戸恒東人『いくらかかった「奥の細道」』(雙峰書房)、帯文に、
『奥の細道』は170万円の旅だった!
『曾良旅日記』の謎の記号から/その真実を読み解く
と惹句されている。「奥の細道」141日、江戸から大垣までの費用は、いくらかかったのだろうか?という当時の旅の現実を類推した比類ない書である。大胆といえば大胆だが、戸恒東人のかつての仕事・大蔵省造幣局長であってみれば、当時の物価、貨幣価値など充分に研究できる下地があったにちがいない。そしてまた、かつての『誓子ーわが心の帆』においても中国現地に足を運んで調査し、その足跡を辿っていたが、本書もまたそうした現場を訪ね、調査している。ブログタイトルにした芭蕉の句は、那須温泉神社を参詣したのち殺生石を見物した折りのもので、本書では、
芭蕉は温泉神社で《湯をむすぶ誓も同じ石清水》の一句をものにし、曾良は《石の香や夏草赤く露あつし》と詠んだ。
この日の航程は記されていないが、往復2里ほど。また支出額は、
通常旅費 200文
神社お賽銭等 100文
宿泊代 200文
計 500文
といった具合だ。芭蕉に同行した『曾良旅日記』には謎の記号があり、それは、
すでに東洋大学名誉教授村松友次氏の優れた研究があり、日記には謎の記号がところどころにありあって、それは二分と一両を示すものではないかというものであった。
と著者「あとがき」にある。「おわりに」の項では、
(前略)謎の記号のある個所で、1024とか1240とか読める数字が書かれているが、これは銅銭と金貨との交換レートであろうと考えた。元禄時代には、1分1000文という公定レートはあったが、、実際には1分1200文、また1分1240文という市場レートで交換されたということは、銅銭が安かったということになる。
この研究を通じて分かったことは、芭蕉は案外余裕のある旅をしていて、宿もみすぼらしい所には泊まらずに、宿がなければ庄屋の家に泊めて貰ったりしていたこと。また旅の後半には路銀も大部余ったので、温泉に泊まったり、酒も結構たのしんだのではないかということである。
と記されている。総費用については、「総支出額は5万6720文(14両720文)となった。1文30円換算で170万1600円となる。また1日当たりの平均支出額は、402文(1万2068円)である」という。
★閑話休題・・西あき子「薬喰まづ百薬の長を召せ」(『魚眼レンズ』)・・・
西あき子第一句集『魚眼レンズ』(雙峰書房)の序は戸恒東人。跋は原田紫野。その序文に、
句集名の『魚眼レンズは、集中の、
大夕焼魚眼レンズに収めけり 「螺鈿の月」
から採ったものである。見る者は誰もその光景の偉大さに身の竦む思いがするが、カメラに収めようとすると普通のレンズでは収めきれない。そこで魚眼レンズにその荘厳なるパノラマをしっかりとカメラに収めたのだ。光に対する敬虔な姿勢はこの句集の骨格をなしている。
と記されている。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。
引鶴の残せし小夜の水鏡
睫毛てふ陰もつものや春灯
雨蛙一跳ねに身を隠しけり
箱みかん一つふたつは傷みたる
朝虹の人逝く道に架かれかし
落雲雀またも視力を攫はるる
まだ垂るる重さは持たず青葡萄
選るほども無きを選りをり鬼灯市
重き空曳きくる鷲の翼かな
西あき子(にし・あきこ) 昭和27年 茨城県下妻生まれ。
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