打田峨者ん第6句集『夜航樹』(書肆山田)、『光速樹』(2014年)以後、『楡時間』(2015年)、『有翼樹』(2016年)、『骨時間』(2017年)と毎年句集をいずれも書肆山田から刊行してきた。俳壇とは全く無縁にして、俳歴は30年を超える。自らを俳諧者、アンフォルメル俳画者と名のっている。「あとがき」とおぼしき「私記」のⅠに、
本書『夜航樹』の総句数は二七〇句ー各組曲扉裏の題辞句、及び巻頭・巻末に置いた”さきぶれ句・なごり句”を含む。
とある。さらにⅡ「俳話のごとく」には、
―俳句は良し悪しでも、好き嫌いでも、又、解る解らぬでもない。這入れるかvs這入れないかである。当の作者に固有の句柄・詠風になじみ親しむ前に、さらにはその俳論・俳話の類に精しく分け入る前に、出会いは殆どだしぬけに、アポなしで、向うから訪れる。有無を言わさず亀裂の如き開孔部に吸い込まれてしまう。そんな打座即刻の会遇こそ、俳諧的”出会い頭(がしら)のポエジァ”の妙とも思われて・・・
とある。そしてまた、「私記」の前の各章題である「無意識ん」「N・A・F・S・H」「余白に献ず reMix」「砂の異聞」「北ホテル 新館」「日や月や」には詳細な自註が付されてある。なかでも「余白に献ず reMix」は、第4回攝津幸彦記念賞「優秀賞」の増補版である。先般、昨年の「豈」忘年句会には静岡・わたなべ柊を介しての句会初参加、句会デビューであったという。
ともあれ、以下にいくつかの句を挙げておきたい。
「オレ」は少女で「自分」は少年 生姜市
「だぜ」てふ語尾護持せり月の少女団
かつては我が家に一猫あり。名はタケ(竹)。
我がえと(・・)の寅なるがゆゑなり。
枯嵐 あぐらは猫(タケ)のねこちぐら
帰路になほ油紋の五彩 麦の雨
猫舌の火食の猿や初松魚
戦争は人間が好き 木の実降る
恩地孝四郎 頌
蓑虫はクルスより垂れ月に吠ゆ
千の裏窓 カーテン東風(コチ)を孕(ハラ)みたる
見せ消ちの一語ぞしるき桜闇
辻順(ママ)荷風を襲ひ夜の虹
2016年春
蓑虫にもセシウム事案 風半球
2015年、正月五日
てづくねの虚(ウツ)ろの量(カサ)や初織部
鉄棘線(バラセン)のここなるほつれ 花の奥
打田峨者ん(うちだ・がしゃん) 1950年、東京小金井生まれ。
★閑話休題・・福田若之「ここに句がある」(「東京新聞」1・19夕刊・俳句時評)・・
東京新聞夕刊の本年の俳句時評担当は福田若之らしい。昨年は佐藤文香だった。本時評「人間と動物のあいだ」(1月19日・土)に、
小澤實は中沢新一との共著『俳句の海に潜る』(KADOKAWA)のなかで林翔の《鷹が眼を見張る山河の透き徹る》という句について「この句を詠んでいる時に作者は鷹(たか)になっています」と述べている。俳句は通常と異なる知覚をもたらすがゆえに世界を認識する方法として最前線のものだというのだ。だが、ひとがときに一句を介して他の動物になることがあり、それがときに何か興味深い認識をもたらすことがあるとしても、そうなり果てることを俳句の読み書きが到達すべき究極のありようとみなすことはできない。上に見た二句の持ち味は、人間の動物化ではなく、むしろひとがそれらを読み書きしながら人間と動物のあいだで揺さぶられる、その震えにこそある。肝心なのは、この〈あいだ〉の意識なのだ。
と評している。文中の「上に見た二句」とはの、もう一句は月岡草飛《寒鴉とこよの風に未練かな》(松浦寿輝の小説の登場人物)。本時評の結びは、
宇多喜代子の句集『森へ』(青磁社)には、《羚羊がいるこれ以上近づけぬ》という句がある。一句は、羚羊(かもしか)への安易な歩み寄りを阻(こば)む決定的な隔たりの意識によって、〈人間と動物のあいだ〉ということの経験を教えてくれている。
と、述べられている。
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