2016年8月30日火曜日
三橋敏雄「実に少しづつ核汚染秋の風」(『定本 三橋敏雄全句集』)・・・
『定本 三橋敏雄全句集』(鬣の会「風の冠文庫」・税込2500円・限定400部)の刊行がなった。林桂と「鬣」の同人諸氏の奮闘による。敬意を表したい。
その編集後記には以下のように記されている。
所謂戦後派と言われ、しかるべき仕事をして亡くなった俳人の生涯の全句集が纏められてきている。三橋敏雄もしかるべき存在として、その刊行を鶴首していたが、その様子なく、ついに痺れをきらして刊行当事者のひとりとなることとなった。晩年は人気作家であり、生前に『三橋敏雄全句集』(一九八二年)『三橋敏雄全句集〈増補版〉』(一九九〇年)と、二度にわたり全句集が刊行されたことも、あるいは、それ以降をも纏めた生涯を俯瞰する全句集の刊行の必要性を希釈してしまったのかもしれない。しかし、戦中から少年俳人として登場していた、最も長いキャリアを持つ戦後派の俳人として、三橋は、その仕事を俯瞰する必要がある。そして、そのためのテキストは是非とも必要であろう。
現に、このテキストを編みながら、自分は三橋の一面しか見ていなかったのではないかと、しきりに思われたのである。
これで、三橋敏雄の句業の主要な全貌を俯瞰することが出来るようになった。文庫版ではあるが、今後の俳句を担うであろう若い人たちにも手がと届く値段である(三橋敏雄にとっては、若い人などという意識はなく、つねに作品制作上のライバルという意識であったと思うが・・・)。著者生前最後の句集『しだらでん』以後の紙誌に発表された句のなかから以下にいくつかを引用しておきたい。
日の紅葉月の紅葉となりにけり
キューと亀鳴いていたる事実誰に告げむ
理心流使手の祖父鬢寒し
一滴もこぼさぬ月の氷柱かな
寒明くる闇の宇宙は闇のまま
生まれ合ふ五月蝿(さばへ)や見えぬ核汚染
敗戦は豫(かね)て当然終戦日
安産の後の空腹麦の秋
はんざきのひそむ山川なまの水
被爆地の夜夜をひとだま弱り絶ゆ
地球から見えざる地球去年今年
寝ては起き歩き駈け坐し去年今年
(辞世)
山に金太郎野に金次郎予は昼寝
三橋敏雄(みつはし・としお) 1920(大9)年11月8日~2001(平成13)年12月1日。東京府八王子市生まれ。
*【定本 三橋敏雄全句集の申し込み】↓
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371-0018 前橋市三俣町1-26-8 山猫館書房内 鬣編集部
電話・FAX 027-232-9321
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9月5日、毎日新聞記事を追加↓
2015年8月16日日曜日
本日は山本紫黄の忌日
※テスト投稿のため記事内容ともに北川美美が投稿。
大原女風にサーフボードをかづく夕 紫黄
私は、そのころ大阪府下の香里園に住んでいた三鬼の意をうけて、翌三十一年の春先の或る日、正午過ぎに、前記支部の月例句会場(注:「断崖」東京支部)を訪ね当てた。私と他の参会者たちとはもちろん初対面であった。その日のことか、あるいはその後のことか、もはや記憶はさだかでないが、私と同様、病院外部からの出席者数名の中に、今は本句集の著者である山本紫黄がいた。
夕刻、散会後、紫黄とは帰る方向が同じとしれた。最寄りの小田急線千歳船橋駅から、一応、新宿へ出ることとした。その車中、私は紫黄に、これからチョット一杯イカガデスと言ってみた。彼はすこしもためらわなかった。そのへんの印象だけはまことに鮮明である。
私が知る前の紫黄は、昭和二十四年に、父、山本嵯迷の勧めに従い作句を開始。ゆかり深い「水明」に拠って長谷川かな女に学んでいたが、傍ら西東三鬼の俳句に魅せられ、昭和三十一年に入ってすぐ、前記の「断崖」東京支部句会にも顔を出すようになったのだという。そして「断崖」本誌の三鬼選句欄に投句をはじめるのだが、このことは余人の場合はいざ知らず、「水明」直系の紫黄の身ともなれば、非常な決意を要したにちがいない。思えば心機一転して改めて自身の俳句の方途をさぐろうという志の問題に帰結するにしても、なみなみならぬ態度であった。
(山本紫黄と私/三橋敏雄) 山本紫黄第一句集『早寝島』
大高弘達『西東三鬼の世界』より
2015年2月17日火曜日
「不思議な共感」の「みことかな」三橋敏雄・・・12
「みことかな」と題して三橋敏雄は、「俳句評論」200号・終刊号(昭和58年12月)に「追悼・高柳重信」を書いた。その中に三橋敏雄が初めて「高柳重信を東京代々木上原の俳句評論社に訪ねたのは、昭和四十年一月二十日であった」と明確に記している。この日、三橋敏雄は高柳宅から数分しか離れていない場所に引っ越してきて、一段落して銭湯に行き、帰り道に予告なく、突然、高柳を訪ねたのであった。
代々木上原の不動産屋の最初の斡旋は高柳宅の一軒おいて奥隣りだったらしいが、さすがにあまりに近すぎるので、数分ほど離れたところに引っ越したのだ。
これには、少し訳があって、いつだったか、夫人の三橋孝子(三鬼晩年の弟子の一人)から直接伺ったことがある。
