2015年8月9日日曜日
第46回原爆忌東京俳句大会・・・
講演する宝田明氏↑
昨日、8月8日、午後一時より、王子の北とぴあペガサスホールに於いて、第46回原爆忌俳句大会(主催・原爆忌東京俳句大会実行委員会)が行われ、約100名が参加した。
記念講演は「俳優として、人間として」と題して、俳優の宝田明。昭和9年、旧満州ハルピン生まれ。自身、自らの体にソ連軍の鉛の弾を受けたり、戦時、戦後の体験を、時に中国語を交えながら、戦争の悲惨さを語り、憲法9条の理念の希望を語った。
愚生の選んだ特選句は、約40数名の大会選者のどなたも選ばれなかった句だが挙げておきたい。
ヒロシマの古稀にわが古稀貼りつき夏 吉次 薫
以下に各大会賞作品を紹介しておこう。
家族みな同じ日付けの墓洗う 宮脇木脩 (東京都知事賞)
戦争がノックしている子供部屋 柘植秋男 (現代俳句協会賞)
何もなき空を見てをり原爆忌 野口英二 (第五福竜丸平和協会賞)
生きるとは語り継ぐこと原爆忌 杉野秋耕死 (東京都原爆被害者団体協議会)
老母まだ聴える雨の日の軍靴 原 京 (口語俳句協会賞)
人の世の足音を聴く被爆の樹 小橋啓生 (新俳句人連盟賞)
蟻が這ういまだ遺骨の無き墓標 谷川彰啓 (平和を愛する俳人懇話会賞)
純愛のままの骨です夾竹桃 小山 淑 (全国俳誌協会賞)
アカボシゴマダラ蝶↑
2015年8月7日金曜日
岩城久治「実作教室 俳句」(「京都新聞」)・・・
京都新聞 8月3日、岩城久治「実作教室 俳句」
京都新聞連載の岩城久治「実作教室 俳句」の記事が送られてきた。愚生の句を、記事中の例句にしたからというものであった。
それには、岩城久治が俳句を始めた昭和32年、つまり約60年近く前に西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」の「とんでもない文体に出くわしたものである」と記されてあった。
さらにそのコラムの終りに、
われわれ俳人は、俳句、十七音の枠組にこの「夏」を取り入れて無関係な関係性の中でこの一句を止揚して受容する、あるいは創作する俳句の方法論を用いている。近刊の総合俳句誌にも、
山々のかたちは似て非なり晩夏 鷹羽狩行
集団的などてすめろぎのぞまず夏 大井恒行
例句になったのは、もちろん嬉しいことであったが、その8月3日の京都新聞の俳壇の選者の一人に坪内稔典の名があり、かつ、「*豊田都峰急逝のための代選をお願いしました」とあって、迂闊にも「京鹿子」主宰だった豊田都峰の逝去をこの時まで知らなかったのだ(去る7月15日、享年84)。現代俳句協会の総会や愚生のかつての仕事でお世話になったし、「京鹿子」の旧い知人も幾人かいる。
「清潔で端正な抒情句を彼はたくさん残した」とは坪内稔典評。哀悼。
山見えぬ日も山へ咲く桐の花 都峰
ムクゲ↑
2015年8月6日木曜日
久保純夫「戦争の真空をゆく蝸牛」(「儒艮」14号)・・・
「儒艮」(JU GON)14号は特集・久保るみ子。他は久保純夫の「石垣島句日記4」(第五回 二〇一四年一〇月二五日~一一月一日)。毎日、50句以上を書き留めている。今回の総数は575句と記してあった。愚生の10年間分くらいを一週間もたたないうちに仕上げるのだから、ほとんど自動記述に近いのだろう。読む方は少し力を抜いて読まないと狂ってしまいそうだ。有季定型こそ、いや定型こそ自由の源泉というべきか。加えて、他にも「櫻・MANDARA・木蓮ー二〇一五年・津山」と題して140句以上・・・。
なにより、今回は、久保純夫が先立たれた妻の久保るみ子(2011年没)100句を二冊の句集『さふらんさふらん』『美しき死を真ん中の刹那あるいは永遠』(久保純夫との共著)から選び。さらに、句集未収録句を補遺として、新・久保るみ子の100句を選んだ。加えて、久保るみ子俳句英訳集(英訳された句はもちろん久保純夫の句、写真撮影されたノートも併載)。
英訳された句では久保純夫「戦争の真空をゆく蝸牛」は佳吟、「子に語る子の物語アマリリス」「天空の愛とは知らず七竈」の両句は切ない(愚生は英語は不知)。
