2014年2月26日水曜日
首くくり栲象に遭遇・・・
こんなこともあるのか・・・。
先週から愚生は、バイトでF市内を歩き回っているのだが、
今日の昼過ぎに、ファミレスか、食堂での食事を諦めて、ある団地の公園で昼休憩をしていたら、向うから三人のカメラマンの被写体になりながら、歩いて来る男がいるではないか。
確か、この近くの「庭劇場」で日々首を吊り続けている栲象がいたなあ・・と思い出していたときのことだったので、余計に驚いてしまった。
庭劇場とは自宅の庭のことだ。料金は千円。
乙女椿の木で首を吊る。
実に修行者のように・・
しかも、若い時分よりも、吊る時間が長い。
(ホームぺージやユーチューブで観られるから、興味のある方は観て下さい)。
手を振ったら、首くくり栲象(たくぞう)も驚いていた。
思わずお互いに手を取り合って、「なにしてんの?」。
そばにいたスタッフと思った若い女性が、「首くくり栲象の一日を撮っています」と言う。
土方焼けした愚生の顔を見て「奇跡だな・・」。
かの若い女性はCAPプロデューサーの名刺を見せて、「栲象さんのパフォーマンスを観たことありかすか?」ときた。
あるも何も40年来の友人である。
昨年末のには何十年ぶりかで,首くくり栲象出演の芥正彦「ホモ・フィクタス」の草月ホールに出かけた。草月ホールは大駱駝艦との公演以来の大舞台だった。
彼は、そのパフォーマンスをときにアクションといい、ときに美術的パフォーマンスと言っていたような気もするが、愚生にとってはネオダダの風倉匠(風倉匠亡きのちの今でも、豈の表紙は風倉匠のデカルコマニーで飾っている)の親友として紹介された縁がある。実は、仁平勝が俳句に染まる以前に首くくり栲象を介して知り合ったのだ。
その頃、首くくり栲象はもっぱら古沢栲(ふるさわ・たく)、タクちゃんと呼ばれていた(愚生はタクさん)。
当時の彼は武蔵野美大の男性ヌュードモデルをしていた。
愚生の職場に絵を描いてきてはいくばくかをせしめていた。
それに、愚生が毎日のように宴会を開いていたが(今では考えられないが・・)、彼はなくてはならない役者であり、歌手であった。
いまのようにカラオケなんてものはない。みんなの手拍子でアカペラで歌った。
金子由香利がまだ無名の頃に、ドーナツ盤のレコードを擦り切れるほど聞いていた。
彼女を教えてくれたのも彼だった。
そのほか、ここでは書き切れない多くの・・思えば、毎日が刺激的だった。
首くくり栲象はまさに、生きていることが哲学者ふうで生活と芸術が一体という現在では稀有な存在だ。
先日、首くくり栲象から、今月の庭劇場案内(25,26日夜八時から、雨天決行)のメールをもらったときに、「昨年の夏、部屋に蚊帳を張り、その中で雲を終日眺めていた。雲は右から左へ、西から東へと、それぞれの趣でハキハキと形を変えつつ流れていた。いまもあの夏と同じガラス戸で、目一杯開け放ち、空を眺めています。雲はどんより、寒さはハキハキ、寒空です。この寒空はある日、忽然と消える。なにかが消え、何かが顕れる。いま雪のさ中、紅梅が忽然と顕れ、煌々と紅で息衝いている」と記されてあった。
2014年2月25日火曜日
俳句は出来の悪い子どものような・・・
昨夜は、帝国ホテルで行なわれた第56回読売文学賞授賞式に出かけた。
「今日は俳人が多いねぇ」、誰かが呟いた。
まあ、3.11以後の寵児のような扱いをうけ、かつ、現俳壇で人気絶頂の高野ムツオとあっては、例年にない俳人の多さだったのだろう(授賞式に初めて出席した愚生には実はわからない)。
昨年の俳人の受賞は和田悟朗(愚生は二次会からの参加だった)。今年も90歳を越える年齢にも関わらず元気に奈良から駆けつけられていた。
しばし、愚生が二十歳の頃、投句していた兜子時代の「渦」の話を少しした。