「孟母三遷の喩えがあるでしょ・・・。トシオちゃんのためにはジュウシンさんの傍がいい。私が勝手に引っ越しを決めたのよ」。
当然ながら敏雄は「高柳訪問をごく自然なかたちで実現させようという、年来の私の思いに、いささか慌しく一致するものであった」と記し、高柳はその訪問について、
彼と僕とは、歩いて数分の距離といい、ともに歎き、ともに苦笑するための、いわば、もっとも手頃な相手であった。(中略)
彼と僕とは、遠くで呼び応える不思議な共感を、共に心の内側に抱いてきたのであった。だから、彼と僕とが話していると、外見の甚だしい相違にもかかわらず、性格や性質の端々にまで、類似が類似を呼びあい、しかも、その類似は、とめどなく伝染してゆくのであった。
それら「不思議な共感」の一例として、昭和46年の名古屋における第14回俳句評論全国大会のあと飛騨高山に俳句評論同人一行と遊んだとき、「すでに高柳の近所から八王子の家にもどっていたが」、時折作品を見せ合っていた。そのなかに飛騨の近作を交換した途端、二人には終章を「みことかな」とする句がいくつかあったのである。それを三橋敏雄は「私は彼と共に、かの飛騨の地より全く同じ言葉を拾ってきた一致をよろこんで、いさぎよく下りることとした。拙句はのちに『風干しの肝吊る秋の峠かな』ほかに改めて生かした。/高柳の死は、たとえば右のような同経験的な『不思議な共感』を私から奪った。この上は、永遠に彼の近所に引っ越さなければなるまい、とも思う」と述べた。その三橋敏雄が高柳重信の近所に永遠に引っ越したのは2001(平成13)年12月1日のことだった。
そして、三橋敏雄の「風干し」の句は、のちに句集『鷓鴣』に収められ、三橋敏雄から高柳重信にゆずられた「みことかな」の句群は、
飛騨(ひだ)の
美(うま)し朝霧(あさぎり)
朴葉焦(ほほばこ)がしの
みことかな 高柳重信
飛騨(ひだ)の
山門(やまと)の考(かんが)へ杉(すぎ)の
みことかな
飛騨(ひだ)の
闇速(やみはや)の泣(な)き水車(すゐしや)
依(よ)り姫(ひめ)の
みことかな
など飛騨「みことかな」連作の十句となって、のちに『山海集』の冒頭を飾ることになった。
2015年2月7日土曜日
「鐵兜樹間にかむり鬱と立つ」敏雄(「朝」第四号終刊号)・・・11
「朝」4号↑
「朝」(昭和13年4月1日)は「第一巻・第四号 終刊号)と扉に記されている。そのお知らせの欄には「此の度、いろいろの都合上『朝』を『芭蕉館』と併合し朝同人は『芭蕉館同人』として勉強してゆきたいと存じます。尚詳細は追って他の形式で発表いたします。(編集部)」とある。
この号に三橋敏雄は「戦争」と題して三句を発表している。遠山陽子『評伝 三橋敏雄』によると「この三句は、のちに『風』七号に発表し、敏雄の出世作となった『戦争』五十七句に重複するものである」という。この三句を以下に挙げる。
戦争 三橋敏雄
鐵兜樹間にかむり鬱と立つ 『弾道』所収
河の天(そら)故に砲聲も流れ冷ゆ 〃 (「・・天・・」ルビなし)
あを海へ煉瓦の壁が撃ちぬかれ
ちなみに「朝」第三号に三橋敏雄は「雪つのる展望」と題して5句発表しているのだが、現在のところ「朝」第三号(発行日は推測すると昭和13年3月1日)の原本は所在不明。「朝」第四号の小西兼尾による「朝第三号作品評」によってのみ三橋作品が特定されている。発表された5句の内3句は『太古』に「展望」と題されて収載されている。その5句を孫引きながら紹介しておこう。
雪つのる展望 三橋敏雄
機業地区ひゞきまひるの雪をふかむ 『太古』所収(「工場地區ひびき・・・)
雪ふれど高臺のなき機業地区 〃 (・・・工場地區)
煙突林まさしく雪はふりつもり
一齋に雪の煙突これは黒し 『太古』所収
ふる雪の斑は天(そら)に窓に満つ
ちなみに「朝第三号作品評」の小西兼尾は、
この作家の勉強ぶりの凄まじいことは衆知の事実であつて、その結果が今日の彼の作品の強固さをもたらして来たことは否み難い。『鷹』誌上で青柚子君が用語の的確さを述べてゐられたが、、同時には構成の緻密、好ましき限りにおいての才気のひらめき等々々をあげることが出来る。そしてそれにも増して推さねばならぬことは彼の作句態度である。ひと度ある素材を発見するや実にしぶとく喰ひ下つて、いかにして素材の真骨頂を把握せんかと、らんらんと輝きを増す彼の眼である。平たく云へば、如何なる角度から眺めたら、どんな色彩を以てしたならば、いかなる文化面をその背後に装置したならば、いかなる技巧を用ひて表現したならば、その素材が厳として動かす可らざる天与の性格を完全に描写し得るか!といふ事に就いて彼自身の思考を全く一致する迄研究する真面目な態度である。
彼、敏雄君の作品に於て甚だしき失敗作のないことはそれを證明して余りあるものである。
と絶賛に近い評を述べたのち、各個別の句にも筆を及ぼしている。三橋敏雄十七歳の若き日の姿が彷彿とする。
枯芭蕉↑
2015年2月6日金曜日
「冬日とほき陵墓石階を重ねたる」三橋敏雄・・・10
「朝」第二号・敏雄句↑
