「円錐」第84号、なかに「一九六七年生まれによる俳句思潮史/『それでも』と彼は言った」という今泉康弘と山田耕司の連載の往復書簡がある。まず、「♯07 今泉康弘→山田耕司」の中に、
(前略)日本では一九八〇年代くらいまで、「パンツ」といえば下着のことのみだったような気がします。(中略)今後、年月が経つにつれ、「パンツ」に下着の意味のあることを知らない人々が増える可能性があります。そうなると、俳句、というより文字の読解にも問題が起こります。
少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ 耕司
この少年兵の行為について、ズボンを脱ぐことだと思う人が出てくるわけです。ぼくが拙著『人それを俳句と呼ぶ』で「街」や「煙突」を考察したのも、白泉や耕衣について考察しているのも、この問題を考えたいということがあるのです。
と、便りされている。また、その返信の「♯08 山田耕司→今泉康弘」のなかには、山田耕司が、桐生市のエフエム局で開局以来、今年一月で第651回を迎え13年目の、これは毎週一回一時間、山田耕司が選んだ音楽とトークで構成されている番組があるという。題して「やまだ学塾・今夜は耕司中!」。FM桐生では毎週土曜日の午後6時から一時間、スマートフォンでもアプリをダウンロードして聴けるという。その中に、「うた街先生」があって、「うたの中では知っているが、行ったことがない音の旅」というコーナーがあり、例えば、歌のなかの地名「函館」に行ったことはないけれど、誰もがあるイメージを抱く。こうした誰もが抱くであろうイメージが宿っていて、共有感がある。それらを、
(前略)多くの人々の無意識の領域にくいこんでいるようなイメージの庭。これをうまくいいあらわす表現があるとしたら、どのように呼称すればいいのでしょうか。
さて、それを仮に〈妄想知〉としておきましょうか。
と述べ、結びに、
今後、読者が「パンツ脱ぐ」というところを「ズボン脱ぐ」と解釈する時代だくるかもしれませんね。それでも、、男しかいない職場で、追い詰められて、下着である下着の方の「パンツ」を脱ぐ方が《面白い》と想像力を広げる読者が現れることを私は信じます。むしろ現実が変化することで、妄想知による読解が、読者の間になんらかの〈共有感〉を濃くしていくかもしれません。そもそも、この句自体が、現実に即しているわけでもなく、妄想を拠り所とすることこそ喜びとしている作品なのですから。
と述べている。ほかに「円錐」本号の特集は「後藤秀治句集『国東から』」であるが、ともかく、以下に一人一句を挙げておこう。
秋潮の潮目湾曲しつつ消ゆ 後藤秀治
断頭台(ギロチン)の捨てられてあり花畑 今泉康弘
人影も日も去り雪の跨線橋 澤 好摩
煮凝りを盛るや小皿の青海波 和久井幹雄
またの名は鬼の醜草しほに咲く 大和まな
同じ椀並べ置きたる寒さかな 江川一枝
我が影のてっぺんに咲く曼珠沙華 田中位和子
マフラー結ぶ天井桟敷僕の場所 栗林 浩
自動ドア自動拍手や寒波急 立木 司
人体の筋もさまざま水引草 小倉 紫
近衛兵の肩に鳩ゐる初時雨 荒井みづえ
脚置いてゆくな老いたるかまどうま 橋本七尾子
来た道を戻ると別の雪景色 小林幹彦
船歌を青嶺にあげて最上川 丸喜久枝
孫と指す軍人将棋去年今年 三輪たけし
落し水亡き友に泣く友と居り 山﨑浩一郎
逆縁も無縁も負うて二度童子 横山康夫
火葬場を出て烏瓜仰ぎたる 味元昭次
おでん酒少し零して注がれぬ 原田もと子
かしわ手に泳げるものは泳ぎくる 山田耕司
撮影・鈴木純一「ものの芽 青空に寸止め」↑
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