タイトルは「平成二十六年の俳句界をマッピングしてみたらこんなことになった」。図の頂点にあるのが「ロマン主義」で金子兜太が鎮座ましましている。左軸に「大衆性」、右に「新しさ」、真下側に「専門性」が置かれていたりする。いわば、現俳句界の支配図式ということだろう。したがって現俳句界から排除されているマイナーポエットはおのずから現れてはこない(もちろん、そんなものはあっても、パワーバランスからすれば、一向に影響力を保持しないのだからやむをえない・・・)。
お楽しみ企画であれば、それなりに面白い。
ただ、メインの特集が「正岡子規ネオ」だから、というわけではないが(新調クプラスにしては分類語彙が意外と古い印象?・・)、「低廻派」は、あいまいな記憶で失礼するが、漱石が低徊趣味といったのは、虚子に対してで、その低徊派は、同時に高踏派、余裕派のことであったような気もしないではないが・・・。
ともあれ、愚生にとっては、こうした腑分けされた図によって初めて知ることも多く、その労苦に感心もしたのである。なかで、山田耕司が以下のように発言しているのには、なるほど、そうなのかと納得させられたりした。
山田 (前略)一方、《伝統主義》は、厳然として存在する俳句の、その存在を疑わないという主義。師匠の言ったことを一言一言ゆるがせにしないという姿勢の問題でもある。《伝統主義》がマナーとしての俳句であるのに対して《原理主義》は言語表現としての俳句を対象化し、詩歌および表現することそのものの広い領域を批評の座に組み込もうとします。かつ、現状を疑い、ともすればあるべき理想へと傾倒してゆく。
また、上田信治の説明も分かりやすかった。
上田 (前略)《伝統とロマン》にあって《原理》にないものは〈大衆性〉です。《ロマンと原理》にあって《伝統》にないものは〈新しさ〉。《伝統と原理》にあって《ロマン》にないものは〈専門性〉です。
これらの当否は議論されていくだろうが、余談ながら、本誌の活字が小さいのは(世の中では普通かも知れないが、今や新聞でさえ大きな活字なのに・・)、愚生のような老人には、すでに読む困難を強いる。ただ、それは自分の老いということだから、つまらぬ愚痴にしかならない(嗚呼、年は取りたくないものだ)。
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