今回は「朝」第一巻・第二号。小澤青柚子(「三章」3句)、渡邊白泉(無題3句)、細谷碧葉(「鐵工忌」3句)の寄稿。藤田初己による懇切な前号評「朝にほふ」がある。冒頭に「『朝』創刊号の作品とその作者たちの平均年齢とは、新興俳句運動の将来にあかるい希望を約束してくれる。きはめてたのしい心でこの一冊を読みをはつたことをまづおしらせするのが、わたくしの義務である」と書かれてある。
また、三橋敏雄の前号句には丁寧に批評が加えられているが褒めるだけでなく厳しい指摘もしている。例えば「月明かり衢に坂が多く照る」の句については以下のように記している。
第三句―内容は非常にうつくしい。「衢に坂が多く(あって、そして)照る」といふ意味であるに違ひないのだが、どうも第一読の印象では「多く」が「照る」にかかる副詞のやうに誤られ易いと思ふ。下五のなかに二つの概念をつゞけて結びつける叙法は山口誓子のしばしば用ゐる手だが、よほど上手にしないと、せヽこましくなるか、あるひはこの句の場合のやうに、意味の混乱を招き易い。
同号掲載の三橋敏雄は5句。
多摩御稜(『
三橋敏雄
陵の苑こがらしの梢湛めつヽ
冬の陵玉砂利をふむ音停り 『太古』所収(・・・音とまり・・)
冬日とはき陵墓石階を重ねたる
陵に昏れ短日の星斗たちまち見ゆ 『太古』所収
陵を去るつねの冬服にわが背あり
同号編集後記には「三日の新年句会(於細谷碧葉氏宅)は出席者十一名、高屋窓秋、藤田初己、渡邊白泉、小西兼尾等の諸氏お出席」とある。
「朝」第一号 「揺りいづる鐸(すず)の数の 六つ・・」・・・9
「朝」(昭和13年1月1日発行・編集兼発行者 寺川長次・朝発行所)第一巻・第一号は、藤田初己、細谷碧葉、中臺春嶺が寄稿し、同人作品欄は14名。同人欄のトップは三橋敏雄である。同人は三橋敏雄、寺川峽秋、野村盛明、蠟ほむら、岡澤正義、石川一雄、星暁光、牧三郎など。細谷碧葉は細谷源二、石川一雄は後の石川桂郎のことである。
その「朝」創刊号の扉に記されている言葉が「揺りいづる鐸(すず)のかずの 六つあまり 七つか、八つ」。
編集後記には峽秋、敏雄、三郎のそれぞれが記し、句会案内は第一回三田俳句会「時・・・昭和十三年一月二十三日(日)午六時/場所・・・三田大和屋フルーツパーラー(慶応義塾正門前)、省線田町駅より三分、市電三田三丁目下車/費・・・30SEN/雑詠五句 ハガキにて前日中左記宛御送付のこと/芝句三田豊岡町四二 林三郎方」とある。
その編集後記に三橋敏雄は以下のような決意を述べている。
昨日のかゞやかしき新興俳句運動をこヽにわれらが心情ふかく受けつぐべく、その出発点を、この「朝」に託したからには、先づもつてそれを実行いたさねばならぬ。 (敏雄)
発表された句は5句。
断章 三橋敏雄
窓の海あかときくろしちるいてふ 『太古』所収
水重く飲めり陋巷のからす啼き
かぜのまの家々くろく落葉せり
月あかり衢に坂が多く照る
日光
日はしろき神厩あり馬を見ざる 『太古』所収(白日の神厩あり馬を見ず)
三橋敏雄、いまだ17歳。「朝」一号発行直後の1月3日に女優・岡田嘉子はソ連に亡命。4月には国民総動員法が公布され、5月に日本は徐州を占領した。8月、火野葦平『麦と兵隊』が刊行され、三橋敏雄が18歳の誕生日を迎える直前の11月、戦火想望俳句の呼称の源となった「支那事変三千句」が「俳句研究」で特集された。
2015年2月4日水曜日
「あまた光る星に蝌蚪の眼追ひゆけり」敏雄・・・8
このあたりの事情については、やはり遠山陽子『評伝 三橋敏雄』が詳しく、2編の詩、句作品、編集後記のすべてを記録し掲載している。そのほか「合歓」には、「帰路」と題して中央本線に乗って実家に帰省した折の父母兄弟・家族のことを描いたエッセイも載せている。早熟、多感な少年のものである。
『三橋敏雄全句集』(立風書房・昭和57年)の著者略年譜によると、「並行して、『馬酔木』十月号の水原秋桜子選に一句入選。同十一月号にも一句入選。『句と評論』十二月号の選者名のない選句欄〈句と評論俳句〉二句入選。その他の新興俳句系数誌へも変名で投句入選したおぼえがあるが、只今のところ追尋不能」と記されている。
このブログでは、参考までに句作品のみを以下に再掲載しておくことにしたい。
蝌蚪の幻覚
暮れてゆく蝌蚪の頭に陽が落ちる
蝌蚪の池樹下生魂のうごめきよ
樹下の蝌蚪青さにもれぬ陽に暮れぬ
蝌蚪走る尾のきらめきに星あまた
あまた光る星に蝌蚪の眼追ひゆけり
房州小映
太平洋つきず春潮躍る見ゆ
雲雀澄み空の碧きに弧と落ちぬ
枯れツワブキ↑
2015年1月30日金曜日
「射ち来たる弾道見えずとも低し」三橋敏雄・・・7
「風」第七号↑
「風」は第7号で終刊する(昭和13年4月20日発行)。そのまま「廣場」に移行、創刊される。その終刊号に三橋敏雄は「戦争」57句を一挙発表する。同号には渡邊白泉の高名な句、「銃後と言ふ不思議な街を岡で見た」「遠い馬僕見て嘶(な)いた僕も泣いた」「海坊主綿屋の奥に立つてゐた」など「車輪」14句を発表している。
また「風」終刊後記に、白泉は以下のように記した。
巻頭、三橋敏雄君の「戦争」五十余句は大勉強である。若いから、お年寄りだからといふ条件を芸術の世界で云為することは無意味なことでしかないが、この二十歳に満たない青少作家の将来はわれわれの注目に値する。この稚い混沌のなかには少なからぬ金純分量がふくまれてゐると思ふ。慢心と自恃とを混同せず、あくまで粘り強い根気を徑とし、若々しい才気を緯として精進して行ったら、素晴らしい作家ちなるにちがひない。