兜子急逝のあと、しばらくして主宰を継承した赤尾恵以を支えた一人が和田悟朗だ。
ともかく、以下に、受賞作・受賞者を記す。
〇小説賞 村田喜代子「ゆうじょこう」(新潮社)
〇随筆・寄稿賞 旦 敬介 「旅立つ理由」(岩波書店)
栩木伸明 「アイルランドモノ語り」(みすず書房)
○評伝・伝記賞 小笠原豊樹 「マヤコフスキー事件」(河出書房新社)
(不明にして小笠原豊樹が詩人の岩田宏であるということを初めて知った)
○詩歌俳句賞 高野ムツオ 句集「萬の翅」(角川学芸出版)
○研究・翻訳賞 中務哲郎・訳「ヘシオドス 全作品」(京都大学出版会)
選考評は全選考委員を代表して、全部門の選評を高橋睦郎が見事な分析力を発揮して披露した。

受賞の言葉では、高野ムツオが「俳句は僕にとって出来の悪い子どものようなもので、死ぬまで付き合っていければよい」と述べたのが印象深かった。
句集『萬の翅』は、今.愚生の知人に貸しているので手元にないので、具体的に指摘できないのが残念だが、評判の良かった震災詠もさることながら、むしろ11年間の句の秀逸さはそれ以上という印象であった。佐藤鬼房、桂信子などへの追悼の句、田中哲也の名もあったと思うが、それらの句、そして自らの咽頭癌手術の際の句など、彼の境涯が俳句の表現力を熟成させていたことは確かなことで、目を瞠っていたのだ。
霜柱この世の他にこの世なし ムツオ
因みに読売文学賞で東北人が受賞するのは高野ムツオが初めて、九州は村田喜代子で伊藤一彦に次いで二人目という。期せずして蝦夷・熊襲の合体?だった。
祝賀会では、多くの俳人に会ったが、それ以上に懐かしくもしばらくぶりにお会いしたのが五柳書院の小川泰彦(愚生の俳句入門書、西東社から出た『俳句 作る楽しむ発表する』の切っ掛けを与えてくれた人である)。また、愚生の単独句集はすべて出してくれている書肆山田・鈴木一民、そして、彼の紹介で書肆山田から詩集『アトランティスは水くさい』を出している平田俊子などなど。愚生は二次会を失礼したが、結局、数年ぶりの有楽町・炉端に鈴木一民と近代文学館事務局の若き有望と思われる吉原洋一とで、彼らは酒を呑み、全く呑めなくなった愚生はお茶を出してもらって遅くまで歓談。
それと大場鬼奴多(関口で野菜倶楽部・OTO NO HA CAFEをやっているので、是非訪ねて来いと・・言う)にも眞鍋呉夫を偲ぶ会以来の再会だった。
2014年2月22日土曜日
《そして、》・・・
20年ほど前、ちょっと変わった冊子があった。
東京から仙台に引っ越した橋本七尾子が「小熊座」の佐藤きみこ、高野ムツオと仲良くなって、発行所を佐藤きみこ宅において、その都度「題」を与えて締め切り日までに送稿するというものであった(題は発行人の輪番で出題)。ほぼ隔月のペースで発行されたように記憶している。発行人は便宜上池田澄子・大井恒行・佐藤きみこ・高野ムツオ・橋本七尾子が務めたが、愚生は名前だけで何もしていない。
表紙絵などデザインは、確か渡辺誠一郎がやっていたように思う(もしかしたら、実務全般も?)。
締切を過ると自動的に句はボツになっていたので、攝津幸彦や愚生は、とにかく打坐即刻を地でいくように、締め切り直前に、かの山川蝉夫(髙柳重信の別号)の例にならって、5分以上は考えないと嘯きながら、句ができると、すぐに投函していた。
「《そして、》-1」(1993.3)のお題は「鶏」、「《そして、》-2」のお題は「日本」。
「《そして、》-1」の「あとがき」に、橋本七尾子が以下のよう記している。
(前略)、固まらず、人と人をつなぐ接続詞の役割をつとめられればーというのがささやか な句集の願いである。
立場の違やその距離のために同席する可能性の薄い人たちだが、たとえ紙上とはい え、一つの主題で発想と表現の多様さを競い、また楽しんでいただきたい。「誰もいなく なる」までのしばらくの間を。
