日野百草『評伝 赤城さかえ —楸邨・波郷・兜太に愛された魂の俳人』(コールサック社)、帯の推薦の辞は齋藤愼爾、それには、
令和3年から遡ること54年前、大虚空の彼方へ旅立った俳人赤城さかえの評伝が気鋭の日野百草氏によって出版されたことは奇跡と呼ぶべき出来事のように思われる。
巻末の資料集から赤城の『草田男の犬』を読まれたい。この評論が昭和22年に発表されたことを知り戦慄にも似た驚きを覚えないだろうか。赤城の評論と俳句は殆どが病魔と死神に纏いつかれ、痛みと嘔吐で七転八倒、身悶えながら、時には自ら筆を執ることもままならず口述筆記に委ねた箇所もある。そのことで文章が乱れたりすることは無く清廉静謐、微塵の乱れも感じさせない。近現代史の闇に久しく埋もれていた赤城の全的復活に与って力のあった日野氏に満腔の祝意を表したい。〈二人の巨人〉が新たに脚光を浴びることになる。
とある。愚生の知っている赤城さかえも『戦後俳句論争史』(俳句研究社)の「『草田男の犬』論争」の一方の当事者としてものである。その著の発行を年譜で見ると1968年だから、愚生が二十歳の頃、発売とほぼ同時に買ったことになる。半世紀以上前のことだ。それは「俳句研究」の広告をみて注文した。その後『赤城さかえ全集』(古沢太穂、石塚真樹監修、赤城さかえ全集編集委員会編・1988年)にも収録されている。それは、草田男の句、
壮行や深雪に犬のみ腰をおとし 中村草田男
をめぐる論争で、「俳句人」(昭和22年10・11月号)に掲載された赤城さかえのデビュー作である。
(前略)論争をごく短簡に書けば、草田男の俳句を認めるさかえと、草田男を戦争協力者として俳句そのものも認めないとする連盟の一部勢力、そして双方に与する俳人たちによる論争である。(中略)
さかえは当時の連盟の主流を占める風潮とは真っ向対立する論陣を張った。(中略)
ーさて、この句の功績は、何と言つても、人々が熱狂してゐる喧騒の中から、深雪に腰 をおろしてゐる哲学者「一匹の犬」を見出した作者の批評精神である。この一匹の「草田男 の犬」によつて、そこに画かれた群衆図は単なる写実を遥かに超えた詩の世界を展開する。(中略)
この一文は「草田男の犬」を代表する一文であり、日本の俳論を代表する有名な一文である。この一文があらゆる現代俳句の重要性を孕んでいる。そして草田男に対して最大級の評価を下している。それにしてもなんと格調高く適確、かつ純粋な一文であろうか。九条であれ、震災であれ、コロナ禍であれ―現代の社会性俳句の詠み手は「草田男の犬」に近づくことができているのだろうか。赤城さかえの想いを引き継いでいるのだろうか。
と日野百草は続けている。その日野百草「補足」によると、2017年2月、月刊俳誌「鷗座」に2020年2月まで連載され、大幅に改稿したとあるが、2016年12月に急性心筋梗塞を発症し、連載第一回の「序に代えて」は、病室での執筆になったという。幸い命はとりとめ、その間、入退院を繰り返して、全37回の連載を終えたという。巻末の資料編には、赤城さか略年譜、句集『浅利の唄』、評論「草田男の犬」、加藤楸邨「赤城さかえ追悼」、本書の登場人物の略歴などが付されている。
八方に夏あをぞら悔いも若し 赤城さかえ
セルを着て宿痾の白きふくらはぎ
短夜やわが咳けば波郷痰を喀き
鰯雲の底にわれ在り発熱す
忘るまじ秋日に全裸の捕虜の群を
寒林となり鳥ごえの渡りおり
爆音かぶさる基地の空より雲雀の声
十二月一日父逝く
寒夜酔うて糞まるや泪あふれ落つ
赤城さかえ(あかぎ・さかえ)1908~1967年、享年58。広島市生まれ。本名・藤村昌(さかえ)。
日野百草(ひの・ひゃくそう) 1972年、千葉県野田市生まれ。
芽夢野うのき「汝オリーブな風です涼しげに」↑
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