戦争 三橋敏雄
1
迷彩貨車赤き日出をよぎり過ぎる 『弾道』所収
ここだ照る迷彩列車はゆき戻らず 〃
迷彩貨車車輪をも妖(あや)にいろどれる 〃 (・・・妖にいろどれる)
房暗し迷彩を貨車の外にせり 〃
迷彩貨車に日を見ずてゆく兵寝たり 〃
2
緑陰に酒を飲むべし若き兵 〃
若き兵その身香し戦(いくさ)の前 〃 (・・・戦の前)
総て軍馬臀立て憩ひ繋ぎある 以下掲載句は総て『弾道』所収
竝びては立てし銃口を支へ立つ
鉄兜樹間にかむり鬱と立つ
3
酒を飲み酔ふに至らざる突撃
射ち来たる弾道見えずとも低し
砲音のわたるを背後より聞けり
熱き風鋼管に湧けり湧きつづく
好晴の野戦の弾に中るべき
鉄兜頭蓋を隠し更に射たる
熱き掌に射ち乾らびたる銃のあり
4
獄々(やまやま)の立ち向ふ獄(やま)を射ちまくる
機関銃獄の斜面に射ちさだまる
獄を攻む小銃腕にほのけぶり
獄を攀ぢ射たれたり転げ落ち怒(いか)る
獄を撃ち砲音を谿に奔らする
5
砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
そらを撃ち野砲砲身あとずさる
撃ちつげる砲音の在処(ありか)おなじならず
6
暁の敵前渡河の天(そら)をいかる
弾に撃たれ河幅流れつつ漲る
河の天(そら)故に砲声も流れ冷ゆ
7
戦車部隊日のもとに現(あ)れ地を覆ふ 〃 (・・現れ・・)
戦車ゆく無限軌道は鳴りたるみ
戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
喬き日に戦車かならず灼け転ぶ
8
散兵壕曲折あれば陰も照る
塹壕に支那の活字の書を瞥す
塹壕に硬き底ぞも踏まれある
夜も赤き塹壕に身を落し寝る
塹壕の夜も土匂ひ兵ねむる
9
機関銃黒し街区にしづみゆき
窓の下機関銃手となり潜む
機関銃隠れ噴きつつ月落ちたり
機関銃射手駈け出でて持ちすすむ
舗装路を匐ひ移りつつ射ちつくす
10
戦争の路地づたいゆき角に照る
戦争の街区に見られ海たひら
あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
商館に銃火あふるる窓あり扉あり
夜目に燃え商館の内撃たれたり
照明弾厦の高低を照らし降(ふ)りぬ 〃 (・・・降りぬ)
壁厚く弾痕の各々に月出たり
11
壁残り厦のかたちは撃たれ立つ
壁の街窓立ち残りたるままに
壁の街硝煙匂ひ眼には見えず
12
戦友の血飛沫(しぶき)を見る火線なり 〃 (・・血飛沫・・・)
火線構成昼の銃火は見えはしる
撃ち挟まれ徒(あだ)に鉄条網曇る 〃 (・・徒に・・)
鉄条網これの前後に血流れたり
鉄の兵器彼我に忽ち燃えのこる
「戦争」57句は、約二か月後、「サンデー毎日」(昭和13年6月26日号)に於いて、山口誓子は、
(1)こヽに挙げたものは総て無季作品であるが、かういふ無季作品を見てゐると、季といふ観念に捉はれないといふやうな消極的な意味においてゞなく、季といふ観念を全く漂白し去つたといふ潔い感じがする。これは戦争を戦争の裡に見ようとする絶対的な立場からは当然なことである。前線無季俳句はこヽまで行かないと嘘である。
(2)私は主義として無季作品を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればかういう方向のものを作るのではないかといふ気がする。
と述べた上で「私はこの無季作品に近親さを感ずるのである」と激賞したのであった。それもそのはずである。18歳の三橋敏雄は「私は、なけなしの想像力を以て、競ひ応へやうと決意したものだ。表現の外形には、当面の鼓吹者、山口誓子の方法を借りる事とした。既に、山口誓子俳句の表現様式の典型は樹立されてゐたからである」(『弾道』後記)と、誓子の方法を自家薬篭中のものとしようとして試みていたのである。
モミジバスズカケ↑
「風」は第7号で終刊する(昭和13年4月20日発行)。そのまま「廣場」に移行、創刊される。その終刊号に三橋敏雄は「戦争」57句を一挙発表する。同号には渡邊白泉の高名な句、「銃後と言ふ不思議な街を岡で見た」「遠い馬僕見て嘶(な)いた僕も泣いた」「海坊主綿屋の奥に立つてゐた」など「車輪」14句を発表している。
また「風」終刊後記に、白泉は以下のように記した。
巻頭、三橋敏雄君の「戦争」五十余句は大勉強である。若いから、お年寄りだからといふ条件を芸術の世界で云為することは無意味なことでしかないが、この二十歳に満たない青少作家の将来はわれわれの注目に値する。この稚い混沌のなかには少なからぬ金純分量がふくまれてゐると思ふ。慢心と自恃とを混同せず、あくまで粘り強い根気を徑とし、若々しい才気を緯として精進して行ったら、素晴らしい作家ちなるにちがひない。
戦争 三橋敏雄
1
迷彩貨車赤き日出をよぎり過ぎる 『弾道』所収
ここだ照る迷彩列車はゆき戻らず 〃
迷彩貨車車輪をも妖(あや)にいろどれる 〃 (・・・妖にいろどれる)
房暗し迷彩を貨車の外にせり 〃
迷彩貨車に日を見ずてゆく兵寝たり 〃
