2017年10月7日土曜日

武山平「深海も深空も地球魂迎へ」(『開封』)・・



 武山平句集『開封』(文學の森)、集名に因む句は、

   開封は檸檬を齧る覚悟して      平

であろう。いつもながら親愛な序文は大牧広、
  
 「開封」、郵便物、ことに封筒の郵便物を切ってゆくとき、ゆえ知らぬ気持が胸をよぎる。
 すこしの期待、すこしの不安、こうした気持が胸をよぎるのでらる。
 著者の俳句は、そうした心地のよい不安感、希望、やがてゆきつくアクティブな心、そうした心情にいろどられていると見る。著者は教育職にあって、若い人達に、たしかな進路、思索といったものを導いていた。
 その自信が全作品にみちている。勿論人間である以上、自信と相対する不安や疑心もつたわるが、それらが詩的に発酵されて著者ならではの作品を成している。

 と記している。また、俳句について、武山平は「あとがき」で以下のようにいう。

 読めない漢字に意味不明の句(味わえない私)は無視していた私だったが、毎月衝撃的な俳句と出合い、俳句の不思議な世界に少しずつ魅せられていった。〈ひたすらにこの道行かう冬夕焼〉(平田房子)は当時の不安定な私に勇気をくれ励ましてくれた一句として、時々懐かしく思い出す。たった十七音なのに、しかもポエムであるのに、俳句はどんなに言葉を重ねても、文章では表現げきないような緊張感や広がりまでも表現できる器であることに気付き、楽しい驚きの連続であった。

 俳句との幸せな出合というべきである。ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。
武山平(たけやま・たいら)、昭和29年宮城県生まれ。石巻市在住。

  人参は日輪になりたくて赤
  おにぎりの心臓か梅干しの赤
  赤のまま挿して空缶に命
  緑さす震災ごみをまとひても
  風死すやかつて教科書死んだふり
  少年にピアスの光原爆忌
  手袋の五本の闇を疑はず







 

2017年10月6日金曜日

堀葦男「ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒」(「一粒」83号より)・・



「一粒(いちりゅう)」第83号(一粒俳句会)、特集は「『俳句20章』の世界」。堺谷真人は「巻頭言」とともに「堀葦男かく語りきー『俳句20章』成立の背景と俳句文体論」を執筆している。堺谷真人は最晩年の堀葦男に師事している。その堺谷が、堀葦男に最初に会ったのは「昭和62年(一九八七年)六月、筆者は初めて『一粒』の月例句会に出席した。『先生の堀葦男いうのんは、関西前衛の旗手やったんや。知ってるか』『いいえ』。筆者を強引に勧誘した西村逸郎氏と事前にこんなやりとりがあった。『そらもう大変なロンキャクやったんやで』」(「巻頭言」より)。堺谷真人は1963年生まれだから、24歳の時である。西村逸郎の語り口、姿が髣髴とする。
 本号の堺谷真人の「資料1」には、その堀葦男著『俳句20章ー若き友へー』(海程新社・昭和53年9月刊、限定700部)の目次が紹介されている。初出は「海程」創刊号(1962年4月)から29号(1966年12月)まで23回にわたって連載された「現代俳句講座」に、加筆のうえ海程新社から発行されている。
 本著の特徴は当時の俳句作品をいわゆる伝統派から前衛派まで、具体的に作品をあげ、その特質を解明して、その共通する表現上の特徴を明らかにしている点であろう。同時にそれは、かの戦後俳句、昭和30年代の俳人の多くが現実生活と世界の在り様の真っ只中で苦闘していることも描出していよう。
 堺谷は「(一)音律と意味律との二重性」の部分で、以下のように述べている。 

 なお、葦男自身は特に説明を加えていないが、在来俳句が「句またがり」と呼ぶ表現を、句調に変化をつける技法としてだけでなく俳句独自の文体論から捉え返している点、俳句を二分節の文章とする意味律の規定によって、在来俳句が慣習的に忌避する「三段切れ」を予め排除している点などに「共通基盤」構築に向けた周到な用意を感じる。
 更に、分節と音の齟齬による「一種独特の深みや陰翳」には一句一行の棒書きのときに最もよく働くと考えると、俳句文体の効果を殺ぐ分かち書きや多行形式に対して堀葦男が慎重だったことも首肯できる。