《そして、》は、1996年12月に「悼」の題で「追悼 攝津幸彦」を出して終った。寄せられた追悼句は78名。もっとも厚い26ページ。「あとがき」は高野ムツオがしたためた。
仙台に住む「そして」のメンバーのうち四人が、久しぶりに会したのは土井晩翠顕彰の 催しがあった十月十九日、攝津幸彦の初七日のことである。(中略)誰からとなく、話題は 攝津幸彦の死に及び、これもまた誰が言い出すともなく悼句集を出そうという話しになっ た。(中略)、この薄っぺらな紙の供養塔が、集まった人々の彼の俳句への熱い思いを伝 えてくれることと信じる。攝津幸彦よ、永遠に安らかに眠れ。
《そして、Ⅳー5》に攝津幸彦は遺稿ともいうべき句を、「平成八年九月二十日の私」と題して5句を投稿していた。
機関車の日の丸日の丸勝ちうさぎ 幸彦
糸電話古人の秋につながりぬ
はいくほくはいかい鉛の蝸牛
祭笛今宵ゆふべの洗ひ髪
オマージュにタルタルソースの夜の秋
創刊「《そして、》-1」の一人一句を以下に挙げておこう(25名)。
ソプラノの鶏育てたし氷割る 赤松の里恵
月光や」ねぐらの鶏が声洩らす 淺沼眞規子
にはとりへ白黒映画の手が伸びる 此口蓉子
鳴きつれる鶏の思いを考える 池田澄子
明けない春の 銀糸の鶏のぬいぐるみ 大井恒行
絵の島で鶏と契ってをりました 荻原久美子
鶏鳴いてころんだままの雪だるま 五島高資
初夢に母いて鶏を股ばさみ 佐藤きみこ
うそ寒き手に包む火の玉子かな 鈴木修一
少彦名を呼べば鶏ふりむきぬ 鈴木紀子
遺失物に鶏小屋の冬の暮 高野ムツオ
鶏冠太るかすみの家に棲みついて 田尻睦子
初湯して江戸の鴉もオノマトペ 筑紫磐井
ゆるい靴長鳴鶏を鳴かしめよ 永末恵子
鶏鳴に田螺の蓋をちょと開く 中原道夫
眠りてはなお押し合いぬ春の鶏 橋本七尾子
砂月夜ひとりに帰りねむる鶏 原久仁子
冬の断崖蹴爪に光満ちてゆく 深町一夫
ゆふかすみにはとりの声はりつきぬ 冬野 虹
着膨れてなんだかめんどりの気分 正木ゆう子
短日やふくみ笑いのにわとり来 増田まさみ
尻おもく飛ぶにはとりよ夏の暮 山内将史
きさらぎをかき回している軍鶏の足 山本敏倖
鳥の目を洗ふかどには春来たる 渡辺誠一郎
鶏小屋への招待受ける春の闇 渡部陽子
2014年2月20日木曜日
「友よ/我は/片腕すでに/鬼となりぬ」重信・・・
左端は中村苑子↑
1995年7月8日、富士霊園に於いて髙柳重信十三回忌が行なわれた。世話人は高屋窓秋・三橋敏雄・中村苑子。参加者60名。
その日は、雨がちの一日で、新宿から貸切バスで富士霊園に向かった。
晴男の亡き重信、盟友であった三橋敏雄も晴男の噂が高かった。それを象徴するかのように、霊園での法要が行なわれるあいだは、雨霧を払って薄日さえ射したのだった。
行きのバスの中で、一句献句を作ることになり、それぞれが投句した。
それが後日、冊子としてもたらされた。
数年前、黒田杏子に会ったとき、「私の後に、あなたと仁平君が居たのよね、その時があなた方に会った最初ね・・・」と言われた。そういえばそうだったような気もした。
黒田杏子を誘ったのは中村苑子である。重信没後の俳句教室を継承した中村苑子の若い弟子たちも参加していた。
記念の冊子から献句を引用掲載しておこう。(50音順)
師を偲ぶ声は谺と青嶺たつ 秋葉貞子
重信忌すでに山霊となるならぬ 阿部鬼九男
言霊のもどってきたる烏麦 糸 大八
それぞれのおもひの車中や重信忌 伊藤富美子
走らなければ重信安現れず霧晴れず 今坂柳二
梅雨の富士背に俳聖の魂鎮む 今牧嘉子
天啓漏るや霧中の捕虫網 上田 玄
ぬかづいて十脂の火照る夏の霧 上田多津子
霧の墓参重信いまだ晴れざるか 牛島 伸