2
緑陰に酒を飲むべし若き兵 〃
若き兵その身香し戦(いくさ)の前 〃 (・・・戦の前)
総て軍馬臀立て憩ひ繋ぎある 以下掲載句は総て『弾道』所収
竝びては立てし銃口を支へ立つ
鉄兜樹間にかむり鬱と立つ
3
酒を飲み酔ふに至らざる突撃
射ち来たる弾道見えずとも低し
砲音のわたるを背後より聞けり
熱き風鋼管に湧けり湧きつづく
好晴の野戦の弾に中るべき
鉄兜頭蓋を隠し更に射たる
熱き掌に射ち乾らびたる銃のあり
4
獄々(やまやま)の立ち向ふ獄(やま)を射ちまくる
機関銃獄の斜面に射ちさだまる
獄を攻む小銃腕にほのけぶり
獄を攀ぢ射たれたり転げ落ち怒(いか)る
獄を撃ち砲音を谿に奔らする
5
砲撃てり見えざるものを木々を撃つ
そらを撃ち野砲砲身あとずさる
撃ちつげる砲音の在処(ありか)おなじならず
6
暁の敵前渡河の天(そら)をいかる
弾に撃たれ河幅流れつつ漲る
河の天(そら)故に砲声も流れ冷ゆ
7
戦車部隊日のもとに現(あ)れ地を覆ふ 〃 (・・現れ・・)
戦車ゆく無限軌道は鳴りたるみ
戦車ゆきがりがりと地を掻きすすむ
喬き日に戦車かならず灼け転ぶ
8
散兵壕曲折あれば陰も照る
塹壕に支那の活字の書を瞥す
塹壕に硬き底ぞも踏まれある
夜も赤き塹壕に身を落し寝る
塹壕の夜も土匂ひ兵ねむる
9
機関銃黒し街区にしづみゆき
窓の下機関銃手となり潜む
機関銃隠れ噴きつつ月落ちたり
機関銃射手駈け出でて持ちすすむ
舗装路を匐ひ移りつつ射ちつくす
10
戦争の路地づたいゆき角に照る
戦争の街区に見られ海たひら
あを海へ煉瓦の壁が撃ち抜かれ
商館に銃火あふるる窓あり扉あり
夜目に燃え商館の内撃たれたり
照明弾厦の高低を照らし降(ふ)りぬ 〃 (・・・降りぬ)
壁厚く弾痕の各々に月出たり
11
壁残り厦のかたちは撃たれ立つ
壁の街窓立ち残りたるままに
壁の街硝煙匂ひ眼には見えず
12
戦友の血飛沫(しぶき)を見る火線なり 〃 (・・血飛沫・・・)
火線構成昼の銃火は見えはしる
撃ち挟まれ徒(あだ)に鉄条網曇る 〃 (・・徒に・・)
鉄条網これの前後に血流れたり
鉄の兵器彼我に忽ち燃えのこる
「戦争」57句は、約二か月後、「サンデー毎日」(昭和13年6月26日号)に於いて、山口誓子は、
(1)こヽに挙げたものは総て無季作品であるが、かういふ無季作品を見てゐると、季といふ観念に捉はれないといふやうな消極的な意味においてゞなく、季といふ観念を全く漂白し去つたといふ潔い感じがする。これは戦争を戦争の裡に見ようとする絶対的な立場からは当然なことである。前線無季俳句はこヽまで行かないと嘘である。
(2)私は主義として無季作品を作らないけれど、もしかりに無季作品を作るとすればかういう方向のものを作るのではないかといふ気がする。
と述べた上で「私はこの無季作品に近親さを感ずるのである」と激賞したのであった。それもそのはずである。18歳の三橋敏雄は「私は、なけなしの想像力を以て、競ひ応へやうと決意したものだ。表現の外形には、当面の鼓吹者、山口誓子の方法を借りる事とした。既に、山口誓子俳句の表現様式の典型は樹立されてゐたからである」(『弾道』後記)と、誓子の方法を自家薬篭中のものとしようとして試みていたのである。
モミジバスズカケ↑
2015年1月29日木曜日
「驛寒し機関車の汽罐見ゆれど噴かず」敏雄・・・6
[
「風」第6号↑
「風」第六号は第五号より予定より四か月遅れて、翌昭和13年3月1日発行となった(奥付は「風」第二巻一号)。三橋敏雄は「H驛断章」の題で5句を発表している。そのうち4句が、改作された句を含めて句集『太古』(『青の中』には再録)に収録。
H驛断章 (句集『太古』では「停車場と改題) 三橋敏雄
貨車の横冬の西日は遂になし
驛寒し機関車の汽缶見ゆれど噴かず 『太古』所収
冬の驛校内に煙すヽみて来たる 〃 (・・・構内へ煙すすみて来る)
機関車の車輪ならびたる雪jけはひ 〃 (・・・竝びたる雪催ひ)句集『青の中』再録
寒き夜を機関車走りいでむと動く 〃 (・・・出でむ・・・)
発刊の遅れた事情のいくつかを、白泉は「後記」で次のように記している。
(前略)★(注・編集兼発行者)兼尾さんは大分ご苦労様だつたのである。警察の人がたびたび調べに来たり、これはまあどこでもの話だから、別に問題の起こらなかつたことを幸としなければならない程であるが、購読者の人々からは一わたりずらつと催促される。(中略)三鬼さんに会へば、会つて俳句の話になつて僕のドグマチックが益々佳境に入つて僕の眼鏡が愈々僕の鼻からずり落ちさうになつて来ると、「時に、風は出ますか」と呼ぶ静かな声がきこえてぼくはしよげてしまふし、窓秋さんは僕の赤面を楽しみに何度も何度も僕に同人費を渡すし、初巳さんのうちへ遊びに行けば、そうれ御覧なさいと言はぬばかりの顔が何べんも僕の視力を弱めてしまふし、青柚子は俳句が出来た出来たと脅すし、三橋敏雄君には悲しさうな顔を示されるし、、僕も参つた。
★さあその皆様御待兼の「風」第六册が出来上つたのである。誰も文句はない筈だ(白)
考えてみると、今は大小あまたの俳句誌があるが、愚生の所属する「俳句空間ー豈」を除いてはおおむね、月刊、季刊を問わず、キチンと遅れることもなく刊行され続けているのだから、よほど世の中は平和なのである。有難いことにちがいない。