 特集の他の執筆陣は、中村不二男「堀葦男の『俳句20章』の世界へ」、小野裕三「天上と地上に引き裂かれて」、伊藤佐知子「俳句上達の試み」。
今や、堀葦男のことを思い起こす俳人も少なくなった。貴重な特集だと思う。
 堀葦男(ほり・あしお)、1916年6月~1993年4月。東京市芝区(現・港区)生まれ。生後早々、神戸市に移り、関西に育つ。




 ともあれ、本号の「一粒集」から、一人一句を挙げておこう。

  睡蓮のあたり地下鉄掘れと云う    湖内成一
  名誉とは汝が花言葉凌霄花      鈴木達文
  路地二本同じ夕焼かかへたる     勢力海平
  摩文仁まで這ふ兵ありき蝸牛も    堺谷真人
  からまつはさびしとおもふ夏の霧   中村鈍石
  小刻みに震えて海の大西日      中井不二男
  薄暑光うなじにふわりはんかちーふ  有馬裕美


  

2017年10月5日木曜日

とくぐいち「裏山に鳥の身投げは続きけり」(『おじゃまむし』)・・



 とくぐいち俳句集『おじゃまむし』(私家版)には、二冊の句集が入集されている。ひとつは当人の『おじゃまむし』400句、あと一つは、彼の友人だった八田春木遺句集300句である。
著者「あとがき」に、

 この句集は二〇〇九年六月から二〇一七年二月まで『蕙』『鶏鳴』『ロマネコンティ俳句ソシエテ』『面』等の俳誌に発表したものを中心に選んだ。慣例的には、敬愛する俳人に選句を願い、解説等を書いていただくところだが、無季俳句孤軍奮闘中でもあり自選とした。また、『八田春木遺句集』を付録としたが、それは俳句にあって因縁浅からぬ、今は亡き友人八田春木の作品を収録しておきたかったからである。

 と記されている。無季俳句とはいえ、俳句は、言いおおせて何かある・・のであり、言いおおせるのが川柳ならば、とくぐいちの句は、やはり川柳的なのである。無季俳句も川柳も同じく五・七・五のみで立つ形式である。いずれにしても、その道は、ともに遥かである。「面」に所属とあったので、そこには見事な書き手である高橋龍がおり、無季俳句といえども、掌中のものである。せっかくの具現の士が近くにおられるだから、教えを請われるのが近道ではなかろうか。とはいえ、この困難な道を進もうとする、とくぐいちの奮闘に敬意を表したい。
 ともあれ、彼の句と、そして、俳句としては、よく完成されている八田春木の句をいくつか以下に挙げておきたい。

  年表の余白に兵が横たわる     とくぐいち
  身をひたす闇が縮んでしまいけり
  もういいと白菜煮えてしまいけり
  こんにゃくは時を盗んで煮えてゆく
  言訳のかわく舌の根蟻地獄
  「様」つけるほど上等か「世間」は
  ひっそりとしている円の中心部
  戦争にたてる爪なし季語二万

  少しだけ温もる水を吐く海月     八田春木
  白玉は水の深きへ変声期
  かなかなの声ふたとほり父娘
  春の闇乾ききらない手を使ふ
  霧の海死刑執行報じをり
  炎天下魚眼レンズの中の街
  少年を囮に入れて五十年
  死神も同席したる雪見酒

  とくぐいち、1947年山梨県生まれ。水戸市在住。



               つるし雲 撮影・葛城綾呂↑   

  

