2019年1月13日日曜日
高屋窓秋「頭の中で白い夏野となつてゐる」(『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』より)・・・
現代俳句協会青年部編『新興俳句アンソロジー 何が新しかったのか』(ふらんす堂)、序は高野ムツオ、「おわりに」には現代俳句協会青年部・神野紗希。本書はまた現代俳句協会70周年事業のひとつであった。「はじめに」も神野紗希だが、それには、
現代に生きる人々が、新興俳句運動やその作家について知り、考える手引きとなるような本を作りたいと思い、このアンソロジーをまとめた。新興俳句作家四四名にに関する評論と100句抄に加え、新興俳句にまつわる一三のコラムを収録した。執筆者はほぼ10代~四〇代までの若手俳人。新興俳句運動も、多くは当時の若者たちの手によるものだった。時代を共有しない現代の若手が、彼らの作品をどう捉えるだろう。時代を隔てているから客観的に見つめられる部分も、同じ若者同士だからこそ分かり合えることもあるはずだ。
昭和初期に綺羅星のごとく時代を駆け抜けた彼らの俳句が、新たな荒野を歩まんとする現代の俳人の灯となれば幸いである。
と記されている。愚生もそう願いたい。貴重な仕事だと思う。宇多喜代子が言っていたように、一人ではできない、組織があってできること、それも手弁当で・・と座談会で述べていたことは、こういうことである。こうした無私の情熱が俳句を支えているのだ。
本書が刊行されるらしいことは、執筆の数人の方から若干の問い合わせがあったり、川名大からは苦労話も聞かされていた。まだすべてを読んでいるわけではないが、多くの論者、あるいは作品の抄出において、これまで川名大が成してきた新興俳句に関する仕事に大いに恩恵を受けていることが分かる。そういえば、髙柳重信が折笠美秋の見舞いに、みずから「新興俳句の歌」というのを(もちろん替え歌だが)テープに吹き込んで渡したもののコピーを福田葉子からいただいて聞いたことがある。新興俳句の名の下に散っていった多くの若き俳人たちへの愛惜の情と、口惜しみと、その反面のロマンチシズムが、けして上手いとは言えなかったが重信の歌声に籠められていたように思う。その替え歌の歌詞には、白泉や、三谷昭や、赤黄男、窓秋、鷹女などの名などが入っていた。
若い人たちの各俳人の100選も楽しみ(愚生には文字が小さすぎるのが難点だが
・・)、また、コラムなども、改めて、新興俳句の評価を考えさせてもらった。まずは冒頭の青年部選による「新興俳句百句抄」だけでも十分興味がもてて面白い。以下にその中から幾つかを冒頭近くから紹介しておこう。ともあれ、類書なき座右の書となるにちがいない。
来し方や馬醉木(あしび)咲く野の日のひかり 水原秋櫻子
一片のパセリ掃かるゝ暖爐かな 芝不器男
夏山と熔岩(らば)の色とはわかれけり 藤後左右
ひるがほのほとりによべの渚あり 石田波郷
まつさをな魚の逃げゆく夜焚かな 橋本多佳子
スケート場沃土度丁機の壜がある 山口誓子
午前五時あざみにとげのなかりけり 伊藤柏翠
汝が吊りし蚊帳のみどりにふれにけり 中尾白雨
蛾の迷ふ白き楽譜をめくりゐる 平畑静塔
重ねたる鉄の切口光冷ゆ 湊楊一郎
ラガーらのそのかち歌のみじかけれ 横山白虹
うららかな朝の焼麺麭(トースト)はづかしく 日野草城
血に痴れてヤコブの如く闘へり 神崎縷々
あらはれてすぐに大きくくるスキー 長谷川素逝
目つぶりて春を耳噛む処女同志 高 篤三
花の上に天の鼓のなりいでぬ 井上白文地
しんしんと肺碧きまで海のたび 篠原鳳作
街灯は夜霧に濡れるためにある 渡邊白泉
青空に/青海堪えて/貝殻(かひ)伏しぬ 吉岡禅寺洞
恋人は土龍のように濡れてゐる 富澤赤黄男
ひとりゐて刃物のごとき昼とおもふ 藤木清子
撮影・葛城綾呂 葉牡丹↑
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