以下は新・久保純夫が選ぶ久保るみ子100句「補遺」。
天空の声やわらかくななかまど るみ子
凌霄花微熱を先に絡ませて
太陽を青きといいて鳥帰る
天の川舟の心地は質されず
絶巓を迷っておりぬ時計草
別の手に乳房を預け紅芙蓉
無月かな鍵穴にさす別の鍵
残りしは祷ることから龍の玉
ヒルガオ↑
2015年8月5日水曜日
岡崎万寿『転換の時代の俳句力ー金子兜太の存在』・・・
岡崎万寿『転換の時代の俳句力ー金子兜太の存在』(文學の森)の評論文の掲載順は、ほぼ逆編年順である。
従って、「第Ⅰ部 三・一一と俳句、その新展開(定点分析)」が、もっとも現在的で、かつ当面の変化著しいであろう俳句状況を描き出している。そこでは、戦後俳句の評価をめぐる川名大、赤城さかえと著者の評価の差異についても丁寧に記されている。当然とはいえ、岡崎万寿自身が作品評価に向かう際の姿勢が誠実に明らかに示されている。例えば、赤城さかえのリアリズム論については以下のように記している。
時代的制約もあろうが、ここでは発想自体、旧ソ連の社会主義リアリズムの問題を、まだまだ引きずっている。俳句の方法はいかなる時でも、政治と歩調を合わせるものであってはならない。それでは国民文芸としての俳句のリアリズムは発展しない。
とりわけ、3・11以後現在までの俳句作品の評価について、新聞投稿欄の句をデータとして処理しながら、「俳句の力」として、いわゆる俳句愛好者、投稿者の作品も選び出し、朝日俳壇における金子兜太の選者としての存在の大きさにも言及している。もちろん、多くの震災詠を生み出している高野ムツオ、照井翠などにも触れている。しかも、年月という時間で洗われていきながら俳句がいかに変容していくのか、ということにも・・・。これらの批評の多くは岡崎万寿の所属する「海程多摩」で発表している、ということも愚生は初めて知った。
そのほか、付論とされた「時代を拓いたプロレタリア俳句の先達 横山林二ーその生涯と俳句・俳論」も貴重なものだった。また、「第二部 戦争と向き合った俳人たちー戦争と人間と俳句の視点」、「第三部 十五年戦争をめぐる俳句のリアリズム小史」など、時代と俳句を読み解いて示唆に富んでいる。
末筆になったが、岡崎万寿のエッセイ「無言館の『無言』」の句を挙げて筆を置こう。
自画像は青き唇(くち)まげ無言館 万寿
岡崎万寿(おかざき・まんじゅ)、1930年佐賀県唐津市生まれ。
キョウチクトウ↑
2015年8月4日火曜日
池田澄子「草濡れたり抜かれたりして八月来」(「現代俳句」8月号)・・・
「現代俳句」8月号は、〈金子兜太の「戦争と俳句」を読む〉と「八月を詠む」の特別作品特集だ。
巻頭言の「直線曲線」は和田照海が「八月に想う」と題して今年第24回を迎える「ヒロシマ平和祈念俳句大会」について紹介している。
まず、金子兜太の「戦争と俳句」自選10句を読み解いてみせたのは安西篤。他の一句鑑賞は宇多喜代子、大牧広、高野ムツオ、石寒太、鳴戸奈菜、宮崎斗士、寺井谷子の各氏。
特別作品から一句づつと金子兜太自選句から以下に挙げておこう。
わが晩年などと気取りてあぁ暑し 池田澄子
八月や死者も生者も水を欲る 石倉夏生
なきすめる銀河の果てに祈りましょう 大井恒行
直瀑よ この垂直の昏倒よ 高岡 修
いきどほることもかなしくカンナ燃ゆ 豊田都峰
八月の水を無傷にしておけり 松井国央
蟻の列自衛といえばどこまでも 松田ひろむ
おおかたは泥濘のいろ八月忌 山崎 聰
今も余震の原曝の国夏がらす 金子兜太
2015年8月3日月曜日
小原啄葉「初夢や自決の弾のひとつづつ」(「小熊座」8月号)・・・
「小熊座」8月号に栗林浩が聞き手となって小原啄葉の記事が掲載されている。「平成・昭和を詠む(1)」だから、連載されるのだろう。タイトルは「今、書かねばならないことー小原啄葉(前編)とあるから、次号掲載も楽しみにしたい。