囀りや富士ふところに先師の墓 内田房江
紫陽花や鬼とくらせりその後(のち)は 大井恒行
富士見えず死にたる後の梅雨の空 太田紫苑
深々と礼なす真昼重信忌 大高弘達
十三年目の梅酒の封を切りにけり 大高芭瑠子
あの世よりお天気男梅雨飛ばせ 奥名房子
今なお前衛梅雨の列島ひた走り 小熊きよ子
伯爵領の墓地等間隔やみどり雨 嘉村智明
七夕の明くる日がなぜ重信忌 賀茂達彌
富士は白富士天霧(あまぎ)らふとも師は一人 川名 大
雨雲の向こうはなぐり書きの不二 木村聰雄
夏霧に消ぬる窓秋苑子かな 黒田杏子
嗚乎嗚乎と見えざる富士や見ゆる墓 桑原三郎
関八洲の野山は雨の重信忌 澤 好摩
尽忠は俳句と霧を吸つてゐる 鈴木石夫
紫煙這ふ忌の重信の片腕に 攝津幸彦
いつのまに重信棲みつく蝉の穴 宗田安正
紫陽花のずっしり濡れし忌日かな 高野万里
重信忌折笠杉も霧の中 高橋 龍
髙柳重信秋の不二を見ず 高屋窓秋
赤い靴胃に溶けのこる人が父 髙柳蕗子
梅雨霧に顕(た)つ人に逢ふ七月八日 髙山雍子
霧涼し句詠みし人の魂の前 寺岡道子
山霧に見ゆるは後略十三年 寺田澄史
霧重く想い激しい墓参り 中村英佐
紫陽花の腐蝕もゆるせ重信忌 中村和弘
梅雨の霧凝りたる蝶か忌日なる 中村里子
重信忌九十〇狭霧(じゅうしんきことたまさぎり)日照(ひで)り雨(あめ) 中村重雅
思はざれば「わが尽忠」も富士も見えず 中村苑子
吾が父とつぶやきむせぶ霧の墓 中村鱗次
輪廻に憑かれ転生忘れ給うなよ 流 ひさし
重信忌なれば雨のち霧隠れ 仁平 勝
始めましてと香たてまつる重信忌 野村日出子
剛志(ごうし)の草(くさ)に/なべて/夏来(なつき)ぬ/とりわけ薊(あざみ) 林 桂
霊ちかく紫陽花に染む老河童 平島一郎
十年は一日わが師ビール乾す 福島とき子
後略十三年/いまは恐竜として/立つ/重信 福田葉子
かささぎのいづくへわたる重信忌 本多和子
一日を師に近くあり濃紫陽花 松内佳子
お酒呑んでゆっくり重信の死を覚え 松岡貞子
山霊となりし霧中の重信よ 松崎 豊
蝉翁の声なき声をふりかぶる 三橋敏雄
あぢさゐや思慕新たなり重信忌 柳沢俊子
沖の父われ知り初めし船長忌 山上 薫
紫陽花を霧にともして重信忌 八巻定子
夏霧や俤さがす墓参かな 山本喜久江
墓石の重信と吸ふ夏の霧 山本紫黄
束の間の梅雨の晴間や重信忌 薮本安子
重信の化身ま白き蝶現れる 吉岡満寿美
幻となりける富士や重信忌 吉村廣美(毬子)
集い来て墓地はしっとり重信忌 渡辺和子
2014年2月18日火曜日
過激でなければ俳句じゃない・・・
「流星」創刊号・奥付、1985年8月15日発行。
表紙絵は皆吉司「春の宇宙論」。カット西坂潤。
編集人・今井豊、発行人・小林正信、今井豊、参集した同人7名。
およそ30年前、というから愚生35歳のころである。
全国の若い俳人たちはあえいでいた。そして熱く燃えていた。
総合誌には頼らず、自分たちの場を創造しようとしていた。
坪内稔典等の「現代俳句」は、先陣にあって、そうした動きを領導していたように思える。
勿論、時代には乗らない、と静かな氷の炎を燃やした攝津幸彦・仁平勝らの「豈」も、雑誌の刊行は不定期であったが、確かに在った。
なみだながれてかげろうは月夜のゆうびん 西川徹郎
コーラ飲む明日は天皇誕生日 小西昭夫
人知れぬ野を行く一匹われというけもの 山羊ななこ
雪解かしその水集め春の花咲かす男のバロックの椅子 米原公子
横死あり やがて目覚める夜の桃 後藤貴子
晩夏光 母と赤鬼目覚めゐて 松田正徳
聖夜流星毛布をまいて寝る少女 今井 豊
その他、評論は米原公子「塚本邦雄論」、松田正徳「俳句修辞学」。エッセイに小西昭夫「田中三津矢への手紙」、今井豊「書込みにある本」、西川徹郎「空蝉と肉、あるいは〈自然〉について」、松田正徳は題を空白にして書いている。
