「岳」6月号(岳俳句会)は、先月、5月号が「40周年記念号」で分厚く、多くの俳人の祝意に満ちたものであったが、本号は、それと比べると落ち着いて、「岳」の同志諸氏に感謝と今後を語る心意がこもった内容になっている。
記念大会には、愚生は先約があって、参加叶わなかったが、口絵には、「岳」40周年記念大会記念品のなかに『宮坂静生俳句かるた』があり、その内容が本号に掲載されていたので、最初の句をブログタイトルにさせてもらった。そのなかから幾つかを挙げておきたい。
青胡桃蚕飼ひの村の石だたみ
犬ふぐりさざめきて空くづれ出す
木の根明く胎児はなにを見てをるや
コスモスは水平の花かなしみも
春の鹿まとへる闇の濃くならず
栃の芽にいま御岳は地吹雪ぞ
良寛の手毬は芯に恋の反古
ところで、先月記念号のなかでは、筑紫磐井が「水平(地理)の彼方ー私の季語研究と地貌季語の関わり」と題して、「季語研究には、『垂直研究(歴史的研究)』と『水平研究(地理的研究)」があるのではないか思っている」と切り出し、宮坂静生『季語体系の背景』を読んで、以下のように結んでいるのが印象的だった。
民族・民俗と個の関係に視野を広げることによる地貌季語の深化が伺えるのである。そしてこの時、意外に虚子やホトトギスの題詠による季語(熱帯季題や大陸季題を含めて)と交差する現場を見ることができるように思うのである。
「図書新聞」第3355号(6月16日・土)は、金時鐘へのインタビュー「世の美しいことは、書かれない詩によって保たれている」である。金時鐘『背中の地図 金時鐘詩集』(河出書房新社』、また、『金時鐘コレクション』全十二巻(藤原書店)などが刊行中で、新聞記事のリードには、「朝鮮半島が動いている。他方で、歴史を直視せず、憎悪と反目を煽って動かぬ日本に私たちはいる。そのはざまで在日を生き、日本語と対峙してきた詩人はいま、何を思うか。金時鐘に話をうかがった」とあった。
全部を引用したいくらいの重厚かつ大事な意志を語っているのだが、ここでは、俳句の抒情について語った部分を少しだが、紹介しておこう。
日本でいう抒情とは、心的秩序を共有する感情のことです。俳句では季語という共通の認識基準があって、私はずっと感性の統括だと言ってきたのですが、詩では抒情も共有されるものなのです。考察は必要ない。詩というのは、このような感情の波長を伴うリズムだと思っている。だから、日本人の誰が何を書いても、情感と抒情が一緒なのです。情感の波動が抒情として受けとめられている。ですが、抒情とはそうではなくて、それ自体が批評であるものです。(中略)
感情というものは非常にナチュラルなものだと思われていますが、実は作られるものなのです。感情は自然な心情の流露ではなく、作られたものに触発される。それは出来上がった秩序の何かから触発されています。(中略)
だからこそ批評は、この抒情の中に根づいていかねばならない。私が共感させる機微のような感情を、作られるものとして非常に警戒してやまないのは、なじんで育ったあらゆるものの基調に、五七五のような日本的短詩形文学のリズム感が、抒情の規範さながらにこもっていたからです。
それでも、俳人の愚生らが、五・七・五を常に快いものだと言ってしまうのであれば、ついに金時鐘の「乾いた抒情」には届かないだろう。また、
日本の詩人は、非常に観念的、抽象的な詩をかきますけれども、実感がないという意味では、それは詩ではない。理屈を並べているだけです。詩を書く者は、喉元まで突き上げる思いをこらえて生きている。世間の人は、ほとんどそうでしょう。自分のやりたいことで生きられる人など、本当に限られていますから。飯を食わなければならないし、子どもたちを育てなければならない。(中略)
詩人だってその他大勢の一人ですから、決して選ばれた人間ではない。私が思うことは皆が思うことで一緒なんだね。ところが、日本の詩のほとんどはインテリだけができるような詩です。
詩がいちばん美しいのは、存在して在ることです。私にとっていちばん美しい国とは、そのような人たちがまんべんなく点在し、長屋にも職場にも学校にもたくさんいる、そんな国です。
と述べている。あまりに長い引用になってしまったが、自分を見つめ直す表現が詩ですか?という問いには、「詩とは現実認識における革命だと思っています」とも答えている。
撮影・葛城綾呂 べラルゴニウム↑
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