なかでも、啄葉の近年の句業を思うと、震災詠もさることながら、米寿を過ぎたあたりから「戦争での経験を書き遺しておかねばと考えました」という啄葉の意志は貴重である。栗林浩がどこまで聞いているのか、戦時のことは、今でも活字にするには、はばかられることもあったに違いないが、
以下に、その一部を引用しておきたい。せめて八月という月は、そういうことを心に僅かでも留めておくべき月なのだ。
(前略)・・二個小隊が遂に六人なり、捕虜になるなと言われ、軍旗も焼き、自決のために手榴弾を一つづつ持たされました。幸運にも救助の友軍に助け出されました。こんなお話しは、今までしませんでしたが、戦争がいかに酷くて愚かな行為だったかを、今話しておかねばなりません。ある期間青森の部隊にいましたが、化学兵器にも係りました。使ってはいけないという国際協定があったんですが、研究していたんですよ。イペリットという糜爛性の毒ガスです。実戦には使えませんでした。戦争となると正常な判断が狂うんです。おまけに大本営は大勝利大勝利でしょう。帰還してから、嘘だったと知り、精神的に大打撃でした。
(中略)・・兄は甲種合格で入隊し、陸軍中野学校の銀時計組でしたが、中国へ行かされました。憲兵だったので戦犯容疑で北京に留め置かれましたが、裁判は遅々として進まず、獄の中で結核に罹り亡くなりました。戦死公報が届き、遺骨を受け取りに上野へ行きました。兄嫁の結婚生活はたった一年ほどだったでしょう。兄嫁は泣くのを見せないんです。でも、よく藁塚の陰で屈んで泣いていました。北京で分骨埋葬されたと聞いていた墓地と思われる場所を訪ねましたが、マンションになっていて、分かりませんでした。戦争は兵隊だけなく、家族をも巻き込む愚かな行為です。
つらなれる目刺も同じ日に死せる 啄葉
地震くればおのれをつかむ蓮根堀
無辜の民追はれ追はれて火蛾と生く
冷まじや壁を掴みし指紋痕
ツユクサ↑
2015年8月1日土曜日
「画鬼 暁斎ー幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展・・・
三菱一号館美術館で「画鬼 暁斎」展が行われている。
河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)は、幕末明治に画鬼と称され絶大な人気を誇ったれっきとした狩野派の絵師である。そして、明治政府にお抱え外国人建築家として来日にしたジョサイア・コンドルは近代建築の父と呼ばれ、上野博物館、鹿鳴館の設計、加えて、現在、再建された三菱一号館を設計をしている。
そのジョサイア・コンドルは暁斎51歳のときに、懇願して弟子入りして(コンドル29歳)、本格的に日本画を学ぶのである。
今回の展示にはコンドルの描いた日本画が展示されている。狩野派の絵師として褒賞を与えられたコンドルは暁斎から「暁」ををとって「暁英」という雅号も与えられいる。
いわば、師弟の絵が、弟子の設計した三菱一号館美術館に同時に展示されるというのも見どころのひとつである。
また、英国コスモポリタン美術館所蔵の暁斎の絵《動物画帖》も里帰り展示されている。
暁斎は、明治3年、書画会で描いた風刺画で筆禍事件を起こし投獄されたころから、一層「狂戯の絵師」の画名が世間にとどろいたらしい。その暁斎は、明治14年、第二回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」で最高賞であった妙技二等賞牌を受賞し、それまでの作風への評価を覆して、絵師としての正当なる評価をうけることになった。
暁斎が胃癌でなくなったのは明治22年、享年59。臨終に立ち会ったコンドルは37歳だった。翌年コンドルは三菱社の顧問となった。
ともあれ、暁斎のとどまるところをしらない、描きつくされる山水画、美人画、人物画、動物画、戯画、春画、風俗画など、それらの比類ない多才なさまを画鬼と呼んだのだろう。
バショウ↑
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