「風」第6号↑
「風」第六号は第五号より予定より四か月遅れて、翌昭和13年3月1日発行となった(奥付は「風」第二巻一号)。三橋敏雄は「H驛断章」の題で5句を発表している。そのうち4句が、改作された句を含めて句集『太古』(『青の中』には再録)に収録。
H驛断章 (句集『太古』では「停車場と改題) 三橋敏雄
貨車の横冬の西日は遂になし
驛寒し機関車の汽缶見ゆれど噴かず 『太古』所収
冬の驛校内に煙すヽみて来たる 〃 (・・・構内へ煙すすみて来る)
機関車の車輪ならびたる雪jけはひ 〃 (・・・竝びたる雪催ひ)句集『青の中』再録
寒き夜を機関車走りいでむと動く 〃 (・・・出でむ・・・)
発刊の遅れた事情のいくつかを、白泉は「後記」で次のように記している。
(前略)★(注・編集兼発行者)兼尾さんは大分ご苦労様だつたのである。警察の人がたびたび調べに来たり、これはまあどこでもの話だから、別に問題の起こらなかつたことを幸としなければならない程であるが、購読者の人々からは一わたりずらつと催促される。(中略)三鬼さんに会へば、会つて俳句の話になつて僕のドグマチックが益々佳境に入つて僕の眼鏡が愈々僕の鼻からずり落ちさうになつて来ると、「時に、風は出ますか」と呼ぶ静かな声がきこえてぼくはしよげてしまふし、窓秋さんは僕の赤面を楽しみに何度も何度も僕に同人費を渡すし、初巳さんのうちへ遊びに行けば、そうれ御覧なさいと言はぬばかりの顔が何べんも僕の視力を弱めてしまふし、青柚子は俳句が出来た出来たと脅すし、三橋敏雄君には悲しさうな顔を示されるし、、僕も参つた。
★さあその皆様御待兼の「風」第六册が出来上つたのである。誰も文句はない筈だ(白)
考えてみると、今は大小あまたの俳句誌があるが、愚生の所属する「俳句空間ー豈」を除いてはおおむね、月刊、季刊を問わず、キチンと遅れることもなく刊行され続けているのだから、よほど世の中は平和なのである。有難いことにちがいない。
2015年1月28日水曜日
「汝が額に花火の音はながからぬ」三橋敏雄・・・・5
「風」5号↑
「風」五号(昭和12年10月1日・一冊20銭、送料3銭)に、三橋敏雄は、「煙突林」の題のもと、10句を発表し、「愚昧の言」と題したエッセイを発表している。
煙突林 三橋敏雄
煙突林暁けて来らしも四肢のほとり
木々喬しまことに朝日はずみつつ 『太古』所収(木木喬し・・・)
町々にをさなら暁けてはだかなる 『青の中』所収(町町に・・・)
運河ひでりくるぶし太く沿ひ来たり 〃 (・・・来り)
夜のうた
戀しげく柿の裏葉の夜をかよふ 『太古』所収(「春秋」の題あり)
汝が額に花火の音はながからぬ
二百十日後日抄
唐黍の垂毛やあかしうろこぐも *9 『青の中』所収・『太古』所収(「村」の題あり…赤し)
唐黍やとほ山かけてのこりかぜ
こどもらに唐黍の毛は高そよぎ 『太古』所収
唐黍はたそがれみのり兒が食ふ 〃 (・・子が・・)
その号のエッセイ「愚昧の言」の「二」に三橋敏雄(当時17歳)は言う。
我々は最後まで意識せずにほんとうのものを俳句に残してゆかねばならない。―といふことから、我々の出発点はつねに到達した地点に置かるべきである。
そして其時の我々の周囲に、必ずなくてはならぬもの、それはまつたうな懐疑と、もう一つひたぶるな情熱、この二つだけである。
この「風」五号には、読者作品欄の選句を高屋窓秋が行い、作品を「春」と題して9句発表している。読者作品欄の「立場と方針」に「諸君は俳人の為に句を作ることを止し給へ」と記している。
また、作品「春」の9句の中の3句は「河」と括られた小題がある。その3句を紹介しておこう。
花かげの別離男は河をゆきぬ 高屋窓秋
胎動に愁へり痛み眙(み)つむ河
河玻璃にひえびえ泪にじむなり
この年(昭和12年)、高屋窓秋は書下ろし句集『河』を刊行。直後7月7日には盧溝橋事件によって日中戦争に突入した。
スイセン↑
「風」五号(昭和12年10月1日・一冊20銭、送料3銭)に、三橋敏雄は、「煙突林」の題のもと、10句を発表し、「愚昧の言」と題したエッセイを発表している。
煙突林 三橋敏雄
煙突林暁けて来らしも四肢のほとり
木々喬しまことに朝日はずみつつ 『太古』所収(木木喬し・・・)
町々にをさなら暁けてはだかなる 『青の中』所収(町町に・・・)
運河ひでりくるぶし太く沿ひ来たり 〃 (・・・来り)
夜のうた
戀しげく柿の裏葉の夜をかよふ 『太古』所収(「春秋」の題あり)
汝が額に花火の音はながからぬ
二百十日後日抄
唐黍の垂毛やあかしうろこぐも *9 『青の中』所収・『太古』所収(「村」の題あり…赤し)
唐黍やとほ山かけてのこりかぜ
こどもらに唐黍の毛は高そよぎ 『太古』所収
唐黍はたそがれみのり兒が食ふ 〃 (・・子が・・)
その号のエッセイ「愚昧の言」の「二」に三橋敏雄(当時17歳)は言う。
我々は最後まで意識せずにほんとうのものを俳句に残してゆかねばならない。―といふことから、我々の出発点はつねに到達した地点に置かるべきである。