2017年10月4日水曜日

黛まどか「南無大師遍照金剛夕焼けぬ(「黛まどかの四国歩き遍路・同行二人」より)・・



 東京新聞夕刊にほぼ3ヶ月連載されていた「黛まどかの四国遍路・同行二人」がめでたく結願した。
 威張るわけではないが、信仰心もなにもない愚生は、遍路などという苦行には縁なく過ごしてきた。とはいえ、一度歩き遍路をしたことがある、しかも約一時間程度ですべてを歩き通せる、高幡不動尊の小山にある札所めぐりだ(笑)。
 黛まどかに最初に会ったのは、たしか第一回か第二回の加藤郁乎賞(第一回授賞は手島泰六)の折りだったのではなかろうか。まだ飯島耕一、辻井喬も健在だった。加藤郁乎は崇教真光(すうきょうまひかり)の信者にして、位も上位の人だったように思う。郁乎はごくたまに「手かざし」をすることもあった。俳句評論のご婦人方には、その「手かざし」をされた方も多くいらっしゃるだろう。
 その加藤郁乎賞の第一回受賞式の出席者に、俳人は愚生より他にいなかったようにおもう(いや仁平勝はいたかもしれない)。郁乎没後は加藤郁乎記念賞として引き継がれている。
 それにしても「同行二人」の遍路の様子は、身心ともにタフでなければ到底完遂できるものではないと思わせた。歩いているうちに金剛杖の先はめくれて花のようになるのだ。
 連載の最後は以下のように結ばれている。

  (前略)結願の果てに行き着いたのは、空と海のあわいだった。数えきれない一期一会はやがて線になり、円を描いて一つの真理に到達した。巡礼者には肩書も名前さえも要らない。ただ、「お遍路さん」と呼ばれ、施しを受け、襤褸(ぼろ)切れのようになりながら歩き継ぎ、生まれ変わる。祈り、供養して歩くことは、自分自身の魂の救済にほかならない。白衣は死装束(しにしょうぞく)であり、産着であった。
 「あっ、”花”だ!」。ユリウスの声に杖(つえ)の先を見ると、土にまみれた小さな”花”が咲いていた。

  南無大師遍照金剛夕焼けぬ

ユリウスは遍路の途中で会った年齢は親子ほども違う青年であるという。
ともあれ、連載終了前の一日一句を紹介しておこう。

  結願の道に拾へる落し文     まどか  
  月光に白衣の乾く柚子の花
  方丈ににぎやかな声樟若葉
  泉湧いてしきりにこぼす鳥の声




2017年10月3日火曜日

井上けい子「銀河へと行くかもしれぬ蓮見舟」(『森の在所』)・・



井上けい子『森の在所』(文學の森)、集名は以下の句に因む。

  秋蟬に森の在所を知らさるる         けい子

著者「あとがき」に、

 句集『森の在所』は、平成二十一年刊行の『雪ほたる』に続くもので、二十三年から二十九年四月までの三七一句を制作順に収めた、私の第二句集です。

とある。序文は塩野谷仁で、その結びに、

  老いてなお炎となれり冬紅葉

巻末に近い作品である。作者は昭和六年生まれ。されど、この句からは、今なお少女期から抱いてきた文学への熱い思いが見てとれる。「冬紅葉」が作者の思いを代弁していよう。俳句では八十代は熟成のとき。これからの健吟を願って止まない。

としたためられている。
 著者は退職後、星野沙一のカルチャー講座を受講し、「水明」の同人となり、沙一亡きのちは星野光二に師事、第一句集を編んだ後、塩野谷仁のカルチャー教室を受講、探求心、好奇心も旺盛な様子である。現在は「遊牧」同人で、句作りに、なお磨きがかかっているようだ。ともあれ、以下に、いくつかの句を挙げておこう。

  いもうとのさよならを告ぐ冬茜
  散骨の海果てしなく冬銀河
  品書に改訂のあと走り蕎麦
  蛍袋のなかに密かな隠し人
  留守電にのこる電話や花の闇
  洞窟にのこる声あり沖縄忌
  夜の卓に葡萄一房あり触れず

井上けい子(いのうえ・けいこ)、昭和6年、朝鮮京城府生まれ。



          ヒガンバナ 撮影・葛城綾呂↑

2017年10月2日月曜日

佐々木六戈「どよめきに彼の人思へしだらでん」(「草藏」第95号)・・


 
 句歌詩帖「草藏」(草人舎)誌は、見事なまでに佐々木六戈の美意識が隅々にまでめぐらされいる。句歌詩帖だから、毎号、佐々木六戈の俳句・短歌・詩が発表され、もちろん同人諸氏も六戈の選を閲して作品が掲載されている。本集の「風人帖(ふうじんてふ)/俳句」の「一人称」36句のなかに、ブログタイトルにした句「どよめきの彼の人思へしだらでん」を見つけたのである。そして、彼の人とは、最晩年の句集『しだらでん』の三橋敏雄に違いないと思ったのである。その集名ともなった三橋敏雄の句は、
  
