2014年10月10日金曜日
橋本夢道「大戦起るこの日のために獄をたまわる」・・・
今日、10月9日は橋本夢道が亡くなった日だ。享年71(1903~1974)。
1941年2月、俳句弾圧事件、治安維持法違反によって検挙されたが、上掲の句は同年12月8日日米開戦勃発の日の作。
徳島県生まれ、本名・淳一。高等小学校卒業後上京。1930年、蜜豆・小豆屋「月ヶ瀬」を開店、「蜜豆をギリシャの神は知らざりき」のコマーシャルを作成。34年、栗林一石路などと「俳句生活」を創刊。戦後は新俳句人連盟の結成に参加した。
石も元旦である 夢道
無礼なる妻よ毎日馬鹿げたものを食わしむ
酔わぬ夜は黙った魚のように人に混じって戻る
四天梅雨に路地の栄坊死にし香奠飯粒で貼る
母の渦子の渦鳴門故郷の渦
うごけば 寒い
からだはうちわであおぐ
鵙なくや寝ころぶ胸へ子が寝ころぶ
牡丹咲いて非凡の花と言うべけれ
夢道晩年のこの「非梵の花」句に例えて、「非凡の友」と記したのは古沢太穂だった。そして高柳重信は追想に際して、
最晩年の夢道は、総武霊園に墓をを立て、その石碑に、獄中の作「うごけば寒い」の句を彫った。そして、それを打ち眺めつつ
炎天に吾が生き墓石自若たり
の一句を作った。癌を病むこと数年、もはや死は眼前にあった。
この句は、夢道の死後、たまたま僕の編集する「俳句研究」年鑑に最後の年間自選作品として掲載されたが、その自筆の句稿には、実は「炎天」とあるべきところが、その独特の雄渾な文字で「火天」と書かれていた。死を間近にする衰弱しきった夢道にとって、その日の炎暑の激しさは、ありふれた喩の「炎天」などという言葉では平凡すぎて意に満たず、まさに「火天」であったにちがいない。
と述べたのだった。
ザクロ↑
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