典』を引くまでもなく、降りしきる花の雨に喩(たと)えて言うこともある。ちなみに「花の雪」と言えば、これは花を雪に喩える表現だ。しかし、だからと言って「花の頃の雨」を「花の雨」と言うのがおかしいことにはならない。「花の冷」も「花の雨」と同様の言い回しと思えば妙なことはない。大木あまりの《甲冑のどこに触れても花の冷》などは、むしろ花自体の冷えと読むほうがむずかしい。
 他にも「花の」と言うことで「花の頃」ということを示しうるような言葉の積み重ねがある。たとえば、田捨女(でんすてじょ)《逢坂の関ふきもどせ花の風》などにみられるように、「花の頃の風」を「花の風」という。大峯あきらの《花の日も西に廻りしかと思ふ」という句は「花の頃の太陽を詠んだものだ。こうしたことを顧みずに、少しの違和感だけで「花の冷」を拒否するわけにはいかないだろう。

 と至極まっとうに述べている。その他、岡田一実の俳句連作「花の鵜」について、

 「花の鵜」は、先例がまったくないとは断言できないが、少なくとも今のところ、季題として人口に膾炙した言葉ではない。
(中略)
 これから書き継がれていくことになるかも知れない。新しい季題として、魅力十分の言葉だ。

 とも述べている。俳句の言葉は、本質的に、俳句形式の外側にではなく、一句における言葉と言葉の関係性、つまり俳句の形式の内側にしかありえない。俳句の文法も同様である。それだけに、俳句は自由であり、かならず、細い道であっても、常に残されているのだ。



★閑話休題・・金子兜太「陽の柔わら歩ききれない遠い家」(『金子兜太ー残す言葉/私が俳句だ』)・・



 『金子兜太 私が俳句だ』(平凡社)、黒田杏子が金子兜太から聞き取ったあれこれが編集・校正された一本、コンパクトで読みやすい。多くは金子兜太が語ってきたことで、愚生も、ある時期、金子兜太にインタビューをしたこともあるし、誰彼との対談にも同席させてもらったこともある。今は、兜太の日記も公開されているから、ほとんどのことは喋ってもかまわないようなものだが、それでも下世話なこととなると、まだまだ、健在の方々がいらっしゃるので、名誉のために、公にはしゃべれないこともある。本書の兜太自宅の庭、床の間の写真などをみると、元気な頃の兜太の姿を思い出す。ご自宅の庭で、指さしながら、そこに咲いている花は、皆子が植えたもんだ、と言ったことや立禅の際の故人の名を呼びながら、毎日100人ぐらいまでは、といったことなども・・。健啖家だったことも・・。「秩父音頭とアニミズム」の章には、
  
  俳句は、五七五で書く短い詩である。そして、俳句は人から教えられるものじゃない。自分で見つける創作である。そういうことを、私は最初に学びました。
 五七調や七五調は、古事記や日本書紀の時代から続く、日本の言葉のリズムです。話し言葉や書き言葉も、このリズムが我々の体に自然と染み込んでいる。

 と語っている。 

  河より掛け声さすらいの終るその日    兜太

金子兜太(かねこ・とうた)1919年、埼玉県生まれ。2018年2月20日死去。享年98。

 

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