その編集後記に今井豊は次のように記した。
(前略)、その為には、○実践・実作の場
○厳しい相互批評の場
○評論・研究の場
を徹底し、純粋に、ほんとうに純粋に、こなれた処世術を排したところで生まれるものを大切にしてゆきたい。
流星は今までのどの結社も同人誌も果たせなかったものをめざしている。同人の多くは、既成の結社に対して不満や失望、反感を思っているのではないかと思う。しかし、 それは単なる結社批判では消化する事のできなかったエネルギーの噴出に他ならな い。そのそれぞれの闘志は、流星の闘志でもある。(中略)
流星における僕個人の活動目標は、「過激でなければ俳句じやない」を実践する事である。
その「流星」3号(1986.4)の特集「同世代の現状」に、愚生は、妹尾健・四ツ谷龍・西川徹郎・小西昭夫・松田正徳・今井豊に混じって「一木一草に宿る〈伝統〉への問いを」というタイトルで寄稿した。
後日、牧羊社「俳句とエッセイ」の山岡喜美子女史を介して、長谷川櫂から会いたいという申し入れを受け、面会した。書いた内容のあらかたを忘れてしまっており、今回改めて読み直してみた。それは天皇在位六十年という背景のなかで、三島由紀夫「文化防衛論」や山口誓子『俳句添削教室』、長谷川櫂「俳句と私」(俳句とエッセイ」昭和61年1月号)に触れた、いわば足早の状況論であったが、「今後、そういうことは書かない方がいいですよ、貴方のために・・」という忠告をもらったことを思い出す。
その折りの愚生の趣旨は以下にあったのだが、それを記憶のために引用しておこう(思えば、竹内好「一木一草に天皇制が宿る」に比重が掛かって読まれたのかも知れない・・)。
(前略) 便宜的に述べるのだが、前衛傾向の俳句も、伝統傾向の俳句も、自らの根拠を保証するべきものに、自らの内面的不安に秩序を与える構成要素として自然の風景に 寄りかかっているように思う。風景という客観的な対象〈花鳥風月=自然〉によって秩序 化された世界を現前させることで安心したいのである。とりわけ、伝統派と呼ばれる俳 人たちの、ヒステリックなまでの言挙げは、自らの存在根拠の喪失(自然の喪失)に対 して、なお、そうではないのだということを保証するための言説として響いてしまうのは、むなしい気さえする。
いま、時代は流れて、愚生らはどこまできたのであろうか。さらに混迷は深い・・・。
ジュウガツサクラ↓
2014年2月16日日曜日
2.15「LOTUS」句会・・・
トトロと娘からのチョコ(雪しろ)↑
昨日から降り続き、記録的大雪といわれた先週末の積雪を越える雪。
雨になり、やがて天候は回復、これならば、王子にある北トピアまでは何とか行けるに違いないとタカを括って出かけた。
滑らないように防水の雪靴をはいて、バス停留所にたどりついたが、バス待ちの人はいたが一向にバスの来る気配はない。
バス停に記してある営業所に電話をすると、全線運休。仕方なく駅まで歩くことにした。
不断なら歩いて40分で着くところ、途中の交差点は雨で川のようになった水が流れ、膝下まで浸かってしまっては雪靴も役に立たない。
そばにあったコンビニに駆け込んで、履き替えのソックスを三足もとめ、途中で替えながら一時間少しをかけて駅に到着。
LOTUS(ロータス)の句会は、酒巻英一郎氏(今度、LOTUSの会発行人に新任)に慫慂され、阿部鬼九男氏と愚生は初めて参加するのである(西東三鬼晩年の弟子・鬼九男氏とは34,5年の長いお付き合いをいただいているが、句座を共にするのは初めて・・)。
その鬼九男氏からは携帯メールで朝早く出たものの坂道で三度転んで出席を断念との連絡(お怪我がなくて幸・・)。
魔の棲むLOTUS句会と言えども、さすがに大雪には勝てず、出席者は遅刻した愚生を含めて7名。