  みづから遺る石斧石鏃しだらでん    敏雄

である。
 愚生が佐々木六戈と知り合ったのは、彼がまだ創刊からさほど間もない「童子」の編集長時代だ。仁平勝などともに、コラムを連載させてもらったこともある。彼を新宿の宮﨑二健の店「サムライ」で加藤郁乎に紹介した日もあった。その夜、加藤郁乎と佐々木六戈はすぐに意気投合した。
ともあれ、「草藏」本号から句をいくつかと短歌を二首挙げておこう。

  声あれば美声の黴でありにけり     六戈
  回りけり入道雲の裏口へ
  蟷螂の斧青青と使用前
  大夕焼絶筆は斯く暮れながら
  夭き死のかなかなの鳴き交はすさへ

  たくさんの人を屠りて此処に居るこの世のことではなうかのやうに
  非情なる息子にわれは成り果てて母の歌詠む一寸法師




★閑話休題・・

「俳人『九条』の会通信」第20号(俳人「九条」の会事務局)が届いて、去る4月8日に行われた「新緑の集い」の講演録・酒井佐忠「怒りをこめてふり返れ」が載っていた。2014年2月7日に69歳で亡くなった歌人・小高賢の遺歌集『茱萸坂』の短歌と大牧広の俳句について多くを語っていた。「茱萸坂は国会議事堂前の南の下り坂で、デモに参加された方はご存知だと思います」と酒井佐忠は述べていた。
 講演で紹介された作品の中から、それぞれの二首と二句を以下にとどめておきたい。

 沖縄に原発なきはアメリカの基地のあるゆえ・・・みんな知っている 小高 賢
 価値観が戦後ユガンデキタサウダツマリ戦時ガ正シイサウダ

 反骨は死後に褒められ春北風        大牧 広
 夏ひえびえいくさの好きな人が居て
   


  

 

2017年10月1日日曜日

日高玲「夜のひまわり液体爆弾壜の中」(『短編集』)・・


 
 日高玲第一句集『短編集』(ふらんす堂)、序句・序文「手法の自由さ」、ともに金子兜太の色紙、直筆原稿を写真にして掲載してある。序句は、

   小鳥来る巨岩に一粒のことば    兜太

跋文は安西篤「日高玲句集『短編集』評-独自の方法と多彩な映像」。その跋に「スケールの大きい知的形象力で勝負する本格派」と記している。そして、

 全体は十章によって構成されているが、(中略)さらに各章は、ほぼ七句編成となっていて、十章で三十五の短編があり、全体は二百四十七句で構成されている。ここに『短編集』の所以がある。(中略)こうした工夫は、日高の連句出身の経歴と無縁ではない。一編七句の短編によって、連句的手法の展開を図っているのだ。

とある。よって「短編集」の項、単独一句ではなく七句を以下に挙げる。

  皺の眼みせて湖あり涼新た          
  木の葉髪夜明けの湖むらさきに
  九条葱姉はそろりと雨戸引く
  餅菓子屋翁顔なり枇杷の花
  お元日猫を老い抜く尼二人
  お降りや短編集に恋の小屋
  喉通る七草粥の緑かな

いかがだろうか。それを金子兜太は「連句と俳句に親しんでいたのである。そして、付合いの手法を一句の句作りにも活用して、独特な俳句の世界を築いてもいたのだ」と序に言う。そして、また、安西篤は跋の結びに、

 寝物語に犀の生き死に無月なり
 まんさく咲くひとを去らせて素となりぬ

この二句の間に、夫の死があった。「寝物語」には、生前の夫像があるが、「生き死に」は、「犀」という場(景)のものであった。ところが「まんさく咲く」に到るや、「去らせ」た「ひと」とは「夫」、つまり二人称のものになる。夫に死なれて、にわかに一人称たる自己は「素」なるもの、無地な白そのものとなったという。それは「まんさく咲く」映像にも通い合う。
 
と記している。ともあれ、本集よりいくつかの句を取り出しておこう。

  鳥類学者シャツに氷河の匂いして
  アパートの死角真白し花八手
  夕立を待つベネチアの硝子吹き
  蛇はまだ寝てはいるまい摩尼車
  無色とは肺の澄むこと春鴉

日高玲(ひだか・れい)1951年、東京生まれ。