2015年9月27日日曜日

久保純夫「烏瓜孤高というがぶらぶらし」(『日本文化私観』)・・・



「あとがき」に、

  畏友・土井英一氏は「儒艮六号」でこの作業を「エクフラシス」の実践と評価してくれている。

 とあった。愚生は不明して、そのよって来るところをよく理解しているとはいいがたいが、簡単にいってしまうと詩と絵画、言葉とイメージの交渉ということらしい。広辞苑には「絵や彫刻を文章で記述する文学技法。最古の例は『イリアス』18巻の『アキレウスの楯造り』の描写」とあって、いささか味気ない。
ともあれ、モチーフは美術作品を吟行しているというところだろう。愚生にはなじみの薄い人もいるが、流行の人もいる。その作家たちの名は、船越桂、草間彌生、酒井抱一、伊藤若冲、フェルメール、ジミー大西、武田秀雄、藤平伸、藤田嗣治、新垣幸子、丸山応挙、竹内栖鳳、小野竹喬などである。
ともあれ、美術的作品と言葉との饗応の物語を読むように句集を読めばいいということだろう。句数はざっと700句というところだろうか(正確に数えてはいない)。

   上りゆく色を愛しぬ立葵           純夫

の句の収録されている章は「酒井抱一+伊藤若冲++」の章であるが、読者はむしろ、それらの名を排除して、自在に久保純夫の織りなす世界に入ればいいと思う。一句一句を抄出するなど無駄とも思える句の出来栄えである。
触発されている対象が何かを問うことがなければ、久保純夫の内面に抱え込まれている性愛の句と読めてしまう絢爛さがあろう。それでも、これだけの句数をそろえるのは至難で自己模倣の極美とでも呼びたい感じさえするのは愚生の愚かさゆえであろうか。
かつて久保純夫には「水際に性器兵器の夥し」という句があるが、その片鱗を本句集「八月の精子が奔る水際かな」に見出した思いがした。果たしていかに・・・

ともあれ、当初「儒艮」に発表されたときよりも句数が減じられているとはいえ、「エクフラシス」とは土井英一に、よくも言ってくれたと敬意を表したい。
前述したようにいくつかの句を抄出してもその面白みは減じられるだろうが、勘弁願っていくつかを以下に挙げておこう。

   紅梅にいくつかありぬ向こう傷
   犯されている眼差の櫻鯛
   野に遊ぶ緩む乳房と攻める臀
   かりくびに目鼻がつきて白雨くる 
   穂芒の鎮めるために傾ぎけり
   ちんちんがちんちんと子犬まるまる
   拳から国家に対う赤ん坊
   透きとおる躯の中の緑雨なり
   瀧落ちて水のかたちを失いぬ
   純愛を開いてみれば黒海鼠

久保純夫1949年大阪生まれ、句集『日本文化私観』(飯塚書店)。もちろん、坂口安吾の同名の書とは全く趣を異にしている。


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