2016年4月24日日曜日
尾崎迷堂「バナゝ噛むや明治大帝御勲」(「韻」第21号)・・・
「韻」(「韻」俳句会)第21号の特集は「季語を考える」。その中で武馬久仁裕の「帝国の季語」は、季語の持っているある特質、それも歴史的な時間における本質をついたものである。その指摘は忘れてはならないことだ。
まず「迷堂の句は、バナナを食することができるのは、明治天皇の御武勲の賜物であると言っているのである。(中略)日清戦争によって明治二十八(一八九五)年台湾は日本の領土となり、それによってこの美味しいバナナを食べられるようになったのだ。言い換えれば、台湾が日本の植民地になることによってバナナは日本人の食生活に入りこみ俳句に詠まれるようになり、季語となったのである」と記した上で、台湾の俳人であった阿川燕城の「殊に台湾に住む内地人にとって四季のうつりかはりにかゝはりなく生活することは堪えられない淋しさ」であり「微弱な台湾の四季のなかに枯渇しがちな情操にうるほひあらしめる」というアンビヴァレンツな行為に、正しく向きあっているのである。そして言う。
外地にあって日本人としてのアイデンティティを保つ方法の極限は、外地にあっても内地の四季的自然の中で俳句を作り続けることだったからである。膨張する帝国のパワーは、外地をも日本的四季、それがかなわぬなら内地的歳時記の構成にならった疑似的四季世界を構築せしめようとした。そして、その内側で外地を生き生活する日本人も、帝国臣民としての自己を見失わないよう四季的世界で俳句を作り、同時に四季的世界を作り、それを補強し続けたのである。
つまり、季語こそは、
戦前にあって、季語は、個々の作者の句作の意図を超え、帝国にとって、王化の及ばない化外を、化内=四季的世界に転化する文化装置として機能したのである。
と・・・。現代社会のグローバル化の進行に、願わくば俳句やHAIKUが、そうした装置にならないように祈るばかりだ。
最後に「韻」の一人一句を・・・
心音は天の水音銀河濃し 寺島さかえ
寒鯉は夜明けに聞き耳をたててゐる 片山洋子
どんどんと自転車溜るぬくき冬 後藤昌治
懐郷の山河燻ぶる寒鴉 佐々木敏
一人ずつ梅の白さで消えてゆく 谷口智子
万年筆の先の幻想日脚伸ぶ 千葉みずほ
天命の緋を遊びけり藪椿 永井江美子
雪景色夜汽車の錆の匂ひかな 前野砥水
年輪に重ねる平和去年今年 水谷泰隆
花八手光陰密に背後ある 森千恵子
電車来て電車出てゆく春の昼 山本左門
ためらひし後の炎上野を焼けり 依田美代子
雪に足跡朝刊が届きたり 米山久美子
尾張には奇祭の多し桃の花 渡邊淳子
チベットの焼身止まず冬ざれる 金子ユリ
燃えつくすまでは椿と思ひけり 小笠原靖和
ムギの穂に花↑
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