しかし、欠席投句となった人を含めて23名の三句出し、三句選。出席者中心の句評となった。お陰で十分に批評し尽くされた句会となった。
遠路三重県から雪の新幹線を駆って出席された勇敢な女史は藤川夕海氏。聞けば「陸」同人だそうである。
参考までに、出席者の句を一句のみ挙げさていただく。
ちなみに最高点は欠席投句となった高橋比呂子氏。
蝋梅よりもきのうのことは馬の領分 高橋比呂子
麦秋の縄目かすかに日の乙女 九堂夜想
草の芽のまわす地球に着き生まる 藤川夕海
地球はもあまたの石の宙にあり 流ひさし
初鴉
飛べ塵外へ
音を捨てて 酒巻英一郎
大洋(うみ)の詩こそし揺蕩へわが孤独 北野元生
つぶやきの雪の華こそはなやかな 大井恒行
愚生は、夜はバスも動いているだろうと(平日は深夜零時50分まである)、これまた甘い夢を見て、最寄駅に着くと、ついに本日は「全日運休」と張り紙されているではないか、タクシーは長蛇の列、満月を仰ぎながら歩くことにした。思わず本日の句会の自句を添削し、無点だった句も蘇ったように感じた。
荒星の裏なお淋し銀のさじ 恒行
野川のムクドリ↓
昨日から降り続き、記録的大雪といわれた先週末の積雪を越える雪。
雨になり、やがて天候は回復、これならば、王子にある北トピアまでは何とか行けるに違いないとタカを括って出かけた。
滑らないように防水の雪靴をはいて、バス停留所にたどりついたが、バス待ちの人はいたが一向にバスの来る気配はない。
バス停に記してある営業所に電話をすると、全線運休。仕方なく駅まで歩くことにした。
不断なら歩いて40分で着くところ、途中の交差点は雨で川のようになった水が流れ、膝下まで浸かってしまっては雪靴も役に立たない。
そばにあったコンビニに駆け込んで、履き替えのソックスを三足もとめ、途中で替えながら一時間少しをかけて駅に到着。
LOTUS(ロータス)の句会は、酒巻英一郎氏(今度、LOTUSの会発行人に新任)に慫慂され、阿部鬼九男氏と愚生は初めて参加するのである(西東三鬼晩年の弟子・鬼九男氏とは34,5年の長いお付き合いをいただいているが、句座を共にするのは初めて・・)。
その鬼九男氏からは携帯メールで朝早く出たものの坂道で三度転んで出席を断念との連絡(お怪我がなくて幸・・)。
魔の棲むLOTUS句会と言えども、さすがに大雪には勝てず、出席者は遅刻した愚生を含めて7名。
しかし、欠席投句となった人を含めて23名の三句出し、三句選。出席者中心の句評となった。お陰で十分に批評し尽くされた句会となった。
遠路三重県から雪の新幹線を駆って出席された勇敢な女史は藤川夕海氏。聞けば「陸」同人だそうである。
参考までに、出席者の句を一句のみ挙げさていただく。
ちなみに最高点は欠席投句となった高橋比呂子氏。
蝋梅よりもきのうのことは馬の領分 高橋比呂子
麦秋の縄目かすかに日の乙女 九堂夜想
草の芽のまわす地球に着き生まる 藤川夕海
地球はもあまたの石の宙にあり 流ひさし
初鴉
飛べ塵外へ
音を捨てて 酒巻英一郎
大洋(うみ)の詩こそし揺蕩へわが孤独 北野元生
つぶやきの雪の華こそはなやかな 大井恒行
愚生は、夜はバスも動いているだろうと(平日は深夜零時50分まである)、これまた甘い夢を見て、最寄駅に着くと、ついに本日は「全日運休」と張り紙されているではないか、タクシーは長蛇の列、満月を仰ぎながら歩くことにした。思わず本日の句会の自句を添削し、無点だった句も蘇ったように感じた。
荒星の裏なお淋し銀のさじ 恒行
野川のムクドリ↓
2014年2月13日木曜日
摂津特集をもって本誌は終刊する。(「花綵列島」第7号)・・・
「花綵列島」という特異な同人誌があった。覚えておられるであろうか、いや、ご存知であろうか?