そして其時の我々の周囲に、必ずなくてはならぬもの、それはまつたうな懐疑と、もう一つひたぶるな情熱、この二つだけである。
この「風」五号には、読者作品欄の選句を高屋窓秋が行い、作品を「春」と題して9句発表している。読者作品欄の「立場と方針」に「諸君は俳人の為に句を作ることを止し給へ」と記している。
また、作品「春」の9句の中の3句は「河」と括られた小題がある。その3句を紹介しておこう。
花かげの別離男は河をゆきぬ 高屋窓秋
胎動に愁へり痛み眙(み)つむ河
河玻璃にひえびえ泪にじむなり
この年(昭和12年)、高屋窓秋は書下ろし句集『河』を刊行。直後7月7日には盧溝橋事件によって日中戦争に突入した。
スイセン↑
2015年1月27日火曜日
「諸君は俳人の為に句を作ることを止し給へ」(窓秋)・・・・4
「風」は三号で早くも「七月号が抜けた」(編集後記)。従って奥付によると「風」三号の発行日は昭和12年8月1日。編集・発行者も谷澤芳太郎に変わっている。新同人に高屋窓秋と阿部青蛙を迎え、窓秋は、読者俳句欄の選者を第5号から担当することになり、その募集広告が掲載されている。そして阿部青蛙は「葛飾の冬」46句の力作を発表し、「『俳句朗詠調試作』という傍注を付すべきかも知れない」と後記に記してある。
眺(みさ)け飽かぬ鷺のまにまに氷(ひ)を踏みゆき 阿部青蛙
ともるとき冬ぞらの藍篠の来ず
うすら氷を踏み弾帯の光れりき
三橋敏雄は、「風」三号より同人として参加、「或る遺作展」12句を発表していることは前回にも触れた。今回は「風」四号(昭和12年9月1日発行・編集兼発行者 小西兼尾)に発表された「軍人」12句を留めておこう。
軍人は晩婚にして鳥撃てり (句集『青の中』所収) 三橋敏雄
鳥銃を疎林に向けて暁けはじむ
軍人の日焼けて持ちぬ金時計
汗ばみて軍人は妻とほく連れぬ
裏町Ⅰ
露の路地汝が前額のひたにあり
角時計鳴りわたりたり路地に吾に
路地せまくはざまのそらへ髪伸びたり
裏町Ⅱ
路地の路地ひとかげあらず雷雨来る
わが路地のくろき門標を雷わたる
ひとのこにあつき雷雨はしみとほり
みぢか夜にゆきむかひしは禿の爺
植林にちらと老鶯のまなこあり
「風」四号の編集後記には渡邊保夫と発行者・櫻井武司の出征により「再び発行所が移転した」とある。とはいえ、後記の署名をみると、渡邊白泉、小澤青柚子が実質的に実務を担っていたと思われる。
因みに、同人住所録による人数は以下のように30名。
会津隆吉・阿部青蛙・荒木海城子・稲川榮一・飯島新松子・飯島草炎・江原佐世子・岡崎北巣子・奥澤青野・小澤青柚子・小澤蘭雨・熊木一男・熊倉啓之・小西兼尾・西塔白鴉・櫻井武司・澁谷吐霧・高屋窓秋・高井洒水・中島叢外・中村秀湖・南雲山査子・長谷川友太郎・羽根田左芙男・冬木胖・古川衛士・松澤黒洋・三橋敏雄・渡邊白泉・渡邊保夫。
「真の芸術はやがて真の自由主義に胚胎する」・・・3
タイトルの言葉は「風」創刊号(昭和12年5月1日・風発行所)の創刊の辞の一節だ。戦前発行の「風」である(創刊・昭和21年5月、石川県金沢から澤木欣一編集発行の誌とは別の誌)。
最後の結びを以下に記す。
大志細心、昭和俳句確立のためにはわれらはただ邁進の一途あるのみ。時まさに五月、郭公暁天を浩ぐるのとき『風』はいま漂漂颯颯と出発する。文神まなこあらば幸に祝福を垂れたまへ。
昭和十二年春
小 澤 蘭 雨
小 澤 青柚子
渡 邊 白 泉
小 西 兼 尾
熊 倉 啓 之
櫻 井 武 司
創刊同人は14人である。編集後記の署名は(白)とあるから渡邊白泉(編集人・渡邊威徳)である。発行人は小澤秀雄(青柚子の本名)。その編集後記の終りに、
鳳作へ一部贈ることにした。好晴の日一冊を灰にして青柚子と僕と二人の手から風船とともに天上せしめる手筈になつてゐる。(白)
いかにも美しい仕儀である。前年の9月17日に鳳作篠原は帰天しているのだ。享年31。
勤務先東京堂で三橋敏雄を業務命令のごとく俳句会に引き込んだ、「風」同人・渡邊保夫の推挙もあって、三橋敏雄は三号(昭和12年8月)より「風」同人となった。「ある遺作展」と題して12句を発表している。敏雄17歳。
ある遺作展 三橋敏雄
遺作展階を三階にのぼりつめ
遺作展南なる窓ひとつ閉づ
帽黒き人と見たりし遺作展
遺作展階下ましろく驟雨去る
動物園
園茂り午後のジラフの瞳を感ず
人間や河馬の檻には立ち笑へり
ふきあげの見えゐる象の後足なり
〇
招魂祭とほく来りし貌とあり
花火の夜椅子折りたたみゐし男
指先の風にとまりし悍馬なり
回転ドアめぐればひとがひかりゆき
ちなみに、遺作展の最初の三句は、三橋敏雄句集『太古』に収録されている。「ふきあげ」はママ。「招魂祭」は「顔と遭ふ」と改作(『太古』には「靖国神社」の詞書で収載)、「花火の夜」の句はママで『青の中』に収載されている。また、10句目「悍馬なり」の上五・中七は改作され「八階に真昼見おろす悍馬なり」となっている。
霜畑↑
*閑話休題
昨年10月、このブログに、当時の雑誌に発表された三橋少年時代からの句の覚書のようなものを記録しておこうと始めたのだが、私事多忙を極めて2回で中断していたものを、何とか少しづつでも継続したいと思い、再び、その時間を作り出したいと思って再開した。
