2019年1月27日日曜日

山頭火「伐つては流す木を水に水に木を」(『山頭火俳句集』より)・・・

 

 夏石番矢編『山頭火俳句集』(岩波文庫)、夏石番矢の解説「ー水になりたかった前衛詩人」には、

  (前略)各年ごとの山頭火の俳句は、『山頭火全句集』が句集、雑誌、新聞、日記、書簡などという記録媒体の種類ごとに並べられているのと違って、山頭火による句作の順序を私が推理して配列した。
 この1000句を読むと、山頭火が実際に生きた時間の流れが伝わり、彼の実際の人生体験をベースにしながらもそこに制約されない、彼の思いの流れも味わうことができるだろう。そこで初めて山頭火という俳人の実体をつかめるのではないか。

と記し、その結びには、

 ここで、とりあえずの結論を述べよう。不眠と憂鬱という近代人の苦しみをつねに抱き、酒や睡眠薬によって根本的には救済されず、最も斬新で最も短い短詩=俳句を作りながら、旅をして水になりたいと願ったのが、種田山頭火という男であった。
 またこうも言える。視野を海外にも広げれば、種田山頭火は、二十世紀前半の世界の前衛詩人の主峰をなす一人だと。

 述べている。そしてまた本文庫には、句作品のほかに重要と思われる日記、随筆、略年譜も収められ、従来、喧伝されてきた境涯を主とする山頭火像とは違う、新たな詩論家の面をも見せている山頭火に出会うことが出来る。例えば、昭和10年4月4日の日記の最後には、

□感覚(・・)なくして芸術ー少なくとも俳句は生れない。
□俳人が道学的(・・・)なった時が月並的(・・・)になった時である。

 また、随筆「最近の感想」の中には、

 季題論が繰り返される毎に、私は一味の寂しさを感じないでは居られない。ただ季題という概念肯定のためにーむしろ季題という言葉の存在のために、多くの議論が浪費されつつあるではないか。もしも季題というものが俳句の根本要素であるならば、季題研究は全然因襲的雰囲気から脱離して、更に根本的に取り扱われなければならない。
 私は季題論を読むとき、季題(・・)という言葉よりも自然(・・)という言葉を使用する方がより多く妥当であり適切であると思う。

 という。愚生の遠い記憶だが、故郷山口・湯田温泉にあった句碑には、

  ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯   山頭火

 とあったように思う。



★閑話休題・・古田嘉彦「今朝は壁に塗り込められた鰐がずっと寒い」(「吟遊」第81号より)・・


 山頭火つながりで、「吟遊」第81号(吟遊社)に、夏石番矢篇『山頭火俳句集』の書評を鈴木光影「溶けてゆく形式と内容」、古田嘉彦「岩波文庫『山頭火俳句集』を読む」が掲載されている。その古田嘉彦評の冒頭に、

 この選集の画期的なところは、まず夏石番矢の「解説ー水になりたかった前衛詩人」で世界俳句の中において山頭火を位置付けたことだろう。外国人の俳人と話をしていて山頭火の作品への称賛を聞くと、山頭火は世界で共有されうるのだと納得する。私は自由律というよりは、安部完市が晩年唱えた「不定形」という言葉を使いたいのであるが、不定形の俳句は日本より海外で三行、あるいは一行の短詩として広まっているのではないか。

 とまっとうに述べている。「不定形」という言葉で思い出すのは、愚生がかつて十代の終り、京都にいた頃、「集団 不定形」という雑誌に、ペンネーム(俳号)で句作品を発表していた。その雑誌には、愚生より先輩格として堀本吟が詩を書いていた(当時の「現代詩年鑑」には堀本吟の名があった)。ともあれ、「吟遊」本誌より山頭火の句を以下に孫引きしておこう。

 雪、雪、雪の一人     山頭火
 闇が空腹 
 たんぽぽのちりこむばかり誰もこない
 食べるもの食べきつたかなかな
 憂鬱を湯にとかさう
 ことしもおはりの憂鬱のひげを剃る
 こんなにうまい水があふれてゐる
  
  

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