30年前のことである。
愚生の手元に残っているのは第五号「特集・大本義幸」(1983年4月)と終刊号の第七号「特集・摂津幸彦」(1985年5月)のみである。
終刊号に、小西昭夫は次のように記している。
思えば、花綵列島は自分達の作品や文章を自由に発表できる場として、高橋信之に発 行人を依頼し、山田清紀に協力を依頼して創刊した。しかし、高橋も山田も、私の思うよう に編集させてくれた。毎回特集を組もうと思った。評論のある雑誌しようと思った。詩や短 歌とも交流しようと思った。視野を広くもって、同人誌の不潔なイメージと無縁な雑誌にしよ うと思った。そのため、外部執筆者を多くし、同人作品欄は一切作らなかった。その結果、 「他者を主張する」というきわめて「ユニークな雑誌」という評もいただいた。(中略)
豈にはいつも、「or Last」の文字がある。摂津特集をもって本誌は終刊する。
「同人誌の不潔なイメージ」とは当時の印象だが、確かにそうした感情があった。攝津幸彦もまた、「三十歳をすぎて同人誌をやってるなんて気持ち悪いよね・・」と自嘲気味に言っていたことがある。とはいえ、当時、散在していた同人誌は、お互いを意識しあっていたことが伺える。執筆などは、もちろん謝礼もなにもなく協力しあっていたのだ。攝津も愚生も最後まで同人誌しかついに関わることが出来なかったのは何であろうか。結社をある種羨んだこともあったかも知れないが、結局はその場に赴くことを潔しとしなかっただけのような気もする(結社を否定しているわけではない)、あるいは、選句という制度による暴力的な添削、句は良くなったとしても、自分自身の心持や時代の精神は、その欠片もなくなってしまう制度的な言葉の羅列。
それは、俳句表現技術の獲得を結社が支えてくれているはずであり、その方がきっと表現効果としても効率がいいかもしれない。それでも、遅速の、自分たちの納得できる言語に傾斜していかざるを得なかった心性こそは愚生らの孤立を支えていたのかもしれない(若い???ねえ)。
攝津が「静かな談林をめざす」と言ったのは、かの談林が抱えていた当時の時代、いわゆる貞門のような束縛と形式的なものへの反措定であり、大阪の町人を多く抱えていた談林の階級としての勃興、その経済力を背景とした個性の発露、その混沌のエネルギーをのみ、秘めて、静かに俳句に処して行こうということであったと思う。また、それは、髙柳重信が社会性俳句運動華やかかりし頃に、「ぼくらは氷のような炎で焼く」と言ったことと通底していたように思う。
因みに「花綵列島」五号の大本義幸特集の執筆者は、大本義幸・坪内稔典・河口聖・しょうり大・熊本良悟・東莎逍・妹尾健・塚越徹・仁平勝・戸南杏・大井恒行。短歌作品は、渡瀬治・加藤明生。俳句作品は、田中三津矢・岡本亜蘇・岡本のりを・加地勝敏・小西昭夫・熊本良悟・長野文子・東莎逍・矢辺みその・脇坂公司・山田清紀・吉田和子。他に高校生俳句作品が七名。詩作品は鴉裕子。表紙絵は長尾洋子。
朝の虹
蛮刀で切る
ホスピタル 義幸
「花綵列島」七号「摂津幸彦特集」の執筆者は、摂津幸彦・坪内稔典・大井恒行・冨岡和秀・仁平勝・宮入聖・戸南杏。他に詩は広瀬治・佐々木啓二。俳句は以下に一句ずつ挙げておこう。
ものの芽をいらへば思想傾きぬ 幸彦
春浅しくちびるをかむ糸切歯 山田清紀
眼光を海に刺し込み舟を操(く)る 藤田みその
春愁の河口までゆく境涯派 熊本良悟
次々と解剖へ向く油蝉 東 莎逍
落花して骨の残りし椿かな 岡本亜蘇
夏柑の無数の粒の涙痕よ 脇坂公司
飲めば酔い酔えば喚(わめ)きて醒めて月 小西昭夫
フユバラ↓
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