モグラの盛り土↑
2014年10月16日木曜日
三橋敏雄「生活感情」[(昭和12年)の句・・・2
ここでもまた、遠山陽子『評伝 三橋敏雄』の恩恵にあずかるが、次のように記してある。
同時期、敏雄はさらに、渡邊保夫の発行していた同人誌「生活感情」にも参加する。同誌は、編集人みずからの手によるガリ版刷りながら、俳句、短歌、散文、評論など、多方面の作品を掲載する総合文芸誌である。会費一ヵ月拾五銭。
強いて言えば、渡邊保夫はガリ版では、略字の渡辺保夫と彫られ、会費は6号には拾銭とある。7号は十五銭である。遠山陽子の「生活感情」の記述は克明であるが、この愚生のブログでは、ただ、その折に発表された三橋敏雄の句を再掲載しておこう(「生活感情」4号では「三橋としを」。
「生活感情」第4号(昭和12年8月10日発行)、
〇連作
梅雨の路地汝が前額のひたにあり 三橋としを
紫陽花はいつそみもだえ陰ふかし
角時計鳴りわたり路地に吾に
緋ダリヤはこゝに聖金曜の日は西に
路地せまくはざまの空へ髪伸びたり
〇連作
軍人は晩婚にして鳥撃てり
七月のまだきの空は午さがり
鳥銃を疎林に向けて暁けはじむ
軍人の日焼けて持ちぬ金時計
汗ばみて軍人は妻とほく連れぬ
「生活感情」第5号(昭和12年9月10日発行)、
〇柿に寄す
山は門のあをの柿垂り夕焼けぬ 三橋敏雄
恋しげく柿の裏葉の夜をかよふ
恋ふる夜はまがき隠れに柿青し
又
汝が額に花火の音はながからぬ
夜は熱き天地はあらず柿落ちぬ
煙突林暁けて来らしき四肢のほとり
木木喬しまことに朝日はづみつつ
運河旱りくるぶし太く沿ひ来り
町々にをさなら暁けてはだかなる
「生活感情」第6号(昭和12年10月20日発行)、
二百十日後日
糖黍やとほ山かけてのこりかぜ
唐黍の紅毛や垂りぬうろこぐも
唐黍のかぜ颯颯とこどもゐる
唐黍はたしがれみのり童が喰ふ
「生活感情」第7号(復活第1号・昭和13年9月号)には、三橋敏雄の句はなく、「愚昧の言」というエッセイ。出だしを少し引用すると、
今日、時代を反映せる俳句と云へば勿論戦争俳句が推されるであらうし、又私も戦争は俳句であればかなり広い範囲の作品を知つてゐるつもりであるから鑑賞文を書くといつても別に不自由ではないのだけれど、本当のことをいふと或るわずらはしさのために、その中からいくらかの作品を書いたりすることの意味を持つことができない。
時に、三橋敏雄18歳の感懐である・・・・・
アブチロン↑
2014年10月14日火曜日
三橋敏雄「かもめ来よ天金の書をひらくたび」の淵源・・・1
三橋敏雄が「野茨」第七巻第一号」に「野茨同人評判記」と題した中で「南雲二峰氏の巻」に於いて次のように記した件りがある。
昭和十一年は過ぎた。
昭和十二年・・・・・
次の如き作品が南雲さんのものである。初句会にての
天金のこぼるゝ冬日に翔ぶかもめ
これはとてもよい。
これ以来、南雲さんの足並はそゞろになつて来た。初頭に於いて放した砲弾をして不発ならしめたくないことは、皆の希望である。この間の彼はぢつと思索し次の飛躍にうつる姿勢をとつてゐるのでなければならない。
二峰氏の」亡霊よ!(前号、渡辺保夫氏が発した筈)
あなたに私たちは万全の期待をかけてゐるのだ。あなたは彼の背後にいつも、この一年間さうだつた。もやもやとたちこめてゐる。私たちは願つてゐるのだが、こいつ仲々昇華しない。
再び言ふ。
二峰氏の亡霊よ!
起つて、天上の一角に土嚢を築け、たゞの亡霊でないためにあなたはきつとさうするであらうと信ずる。それは正しいリベラリズムにのつとり、もつともつと深刻でなければならぬ。(深刻といふおとは、けつして深刻がれといふのではない)そして今日にも燃えて飛翔せよ。そして天上に至れ。そこには徹したロマンチシズムがあるはずだ。あなたはそこに土嚢を築かねばならぬ。そして地上のわれわれに向つて発砲を開始せよ。そのときこそ我々は、諸手をあげて応戦するであらう。
三橋敏雄はそのとき「野茨」(東京堂内 発行所 野茨吟社)・発行者は渡辺保夫)の編集者であった。ガリ版刷とはいえ、この号は奥付まで92ページある。三橋敏雄は大正9年(1920年)生まれだから、数えて17歳。東京堂に入社したのは15歳の時。このあたりの事情については、遠山陽子『評伝 三橋敏雄』(沖積舎)に詳しい。「野茨」は東京堂内にできた俳句会誌で指導をしたのは開原朝吉(冬草)で、長谷川かな女の「水明」の幹部同人だった。三橋敏雄が5歳年長の渡辺保夫に誘われて初めて作った句が選に入る。
窓越しに四角な空の五月晴れ としを
その野茨吟社の機関誌が「野茨」、第五巻第二号(昭和10年11月24日発行)には三橋敏雄のエッセイ「秋心」が掲載されている。これも全文は前述した『評伝 三橋敏雄』に全文掲載されているから、参考にしていただければよい。
それにしても、三橋敏雄第一句集『まぼろしの鱶』の巻頭句・昭和十年代に
かもめ来よ天金の書をひらくたび
の句の淵源がこのようなところに隠されていたのには驚いた。「徹したロマンチシズム」・・・見事な応戦ではないか。
かりん↑
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