2019年6月18日火曜日

髙柳重信「身をそらす虹の/絶巓/処刑台」(増補改訂『日本アナキズム運動人名事典』より)・・


「図書新聞」3396号・4月20日(土)↑


 増補改訂『日本アナキズム運動人名事典』(ぱる出版)、本書を編纂した「日本アナキズム運動人名事典編集委員会」の「増補改訂版刊行にあたって」には、元版刊行から10年後に改訂版を刊行することを期していたという。増補改訂版には、以下の特色があるとも記されている。

1 新たに3,000余名の人物を立項し、元版と合わせて6,000余名となった。
2 附録のアナキズム運動史関連誌リストを充実させ、新たに1945年から日本アナキスト連盟解散の1968年までの機関誌リストを加えた。
3 附録に日本社会主義同盟(1920年設立)の加盟者名簿を収録した。
4 人名索引に加え、機関誌名索引を載せた。

 本書の書評を、項目執筆者の一人である久保隆が「図書新聞」3396号(2019・4・20)に、

 その中でも、多くの俳句表現者が取り上げられているのは異彩を放っている。もちろん、和田久太郎という存在は、わたし(たち)にとって大きな有様だが、俳句表現者として見做す時、幾らか角度が違ってくるといわざるを得ない。だから、西東三鬼、鈴木六林男、髙柳重信、富澤赤黄男、永田耕衣、平畑静畑といった俳句表現者たちを採り上げているこの事典は極めて特異である。「57年『髙柳重信作品集黒弥撒』(琅玕洞)を刊行。この『序にかへて』で富澤赤黄男は『髙柳重信の精神』はアナキズム的な『反抗と否定の精神』であると指摘した。(略)この『黒弥撒』の『黒』には23年1月に刊行された『赤と黒』をはじめ『黒色文芸』などに繋がるアナキズムの思想が認められる。(略)第一評論集『俳句評論バベルの塔』(略)の巻頭の評論『敗北の詩』(略)では高柳は俳句を『敗北の詩』と呼び、俳句作家を『反社会的な存在と捉える。そこには24歳のアナキスト・高柳重信の姿が『虚無的な教条の光芒の中』ではっきりと描かれている。」(「髙柳重信」-平辰彦)
 わたし自身も重信俳句の世界に共感してきたつもりだったが、ここまでアナキズム的様相を色濃く見通すことができなかったといっていい。

 と記している。愚生は、そうした様相のよって来たるところは、むしろ、髙柳が軍国少年として、神道に対する幼少時からの共感の方が色濃く残っていたのではなかろうかと思っている。本書は、それでも、一般に流布されている俳句辞典よりもはるかに懇切に、各俳人達の項目について、高柳重信のみに限らず、よく踏込んで書かれていることだけは確かである。久保隆も記しているが、「広くアナキズムを包摂するという意味で、この人名事典は、多彩な顔を持っている」のだ。



厚見民恭追悼集『黒い旗の記憶』(玄文社・1997年7月刊)↑

 とはいえ、愚生にとって、重要なのは、本事典に「厚見民恭(あつみ・たみちか)」の項目があることである。通称・厚見のオッチャンは、脳溢血で早逝(享年50)したが、当時、立命館大学二部夜間部学生であった愚生に、「集団・不定形」という雑誌に投稿を勧めた。そこに愚生は「林かをる」というペンネームで句を発表した。現在は「豈」同人である堀本吟が、当時の現代詩年鑑に名も見えたる詩人として、詩を発表していた。その頃、愚生はまだ堀本吟に会っていない。愚生が出した黒い表紙の「立命俳句」7号は終刊号のつもりだったが、それを見た久保純夫(鈴木六林男「花曜」に師事)がそれを引き継ぎ、さとう野火、城喜代美らと「戦無派作句集団・獣園」の創刊に繋げて行った。
 その厚見民恭の父・厚見好男も本事典に収載されている。親子で京大関係の出版と印刷を手掛けていたのだ。会社の名を玄文社という(いま思えば「玄」は黒のことだ)。「京大俳句」もそこで印刷されていた。「立命俳句」も破格で作ってくれた。だから、「京大俳句」の上野ちづこも江里昭彦も厚見のオッチャンを通して知っていた。
 オッチャンの父・好男は変り者だったらしいが、彼が関わった『千本組始末記』を書いた柏木隆法も二、三年前に亡くなっている。また、「虚無思想研究」を出していた京大図書館の職員だった大月健も数年前に他界した(本事典の項目執筆者)。
 そうそう、種田山頭火は関東大震災のときに、主義者と疑われて、警察に捕らえられている。とはいえ、れっきとしたアナキストの俳人と言えば、芥川龍之介が絶賛した和田久太郎に指を屈せざるを得ない。獄中自死の際の辞世の句を挙げておこう。

  もろもろの悩みも消ゆる雪の朝   久太郎



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